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山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演

「伝える」とはなんなのか?

山本浩貴(以下、山本):スペースノットブランクの作品はこれまでかなりの数が発表されてきているけれど、ひどく大まかに分けるなら3つほどの方向性が挙げられると思う。すなわち、①(肉体の運動を見せることを重視した)ダンス的方向性、②(物語性のある戯曲を自分らで用意したり、あるいは外部の書き手によるそれを採用したりすることで実現する)演劇的方向性、③(観客とのあいだで生じる関係性を実験的に操作していく)インスタレーション的方向性。これらがそれぞれの作品で、いずれかに比重を置いたり、絡まり合ったりしつつ展開されていくところがある。
 今回、hさんとふたりで「プレビュー上演」を見た『本人たち』は、この3つのうち③の傾向の強い作品のひとつだと思う。軽く背景に触れておけば、第一部「共有するビヘイビア」は2018年と2019年に会話とダンスから成る作品として発表され、さらに2021年に『クローズド・サークル』という会話と映像操作中心の作品へと発展させられたのち、今回に至る。第二部「また会いましょう」は2022年に展示作品として発表されたのち、今回に至る。そして総体としては、2020年にスペノがコロナ禍を受けて始めたプロジェクト『本人たち』の延長線上にあるものとして組み上げられているとされる。
 その上で、今回の『本人たち』は、まだ本番がどうなるかわからないけれど、少なくともプレビュー上演だけで言えば、③インスタレーション的方向性として作られたスペノ作品のなかでも特に方法論が明確で、完成度の高いものになりつつあるように感じられた。作品の制作過程で収録された会話や私的発話を記録、編集し、戯曲化して舞台上の肉体に発話させるやり方も、これまで以上に発展・洗練されていたし──どうでもいいような細部の話や身振りがほとんどすべてゆるやかに必然的な意味を持つような構成が取られていたし──、発話方法や「念力暗転」という技(舞台上の肉体が観客に向けて瞼をゆっくり閉じるように促していく、結果、照明などが点いたまま舞台が暗転する)に代表されるような、観客との関係性の設計と操作に関しても、ことごとくクリティカルなものとして響くように仕組まれていたと思う。
 なによりそれらのもたらす完成度の高さをめぐる認識が、作品の描く情動や主題や物語の厚みといったかたちをとらず、徹底して、作品全体を通じて提示されるところの方法論の明確さと強さ、そのシンプルさに由来しているようであることに、驚かされるところがあった。なかなか伝わりづらい言い方になっちゃうけれど、この作品のなかで語られる内容も、形式も、ひとつひとつはぺらぺらなまま、それでいていずれもが喩的な意味合いを託されるようにうまく構成されていて、結果としてあらゆる雑多な部分がたったひとつのシンプルな問い──「上演とは何か」──に十全に寄与し検証するものとなっている。その演出・構成の精緻さにおののくというようなところがあった、という感じかな。
 hさんは今回、スペノの作品は初めて見たと思うけれど、どうだった?

h:「伝える」ってなんだろう、と思って見てた。第一部の古賀友樹さんの演技に特徴的だけれど、ものすごく観客の側を巻き込んで、いろいろなことを伝えてくる。台詞のなかでも──プレビュー上演時点で使っていた戯曲のデータをもらったからそこから引用すると──《何を伝えようかなって考えてる顔でした》《現在の状況についてお伝えさせてください》とか、「念力暗転」の実演のときに《この素晴らしい発明をした人物から「私」はその技を伝授され 今「あなた」に伝えています》って言うとか、いろんな箇所で「伝える」ことについて直接的に言及していた。
 あと、これまで発表されてきた「共有するビヘイビア」を振り返るみたいなところでも、はっきり言われてたよね。《根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通していると思います ダンスの工程とか なぜこのダンスが生まれたか 紹介する 説明とか 紹介っていうのがこの共有するbehaviorを説明する上で正しい伝え方だと思っていて 今説明の説明をしてる だから何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」このダンスを伝えます このダンスの背景を伝えます みたいな》って。ここは山本くんがいま言っていた、ひとつひとつの要素はぺらぺらなまま単一のシンプルな問いに収斂していく、という話に自己言及的にふれているところでもある。

山本:そうそう。《何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」》が重要なんだ、ってね。話される個々の話題やその主体の個人的情報に重きが置かれるのではなく、それらが立ち上げうるところの「伝える」関係性こそが問題なんだ、と。

h:ただ、その上で、この作品が「伝える」ことを絶望的なものとして捉えているのか、それとも希望として捉えているのか、まだちょっとわかってない。そこが気になる。
 古賀さんのあの、ディズニーランドのキャストみたいな喋り方って、なんなんだろう。すごい語りかけてくるんだよね。最初から最後まで。

山本:本編はもちろん、開場後、上演の始まる前の時間にも、古賀さんがひとり舞台の上で観客に向けてめちゃくちゃ喋りかけてくる(笑)。そしてそのまま殆どシームレスに上演が始まり、第一部が終わったあと、第二部までの休憩時間にも延々と話している。

h:終わったあと質問すればよかったけれど、古賀さんはプレビュー上演のときのあの格好のまま、本番もやるのかな。

山本:すごいラフな格好だったよね。制作スタッフみたいというか。

h:喋り方も丁寧な感じで、いわゆる演劇上演前の事務連絡について話したりもする。もちろん俳優に前説を喋らせる演出ってよくあると思うんだけれど、それとも一線を画していた気がする。眼の前の俳優が観客である自分たちに語りかけてきているのか、それとも舞台上で完結しているのか、本当にわからなくなるというか……あなたは私に伝えたいの? それとも自分が練習してきたことをここでやりたいの? っていう、そこの境目がなくなる感じ。

山本:「あなた」って、古賀さんのこと?

h:そう。演劇って、もちろん観客に何かを伝えたくて上演するということもあると思うんだけれど、別にそのときも、観客を直接的に巻き込む必要は実はない。そこで完結しててもいいというか。俳優が観客に語りかけたりすることがあったとしても、実際には、俳優や劇は観客側から見られているだけ。俳優も観客側を本当には見ていない。こちらを見る演技をしているだけ。でもこの作品で古賀さんは、「ようこそ!」とか、ぼくはこうなんですよね、みたいなことを延々と言ってきたりするし、念力をかけてきたり、じゃんけんをしてきたりする(笑)。

山本:俳優が観客に視線を合わせてくるのはまだしも、じゃんけんをしかけてくるというのは、例えば無観客上演だと不可能なことだよね。観客側からの応答がないと成立しない。しかも、じゃんけんに勝つか負けるかが明確に舞台上で為される発話に影響を与えている、こちら側の行為が舞台上に干渉して進行を変えたということがはっきり知覚される。言い方を変えれば、いまここで見ている上演が、こちら次第でそうはならなかった可能性がすごく明確に意識されることになる。

h:その感じは、例えば第二部の「また会いましょう」ともまた全然違う。第二部では舞台と観客は一般的な演劇と同じく切れている感覚があるんだけれど、第一部はずっと前説のように、今日ここでやること、自分がいまやっていることを、こっち側にひたすら説明してくるし、観客側からの応答も迫られる。そういうあり方が、第二部にも響いてきて、作品全体として、やっぱり形式的にも内容的にも「伝える」ことが中心の問いになっていたのだと思う。第二部だって、ふたりの俳優のあいだでそれが交わされるという違いはあるけれど、自分を伝える喋り……つまり自己紹介や日記が軸になってたし。第一部を経たあとだとその受け取り方もけっこう変わる。

先取りされた発話と私という能動性

山本:第二部では、自己紹介や日記的に私的な日々を語る誰かの発話を記録して、それをもとに台詞を作っている部分が多くあったよね。日記や自己紹介する発話(それを記録したテクスト)って、それが日記や自己紹介だと知らされてなくてもそうだとわかる。そういう私的な成分を多く含んでいるというか、そのテクストの読み取りに際してそれを表現しているひとの私的な情報を、表現を受け取る側が仮構し適用していかなければならなくなるようなものとしてある。そしてそのようなテクストたちが、明らかに編集され、当人から引き剥がされた状態で発話されている。

h:それって、第二部だけじゃなくて第一部もそうだったのかな。

山本:第一部は比較的、自己紹介や日記をもとにした台詞は少なめだったと思うけれど、基本的な作り方は同じなんじゃないか。《現在は13時39分にこちらの音声を収録しております ここはスタジオでございます》とか《2月15日 収録してる 頭が動かない》みたいな台詞もあったよね。明らかに誰かが今こことは別のどこかで収録した音声(をもとにしたテクスト)を、目の前の古賀さんが平然と話している。もともとの発話が古賀さんによるものかどうかはわからないけれど(第二部では同じひとりの個人情報に由来するだろう話をふたりが共有して話すから、確実に自分とは別のひとの発話を再現していることがわかるわけだけれど)、重要なのは当人かどうか以前に、少なくともいまここで思考され自発的に発話された言葉ではないと認識できることだろう。
 これと関連して、自動音声の問題がある。第一部と第二部に共通する舞台美術として、観客席側からは何が映されているのか見えない角度で置かれた一台のディスプレイがある。その付近からは、時折、自動音声で作られただろう声が流れる。断言できないけれど、第一部でのそれは、今回の「共有するビヘイビア」のもととなった『クローズド・サークル』で古賀さんと出演していた鈴鹿通儀さんの声をもとにしたものだったんじゃないかと思う。そして古賀さんは、その声に命令されるように動きを変えたり、あるいはディスプレイに向き合ってうまく会話したりもする。
 ここがまたひとつポイントで……自動音声と会話する時点で、観客側からすれば、明らかにその発話は事前に用意され、会話しているふうに装われたものだと感じられる。もちろんわざわざそんなことをせずとも、演劇って、もともと先んじて用意されたテクストをそれを書いたひとではない別のひとが舞台上で発話することが、ジャンル的な基本、暗黙の了解とされている。その意味では、会話が事前に用意され、再現されているものであることになんら驚きはない(そもそもぼくらが見たプレビュー上演と概ね近いものを、この数日後の「本番」に他の人たちが見るとされていることからもそれは明らかだ)。ただ、この作品では、観客とのインタラクティブ性も含め、そのような基本、暗黙の了解そのものを上演の素材として用い、検証し、組み替えるようなギミックを大量に投入している。結果、舞台上の俳優における、ある種の自由意志や、能動的かつ即興的な発話をめぐる認識(不可能性)に、主題としての焦点があたるようになっている。
 台詞のなかでもそのことは明確に触れられる。例えば第一部で何度か繰り返される以下の台詞。《言葉の集大成が言葉 ことの始まり 言葉が発生した瞬間のこと それがいつ というのはとても簡単なことでして 今です 今この 瞬間 言葉が生まれました 嘘です 何かを説明するときというのが言葉が必要なときです》。いまここで言葉が生まれているのか、あるいはずっと前に先取りされていてそれをいま言わされているだけなのか。そこに《何かを説明する》こと、つまりは「伝える」ことの問題があるとはっきり語られている。
 ほかにも《話すことない》って台詞があったり、あとはSpotifyのシャッフル再生の話とかね(笑)。あれも一見するとただのばか話みたいなんだけど、自分が聞きたくて能動的に曲を選ぶのではなく、サービスの側から「あなたの聞きたい曲」が先取りされ、それを聞かされる──そういう事例のひとつだと考えられるわけだ。観客とのインタラクティブ性も、観客側からすれば、目を閉じさせられるとか、じゃんけんさせられるといった、行為の強いられ感として生じるものだろう。
 こうした先取りをめぐる問題は、「戯曲とは何か」という問いを用意しつつ、上演を見るとはどういう事態なのか、何かを発し伝えてこようとする肉体を見つめ受け取ろうとするとはどういう営みなのか、といった問いにまで直結していくものだと思う。眼の前の肉体が何かを表現しているとき、それがいまこの瞬間その肉体において思考され、私自身のものとして発せられたものなのか、そうでないのか。そのような受け取りをめぐる試行錯誤として「上演」はある……そしてその延長線上に「伝える」こともあるし、(このあとしっかり話すことになるだろうけれど)会話や上演を含めた「舞台」、場をめぐる想像力の問題もあるだろう。そうした見立てのもと生み出される方法論や技術を、今回は、それによって表現しうる物語の展開を試みるのではなく、方法論や技術そのものを純粋にプレゼンテーションしている、という気がした。
 もうすこし事例をあげれば……例えば字幕をめぐる話も台詞のなかにあったよね。《最近だと全てのセリフに字幕がついている 字幕をつけている 話している人が今から話すことを既に意識してその字幕に合わせて喋る 喋ることに字幕を合わせる どっちが正しいんだろう てな具合にリンクして喋る》。『クローズド・サークル』ではディスプレイに表示された字幕テキストを俳優が見ながら発話しては、リモコンで画面を操作して次のテキストに進む、というようなことをやっていたけれど、これもまさに発話の先取りの問題だよね。俳優の発話の背後に、事前に用意されたテクストが存在していることが隠されていない。今ここで即興的に発話されたものではないことが明確に示されつつ上演が進んでいく。
 今回のプレビュー上演を考えるときさらに興味深いのが、俳優のひとたちがみんな印刷された戯曲を手に持って上演していたことだよね。おそらくはまだ台詞が固まりきっていないからだとは思いつつも、もしかしたら本番でもそうなのかも、と思ったりしながら見てた。

h:そうそう。特に第一部はそうかもと感じた。

山本:俳優の肉体や思考に表現の由来があるのではなく、手に持っているテキストの側にその由来がある。俳優は手にもったテキストに喋らせられているだけである、それこそ自動音声のように……。個人的に思い出すのは、ぼくらとも関係の深い、写真家/舞台作家の三野新さんが中心になって2018年に上演された「アフターフィルム:performance」。三野さんの同名映像作品をもとにした上演で、スペノのふたりも出演していたんだけど──確かそれが、ぼくがスペノのふたりを目撃した最初の機会であり、またその上演のアフタートークが、三野さんから写真集『クバへ/クバから』の制作企画を持ちかけられた瞬間でもあったわけなのだけれど──、そこでものすごく印象的だったのが、俳優がスマホをそれぞれもって台詞を発話していたことだった。三野さん由来のアイデアなのか、それともスペノからのアイデアなのかはわからない。ただ、あまりに簡単な(いわゆるリーディング公演みたいな)そのギミックだけで、発話をめぐる自由意志や由来がスマホの画面の側に奪われた肉体が演出できていたことに驚いたのを覚えてる。

h:なるほど。今回の本番はどうなるんだろう。手に持ったまま出るのかな。

山本:少なくとも、本番では英語字幕を出すらしいね。手に何も持っていなかったとしても、かなり近い状態にはなる気がする。

そこにないものを想像させられる

h:戯曲の話でもうひとつ気になったのが、台詞がいろんなところでもじられてる、ってことだった。例えば上演前に古賀さんが話しているとき、「手をクロジにして」って言うんだけど、なにそれ、と。「くの字」のことなのかなって身振りから想像して聞いてたんだけど、イントネーションも含めてよくわからなくて。このひとどこ出身なんだろうとか思ってた(笑)。ほかにも、もっと細かな言い間違いとか、噛んでるみたいな発話がたくさんあった。会場である「STスポット」について変な話が展開されるときにも、「SDスポット」とか「SPスポット」とかって言っていたし。
 いったいなんだったんだろうと思って、プレビュー上演が終わった後、「なんでも質問していいですよ」って空気だったから質問したんだけど、戯曲を自動文字起こしで作ってるから細かな間違いがあるんだ、そのほうがもともとの音を残せていると考えているんだ、って回答だったんだよね。
 そのときは、へーなるほどと思ったんだけど、いま、送ってもらった戯曲を見ると、こんなに間違えてるの!? って驚いた。

山本:文章で読むと本当にめちゃくちゃだよね(笑)。

h:「クロジ」は《黒字》だし、たしか上演では「アイカサ」って聞こえていたところも、戯曲では《AI傘》になってたり。でも発話されたものを聞いたときには、ふつうに理解して聞けてしまっていた。もちろん細部までぜんぶ言ってることが理解できたって感覚はなかったけれど──意味分かんないこと言ってるなーって感じだったけど(笑)──それでも、ふつうの言葉を話しているようには感じていた。それが、戯曲だけを見ると、けっこう理解できない。ただ、上演を先に見ている自分は、いま戯曲のテキストを読んでも、誤字を残してある意味不明な文が、頭の中で勝手に発話の記憶をもとに正されるからか、わりと読めちゃう。これってなんなんだろう。

山本:重要なのはやっぱり、この戯曲が、最初に書き言葉として作り出されたものじゃなくて、まず発話として生まれた、ということだと思う。発話され、録音された音声が、きれいに文章として整えられるのではなく、音の質感に由来するエラーも含んだかたちで文字化され、編集され、戯曲となっている。
 この制作過程について考えるとき、例えば文字化を経ずに音源データそのままを戯曲として扱う、というやり方もありえたかとは思う。ただ、いちどテキスト化することで、複数人で共有しやすくなっただろうし、編集もしやすくなったはず。特に第二部は、ふたりの会話が緻密にコントロールされているけれど、音のままこれをやるのは困難だっただろう。
 その上で、あくまで最初の発話における音の質感も重視されている。それをテキスト化の際に綺麗に整えようとすることは避けられている。
 ここには、もちろん、戯曲とは書き言葉から成るものである、という既成概念へのカウンターという面も少なからずあるかと思うんだけど、それ以上に、最初の発話の瞬間にあった情報、例えば言い淀みやスリップなどをなるべく尊重する、そしてそれを戯曲にする(つまり舞台の肉体が従う先とする)という姿勢がある……と言えるのかな。

h:ただ、自動文字起こしは現状、そんなに音に正確なわけではないじゃない。言い淀みやスリップがあったからこのテキストになっているというところもあるだろうけれど、それ以上に、単純に人間の発話がうまく理解できずに(あるいは過度に正しい言葉として受け取ろうとして)変なテキスト化を行なってしまっているところがあると思う。
 そういう機械的なエラーを残したまま、もういちど人間に発話させる。その声を観客として聞いたとき、わりとけっこう、ふつうに言葉として聞けてしまう。そこでの、言葉を聞く側の、聞こえた音をありえそうな言葉に補正していく機能について、わたしは考えたんだよね。これはあとから戯曲を見て思ったことではあるんだけれど。

山本:なるほどな。他者の発話をトレースすると言うと、例えば手塚夏子さんの「私的解剖実験シリーズ」を思い出す。夫の気持ちというか存在そのものを理解するために、何気ない身振りを映像に撮り、それを細部まで完全にトレースしようとする。さらにそれを複数人で共有し、演じようとする。岡田利規さんや山縣太一さんをはじめ、各所に大きな影響を及ぼした作品だけれど、スペノがやっているのは、問題意識として近いところもありつつ、明らかに違うところもある。手塚さんほどには当然精密ではなく、ざっくりしているわけだけれど、それゆえに見えるものもたくさん生じている。
 スペノも発話の様子を映像で撮っていたりするかもしれないけれど、少なくとも観客からは発話の瞬間の身振り(を再現している気配)は把握できないようになっている。音声に関しても、音ひとつひとつを厳密に表記しようとするならそういう筆記法はこの世の中に存在しているわけだけれど、そうではなくあくまで自動文字起こしを経由させ、いわゆる自然言語でテキスト化した上で、俳優に発話させている。

h:しかも自動文字起こしを使っているということは観客からすればわからない、ということが重要だと思う。ただの聞き間違いかもとか、意図的に言葉を崩しているのかもと思ったりするだけで。

山本:なるほどな。「SDスポット」とかってはっきり言われると、何かしら意図のある言い換えなのかなと思うよね。ぼくは「STスポット」に関する明らかに嘘っぱちな話をしていることもあって、わざと別の名前にずらして言ってるのかと思って聞いてた。

h:あの話に出てくる「佐藤さん」って、ほんとにいるの? 穴を掘ってここを作ったってほんとなの? とか……お前の言ってることは本当なのかどうなのかはっきりしろ、みたいな瞬間が何度も起こるよね。

山本:胡散臭さがすごい。それはテキストだけの問題じゃなくて、古賀さんの演技体の特異性から立ち上がるものでもあると思う。いま目の前で考え発話しているようでもあり、観客と対話しているようでもあり、でも明らかに自分とは別の場所に由来を抱えて喋らせられてもいる、その絶妙な演技のバランスから生じる胡散臭さ。

h:そうね、すごく面白かった。胡散臭いというと悪いニュアンスが強くなっちゃうけど(笑)。

山本:でも、胡散臭さとしか言いようがない質感がある(笑)。

h:言ってる内容をどこまで真に受けて聞いて良いのかわからなくなるんだけど、でも観劇中は、やっぱり意図とかを汲み取ろうとしちゃう。それでけっこう辻褄が合った気にもなるし。でも、実際には、別に「STスポット」をあえて「SPスポット」と言い換えて言っていたわけじゃなくて、ずっと「STスポット」に関する話をしていただけなんでしょう? ただの文字起こしの結果なので……みたいな。悔しいよね、自分のなかの相手を汲み取る能力みたいなものを無駄に使わされている感じがして(笑)。機械のエラーをわたしに押し付けないでよ、って。

山本:そこで生じる「ただの機械的な情報にも人間的な意味や意図を汲み取ってしまえる」ということもまた、肉体に能動性を見るかどうかに関わる話でもあるわけだよね。

h:そうそう。

山本:いったん自動文字起こしを挟むことで、表現における由来、根拠を、最初のひとの発話にのみ還元できるものではないようにしている、と。そういえば『クローズド・サークル』でも似たような方法が取られていた。テクストや上演の流れが、「バックギャモン」っていうテーブルゲームのルール・進行にのっとって決められていたのね。そこでもやっぱり観客側は「なんでここでこの発話が為されたんだろう」といろいろ考えさせられるんだけれど、蓋を開ければ、「ゲームがこうなっているからですよ」とあっさり返されてしまうわけだ。何かしらの物語や意図を探ろうとするのに、その先にあるのはそれ自体としては何の意味も持たないただのルール(の遂行・上演)でしかない。
 こういうところから、例えばぼくなんかは、大岩雄典さんのインスタレーション作品を連想したりする。大岩さんも、(大岩さんそのものとイコールで結ばれがちな)特定の作家性に作品が還元されないよう、明確なゲームルールを露骨に提示して、観客側からの意図の汲み取りを不全にしたりする。さらに、観客側の行為を戯曲や美術などでもって先取りしてしまう、そこで起こる不快感なども含めて作品の質にしていたりする。スペノと大岩さんはやっていることが近い、とも言えるかもだけど、それ以上に、上演というものそれ自体が備えている諸々をストイックに問おうとすると必然的にそういう作品の作り方になる、って話だろうなと理解している。
 ちなみに、音に関わる操作は、第一部では「おやすみんみんぜみ」みたいな言葉遊びに関する話にまで進んでいったけれど、これもまた、音が依拠するルールをもとになかば自動的に発生する表現にひとがいろいろな情動を勝手に立ち上げてしまうという話だと思う。
 音の問題を扱うとこういう議論展開になることはよくあって、例えば詩歌の形式をめぐっても同様のことが生じる。短歌の定型、つまり57577にのっとって音が並べられていき、ひとつの表現が作られるとき、そこにある情動や思考は音の醸す言語的な意味に由来するものなのか、作者に由来するのか、あるいは57577というリズムに由来するのか。だれがその表現にとっての主体であり、原因なのか。そこに埋め込まれていると読み手側が感じてしまった情動や思考は、果たしてどこからやってきているのか? なんてね。
 そういったことが、今回の作品では、戯曲と上演を考える上での一例としてさりげなく提示されている。全編にわたって話されている内容はぺらぺらなんだけど、それらがいずれも問いを鮮明化することにうまく寄与させられている、と言っていたのはこういうようなところのこと。
 例えばマスクの奥での口の動きを想像させるような身振りや台詞があったけれど、あれも同じ。一見するとどうでもいい細部だけれど、観客側からすれば、知覚情報としては得られていない空間(マスクの向こう側)を自分がいつのまにか想像してしまっている、そのことを自然と自覚させられる一例となっている。
 このまま、空間をめぐる想像の話に進めば……第二部でよりはっきり扱われることだけれど、舞台上の発話によって観客がこことは別の空間を想像させられてしまうという事態は、いろいろな角度から展開されていたよね。「STスポット」をめぐる話も、いまここの舞台をめぐる想像力に関わるものだと言えるし、それこそ言葉遊びの話のとき、古賀さんが、舞台奥の出入り口に立って、こちらからは見えない壁の向こう側に向けて話していたのも、そうした想像力への注意をシンプルに喚起する演出だったと思う。

h:あそこは今回の作品のなかで一番笑えるところだったよね。「おはヨーグルト」は「おはよう」と「ヨーグルト」の組み合わせが最高ですよね、朝と爽やかな感じがいいんですよとか(笑)。そういうことを舞台の裏に向けて話しながら、ときどき観客側を見る。その様子も面白い。あれって、観客が笑ってるかどうか確認しているみたいだったよね。反応をうかがってるのかな、っていう。なのに裏に向けて話している。それまでの前説みたいにがんがん舞台上から話しかけてくるのとの対比もあって、不思議な印象だったな。

ダンスと共有

h:わたしが「伝える」ということについて考えたのは、主には第二部を通じてだった。
 第二部は、すごく簡単に言ってしまえば、渚さんと西井さんというふたりの俳優が舞台上で話している。でも、ふつうの会話とかではなくて、一方的に話したり、同時に別々のことを話したりしている。

山本:バーっとまくし立てるような感じでね。

h:でも、聞いていて、ぜんぜん意味がわからないとかではない。ふたりだからぎりぎり何を話しているかは掴めたりする。そして、ときどき「わかった?」「わかった」みたいなやり取りがあって、話が急に止まる。逆に言えば、話が止まるその直前に、ふたりが応答しあう瞬間が訪れる。観客からすると、「あれ? やっぱり話してた? お互いわかりあえてたの?」と思うわけだよね(笑)。でも話が再開すると、またお互いがぜんぜん違うことを言っていたりする。この、お互いぜんぜん別の話をしているのに時々お互いに伝えあえていると錯覚させられるような瞬間が生まれる、これってなんなんだろうと考えたんだよね。

山本:それは、ふたりの俳優のあいだで何かが伝えあえている、ということ? それとも、俳優たちから観客側に何かが伝えられてしまっている、ということ?

h:両方。伝わっていないなと感じつつ、でも伝わっているとも感じる、じゃあそもそも「伝わらない」ってなんなの、とか。

山本:なるほど。それは第一部でいったん明晰に言語化されつつ展開されていたことでもあるよね。あらためてあなたが引いていたところを引けば──《根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通していると思います ダンスの工程とか なぜこのダンスが生まれたか 紹介する 説明とか 紹介っていうのがこの共有するbehaviorを説明する上で正しい伝え方だと思っていて 今説明の説明をしてる だから何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」このダンスを伝えます このダンスの背景を伝えます みたいな》、とか。

h:まあその意味では、素直だよね、わたしは。「伝える」がテーマだと言われて、その通り受け取ってるんだから。

山本:でもこの作品自体、そういう意味での明晰さ、露骨さがあると思うよ。何かを隠したりこっそり表現したりするのではなく、はっきりと「ここに問題があるんです」と開示した上でやっているというか。

h:第二部は第一部で展開されたテーマがより実践的に展開されているのかな。ふたりのあいだのやりとりには、わりとふつうに会話として成立しているところもある。伝わってるかも、とかではなく、あきらかにふつうにやり取りしているところ。でもすぐにまた、すれちがいになる。だから、「伝わってる」「伝わってない」をめぐるこちらの認識もどんどん揺らいでいく。そこが面白い。

山本:また第一部の話にもどっちゃうけど、もともと「共有するビヘイビア」が2018年と2019年に上演されたときには、ダンスの背後にある制作過程などを観客に共有するという意図をもった作品だったということは、台詞のなかでも明言されている通り、やはり重要なことのような気がする。
 ものすごくざっくりした話になるけれど、ダンスって、踊る側からするとものすごくいろいろな感覚や思考を展開していたりするけれど、それを見る側は、なんか動いて表現してるっぽいな、程度の解像度でしか捉えられていないことが多いと思う。踊っている肉体を外から視覚的に認識することはできるし、そこでの身振りを通じて踊っている肉体か、あるいはそれが依拠しているコレオグラフを作成したひとが何かしらを表現しようとしていることまではわかる。でもそれが何なのかまでには至らぬまま──ブラックボックス化したまま──見終わってしまう。
 肉体の身振りを見て、それが由来している感覚や思考を把握するというのは実のところけっこう難しい。熱さを受けての条件反射とかなら、大半の肉体は同様の動きをするだろう。白鳥の見た目を真似して踊る、とかもまだわかりやすい。でも、例えば「生」を表現して下さい、みたいに言われると、みんな思い思いの動きをするほかないだろう。そうして為された表現から、その由来を明確に逆算することは、身振りがひどく定型的なものである場合を除けば、かなり難しいだろうと思う。そしていわゆるダンス作品の場合、条件反射も複雑な表現もひっくるめて編集し、構成していくわけだから、さらにことは複雑になっていく。
 そうしたなかで、2018年と2019年バージョンの「共有するビヘイビア」では、ダンスを作る過程での議論と、ダンスそのものを、ともに編集・構成し、ひとつの作品のなかで展開する。つまりダンスだけを提示するのではなく、その背後にあるものの開示・共有込みで観客に見せていく。自然と作品は、ダンスをそれ足らしめている必然性、発端のようなものの言語化と伝達をめぐるものにもなっていく(こうやって語っていくと、いぬのせなか座が自分らの詩や小説を、その制作過程や背後の思考をめぐる座談会(しかも何重にも編集・構成されたそれ)とともに一冊にまとめて発表していたのと、やり方として近かったのだろうなと感じる。実際、実はぼくはスペノを見始めるだいぶ前から、いぬのせなか座とスペノは近いんじゃないかとたびたび周りから言われ、気になっていた……)。
 ついでに言えば、2022年7月に見た『ストリート リプレイ ミュージック バランス』も、ダンスを構成する複数の要素・要因をひとつひとつ丁寧に観客に見せては並置していき、掛け合わせ、厚みのあるダンスの経験を徐々に作っていく作品だった。ものすごく教育的かつロジカルなプロセスを踏むことで、身振りはその場で生み出された即興的なものとしてではなく、漠然とした謎でもなく、厳密に計算され仕組まれた身振りとして把握できるようになっていく。さらにはその身振りが作り出す周囲の空間への想像力の推移も、クリアに観客側に自覚されるようになるんだよね。
 「共有するビヘイビア」は、すでに何度も触れている通り『クローズド・サークル』という作品に発展するんだけれど、そこではいわゆるダンス的な成分はぐっと減り、ふたりの俳優による発話が中心になる。そしてその先に、今回の作品があるわけだ。つまりは発話・会話にすごく重きを置いている今回の作品の背景に、ダンスとその共有をめぐる問題意識や蓄積があるということ……スペノの経歴を知っているなら当たり前のことかもしれないけれど……このことはあらためて重要な気がする。眼の前の肉体が何に依拠して発話し、身振りを行なっているのか。それをめぐる観客側の認識とはどのようなものか。舞台と観客のあいだの「伝える」という関係はいったい何なのか。それら全体を取り巻く空間とは何なのか。
 ……ということを踏まえた上での(笑)、第二部における「会話」の問題、だよね。

破壊的テクストと共有される場

山本:第二部で重要なポイントのひとつに、テキストの反復的共有がある。具体的には、例えば岸田國士で卒論を書いたという話を俳優ふたりともが時間を置いてそれぞれ同じように発話する。これって観客側の認識で言えば、ある種の役柄の交代のように感じられる事態なんだけれど、もう少し踏み込んでいえば、そのテキストを文字起こしする前の自己紹介的な発話が俳優ふたりに共有されているわけだよね。しかもひとりの発話がふたりに共有されているということは、少なくともそのうちのひとりは、自分とは別の者が私的な情報をめぐるものとして為した発話を再現していることになる。ひとりではなくふたりで話すことで、そのような認識に自然と無理なく観客側が至るようになっている。

h:しかもそれは、岸田國士みたいな固有名詞だけじゃなくて、いぬがかわいいとか、好きな映画はなんですか、みたいな台詞を起点にしても把握できる。つまりかなりの頻度で、ふたりがひとつの人物を演じているようだというのがわかる。
 もうひとつ謎なのは、第二部でも第一部と同じく舞台上に、こちらからは何が映っているのかわからない角度でディスプレイが置かれているんだけれど、そこから声がすると、舞台上のふたりが異様な驚き方をしながら、舞台奥のふたつの出入り口にそれぞれすっぽり収まっていくところ。後ろ向きに一気に激しくさがっていって、痛みのようなものを感じているふうに見える。やめてほしいというか、嫌がっているというか、こわがっているというか……いずれにせよプラスの感情じゃないよね。そうした場面が何度か繰り返される。あれはなんなんだろう。

山本:現象としてはわかりやすくはあるんだけれどね。

h:そう、何かしらのルールがあるということはよくわかる。「ディスプレイが喋ったら嫌がる」というね。まあそれも徐々に解体されるわけだけど。
 他にも、身振りに関するルールがいくつかあるようなのは認識できる。例えば、「どういうところに住んでたんですか」みたいに聞かれたら、台にのぼってそれに答える、とか……その意図まではわからないし、そもそも把握が合っているかどうかもわからないんだけれど、何かしらここにはルールが働いているんだなとはわかる。そしてそれは、ふたりの「会話」からすれば、すごく安心できるものとしてあるなと感じる。
 ふたりは基本的に話している内容がずれていて、同じ舞台上にいるにもかかわらず、お互い隔絶され、力の及ばない場所にいるように感じられる。でも、さっきも言ったように、あるとき急に、「そうですよね」「はい」みたいな応酬がくる。それが、見ていてすごくこわいんだよね。こんなにそばにいるのに交われないんだ、伝えあえないんだ、というところから、急に会話が成立したようになって、また離れていく。その伝わらなさとか、伝わったかと思えばまた離れていくこわさと比べると、身振りに関するルールは、どこか安心できるものがあった。
 ……というか、今気づいたけれど、第二部の戯曲、やばくない?(笑)けっこうちゃんとした台詞だと思ってたけれど、文章で見ると、第一部よりもさらに意味わかんない。《チキン鶏肉ねんとりこしょっぱい》って、なに。

山本:これは……(笑)。

h:ふたりが同時に話すから聞き取れないんだと思ってたけれど、ほんとに意味わかんないこと言ってたんじゃん(笑)。たったふたりでも同時に話されると無理なんだ、って思ってたけど、これじゃそもそも聞き取れるわけがなかった。

山本 なるほどなあ。

h:ひとりひとりで喋っているときの台詞は、当たり前だけれど聞き取れるわけだし、上演中は内容も含めて理解できてる気になってた。でも戯曲を見ると、かなりへんだったことがわかる。例えばこことか……。

 N1 メープルシロップは振りつき
 N2 もう学びっていう名前なんですよ
 N1 そうなんですか 珍しいですね
 N2 違う弓田 すごい お母さんのおねちゃんが真弓さんです いとこが愛美ちゃーんでしたね
 N1 うん なっちゃん うんちゃんって言われます でもまだちゃんは 飲み物が好きNO中のビルオーナーとコーヒーかな
 N2 コーヒーが好きです

 この場面、はっきり覚えてるけど、《愛美ちゃーん》とかは聞き取れるけれど《なっちゃん うんちゃんって言われます》とかは「ん? なんだろう」くらいまでしか理解できない。《飲み物が好きNO中のビルオーナーとコーヒーかな》とかになるとぜんぜんわからなかった。でも次に《コーヒーが好きです》と来ると、急に会話として聞こえてくる……。
 上演中は、ひとりひとりはちゃんとそれぞれで理解できるようなことを喋ってて、でも同時に話していたり台詞が意図的にすれ違わされていたりするから理解が追いつかないだけ、と思っちゃうけど、戯曲を見ると、そもそも伝わることなんて最初から喋ってなくて、互いに、それから観客にも伝える気がなかったんじゃん、と思う。何かがあるわけじゃない、何もないことを言われていただけだったのに、上演である以上──というかひとが前で言葉を喋っている以上──そこにはなにかがあると思わされてしまっている。これは、やっぱりこわいことだよね。日常も実はこんなものだと言われている気もしたし。

山本:破壊的な文章でもって「聞こえさせていない」ところと、会話としても意味内容としても「聞こえさせている」ところが、ものすごくうまくレイアウトされているよね。ずっと会話が成立しない、意味がわからない、とかじゃなくて、わかるところとわからないところのリズムがコントロールされている。

h:そうだね、されてた。テキストそのものもだし、発話でも、ふたりのあいだでうまく間を置いたりしていた。「聞こえて……る?」みたいな(笑)。

山本:そうそう。テキスト内外のいろいろな要素を駆使して、会話の成立(不)可能性を精密に演出している。視線の向きや、どこでどう頷くかとか。音楽のリズムを取っているときの頷きと相槌の頷きが同期させられる、みたいなこともあったと思う。
 あと、空間の共有……土地や風景の描写はもちろんだけれど、例えば《柴が居ますね》とか《どら焼き》とかみたいに特定の対象をフィクショナルに名指すような発話はけっこうな頻度でふたりのあいだで共有され、ともに立つ場を形成する。その瞬間、会話が成立したりする(そのように感じられたりする)んだけれど、とはいえ仮構される対象の位置も、お互い想定している場所がずれていることが明らかだったりするから、すぐに崩れていってしまう。
 ほかにも、「それ」「これ」「あれ」みたいな指示代名詞は、会話の成立(をめぐる知覚)を促していたよね。「私」もそうだし、あとはやっぱり名詞の反復は最たるものだったと思う。一方、同じく人物名でもってふたりのあいだのずれが強調されたりもするわけだけれど。そういう細部のコントロールがすごい。
 さらにもうひとつだけ加えると、ディスプレイに向かって「音楽をこの部屋に流してほしい」って言う場面があったよね。すると実際に音楽が流れる。それは舞台上のふたりにも、観客席にも、さらに言えば会場外の廊下を歩いているひとたちにももしかしたら聞こえているかもしれないものだ。これまで触れてきたようなどれよりも、はるかに強い共有、同期の礎としてある。舞台美術を指さして「これ」と言うときがあったと思うけど、それよりも強力なものだと思う。

h:伝わってるんだな、と感じられる。

山本:でも、次に発話されるのは《違う ちょっと違う ちょっとたぶん違う》。やはりだけれど、また共同の場は崩れる……このあたりの半ば露骨とも言える展開の塩梅が、うまいんだよなあ。
 こういうことの積み重ねが、二つの肉体のあいだの共通の場をめぐる判定基準の検証となり、すなわち「会話」というもの、「伝える」ということの判定基準の検証となり、さらにはある肉体における自由意志や思考をめぐる判定基準の検証となる……そしてもちろん、第一部をめぐって話していたような、戯曲の問題にもなっていく。戯曲もいわば、舞台上の複数の肉体が帰属する共同の場の一種だよね。ひとつの同じ戯曲を共有できているということは、ひとつの場を共有できているということであり、そこには(一般的な意味かどうかとは別に、肉体と肉体が同じ地平を共有して関わり合うという意味で)会話が成立するだろう。言い換えれば、そのような対象であるからこそ、この作品において戯曲は、音楽と同じように「違う」ものとみなされ、自動文字起こしを挟んでエラーを大量に食い込ませられたり、もととなる発話主体を置いたりして、単一の書き手に統合されないように操作されている。
 こうした諸々が、上演という表現形式における最たる素材としての、観客と舞台のあいだに生じる想像力に関わるものとして、一気に貫かれるというか、ぜんぶ同じ問題なんですよと示されているような感覚があったな。
 そしてその上で、舞台そのものとは別で収録され戯曲の素材とされているところの、日記的な発話とはいったいなんなのか、というところにまで返っていくのかもしれない。

話すことのなさと方法

山本:話し損ねたことを最後に手短に並べておくと……第二部での《歩きたくなったら歩いてもらって》という台詞(続けて、言われた側が歩き始める)も印象的だった。まさに能動受動、行為の由来の問題だよね。しかもこの台詞も、間を置いてもうひとりが同じく発話することになる。この交換可能性。
 あとはドッペルゲンガーのモチーフも、第一部・第二部共通のものとしてあったよね。第二部で言うと、例えばここ。《この前すごいおばあちゃんに似てる人がいたんですね おばあちゃんは髪型がすごい 毎日パーマを当てに行ってたんですよ 毎日当てに行ってたんだけど その人はショートカットでピンクの髪型だったのね ベリーショートだけど 他はどう見てもおばあちゃんにそっくりだった いきなり話しかけてもちょっとびっくりされるかなと思って 普通に後をつけてたんだけど その人がすごいこっちをすごい伺ってきてたから 会釈しようと思って釈して通り過ぎたんだけど その通り過ぎた瞬間に「私」だって思ったんですね》。

h:ああ! あったあった。それすごくこわかった。しかもディスプレイに向けて話してた気がする。すごく嫌だった。第一部にも似たようなことがあったね。

山本:どこだったっけ……いま(2023/03/16)はまだ記録映像が届いてないから、戯曲のデータを検索しつつ記憶をたどることしかできないのだけれど……あ、ここだね。

h:《出会いの場というのは どのような場所だとお考えでしょうか 例えば公園 例えば学校 例えば道野途中 駅のホームでした 別の線と線が交わるところ 大きな駅のホームでした そこで 年老いた「自分」と出会いました 姿は全然今とは全く似てませんでした でも直感で「自分」だということが認識できました どっちとも言わず話していました 内容としてはゲンキーみたいな 体とか壊してないのとか 最近楽しかったこと何 ほとんど久しぶりに会った友達と会ったときに話すような内容ばっかりで 何故なら深入りして何かを話すことが結構怖かった だから 当たり障りのないような 割とライトめな会話をメインで話してた》。

山本:そして自動音声が《話すことない》と返事するのか……。この作品全体における「話すことない」っぽさはすごいよね。

h:あんまり意味ないもんね(笑)。

山本:にもかかわらず、大量に喋り続けてて、それを観客は聞こうとしちゃう。聞こうとさせられちゃうような演出や演技、テクストの技術がすごくある。

h:あと、第一部と比べると第二部のほうは、すごく自制的というか、自分を抑えて喋ってる印象がすごくあった。言葉をここに置くよ? 置くよ? みたいな丁寧さがあったというか。それは演出の複雑さ、意識し実現しなくちゃいけないことの多さから来るものでもあると思うんだけれど、その上で、すごく抑制されている感覚が全体にある。だからこそ、ディスプレイから自動音声が聞こえた瞬間、ふたりがわーって驚いて激しく動くのに対しても、すごくこわく感じられる。ものすごく強い感情の発露に見えるから。

山本:そういう抑揚を作るのが、ほんとにうまい。

h:だってさ、ちょっと眠くなりそうなときにそういうことをやってくるでしょう?

山本:確かに(笑)。

h:そういううまさもあった。やっぱり情報量が多いから頭がぼーっとしてきちゃうしすごく疲れるんだけど、いいタイミングですごく明確な出来事が起こる。そういうところもすごく面白い。

山本:あと、最後にもう一個だけ。ちょっとメタ的な話というか、作品全体を比喩的に表現している箇所の話になっちゃうんだけれど……。

h:「0.5人」の話?

山本:ああ、それも重要だね。それと絡むようでもあることとして、第二部の冒頭、「念力暗転」の話から始まるんだけれど、西井さんが前に出てきて念力暗転を実演するような振る舞いをする一方、同時に少し後ろで渚さんがその様子を外から描写するような話をする。ひとりがひとりをはっきり語って記述する場面というのは、ここくらいなのかな……ここで示される関係性はすごく印象的で、作品全体を貫くイメージにもなるところだったなと思う。もう何度も触れてきているけれど、なにかに先取りされている感覚もあるし、私が私を語っている、ある種の分身関係の発露というような感覚もある。なんというか、最晩年のベケットを思わせるところもある。
 またその話が念力暗転の方法の説明をめぐるものだったということも、極めて重要だった気がする。この作品の軸は方法のプレゼンテーションなんだ、ということが意識付けられたというか。つまりはエピソードや個々人の情動などではなく、異なる人物、異なる場所で転用可能、反復可能な何かをめぐるものなんだ、と。《知ってるのは 舞台上に1人 人が立っていて 手をかざして それ見てる人がまぶたを閉じるっていうやつを知ってるんですけど》って渚さんが西井さんに向けて語るとき、それは西井さんがいま演じている誰か個人を描写しているのではなく、あくまで念力暗転の方法、具体的なプロセスの話をしているだけなのね。でもそれが、目の前に立っているひとの描写にも聞こえるんだよ。この妙な状態が、すごくおもしろいし、今日話してきたこと全体をあらわしているようにも個人的に感じられる。
 で、結局、「本人たち」ってなんなのか、ってところだけれど、上演と生の根幹にある、特定の「舞台」に限られない、極めて日常的で匿名的かつ反復可能な形式……それがつまりは伝達をめぐる方法であり、演出であり、社会の構成単位であり、新たな意味での戯曲である、のか……。

 2023/03/16-19

※プレビュー上演は2023年3月15日に「STスポット」にて非公開で行われた。
※引用したテクストは、いずれも2023年3月16日にスペースノットブランクより共有されたプレビュー上演時の戯曲データに由来する。

山本浩貴 Hiroki Yamamoto WebTwitter
1992年生。言語表現・レイアウト。小説や詩やパフォーマンス作品の制作、書物・印刷物のデザインや企画・編集、芸術全般の批評などを通じて、〈私が私であること〉の表現あるいは〈私の死後〉に向けた教育の可能性について共同かつ日常的に考えるための方法や必然性を検討・実践している。主な小説に「無断と土」(鈴木一平との共著、『異常論文』ならびに『ベストSF2022』掲載)、主な批評に「死の投影者による国家と死」(『ユリイカ』2022年9月号 特集=Jホラーの現在)、主なデザインに「クイック・ジャパン」(159号よりアートディレクター)、主な企画・編集に『早稲田文学』2021年秋号(特集=ホラーのリアリティ)。2015年より主宰する「いぬのせなか座」は、小説や詩の実作者からなる制作集団・出版版元として、各種媒体への寄稿・インタビュー掲載のほか、パフォーマンスやワークショップの実施、企画・編集・デザイン・流通を一貫して行なう出版事業の運営など多方面で活動したのち、2021年末をもって第一期終了、現在は山本のみを固定メンバーとした流動的なかたちをとっている。理論・批評の単著を2023年刊行予定。


小説の制作のほか、「いぬのせなか座」のメンバーとして山本浩貴とともに書物・印刷物のデザイン、パフォーマンスの制作を行なう。主なデザインに田恭大『光と私語』(いぬのせなか座叢書3)、主な小説に「すべての少年」、「盆のこと」(『いぬのせなか座2号』)、『2018.4』『六月二一日』(いずれもいぬのせなか座)など。

本人たち

イントロダクション
植村朔也:イントロダクション

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演

本人たち|植村朔也:イントロダクション

 スペースノットブランクの「保存記録」として働き始めてから、この3月でちょうど3年が経つ。この文章は『本人たち』のイントロダクションとして依頼されたものだけれど、いい節目なので、保存記録の活動を振り返る場としても利用させてもらいたい。そして過去に書いたお粗末な『本人たち』評の簡単な修正を試みたい。
 保存記録というのは、写真や映像を撮る人なのではなくて、スペースノットブランクが何をしているのか観測して、わかったことをかたちにしていくということなのだけれど、正直なところ自分にはいまだにほとんどのことがよくわかっていない。
 作家がなにを思ってなにをしようとしているのかは、やろうと思えば稽古場での作家の発言からある程度たどれるし、ちょくちょく作家がLINEで教えてくれることもあったりするから、それをまとめてしまえばいい感じもするが、そんなに単純な仕事ではない。実際、事前に話を聞いていても、スペースノットブランクの舞台を観るといつも呆気にとられてしまうし、なにを書いていいかわからなくなる。その分平気で遠慮なしに稽古場に行ったり作家と話したりしているようなところがある。
 やろうとしていることとやっていることはしばしば一致しないものだ、というのは当然として、スペースノットブランクはコレクティヴとしての集団制作の方法それ自体を制作しようとしているようなところがあるから、作家とか、その意図とかいった概念自体あんまりあてにできない。わたしがスペースノットブランクに書いてきた批評に対して、制作論に終始していて、結果としての舞台については得るところがないという旨の批判が寄せられたことは一度や二度ではない。しかし、そのようなプロセスと結果の弁別の自明視を問題視し、作品を扱う単位としての制作の技法に目を向けないことには、スペースノットブランクの作品の記録としては不十分だと考えてきた。一方で、そうした作品性格が規定する、観客への可能な効果の方向性についても、わたしは書いてきたつもりでいる。
 『本人たち』の最初の作品群(第一期)は2020年9月に、YouTube上の動画と、スペースノットブランクの公式WEBサイト上のいくつかのテキストというかたちで発表された。各作品には「5月31日」などの日付が付されているが、動画概要に「スペースノットブランク『本人たち』の5月31日の映像です」とあることから、この日付はタイトルのたぐいではなく、いくつもの『本人たち』のそれぞれにさしあたりつけられたラベルという感がある。ここでは便宜的に各『本人たち』をそれぞれ同題の別作品とみなしているが、この理解はおそらく正確ではない。具体的な発表時期については動画以外記述がなく、はっきりしない。テキストはクリエーションメンバーの発した言葉を編集したもののはずで、おそらく日付はその発話が為された日を表している。
 続けて、11つのテキストからなる『本人たち』第二期、2つのテキストからなる『本人たち』第三期がある。さらにこの第三期のテキストを使用した、ANB Tokyoでの展示『また会いましょう』がある。それから第二期と第三期の間に、paperCで連載された「本人たちが大阪に行こうとしながらも行かなくなってしまった二〇二二年一月のいくつかの現像」があって、これは写真と短文からなる。このように、『本人たち』のクリエーションは2020年以降、スペースノットブランクによって継続的に行われ続けてきた。
 そして今回、『本人たち』はSTスポットで上演される。しかも、『本人たち』は『共有するビヘイビア』『また会いましょう』という二つの作品を包括した形で上演されることになっているのだ。問題なのは、動画、テキスト、舞台というメディア形式の横断性それ自体ではない。それら諸々の『本人たち』を貫いている共通因子が何であるのか、見当がつけがたいのだ。
 たとえば、『本人たち』の諸テキストを読んでみるとする。第三期6月13日。これは様々な「本人たち」の言葉を収集して、編集したもので、しかしどの言葉を誰が発話したかは曖昧にされているから、ひどく個人的な内容で、本人的な文体を持ちながら、特定の人間に帰属しない、「本人たち」の文章としか言えないものなのだ、というくらいのことは、すぐに言える。しかしこれはスペースノットブランクのほかの多くの作品にも共通して言えることで、作品の特徴としては説明になっていないのである。
 ほんとうはここにリンクを貼ることさえ躊躇われるのだが、過去にわたしが書いた『本人たち』評はひどい出来で、やはりこの誤りを犯している。そこでは作品は「過剰な多声性=非個体性と過剰な本人性=個体性によって、一層強く鑑賞者の想像力を喚起し」、そのことでオンライン演劇の悪条件も乗り越えられると言った旨のことが書かれている。
 言い訳をすると、わたしはもともと舞台批評家を志していたわけではなくて、「保存記録」の仕事は経験の浅いままに見切り発車で始めてしまったところがあるので、初期の評はそのほとんどが的を外しているし、執筆のスタンスも悪い意味で安定していない。いくらかまともに、方法的に書けるようになり始めたのは、2020年の暮れの『光の中のアリス』から、2021年の『ささやかなさ』にかけての時期のことで、それまでの評は素人同然である。保存記録の産物という都合上簡単に消去できないのが歯がゆいのだが、一度まとまった時間を取って、これまでの評を抜本的に書き直す必要を感じている。
 『本人たち』の共通因子のつかみがたさに話を戻す。厄介なことに、スペースノットブランクはタイトルをてきとうにつけているのでもない。今回『本人たち』の部分集合として上演される『共有するビヘイビア』は、過去に二度上演されたのち、『クローズド・サークル』への改名を経て再上演された作品である。それが、再度『共有するビヘイビア』へと名前を戻されている。
 つまり、ステートメントと照らし合わせても毎度不可解なスペースノットブランクの上演(というのはいくつかスペースノットブランクの作品を観て確かめてもらうほかないが、ほんとにそうなのだ)のそれぞれは、しかし特定の名によって束ねられて他から区別されるに足る相応の共通因子を時に有しているはずであって、そしてわたしの見立てでは、それがそれらの上演に固有の問題構制を示している。命名は舞台の制作と上演に先行しているから、実際に上演される舞台がこれら問題構成に還元しきれない過剰を産出していくことは当然として、しかしなおスペースノットブランクの批評においてはこれらの名の根拠を問う必然性がある。というのも、作家性というのは、作家の天才とか人間的個性というよりは、特異な問題構制を追いかけていくことの効果として事後的に見出されることがしばしばであって、制作の主体概念を問いに付してきたスペースノットブランクの舞台について、単におのおのの観客のうちに生じた効果を記述するのにとどまることなく、なんらかの共有可能な言説を打ち立てようとするのであれば、まずはここから始めるほかないからだ。問いは名とともに繰り返される。その問いをくり返し問うていく作業をわたしは自身の仕事と定義している。それが定点観測的にスペースノットブランクの作品を絶えず追いかけていくことの意味だと考える。結果的に、その文章は作家のステートメントに準拠したナイーブな意図主義的批評のように読まれているかもしれないが、少なくともここしばらくのわたしの仕事はそう単純なものにはなっていない。
 ところで、この依頼された「イントロダクション」は、『本人たち』本番がどうなっているのか全然知らないままに書かれている。だからわたしには『本人たち』の問題構制については仮説を立てることしかできない。それでも見立てはあるのであらかじめ書いておこうと思う。
 これまでのスペースノットブランクのテキストは、稽古場で出演者と演出者が場を共有するなかで、そのやりとりから生成され編集されてきた。対して、『本人たち』第一期の2020年というのは、このような場の共有が不可能になるような制作状況であった。この結果、場やそこでの関係性よりも「本人たち」が前景化してきたのだろうということは言える。場所性の強い印象を帯びた『クローズド・サークル』の題が退けられて『共有するビヘイビア』の言葉が回帰してくることもここから説明できる。
 あるいは、これまでスペースノットブランクのステートメントに登場してこなかった「戯曲」という言葉にも注目される。スペースノットブランクはどのようにこの「戯曲」概念を定義していて、それがいかに『本人たち』の上演性格と結びついているのかは当然問われていい。
 さて、批評が読まれないことを批評家が嘆くのは野暮の最たるものだが、スペースノットブランクについて他人が論じた文章で、わたしの評を参照したものがこれまでないのには、正直不満がある。議論がぜんぜん進んでいかないからである。スペースノットブランクについては、わたしはやはり純粋な批評家というよりは保存記録として書いているので、誰かの議論にいつか役立つようにと思って記録してきた。曲がりなりにも3年にわたって執筆をつづけてきた以上、批判的に言及するくらいの価値は誰かに認めてもらわなくては困るのである。だから今回、保存記録の仕事についての所感を赤裸々に書いた。
 スペースノットブランクは近頃みずからさまざまな書き手にオファーを出し、レビューを募っているが、それらが相互に参照する気のない複数であることには疑問がある(わたしが近頃批評の掲載を戦略的に遅延させている一因はここにある)。今回のスペースノットブランクはオープンコールでレビュアーを4名も募っている。だからわたしも恥を捨ててオープンに呼びかける。どうか誰か次の問いについて議論を進めてほしいと思う。そのようにしてこの文章は導入たらんことを目指す。実際のところ、『本人たち』はいったいなにをしているのだろうか。

植村朔也 Sakuya Uemura
批評家。1998年12月22日生まれ。千葉県出身。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの保存記録を務める。過去の上演作品に『ぷろうざ』『えほん』がある。

本人たち

イントロダクション
植村朔也:イントロダクション

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演

内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって

 2022年の京都エキスペリメント公式作品として上演されたスペースノットブランク(以下、スペノと表記)による『再生数』(作・松原俊太郎)を、ロームシアター京都・ノースホールで見た。後述するように、「見た」という表現が正しいかどうか、この作品にかぎっては、実はよくわからない。
 いつものスペノ作品同様、わたしにとっては「わけがわからない」内容だった。公式パンフレットには「スクリーンに映されたドラマ、これは映画か演劇か」という基本コンセプトが書いてあり、上演はまさにそのコンセプトのリテラルな実現だったとひとまず言っておける。舞台上に大きなスクリーンがひとつ据えられていて、作品のほとんどはそのスクリーンに映る映像を見るということになっていたのである。ただし、録画映像とライヴ(中継)映像のスイッチはなかったと思われ──ライヴ映像のなかで、スクリーンにプロジェクションされた録画映像を参照するシーンはある──、固定または手持ちの撮影用カメラを通し、上演は客席のスクリーンに〈届けられた〉。上演が展開する具体的な場所は、地下二階に位置するノースホールのホワイエに加え、ふだん観客は立ち入れない舞台裏の空間や楽屋などで、そこを俳優とスタッフたちがスピーディな動きをふくめて移動しつつ、作品は進行していった。
 スクリーンに映し出される映像の構図やカット割りはすべて事前に決定されていたようで、俳優たちは、その構図・カット割りのシナリオに沿って、いわばライヴで〈映画〉を上演/上映していく。ある台詞であるカメラを見たかと思うと、次の台詞ではその反対側にあるカメラを見て話す。また別の場面では引き気味のカメラが遠くの俳優たちを映し出す。そういう具合で、映像はディゾルヴやカットは多用せずに絶妙なスイッチングを経ながら継続していく。四人の俳優が全員収まっているカットから、次には二人、あるいは一人が、俳優の顔が交互に、それぞれクロースアップされる映像になるといった一般的に映画では当然の「画面作り」を想起させながら、上演/上映は続いていった。と同時に、「ネタバレ」ならぬ映画撮影の形式性の可視化というと大げさだが、そもそも意図されているのだと思われるが、撮影するカメラやそれを操作するスタッフの姿は比較的無造作に画面に映り込むことも、場合によっては許容されていた。ここ、、は映画の撮影現場?それとも映画の〈中〉、はたまた映画の撮影現場の〈外〉、あるいは映画の〈中〉の〈外〉?
 観客はと言えば、劇場の客席に普通に座ったまま、いつかは演劇の上演、つまりは劇場空間/舞台でのライヴの公演が始まるだろうなあという淡い期待を抱かされたまま、ほぼ常時、スクリーンに映写される映像内で展開する「撮影のプロセス」=戯曲に書かれたなんとなくの物語の進行、、、、、、、、、、、に見入ることになる。ただ、ときおり劇場内のスピーカーを通して聞こえてくる音声と、それと重なってライヴでかすかに聞こえてくる「元」の音声(=壁/ドア越しに聞こえる生声)に聞き入ったりすることもできる。さらに、俳優の動きを映像で確認しつつ、いわば気配として、客席内でその動きをなんとなく、、、、、感得したりもする。ノースホールの客席外の構造を知っている観客であれば、今スクリーンに映っているのはホワイエだとか、舞台袖だとか、楽屋だとか、なんとなく了解できる、といったような、きわめて特異な経験をすることにもなる。そして、上演中、三度ほど、生身の俳優が舞台上に登場することで、ああ、わたしたちは演劇の上演にたちあっている(かもしれない)と妙に納得したりする機会も与えられる。
 タイトルの「再生数」は松原俊太郎による戯曲のテーマであるだけでなく、ここまで見てきたように上演/上映の原理的属性に言及もしている。つまり、これは、〈映画で演劇〉なのだが、ここでいう映画には、ライヴ配信で再生数を稼ぐ、、、、、、、、、、、、というYouTube的視覚文化の領域内にある「映画」という意味合いも組み込まれている。必要十分条件を満たしたいわゆる映画、つまり、空間の移動あり、屋外ロケあり、日時の変化ありというより、YouTuber(でなくてもよいが)のゲーム実況に近い意味での「映画」という側面ここにはある。ただし、このゲーム実況は即時的にはインターアクティヴではなく、視覚音声情報は、一方的に上演する側から観客に向かって発出されつづけるだけである。観客にとっては、イマーシヴではないし、相互交信(交通)なるイリュージョンも、基本的にここにはない。観客は異化もされないが同化もできない。映画ではないのに映画を見ることに、あるいは、同じことだが、演劇ではないのに演劇を見ることに、ただただ自覚的になっている自己の意識を〈見る〉だけである。
 つまり、この上演は映画や演劇の形式をあえて問題化するといったようなモダニズム的な心性とは無縁だが、かといって、それらの形式と戯れてみせるといったポストモダンの〈身振り〉とも関係がない。それは何より、松原のテクストが、同時代の視覚文化とわたしたちの身体と心を貫く多層で錯綜する問題性を、〈極細のより糸〉としか呼べないアクチュアルだったりリアルだったりフェチだったり文学的だったり歴史的だったりする〈動機=モチーフ〉として言葉として群れさせ、、、、、、、、、つつ、「これは映画の撮影です」といううっすらしたナラティヴを基底/支持体として、縫い合わせるという時間的/空間的ドラマトゥルギーを実装させるからである。だから、最初に書いたように、「わけがわからない」が、正しい感想である(とわたしは思う)。
 たしかに、俳優自身ではなく登場人物はいる。戯曲テクストでは、衣装を含めて、以下のように書いてある。

 登場人物
 ピース 観客/無地
 ノン/黒子 観客/無地

 ミチコ 子ども、大人/スポーツウェア
 フフ 子ども、動物/ドレス

 武 責任者/スーツ
 翼 ニヒリズム/ジャニーズ
 (戯曲テクストより)

 そして、時間が経過するにつれ、シスターフッド(ミチコとフフ)、映画/演劇の現場における監督的/家父長的暴力/権力(武と翼)、〈映画〉にも〈映画の外〉からも、二重に不可視化/疎外化された存在(ピースとノン)などと、乱暴に主題を取り出してしまいたい誘惑──上演ではわからない可能性もあるが、松原が登場人物に与えた、上で引用した固有名がまさにそうした〈立ち位置〉を指し示していたりもする──に駆られるような人物たちの言動と行動がそのテクストに書き込まれている。
 さらにそこに、死と再生(映画/演劇の終演と新たな開始)といった古典的なテーマ性は、ネットでの再生という同時代的意味が付加されることもあって、〈終わり=死、、、、、から、、始まり=生、、、、、までのインターヴァルが極小化している、、、、、、、、、、、、、、、、、、──そして、極小化してこその再生数稼ぎである──事態へも、松原によって当然拡張されている。はたまた、特定の映画作品だけでなく、多様な映画のジャンル的特性──アクション映画、メロドラマ映画、アート系映画──の引用/援用/使用が、テクストのレベルと上演のレベルに埋め込まれて/ちりばめられてもいる。
 なので、結果的であれ、情報過多になってしまって「わけがわからない」のだから、上演の「いま、ここ」に身を浸し/意識を埋没させて、その瞬間瞬間に生起する視覚イメージや俳優の身振り/表情/汗や、見事なカメラワークや、俳優が語る言葉が喚起する情動や思考を、それはそれとして、場当たり的にその一瞬その一瞬で感受し、反芻したり忘却していればすむといえばすむ。すむというのはダメという意味ではなく、すませるほかはないように、この上演はできている。だから、やっぱり「わけがわからない」のか?

 さて、タイトルに示したメタモダニズムというもしかしたら聞き慣れない読者が多いかもしれない語がある。別件でたまたま読んでいた研究書で見つけたのだが、どうやら2010年くらいから使われていたらしい。「メタ」ではあるが、モダニズムとポストモダニズムのあいだを行ったり来たりする、右往左往する──もちろん、あえて、、、──といったイメージでよいだろうか。肯定的に言えば、いいとこ取りである。たとえば、わたしがこの語を知ることになったダニエル・シャルツは次のように説明している。

 ここ〔引用者註:メタモダニズムの諸実践〕において意味は、もはや集団としての大勢の観客のために生成されるのではなく、個人単位で生成されるのである。メタモダニズムは、パロディでもノスタルジーでもない、誰もがフェイクであることを知っていながら純粋にオーセンティックである経験を可能にするのである。ここが肝心なのだが、観客はフェイクやシミュレーションという概念、さらにはパフォーマティヴな自己を自覚しているからこそ、このフェイクな状況の中でオーセンティックな経験を得ることができるようになったのである。モダニズムが観客に課した能動的であると同時に受動的であるという分裂と、ポストモダニズムが観客に与えたあらゆるリアリティの喪失を、観客が交渉させてきたように思われるのである。i

あっ、『再生数』の話だ、とわたしは単純に思ってしまった。フェイクは日本語に入ってきたが、その反対語のオーセンティック(真正な)はそうなっていない。「リアル」とか「アクチュアル」とか近似のカタカナ語があるからだろうか。フィクションだとわかっていながら/いるからこそ、むしろ真正な経験(という感覚)が可能になるといったようなことになる。しかしそれは、集団的ではなく個人個人で異なるものとしてある。

 メタモダニズムでは、すべての意味と真実は個人的なものである。そのような経験には、真正性(authenticity)と親密性(intimacy)のメカニズムが極めて重要な意味を持つ。メタモダン演劇は、個人主義的で、親密で、個人レベルではあるが、純粋にリアルである。それは、観客のオーセンティックな経験への渇望を知り、それに応えるものである。ii

ことほどさように、『再生数』を見た観客は同じ経験をしたとはとうてい言えないようになっている。これまでのスペノの、松原俊太郎の、参加俳優についての、予備知識の量や質が観客ひとりひとり異なるといったような意味ではない。異なるのは当たり前で、それは「ふつうの演劇」でも同じことだ。しかし「ふつうの演劇(近代劇/モダニズム的演劇)」は、そういう異なる前提や予備知識とともに劇場を訪れる観客に、共有可能な共通の経験を与えて、観客をあるまとまった集団として主体化しようとする(「能動的であると同時に受動的」)。「一体感」や「感動」で観客席が盛り上がる。他方のポストモダニズムは、共有可能性や共通の経験なるものは、「フェイク=構築されたもの」だとして批判するが、オルタナティヴを与えることがなく、断片や分断やフェイク性をまんま、、、放置する。
 したがって、前者であれ後者であれ、どちらがデフォルトである観客も、『再生数』にたちあうと「わけがわからない」で思考停止する可能性が高い。しかし、観劇態度が習慣化して硬直していないふつうに日常生活を生きている、、、、、、、、、、、、、、観客であれば、『再生数』のさまざまな瞬間にさまざまな情動・感覚・思考を喚起される。身につまされるとか、「あるある」とかいった通俗的な応答もありえるが、そのような通俗的な応答を喚起しないように『再生数』は作られていて(とわたしは思う)、なにかもっと、そう、真正なもの、、、、、、としか呼べない情動・感覚・思考をもたらしているのではないか。
 そのためには、逆説的に聞こえるかもしれないが、「親密さ」という要素も重要である。ここでの「親密さ」は、シャルツ的には字義通りの距離の近さや少人数の観客──場合によっては一対一のパフォーマンス──のようなイメージなのだが、『再生数』の親密性は、映像での俳優のクロースアップという逆説的な親密性、、、、、、、──通常の演劇では、俳優の顔をクロースアップで見ることはできない──と、まったくその逆に、直接俳優に触れる可能性を原則的には排除している中継による映像、、、、、、、中心の上演という方法によって、もたらされる。
 こうやって『再生数』をメタモダニズムと呼んでみたところでなにかが起きるわけではないのだが、少なくとも「わけがわからない」まま忘却することにはならないのではないか。言い換えれば、「わけがわからないけどおもしろい」(!?)でおしまいではなく、「わけがわからないから感覚的・知的反芻の持続が必然になる」と、わたしは勝手に思っているのである。
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i Schulze, Daniel. Authenticity in Contemporary Theatre and Performance (Methuen Drama Engage) (p.58). Bloomsbury Publishing. Kindle 版. 和訳は引用者。以下同様。
ii Ibid. はじめてこの語を使ったのはVermeulen, Timotheus and Robin van den Akker. “Notes on Metamodernism,” Journal of Aesthetics & Culture 2 (2010): 30 July 2012であるらしい。

内野儀 Tadashi Uchino
1957年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年より学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲』(1996)、『メロドラマからパフォーマンスへ』(2001)、『Crucible Bodies』 (2009)。『「J演劇」の場所』(2016)。公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。「TDR」誌編集協力委員。

再生数
『舞台らしきモニュメント』と『再生数』の映像配信を行ないます。

批評
佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて
内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって

佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて

 スペースノットブランク(以下スペノ)のウェブサイトの『舞台らしきモニュメント』の作品紹介には、次の一文がある。「「在る物」としての舞台を「現れる物」としてのモニュメントに代置し、上演(時間)と舞台(空間)の関係を見直そうとする純粋舞台」。いつもながらスペノは自分らがやっている/やろうとしていることの言語化能力が高い。書かれてある通りの作品であることは上演を観れば明らかであり、だから以下の拙文もこの一節への個人的なコメントというか、持って回ったパラフレーズにしかならないのかもしれないが、このユニーク極まる「舞台」について、幾らかのことを述べてみたいと思う。
 そう、ここで問題にされているのは、何よりもまず「舞台」である。舞台とは何か? それはどこにあり、何をする/何がなされるものなのか? つまり「舞台」の成立条件とは何か? これとは別に「劇場」という言葉があり、実際、作品中でシアターという語も発話されるのだが、「劇場」じゃなくて「舞台」だというのは、前者がどちらかといえば場所や建物を想起させがちなのに対して、後者はもう少し抽象性を帯びているからだろうか。「上演(時間)と舞台(空間)」とあるが、「舞台」とは「時間」と「空間」における「上演」と呼ばれる行為=現象の生起/生成だと言ってもよいかもしれない。この「時間と空間」は理念的なものだが、その都度、具体的現実的な「今、ここ」でリアライズされる。いやこれでは何も言ったことにはならない。何らかの意味で準備された──それは「稽古」と呼ばれるプロセスのこともあればもっと緩い設定や前提のこともある──出来事があるとして、それを「舞台」たらしめる要素とは、おそらく「(ダンスなども含めて)演る者」と「観る者」の二項であろう。私が鏡の前で台詞を言っているだけでは「舞台」とは呼べないし、観客だけで演者がいなければ「舞台」にはならない、と思われている。だが観られている者たちには演じているつもりなど毛頭ないのに、そこに「観る者」がいれば、それも一種の「舞台」と呼べなくはないし、観客が自ら演者に変態するという仕掛けもあり得る。公園のベンチにひとり座って、目の前にひろがるひとびとの様子を「舞台」のように/として鑑賞する、ということは可能だ。だからこの話に限らず、そこに広義の「観客」が存在していれば、そこは一種の「舞台」なのだという強弁がしばしばなされるし(それは「音楽」の「リスナー」についても同じである)、私も基本的にはその立場なのだが、それは私が「観る者」であるからであって、「演る者」の側にいるスペノが根本に立ち返ってあらためて問おうとしているのは、観客がいるいないとはまったく別の次元で、その時そこで起きるそれが厳密な意味で──そう、ここで重要なのは或る種の「厳密さ」なのだ──「舞台」になるのかどうかの線引きは如何にしてなされるのか、なされ得るのか、ということになるのではないか。すなわち、演る側と観る者が特定の同じ空間に居るのだからそれだけでもう「舞台」なのだというくだらない常識とはきっぱり縁を切って、そこで何が起きていれば「舞台」になるのか、を問うこと。
 始まるなり大須みづほと古賀友樹が「なんですか」を互いに連呼し、観る者はなんですかとはなんのことかとしばし訝しむのだが、すぐにいちおうの答えは与えられる。「これが舞台です/なんですか」「この舞台は二人で舞台をしています」。あとでもう二人出てくるが(奈良悠加と平野光代)、まだこの時は二人だ。しばらく後に、こんなやりとりがある。

舞台は どこでも成り立つんじゃないか
別なんじゃないかな
例えば ポスターが貼られていて ポスターって認識した時に ポスターはある種の舞台なんじゃないかな
(中略)
舞台って どこでも舞台になる
舞台ってなったからには舞台になります
意図してても 意図してなくても そういう役割になってしまう
舞台の終わりは まず脱線から入る
最初は舞台から入りました 何を話すべきか迷っていて うーん うーん うーん 伝えたいことは山ほどある
なんですか
今 何一つ言葉を発せない状況にいて 「わたし」 だけが何かを伝えることができて そしてそれが舞台だということ ここに 「わたし」 は驚きを持ってまして これこそが舞台なんです 乱暴です これが舞台  街で何が舞台ですかって訊かれたら これが舞台です 言うしかありません だからここで伝えられるのは何もない なぜならこれが舞台だからです 世界の終わりと似てる

 こんなことが舞台らしきそこであからさまに語られてしまう。ほんとうにスペノは自分らがやっている/やろうとしていることの言語化能力が高い。こんなのに何を付け加えたらいいのか。たとえば「舞台らしきモニュメント」を「演劇らしきドキュメント」と単純素朴に言い換えてみる。ドキュメントは記録、モニュメントは記念碑。ドキュメント演劇という言い方があって、それは何らかの意味や方法による何ごとかの「記録ドキュメント」を「演劇」として提示しようとする仕立てのことだが、それとはちょっとというかだいぶ違っていて、今まさに演じられているそのそれ自体を現在進行形の「記録」として、あるいはいつかどこかで演じられた何かの「記録(記憶?)」として、その時その場で演じてみせるという再帰的なループ構造。モーターだけがあって駆動される機構のない空洞マシン。だが俳優は覚えていて稽古もした「台詞」を言っているのであって、勝手にたわ言をくっちゃべってるわけではない。演じているということを演じているということを演じてみせているというメタメタ無限循環。とはいえ物語がないわけでは、物語られるものが何もないということではない。ある。それはたぶん確かにあるのだが極めて稀薄で微弱であり、掴もうとすると、摘もうとすると、雪片のようにあっけなく溶け去ってしまう。この感じはベケットの「物語」に似ている。モロイとかマロウンとか名無しとか。おそらくここにドキュとモニュの違いが関与してくる。記念碑モニュメントとしての「演劇」。墓でもアーカイヴでもなく、一回性の現前としてのみ立ち上がる「碑」としての「舞台」。いまだ「舞台」ではないものどもがみんなで頑張って遂に「舞台」になるまでを物語る感動的なストーリー。話を戻すと、だから「舞台はどこでも成り立つんじゃないか」「別なんじゃないかな」というのは本当にそうで、なるほど「舞台」はいつでもどこでも成り立ちはするだろうが、なぜか成り立たないこともあって、それは仕上がりとか完成度の話ではなく、そこには何かの回路というか鍵穴というか目盛みたいなものが存在しているのだ。それをスペノはどうにかして探り当てようとしている。そして実際、それは、すなわち「舞台」は、そこは最初から舞台であるのにもかかわらず、上演中、何度も空中楼閣のように浮かび上がってきてはあえなく崩壊し、再び三たび組み立てを開始するのである。「この舞台は体当たり三回ぐらいやってすごい大爆笑みたいな舞台です」。また終わるためにこそ、また始めなくてはならないのだ。
 スペノはドキュからモニュへと「上演」の位相を移動させた。どこでも成り立つはずの「舞台」の、そうであるがゆえの今日的な困難、もはやほとんど誰もわざわざ問題にしようとはしない、だがしかし実のところますます難しさを極めていっている難題に敢然と挑戦し、これ「は」舞台ですと当たり前のことを宣って済ますのではなく、これ「が」舞台ですと言えるにはどうすべきか、にひとつの答えを示してみせた。それはいつもながら頼もしくも勇気ある営み/試みであり、このようなかくも原理的な問題を、かくもアクチュアルに、かつかくもチャーミングに処理してみせた才気と手腕に、今更ながら感嘆の念を禁じ得ないのであった。

佐々木敦 Atsushi Sasaki Twitter
思考家。作家。HEADZ。SCOOL。その他。著書多数。広義の舞台芸術にかんする著作として、『即興の解体/懐胎』『小さな演劇の大きさについて』など。近刊として、児玉美月との共著『反=恋愛映画論』、三年ぶりの映画論集『映画よさようなら』など。

舞台らしきモニュメント
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