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松井周と私たち|レビュー|越智雄磨:「何」がそれを語らせているのか?:『松井周と私たち』レビュー

越智雄磨 Yuma Ochi
東京都立大学人文社会学部准教授。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員。博士(文学)。専門はフランスを中心としたコンテンポラリー・ダンス研究。早稲田大学演劇博物館においてコンテンポラリー・ダンスに関する展示「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」(2015-2016)のキュレーションを担当。著書に『コンテンポラリー・ダンスの現在─ノン・ダンス以後の地平』(2020)がある。

 「誰が話そうが構わないではないか」。サミュエル・ベケットの言葉である。
 『松井周と私たち』を鑑賞した後に、頭を巡っていたのはこの言葉だ。私にとって、この作品で最も印象に残ったのは、「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」というコレクティヴ(あるいは概念?)の創作姿勢である。
 冒頭のベケットの言葉は、ミシェル・フーコーが『作者とは何か』の冒頭で引用していることでも知られる。フーコーはこの本の中で従来の「作者」の概念を解体し、「機能としての作者」という概念を提起しているのだが、その新たな作者像を表す言葉としてベケットの言葉を引用した。つまり、「作者」の座にいるのは従来の習慣的な意味での作者ではないし、話の語り手として特定の人物が設定されているわけではない。そこでは、言葉をまとめあげる機能として、新たに「作者」の座が設定し直されているのである。「スペースノットブランク」が舞台芸術という分野において試みているのは、まさにこの「作者」の座の変更のように見える。

 原案となったジェローム・ベルの『ピチェ・クランチェンと私』の構造と同様に『松井周と私たち』において、スペースノットブランクの2人と松井周は、相互にインタビューをする形で上演を進めていく。その過程で際立つのは、両者の創作方法、創作に関する観念の違いである。
 前半は、主にスペースノットブランクが松井周に対して質問を投げかける。名前、結婚しているのか? などの質問から始まり、なぜこの職業を選んだのか? という問いによって、松井の幼年時代の話、嘘をつくのが好きな子供だったという、自伝的な話が引き出される。劇や演技の根源として存在する「嘘」という視点から展開される松井のエピソードの数々はそれ自体魅力的であり、またこの作家の特異性をよく示している。
 捕捉的なことになるが、今回の上演を見ていて改めて気づいたのは、この質問、インタビューという上演形態は、舞台芸術というエフェメラルに過ぎ去っていくものを歴史の中にピン留めするような作業を伴うということだ。ともすれば十分に言語化されないままに、ただ多くの作品が消費されていくことは、舞台芸術の根源的な課題の一つと思われる。作品の量に対して批評や言説の量は圧倒的に少ないからだ。この上演が持つ構造は、出演する作家や過去の作品を振り返り、文脈化する機能を持っている。少なくとも、私にとって、この公演は松井周とスペースノットブランクというアーティストやその作品について理解を改め、よりよく知る機会となった。その意味で、過去作品の単なる反復以上のものである。
 松井周の話は、大学時代に唐十郎や寺山修司の活動を知り、卒業後に平田オリザに出会い、そして作家として独立していくことへと進んでいくが、この語りは、既に一筋の日本の演劇史を織り成している。そして、このある種のオーラル・ヒストリーには学術的な演劇史書では記述され得ないディティールに満ちている。大学卒業後に平田オリザの青年団で活動を始めるものの自分で戯曲を書くのに10年を要したというエピソードは、ポスト平田世代の作家にとって、平田オリザが作り出したパラダイムから脱するのがいかに困難だったかを物語っている。松井によれば平田のような「本当ぽい嘘」ではなく、確率としては起こりそうもないことの方向に筋を展開させることでようやく戯曲が書けるようになったという。そのようにして出来上がったデビュー作が駒場アゴラ劇場で上演を迎えた『通過』だった。劇作家協会の戯曲賞において最終選考にノミネートされたものの、「とても気持ち悪い」「愛を知らない」「このシーンは再現できない」と評された審査委員たちの言葉や、初演を見た家族たちが家族会議で発言した「周はどうしてああなった?」という言葉も松井によって語られる。
 そこで、中澤は松井に対して、その劇の「気持ち悪い」と言われた一部を再現してみてほしいという無茶振りを投げかける。戸惑う松井に対して、「できないんですか? やったんですよね?」と質問は強めの詰問に変わり、松井が応じるという場面もあった。質問という他者への関わり方が、「力」を持つことを大いに感じさせる場面である。この「力」は両義的で、他者を窮地に陥れる暴力性を持つとも言えるし、日常的な上下関係を反覆する力を持つとも言える。私自身はこの場面を見て笑ってしまったのだが、それはまさにこの質問が持つ転覆する力によるユーモラスな関係の変質に感化されたからだ。同時に松井に対して気の毒な思いも生じたが、流石といったところかそれに応じるところに松井の懐の深さも感じられた。
 松井という先行世代のアーティストに対するスペースノットブランクの普段からの関係を知っているわけではないが、公演の過程で、松井は51歳、スペースノットブランクの2人は31歳であることも明らかになる。日常的に作動しうる他者、とりわけ年長者に対して生じそうな遠慮や憚りを「質問」という形式はよくも悪くも無視することができる。あるいはこの相手の意向を無視する力はジェローム・ベルの原案が持つ作品の「構造」を反復するという芸術上の選択によって可能になったと言えるかもしれない。
 その後、人間は演劇・舞台という枠組みに関係なく冠婚葬祭のような場面でも演技を行っていること、身体の置かれた環境や身体がどのような態勢をとるかによって、振る舞いが変化すること、この上演のなかにあっても演技しているということ、反対に演技していない時間はないという松井の演劇観・演技観が語られる。
 「芸術や表現において信じているものは何か?」と問われた時、松井は「芸術はネガティヴな衝動を形にすること。汚いもの、摩擦を露呈させるもの」という自身の芸術観を語る。そうした語りを聞くうちに、松井が作家として書こうとし、舞台化しようとするものは、特殊な状況下に置かれた人間の「気持ち悪い」と形容される「変態・トランスフォーム」ということが分かってくる。
 後半は、主に松井からスペースノットブランクの2人に対して質問が投げかけられる。名前、年齢、カンパニー名の由来、小野と中澤の役割、彼らは自分の仕事を何だと考えているのか? などの質問である。スペースノットブランクの回答によれば、2人の役割は特になく、便宜的にコレクティヴと名乗ることもあるが、そうは思っていないこと、「スペースノットブランク」とは、小野と中澤が2人で揃うと現れる概念のようなものであり、演劇やダンスといったジャンル区分に関係なく「舞台芸術を創る作家」「シアターメイカー」と自認しているといったことが語られる。この後半パートによって、松井とスペースノットブランクの間にある様々な差異が明瞭になってくる。自らの職業を「劇作家・演出家・俳優」と述べた松井との「舞台芸術」の観念も創作方法も異なることが次第に際立ってくる。
 質問と回答は松井に対して投げかけられたものと全く同じという訳ではない。とりわけ、気になったのは、意図的にそうなっているのか、無意識的にそうなったのかは判断できないが、松井が自伝的なエピソードと結びつける形で「劇作家・演出家・俳優」へとなっていく自らの経歴を語っていたのに対して、スペースノットブランクの語りにはそうした要素がほとんど現れないことだ。どのようにして舞台芸術を創る道を選んだのか、その点については明らかにされない。つまり、自らの履歴の晒し方において双方の語りは対称的に形成されている訳ではない。このことに対して解釈は二つありえる。一つ目の解釈は、この上演をコントロールする主体が「松井周」ではなく、小野と中澤という「私たち」であり、『ピチェ・クランチェンと私』に対する批評に見られたように「私」という主体が「力」を行使して、対象の行動や見え方を制御しているという見方である。もう一つの解釈は、松井とスペースノットブランクの「作家性」の違いによって自然に現れた双方の「回答」の仕方に差異が生じたのではないか、というものだ。少し迂回する形になるが、この解釈の可能性について考えるために、スペースノットブランクの創作についての語りを確認しておきたい。
 小野と中澤は自らの二つの創作方法について松井に説明するが、松井の創作方法とは明確に異なる。一つ目は「聞き取り」という方法である。2人は、松井が自らの職能の一つとして述べた「劇作家」に依ることなく、テキストを生み出す方法として「聞き取り」を考案したという。様々な題を設定して、それについて特に劇作家ではない上演の参加者から聞き取った言葉を構成して、上演のためのテキストを作り出す方法である。
 もう一つは「フィジカル・カタルシス」という動きを作り出す方法である。こちらも動きを創る作家としての「振付家」の存在に依ることなく、上演の参加者から動きをつないで作り出すというものである。「フィジカル・カタルシス」は、動きを「ミュージック」「リプレイ」「フォーム」「ジャンプ」「トレース」という5つのフェーズに分解した実践らしい。この上演では「フォーム」が実演された。舞台では小野が「動く彫刻」のように、短い動きのフレーズを繰り返し行い、その動きから特徴的な一部を松井が受け取り発展させ、またその特徴を中澤が捉えた動きを行い、その動きをつないでいくというプロセスが行われる。
 松井が「芸術や表現することにおいて信じているものは何か?」と自身にも尋ねられた質問を投げかけると、中澤は「『他者』が存在している構造、他者がいないと成立しないもの」と答えた。実際、スペースノットブランクが紹介した「聞き取り」「フィジカル・カタルシス」という方法は、特定の作家だけでは成り立たず、複数の人間がいて成立するものである。それに対して、松井が「アーティストはエゴがあって表現するという考え、信仰もある」というアンチテーゼを示す(誰がこの発言をしたかには記憶違いがあるかもしれない。それこそ「誰が語ろうが構わない」ことなのかもしれない)。
 松井は作品に「他者」を描いていない訳ではない、と思う。しかし、ここで言われる「他者」は創作体制の次元における他者のことであり、松井とスペースノットブランクの「作家性authorship」の考え方の違いが露わになる点である。松井の劇作は、松井というアーティストの固有名と分かち難く結びついているが、スペースノットブランクの劇作、というより舞台作品は、この上演での説明を聞く限り、誰かが語ったこと、誰かが動いた動きによって構成されているのだ。『松井周と私たち』で語られることからは、スペースノットブランクの作品において、特定の劇作家の言葉にも振付家の指示に従うでもなく、「誰が話そうが構わない」「誰が振り付けようが構わない」という精神に貫かれており、劇作家や演出家を頂点とする従来的な舞台芸術の創作体制を脱ヒエラルキー化しようとしているように見える。松井とスペースノットブランクの違いは、「作品」をオーサライズ(authorize)する主体の在り処、位置付けの違いにある。
 このように見ていくと、松井の語りと比して、なぜ小野と中澤の語りの中には自伝的要素がほとんど見られなかったのかを理解する一つの道筋が見える。たとえば、かつてロラン・バルトが提唱した「作者の死」というテーゼがなぜ挑発的だったかというと、彼がそのように言うまで、作品・テキストとというものはそれを生み出した作者の人生に分かち難く結びついているものであり、文学的テキストを解釈する作業には、作家のバイオグラフィを探査することが必然的に伴っていたからだ。しかしバルトは周知のように、テキストと作家を分離して、作家の人生や意図、決定とは分けてテキストを解釈することを提案した。そうなると、従来、「作者・作家」の座につくのはきわめて人間的な存在、ロマン主義的な主体が想定されていたが、「作者」とはむしろ作品を産出する上で、多様な情報を統合する「機能」あるいは経由する点という見方が生じる。冒頭にみたフーコーの「機能としての作者」はバルトと同時代的な見方から現れた作者像だと言ってよい。
 「聞き取り」というシステムについて、松井は自分も「使ってみたい」と述べ、スペースノットブランクは「ぜひ使って欲しい」と述べていた。この発言は、スペースノットブランクの創造における中心的な関心が、作品の内容というより作品を生み出すシステムにあることに由来する。小野と中澤は、自分たちがいなくなってもスペースノットブランクの生み出した創造のシステムが残存し、誰か別のアーティストにそれを利用してもらうことを願っていた。脱作者中心的な考え、「機能としての作者」という志向を持っているからこそこうした発言が出てくるのだと考えられる。
 しかし、このように自分で書いておきながら、何かが引っかかる。ある意味、1960年代末に現れた作家論を反復するように、モダンな作者像とポスト・モダンな作者像という対比的な見方を松井とスペースノットブランクの関係に当てはめることは妥当なのか? と問う必要もあるかもしれないと思い始めた。原案の『ピチェ・クランチェンと私』にしても、東洋と西洋を分割する二項対立的な図式に依拠しない見方はできないものだろうか。文化にも混じり合いがあるように、二項対立的に捉えられる「自己」と「他者」という存在もまたきれいに分割できるものではなく、互いの自己像を互いに投影しながら、混じり合う部分を持ち始める存在でもあるはずだ。
 終幕時、私はスペースノットブランクにこう尋ねてみたいと思っていた。なぜあなたたちは「『他者』が存在する構造」を必要と思ったのか? それが必要だとたどり着くのにどのような道を歩んできたのか? というバイオグラフィカルな問いである。構造と機能を志向するクールなスペースノットブランクだからこそ、上にみたバルトの見解を逆行するようだが、2人のロマン主義的な語り(histoire)を聞いてみたくなったのだ。「何」が彼らにそう語らせているのだろうか? 時代なのか? 社会なのか? 世代なのか? 個人的な経験からなのか?
 どうやら私自身、スペースノットブランクが画策する「他者が存在する構造」に首尾よく組み込まれたようだ。それは、スペースノットブランクが生起させた「誰が話そうが構わない」時間と空間に立ち会う経験だったのだと思う。

松井周と私たち

イントロダクション
植村朔也:質問の陥穽 あるいは、透明性の時代
越智雄磨:『松井周と私たち』のために

レビュー
中島梓織:いやいや踊ってるじゃん/わたしも踊ってたじゃん
越智雄磨:「何」がそれを語らせているのか?:『松井周と私たち』レビュー

言葉とシェイクスピアの鳥|最初で最後のイントロダクション

 私たちの新作、言葉とシェイクスピアの鳥が、2024年1月9日(火)から14日(日)の期間、吉祥寺シアターにて上演されます。
 この上演は、吉祥寺ダンスLAB. vol.6として行なわれる、吉祥寺シアターを運営する公益財団法人武蔵野文化生涯学習事業団と私たちが共同で主催する公演となります。
 言葉とシェイクスピアの鳥は、私たちが2017年以降研究開発を続けている「聞き取り」というテキストの生成手法を、完結へと向かわせようとする物体三部作の第二部として企画しました。
 第一部は、2021年にカフェムリウイにて上演した舞台らしきモニュメントという作品で、在る物としての舞台を現れる物としてのモニュメントに代置し、上演時間と舞台空間の関係を見直そうとする。と銘打たれた舞台でした。
 今回は、大きな集団に生まれる小さな集団たちが、言葉の意味の侵入を自覚的と無自覚的に行ない合いながら膨張し、飽和し、収縮し、最後に残るべきものことの何かが残る。または何も残らない。という群像になる。と銘打っている舞台になります。
 出演者は15名居ます。
 まず、2022年7月に私たちが実施したオープンコールにご応募いただき、私たちが選出した、青田亜香里さん、青本柚紀さん、大石英史さん、加賀田玲さん、黒澤多生さん、髙橋慧丞さん、土田高太朗さん、中尾幸志郎さん、永山由里恵さん、野間共喜さん、深澤しほさん、吉田卓央さん、の12名です。
 オープンコールでは、ゆるやかなネットワークのようなチームを作ろうとしていることや、これから作ろうとしている言葉にまつわる新しい舞台を一緒に作っていただきたいということなどを掲げ、2023年7月までの一年間は、特にクリエーションは行なわず、チームであるという実感だけを保ったまま、それぞれの生活を過ごしていました。
 そして2023年8月。いよいよクリエーションが始まりました。
 城崎国際アートセンターに集まった12名と私たちは、20日間、生活を共にしながら制作をし、最後の日にはワークインプログレスの上演を行ないました。
 次に、これまでに私たちのクリエーションに幾度となく参加いただいている古賀友樹さんと奈良悠加さんの2名です。
 最後に、現在吉祥寺シアターで働く上山史華さんを加えて、全員で15名になります。
 上山史華さん、古賀友樹さん、奈良悠加さんの3名は、城崎国際アートセンターに来ていません。
 ワークインプログレスでは、12名の出演者が舞台を作る側と見る側のどちらもを演じていました。
 それは、異なる12名の出演者の属性が、舞台を作ることと見ることのどちらに傾倒する方がより適しているのかを考えようとしたからでした。
 そうして、作りたいものを作り上げ、見たいものを見てしまったからか、なんだか満足してしまい、12名の属性に寄り添うことはもう充分にやり終えただろうと考えるようになりました。
 なので、来る吉祥寺シアターで上演される言葉とシェイクスピアの鳥では、出演者の属性を取り扱おうとできる限りしていません。
 まさしく出演者。まさしくパフォーマー。としての15名の出演者に何らかのエンターテインメントを期待して、ぜひ遊びにいらしてください。
 シェイクスピアは登場しません。シェイクスピアの鳥をモチーフにした作品です。シェイクスピアの鳥とは何なのかは、長いステートメントを読んでいただけますと幸いです。
 長いステートメントを書くためのみならず、企画を立てる際に参照したBBC “The birds of Shakespeare cause US trouble”の文章内より、印象的な部分をご紹介します。

 人々はシェイクスピアの作品に自分の見解を押し付ける傾向があり、それがヴィクトリア朝の鳥愛好家たちが外来種の放鳥を正当化するためにシェイクスピアの文章を使おうとした理由のひとつかもしれない。鳥マニアはシェイクスピアの中に自分の聞きたいことを見出すだろうし、鳥嫌いも同じようにシェイクスピアの中に自分の都合のいい材料を見出すだろう。

 舞台の上演で行なわれることを、行なわれているからといって現実で行なってしまってはいけないこともあるかもしれません。
 その選択肢を、たくさんの言葉と身体とそれらが保有する意味、つまり情報として放出します。
 「聞き取り」によって収集された沢山の完結し得ない情報の海と山から、目に見えたものと耳にしたものをただ拾得するだけのような展開と、無こそ有であるだろうと信じ切りすぎているようなシンプルな装置によって、上演と舞台として具現化しました。
 今度は、現れた物としてのモニュメントを、在った物としての舞台にコピー&ペーストします。
 上演時間は、途中約10分間の休憩を挟む、約140分になりました。(※2024年1月9日に、約145分に更新しました。)
 イントロダクションを最後までご清聴いただき、ありがとうございました。
 2024年1月9日(火)から14日(日)の期間、吉祥寺シアターにてご来場お待ちしております。
 よろしくお願いいたします。

2023年12月30日(土)小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

参照:BBC “The birds of Shakespeare cause US trouble”

チケット発売中|お申込みはこちらから
チケット取扱:公益財団法人武蔵野文化生涯学習事業団 電話:0422-54-2011

言葉とシェイクスピアの鳥

吉祥寺シアター
出演者インタビュー
稽古場レポート

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
長いステートメント
最初で最後のイントロダクション

ワークインプログレス|滞在レポート+レビュー
大石英史:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』KIAC滞在レポート①
野間共喜:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』KIAC滞在レポート②
深澤しほ:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』KIAC滞在レポート③
髙橋慧丞:あしたのば、あさってのこと──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』KIAC滞在レポート④+レビュー
山田淳也:アメーバ化する舞台と身体──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』ワークインプログレス レビュー

松井周と私たち|レビュー|中島梓織:いやいや踊ってるじゃん/わたしも踊ってたじゃん

中島梓織 Shiori Nakajima WebXInstagram
劇作家・演出家・俳優・ワークショップファシリテーター。いいへんじ主宰。個人的な感覚や感情を問いの出発点とし言語化にこだわり続ける劇作と、くよくよ考えすぎてしまう人々の可笑しさと愛らしさを引き出す演出が特徴。創作過程における対話に重きを置いて活動している。代表作に、『夏眠/過眠』(第7回せんだい短編戯曲賞最終候補)、『薬をもらいにいく薬』(第67回岸田國士戯曲賞最終候補)などがある。

 今回の小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク(以下、小野さん・中澤さん・スペノ)の作品は「ノンダンス作品」だと伺っていた。上演時間のほとんどが「対話」を中心に進んでいくという。「対話」の相手は松井周(以下、松井さん)。お互いが、それぞれの芸術的実践について、現代日本の演劇界について、舞台芸術界全体について、問いを共有して実践する。タイトルはずばり『松井周と私たち』。素直に、おもしろくないわけがない、と思った。
私自身、普段は主に会話劇を創作しており、正直ダンスには明るくない。果たしてわたしがスペノの作品を語ることができるのか、という不安もあったが、「対話」で進んでいく作品のことならば、少しはお役に立てるのではないか、と思い、今回のレビューの依頼をお引き受けすることにした。

実際に上演を拝見して、いやいや踊ってるじゃん、と思った。
舞台上で起こっているのは、三人が向かい合うように座った状態で、質問をして回答をする、という言葉のやりとり。一見すればインタビューやトークショーなのだが、お互いの問いに呼応する三人の身体は、常に踊っているように見えた。
小野さんのゆっくりとした頷き、中澤さんの椅子に座り直す動き、松井さんの「ん?」と困った顔で首を傾げる動き、挙げればキリがないけれど、踊ってるじゃん、と思ってしまってからは、いたって日常的な動作もそうとしか見えなくなってしまった。

少し脱線するが、私が演出を務める作品の稽古場に来てくれた方に、こう言われたことを思い出した。「俳優さんの声に合わせて、踊っているように見えた」と。
指摘されるまでまったく自覚がなかったのだが、たしかに、俳優が発している声に合わせて、手を動かしたり、横に揺れたり、のけぞったり、前のめりになったり、しているかも…テンポのいい台詞のやりとりが続くとノリノリになるし、予想外の抑揚がついていたりするとワクワクする。そうやって自然に身体が動いているのだろう。
そう考えると、私たちは普段から、踊ろうと思わなくても踊っているのかもしれない。ダンスではないと思っているものもダンスなのかもしれない。

作品に話を戻す。上演の途中には、相手が創作の場で行っているワークをお互いに「やってみる時間」がある。
客席に居た私は、ひとりの劇作家・演出家・俳優として、興味深く三人の「やってみる時間」を眺めながら、これが「作られたもの」であり「繰り返されるもの」であることにときどきハッとしてゾッとした。見られることが前提となっている。作家としてのこの三人の「対話」は、おもしろ~い、と思われる「対象」であることがセットなのだ。
そう考えると、先ほど言及した、踊ってるじゃん、という感覚も、目の前にある現象をそのまま受けてのものというよりも、もっとメタ的な捉え方によるものだったのかもしれない。彼らはこれを「作品」として上演しているから、踊っているように見えた。私が見ているから、彼らは踊っていた。

再び少し脱線するが、私自身、幼い頃から現在に至るまで、中島梓織という人間を演じている、という感覚が強くある。そして、そのことに対して、どちらかというとネガティブな感情を抱くことが多かった。みんなが見ているのは所詮ペルソナであり、実際はそんなにできた人間ではないのだ…(できた人間だと思われていると思っているのか? という自意識にまで言及してしまうとキリがないのでここでとどめておく。)
しかし、この「演じている」という言葉を「踊っている」という言葉に置き換えてみるのはどうだろうか。
本当の自分を偽っていると感じてしまう振る舞いも、もしかしたらある人にはダンスに見えるかもしれない。実際に「踊っているように見えた」人が一人は存在している。個人的に見られる「対象」であることを苦しく感じることが多いのだが、もしかしたらそれを逆手に取ることができるかもしれない。
これから、中島梓織を演じているだけだ…と卑屈になりそうになったときには、中島梓織を踊っているだけだ…と言い換えてみようかな、と思っている。ちょっと滑稽で、ちょっと救われる。

再び作品に話を戻す。最後に、今後の展望として中澤さんが語ったのは、スペースノットブランクというコレクティブが代替可能なものになること。これも目から鱗だった。この人たちはどんだけ見られることを逆手に取れるんだ。
スペノにはスペノにしかつくれない作品があり、松井さんには松井さんにしかつくれない作品があり、私には私にしかつくれない作品がある。多くの作り手や多くの受け取り手がそのように考えているだろう。そうではない、と言われることには、驚きと寂しさがあるけれど、一方で、作り手の一人としては肩の荷が降りたような気持ちにもなる。
ラストシーンで、松井さんが小野さんの椅子に座ったとき、一番シンプルな形で「代替可能である」ことが示され、それを見た私は救われた気持ちになった。私が私を演じられなくなったとしても、誰かが代わりに私を踊ってくれるだろう。

いやいや踊ってるじゃん/わたしも踊ってたじゃん/踊ろう(演じよう)と思わなくても踊って(演じて)いる/わたしはわたしを演じている/見よう(対象化しよう)と思わなくても見て(対象化して)いる/代替可能である(ということの寂しさ/ということの救い)/…
たくさんの要素が重なって繋がって響き合って、少し時間が経ったいまでも、この作品についてぐるぐると考えていて、うまくまとまらないままである。ここまで揺さぶられたのは、やはりこの三人の「対話」だったからこそのものでは? とも思ってしまう。本当に代替可能なのか?
うまくまとまらないままだが、人間としての自分にとっても、作家としての自分にとっても、とにかく刺激的な体験だったことは間違いない。そして、このように誰かに見られる場所でレビューを書くことで、私も三人と少しだけ「対話」ができたような気がしている。
これからも中島梓織を踊っていきます。

松井周と私たち

イントロダクション
植村朔也:質問の陥穽 あるいは、透明性の時代
越智雄磨:『松井周と私たち』のために

レビュー
中島梓織:いやいや踊ってるじゃん/わたしも踊ってたじゃん
越智雄磨:「何」がそれを語らせているのか?:『松井周と私たち』レビュー

松井周と私たち|イントロダクション|植村朔也:質問の陥穽 あるいは、透明性の時代

植村朔也 Sakuya Uemura WebX
批評者。1998年12月22日生まれ。千葉県出身。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。スペースノットブランクの保存記録を務める。文章としては「柴幸男 劇場の制作論」「その手のもとに「劇場」はある」(いずれも演劇最強論-ing ウェブサイト掲載)など。東京はるかに主宰。PARAにて「ドラッカーを読んで上演をつくる、集団をつくる」「「ドラマトゥルクの今日(The Dramaturg, Today)」(国際誌『Sound Stage Screen』掲載、英語、2021年)を読む」を開講。影響学会広報委員。過去の上演作品に『ぷろうざ』『えほん』『死後の恋』などがある。

1.
 2023年11月、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク(以下、スペースノットブランクと略す)はジェローム・ベルによる『ピチェ・クランチェンと私』[*1-1]を原案として、新作『松井周と私たち』を発表する。
 ベルはコンセプチュアルな作風で知られるフランスのコンテンポラリー・ダンスの振付家。対するクランチェンは、タイの仮面舞踊劇コーンを踊るダンサーだ。『ピチェ・クランチェンと私』でクランチェンとベルは向かい合って質問を投げかけあい、自分の踊りを踊ってみせ、お互いを示し合う。このうち、対話の部分にかなりの時間が割かれる上に、その対話も静かに淡々とした調子で行われ、身振りを誇張することもないので、ダンスというよりはバラエティ・ショーのような趣がある。
 質問を投げかけ合うという相互性の形式のために見落とされかねない論点だが、作品に東洋の文化を見下すオリエンタリズムが内包されていることは否定しがたい。作品の前半ではまずベルがクランチェンにコーンの踊りについて紹介を求める。そして実際にコーンを踊るようクランチェンに促すのだが、西洋の踊りの規範を逸脱した身振りの数々にベルは困惑の表情を隠さない。
 たとえばコーンの冒頭が踊られるのを観て、ベルは踊りというよりもむしろエクササイズや準備体操のように見えるという感想を漏らす。そこで、準備体操ではない本来的な踊りとして前提されているのはいかなるものなのか、といったことが問われてもいいはずだが、話はそうした方向に向かいはしないし、クランチェンはベルの指摘をただ平然と受け止めるばかりである。
 コーンは『ラーマキエン物語』のストーリーを表象するもので、身振りの意味性が強いのだが、その意味性はごく様式化されているために、コードを共有していない観衆からは理解しがたい。たとえば物語には男性、女性、悪魔、猿の四キャラクターがあり、踊りもそれに応じて四つの様式に分かれる。これに対し、どの身振りがどのキャラクターに該当しているかは容易に理解できないとベル。コーンの踊りの解釈し難さは以降もしきりに指摘される。
 こうした無理解ばかりでなく、無遠慮も示される。作中には死の明白な表象や発話など、もともとコーンにおいて不自然な要素をベルがソフトに強制するくだりが見受けられるのだ。
 さて、コーンに戸惑うベルの話しぶりは冷静だが、明らかに観客の笑いを誘うことを意識したものである。へんにオーバーな口調で話されるよりも、淡々と話を進めた方がウケをとりやすいというのはままあることで、実際観客の笑い声はしきりに聞かれる。最初に作品をバラエティ・ショーに例えた理由もそこにあるが、ここで観客は知ってか知らずか、クランチェンを笑いものにするベルの一味の仲間入りをさせられる構造になっているのだ。
 さて、作品の後半ではクランチェンの問いかけに応じてベルが自作の説明や実演を行うが、ここでも観客の笑いは起きる。しかし、その笑いの内実はクランチェンへのそれとは明らかに異なっている。というのは、ベルの言動に触発された観客の笑いにはその前衛性を肯定するニュアンスが含意されているからだ。その笑いは、コンセプチュアルなベルの表現に、笑うに足るだけの異常性、尖鋭性が存していることの証左となるのだ。

 作品のオリエンタリズム、ベルとクランチェンの間の非対称性を指摘する議論は多い。サンサン・クアンの論も作品に否定的な見解を示すものだが、同時にクアンは、ヨーロッパ中心主義や間文化主義に対してベルが意識的であったことも指摘している。間文化主義的なダンス作品がある美的伝統を他に接続しようとする際には一般に両者間の妥協点を均衡に配分することが難しいものだが、『ピチェ・クランチェンと私』の場合はダンスでなく対話の形式を選び取り、異なる二つのダンス作品を無理に繋ぎ合わせようとせず並置することで、この問題を回避しようとした点を評価しているのだ[*1-2]。
しかし、互いに質問を投げかけ合うというこの対話の形式にこそ『ピチェ・クランチェンと私』の問題が集約されている。

[*1-1]ベルギーはカーイシアターでの2011年3月の公演が映像として記録され、公開されている。本稿の記述はこの映像に準拠している。https://vimeo.com/405731351
[*1-2]Kwan, SanSan. (2014). Even as We Keep Trying: An Ethics of Interculturalism in Jérôme Bel’s Pichet Klunchun and Myself. Theatre Survey, 55(2), 185-201.

2.
 質問。それはスペースノットブランクが舞台をかたちづくる際の主要な方法でありつづけてきた。

 出演者に質問やタスクを投げかけ、それを受けて生成された表現を選び取り、編集的に構成することで舞台をかたちづくるというクリエーションの在り方は、ピナ・バウシュを以て嚆矢とする。
 それまでモダンダンスの形式の範疇で創作を続けていたピナ・バウシュがダンサーに質問を投げかけることで振付を行うようになったのは1975年の『七つの大罪/怖がらないで』からのことだが、当時はダンサーからの反発の声も複数聞かれ、それが「一つのメソッドとして確立するのは、ボーフム市立劇場での『マクベス』による『彼は彼女の手を取り城に誘う――皆もあとに従う』の客演出の時だった」という。バウシュのダンサーとボーフムの俳優、フランクフルトの歌手など多様な出演者からなる座組において、「作品、つまりシェイクスピアのテクストや場面、状況に対する各自の意見や姿勢を質問することによってしか、共通の地平は生れな」かったのだ[*2-1]。
 このように、バウシュの「質問」の技法は、異なる出自を持つ者たちとの協働において、ある「共通の地平」を探るための有効な活路であった。カンパニー単位ではなくプロジェクト単位での座組構成に移行しつつあり、異領野間のコラボレーションやコレクティヴの活動が隆盛を誇る今日の状況に対して、「質問」の方法論は有効だろうことが、ここからわかる。そしてそれは、コレオグラファーと個々のダンサーの間にあるさまざまな間隔を架橋する方法論として、ヴッパタールでの創作においても継続的に使用されたのだろう。

 しかし、そうした「共通の地平」を探るに際してバウシュが選択したものが、なぜ他でもない「質問」の技法だったのか、という疑問は残る。たとえば『マクベス』の戯曲は、そこにあった。バウシュが新たに上演台本を書いても良かった。演劇について言えば、戯曲や上演台本こそが「共通の地平」を代表するものでありつづけてきたはずだ。
 一方、繰り返される「質問」を通じて上演内容をかたちにしていくバウシュにとって、その「上演台本」はあらかじめ書き記されず、共同で次々と書き改められていく不定形なものとしてあった。そこには作品概念や作家概念への疑いも秘められていただろう。
 たとえばフォルクヴァング学校でバウシュの師を務めたクルト・ヨースは、代表作『緑のテーブル』の上演にあたり厳格な振付指導を行ったことで知られる。今なお再演の際にはヨース・エステートからの舞台指導者の派遣を受けた上で、長期のリハーサルを経ることが、上演の必須条件として定められているのだ。このような、作品の完成形のイメージは振付家のなかにあり、ダンサーはそれを忠実に守らなければならないという考えに対して、バウシュの「質問」はその対極にある。
 「私に興味があるのは、ひとがどう動くかではなく、何がひとを動かすのか、ということ」[*2-2]。このバウシュの発言に顕著なように、バウシュはあらかじめムーブメントを確定させず、むしろムーブメントを生じさせるところの意識や状態に手を伸ばす。そのために有効な方法が「質問」だったのだとすれば、「質問」の技法は今日の制作現場における座組の流動性に起因するばかりではなく、作者や作品にまつわる固着した概念を集団的な未完のそれに開いていく努力や、舞台で行われる身振りや行為の深層に広がるより広範な次元への目配りとともにある。
 だから、質問の技法の内実については、舞台に関わるそれぞれの主体がどのようなものとして生起し、その集団や場に対してどのような関係にあるのか、という視点を欠いて問うことはできない。

 ベルがクランチェンに舞台上で投げる質問と、バウシュの質問とでは、ありようが全く異なる。比較するために、両者をカウンセラーにたとえよう。
 バウシュの創作を精神分析と類比する見方がある[*2-3]。バウシュの舞台の出演者は患者のように問いを投げかけられ、自己の深層にあるものにかたちを与えていくのだ。
 一方、ベルがクランチェンに質問を投げかける際には、クランチェンの内面や深層部が問題にされているわけではない。にもかかわらず、その問いかけには臨床的な効果が付随する。その効果こそ、私が問題にするところのものである。

[*2-1]ヨッヘン・シュミット『ピナ・バウシュ――怖がらずに踊ってごらん』(谷川道子訳)、アートフィルム社、1999年、91頁。
[*2-2]同上、 20頁。
[*2-3]たとえば、三浦雅士『考える身体』、あるいは『ユリイカ』1995年3月号での渡邊守章・浅田彰・石光泰夫の三氏による座談会「ピナ・バウシュの強度」など。

3.
 日本のカウンセリング現場で強い影響力を示してきたのは、精神分析の技術というよりもむしろ、カール・ロジャーズの説いたクライアント中心療法の理論であった[*3-1]。クライアント中心療法では、カウンセラーは鋭い分析や解釈を提示してクライアントを導くといったことはしない。ただクライアントの語りに耳を傾け、共感の姿勢を示すばかりである。ところがそうするうちに、クライアントは自らに本性的に内在する生命力によって、自然と悩みを解消していくのだという。河合隼雄いわく、技術より共感に力点を置くロジャーズの方法は「初めてカウンセリングを学ぶものにとっては、魅力的であったし、また、便利なものでもあった。つまり、あまり理論的な勉強をしなくても、この方法に頼っておれば、すぐにでもカウンセリングができると思われたのである」[*3-2]。
 さて、「聞く力」や傾聴と言った語は耳あたりがよいし、すばらしいものとされることが多い。しかし、その傾聴の態度が人を追い詰める場合がある。いつのまにか語るに落ちる、ということがしばしばあるからだ。小沢牧子『「心の専門家」はいらない』は、傾聴の態度が持つこうした効果が国内でのロジャーズ流のカウンセリングの現場において盛んに働かれてきたことを示し、告発するものだ。聴く者と話す者の間に非対称な上下関係がある場合、話す側は意識的であれ無意識的であれ、聴く側の意向を自然に汲んで、その意に沿うように話すことがしばしばである。しかもその時、話す側は自分の発言を自己責任の自分事として引き受けていくだろう。話しているのは自分自身であるし、カウンセラーとの間に存する非対称性は、相手の共感の態度によって隠蔽されるからだ。
 小沢が同書でとりわけ問題視するスクールカウンセリングを例にとろう。たとえば不登校問題についてカウンセリングを受ける児童は、カウンセラーに悩みを吐露していくうちに、共感の声を浴びて、その怒りを収めていく。そしてそうするうちに、悩みをもともとの状況(横暴な教師や意地悪な級友など)から切り離し、あくまでも自分の内面の問題として引き受けてしまう傾向にあるという。児童を不登校に至らしめた問題は、児童の側の問題へとすり替えられ、見過ごされるのだ。小沢は言う。「学校現場とりわけ管理職にカウンセリングが歓迎される理由がわかる。生徒の抗議を「問題行動」としてのみ受け取り、それを巧妙に処理し、当事者の一方である教師を弁護し、すべてを円く治め、最後に生徒に「説教」を受け入れさせてさえいるのであるから」[*3-3]。傾聴は、このように、聴き役にとって都合のいい考えを相手にソフトに植え付ける方法論として有効なのだ。
 こうした傾聴の効果はカウンセリングルームという場所、すなわちクライアントとカウンセラーの二者だけからなる閉じた世界において、一層強められる。クライアントにとってそこにあるのはまずもってカウンセラーとの関係であって、他の世界は見えない。そのような二者関係において自らの悩みを見つめる時、当初の問題は見失われ、クライアントは悩みを自分の側に帰責してしまうのだ。

 演出家や振付家の独裁的な指示による創作を避け、質問やタスクの技法を通じたバウシュ流のボトムアップでの制作を試みる作家たちが、ロジャーズ流の陥穽に知らず知らずのうちにはまることがないかという危惧がある。すなわち、演出者と出演者の間にある非対称性の隠蔽と、自己責任論の加速である。
 『ピチェ・クランチェンと私』の舞台は、どこかこのカウンセリングルームに似ている。実際のところ、クランチェンはなぜベルや観客に怒りださないのであろうか。私はその理由の一端をベルの傾聴の態度にみる。ベルは観客の笑いを促しこそすれ、露骨に冷笑的な態度を取ることはない。むしろコーンの文化を理解しようと歩み寄ろうとしさえする。そうするうちに、クランチェンはその場で暗に期待されている役割、すなわち「ベルと対等な関係性に立つ東洋のダンサー」としての役割を自ら引き受けることになる。ベルの望む間文化主義のコンセプトを進んで体現しようとするのである。そしてこの時クランチェンは、ベルが図らずも実践してしまっているエスノセントリズムの再演を告発する視点に立つことが出来なくなる。ベルの質問に熱心に答えれば答えるだけ、一層そうなるのだ。そして、コーンが観客からの理解を得難い珍妙な踊りとされるのは、あくまでもコーンやクランチェンの側の問題として示される。ベルがクランチェンに言い放つ“Good Luck”には、たしかにそういう響きがある。

[*3-1]国内のカウンセリング実践について、たとえロジャーズ流の療法が採用される場合でも他の技術との複合的なカウンセリングが行われているケースが大半だとは思われるが、話の見通しをよくするため、ここでは説明を単純化している。
[*3-2]河合隼雄『カウンセリングと人間性』、創元社、1975年、4頁。
[*3-3]小沢牧子『「心の専門家」はいらない』、洋泉社、2002年、108頁。

4.
 ベルははじめ、膝の上にMacのPCを構えている。PCの画面とクランチェンとの間で視線を行き来させながら、名前や出自について疑問を重ねていくさまは、企業の採用面接官を思わせる。
 踊るためにクランチェンが立ち上がったタイミングでベルはPCを床面に置くのだが、やがて音楽を流そうとする際にベルはふたたびこのPCに向かい、作業する。つまり、ふつうは観客の視界から秘匿されているはずの音響の仕事をむしろ露わにしているのだ。
 こうした音響の可視化の工夫はベルの過去作にも見受けられる。インタビューで自作の『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』(2001)についてベルは次のように語っている。「音響係は普通ならば客席の後方にいるものですが、私はDJを舞台のすぐ前の、観客から見える場所に配置しようとはじめから考えていました。それは、観客に対して何も隠さず、「透明性」を保とうとする私の意図によるものです」[*3-1]。透明性。観る者をあざむくことが旨とされる舞台芸術において、フィクションやイリュージョンを生み出す構成要素を可視化し、はじめから手の内を明かしておくこと。舞台がスペクタクルに堕することに対して強い抵抗を示すベルが、それでもなお舞台をつくるなら、そうしたフェア・プレーの態度がおのずから要請されるというわけなのだろう。ベルの舞台において名人芸的な踊りが避けられること、素舞台が愛好されることもまた同じ観点から解釈できる。

 しかしこと『ピチェ・クランチェンと私』の文脈で考えた場合には、この透明性という言葉はまた別の響きを帯びる。そこで示されていたのは「プロセスへの透明性」でもあったからだ。
 観客の前でベルとクランチェンが示す質問の掛け合いは、バラエティ番組のようではあるが、バラエティとは違って(あるいは、まさにバラエティのように)その場でリアルタイムに生み出されたやりとりではなく、事前に用意されたものだ。それにもかかわらず上演がリアルタイム性を帯びて観客に経験されるとしたら、それらの質問が生じたその現場、すなわち稽古場に居合わせているような質感が上演において生まれているからだろう。殺風景な空間のなかにPCを持った振付家とダンサーが二人でいるその風景は、実際いかにも稽古場然としているではないか。
 ところで、現在の国内の舞台芸術実践を思考する上でも「プロセスへの透明性」という観点の重要性は無視できない。舞台に立っていない出演者の素顔といったものを想像させることで観客の興味をかきたてるセミ・ドキュメンタリー的な方法は以前からあり、そこでも「プロセスへの透明性」は模索されていたと言える。しかし、今日の上演実践では、よりさまざまな意図や欲望のもと、舞台の内外で「プロセスへの透明性」の実現がしきりに目指されている。たとえば、2020年には新型コロナの流行を受けて本番の実施に至らない公演が増加し、上演に至るまでのプロセスそれ自体を重視し、公開しようとする流れが生まれた。制作プロセスのアーカイブ化はその現れとみなせる。また、クリエーションのプロセスにおける加害や暴力を抑止するために、第三者による稽古場の視察や、上演におけるその可視化が望まれるようになった。後者の実例としては、舞台が演出家のトップダウンな独裁によるのではなく成員全体の決定によってつくられているといったことが作品のコンセプトに掲げられ、観客も上演を通じてそのコンセプトを喜ばしいものとして経験する、といった事態が散見されるようになった。
 しかし観客は実際に稽古の現場に立ち会うことはできないのだから、この「プロセスへの透明性」はどこまでもフィクショナルなもの、つくりものにすぎない[*3-2]。上で論じてきたカウンセリングの政治性の文脈で『ピチェ・クランチェンと私』を判ずる場合にもこの視点が欠かせない。
 ベルが発する質問は抑圧的であるにしても前もって準備されたものであるし、上演に至っている以上はそれにクランチェンが同意したとみられる。まさにその同意のプロセスこそが問題にされなければならないのであった。ベルは質問という一見対等な方法によって、クランチェンが自発的に上演内容に同意するようクランチェンを仕向けたと考えることもできる。そして上演はまさにその手続きを実演するものであるかのように受け取ることもできる。しかし、結局のところ制作プロセスは観客には開示されえず、上演からイメージされるプロセスと実際のそれとがどの程度対応しているかなど知りえないのだから、制作におけるクランチェンへのベルの態度を難ずるような論評は、あくまでも邪推に留まる。しかし、これからの批評は、あえて邪推たらんとすることも、時には求められるだろう。
 もっとも、上演それ自体の効果を問題にすることは依然としてできる。観客はクランチェンの応答を傾聴し、時に笑ってみせることで、いつのまにか場の権力構造に加担してしまう仕組みが準備されていることはすでにみた。そして、観客が自身のふるまいの持つ効果を反省的に捉え返すための機会は作品において希薄であったし、そのことはクランチェンとベルのやり取りがあくまでもフィクションにすぎないことが作品中で強調されずにいたという事実との関係において評価されるべきである。

[*3-1]藤井慎太郎監修『ポストドラマ時代の創造力:新しい演劇のための12のレッスン』 、白水社、2014年、174頁。
[*3-2]スペースノットブランク『セイ』評で、私は同作が「プロセスへの透明性」を徹頭徹尾フィクショナルに呈示したことについて論じた。

5.
 なぜスペースノットブランクは『松井周と私たち』を上演しようと思ったのだろうか。作品をまだ観ていない以上語れることは少ないが、いくつか述べておきたいことがある。
 スペースノットブランクは、質問により舞台をつくってきた。そのスペースノットブランクが『ピチェ・クランチェンと私』を原案に舞台を制作するのだから、舞台上で交わされる質問は、「プロセスへの透明性」の意識を喚起せずにはおかないだろう。『共有するビヘイビア』や『クローズド・サークル』に連なる系譜の作品となることが予想される。
 松井周とスペースノットブランクとの間には、文化的・民族的アイデンティティの亀裂はおそらくない。活動するシーンの政治経済的背景についても目立った相違はない。公式Webサイトのステートメントには「出自、創造性、世代など、あらゆる異なる点を持つ二組」という表現が見られるが、ここに挙げられた相違点は二者間の上下関係をそれほど含意しない。キャリアとしては松井の方がスペースノットブランクよりも上のはずではあるが、作品を企画したのがスペースノットブランクの側であることによってクリエーション上の対等性は担保されやすくなるだろうし、両者の世代間格差には、ベルとクランチェンの間の隔絶のような酷薄さはない。
 『松井周と私たち』は『ピチェ・クランチェンと私』にあった権力関係についての問いをあらかじめ回避し、より純粋かつ水平な地平で作家同士の関係性を取り扱うものとなるだろう。だとしたら、いま「より純粋かつ水平な地平」と書いた場所がいかなるフィクションとしてあるか、暴かれてほしいのは、その嘘である。

※Dance Base Yokohama「ProLab 第1期舞踊評論家【養成→派遣】プログラム」の課題で執筆した内容を含んでいます。

松井周と私たち

イントロダクション
植村朔也:質問の陥穽 あるいは、透明性の時代
越智雄磨:『松井周と私たち』のために

レビュー
中島梓織:いやいや踊ってるじゃん/わたしも踊ってたじゃん
越智雄磨:「何」がそれを語らせているのか?:『松井周と私たち』レビュー

松井周と私たち|イントロダクション|越智雄磨:『松井周と私たち』のために

越智雄磨 Yuma Ochi
東京都立大学人文社会学部准教授。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員。博士(文学)。専門はフランスを中心としたコンテンポラリー・ダンス研究。早稲田大学演劇博物館においてコンテンポラリー・ダンスに関する展示「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」(2015-2016)のキュレーションを担当。著書に『コンテンポラリー・ダンスの現在─ノン・ダンス以後の地平』(2020)がある。

1.
 突然だが、私はピチェ・クランチェンのFacebookページをフォローしている。小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク(以下スペースノットブランクと略記)がジェローム・ベルの『ピチェ・クランチェンと私』を原案とした作品を作ると聞き、ふとそのことを思い出した。10年ほど前、ジェローム・ベルとモンフェルメイユの街角を歩いていた時のことだったと思う。細かな経緯は覚えていないが、なぜかピチェ・クランチェンの話になった。「きわめて重要なアーティストだから絶対Facebookをフォローしておいたほうがいい」とジェローム・ベルに強く勧められたのだ。ベルの言葉には、ジャンルも活動する場所も異なれど、同じ時代を生きるピチェ・クランチェンというアーティストに対する深い敬意が込められていたように思う。

2.
 スペースノットブランクが今作の原案とする『ピチェ・クランチェンと私』は2004年にバンコクで初演された作品である。上演記録を見ると、その後ヨーロッパでは2005年にベルギーのクンステンフェスティヴァル・デザールを皮切りに、欧米やアジア圏の諸国で上演を重ねてきた。日本でも横浜と京都で3回上演されている。本作の誕生は、当時バンコク・フリンジ・フェスティヴァルのキュレーターだったタン・フ・クエンがベルに創作を委嘱したことに遡る。当時タイの文化やダンスについてほぼ何も知らなかったベルは長く躊躇した末、タイの伝統舞踊のダンサーと共同で制作することを条件にこの依頼を受けることにした。そして紹介されたのがタイの宮廷舞踊コーンの踊り手であるピチェ・クランチェンだった。当初のアイディアは、ベルがクランチェンと共に一つのダンス作品を作ることにあったようである。
 しかし、当初の想定を逸れて、彼らの共同作業はいわゆる普通のダンス作品に結実しなかった。代わりに、互いのダンスをめぐる相違、彼らの活動が置かれている異なる歴史や文脈、異なる様式や美学を確かめていく2人のデモンストレーションを交えた会話がそのまま舞台に上げられることになったのだ。
 たとえば、「死」をどのように表象するのか? という話題に際して、ベルは自作『The show must go on』(2001)の「Killing me softly with his song」をかけながらゆっくりと床に倒れ込み、目を閉じて死んで行く場面を再現する。一方クランチェンはコーンにおける死の表現方法を見せる。それは以下のような手順で示される。殺された人物が舞台からはける。死者の家族が喪に服するためにゆっくりと歩く。その家族は泣くために椅子に座るが、涙を隠すために顔を背けるといった具合である。
 あるいは、互いの国のダンスの歴史が話題になった時には、クランチェンは200年以上前のタイのラーマ2世の治世下にコーンが始まったことや、ラーマ4世が優れたダンサーであったこと、しかし、革命後の新政府はコーンを禁じ、現在では観光客向けのダンスになった経緯を語る。一方ベルは、自身のダンスにおける民主主義的な理念について200年以上前のフランス革命での王や王族の処刑、王政の廃止にまで遡って説明する。それは、ダンスについてメタ視点で語るレクチャー・パフォーマンスであり、ドキュメンタリー演劇でもある。

3.
 ベルは2005年に書いたこの作品のステートメントに次のような言葉を残している。

 ヨーロッパ中心主義、インターカルチュラリズム、文化のグローバリゼーションといった問題含みの概念が、この作品のなかで争点として明らかになる。扱う上でデリケートであるが、これらの概念を脇に置いたままにはできない。現在という歴史的瞬間が、これらの争点を無視することを許さないのだ。

 2008年にベルとクランチェンはこの作品によって、オランダの「文化的多様性のためのルート・プリンセス・マルグレート賞」を受賞した。ちなみに、同年にこの賞を受賞したもう1人の人物は、カルチュラル・スタディーズの代表的研究者であるスチュアート・ホールだった。
 かつてエドワード・サイードが指摘したように、ヨーロッパにおいて「東洋」は周縁化された存在として捉えられてきた。18世紀、19世紀に創作された多くのオペラもまた「東洋」についてその当事者や歴史について無知のままに都合よく解釈し、それを繰り返し表象してきた。パリ・オペラ座は2021年になって『パリ・オペラ座における多様性についてのレポート』を刊行し、植民地的視点で作られた差別的表現が残る作品を上演してきたことを反省し、プログラムの編成や出演者の人種的構成に配慮するという課題を明文化した。こうした昨今の流れと比較すると、ベルとクランチェンの「多様性」に関する取り組みは、ヨーロッパの芸術の文脈の中で極めて早期の傑出した成果だったことが理解される。

4.
 当初の想定からは外れたかもしれないが、フ・クエンの狙いは、従来のダンスの概念を逸脱したダンス作品を作ることに最初からあったのだろう。委嘱当時の2004年のヨーロッパのダンスシーンにおいて、ベルは実験的なダンス作品を創作する最も尖った振付家として既にその名を馳せていたからだ。ル・モンド紙のダンス批評家ドミニク・フレタールがベルの作品を既存のダンスの慣習やコードを拒絶する「ノン・ダンス」と評し、この言葉と共にヨーロッパ内外でベルはその知名度を高めていた。念のため断っておくと、ベル本人はこの言葉で称されることを強く拒絶しているが、ひとまずそれは脇に置く。フレタールは、ジェローム・ベルが『ジェローム・ベル』を発表した1995年前後を一つの境としてフランスのダンス界に新しい動きが出現したとみているが、それは確かだと思われる。当時のダンスの新しい傾向を「ノン・ダンス」と呼ぶ者もいれば、「コンセプチュアル・ダンス」と呼ぶ者もおり、「ヌーヴェル・フォルム」と呼ぶ者もいれば「パフォーマンス的ダンス」と呼ぶ者もいた。それぞれの論者が採用した呼称は、微妙にフォーカスに違いはあるものの、従来のダンスの概念では捉えられない新しく出現したダンスの傾向を捉えようとして考えられたものである。そして、常に筆頭に挙げられる人物が、ジェローム・ベルだった。
 キュレーターとしてのフ・クエンの仕事の意義は、ジェローム・ベルの意識を初めてアジアに向けさせ、クランチェンというダンサーと出会わせて、この作品を世に出したことにある。これまでにない、奇妙な文化的ハイブリッドの産物が出来上がったのだ。その狙いは達成されたと言えるだろう。

5.
 さて、「ノン・ダンス」とは結局何だったのか? 私なりにまとめると、それはダンスという概念を支える中心的要素のシフトである。ダンスの中心的要素は長らく「動くこと(moving)」にあると考えられてきた。ダンスの語源には、「身体をのばす」という意味が含まれており、坪内逍遥はdanceを日本語に訳す上で、水平運動を示す「舞」と垂直運動を示す「踊」を組み合わせた「舞踊」と言う言葉を採用した。現在でも動くことはダンスの変わらない基本的な原理である。テレビ番組などで扱われるダンスなどを見てもそのほとんどは、長い修練を通して身につけたであろう高度な技術によって、目を魅了する豊かな動きで空間を満たしている。
 しかし、「ノン・ダンス」などと呼ばれたダンサーや振付家が重視したのは「動くこと」ではない。彼ら・彼女らのダンスは「動き」を差し引き、時に身体が全く動かないことさえある。そして、動きの代わりに前面に現れるのは、ダンサーの身体そのものである。もちろん、それまでのダンスにおいても動きと身体は同時に存在していたし、不可分のものである。観客もまた常に動きと身体を同時に見ている。ただし、フォーカスが違うのだ。「ノン・ダンス」と呼ばれる傾向が引き起こしたことは「図」と「地」の関係を成してきた「動き」と「身体」の関係の反転である。「図」としての動きが最大限に捨象される結果、「地」であった身体が必然的に浮き立つ。これはかつて、ロラン・バルトが「演劇性」について「演劇から戯曲を差し引いたもの」と定義したことにも似ている。バルトの大胆さは、それまで演劇の中心的要素と考えられてきた戯曲を、最も抜けてはならないと考えられてきた要素を差し引くことで演劇を新たに定義しなおしたことにある。さらにこの見方は、演劇という概念をアップデートしたハンス・ティース・レーマンの「ポストドラマ演劇」にも通じる。ドラマを演劇の中心的要素とみなす習慣を捨てたレーマンに倣うならば、ノン・ダンスを「ポスト・(ムーヴメント)ダンス」ということも可能だろう。このダンスにおけるパラダイムシフトを「動くこと(moving)」から「存在すること(being)」へのフォーカスの移行と言い換えることもできる。

6.
 では、ダンスの中心的要素を身体に据えて、あるいは「存在する」ということに力点を置いて、ジェローム・ベルが行おうとしたことは何だったのだろうか? それは、出演者の「生(英語:life、仏語:vie)」そのものを素材とすることである。その人物はどのような存在なのか? その人物はどのような経験を通じてその身体を獲得したのか? そのような問いかけがベルの作品には共通して見出せる。ダンスの基底材としての身体の内側に目を向ける作品は必然的に、視覚性に訴える外面的に壮麗なスペクタクルではなくなっていく。ジェローム・ベルの作品が「反スペクタクル的」と称されることもあるのはそのためである。また、そこには芸術的ダンスが無批判に文化産業化し、経済的消費サイクルに飲み込まれてしまう危険性に対する自戒と批判意識も見出せる。1980年代のフランスの文化政策の功罪として、ダンスの「プロダクション主義」やマンネリズム、メディアを意識した「スペクタクル化」が生じたことも背景にある。振付家のディレクター・シップや創造性に依存するのではなく、出演するダンサーの身体そのものにダンス作品の拠り所を見出す流れが生まれたのだ。
 ジェローム・ベルは多くの作品タイトルに出演者の名前を採用しているが、それは、まさに出演者の生、人生、生活が問題とされているからである。自身の名を冠した『ジェローム・ベル』(1995)にはじまり、『グザヴィエ・ル・ロワ』(2000)、『ヴェロニク・ドワノー』(2004)、そして『ピチェ・クランチェンと私』(2004)を発表した。その後にも『イザベル・トレス』、『ルッツ・フォルスター』(2009)、『セドリック・アンドリュー』(2009)などを発表しており、出演者であるダンサーや振付家の名前をタイトルにそのまま採用した作品を現在も作り続けている。これらの作品群を便宜的に「ダンサー・シリーズ」と呼ぶことにする。それらは出演者の身体そのものから分泌される意味を味わうような作品である。

7.
 ジェローム・ベルは読書家としても知られる。ベルが創作を行う際には、様々な思想や哲学が参照されるが、ここでは特にミシェル・フーコーがベルに与えた影響について触れておきたい。フーコーは膨大な歴史的資料を綿密に調査することで、特有の時代と文化における「人間」という存在の形成や変化を詳らかにした思想家として知られる。その研究によれば、近代において我々の身体=生は、社会、政治、経済など様々なレベルでの「生-政治」と呼ばれるシステムの中で管理され、規範化され、形成されている。ベルの作業はある意味、それを逆に辿り直すような作業である。つまり、今ここにある身体から、その身体の振る舞いや言葉を可能ならしめた「歴史」を明らかにしていく。私たちの身体は、膨大な歴史の蓄積によって成り立っていることを示すのだ。たとえば、『ジェローム・ベル』では、出演者は全員裸で登場し、その背景には、氏名、年齢、身長、体重、電話番号、銀行口座残高などが書かれている。またその身体そのものにも、それぞれの出演者にとって意味があると思われる年月日が書き込まれていく。『ヴェロニク・ドワノー』では、出演者ドワノーの身体の様々な位相が露わになる。2人の子供の母親としてのドワノーの身体は、ルイ14世時代にまで起源を遡ることができるパリ・オペラ座バレエ団の特有の階級の中に位置づけられた身体でもあり、バレエという身体運用のシステムの中で秩序化された身体でもある、そしてその秩序への抵抗を示す身体としても現れる。
 フーコーは、私たちの存在が巨大な超−個人的な「生-政治」というシステムの中で規定されている世界の有り様を描き出したが、「生−政治」に対するカウンターとなる「生存の美学」という思想も晩年に用意していた。この思想に含まれる「自身の生を一つの作品にする」という考えをベルは敷衍しつつ実践しているように見える(ちなみに、この思想を積極的に取り入れた日本人アーティストはダムタイプの古橋悌二だった)。
 つまり、ベルの「ダンサー・シリーズ」は、人間が「システム」や「歴史」の外に立つことの困難を示すと同時に、それらに抵抗し、その外部へと出て自身の生を作り替えようとする人間の力も示しているように思われる。従って、身体は諸力が拮抗するバトル・フィールドになる。規範化する力と、規範から脱しようとする力の両方が作用する場として、身体が立ち現れてくる。

8.
 ベルの「ダンサー・シリーズ」の中でも、『ピチェ・クランチェンと私』は異色の作品と言えるかもしれない。ベル自身が出演者の対話者として出演している唯一の作品だからである。そして、それまでのダンサー・シリーズが扱っていたのが欧米圏のダンサーだったのに対して、アジア圏のダンサーを扱う初めての作品でもあった。この作品に対する評価は様々にあるが、多くの研究や批評が、ベルとクランチェンの間の「権力関係」を論点としている。
 否定的な論は、西洋の前衛的アーティストと東洋の伝統舞踊のアーティストという対比構造に着目する。暗に西洋のアーティストの東洋に対する優位性が仄めかされているとみなし、植民地主義的な構造が再生産されているとみる。タイトルにみられる「myself(私)」という言葉がベルの主観的立場を示しており、客体として観察するような構造が読み取られた時に、ベルの視線がニュートラルではなく「上から目線」に見えるということが起こるのだと思われる。たしかに、植民地主義やオリエンタリズムの歴史的経緯を踏まえた時に、この両者の関係はニュートラルではありえないのかもしれない。その点を強調する批判に応えるとすれば、『ジェローム・ベルと私』といったタイトルの作品を誰かが作って、ベルの存在を相対化し、「権力」のバランスを調整する他に手段はないのかもしれない。
 肯定的な論は、この作品が、エキゾティシズムや植民地主義的関係を回避しながら、民俗学的な観点から2つの異なる文化圏の芸術的実践の文化的特異性についての探求することに成功していると考える。
 論者の立場によって、この作品の見え方はこれら肯定的なものと否定的なものの2極の間を揺れ動くのではないだろうか。私自身は、冒頭で述べたように、ベルがクランチェンに対して敬意を抱いていることを経験的に、感覚的に知り得たこともあって、この作品に対して否定的ではない。そして、これまでの「ダンサー・シリーズ」とは異なり、ジェローム・ベルは自らが姿を表し、発言することで、自身の態度や言葉が批判にさらされるリスクを取っているという点は評価すべきだと考えている。その行為は、実際に多くの論者の考察対象となっており、この作品に対する批判や考察をより多様に引き起こす論争上の豊かな可能性をもたらしていると感じる。またゲラルト・ジークムントが言うように、この作品が生まれたグローバリゼーションの時代には中心と終焉という二項対立的な世界の捉え方は既に廃れていると考えた方が良いかもしれない。この作品はそれぞれにとっての「他者」とのコンタクト・ゾーンを発生させ、そこで互いの文化的枠組みによって違いを理解しようとする試みだと評価できる。たとえば、クランチェンが、ベルのじっと立っている様子を仏教的なフレームで理解する一方、ベルはコーンの歴史にバレエにおける君主制の歴史に似たものを見出すように。

9.
 さて、今回スペースノットブランクが取り組もうとしているのは、この『ピチェ・クランチェンと私』に基づいた松井周との対話である。よくぞこの作品を再現(リエンナクト)しようと思ったものだ。そのためにベルのカンパニーR.B Jérômeの正式な許可も得たというから驚きだ。なんと突飛な行動だとも思ったが、しかし考えてみれば、ジェローム・ベルも若かりし頃、当時の常識からすれば突飛な実験ばかり行なっていたのだ。かつてベルは、ピナ・バウシュの振付を自身の作品の中で完全にコピーして使用するために手紙を書いたこともあった。バウシュには断られたそうだが、ドイツ表現主義の流れを汲む大御所スザンヌ・リンケから『Wandlung』のコピーの許可を得て、伝説的とも言える『最後のスペクタクル』という作品を生み出した。ちなみにこの作品は、「本来コピーできないはずのダンスをコピーすると何が起こるのか?」という問いに端を発して創作されたが、ニューヨークの前衛集団ウースターグループによってさらにコピーされ、『I am Jérôme Bel』という作品も生まれた。ベルにもウースターグループにも共通してみられるのは類稀なる遊び心である。両者の作品は、ギャグの様相すら呈するが、遊び心とギャグこそが新境地を開くことは往々にしてある。スペースノットブランクの今回の試みも彼らに続くものになるのかもしれない。ぜひ、そうなってほしい。

10.
 『松井周と私たち』は、『ピチェ・クランチェンと私』を原案としながらもズレを生じさせるはずである。同じ日本の舞台芸術のアーティスト同士の対話になることから、原作に見られたヨーロッパとアジアという対比的構造は消え、それに伴いポスト・コロニアリズム的観点は消えるだろう。しかし、それに代わって、世代の異なる日本人アーティストたちが対話する中で現代の日本特有の何かが浮かび上がってくるはずだと予感している。スペースノットブランクと松井周の関係性について私はほとんど何も知らないが、対話の中で、見えてくるであろう舞台芸術をめぐる双方の立場や見解、環境の差異や世代間格差などに注目してみたい。そして、現代の日本社会の中での、それぞれのアーティストの身体と生の有り様が露わになってくることを期待している。そして原作同様に、対話の過程で生じるであろうその両者間の力のバランス、その揺れ動きも見どころなのではないかと思っている。
 再びミシェル・フーコーを持ち出すが、フーコーはあらゆる人間関係には権力関係が生じると考えていた。そして、その権力関係や優劣関係は、差し向けられる言葉の選択、振る舞いなど様々な要因によって絶えず変動する。権力関係などというと物々しい感じもするが、それは、私たちが普通にコミュニケーションを行う時にも刻一刻と変化している双方の力の関係の揺れを思い起こせばよい。このパフォーマンスの中で、スペースノットブランクと松井周の間には、どのような関係が生じるのだろうか? 敬意があるからこそぎりぎり許容される無礼講が現れるのか、それとも年長者を前にした遠慮や忖度が現れるのか? 全く通じ合わない異質性の衝突が現れるのか? それとも共感や共通性が現れるのか? なんらかの継承が現れるのか、それとも断絶が現れるのか? 
 できることなら、このパフォーマンスを観られる方すべてに、観賞後どう思ったか聞いてみたい。みなさんは、どうのように思われるだろうか?

松井周と私たち

イントロダクション
植村朔也:質問の陥穽 あるいは、透明性の時代
越智雄磨:『松井周と私たち』のために

レビュー
中島梓織:いやいや踊ってるじゃん/わたしも踊ってたじゃん
越智雄磨:「何」がそれを語らせているのか?:『松井周と私たち』レビュー

ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|竹田真理:ループする構造と発露の空間

竹田真理 Mari Takeda
ダンス批評。関西を拠点に1990年代後半以降のコンテンポラリーダンスを中心とした批評活動を行っている。

『ダンスダンスレボリューションズ』において松原俊太郎とスペースノットブランクは戯曲の執筆と上演の構築を同時に行うことを試みている。完成した戯曲に身体をあてがい、立体的に再現するのが通常の演劇の作り方だとすれば、今作ではイレギュラーな方法が試されたわけである。生まれたての創造の芽を既存の言語に定着させるより前に上演空間に現出させること。思考と実践が時差なく現れ出る場を実現しようとする試みは、ダンスにおけるクリエーションを参考にしたという。今日のダンスの作られ方は、考案された振付をダンサーの身体に振り移すのではなく、振付家とダンサーが現場で共働しながら動きを生み出し発見していく。再現ではなく生成をこそ本質とするダンスの実践が、「舞台芸術に成る以前」の言語を探るスペースノットブランクに有効な方法となることは十分に考えられる。創造のパフォーマティブな渦から言葉が、身振りが、ダンスが、動線が、やりとりが生まれ、消えていく。実際にはクリエーションするその場で言葉が書かれたのではなく、一人に戻る時間の中で執筆したと松原は述べている。だが時差が小さいほど創作の遂行性が保たれることは確かだろう。そのようにして書かれた戯曲はパフォーマンスの果実? 残余? 痕跡? あるいは記譜でありスコアであるところの何か、だろうか。

『ダンスダンスレボリューションズ』は恋する男女のメロドラマである。バレエ『白鳥の湖』をモチーフに、死をもって結ばれる悲劇の物語をベースとし、チャイコフスキーによる前奏曲がドラマの開始を告げる。主役を演じる児玉北斗と斉藤綾子が京都芸術センターのフリースペースのフロアに大きく弧を描いて歩行し、交差する動線が、偶然と宿命のなせる出会いと物語のラインを提示する。とはいえ今日のヒーローとヒロインはロマンチック・ラブの定形を生きるわけではない。劇は現代のボーイ・ミーツ・ガール、台詞は言葉遊びを多用し、ストーリーラインは意味で縫い閉じられない遊戯空間を迷走する。だが私たちの日常とはそのようなものではないか。誰かと交わす言葉や身振りの行き先などその時その場で見えてはいない。女子高生のおしゃべりに物語の端緒を見ると述べた作家がいたと思うが、咲き誇る身振りや発話の瞬間の愉悦を是とし、ただ可能性としてのみ存在し得る物語を生きている。

本作の最大のチャレンジはダンサーである児玉と斉藤の起用にあるだろう。二人は台詞を話し、ダンスを踊る。思考や感情が言葉にのることもあればダンスの動きに現れることもあり、その差異に大きな意味はないといった具合だ。発話の技術を持たないダンサーの声を発するテンションは低く、内的衝動を動きに変えることに大きな負荷を負わないダンサーの身体は、上演の印象をシンプルにしている。それは例えば演劇の俳優を起用した松原とスペースノットブランクによる過去作において、松原の書く言葉の速度や運動性と、俳優らの演技の重力・密度が相克、もしくは相乗することで異様なまでの上演の磁場を発生させていた例に照らせば対照的である。私はそれを以前「デフォルメ」と言ってみたが、戯曲を前提とする演劇創作の方法論に根差した、文字列への定着を図る発話の磁力ということになろう。かたや今作では松原の言葉の運動性がダンサーの身体により順接的に体現され、両者が同じ方向へ渦を巻きながら上演の軽やかな推進力を生んでいる。

児玉演じる「スワン」の思い込みの激しい一目惚れ、あさっての方向を向く思考回路。そのモノローグに小野彩加と中澤陽の演じる狂言回しが言葉の応酬で介入し、言葉尻から別文脈へと跳躍を繰り返す序盤の展開が爽快だ。児玉のふわりとした声の響きや、欧州のバレエ団で活躍したキャリアとテクニックを封印した日常的なピッチによるダンスは、隠しきれない筋の良さと、チャラ男でもオタクでもテロリストでもあるような今日のドン・キホーテ像を造形する。一度だけノーブルな王子の流儀でヒロインに応じる場面があり、その振舞いの落差もまた逃走的なドン・キホーテぶりを増幅するが、観客にとってはボーナスだった。

ヒロイン「ディディ」役の斉藤綾子の魅力は本作において決定的だ。寂寥感のある声の質、発語に宿る憂いのニュアンスと松原の書きつける言葉が奇蹟のような出会いを果たしている。児玉のスワンとのキュートな会話や、迷走しがちなやりとりや、渾身のダンスシーンを含んだ逢瀬の後の「また会いましょう、ここで」の一言に、この愛すべき時間はいずれ失われるのだという予感が滲んでいて、胸を突かれる。定形のヒロイン像に収まらない感受性の揺れを見せる一方、生まれ落ちたことが悲しみであるとどこかで知っているようなディディのキャラクターは斉藤自身のものでもあるのだろう。児玉とデュオを踊る場面の、体をいっぱいに使った動きを同調させてダンスを踊り終えてひと言「楽しい!」と発するディディの台詞は、斉藤が書かせたものだろう。むしろ本作の遊戯的な台詞の多くは、直接間接を問わず、ダンサーたちが松原に書かせた痕跡であるのだろう。

ある舞踏家の踊りを「受肉の喜び」と評した人がいるが、本作上演に見られるものは発露の喜び──上演の遂行的な局面を生きることの愉悦だと、言ってみる。

そうであるなら、こちらについても言及しなければならない。劇の最初、小野と中澤はト書きを声に出して発し、演劇言語の制度に対する侵犯を犯している。フロアの中央には最小限の装置としてパソコン操作用のデスクが置かれ、ここに松原と小野、中澤が待機して劇の進行を見守ったり音響を操作したりしている。従来バックヤードにいる者たちが演技空間に同席しており、しかも配役もされている小野と中澤は、同じ身体と声のピッチでト書きの発話から狂言回しの台詞へとシームレスに移行する。位相を異にするト書きと台詞が同じ平面におかれ、身体がそれらを行き来するのである。つまりこれは演技論に留まらず、劇の制度の構造に関わる。さらにト書きの一部は客観的な状況描写を逸脱し、情景に心情をのせた語りを含み(「窓に張りついて離れない心の友」、「時間は味わいであることを思い出し、涙が一滴」など)、能や文楽の謡いにもなぞらえられる形式上の遊びを試みている。因みに、今公演に伴って設けられた2回のオープンリハーサルを見学したが、通しの合間に出演者たちが自分の台詞を練習しており、任意の発話のおそらく偶然の交差が、楽しげなやりとりとしてその場に成立している場面を目撃した。各々が気ままに声にのせ、細切れに発するそれらは完遂を意図しない発話の「こぼれ」であるが、時にこれ以上ない愉楽の瞬間を立ち上らせる。クリエーションの現場とは時にこのように恩寵のような瞬間の訪れる場であるのだろう。

さて一方で、本作は紛れもないメロドラマの構造をもっている。主人公の二人がどちらへ転がっていくか予測のつかない思考や感受性を示すのに対し、よく見れば物語の磁場を作るモチーフが散りばめられている。『白鳥の湖』のバレエ音楽が随所で流れるのも然り。そして主人公以外の人物たちも物語の骨格を支える側である。中澤に配役された複数の人物はスワンの死んだ友人であり、過去であり、時間軸そのものと考えられる。狂言回しの「矢印」は「物語」とも「タケシ」とも称する役どころの三位一体の存在としてドラマの構造に太い主柱を通す。支離滅裂のスワンに対し、真実や思慮深さのメタファーとなるこの人物(たち)を、中澤は哲学的な問答を通してくっきりと造形している。

──  あなたは何者ですか?
──  ぼーくーが聞いてるんだ。
──  わたしはあなたの矢印です。

言葉のセンスにしびれるが、この「矢印」は「時間軸をもった物語」そのものと読め、この三位一体の人物によって、スワンは物語に繋ぎとめられる。小野の演じる「気印」「ハハ」「ミチコ」は、呪いをかける役どころの母、ヒロインを泰然とした世の理(ことわり)によってたしなめ支える乳母と、こちらも物語の定形をなす役者が揃ったことになる。シスターフッドによって「守ってあげる」と約束した『再生数』(前出)(2022、戯曲・松原俊太郎、演出・スペースノットブランク)のミチコの再来でもあろう。

何より「物語」の視覚的なモチーフとなるのが、主役の二人がフリースペースを巡って描く動線だ。前述のように、同期し、交差する動線は主人公たちの出会いや行方を暗示するが、2本の線は舞台奥の両端に設置されたテントをそれぞれ起点としていて、フロアを巡ると再びテントに帰ってくる。やがてこの反復がどうやらループ構造であることが明らかになり、さらに、テントがその入り口になっているワームホールを通じて2階ギャラリー=別の階層世界を設定したメタ構造も示される。人物たちはループの外に出たいと望み、実際にギャラリー背後の扉を開けてフリースペースの外へ出ていく。

劇空間に独自の時間構造を作ること、その構造から外へ出ることは、松原とスペースノットブランクによってこれまでにも実践されてきた劇構築の方法論だ。『光の中のアリス』(2020)では鏡面の反射が、『再生数』(2022)では舞台(上演)とスクリーン(上映)の混合が、作り出した独自の構造を、『ダンスダンスレボリューションズ』では動線のループ構造が担う。また2階ギャラリ―を利用し、上演を俯瞰する上位の階層およびメタレベルの視点を設けることも、従来の舞台芸術の制度/構造/言語/形式を構築し直そうとするスペースノットブランクのミッションに沿ったものだろう。

──  あなたがループの外に出るんじゃなくて、ループを外に出してあげたら?

ルイス・キャロルばりの言葉遊びにも聞こえるが、希望を感じさせる最後の台詞である。だが正真正銘の最終の場面で、ヒロインとヒーローが小野と中澤に交代していることが示唆される。物語の強固なループは永遠に続くのか。構造の中で、遊戯と創造の瞬間に身を投じ続けることが希望だろうか。

動線、時間軸、俯瞰する階層。劇世界を構成する複数のフェーズの構造を、舞台芸術の言語/形式の再構築に重ね合わせる構想が鮮やかだ。この構造上の冒険と、遂行的な身体の発露との緊張関係が本作上演を成立させている。

ダンスダンスレボリューションズ

批評・レビュー
2023年10月11日(水) ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|越智雄磨:脱-演劇、脱-俳優、脱-劇作家の時代─『ダンスダンスレボリューションズ』を巡って
2023年10月31日(火) ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|竹田真理:ループする時間と発露の空間
2023年11月5日(日) 浄土複合スクール|ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|神田恵理:踊る言葉、場が呼び起こすダンス
2023年11月5日(日) 浄土複合スクール|ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|各務文歌:矢印はダンスを踊らない

クラウドファンディング|塚原悠也:応援メッセージ

 まじで期待しています!! 思いつくこと全部やってほしい。

contact Gonzo メンバー/KYOTO EXPERIMENT 共同ディレクター
塚原悠也 Yuya Tsukahara
2002年にNPO DANCEBOXのボランティアスタッフとして参加した後、運営スタッフとして勤務。2006年パフォーマンス集団contact Gonzoの活動を開始。殴り合いのようにも、ある種のダンスのようにも見える、既存の概念を無視したかのような即興的なパフォーマンス作品を多数制作。またその経験をもとに映像 写真、様々な形態のインスタレーション作品、雑誌の編集発行、ケータリングなどもチームで行う。2011-2017年、セゾン文化財団のフェロー助成アーティスト。2020「読売演劇大賞」スタッフ賞受賞(演劇作品「プラータナー」におけるセノグラフィと振付に対して)、2021年contact Gonzoとして京都市芸術新人賞受賞。
ご支援のお申込みはこちらから|2023年10月31日(火)23:59まで
2023年9月、京都芸術センター フリースペースにて上演を行なった『ダンスダンスレボリューションズ』公演について、アーツサポート関西の「寄付型クラウドファンディング助成」に採択いただき、クラウドファンディングを実施いたしております。皆様からご支援を賜りたく、心よりお願い申し上げます。

クラウドファンディング|ジュリエット・ナップ:応援メッセージ

 ダンスと演劇をまたいで活動するスペースノットブランクの作品は、常にこの2つのジャンルの境界と関係について考えさせられます。 松原俊太郎とのコラボレーション作品は愛や記憶などのテーマに触れていますが、一連のテーマに集約されることを回避しようとするところが挑戦的だと思います。 その代わりに、彼らは形式に重点を置くことで、独自の演劇言語を編み出していると感じます。 彼らは作品を通じて、パフォーマンス、演劇、ストーリーテリングとは何か、そしてテキスト、演出家、出演者、観客の関係とは何かをいつも問いかけてます。今後の活動を楽しみにしてます、ぜひ応援してください!

©︎ Takuya Matsumi
KYOTO EXPERIMENT 共同ディレクター
ジュリエット・ナップ Juliet Knapp
福岡生まれ。オックスフォード大学英語英文学科卒業。2015ー2017年Ryoji Ikeda Studio Kyotoでコミュニケーションマネージャー、音楽及びパフォーマンスのプロジェクトマネジャー。2017年よりKYOTO EXPERIMENTに広報として参加し、2020年より共同ディレクター。
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クラウドファンディング|谷竜一:応援メッセージ

 スペースノットブランクの作品は、これまでも何度か拝見していましたが、クリエイションに関わるのは初めてでした。
 本当にほとんどゼロの状態から、1ヵ月余りで作品を立ち上げていくさまは興味深く、かつ朗らかな現場で、楽しんで伴走させていただきました。
 京都の辣腕劇作家、松原さんの実力はもはや疑いないものですが、スペノのお二人や、出演者の斉藤綾子さん、児玉北斗さんとの化学反応で有機的に作品が発展していくさまに、また新しい舞台芸術の可能性を想像することができました。
 こういう刺激があるからこそ、創作の場としての京都芸術センターは、歩みを止めずにいられるのだと思います。

 上演成果である『ダンスダンスレボリューションズ』は、とっても軽やかで、どこでも上演できそうで、かつ舞台芸術の楽しさと可能性が詰まっている作品になったと感じています。
 本作は、京都芸術センターのCo-programというプロジェクトでも採択し支援しているため、会場と付帯設備、上限付きで予算も提供していますが、どんなに軽やかにみえる作品にも、相応の時間とコストがかかるものです。ましてや1か月の合宿を組んでの創作・上演となると、なによりアーティストのみなさんから、時間的にも体力的にも、多くを賭していただくことで成立しています。
 こんなにも貴重で、楽しい作品が、京都でのわずか4ステージの上演ではもったいない限り。
 ぜひ再演を。そして、再演とさらなる可能性の探求のための体力をスペースノットブランクが維持し続けられるよう、ぜひご支援をお願いいたします。

京都芸術センター プログラムディレクター
谷竜一 Ryuichi Tani
1984年福井県大飯郡高浜町生まれ。詩人、演劇作家、芸術労働者。山口大学教育学部卒、東京芸術大学音楽研究科音楽文化学専攻芸術環境創造研究分野(修士)修了。京都芸術センターアートコーディネーター、京都府地域アートマネージャー(山城地域担当)を経て、2021年より現職。演劇・ダンスを中心に、現代美術、伝統芸能等多岐にわたる事業企画・運営に携わる。2022年度からはアーティスト・イン・レジデンス事業の統括も担当。本企画「松原俊太郎 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク 不自由な言葉を離す身体『ダンスダンスレボリューションズ』」の京都芸術センター側の担当者でもある。また、山口大学在籍中に舞台芸術ユニット「集団:歩行訓練」を立ち上げ、以降現在まで陰に日向に演劇等の作品を制作。演劇作家としての近作に、BEBERICA theater company「あかちゃんとおとなのための演劇 ベイビーシアター『水の駅』」(2022、演出)等。
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クラウドファンディング|河井朗:応援メッセージ

 作品ごとに舞台芸術の製作と上演において革新と革命を起こすので、舞台芸術というものが何かについて何度も問われることになった。原初的な立ち位置から、言葉ってなんだろう、身体ってなんだろう、生活ってなんだろう、物語ってなんだろうというふうに、舞台芸術がそもそも何から生まれるのかを見つめ続け、提供するからである。
 きっと小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクはこれからも我々の過去と、我々の未来を照らしながら作品を提供するだろう。彼らを応援することは自分たちの過去と未来を応援することでもあると思っています。ぜひ応援をよろしくお願いします。

©︎ manami tanaka
ルサンチカ 主宰/演出家
河井朗 Hogara Kawai
1993年大阪生まれ。演出家。年齢職業問わずインタヴューを継続的に行い、それをコラージュしたものをテキストとして扱い上演を行う。そのほかにも既成戯曲、小説などのテキストを使用して現代と過去に存在するモラルと、取材した当事者たちの真実と事実を織り交ぜ、実際にある現実を再構築することを目指す。近作に『殺意(ストリップショウ)』(2023)、『女生徒』(2022)、『GOOD WAR』(2021-2023)、『PIPE DREAM』(2019-2022)など。
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クラウドファンディング|川崎陽子:応援メッセージ

 スペースノットブランクの活動にはこの数年注目していて、矢継ぎ早に発表される作品をなるべく追いかけてきた。…とはいえ、追いかけきれないくらいたくさんの活動を展開していて、それ自体が驚嘆すべきことである。そしてさらに驚くべきことに、毎回それらの作品や活動たちは想像のあさってをいくもので、生半可な「理解」なんか必要としていない。なかでも、劇作家の松原俊太郎とのコラボレーションは何度回数を重ねても「理解」を軽々と飛び越えてきた。『ダンスダンスレボリューションズ』は、そうした松原との協働のなかでも、今までにも増して軽やかに時間も空間も行き来しながら、決して重苦しくない挑戦を観る者に提案してきて、非常に楽しかった。ぜひまたミチコに会えるように、クラウドファンディングがうまくいくよう願っています。

©︎ Takuya Matsumi
KYOTO EXPERIMENT 共同ディレクター
川崎陽子 Yoko Kawasaki
株式会社CAN、京都芸術センター アートコーディネーターを経て2014-15 年、文化庁新進芸術家海外研修制度によりドイツ、ベルリンにて研修。2011年よりKYOTO EXPERIMENT制作スタッフ、2020年より共同ディレクター。
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クラウドファンディング|斉藤綾子:応援メッセージ

 肩書を飛び越えるって、素直に相手をよく見ることなのかも。スペースノットブランクさんの作品づくりに参加してストンと腑に落ちました。わたしは普段ダンサーを名乗りますが、それ以前に斉藤綾子であると思い出させてくれる場でした。
 手段や形式で溢れている今の時代にお二人が舞台芸術を選択している、それによってあらゆる閉塞感が軽やかに開かれていく。その様をリアルタイムで見続けられるのはとても尊いことだと感じます。

©︎ manami tanaka
ダンサー
斉藤綾子 Ayako Saitoh
1990年大阪府生まれ。幼い頃から踊りに親しむ。大阪芸術大学舞台芸術学科舞踊コース卒業。2016年よりダンスユニット …1[アマリイチ] での活動を開始。関西を拠点とし、多くの作品に出演。バレエダンサーへの振付提供や指導、サイトウマコトの振付助手、制作なども行う。自身の主な作品は『夢の跡』『Les Sylphides』『ほねのかげ』など。2020年に開催したソロ公演『書くとか歩くとか』では、オンステージ新聞で新人振付家として取り上げられた。令和3年度京都市芸術新人賞を受賞。今年2月「京都マラソン2023」完走。
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クラウドファンディング|白神ももこ:応援メッセージ

 スペースノットブランクはずっと挑戦的であり友好的である。尖っているようでするっと柔らかく、知的に親しみある笑みで、さくっと地元のスーパーでばったり会っちゃいそうな人たち。ダンスと演劇、身体と言葉がかろやかに友好的に交わる。ニッチなようで、ちゃんとキラリふじみの清掃のおじさんまで虜にしていた、スペノ。世代や場所を越えて人々が楽しむ何か一つの光を提示してくれそうな、そんな期待をしている。

©︎ 北川姉妹
モモンガ・コンプレックス 主宰/振付家・演出家・ダンサー
富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ 芸術監督
白神ももこ Momoko Shiraga
2005年よりダンス・パフォーマンス的グループ、モモンガ・コンプレックスを立ち上げ、すべての作品の構成・演出・振付を担当。
個人史や生活をもとにした作品創作を行い、無意味・無駄を積極的に取り入れユニークな空間を醸し出す。
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クラウドファンディング|佐々木敦:応援メッセージ

 スペノと松原俊太郎、上演と戯曲、言語的身体と身体的言語、出口と入口、彼らが組むと知った時は大層興奮したものだ。奇才と鬼才の遭遇。期待は何倍返しかで叶えられた。だがもっと凄いのは、この手合わせが継続したことである。そのたびごとに、驚きはますます加速し増幅し、両者は単独では開かれることがなかったかもしれない可能性の領域に、私たち観客を連れていった。
 『ダンスダンスレボリューションズ』は、その最新の成果にして最長不倒距離の達成である。私はこのためだけに京都に向かい、またしても驚嘆させられたのだった。
 だがまだまだ彼らは満足していないだろう。書くことと演ることのダンスダンス革命は、今後も続くに違いない。

思考家・批評家・文筆家
佐々木敦 Atsushi Sasaki
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クラウドファンディング|福井裕孝:応援メッセージ

 高い志を持ちながら、それでいて地に足のついた、地が映える舞台。天井と壁による物理的な限界ではなく床の自由な広がりこそを思い出させてくれる。『ダンスダンスレボリューションズ』は見れなかったけど、きっと地の上で戯れるよろこびに満ちたものだったのだろうと想像します。いつかオールド・トラッフォードで再演してほしい。

©︎ Yujiro Sagami
演出家
福井裕孝 Hirotaka Fukui
1996年京都生まれ。演出家。人・もの・空間の関係を演劇的な技法を用いて再編し、その場に生まれる多層的な状況を作品化する。近作に『インテリア』(2020, 2023)、『デスクトップ・シアター』(2021)、『シアターマテリアル』(2020, 2022)など。2022年度よりTHEATRE E9 KYOTOアソシエイトアーティスト。
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クラウドファンディング|徳永京子:応援メッセージ

 公式サイトに「コレクティブ」とあるので、劇団という表現は適切ではないのだろうけれど、一旦ここでは許してもらうとして、以前から、日本で一番ラディカルな劇団はスペースノットブランクではないかと思っていた。理由は作品数。まるで息を吐くリズムで、しかも毎回角度の違う身体系哲学作品をつくってくる。けれど「悲劇喜劇9月号」への寄稿を読んで考えを改めた。そこに「俳優として外部に呼ばれると、稽古時間外にせりふを覚えてくる作業を要求される」ことへの疑問があった。稽古初日にはせりふを暗記しているのが俳優のあるべき姿と長く盲信していた私には、目の醒める一文だった。スペノのラディカルさはもっと根本的だった。創作を通して真新しい価値観を提示し、あらゆる前提を揺さぶってくるこの人達に、さらなる注目と応援が集まることを願っている。

©︎ 宮川舞子
演劇ジャーナリスト
徳永京子 Kyoko Tokunaga
朝日新聞に劇評執筆。演劇専門誌act guideに『俳優の中』連載中。ローソンチケットウェブメディア『演劇最強論-ing』企画・監修・執筆。東京芸術劇場企画運営委員。せんがわ劇場演劇アドバイザー。読売演劇大賞選考委員。緊急事態舞台芸術ネットワーク理事。著書に『「演劇の街」をつくった男─本多一夫と下北沢』、『我らに光を─蜷川幸雄と高齢者俳優41人の挑戦』、『演劇最強論』(藤原ちから氏と共著)。
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クラウドファンディング|松井周:応援メッセージ

 スペースノットブランク(小野彩加 中澤陽)の作品を観ていると、身体が楽になる。「あ、まだまだやりようがあるんだ」という気付きがある。好奇心を丹念に形にしていけば表現がうまれると信じられる。素材を過度に盛ったり削ったりすることもなく、方法を吟味し、運動が起き、熱と形が生じてくる。
 そんなプロセスを経ているのかなと想像した。なんというか、作品を観るのと同時にメイキングを味わっているようで得した気分になる。題材や上演場所が違ってもそれは同じで、終演後にまた振り返りたくなる、今自分は何を体験したのかと。
 こういう贅沢を保証してくれるスペースノットブランクを応援しています。
 このユニット名こそまさに、口にした後にメイキングを思い浮かべるわけで、本当に一貫しているなと驚きます。

サンプル/劇作家・演出家・俳優
松井周 Shu Matsui
劇作家・演出家・俳優。1972年東京都出身。明治学院大学演劇研究会で寺山修司や唐十郎のアングラ演劇に影響を受けたが、平田オリザの現代口語演劇と出会ったことをきっかけに、1996年に劇団青年団入団。2007年に劇団[サンプル]を結成、青年団から独立。2010年にニューヨークタイムズで「日本における最も重要な演出家の一人」と紹介された。2011年『自慢の息子』で第55回岸田國士戯曲賞を受賞。伊、仏、米、台湾に続き韓国では2020年から3戯曲が翻訳上演されるなど、国内外から評価を受けている。
ご支援のお申込みはこちらから|2023年10月31日(火)23:59まで
2023年9月、京都芸術センター フリースペースにて上演を行なった『ダンスダンスレボリューションズ』公演について、アーツサポート関西の「寄付型クラウドファンディング助成」に採択いただき、クラウドファンディングを実施いたしております。皆様からご支援を賜りたく、心よりお願い申し上げます。

クラウドファンディング|木村覚:応援メッセージ

 ダンスを批評してきた私ですが、決して活発とは言えない今日のダンス上演の状況を憂いています。近年ますます勢いをつけてきた小野さんと中澤さんの活動は、そうした憂いを忘れさせてくれる前向きな明るさを感じます。ジャンルをまたぎながら、舞台芸術の可能性をガンガン探究している二人の活躍から、未来のダンスの方向性がほのかにでも見えてくることを期待しています。

日本女子大学 教授/美学者・ダンス批評
木村覚 Satoru Kimura Web
美学者、ダンス批評。日本女子大学教授。近代美学を専門としながら、コンテンポラリー・ダンスや舞踏を中心とするパフォーマンス批評を行ってきた。著作として『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』(メディア総合研究所)、『笑いの哲学』(講談社)ほかがある。2014年より「ダンスを作るためのプラットフォーム」BONUSを始動、振付家らとフレッシュなダンスの発明に取り組んできた。
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クラウドファンディング|岡田利規:応援メッセージ

 これまでスペースノットブランクの作品はいくつか見てます。いつも不可解です。
 どう不可解か。スペノのパフォーマンスには常にある種の熱があるのですが、なぜそのように熱を込めるのか? どうしてそんなところに熱をあげてるのか? それがわからないのです。また、パフォーマンスのクオリティが問題にされている、そのことはとても強く感じるのだけれど、さて、ではここではクオリティなるものははたしてどのようなものだと定義されてるのか? それがわからないのです。
 不可解だから不快ということではもちろんありません。快いわけでもないのですが。
 ここで何が問題にされているのかが、いつか自分にわかるときが、来たらいいなと思っています。
 だからクラウドファンディング、ぜひうまくいきますように。心から応援してます。

©︎ 宇壽山貴久子
チェルフィッチュ 主宰
岡田利規 Toshiki Okada
演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。 2005年『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。主宰する演劇カンパニー・チェルフィッチュでは2007年に同作で海外進出を果たして以降、世界90都市以上で上演。海外での評価も高く、16年よりドイツを始め欧州の劇場レパートリー作品の作・演出を複数回務める。近年は能の現代語訳、歌舞伎演目の脚本・演出など活動の幅を広げ、歌劇『夕鶴』(2021年)で初めてオペラの演出を手がけた。2023年には作曲家 藤倉大とのコラボレーションによる音楽劇、チェルフィッチュ × 藤倉大 with クラングフォルム・ウィーン『リビングルームのメタモルフォーシス』をウィーンにて初演。小説家としては2007年にはデビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社)を発表し、2022年『ブロッコリーレボリューション』(新潮社)で第35回三島由紀夫賞、第64回熊日文学賞を受賞。
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クラウドファンディング|岡元ひかる:応援メッセージ

 先日『ダンスダンスレボリューションズ』を拝見しました。劇作家、俳優、ダンサー、舞台作家、振付家という役割のどれもが互いに侵食し合うような状況がそこにあった気がします。コレクティブのあり方、言葉と身体の距離やその角度、古典へのアプローチなど、すでにスペースノットブランクの作品と創作をめぐる関心ごとが尽きません。お二人とその協働者たちによる実験的な試みが、多くの人からサポートされることを願っております。

芸術文化観光専門職大学 助教
岡元ひかる Hikaru Okamoto
ダンス研究者。これまで主に言葉を使った振付手法や稽古に関する研究を行ってきた。
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クラウドファンディング|児玉北斗:応援メッセージ

 ジャンルや領域、世代のギャップをものともせず、様々なアーティストとの協働を重ね意欲的な創作活動を続けるスペースノットブランクとの創作プロセスは、そういった枠組みにどこか息苦しさを感じている私にとってとても意義深いものでした。これからは国境も飛び超えて縦横無尽に活躍の場を拡大していくことを期待しています!

ダンサー・振付家
児玉北斗 Hokuto Kodama
ダンサーとしてヨーテボリオペラ・ダンスカンパニーなどに所属、マッツ・エックらの作品で主要なパートを務めた他、振付家としても『Trace(s)』(2017年)、『Pure Core』(2020年)などの作品を発表し高い評価を得る。また研究者としても舞踊美学の領域で活動し、2021年からは芸術文化観光専門職大学(兵庫県豊岡市)の専任講師に着任。ダンスの実践・研究・教育に多角的に取り組んでいる。
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クラウドファンディング|森山直人:応援メッセージ

 スペースノットブランクと松原俊太郎の協働作業は、2019年にはじまった。それから4年ほどが経ち、すでに5作目を迎えている。
 『ダンスダンスレボリューションズ』は、先日京都で見た。「レボリューション」という言葉がかかげられているが、たぶんそれは「嘘」だ。なぜなら、たぶんそこで目指されているのは、「革命」などというこれみよがしの大げさなイベントではなく、時折魅力的な光を発しながらも、本質的には長い時間をかけた化学変化のようなものだったからである。わたしはそのようなラボ的作業に魅力を感じる。そこには信じることと期待することがともなうからだ。惰性で進んでいくだけの演劇業界にはないあざやかな「輝き」を、私も信じて期待しつづけたい。

演劇批評家
森山直人 Naoto Moriyama
演劇批評家。1968年生まれ。多摩美術大学美術学部・演劇舞踊デザイン学科教授。京都造形芸術大学教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員を経て現職。2012年から2019年まで、KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員長を務めた。著書に『舞台芸術の魅力』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文、劇評に、「日本語で「歌うこと」、「話すこと」:演劇的な「声」をめぐる考察」(『舞台芸術』24号)、「メロドラマ」が「メロドラマ」から解放されるとき──上田久美子『バイオーム』評」(関西えんげきサイト)、他多数。
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クラウドファンディング|松原俊太郎:応援メッセージ

 スペースノットブランクは KYOTO EXPERIMENT 2022 で上演した『再生数』では映画と演劇の垣根をとっぱらいました。
 先日京都芸術センターで上演した『ダンスダンスレボリューションズ』ではダンスと演劇の垣根をとっぱらいました。
 ゆくゆくはカンヌとアカデミー賞の、自国と外国の垣根を取っ払っていくでしょう。
 私はスペースノットブランクとすでに関わっていますが、まじで会えてよかったと思っています。

劇作家
松原俊太郎 Shuntaro Matsubara
劇作家。1988年、熊本生まれ、京都在住。神戸大学経済学部卒。戯曲『みちゆき』(2015年)が第15回AAF戯曲賞大賞を受賞。戯曲『山山』が第63回岸田國士戯曲賞を受賞。主な作品として小説『ほんとうのこといって』『イヌに捧ぐ』、戯曲『正面に気をつけろ』『光の中のアリス』など。2023年度セゾン・フェローⅠ。
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クラウドファンディング|倉田翠:応援メッセージ

 カラカラに乾いていて、バカバカしくて、意味のない(ような)ことに全力で、呆れて笑ってしまう。ひたすら続くそんな時間の先に、おかしくておかしくて泣けてくるような悲しみがある。そうそう、悲しいってこういう感じなんだよな。
 スペースノットブランクの作品には、演劇やダンスで安易に捏造し表現されてしまわないリアルな体感がある。
 そんなに感情的じゃない、日々淡々と繰り返されているささやかな天国と地獄みたいな。

©︎ Bea Borgers
akakilike/演出家・ダンサー
倉田翠 Midori Kurata
1987年三重県生まれ。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)映像・舞台芸術学科卒業。 3歳よりクラシックバレエ、モダンバレエを始める。京都を拠点に、演出家・振付家・ダンサーとして活動。作品ごとに自身や他者と向かい合い、そこに生じる事象を舞台構造を使ってフィクションとして立ち上がらせることで「ダンス」の可能性を探求している。2016年より、倉田翠とテクニカルスタッフのみの団体、akakilike(アカキライク)の主宰を務め、アクターとスタッフが対等な立ち位置で作品に関わる事を目指し活動している。2024年度から、まつもと市民芸術館 芸術監督(舞踊部門)に就任。セゾン文化財団セゾン・フェローⅠ。
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言葉とシェイクスピアの鳥|長いステートメント

 2018年9月『舞台らしき舞台されど舞台』、2019年3月『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』、2019年6月『すべては原子で満満ちている』を上演した。舞台の構造を多元化し、現実の観客と舞台の「距離を取る」ための試みを断続して行なったそれらは「舞台三部作」と名付けられた。
 それから程なくして、人間たちは現実世界でも「距離を取る」ことを已む無くされた。現実の観客と舞台の距離は自然と遠ざかり、反して現実と虚構の距離が着実に近づくこととなった。それは舞台にとって想定内の展開であるべき筈だったが、それらを誤魔化し、然もありなんと舞台に再び上演を配置することを私たちは目指さなかった。
 すると、舞台を物体として配置することを思い立つ。思い立ったそれは、上演と舞台の関係を見直し、観客をも物体として保存することを志す、新しい「物体三部作」の構想となり、その始まりとして、2021年9月『舞台らしきモニュメント』を上演した。

 これは、その第二部として上演しようと考えている新作『言葉とシェイクスピアの鳥』である。

 「集団」「集団の言葉」「言葉の意味の侵入」をコンセプトに据えた『言葉とシェイクスピアの鳥』は、舞台の歴史を象徴する人物の一人であるウィリアム・シェイクスピアの「言葉」が、間接的にアメリカという大国を侵略してしまった──かもしれない──エピソード──或いは都市伝説──を導入に、舞台による舞台の侵略という群像を描こうとする舞台である。

 1890年、ユージン・シーフェリンというアメリカのアマチュア鳥類学者が「シェイクスピアの作品に登場するすべての鳥をアメリカに呼び寄せるプロジェクト」の一環として、イギリスから輸入した60羽のムクドリをニューヨークのセントラルパークに放った。その結果として、ムクドリの普及には成功した──現在のアメリカには、2億羽ものムクドリが生息していると推定されている──ものの、木の上の巣穴を競合する多くの在来鳥が犠牲となった。
 1960年、増えすぎたムクドリはアメリカの航空史上最も致命的なバードストライクを引き起こした。ボストンのローガン空港を離陸したイースタン航空375便のエンジンにムクドリの群れが突撃し、飛行機は港へと墜落。乗員乗客72名中62名が死亡した。さらには農作物、特に果樹へと甚大な被害を与え、アメリカの農業に年間推定10億ドルの損害を与えている。
 そのようにして、アメリカの経済と生態系に多くの影響を与え続けた結果、ムクドリはアメリカの法律では保護されない数少ない鳥類の一種となり、たとえ野生のムクドリを殺傷したとしても、人間が罪に問われることはなくなった。2012年、アメリカの農務省がムクドリを銃殺と捕獲により150万羽近く殺した、という記録も存在している。

 『言葉とシェイクスピアの鳥』には、大きな三つの要素として「関係のない言葉」と「関係のある言葉」と「劇場という構造物に対していくつかの形態を示そうとする空間と身体」が表現される。そこに筋立てた物語は存在しない。それぞれの要素の生態のようなものが、それぞれの環境のようなものにどのようにして適合しようとするのか、そもそもの存在のようなもの自体を選択しようとするのか。敵対と親睦を用いて舞台による舞台の侵略を上演の時間と空間に体現することを目指す。

 観客席を含めた空間は列車のように喩えることができる。最後尾車両として引き続けられるだけの観客席は、やがてあるところで連結を解かれ、推進力を失い、物理法則のままに停止してしまうことによって終演を迎える。この舞台は、観客席に存在する観客へと直接の影響を及ぼさんとすることを徹底的に拒否することになる。保存されていた観客が自己の推進力の存在を再発見するきっかけとなることが、この上演の向かう終着点である。

2023年10月20日(金)小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

参照:BBC “The birds of Shakespeare cause US trouble”

チケット発売中|お申込みはこちらから
チケット取扱:公益財団法人武蔵野文化生涯学習事業団 電話:0422-54-2011

言葉とシェイクスピアの鳥

吉祥寺シアター
出演者インタビュー
稽古場レポート

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
長いステートメント
最初で最後のイントロダクション

ワークインプログレス|滞在レポート+レビュー
大石英史:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』KIAC滞在レポート①
野間共喜:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』KIAC滞在レポート②
深澤しほ:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』KIAC滞在レポート③
髙橋慧丞:あしたのば、あさってのこと──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』KIAC滞在レポート④+レビュー
山田淳也:アメーバ化する舞台と身体──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』ワークインプログレス レビュー

ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|越智雄磨:脱-演劇、脱-俳優、脱-劇作家の時代─『ダンスダンスレボリューションズ』を巡って

越智雄磨 Yuma Ochi
東京都立大学人文社会学部准教授。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員。博士(文学)。専門はフランスを中心としたコンテンポラリー・ダンス研究。早稲田大学演劇博物館においてコンテンポラリー・ダンスに関する展示「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」(2015-2016)のキュレーションを担当。著書に『コンテンポラリー・ダンスの現在─ノン・ダンス以後の地平』(2020)がある。

 六本木の俳優座劇場が閉鎖されるらしいとのニュースを聞いて、驚いたと同時になぜか納得した心持ちになったことを思い出す。おそらく、一つの俳優なり演劇についての観念が終わろうとしているのだ。第二次世界大戦も終わりに差し掛かった1944年に、千田是也を中心に演劇をやろうとして集まったのが俳優だったことからその名称が付けられたのだという。戦後、日本の演劇界を牽引してきたこの劇団の核にあった俳優理論の一つは、スタニスラフスキーによる演技論であり、もう一つブレヒトによる演技論だったと思われる(千田是也はこの両者の本を読み、翻訳している)。誤解を恐れずに単純化して言えば、前者は役柄に接近する志向を持ち、後者は役柄と距離を取ろうとする演技論である。一見、矛盾するような二つの俳優論が千田是也や俳優座の俳優たちの身体においてどのように調停され受肉されたのか、それについてリサーチのしがいのあるところであるが、俳優座の芝居を数本しか見たことのない私に語れる資格はない。しかし、なにか戦後の新劇とともにあった俳優の観念、あるいは演劇の観念はすでにどこかで過去の神話となっており、俳優座閉館はそれを象徴しているのではないか、と思わせるのである。この劇場が閉鎖するというだけで、俳優座という劇団は存続するらしいので、俳優座はまた新たな「俳優」のあり方を見つけるのかもしれない。
 松原俊太郎とスペースノットブランクの『ダンスダンスレボリューションズ』の評を書く上で、全く関係のない事柄を書き出してしまったかもしれないが、俳優という観念の死とアップデートというトピックにこの作品は強い関連性を持っている。しかしこの『ダンスダンスレボリューションズ』を劇と言っていいのかもわからない。先に「劇評」と書かずに単に「評」と書いたのはこのパフォーマンスの分類の難しさにある(そう、パフォーマンスという名称を当てるのはおそらく悪くない)。おそらく、このように思考を巡らせるときに既に松原俊太郎とスペースノットブランクの世界の魅力に引き込まれている。名状しがたいパフォーマンスの時間と空間のなかで、自分が経験したものは何だったのだろうか? 戯曲の内容に解釈の矛先が向かう前に、舞台に出演している劇作家、演出家、パフォーマーたちの身体の役割や関係性が気になってくる。舞台上のこれらすべての存在が既存の戯曲観、俳優観、演出観、ダンサー観をはみ出してくるのだ。話の大筋としては、ディディに恋をしたスワンの物語と要約することもできるだろうが、それは必ずしも意味をなさない。枝葉末節かと思われたサブストーリーで語られた言葉が実は重要なのではないかという気もする。空間と時間をワープする登場人物たちは断片化された話を集積し、独特の世界観を構築していく。掴みどころがないのは、今までに似たものをみたことがないからだ。
 しかし、なんとかこの舞台の概要を描出してみたい。舞台に登場するのは劇作家の松原俊太郎、メインの登場人物であるスワン役の児玉北斗とディディ役の斉藤綾子、演出家としてそして同時にフィクションの中でのいくつかの役として登場する小野彩加と中澤陽である。演出家が上演中にずっと登場している例はタデウシュ・カントールの『死の教室』くらいしか思い浮かばないが(思えば『死の教室』も演劇の概念をかなり広げた作品だ)、劇作家も上演中にずっと舞台にいた例をみたのは初めてかもしれない。劇作家の時代と言われた19世紀には、劇作家は演劇の中心的な役割を担っており、俳優たちは劇作家が書き上げる脚本を待ち、それを上演する。演劇を構成する諸要素の中で、相対的にドラマ(戯曲)が高く、それが解釈の中心的対象だった。演出家の時代と言われる20世紀はいかに古典的戯曲を解体し、再解釈、アダプテーションするのか、という演出家の手腕が見どころとなる。さて『ダンスダンスレボリューションズ』はというと、劇作家、演出家、俳優の間の関係性がまた異なるようなのだ。まだ名付け得ない21世紀的な新しいドラマトゥルギーをここに見ることができるだろうか。
 メインキャストである児玉北斗と斉藤綾子は普段はダンサーとして活動している。児玉はヨーテボリバレエやスウェーデン王立バレエで踊ってきた卓越した技術を持ったダンサーでありスワンという名は『白鳥の湖』も思い起こさせるし、実際その曲に合わせて踊る場面もあるが、その台詞は滑稽でシュールでギャグ要素が満載である。そして、この言葉のセンスがどこからどう来てるのかも不明であるが、見る者の想像力をひっぱる言葉の牽引力がものすごく強い。突拍子もない名前の人物、突拍子もない台詞、シチュエーションだが、なぜかついていけてしまう。ここには言葉の選択と配置とリズムの妙がある。たとえば、好きな人ができたというスワンと親友タケシ(中澤)のやりとりはこんな具合である。

 タケシ「告白して付き合って結婚して死ね。」
 スワン「お前いつからそんなギリシア人みたいになっちまったんだ。」
 タケシ「おれはタケシと名付けられたときからギリシア人だし火星人だしお前の親友だ。」
 スワン「お前のそういうところが好きだ。」
 タケシ「お前の好きな人にもそう言えばいい。」

 あるいはハハ(小野)とディディのやりとりはこのような具合である。

 ディディ「あーわかる新幹線道路沿いのブックオフとかジョイフルとか、イオンモールの中のヴィレヴァンとか見ると安心する。」
 ハハ「固有名詞の喚起力は凄まじいんだけどもっと繊細な空気みたいなもんだね、違和感が肌に馴染むっていうか。南禅寺で風にあたるたびにはあ〜初めて〜って気がするしもう何百回きとんねんって気にもなってそのあいだで子どものわたしが笑ってんるんだよ。」

 言葉はいきなり最大風速にした扇風機の風のように、身体を通り抜けていくような印象だ。そして感覚やイメージ、記憶を沸き立たせる。また別の場面で展開する私たちの身体と主体を資本として組みこむ資本主義のループについての会話は、土方巽の支離滅裂だけど妙に核心を突いてくるような身体をめぐる批評的エッセイを読んだ時に得た感覚も思い出す。資本主義においては、身体は有用で効率的な理解可能なコミュニケーションに奉仕する存在になることを自然と迫られるが、土方の舞踏はそのような存在に囚われない人間像を示したと言っていい。『ダンスダンスレボリューションズ』の言葉もまたドラマの論理、あるいは論理的整合性を伝えると同時によりも早く身体にイメージと感覚をぶつけてくる。もっと踏み込んで、その言葉はコミュニケーションのためというよりも、コミュニケーションの関節を外しにやってくると言った方がいいのかもしれない。その意味では言葉は舞台に立つ身体が言語の裂け目のコミュニケーションを行うための─ダンスするためのインストラクションのようにも聞こえてくる。
 この戯曲/言葉の特殊性は、この戯曲の書かれた方法にもよるのかもしれない。この戯曲は稽古が始まると同時に書き始められたと聞く。劇作家の松原は、稽古場でダンサーと演出家と日々、時間を過ごし、そこで共に過ごした身体や時間をベースに戯曲を書き加えていった。この戯曲に身体感覚的なものやイメージを牽引する力や速度を感じるのは、現場の感覚を即時に持ち帰って言葉に書き留める特殊な創作体制によるところも大きいのだろうと思う。こうした創作方法はまるで、演者たちが日々持ちよるアイデアによって形を毎日変えていったイヴォンヌ・レイナーの『日々変更される継続したプロジェクト(Continuous project altered daily)』を思わせる。プロセスを重視したそのような創作方法はレイナーの場合にあってもそうであったように、必然的に劇作家のオーサーシップや演出家のディレクターシップを基調とした作品作りの序列や関係に変更を加えるだろうし、また観客の作品に向かう態度スペクテイターシップにも変更を加えるだろう。俳優は俳優ではないし、ダンサーでもないが、同時にその両方でもある。本公演の前に、二度オープンリハーサルもあったようだがそちらもできれば見てみたかった。何かが生成する瞬間がきっとあったはずである。
 アリストテレスの悲劇論を軸に展開した伝統的な演劇というものがオーソドックスな演劇の歴史を作ってきたとするならば、『ダンスダンスレボリューションズ』は、演劇の言葉と動き、すなわち時間と空間が紡がれる機序が確実に変化しはじめていることを告げている。
 かつてジャン・デュヴュニョーは古代ギリシアにおいて、俳優たちは、変動する社会に適応できないでいる人々の集団的苦悩に答えようとして神話から演劇を創ったと述べた。あるいは、そのような変動する社会の不安に確かさを与えるために俳優という存在が生まれたとも言う。それゆえに、「神話や現実世界の中で俳優が自分の役を示そうとして操るシンボルは常に論戦的」であった。神話と決別するために古代ギリシアで演劇が生まれたように、『ダンスダンスレボリューションズ』というかつての演劇的なもの、演劇を作る各職能を逸脱させる、脱構築的なパフォーマンスが生み出された背景には、何か大きな社会の変動、とりわけコミュニケーションをめぐる不安と期待を伴う人間の感性の変動があるに違いない。デヴュニョー曰く、神話が示す人物を演じる俳優は「昨日の人間を今日の人間から引き離す距離」を示していた。『ダンスダンスレボリューションズ』が創造し得た「明日の人間」はどの方向に向かって歩いているのだろうか? 私たちは、新しい神話を待ち望んでいるか、すでにそれを我がものにし始めているのかもしれない。

ダンスダンスレボリューションズ

批評・レビュー
2023年10月11日(水) ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|越智雄磨:脱-演劇、脱-俳優、脱-劇作家の時代─『ダンスダンスレボリューションズ』を巡って
2023年10月31日(火) ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|竹田真理:ループする時間と発露の空間
2023年11月5日(日) 浄土複合スクール|ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|神田恵理:踊る言葉、場が呼び起こすダンス
2023年11月5日(日) 浄土複合スクール|ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|各務文歌:矢印はダンスを踊らない

セイ|山田由梨:わたしが客席で居心地が悪かったのは

 『セイ』を観劇した。スペースノットブランク(以下、スペノ)の作品を観るのは、これで2作目である。最初に観たのは、今年、かながわ短編演劇アワード2023演劇コンペティションで観た作品『本人たち』だ。この大会では二部作である本作のうち後半の1本のみを上演しており、それだけでは私はこの団体が何をやろうとしているのかがよく分からなかった。それで、同時期にSTスポットで上演していた同作を観に行った。そこで一部二部とセットで観劇し、ようやく何をしていたのかがわかった気がした。
 ここで補足すると、わたしは批評を書く人間ではなく、スペノのお二人と同じく演劇を作る者だ。これからわたしが書くことは、ただの感想だし、想像だし、本来彼らがやろうとしていることとは違う意図を汲んでいるかもしれない。だけど、感想とはそれでいいのだし、「わたしはこう観たんだー」ということ以外に、わたしには言えない。それは、わたしが思ったことを嘘なく書いている限り間違いなんていうことはない。普段、観客にもそうやって勝手に観て、勝手な感想をじゃんじゃん言ってほしいなと常日頃思っているのでわたしもそうする。
 『本人たち』に話を戻す。本作は、パフォーマンスの前説や事前説明をそのままパフォーマンス化する一部と、女性二人が自分の話や考えていることを話し合ったり、相槌を打ったりする、そのことだけをパフォーマンス化する二部で構成されている。どちらもそこで語られている言葉がなんの意味もたないのが特徴で、いや、話していることの意味は別に通っているのだけど、明らかにその意味というものを理解させることを目的としていないのが分かる作品だった。早々に意味を追うことを放棄したわたしは、それを話している身体の振る舞いや、マスクから上の顔の表情、声の「それらしい」高低差、そういったものを鑑賞する。どこか居心地の悪さを感じながら。そういう作品だったと思う。
 「それらしい」振る舞い──それは例えば前説をしている人らしい振る舞い──を見ているので、それはもちろん「それそのもの」ではない。それ「らしく」パフォーマンス化しているのだから、それは「それそのもの」ではないのだ。ただ、『本人たち』は本人たちが本人たちを演じているため、限りなく「それ」と感じてしまう。けど、やっぱりそれはパフォーマンスなんだから、そもそもだって演劇なのだから、違うよね、「それらしい」のだよね、ということだった。
 『セイ』を見ているときにもこの手法があった。「それ」そのものではない、「それらしい」をパフォーマンスするという手法が。そして2作品目を見て、わたしは共通するものを発見した。それはおそらく、「それらしい」パフォーマンスをしているとき、その模している本体を「茶化している」ように感じるということだった。これが先述したように、観客席でわたしがなんだか居心地が悪く感じていた理由だったのだと思う。
 「茶化す」という行為は、物事の絶対的に見える価値をゆらがし、相対化し、距離を取ることを可能にする。しかし一方で、茶化す主体は、安全な場所からその物事の真摯さを冷笑し、嘲笑する加害のリスクと裏合わせでもある。そして、何かを茶化しているように見えるパフォーマンスを見ている時、観客であるわたしも茶化されているような気持ちになってくる。彼らが茶化す対象に自分もはいっているのだろうか、それともわたしは茶化す側にいるのだろうか、と、そういう居心地の悪さがある。スペノはこういった事象に自覚的に向き合いながら、観客のあり方をゆるがすような作品の提示の仕方を目指しているのかもしれない。
 例えば、前半に行われたライブパフォーマンスのシーン。アコスティックギター1本で、生活に密着した歌詞を、熱心に歌い上げるパフォーマーを茶化す。それも大真面目に茶化す。機材のセッティングや音響はこだわっていて本格的だが、身振りや歌唱力、ギターテクニックは下手すぎてもいけないし、上手すぎてもいけない。あまりにも上手ければ、それ自体が「本物の」パフォーマンスになってしまうし、下手すぎればパフォーマンスにすらならない。したがって、絶妙に上手くないパフォーマンス、絶妙に心に響かない歌詞、このような加減を維持しながらライブパフォーマンスを演じ、茶化すのである。絶妙に感動できないライブ感を維持し続けること、本物感を演出し続けていると、その先で、茶化し切れない真面目な部分がだんだん透けて見えてくる。どうしてそこまで茶化したいのか、ここまでして、という切実な想いが浮かび上がってくるのだ。
 それは例えば、熱狂的なファンに支えられてライブパフォーマンスを行うアーティストたちへの憧れ、そういったアーティストを熱狂的に支持するファンたちへの羨望、そのどちらもにもなれない自分たち、何者にもなれず──本作で描かれている主人公のように──女性にモテず、フィギュアを愛する以外の選択肢を見つけられない男性の苦しみが描かれているように見えてくる。
 後半で、この主人公の男性のかなり真摯な叫びが、俳優によって語られる。この作品の上演では、俳優が発話する全ての言葉がAIによって文字起こしされる形で、スクリーンに映し出されているのだが(先述のライブパフォーマンスの最中も、歌う人のすぐ後ろで、歌った歌詞が文字起こしされ、投影されている)、この語りのシーンでも例外ではない。そのAIの文字起こしは、iPhoneのSiriを思い浮かべればわかるように、正しくは聞き取ってもらえず、絶妙に間違え、別の言葉に誤変換されてしまったりする。ここでも言葉の意味が、意味をなさないことを具現化し、言葉なんてただの音でしかないのだ、という一面を示し続けている。
 その苦しい想いの吐露のシーンの言葉がAIに誤変換されているとき、一見ここでもその思いを茶化しているように思えるのだが、むしろ逆で、その真面目さは茶化すことができないものとして、どんどん浮き彫りになるように思えた。この真面目で深刻な苦しみの部分こそ、もしかしたら本当は笑い飛ばして、茶化し尽くすこともできるのではないか、その先が見たいという風にも個人的には思った。
 このAIの誤変換の演出は絶妙に可笑しく、わたしが観ていたときにも客席から笑いが度々起きていた。わたしもこの演出が好きだった。なんだかAIは呑気でいいなと思ったのだ。人間は悲しいことがあったら、自分を傷つけたり、人を傷つけたりするけれど、機械はそんな悲しみさえも間違えちゃったりして、お茶目で呑気。でも、ほんとは呑気ですらない、ただの音処理マシーンなのだけど。それでも、機械が人間の深刻さを、茶化してくれている。そこには機械と聞いて、冷たさや無機質さをイメージするのとは逆の、生暖かい質感があった。劇場を出たとき、梅雨の夜の生暖かい風を感じて、そんなことを考えながら家にかえった。

山田由梨 Yuri Yamada WebTwitterInstagram
1992年東京生まれ。作家・演出家・俳優。立教大学在学中に「贅沢貧乏」を旗揚げ。俳優として映画・ドラマ・CMへ出演するほか、小説執筆、ドラマ脚本・監督も手がける。『フィクション・シティー』(17年)、『ミクスチュア』(19年)で岸田國士戯曲賞最終候補にノミネート。2020・2021年度セゾン文化財団セゾンフェローI。NHK夜ドラ「作りたい女と食べたい女」脚本。WOWOWオリジナルドラマ「にんげんこわい『辰巳の辻占』」、「にんげんこわい2『品川心中』」脚本・監督。

セイ

批評
2023年6月24日(土) セイ|有吉玲/高橋慧丞/田野真悠:オープンリハーサルのレビュー
2023年7月31日(月) セイ|森山直人:「演劇」から、神々を悪魔祓いすることは可能か?──スペースノットブランク『セイ』劇評
2023年7月31日(月) セイ|山田由梨:わたしが客席で居心地が悪かったのは
2023年10月11日(水) セイ|東京はるかに|植村朔也:AI To 集まる:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『セイ』評

セイ|森山直人:「演劇」から、神々を悪魔祓いすることは可能か?──スペースノットブランク『セイ』劇評


 突然だが、かつて演劇史は、いわば神々の権力闘争の歴史だった。
 たとえば、「名優」たちが「神」として君臨していた時代があった。やがて、今度は「劇作家」という「神」がその絶対性を主張するようになる。だが、20世紀には「演出家」というまったく別の「神」が現れる。2022年7月に亡くなったピーター・ブルックなど、まさにそうした神々の一人だった。
 ところが、いまや時代は「コレクティヴ」だと言われる。いいかれば、それは「神の死」以後の到来ということになるだろう。たしかに、多くのアート・コレクティヴが、世界各地でさまざまな成果を発表している。だが、「演劇」というジャンルにようやく訪れたかにみえる一種のデモクラシーは、真の意味で「神」という存在を「悪魔祓い」できるものなのだろうか。──たしかな答えを見出した人など、おそらくまだいない。


 ところで、自らを「コレクティヴ」を名乗るスペースノットブランクが、2023年6-7月に発表した新作『セイ』は、「神の死」を謳歌する作品などではまったくなかった。それどころか、まさに生々しくも血なまぐさい「神の死」の現場に、いまなお立ち会おうしているという点だけでも、きわめて興味深い「実験演劇」だった。
 少なくとも本作では、「原作者」である池田亮も、「共同演出」の小野彩加も中澤陽も、演劇上演から「神」の存在を抹消できるなどとは、これっぽっちも考えていなかったように見える。というより、これまでだってスペースノットブランクは、松原俊太郎であれ、池田亮であれ、「原作者」という名の「神」を、むしろ率先して自分たちの創作現場に招き寄せるという、ある意味では矛盾したコレクティヴなのではなかったか。その意味では、『セイ』もまた、スタイリッシュとは無縁の、とてつもなく古いタイプの作品だとさえ言えるかもしれない。なにより、本作は、『ウエア』、『ハワワ』などの先行作品(残念ながら筆者は未見)を含む「メグハギ・サーガ」(=神話)のスピンオフだと事前に宣言されてもいるのだから、すべては「神」の周囲に事態が展開したとしても不思議ではない。
 だからこそ、問題は、そこでの「神」がどのような存在であり、どのようにしてその「死」が演じられるのか、に絞られてくる。「神」は、なぜ、なんのために必要とされているのか?


 興味深いことに、「神」の輪郭は、これもまた事前の媒体で、「元死刑囚の男」と、あっさり予告されてしまっている。

 元死刑囚の故・真坂家様の意識はサーバーに無事保存されました!/そして我が国開発による最新型AI「セイ」により、デジタル上で更生と再生と転生を繰り返す試行錯誤を行いました。/この度、実験結果の報告会を開催いたします。

 そして、私たち観客が上演場所(=「報告会」の開催場所?)である神奈川県立青少年センター・スタジオHIKARIを訪れると、舞台上に「ハの字」型に大きめのスクリーンが2台設置されていて、そこには、「はじめに/第三者への公開を固く禁じます。/総務大臣への実行を報告します」という、明らかに事前告知に呼応する注意書きのようなものが投影されている。そして、開演前に──だが、ほんとうのところ、この上演の「開演」とは、正確にはいつのことだと考えればよいのか微妙なのだが──出演者である奈良悠加が、ついで古賀友樹、瀧腰教寛が、観客へのリアルな歓迎の辞を述べつつ、「はじめに、全てを決めるのはI(アイ)です。私であり、あなたであります」という定型文を繰り返し口にするのだ。
 すでにここには、いくつかのことが暗示されている。少なくとも、①その後の上演で実際にそういう台詞が出てくるが、ここでの「I(アイ)」には、作者である池田亮のイニシャルが透けてみえること、すなわち、「I(アイ)」は原作者の〈虚構の分身〉を装う何者か、つまりは〈作者〉という「神」にほかならないこと、②上記の定型文が、三人の俳優によって反復されることで、上記の「I(アイ)」、つまり〈私〉は複数化されていること、そして、③「あなた」という単語が「私」という単語と並置されることで、観客ひとりひとりもまた「私」にほかならず、全てを決める存在=「神」であるかもしれないこと、の3点である。
 はたして「全てを決める」存在、すなわち「I(アイ)」とは、「元死刑囚」なのか、原作者なのか、演者たちなのか、それとも観客ひとりひとりなのか。──『セイ』はひとまず、絶対的な「神」の座をめぐって、複数の、異なる立場の存在が集合する一種の闘技場として、劇場空間を位置づける。もちろんそれは一方的な予告であり、おそらく偽の情報にほかならないのだろう。だが、そうはいっても、ひとまず「観客」としてこの場に訪れてしまった人々の方は、わけもわからず、その後の事柄の推移を、ひとまずは受け入れ、見守るほかはない。


 上演時間が約2時間の『セイ』は、奇妙な2部構成をとっている。第1部は、瀧腰教寛──上演台本上は「I1」とされている──による、30分ほどの単独ライブであり、しだいに観客には、それらの歌が「元死刑囚」=「神」になろうとした人物への、追悼ソングであることがわかってくる。10分間の休憩をはさんで第2部に入ると、瀧腰に加えて、古賀友樹(=I2)、奈良悠加(=I3)、荒木知佳(=I4)が次々に登場し、中盤以降は、どうやら最新型AI「セイ」にすべての人格的記憶と知能を預けた元死刑囚本人のものらしい長いいくつものモノローグが、異なる俳優たちの身体を通じて「上演」されていく。2台のスクリーンの間には、小山のように盛り上がっている装置があるのだが、劇の終盤にさしかかると、あたかも元死刑囚本人が出現でもしたかのように、荒木が小山のなかから登場する。巨視的にみれば、そこにはストーリーラインのようなものも感じられるのだが、その場の観客側の体験としては、元死刑囚をめぐる断片的ないくつかのつぶやきや、一見それとは無関係にみえるサカナクションやレディ・ガガの持ち歌が歌われる場面の、雑然としたコラージュといった印象である。


 だが、なんといっても、この作品のひとつの見せ場は、〈AI〉という他者の容赦なき「誤変換」攻撃を前に、死にゆく「元死刑囚」が、悲痛なあきらめを強いられていく後半の場面にあるだろう。第2部で、「聖」「姓」「性」「請」「See You, See I」「世」「生」といった具合に変換されながら、『セイ』という題名の本作は、未来のデジタル社会の悦楽と限界とを、なんとか視野におさめようとする。「元死刑囚」は、どうやらあまり金銭的にも恵まれず、孤独に性欲を発散させてフィギュアを精液で汚しつづけるような人生を送っていたらしい。夢と現実とが交錯しながらダイナミックに繰り広げられる「神」の悲劇的なモノローグは、にもかかわらず、俳優たちの上演によって熱がこもればこもるほど、そういうときに限ってスクリーン上にAIが誤変換したセンテンスとして文字化されてしまい、失笑の的とならざるを得ない。たとえば、「勝手に俺の言葉変えんなお前」と怒鳴っても、それはただちに「勝手にお前俺のこと馬鹿円なお前」に誤変換されてしまう。「フィギュア」や「toは」のような簡単な単語でさえ、何度繰り返し言い聞かせようが、その都度、とんでもない誤変換(「フィリア」や「通話」など)として返ってきてしまうのだ。パフォーマーの全身から発せられる挫折感と徒労感の激しさは、単純に観客の心を打つだけの力があった。
 いうまでもなく、そこで繰り広げられる対話のディスコミュニケーションは、爆笑を誘うようなものでないにしても、明らかに喜劇的な要素をもっている。元死刑囚とAI──上演の具体性としては生身の俳優とスクリーンの間のやりとりは、いつのまにか『リア王』における、荒野をさまよう王(King)と道化(Fool)の名高いシーンとそこで両者の関係性を、ふと連想させたりもする。リア王は、悪辣な娘たちにすべてを剥ぎ取られ、「神」の座から容赦なく引きずりおろされる。そしてリアの傍らにいる道化は、リアの愚かさを巧みにつき、あたかも対等な存在であるかのようにふるまっていた。ここまで見てきてほぼ明らかなように、現代日本の社会にすくう孤独の病──それは観客席に座るひとりひとりにも、濃淡の差はあれ、思い当たるものであろう──を連想させる「元死刑囚」という存在が、捨て身の行為を通して成就しようとした「神」になることの野望が打ち砕かれ、そのかわりに道化というパートナーを得ることができるのなら、それはそれで悪くない生き方ではないか・・・。

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 だが、事態はそれほど簡単には終わらない。というのも、ここでのAI=道化は、明らかに勝ち過ぎであり、まるで「道化」が新たに「神」の座についたかのようにさえ見えるからである。だとすれば、『セイ』という物語は、要するに、「AI」がこれからは新たな「神」として、あまねく世界を支配することになる、という話なのだろうか。・・・そう単純にも言えないのは、いうまでもなく、ここでスクリーン上に投影されている「AI」の言葉はすべて、「原作者」の池田亮、もしくは共同演出の小野彩加+中澤陽によってスクリーニングされた言葉であるに決まっているからである!
 だとすれば、結局のところ、演劇作品『セイ』における「神」とは、「演出家」の謂いにほかならないということなのか。「原・作者」の書いた言葉を、ある程度自由に再編する権限を有する「演出家」は、どんなに謙虚にふるまってみても、やはり「演劇作品」にとって不可欠の「神」でありつづけるほかはないのか。おそらくたしかなのは、池田亮とスペースノットブランクのあいだには、ちょうどリアと道化のような共犯関係が成立しているということである。
 最後に、これまであえて触れずにきたが、もうひとつだけ、「はじめに、全てを決めるのはI(アイ)です」という例のフレーズと同様に、この作品のキーとして、暗号のように何度も繰り返されるフレーズについても一瞥しておかなければならない。
 「ここはフリースペースなんだ」──そう、まさにこのフレーズは、折に触れて、一種の強迫観念のようにこの作品のなかで繰り返されていた。ここで、間違いを恐れずに断言するならば、本当はこのフレーズこそが、この作品の中心であり、「神」になるべき存在だったはずなのだ。だが、「ここはフリースペースなんだ!」という言葉ほど、高い理想としらじらしさとが同居しているものもない。打ち砕かれた野望の前には、打ち砕かれた空っぽの理想がある。そして、まさにその「フリースペース」は、けっして手元にやってくるはずのない青い鳥のように、頭上のはるかかなたをゆっくりと旋回するばかりだ。スペースノットブランクのはるか頭上に旋回する「理想」をあざ笑う権利は誰にもない。なぜなら、その旋回する「理想」とは、まさに現代社会の、世界全体の、あらゆる人々の頭上を、空虚に旋回する何かに相違ないからである。

森山直人 Naoto Moriyama
演劇批評家。1968年生まれ。多摩美術大学美術学部・演劇舞踊デザイン学科教授。京都造形芸術大学教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員を経て現職。2012年から2019年まで、KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員長を務めた。著書に『舞台芸術の魅力』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文、劇評に、「日本語で「歌うこと」、「話すこと」:演劇的な「声」をめぐる考察」(『舞台芸術』24号)、「メロドラマ」が「メロドラマ」から解放されるとき──上田久美子『バイオーム』評」(関西えんげきサイト)、他多数。

セイ

批評
2023年6月24日(土) セイ|有吉玲/高橋慧丞/田野真悠:オープンリハーサルのレビュー
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セイ|池田亮:イントロダクション

池田亮 Ryo Ikeda WebTwitterInstagram
脚本家・演出家・造形作家。1992年埼玉県出身。舞台・美術・映像を作る団体〈ゆうめい〉所属。梅田芸術劇場所属。遺伝や家族にまつわる実体験をベースとした舞台作品『姿』がTV Bros.ステージ・オブ・ザ・イヤー2019、テアトロ2019年舞台ベストワンに選出、2021年芸劇eyes・東京芸術劇場にて再演。『娘』が国際交流基金「日本の新作戯曲」に掲載。近年ではTVアニメ『ウマ娘』一期二期脚本、テレビ朝日『最初はパー』レギュラー出演、フジテレビ「生ドラ!東京は24時」第二夜『美大の駅伝』監督・脚本、株式会社いきもんより発売のカプセルトイ『クリスタルハンドルの水栓リング』の原型・発起人など、ノンジャンルでの活動を通して創作の多面性を解析しながら『セイ』の原作を担う。

2020年より自分が原作を提供し、スペースノットブランクが上演した『ウエア』『ハワワ』は三部作構成の「メグハギサーガ」における第一部と第二部の作品であり、今作『セイ』は第三部ではなくスピンオフ作品となっております。

メグハギサーガは「メグハギ」という存在を軸に、描き出される世界にて起こる生物たちのドラマ、そして自分たちが生きている現実と時に共鳴し、時に反発するアドベンチャーを描いています。

このメグハギとは何か。それは例えば、顧客に愛されるキャラクターを創造するためのソーシャルメディア企業の会議室で、参加者全員がブレストで思考・発案する「自分にとって最も理想とするキャラクター像」を各々取りこぼすことなく全て混ぜ合わせたような存在です。分かりやすさや売れるためのプロモーション目的とはかけ離れ、本来ならば他者とのディスカッションによって変化したり削られたりして商業的な成功を目指し一つに絞られていくだろうキャラクター像ではなく、売れる売れない関係なく地球上に存在する個々人の感覚を何一つボツにすることなく加え続け、生命が存在する数だけの欲求と理想を持った究極の八方美人な集合体のイメージです。全体主義かつ個人主義であるという矛盾を抱えています。メグハギサーガの劇中、メグハギが内包する自他の全ての欲求と理想が表象した際、無限な他者の欲求と理想が同時に全てみえてしまい、それは当の本人にとっては快感だが他人にとっては不快感とも感じるようなこともあり、個々の生命同士が永遠に分かり合えないような嫌悪感の塊やアンコンシャスバイアスの化身的な存在にもなります。関わる人が多すぎて軸を失いカオスな展開になってしまったメディア作品のように、それ以上に、グロテスクで有象無象な欲求と理想がひしめき合っています。

この原作を描く自分はそのような「関わる人が多すぎたり意見が多すぎて方向を完全に見失った作品」にこそメタ的だけど人間らしさが非常に多く描かれていると感じて、そして描くものの方向が統一されないというものに自らが欲する救いと価値を感じ、スペースノットブランクに原作を提供する際は「矛盾と見失い」ということをテーマに原作のクリエーションを行っています。感覚として「新品しか売っていないリサイクルショップ」のような「本物の乗用車しか売っていない模型屋」のようなものを考えるイメージです。

『ウエア』では世界中の理想と欲求を限りなく集めようとし始めるメグハギの誕生があり、『ハワワ』ではメグハギに反抗するため個々の欲求と理想を否定する現実主義の「オヌユキ」が誕生します。そしてメグハギとオヌユキは神話のように合体し、意識と無意識を逆転させる「メダハギ」が誕生します。登場人物たちは、現実からの逃げ場所となっていた想像の世界では、もはや現実に太刀打ちできなくなったため、新たに無意識の世界へ突入していくところから第三部は開幕します。正直、まだ自分でもよく分かっていません。そして『セイ』は、意識から無意識に逆転する狭間の一部を描いたスピンオフです。メダハギは遺伝子情報を学習したAIを起点として人間の意識と無意識を逆転する実験を行いました。正直、自分でもこんなこと書いてて結構分かっているけど結構分かっていません。

『セイ』やメグハギサーガには、どうしても原作者である自分の感覚が付き纏います。人を選ぶけど選ばないかもしれないし、人によっては嫌悪かもしれないけど愛好かもしれないし、分かりにくさの果てか分かりやすさの目の前かもしれません。『セイ』の原作は前作『ハワワ』よりも多く映像と音楽が加わりました。それは自分自身も言語化できていないけどできている感覚に、文字以外のものを活用して作り上げようとしたからでした。上演をするためのものだけど上演をするためではなく、他者にも読んでもらうためなのに自分だけが読むためだけに生み出しました。今回も『セイ』が「上演される」ということに大きく矛盾を感じていますが、よりその矛盾が生まれるほどに、周りで蠢いている生命の振れ幅が大きく何重にも感じられていく気がします。

かつて「全員クローンだったら本当に幸せなのに」なんて考えていた中二病な自分を隠しつつ曝け出しつつ、その恥ずかしくも変わっていたけど変わらない当時の浅はかな理想と欲求もメグハギに預けたまま、原作『セイ』は小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクに渡りました。小野と中澤によって原作のルールは書き変わり、額田大志による多数の音楽も加わり、自分以外の多くのキャストスタッフによってなされる予想外と想定内で原作とは別物でそのままの『セイ』の上演は「静かな絶叫上映会」になりました。

原作は公開しないので、2023年6月29日(木)から7月2日(日)だけ『セイ』はご観客の皆様の前でのみ生まれます。

セイ

イントロダクション
池田亮

オープンリハーサルのレビュー
有吉玲/高橋慧丞/田野真悠

レビュー
森山直人:「演劇」から、神々を悪魔祓いすることは可能か?──スペースノットブランク『セイ』劇評
山田由梨:わたしが客席で居心地が悪かったのは

セイ|有吉玲/高橋慧丞/田野真悠:オープンリハーサルのレビュー

有吉玲:感染と増殖の上演──「リハーサル」によせて

 review、つまり、再び見るという仕方で「あなたが思うレビュー」の筆をとりたい。
 鑑賞にあたり提示された第一の、そして最大の設えは上演が「リハーサル」であるということだった。観客/私は、予めそれがリハーサルであるということを知らされ、リハーサルへの関心そのものの記述を上演前に済ませ、舞台芸術関係者というリハーサルに馴染んだ身分として上演に同席していた。その作品が「メグハギ三部作」二部終わりのスピンオフ、『セイ』であった。ウェブサイト記載の説明書きは以下である。

 “亡くなった死刑囚の意識をサーバーに保存。デジタル上でAIにより繰り返される更生と再生と転生。それらの現実への報告。”

 リハーサルという、副産性、反復性、そして未完性──「本番」に未だ至らないと同時に舞台の本質的な終わりえなさに係るという点において二重であるこの意味合い──に裏打ちされるこの上演機構と、一見これほど適合的な舞台もそうない。つまりこの条件において、スペースノットブランクは明確に再演の問題を突きつけている。
 と、鑑賞前の私は気楽に考えていた。
 しかしこの舞台は、そんなクリシェがかった解釈タームを圧倒的なライヴ感と侵襲性によって忘れさせるものであった。
 この舞台は終わらないのではなく、終わり続け、そして始まり続けているのではないか。繰り返されるズレあいは軽快な演者らを駆動する。演者らはおのおのの役割を全うしながら、始まりを生き続けてゆく。そしてその中で明確な役割をあてがわれ、振り付けられ、巻き込まれてゆくのが、他でもない観客/私/あなたである。
 『舞台らしきモニュメント』においてチケット代わりとなった「私」のチェキ写真のように、スペースノットブランクは観客に「持ち帰り」を要請していた。しかし今やあのリハーサルは、観客/私の現実の時間に侵食し、「持ち帰り」のできる代物ではなくなっている。リハーサルは「現在」として観客/私に立ち現れ続け、パラサイトされた観客/私は気がつけばあるフレーズを口ずさんでいるという仕方において、侵襲を自覚することとなる。そして、新たに始まりを生きる一員となるのだ。
 Say、為い、性、姓、sey、聖、生、they、スペースノットブランクは、ありきたりのリフレインを行わない。それは観客の感染と舞台の増殖という名の下で正しく理解されるべきである。「実存しない意味と実存する意味が「上演」というシチュエーションを用いて実存という意味と意味という意味を意味」することの先で、カウンタブルな個人を前提した有性生殖が軽やかに乗り越えられてしまう(と、言ってしまわせられている)舞台を目の当たりにした観客/私/あなたは、今後もこのコレクティヴの上演を見続けてしまうであろうというのが、現状ここで書きうることである。

有吉玲 Ray Ariyoshi Web
パフォーマー。
「感覚を保存する体づくり」を指針とした活動を行う。

高橋慧丞:はてしなきめぐはぎ

 『ウエア』初演&再演、『ハワワ』の上演を経て、〈メグハギサーガ〉はそのスピンオフ作品『セイ』へと連なる。
 スピンオフ。なんて良い言葉だろうか。本流に対する愛情が深ければ深いほど、胸が高鳴る。未だ明らかにされていなかった見知らぬ一面の公開が予見されている。見知らぬ一面。なんて魅惑的な響きだろうか。
 ひと足さきに目撃した身として断言するが、朝食を食べずに席に着くことは危険だ。しかし後は気軽な気持ちで、目の前で展開される物事に素直に反応を示しているうちに、気がつけば、とてつもなくドラマティックなアドベンチャーが思わぬ角度からあなたをその内部に取り込んでしまうことだろう。
 たとえ本流に対する愛情を微塵も持ち合わせていなかったとしても、こんな一面を体感させられたら、あなたはもっと〈メグハギ〉について深く知りたくなってしまうことだろう。
 そこで何が行われるかについて簡単にだけ触れておく。
 瀧腰教寛が歌い、奈良悠加が歌い、古賀友樹が歌い、荒木知佳が歌う。
 オープンリハーサルで体感したのはそうした約2時間の、俳優たちの生がほとばしる、濃密なエネルギーの奔流だった。2時間もあったら疲れてしまうかもと思ったあなたも安心の10分間の休憩が用意されていて、それは観劇の休憩史上最高に、心身ともに安らかになれるものであることをお約束する。
 第一部 → 休憩 → 第二部、この構成が完璧だ。
 本番へ向けて一段と精度が高まり、凝りに凝った舞台美術の中でこの作品が上演されるのだと考えると、オープンリハーサルを観終わったばかりでありながらすでに本公演が楽しみでならない。
 『セイ』、あまり演劇を観たことがない方にこそ観てほしい。
 『セイ』、スペースノットブランクの演劇を観たことがない方にこそ観てほしい。
 『セイ』、スペースノットブランクの演劇をむかし観たけれどなんかよくわかんなかったし苦手っぽいかもと思っている方にこそ観てほしい。
 『セイ』、もちろん既に期待している方は観てほしい。
 『セイ』、子供も大人も観てほしい。
 『セイ』、最近落ち込むような出来事があった方にこそ特に観てほしい。
 劇場を出るときあなたは「YES!」と叫んでいるだろう。あるいはそのさかさまの言葉を。再生してほしい。逆再生してほしい。何度でも螺旋状になって永遠に。

高橋慧丞 Keisuke Takahashi Twitter
映画美学校 言語表現コース「ことばの学校」基礎科・演習科 第1期生。スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』のクリエーションメンバーとして城崎国際アートセンターにて行われるアーティスト・イン・レジデンスに参加する未来を考えていると手が動き、アーティストを志しているものとなって勝手に書類を送りつけ執筆の機会をいただきました。

田野真悠:「セイ」音から始まる物語

 ドラムにギター、マイクスタンド、大きなスピーカー。私は何を観に来たのか、どうしてここに来たのか。
 頭にたくさんのハテナが浮かんだまま、MCに呼び掛けられるままに時は進み、自分の過去と現在の整合性は取れない。
 説明書、論文、命題、自己啓発本、参考書、そういった類のものは皆「はじめに」から始まる。
 この物語も「はじめに全てを決めるのは I です。」と前置きがなされてから進んでいった。
 「セイ」生、正、政、静、性、say、、、音から連想されるものは形の違う「ことば」だった。
 スペースノットブランクは概念の破壊と創造を試行するアーティストであるという認識が、本作を通してよりはっきりとしたものになると感じた。
 今いたはずの空間は、気づかぬうちに乗っ取られ、別の空間に変わりゆく。今この瞬間でさえ、AIによってほだされているのかと錯覚する。
 AIとI(私)の対話。反復と呼応によってそれはエラーにも、新しい正解にもなりうる。
 全てを決めるのは、I(私)か、AIか、それとも愛か。
 あまり目立たない街角で寂れた様子を想起させるライブハウスから始まる物語がどのように着地するのか、多くの人に見届けて欲しい。

田野真悠 Mayu Tano
役者。初出演、主演作である田之上裕美監督作品「裸足」が東京国際映画祭Amazon Prime Videoテイクワン賞や、なら国際映画祭NARA-wave にノミネートされ、以降数多くの映画に出演。2023年以降も複数の公開待機作を控える。

セイ

イントロダクション
池田亮

オープンリハーサルのレビュー
有吉玲/高橋慧丞/田野真悠

レビュー
森山直人:「演劇」から、神々を悪魔祓いすることは可能か?──スペースノットブランク『セイ』劇評
山田由梨:わたしが客席で居心地が悪かったのは

本人たち|中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

11月19日
世界は 私たちがここで言うことをほとんど気に留めず 長く記憶することもないでしょう しかし 彼らがここで行ったことは決して忘れることはできません ここで戦った彼らがこれまで立派に進めてきた未完の仕事に ここで捧げるのは むしろ生きている私たちなのです むしろ ここにいる私たちが 私たちの前に残された大きな仕事に専念するために この名誉ある死者たちから 彼らがその全力を尽くした大義への献身を高めることです 最後の全力投球を 私たちは この砲弾の死者が無駄死にすることのないよう 強く決意することを聞くことです 神の下にあるこの国が自由の新生を遂げ 人民の人民による人民のための政治が地上から滅びることがないように

www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

─────

4月13日
いっぽう、わたしが求められているのは「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー」です。本人たちを見た、本人たちによる、本人たちのレビュー。「見(られ)た」対象(らしきもの)の名は二重鉤カッコで括られていなくて──スペースノットブランクは公式ウェブサイト上の公演名の表記を二重鉤カッコで統一しています──、「レビュー」(=「による」もの)の制作主体(らしきもの)が「本人たち」と呼ばれています。これらのことによって、「レビュー」を修飾する──つまり、このテキストの内実を規定する──「本人たちの」という文節は謎めいてきます。あわてんぼうなスペースノットブランクの担当者さんが、カッコをつけわすれてしまったのでしょうか。いやいや、募集されていたのは、やはり「『本人たち』を見た「本人たち」による『本人たち』のレビュー」ではない何かなのです(とはいえ仮にそうだったとしても真ん中の「「本人たち」」は不可解ですが)。第一部に出演した古賀友樹さんも次のように喋っていました。

〈本人たち本人たち本人たち 本人たち「私」も本人たち 前に本人たち 今のこの体形とは違う本人たちもあり 本人たちは無数に存在してる でも それ以外の説明のしようがなくて だから思ってることしか言えない 本人たち決してそのイコール本人ではない 本人って言ってるけど 本人ですかって言われたら本人じゃないです本人たちです みたいな 怖い 怖い だから 概念です 本人たち 誰かのプライバシー それは決して本人じゃない〉

さて困りました。『本人たち』のレビューをそのまま書いてしまったら、いけないのかもしれません。せっかく無料で二回も上演を見せてもらい、販売されている戯曲の冊子までもらい受け、記録映像まで送ってもらったのに、要件を満たしていないじゃないかと違約金をせまられてしまうかもしれません。辛いです。しかもそのことに気がついてしまったのは、さらに一週間後のことでした。

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6月25日
お昼到着です

ありがとうございます でしょ 魚いる持ってくるだけの人 新私agさん ねえ なんなんだよもう一気に持ってこい なあ 細かく何度も持ってくんのお昼は なんでなんだよもうたらふく食ったよ いいってサイレントヒルはう 引いて連投あもう を切るも良い夜になるぞ e翌春ランチは これ 最悪、1/100でもヒール選んジャズが 百合って隅っこから 全部に消化純子さんがいなかったのを 言いてランチはもう

─────

4月18日
スペースノットブランクで「保存記録」を務める植村朔也さんのイントロダクションに即して考えてみましょう。

「ステートメントと照らし合わせても毎度不可解なスペースノットブランクの上演[…]は、しかし特定の名によって束ねられて他から区別されるに足る相応の共通因子を時に有しているはずであって、そしてわたしの見立てでは、それがそれらの上演に固有の問題構制を示している。[…]制作の主体概念を問いに付してきたスペースノットブランクの舞台について、単におのおのの観客のうちに生じた効果を記述するのにとどまることなく、なんらかの共有可能な言説を打ち立てようとするのであれば、まずはここから始めるほかないからだ。問いは名とともに繰り返される。」

もちろん、制作メンバーにクレジットされている方の言葉を留保なく例証にりようすることは、権利上難しく思います。とはいえ、「上演に固有の問題構制」が、複数のレビュアーを招いた「オープンコール」企画に対する命名行為においてもその顔をのぞかせていることだけは間違いありません。

然るべき名が貼りつけられることで、〈無数〉なものの語りえなさはなんとか手なずけられます。鑑賞者の多様な位置づけからしてみれば到底数えきれない「ぺら」「ぺら」な諸要素は、ひとたびそれらを補綴する名を与えられると、多くのことが思われ・語られうるオブジェクトへと実体化していきます。それは(リテラルかつフェノメナルに)余白だらけでもいっこうに問題ありません。ホチキスを使わない「無線綴じ」で簡素に製本された戯曲のように。

内野儀さんは2022年にスペースノットブランクが上演した『再生数』を、一見したところ「わけがわからない」としながらも、次のように評しました。同作は中継映像に媒介された「親密さ」も手伝って、観客各人に、「通俗的な」生活履歴との呼応とは位相を異にする「真正なものとしか呼べない情動・感覚・思考」(傍点省略)をもたらす、と。してみると、一連の経験は「再生数」という名のもとで=その代理として(in the name of)はじめて可能になったものだとはいえないでしょうか。このとき、目の当たりにされた上演の瞬間瞬間でいかなる相互関係が成立・破断していたか、ということをめぐっての細微な価値判断は、宙吊りにされます(急ぎ足ながら、スペースノットブランクとも協働することの多い松原俊太郎さんの言葉を引いて、事態を概観するたすけとしましょう──「戯曲の登場人物には登場人物を見ている観客が含まれる。[…]観客は沈黙し、何ら反応を返さなくても、現にただそこにいて、見て、聞いている。観客は対話に含まれている。これを無視するわけにはいかない。登場人物同様、対話に身を曝している観客の身体は一瞬一瞬で変化している」(「聞こえる声のための対話のエチュード」))。経験の支持体となるある状況に指をさし名をつけることができたら、わたしたちの共通の足場(プラットフォーム)はひとまず確保される。このことが重要なのです。

(たとえば、ポーカーテーブルの上での「コール」を、局面が不確定な状態で──嬉々としてか、嫌々なのかはわからないまま──勝負に乗り続けるための手続きであるといい換えてみましょう。そうであれば、オープンコールによって開かれたままのわたしたちのプレイ(上演=戯曲)にも、まだ決着はついていないはずです。)

さて、『再生数』の「再生数」に対する関係がそうであるように、『本人たち』は「本人たち」へと無限に近づいていくことが、ぼんやり見えてきました。

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4月14日4月21日
どうやって 捨てよう どうやって 届けよう ジャガイモは 秋じゃない かもしれない

どうだろう 春 夏 秋 冬 今

かもしれない

季節は 共通認識している

かもしれない

春だなあ

冬 寒い

今 窓を閉めました

ひとり かもしれない

どうだろう

送らないで おきましょう もう 満足 尊敬してなかった まったく尊敬してなかったけど すごい尊敬した 大人に対して 守られている時に 上の 守られていない 経験している それを考えると すごいなあ 思います 花火みたい

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4月22日/7月25日/12月1日
「私の散らばりと折りたたみを練習しながら、その散らばりと折りたたみの性質自体を考える、そういう公園そのものを作る公園での遊びこそが、楽しい遊び。そういう遊びを、無理にでも肉体に強いていく必要がある。」(鈴木一平+なまけ+山本浩貴+h「座談会1 2015/05/17→2015/05/31」)

八年前に山本浩貴の発した言葉が、第一部「共有するビヘイビア」での古賀友樹のパフォーマンスと共振している。客入れ中の場内の雰囲気を否応なく張り詰めさせる前説や、劇場空間をめぐってなされる虚実入り乱れたエクフラシスといった、遊び心のあるふるまいについてだけいっているのではない。遊び場をつくる遊び──すなわち、稽古場を含む非-劇場で遂行された制作プロセスが発話内容や身振りの上でも構造の上でも反復されながらの上演は、〈もっとでたらめになっていく〉。〈でたらめになっていって 混沌の中に生まれてそれが上演だから〉。

幾度かの名義変更を被り、その都度〈マイナーチェンジ〉が施されてきたという『共有するビヘイビア(或いはクローズド・サークル)』について、同名のウェブページに掲載されているインフォメーション(作品概要)にはこうある。

「『共有するビヘイビア』は、私たちの恒常的な舞台のつくり方を観客と共有し、生み出される舞台を世界へと共有する。行為としてのクリエーションを分解し、パフォーマンスが組み立てられる過程を展開することで、観客が私たちの舞台を追体験しながらそこに実在する上演の時空間の部分を想像力によって担い続けることとなる。」

「舞台のつくり方を観客と共有し、生み出される舞台を世界へと共有する」営みの〈根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通している〉。〈上演っていう言葉を使って説明を行っています 中身は別になんだっていいんです〉。制作/伝達過程へと再帰する制作/伝達行為として自己表明する舞台は、そのうえ十分に笑えるものであるからには、ほかでもなく「公園そのものを作る公園での」「楽しい遊び」である。それは、さんざん指摘されているとおり、大小ないまぜのコンポーネントが幾重にも「散らばり」「折りたた」まれたすえに出来している。(タイポだらけの奔放なテキストをことごとく読みこなしていく古賀の演技体(おもに発話)は、強度の「強い」られ感をまといつつ、〈言葉の集大成〉としての〈言葉〉たる説得力を発揮してもいる。)

また、精妙なステージングを志向するとき、予測と制御を逸脱しうる観客の鑑賞態度の放埒さは忌むべきものと考えられてしまいそうだが、そういうわけでもない。第二部「また会いましょう」で、渚まな美と西井裕美は出会いの被膜を行ったり来たりしながら調整の限りを尽くされた掛け合いに興じる。ダイアローグは同期したと思ったらすぐさま非同期に転じてしまう。リプレイされる当たり障りのない会話(に聞こえるもの)は、アクターとキャラクターとナレーターの分節化をまったく自明でなくする。そこには婚活や家庭をめぐる誰かの実際的な生の息遣いが感じられ、地名や人名、実在しそうな対象のイメージがちりばめられていることもあいまって、あいまいな景色の共同想起がなされる。このとき動員される観客の「想像力」は、まぎれもなくわたしたち自身のものである、のだが……、

「たえず自己にまつわる記憶を喚起し、それを想像力に結びつけて、存在の感覚を確認すること──これこそが、[チェーザレ・]パヴェーゼのような日記作家の、自分の日記を再読し新たな記述を追加するさいの、一見したところ苦渋にみちてはいるが、それでも他の何ものにも換えがたい楽しみであったにちがいない。」(富永茂樹「自己保存装置としての日記」)

社会学者は、書き手によって繰り返し読まれ、いつでも加筆修正されうる、自己目的化した日記が、実利や自己規律のために用立てられることなく「保存という行為の本質を何にもまして純粋に守」るさまに、逆説的な「自由ないし解放」の契機を見た。たしかに、第二部では、十一の場それぞれの見出しに日付が掲げられていて、カンパニーのウェブサイト上で公開されている日付つきの第三期「本人たち」のテキストと合致する発話もあった。そういえば、昨日参加した日記をめぐるトークイベントでは、日記を日記たらしめるのは何かと聴衆の一人に問われた小説家の滝口悠生が「最初に日付が書いてあること」だと答えていたが、そうであるなら「また会いましょう」もまた日記である、と強弁できなくもない。しかし、わたしたちが直面したものと日記とはやはり多少の異同がある。つまり、「喚起」される「記憶」はいささかも「わたし」のものではない。それどころか、「喚起」される「記憶」はそこにいるアクターのものである保証も、彼女らの傍らで演出に従事していたほかのだれかのものである保証もない(もちろん日記は実在する人物による偽らざる生の記述である必要などみじんもないが、少なくとも、読解を通じて(日記の書き手としての地位を引き受けうる)統合された執筆主体が仮設されるテキストでなければならないだろう)。帰属先をもたない光景が空間に満ち満ちていくばかりなのだ。

ところで、起源なき言葉たちの周りをうろつく「本人たち」の『本人たち』は、いわゆる「アーカイヴ」と呼ばれるものに似た仕方で作動しているようなところがある。そこで、アーカイヴの再構築やデータベーススキーマの再設計などに携わるアーカイヴの理論家・上崎千のレクチャーを手がかりにしてみよう。適宜パラフレーズしつつ、議論の一部を紹介したい。

上崎は、ブルース・ナウマンのヴィデオ作品《Wall/Floor Positions》(1968年)が雑誌『Avalanche』(1971年冬号)上に掲載された際のエディトリアル・デザインに着目する。パフォーマーによる一連の動作をうつした複数枚の静止写真が(ブラウン管のフレーム付きで)紙面にレイアウトされるとき、そこには「表現」の「プレゼンテーション」(提示、現前化)とは異なる「ドキュメンテーション」(記録、文書化)という時間的契機が現れる。しかし同時に、印刷物の上で「分解された(ばらされた laid out)」「記録」写真は、映像内に継起するパフォーマンスとは異なる時間枠にしたがって「再構築」される。ならば、これはすでに一個の「表現」と化しているといえまいか。逆に、おおもとのヴィデオ「作品」も、生(ライヴ)のパフォーマンスを撮り収めた「記録」としての性格を帯びている。かくして、事態は限りなく輻輳していき、もはや「表現」と「記録」のいずれかを本質化することはできない。あいだの「/」はつねに引かれ直すのだ。そして、確たる始源の欠缺から生じるこのような運動性にこそ「アーカイヴに特有のフィクション性」がほの見える。「私たちは、「アーカイヴ」の持つフィクショナルな質に積極的に関与し、そこにどのようなリアリティを構築していくのかという課題を担っている」。

日付の振られたテキスト群、観客から見える/見えない映像(+字幕)、自在に変形を遂げる舞台空間たちが織りなす『本人たち』は、「宇宙のようなスペース」とでも形容したくなる、質(としての)量を備えたエンティティと化している。それは果たして、「本人たち」という名辞のみによって束ねられた、いまにも四散しかねない集合体である。『本人たち』は、(カッコなしの)本人たちになり代わる欲望をつねに秘めているともいえるだろう。上演はアーカイヴのように身をかわして、わたしたちの手をすり抜け続ける。なればこそ、上演に上演として触れ、それをしかと批評するためには、その運動性と構築性を丸ごと反復する「保存」「記録」行為を措いてほかにない。

「おもちゃをもっとも有効に修正することは、教育者であれ、製造業者であれ、物書きであれ、大人の手におえるものではない。子どもがあそびながら自分で修正するのだ。おもちゃは、どこかに置き忘れられ、こわされ、そして修繕される。」(ヴァルター・ベンヤミン「昔のおもちゃ:メルキッシュ博物館のおもちゃ展覧会」)

第一部冒頭で宣言されたように、わたしたちはみな〈上演に送り出〉される〈子[ども]〉である。子どもたちはそれぞれの現在地においてきっとまた会うだろう。プレイは共有されるたびに、新たなるプレイとして再生するのだ。

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3月17日
これ 文章で読んで面白いかわからないけど、本当に

あの過去最高のジョークのやつ ちょっと面白くないですかね

うん いいですよね

飯豊山わかった 音声できいてなんか すごい変な音が出るってなんなんだと思って

なんか音で聞くと面白いかもしれないですよ

いやあ まあでも、そう だからこう、なんつうのかな どう使われる加工わからないという見込みの上で 話ずっとしてる方が 素直で良いかなみたいな やっぱなんつうの、こう なんかまあ 僕っぽい文章をちゃんと意識していくかって思ったら こうなった

うんうん

やあ なんかこう、わざとらしいところもあるから とりあえず使いづらいと思うけど

たしかに こうじの部分ではこう 時のレトリックみたいのが 結構普段書いてる文章よりは素直に出てる気がしてて するっていう言い方も なんか誠実な気がしますけど

本当に何も感覚 何も考えずともかく 適当に書いたらこんな感じだよね、うん

僕もこれ ちょっと実は 全く何をどうするか決め決めずに書いてもらったから なかなかちょっと面白かったんですけど そういう面白さぼくがあったからなんか 満足したんですけど やっぱこう書かれたtextなんで それをそのまま上演するっていうことはちょっとしないというのはまずあって むしろその書かれたことは事実としてあるっていうことに 僕は演出上の意味があると思うので ある種のこの文章を一つのモニュメントにしつつ それを取り巻く出来事をその舞台に乗せるっていうぐらいの感じかな と思っております なので、今いろいろしゃべってもらって 私、今ちょっと 会話のレベルがちょっとなんかメタなるからあれだから言いにくいんですけど 今しゃべってもらったことは 結構ある種のモーメントの干渉経験っていうことのアーカイブになるかなって思っているので で、それを舞台にしようかなっていう 今の あの、これまでずっと あの、今 ディクテーションで撮ってたんですけど 会話を そのまま使うかどうか別として これ 今 あらためていろいろ喋ってもらった中で ズームをね 限られた価格だからなかなか難しいんですけど いってみれば その癖とか身振りとかを ちょっと幾つか出してサンプリングして それを来週の本番の時にはじめいくつか示して どれが面白いかなっていうところから始めようかなっていう なんとなく思って なんか 今の時点で堂々作っていくっていう方向で お二人の方から なんかあります フィードバックっていうか アドバイスっていうか 助けて欲しいんですけど 当日にはどうにかなるんだろうなあっていうすごい謎の気持ちがあります 最悪過激だから あの しゃべってもらえれば何とかなるので なんか面白いポイント 僕らが合意できて 困ったらもうその面白ポイントに向かっていくように あの場を作っていくっていう方向で なんか縁起したら もしかしたら あの別に何も台本とかなくても大丈夫かもしれないけど

ねえ怖いですね

いうかなんか そこそこでもデータもとれた データとか言ったらあれですけど 蓄積もできたので 僕しゃべりすぎましたけどどう考えても、まああの

終わる

そうですね まあ、うん

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ソース(参照順)
Abraham Lincoln, “The Gettysburg Address: Bliss Copy”, Abraham Lincoln Online, 2020 (Originally addressed on: Nov 19, 1863).
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』(戯曲)、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、2023年。
タイマン森本【トンツカタン森本】「【タイマン】サツマカワRPG×トンツカタン森本」(動画)、YouTube、2022年6月25日投稿。
植村朔也「イントロダクション」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年3月21日掲載。
山本浩貴+h(いぬのせなか座)「伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年3月21日掲載。
東京はるかに(植村朔也)「舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評」『批評 東京はるかに』(note)、2023年4月3日掲載。
内野儀「メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年1月31日掲載。
松原俊太郎「聞こえる声のための対話のエチュード」『現代詩手帖』61巻11号(2018年11月号)、思潮社、2018年10月29日、57-61頁。
「4月14日」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2021年4月14日掲載。
「4月21日」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2021年4月21日掲載。
山本浩貴+h+鈴木一平+なまけ「座談会1」『いぬのせなか座』1号、いぬのせなか座、2015年11月23日、8-37頁。
「共有するビヘイビア(或いはクローズド・サークル)」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、掲載日不明。
富永茂樹「自己保存装置としての日記」『都市の憂鬱:感情の社会学のために』新曜社、1996年3月5日、173-177頁(初出:『GRAPHICATION』212号、富士ゼロックス株式会社、1986年2月)。
植本一子+金川晋吾+滝口悠生「日記を書く/誰かを書く」(『三人の日記 集合、解散!』刊行記念イベント)、SCOOL、2023年4月21日開催。
上崎千「アーカイヴ的思考(archival mind)について」『地域・社会に関わるアートアーカイブ・プロジェクト:ピープラスアーカイブ 一年の活動記録』特定非営利活動法人アート&ソサイエティ研究センター、2011年3月、20-29頁。
小野彩加 中澤陽「メッセージ」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2022年1月15日掲載。
ヴァルター・ベンヤミン(丘澤静也訳)「昔のおもちゃ:メルキッシュ博物館のおもちゃ展覧会」『教育としての遊び』晶文社、1981年9月25日、38-48頁(初出:1928年)。
など

中本憲利 Kent Nakamoto
インディペンデント・キュレーター。企画、批評ほか。複数の団体でPRに従事。

本人たち

レビュー
本人たち|山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
本人たち|東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
本人たち|鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
本人たち|稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
本人たち|神田茉莉乃:見ること、見られること
本人たち|高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
本人たち|長沼航:1でも2でも群れでいて
本人たち|中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

本人たち|長沼航:1でも2でも群れでいて

 スペースノットブランクで保存記録を務めている植村朔也さんが「水族館」の比喩を用いて同団体の諸作品の特徴を説明している[注1]。曰く、水槽のガラスを隔てて向こうにいる水族館の魚は独自の世界を有しており、こちら側にいる人間に頓着しない。それに似て、「スペースノットブランクの舞台が客席との間に設けている仕切りは、どちらかといえば水族館の壁寄りの「第四の壁」であ」[注2]り、俳優が観客の属している時空間とは独自の時空間においてパフォーマンスをしているように見受けられることを、スペースノットブランクの作品がもたらす特異な効果だと述べている。
 この指摘に言及するのは、僕が「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビューのオープンコール」の応募に際して課された簡易レビューおよび志望動機を、動物園での経験を手がかりに書いていたからだ。動物園で猿を見るのがちょっとしたマイブームで、けれどそれはマイブームと呼ぶには僕が舞台のことを考えるうえで重要な出来事でありすぎた。

 檻の中にはロープや鎖、柱や段差などが設けられていて、人間よりはるかに俊敏な猿はそれらを用いながら、縦横無尽に動き回ったり、はたまた端でうずくまったりしている。それぞれの個体は違う目的を持って行為しており、そこでは「異なる線がいろいろな方向へと引かれていくような時間と空間が広がっていて、私はそれを作品──つまり、主体の意図が介在した構成物──ではないが、まさしく舞台だと思う」。「個体の群れが集合と離散を繰り返していきながら、檻を運動で充していくあの様子。彼らにとってそれはただの生命維持行為の延長であり普通のことだ。しかし、見つめる私にとってはまなざされるべき舞台であった。人のつくった作品で、こんな充実を観ることはできないだろうか」[注3]。
 動物園の猿の檻のような舞台を観たい。しかし、私たちは猿ではない。植村さんも「スペースノットブランクは魚ではない」[注4]と念を押している。パフォーマンスをする俳優もパフォーマンスを観る観客も人間であり、人間は人間に見つめられるときもはや猿や魚のようではいられない。自分をどうやってプレゼンテーションするかをどこかで考えてしまう。無頓着ではいられないのだ(というか、魚のことは知らないが、猿だって他の猿の目は気にして行動するものだ)。
 また、舞台は多くの場合、劇場と呼ばれる場所で上演され観られる。動物園の猿がいる檻は彼らにとって生活の場だ。生活の場が同時に舞台のように見つめられうる。だがしかし、上記の理由から私たちは生活の場をそのまま舞台として他の人間に見せることはできない。生活に根差した普通のことが充ちているだけで面白いのに、人間はなかなかそれを舞台にはできない。そして、生活の場から離れた劇の場において、わざわざ何かしらの表現をこしらえている。
 僕の最近の関心は、生活の場から離れた劇(の)場において行われる表現は俳優/観客にとってどのように根拠づけられるのかという点にある。そして、『本人たち』は生活の場──言い換えれば、舞台に立つ人間がその人自身でありうる地点──と劇の場を独自の仕方で貫通させようとする探究を突き詰めたものでありそうで、これを観ることは僕の関心を深めるのに役立つのではないかと、応募時の僕は目論んでいた。

 だが正直に言えば、『本人たち』を観て、僕は困ってしまった。観ているときはそこまで困惑しない。決して理解不可能なことだけやっているわけではない。むしろこれまでのスペースノットブランクの上演に比べれば、コンセプトが作中で説明されてしまって非常に分かりやすい。
 けれど、思い出してそれについて考えるとか何かを書いたりする段階になると、途端にはっきりしなくなる。それぞれの部分が他の部分と関連しているのに、どういう関係にあるかを言い当てるのが非常に難しいのだ。
 例えば、ほとんど古賀友樹さんの一人芝居(ないし1.5人芝居)である第一部の『共有するビヘイビア』には「ガンバリズム」から始まる一連のシークエンスがある。ここでは「おやすミンミンゼミ」「おはヨーグルト」「ありがとうもろこし」「ありが10匹」など、二つの言葉を合成する言葉遊び的な言い回しについて真面目に「お休みの静かなイメージ から一気にうるさいイメージのミンミンゼミがくっつくことで ギャップの笑いが生じる」「これは多分ありがとうと言っている対象にたいしてトウモロコシをあげてる」[注5]などと説明される。確かにユーモラスで面白く、内容もよく覚えている。けれど、一体なんでこういう話になったのか、それからこのあとどういう話になったのかが全く思い出せない。
 さらに言えば、一群のセリフを抜き出しても、繋がりが判然としないものもある。第一部の終盤に出てくる「いわゆる簡単にちょっと対してっていう 簡単に自己自己紹介をしてもらう 説明してくれ として 自己紹介として 自分のことを ラストに行けないんです」[注6]というKの台詞は全体としてはラストに向けて自己紹介をお願いするものとして聞ける/読めるが、厳密にはよくわからない部分がとても多い。
 僕は上演のあいだに起きる物事を容易にやり過ごせてしまう。なんとなくでいられてしまう。それが観客という立場なのかもしれないが、同時にたくさんのことが無視される。でも、たくさんのことを無視してしまってもいいように、もしかしたらこの作品は作られているかもしれない。

 山本浩貴+hがプレビュー上演のレビューで触れているように、本作では俳優と観客の間にある伝達の構造に焦点が当たる[注7]。必然的に最も強調されるのはメタ的な伝達だ。(作中の例示を引っ張ってくれば)「疲れたよ」という言葉が「疲れたという底を示す」(体を示す)[注8]ものとして使われるように、作中の無数の言葉は全て「伝えてるよ」、すなわち「「伝えてるよ」を伝えてるよ」のパラフレーズとして捉えられる。例えば、第一部では、『本人たち』のこれまでの来歴、STスポットの歴史、顔の(部分的な)情報、「念力暗転」のやり方など様々な事柄が絶えず俳優から観客へと伝えられていく。ここでは、いま観ているもの、いまいる場所、いまかけられている技が説明されている。過去に収録・録音された音声をもとに作られたであろう部分でさえ、現在の上演を支えるクリエーションの時間の説明として機能する。そして、それらは説明の内容自体が目的であるというより、作中で説明されるような説明する「私」と説明される「あなた」の関係を構築するための手段として用いられている。
 だからこそ、第一部における古賀さんの口ぶりは完全に観客を志向している。観客に対して何かを伝えているし、何かを伝えていますよということも伝えるように身振りや視線や声の大きさなどが操作される。聞いている「あなた」に対して、古賀さんは絶えずさまざまな仕方で関わろうとする。しまいには、観客のうちの1人とジャンケンまでしてのけ、その勝敗によってシーンが分岐する。
 とすると、古賀さんは水族館や動物園的な独自の世界を作り上げているとは全くもって言えない。水族館の中で似た場所・時間を見つけるならイルカショーだろう。完全に他者から観られていることを意識した振る舞い、丁寧に習得された技をお客様に披露する時間、ときに水をかけたり鰭をふったりするインタラクティブ性。閉じられた水槽ではなく、開かれたショーの舞台として『本人たち』の第一部は捉えられる。飼育員兼イルカの古賀さんの「私はあなたにお見せしています」という態度で貫かれている第一部を観て、私はすっかりエンターテインされてしまう[注9]。
 しかし、ここで伝達とは何を指しているのか。そもそも「何かを説明するとき」に要請されるとされた言葉は、この上演においては前提である[注10]。つまり、戯曲があってパフォーマンスが行われるのであって、説明の意志が言葉を生んでいるわけではない。
 僕は上演を観て、戯曲を読んだ。画面ではほとんど隣接しているこの「観て」と「読んだ」の間には、実際には2週間ほどの時間的な隔たりがある。このように言葉は実際の時空間における構成とは異なる仕方で使えてしまうわけだが、『本人たち』の戯曲もこうした言葉の操作可能性に基づいて作られているように読める[注11]。
 上演において話される言葉は、どうやら過去の稽古場などで話されたものを採集し、文字起こしされたものであるようなのだが、それが元々はどこで語られていたかという文脈からは剥ぎ取られている[注12]。上演を観ていると、言葉の来歴などはそもそもどうでもよく、すでに記録されてしまった言葉を道具としていまここの劇(の)場において観客への伝達関係を作ろうとパフォーマンスが行われているように思える。説明するために言葉が生まれるのではなく、言葉が説明になるためにパフォーマンスが生まれる。そんな転倒が生じている。だからこそ、時に不可解なディテールをもっている説明そのものよりも、それがなんとなく説明になっていることの方に目が向いてしまう。

 と、これまであまり前置きなく『本人たち』の第一部についてのみ触れてきた。上述したことがそのまま妥当するのは第一部だけである。なぜ、第二部『また会いましょう』について口数が少なくなってしまうのか。それは第二部の多くの時間が渚まな美さんと西井裕美さんの2人の同時発話によって進行していき、第一部よりも処理すべき情報量が格段に増え、結果として意味的・理性的な認識よりも聴覚的・感性的な知覚の方に上演の効果がシフトしていくこと、それに伴い僕のうちに生じた感覚を書き落とすのが難しいことに由来している。しかし、このまま放っておくには第二部はあまりにも第一部と異なる。
 第二部で用いられるテキストは第一部に比べて、より由来のわかりやすいものになっている。意味が通っている部分と通っていない部分は依然あるものの、語られるトピックが生まれた場所や卒業論文のテーマ、就いていた仕事、美術館コンでの失敗、自分の名前などについてであること、元々この言葉を話していた人物の実際の個人的経験が反映されているであろうことが認識できる。また、様々な固有名詞(岡山、岸田國士、『かもめ』、横浜、草間彌生など)が出てくるのも特徴的で、話されていることが私たちの現実と地続きのものであると感じられる[注13]。第二部の言葉は、おそらくは実際に演じている2人のあいだでなされたか、もしくはそれぞれが演出家とした会話から作られているだろうと推測できるような内容と質、日常的な響きを多くの箇所で保っている。
 だが、直ちに付言したいのは、このようなトピックの理解しやすさ・とっつきやすさは見方を変えれば、内容としてはひたすら凡庸な話がずっと展開されるとも言えるということだ[注14]。もちろん、美術館コンには意外とアートに関心の薄い人ばかり集まるとか、岡山県民は相互不干渉な県民性を持っているとか、興味深いトピックがないとはいえない。ただ、第一部で古賀さんが言葉を使って僕らを楽しませようとするのに比べれば、渚さんと西井さんははるかにどうでもよく聞こえる内容を話している、もしくはどうでもよく聞こえるように話している。
 しかし、「念力暗転」と並んで上演のなかで最も鮮烈なシステム──2人の俳優が身振り・字幕とともに台詞を同時に発話する──によって、僕は舞台上で語られる言葉に単なる意味の把握とは異なる仕方で耳をそばだてる。似たようなトピックについて、異なる言葉の配置がなされた二つのテキストが同時に読まれる。言語的な意味を把握するよりも前に、会話の響きのようなものだけが耳を覆う。喫茶店の真ん中からいろんな席の会話を聞いているような音環境である。一方の発話に耳を集中させようとしても、同じくらいの声量で、同じようなトピックについて話している。すると、ついもう一方の俳優の声も聞いてしまう。そのなかで音が急に言語として飛び込んでくる瞬間があり、それに出くわすとついつい笑ってしまう(特に私が2回目に観た3/31の上演では何度もそういった時間があった)。「年齢キャンペーンその年にキャンペーンをそれとも念力を念力を年齢決定でも結構使ってるかもしれないですよね」[注15]と西井さんが言うとき、その傍らではつねに渚さんの声が聞こえている。ふと水面から姿を現す魚のように、急に「年齢決定」というよくわからない語が入ってきて、笑ってしまう。言葉が説明として使われる第一部と異なって、第二部では個人的な話題からなるテキストの同時発話がもたらす運動の推移を感覚的に味わうことになる。

 第一部と第二部を横断して言いたいのは次のこと──『本人たち』は全体を通して「群れ」を扱う上演だった。
 第二部の全編を通して、渚さんと西井さんはただ2人のあいだで(例外としてメタ出演の近藤千紘さんの声がありはするものの)言葉と身振りでの交感を行っているのみだ。ときおり観客に視線を送りもするが、だとしても観客とは独立したシステムのなかで言葉と身振りのダンスが行われ続ける。たった2人ではあるが捉えきれない情報量で横溢する舞台を観るしかない。そうした経験をもたらす第二部は動物園的ないし水族館的だといえる。
 思うのは偶然みたいだということ。猿を見ていて感動するのは、生じる複数の行為の交わりがどこまでいっても偶然的だから。そして、偶然だけれども同時に、メカニズムが明確だからだ。周囲のロープや段差や食べ物など環境との交わりによって、それぞれの個体の行為は誘発されている。それらが檻の中を充たすとき、群れとしての充実に感動してしまう。
 『本人たち』の第二部で起きる言葉と言葉のすれ違い/合流の運動は、おそらくかなりの程度意図的に操作されているだろう。だが、観る僕はそれらをほとんど偶然的な充実みたいに受け取る。上演の場で何が捕捉されるかはわからない。偶然捉えられた台詞を僕は聴き、偶然捉えられた身振りを僕は観る。僕のうちに起きる感性的な音や言葉や身振りとの出会いは、意図的な操作によって引き起こされる偶然だ。それに対して、第一部は僕においてぜんぜん偶然的にならない、と思った。
 でも、1人しか出演者のいない第一部もまた群れ的な性質を持ち合わせていたとも思う。それはテキストの作られ方と受け取られ方に関わっている。
 動物園で見る猿は、それぞれに名前がついていて、飼育員や足繁く通うファンたち──そういう人たちが本当にいるのだということを僕は黑田菜月さんの展示「写真で紡ぐ、思い出の中の動物園」で知った──には識別可能だが、一見の僕なんかは正直子供か大人かくらいしか見分けることができない。それは『本人たち』における言葉の記名性と類比できる。それぞれの言葉を話した人物の名前ないし時間や場所は、稽古場にいた当人や演出家にとってはそれぞれの要素のうちに明記されているかもしれないが、観客にはそれを読むことはできない。「これは誰の話なんだろう」と思って思考を巡らせても答えはわからない。言葉は原理的に弁別不可能な群れになっている。
 そして、『本人たち』においては、語られた言葉が常に誤った解釈に晒される可能性が機械文字起こし・機械翻訳によって、観客の解釈に先立って提示されてすらいる。すでに間違って認識されてしまっている個体がウヨウヨしている。ここで私たちはもはや名前を取り違え(られ)ていい[注16]。

 それぞれに由来を持ち記名されていた言葉や身振りは稽古場から戯曲/劇場に移しかえられるなかで、「本人たち」という匿名的な群れへと再編される。なんらかの由来の存在を暗示するものの、元々の姿とは別様に組み立てられてしまっている。その組み立てこそがフィクションとして有効に機能しうるのは僕も共感できる。けれど、僕はどこかで腑に落ちていない。僕にはもっと別のことを分かりたい欲望があったのだろう。
 『本人たち』に出てくる俳優は、編集された言葉の群れを観客への説明として聞かせるために労を費やしたり、自分の発話が自分の身振りや相手の発話とうまく並行するように自身の感覚を動員している。どちらにせよ舞台上での表現の起点はいまここの関係を成立させることにある。個人としては、上演環境が実際に群れの運動によって充たされる第二部の、音声と言語を行き来するような戯曲と上演の双方にまたがる操作に活路を見出したいけれど、使い古された雑巾をまだ使っちゃうみたいにしてたくさんの言葉を自分の身体において束ねている第一部の古賀さんの演技もすごいものではあるのだろう(自分は途中で心が折れてしまいそうでやれそうもないが、もしかしたら心なんてものを持ち出さずにできるようにパフォーマンスはプログラムされているのかもしれない)。でも、さらにいえば、総じてもっとその俳優が触れている世界のことがわかりたかった。いまここではない過去の蓄積として現前する「本人」の姿が見たかった。ナイーブな僕は、共有や伝達を志向しながらも転倒や屈折を高い強度で持ち込んでくるスペースノットブランクの意地の悪さに、打ちのめされ続けている。

─────

[注1]植村朔也(2022)「1. 舞台は水族館か? 2. 数えられてもダンスか? 3. 舞台はどこに行ったのか? 4. 見えないものがすべてなのか?:スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』評」
[注2]植村朔也、前掲記事。
[注3]以上は「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビューのオープンコール」応募時に筆者の書いた簡易レビューおよび志望動機より。
[注4]植村朔也、前掲記事。
[注5]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』戯曲 p.7。
[注6]同上、p.12。
[注7]hさんの「「伝える」ってなんだろう、と思って見てた」「いろんな箇所で「伝える」ことについて直接的に言及していた」などの発言を受け、山本さんは「話される個々の話題やその主体の個人的情報に重きが置かれるのではなく、それらが立ち上げうるところの「伝える」関係性こそが」上演において中心的に扱われていたと語っている。
 山本浩貴+h(2023)「伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演」
[注8]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.7。
[注9]ちなみに、終盤にはハーネスをつけた滝沢秀明やハリウッドで有名なジャスティンさんが来てくれる豪華なショーだ。
 同上、p.13。
[注10]「言葉が発生した瞬間のこと それがいつ というのはとても簡単なことでして 今です 今この瞬間 嘘です 何かを説明する時というのが言葉が必要なときです」(小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.3)。
[注11]これまでのいくつかの引用から気づけるかもしれないが、この戯曲では句読点が使われず、英語のようにスペースを用いた分かち書きがされている(それは英語のように一語単位でなされるわけではなく、また文節ごとに切られているわけでもなく、長さは一定でない)。スペースが使用されると個々の言葉の塊が、それぞれ紙面の上に等価なものとして配置されているように把握されうる。そうして、語-句-節-文-文章のヒエラルキーに基づく文章構成がゆるやかに解体される。この記載法は編集的なテキストの作り方に適したものであるように思えるし、句読点による分かち書きというアイデア自体、前から後ろへのリニアな筆記と読解のための工夫に感じられてくる。
[注12]どうやら2月15日に稽古場かどこかで収録された音声を基にしたテキストがあるようだということは、その日付や説明が含まれることから推測可能だ。
 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.3。
[注13]『かもめ』が出てくるところで語られているのはおそらくNTLiveのラインナップとして上映されていたものの感想であり、また草間彌生や(直接的に名前は出されないが)何でも「包む」作家として言及されるクリストとジャンヌ=クロードの「作家性」についての話は、僕が個人的に受けていた岸井大輔さんの創作の授業で語られるエピソードに酷似していた。こうした自分の私生活における知識や経験と語られる言葉の重なりによって、それがまた別の人間の私的な知識や経験と紐付いたものであると認識可能だ。
[注14]そして凡庸なのだけれど、どうやら第一部で語られる問題系に重なるような個人的エピソードが語られているように聞こえるのも、このテキストの特徴だ。山本さんもレビュー内で「この作品のなかで語られる内容も、形式も、ひとつひとつはぺらぺらなまま、それでいていずれもが喩的な意味合いを託されるようにうまく構成されてい」る、と凡庸だが相互に連関していないわけでもない絶妙な塩梅でなされるテキスト構成を端的に指摘している。
 山本浩貴+h、前掲記事。
[注15]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.18。
 hさんも前掲のレビュー内で指摘している通り、会話の断片らしく聞こえる第二部の台詞は戯曲を読んでみると、意味不明な部分も多い。この箇所も何を言っているのかはよくわからない。同時発話の部分は、テキストの理解できる度合いが場所によって異なるが、こうして濃淡をつけることによって観客の聴覚的な把握を操作しているのかもしれない。
 ちなみに、同時発話ではなく会話のように話者交替が起き1人ずつ喋っている箇所でも、それぞれが別々の会話から採られた相互に関係ない内容を話していることが多い。
[注16]第一部でも第二部でも、終盤において名前がクローズアップされるのは、このような素材の記名性の観点からも重要であろう。「古賀」ではなく「ジャスティン」として名を置き換えられてしまう。もしくは、街コンで会った男に裕美(ひろみ)ではなく裕美(ゆみ)と呼ばれ続ける。もしくは、俳優活動のために「渚まな美」という芸名を新たに付与する。これらの小さなエピソードは自他にとって名前が恣意的なものでありえ、間違えられたり異なる名前を名乗ったりしても大きな問題がなくコミュニケーションが進んでいくことを示す。
 また、『本人たち』第一部には、おそらく意図的に一切人称代名詞が使われないシーンがあった。S(メタ出演の鈴鹿通義さんが想起される、上演では下手側に置かれたスピーカーから機械音声が出力されていた)が「ここに来る」までのあれこれについて話した後、K(出演の古賀友樹さんが想起される)が以下のセリフを言う。

 「男性です まず漢字を教えます ちょっと間違える可能性が高いのでここでは言わないでおきましょう 生誕しまして 今もその名を名乗って生きております 食べ物を食べる 最近食べたのはカレーじゃないですか カレーの大盛りを しかも激辛で食べました」(小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.5)

 まだ続くがここらへんにしておこう。その前にあるSのセリフにも、実は一つも「私」や「僕」などの一人称代名詞は使われていないのだが、台詞を聞いているときにまごつくことはない。少なくともネイティブの日本語話者であれば、このセリフを聞けばそれが発話主体の行動を説明するものであることは理解できるはずだ。だが、Kのセリフのようにいくつかの記述を紐付ける対象が見つからないとき、私たちの頭は混乱する。誰が「男性」なのか、誰が誰に「漢字を教え」るのか、誰が何を「間違える可能性が高い」のか、何を「ここでは言わない」のか、「ここ」とはどこか。
 そしてこの「私たち」にはDeepLも含まれる。上演においては常に後方の壁面にDeepLを通して英語に翻訳された戯曲が表示されていた。英語と日本語の文法規則の違いにより、DeepLは日本語ではそれ抜きでも(文法的には)成立している人称代名詞を補わなければいけない。手元に字幕のデータはないため正確な引用はできないが、当該箇所においてはかなりでたらめにIだのheだのtheyだのがあてがわれていた記憶がある。機械によって名前の代わりに使われる代名詞も恣意的に与えるこの操作は、『本人たち』における名前の取り違えの挿話と類似した状況を実際の上演に持ち込むものだ。

長沼航 Naganuma Wataru WebTwitter
 俳優。1998年生まれ。
 横浜国立大学大学院都市イノベーション学府建築都市文化専攻Y-GSCポートフォリオコース修了。
 散策者とヌトミックの2つの劇団に所属しつつ、俳優の立場から演劇やダンスなど舞台芸術の創作・上演に幅広く関わっている。主に非物語的なパフォーマンス作品に出演することが多く、その演技においては自分自身の身体と他者の書いた言葉を並列的に扱うことを目指している。
 また、舞台上に立つ人間が自身の技術をどのように運用しているかを明らかにすることに関心を抱いており、俳優の技芸についての勉強会「俳優の兵法を学ぶ」や、パフォーマンスとトークを通じて即興について考える「即興と反復」を(とてもスローペースで)企画・開催しつつ、演劇/演技の創作過程についての論考やエッセイ、記事などの執筆を行っている。
 近ごろはひとがある仕方で生きていることを肯定するための諸々を制作することに関心を持ちながら、演劇活動と生活の結び目を探している。2023年はインタビューをたくさんしたい、小粒でもピリリと辛い文章が書きたい、お金がほしい。
 最近の演出作品に「タムロバ・シアター」(2023)、出演作品に、ヌトミック『SUPERHUMAN 2022』(2022)『ぼんやりブルース』(2021/22)があり、最近の文章に、「感覚の計量──小松海佑の漫談について」(『悲劇喜劇』2023年3月号)、「オンラインでしかあり得ない舞台芸術を目指して──Asian Performing Arts Campにおけるハイブリッド性と越時性」(東京芸術祭Webサイト)がある。

本人たち

レビュー
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本人たち|高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う

〈言葉 ことの始まり つまり誰かが何かを伝えようとしたとき〉
〈ちょっと離れたところに住んでる人の周りにはすごい美味しい草があるみたいな シェアするために言葉が生まれたみたいなことなのかなと思って〉
〈それから最初は遊びだと思い こういう感じなんですか 難しいな でもこれはこうですっていうことだとは思う そういう感じでいきますか〉

 まずもって言葉が発せられていく。まずあるのはその感想。第一部では古賀友樹のからだを通して、第二部では渚まな美と西井裕美のからだを通して、あるいは舞台下手に置かれたモニターを通して鈴鹿通儀と近藤千紘の人工音声が流れて、言葉が発せられる。目線を上げれば、正面の壁にはDeepLで翻訳された英語字幕が投影されている。言葉ばかりだ。そうした無数の言葉が敷き詰められた『本人たち』にはいくつもの分岐がある。それはひとつの作品でありながら、しかしその上演ごとに複数に、巧妙に、観劇体験が枝分かれするように構成されている。この文章を綴る〈本人〉は演劇についてのまとまった文章を書いて公開するのも初であるし、ここに展開するのが批評と呼ばれるに耐えるものなのかも不明だが、そのことについてできるだけ言葉を尽くしていきたいと思う。
 当たり前のことだが、通常「演劇」の「舞台」はその場その時の今この瞬間何かが行われていくわけだから、全く同じものが寸分の狂いもなく再演されるということは、その表現の性質上あり得ない。ではここでいう観劇体験が枝分かれするとはどういうことか。それを観客の側に返して、例えば入場して前の方の席に座るか、後ろの方の席に座るかといった単純な問題を言いたいのではない。言いたいのではないが、そんな単純でくだらない問題をも『本人たち』は問題化してしまう。入場して席に座ろうとすると、入場のタイミングによっては既に、開演前の舞台上で古賀友樹が喋っている。〈どうぞお好きな席に 前の席の方がよりスリリングな体験が 後ろの席の方はゆったりと でもお尻は痛いかも 全席〉そのように言葉が敷かれた空間で座席を選択する行為はそれぞれの観客に、その言葉の規定を受容したことを、その選択を選択したことを意識させる。そしてもしも前の席に座るならば後ろの席のゆったりさを思うのかもしれない。
 こうした言葉による操作は、もっとわかりやすい形で繰り返される。例えば、古賀友樹はじゃんけんの勝敗で自らのマスクの着脱を決めると言い、実際に任意の観客とじゃんけんをする。勝敗は決まり、マスクの着脱が決まり、マスクを外した古賀/マスクを外せなかった古賀に分岐することが、どちらかの結果になったことが、どちらをも選ぶことは叶わなかったことが、観客に意識されあるいは他方を想像させる。ここに「念力暗転」を例示してもいい。丁寧に説明されたルールに則って観客が目を瞑る/瞑らないはそれぞれの観客に左右されるが、促された以上どちらかの結果には確実に至ってしまうわけだ。第一部『共有するビヘイビア』はその戯曲内容を説明するように言葉を使用し、物語的に単一に結ばれることのないいくつもの断片を、時にそれは露骨な嘘話も交えながら、観客に向けて猛列な勢いで投げかけて、その言葉の意味内容を観客に強く意識させ、想像させていた。想像のために言葉が用意されている。そしてこの規則は『本人たち』全体に敷衍する。そうした時、第二部『また会いましょう』はその実践の意味を強くする。
 渚まな美と西井裕美は、時に、同時に発話し、言葉はリズミカルにもつれあい心地よく耳に響くが、観客にはその全ての意味内容を聞き取ることは不可能である。戯曲を見ると「分岐α」「分岐β」「分岐γ」「分岐δ」と全部で4つのセクションにおいてその同時発話が行われる。戯曲には「合流」のセクションも記載されており、そこで二人は通常の対話のように言葉を互いに交わすが、内容が一致し話が噛み合う瞬間はほとんどない。つまり戯曲上の「分岐」が指し示すのは、彼女たち自身が分岐しているために別の世界線で別の話をしてしまっている、というような意味のことではない。そういった意味では彼女たちは既に分岐している。そこで分岐するのはむしろ観客の体験である。観客は同時発音の中で自らが聞き取れた単語を、話の筋を、部分的に聞き取り想像を働かせる。ここで重要なのは単一な一筋の物語がないことの方ではなく、複数の聞き取れた/聞き取れなかった物語がそこに生起し続け均一に並置されることである。そうして暗示されていたのはその可変的な舞台空間、観客の選択によって、どの言葉に注意を向けるかという他ならぬその観客自身の選択によって、言葉自体の意味内容が同一の進行のもと過剰なまでに枝分かれしていくということではなかっただろうか。「演劇」は「ここにないものをあることにする」ある種のゲーム的な側面を持つが、ここに分岐が生まれ、単一の舞台が無数に存在することになる。
 ステートメントによれば〈二人は同一人物として扱われる〉らしい。ならば、二人の口から語られる個人史のようなものはある一人の女性を示すことになるが、上演の進行と共に言葉によって仮想される姿形は造形されると同時に部分的な欠落を生じさせてしまう。しかしながらそのまま個人史のようなものは重ねられ、言葉による共有の部分的な失敗はその層を厚くして上演は引き伸ばされる。とある人物のことが語られていながらその人物のことをうまく想像できないような事態に陥る。ステートメントに書かれる〈未然の上演〉とはこの状態のことを指すのではないか。女性の結婚の話や、街コンの話が、ある特定の個人の話という意味合いを超えて、そうした未来を志向する女性一般の言葉へとすり変わる。個人的な話でありながらどこまでも実体のない個人の話が同時に響くその場で、連続性のない想像はその言葉の社会的な要素を拠り所とし始めて、また新たな像を思い描く。
 こうして『本人たち』は、いくつもの分岐、いくつもの言葉を残して静かに終わった。終演のアナウンスは行われず、舞台上には向かいあって目を瞑るN1とN2が残されている。〈本人〉は見事に攪拌され、複数化し、それぞれの言葉を抱えて去っていく。そうしてその1つの、いや、いくつかの記憶を使ってその1つの側面を書いてみた、と言おうか。

高橋慧丞 Keisuke Takahashi Twitter
映画美学校言語表現コース ことばの学校 第一期生。スペースノットブランク「クリエーションを前提としたクリエーションを実践しないチーム」のメンバーであることとは全く関係なく勝手に今回のオープンコールに書類を送りつけ執筆の機会をいただきました。

本人たち

レビュー
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本人たち|神田茉莉乃:見ること、見られること

人と対面で会った時、いつも思いっきり面食らった気持ちになってしまう。
今から出会うと知ってその場に行く。でも、実際に対面するとそれらは夢の中、現実ではない場所、想像の中で行われていた質の抜けたものだったことに気づく。駅で手を振りながら近づく時、遠くから相手を認識した時、声をかけられて振り向いた時、相手を見て、夢から急激に浮き上がってようやく現実に立ち戻る。会いたくなかった訳ではないけれど、ただ驚く。現実は思ったよりもずっとちゃんとした形をしている。
上演が始まった時、私は本当に居心地が良くないな、と思っていた。
話しかけられている? 自分ではない、他の客に。いや、やっぱり自分に話かけられている…。
上演を見ることは人と対面することに似ていると思った。ある程度こうだろうとかそう予想しているせいかもしれないし、モニター越しに見るのとは違い、状況に自分が巻き込まれているかのような近さや現実感があるから、かもしれない。
それにしてもこの上演の最初は真に居心地が悪かった。なぜならこの舞台の内側に気づいたら入れられていたからだ。

第1部、舞台上には男性の演者が1人。ディズニーランドでキャストが説明する時のように、はつらつといかにも楽しげな態度で話はじめる。「嘘です」「バベルの塔ってどこにできたんですか」「地球の真ん中に」「STスポットスポット」「穴を掘ってちょうどその上に」「本当にあるんです あれ」大きくはっきり分かりやすく、わざとらしく無機質。詐欺師に訳のわからない商品を薦められているようだった。ひとつの文章がその場で直接的に意味を発生させているとは言えず、架空と実在も混在している。話題もするすると逃げて変わる。言葉だけが点滅してチカチカする。アニメ『エヴァンゲリオン』のタイトル様式のように、黒い背景に白字太字の明朝体、次々現れては端から消えていく。礫が降り注ぐような状況に混乱する。意味を置き去りにし、別の意味を見せようとしているのだろうか。そもそもモールス信号のように全く別の部分から伝えようとしているのか。言葉を追いかけるのに必死でその場に意味があるのか、わからなかった。
人が何かを喋る様はこんな感じなのだろうと思った。正しい文章の形式を書き出すわけでもなく、考えて喋るのはむずかしい。けれど、日常で行われる他愛もない話にしっかりした文体は必要ない。英語が喋れない人が単語のみを喋るみたいにいっそ話していたりする。言葉を理解するならその程度でもわかる、でも伝えることはできない。いつも言葉だけが浮き上がる。そういう状況では言葉だけが意味を補ってしまう。質を置き去りに、おざなりにして、ひとつのものを勝手に築き上げる。それを思うと、この人と対面し一方的に話されているこの場にはそういう空虚が浮かんでいるように思えた。
話しかけられているような、でもやはり話しかけられていないし、演者は役をやっている。でも、この舞台の外側にいるんだとそう思うには、対面をしているという強い状況から離れることができない。この関係性をどう捉えていいのか、全然わからない。介入されそうな怖さと力強くこじ開けられる時の気持ちよさ、諸刃の剣を握れと言われている。

「念力暗転って知ってますか」と問いかけられる。知らない。粘膜暗転? 奇妙な話のはずなのに普通のことのように話してくる。
演者は超能力者のように手のひらを徐々に下げていく。空中で何か重いものを下に押し下げようとする動作で、ぐっと力をこめながら手を下げていく。私たちは、客はそれに合わせて目を閉じる。最後は演者が指パッチンをして、目を開けるというルールだ。
そうすると、ここがどんな場所だろうと暗闇に、そして別の場所のことを目の裏で考えればどこにだって行ける、どんな場所にもできるということらしい。念力暗転が成功すると今度は指示的に話が始まって、瞼の裏を見ながら演者の喋るストーリーに身を沈めていく。操られている、ともいう。
「駅のホームでした」「年老いた「自分」と出会いました」「割とライトめな会話をメインで話してた」
自分が知っている記憶から場所を想像して、状況を埋めていって、感情を浸していく。自分という人間で補いながら念力暗転をする。本当だったら舞台からは隔離されていたはずだった私は今どこにいるのだろうか。この場所、空間や状況や感情、次元は演者が喋るこの言葉と私の中身とで作られていく。指示されて瞼を閉じることに、ものすごい抵抗を感じた。私に言ってない、私は舞台上の人じゃないからだ。私ではない。でも瞼を閉じておくと、誰に言っていようが、言ってなかろうがどうでも良くなった。このストーリーの中では自由に動けない。感情も操作されてる。これは私の話ではない。誰か別の人の話だった。

第2部は女性が2人。
「念力暗転 知ってますか」
それを口火にして、それぞれが別の方向へ話をはじめる。
「知ってるのは 舞台上に1人」「さっき ねんりきって」「同じですかね」「この眼球にまぶたのところ」「世代じゃないかもしれないけど かめはめ波」「最初は後者だと思ってたんですね」つらつらと二重合唱。
「ね」「そう」「そうですそうです」気の無い相槌が間に挟まっていて成り立っている風だ。全然成り立ってはいないけれど。ある時、急に会話が噛み合い知り合いかのような状態に戻るが、どこかですれ違ってまた離れていってしまう。2人はジリジリとお互いを注意深く避けながら間を行き来し、目配せをする。舞台上にある客側から完全に背を向けたモニターを3人目の人のように扱って、相手と交互に目配せをしたりしている。ただ噛み合ってないのか、単純にすごく険悪な関係なのか、全然違うグループの井戸端会議がごく近い場所で行われていたのか、そういう状態が交差して雰囲気が少しずつ変化していく。相手に目配せをしては無視して自分の話をし続ける。もし友人だったとしたら一方的すぎるコミュニケーションだ。2人の間に見えない人間が挟まっていて、話題をどこかで捻じ曲げたり切ったりまた繋げたりしている役を担っているようだった。

「立って 音楽をこの部屋に流してほしい」
感情的なものからは遠いと言っていいのか、演者がやっている役が誰なのか、それは見ている側からは知る由もないのだけれど、ここにくるまでずっと、コミュニケーションは対外的で説明する話す歩くというそういう動作がメインだった。その中で大きく声を張り上げる。だから他と異なる状態が気になった。白けた悲しげなアコーディオンの音がヒョロヒョロと部屋全体に鳴った。
「違う ちょっと違う ちょっとたぶん違う」
音楽が終わると落胆し魂が抜けたように後退り座り込んでしまう。
そんな相手を気遣いながら、隣に腰を下ろす。様子を伺い、なるべく明るくしようと努めるように声をかける。
「だけで大丈夫です」

大抵の言葉には共通する認識とか意識とか、見えない共通項とか、規則とかそういう複雑で余分なものが混ぜ込まれている。話そのものの意味を見えなくするほどに。嘘ではない、けれど本当でもない。だから違うものが前に出始めて、言葉を仕舞い込んでほしいと思う。仕舞ってしまってから、違うところから出したいと思う。喋る話は嘘、表現するための借り物、その際に犠牲になったものを炙り出してあげたかった。より良い表現をと饒舌に、言えることがなくなってしまい黙り込む、嘘を平気で表現する、悲劇めいて。対話も対面も意味がない。あるとしたら、もっと別の場所にある。その場所を力一杯開けようとしている。自分自身のも、人のも。これを握っていると血が滲んで痛い。けれど手に食い込むと初めて握っているものの形がわかるようなそんなものだった。

見るということは見られているということ。見る側も見られる側も対等で、境界があろうが、何者であろうが、公平だ。
本人たちという演劇は、次元のことを言っているようにも、ごく繊細な会話の、言葉のことを言っているようにも、舞台とは、上演とはと言っているようにも思えた。
客側から背を向けられたモニターも、壁に張り付いた2つの穴をつなげている演者のみが通ることのできる通路も、客席との間に横たわる細長い花道のような舞台も、全部見ている側からは次元の違う存在だ。夢から覚めたように現実を見る。でも現実を見るまではいつまでも自分という次元に仕舞われたままのものだ。眼前に晒された本物、現実は思ったよりもずっとちゃんとした形をしている。自分自身が把握できる訳がなかった、手に負えないのだとようやく気づく。それを無理やり決めてしまうことも、決めずに置いておくことも選ぶ権利は公平にある。
何かを発芽させようとしている。
見ている側も、このまま進めばこの舞台と客席とその間に必ず出現するはずの何かを目を凝らして見ようと焦がれているように思えた。
そこで上演は終わった。最後の部分は自分で決めないといけないようだ。

神田茉莉乃 Marino Kanda Instagram
1995年横浜生まれ
2015年上矢部高校 美術陶芸コース 卒業
2018年武蔵野美術大学 建築学科 卒業
2023年東京藝術大学 美術研究科 彫刻コース 卒業
アーティスト。
粘土による造形からはじめ、建築、彫刻を学ぶ。距離や時間や視覚などを内包する空間に対しての自身の思想を作品にする。主に塑像、映像、図面などを使用したインスタレーションの制作をする。

本人たち

レビュー
本人たち|山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
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コロナ禍の芸術表現において、観客、鑑賞者と作品の関係性を築くバランスが著しく変化したと私は感じている。
特に演劇表現について、観客と俳優との共犯関係、その結び方は複雑性を帯びた。
俳優自身が受け取る観客の情報はマスクによって覆われている。というかある意味これから、自分たちの目の前でつばきを飛ばして俳優が発語するという緊張感で、開演前の客席は心なしか遠く、ひんやりとした雰囲気に変わった。小劇場であればあるほど、その物理的距離がセンシティヴな問題になる。
その点で今回上演された「本人たち」という作品は、その関係性の不自由さ、危うさを逆手にとってplayする実験のような手つきが私にとってとても刺激的な時間であった。
そしてその実験のタイトルが「本人たち」であることにも、なんというか同じ演劇を創作している人間として、とてもスリリングなタイトルだと膝を打った。

正直「批評」を書いたことがないので、演劇創作をしている人間として、自分の悩める問題や課題と照らし合わせて作品を探るような様子になって恐縮だが、それが私にとって一番素直に言葉を連ねることができそうだと思ったので、書いてみている。
私ごとだが、この頃舞台上で発語する言葉について、「伝える」言葉について、答えの出ない問いが蠢いている。これは世に言う「リアリズム」とはなんぞやという話にもなってくる。
この点において今回の作品は言葉を「意味」として伝えることをある意味放棄させる、「言葉」そのものの表現は意味がなく、言葉を発している人物の状態とその空間を観客が観察するという時間が多く流れた。これが非常に現実的で、観客と共犯関係を結ぶような匂いを帯びている。ある種のインスタレーション的手つきである。
この空気感は私にとってとても羨ましく、魅力的な時間であった。

私は普段ストーリーテリングが比較的はっきりとした戯曲を扱う演出者で、言葉を自ら紡がない。
なのである種戯曲の奴隷であり、「言葉」の扱いについては作家の意図を汲むべく、四方八方から観察して撫で回し、そこで何が起こっているのか明確にお客さまに提示するという方法をとっている。
しかしながら、それが果たして面白いのか、と言われると、特に観客論という観点で考えるととても脆弱な方法かもしれない、と思うことが最近ままある。
スペースノットブランクの作品を観るのは大変恥ずかしい話なのだが、初めてだった。もちろんお名前や周りの評も聞いていて、とても興味があった。何より、テキスト、空間、俳優、各媒体、そして観客の関係性を研究者のごとく追求している印象があった。
まず私は数年間その関係性について疑ったり、分析することをしてこなかった時期がある。往々にして、「言葉」は俳優が表現する音であり、その意味を明瞭に伝える、色合いを伝えることに尽力すべきだと思う時期があったのである。
この点において、自分たちが所属している「新劇劇団」をなかばディスることになるが(ただ我が集団の方法論が一概に悪いとは思わないし、良い面ももちろん大いにある)まず「言葉」を疑うということをあまりしてこなかった。そして何が起こっているかということを「表現」することがある「リアリズム」であると考えるところがあった。
これはとても分かりやすいし、なんというかとても明瞭だ。安心するというか、安全。
ただ数年前から私は、これじゃあ絶対に立ち行かないのではないかという確信を得るようになる。
そこで今回の「本人たち」である。テキストを見ると、この言葉たちの羅列は前後の意味を成しているようでいて成していない。成していないようでいて成している。言葉たち自体がお互いの言葉を疑っているというか、信じていないというか、拮抗している。
そして上演を見ると、発語している俳優はその言葉を割り当てられていることにどうやら自覚的である。言葉と俳優との間に距離がある。第一部は一人の俳優が30人強の観客と「見る」「見られる」という共犯関係を結ぶが、第二部に関しては俳優が二人になることでより複雑性を帯びる。
俳優がダイアローグをラリーしながら(とはいえこのダイアローグも意味は重要視されていない。関係性に変化がないという訳ではないけれど著しく変わることもない)時折観客に目線を送る。
観客はそこかしこで発語されるワードをすくい取って、彼らのパーソナルな履歴を勝手に想像する。しかしやがてそれさえも嘘かもしれないというか、あてがわれた言葉に過ぎないと思えてくる。
そうなってくるとやがて、この空間のサイズに立っている俳優そのものの質量というか、存在を観察するようになる。言葉はある記号として観客と空間を結ぶ時間のようなものになるというか、それが妙に「今」の体感として観客と共鳴し合う感覚を味わったのである。
これを「リアリズム」と呼ぶかどうかは別として(私はこの頃演劇表現において「リアリズム」という言葉にものすごい警戒心を抱いている)、妙に現実感がある行為として私にガシガシ響いた。ようはすこぶるスリリングで興奮する瞬間だったのである。

先ほど、自分が信じてきた方法論では絶対立ち行かないのでは、と言った。
そう考えたきっかけとして思い出すのが、「モノローグ」を話すある俳優のいでたちである。その俳優は観客に話しかけているのだが、ある時、「いや、この人は本当に観客には話しかけてはいない」と思ったのだった。確かに言葉は明瞭だし、意味は伝わっている「ような気がする」。でも、何にもかかわりがない。観客に対して閉じているように感じたのだ。
確か翻訳劇を稽古している時で、その俳優の役は言わずもがな外国人なのだが、行き詰まった私は、一回街頭に立って見ず知らずの街ゆく人たちにそのモノローグを話してきてみてくれないか、と言った。今から思うとなんて横暴な稽古だ、と思うが(そしてそれはなかなか難しいよということで、実際は行われなかったのだが)その時の私は観客と俳優の関係について、そして扱う言葉について頭を抱えて悩んでいた。そしてその悩みはここに来て一層複雑性を帯び始めた。
コロナ禍で、観客との関係が著しく変わった。観客はあるリスクを背負うことになった。
商業演劇を創作するようになって、作品の空間デザインにかかわらず、地方公演によって著しく規模が、劇場空間が変わるようになった。
必ずしも作品に興味がある客層ではない観客席に向かって、自分の作品を上演するには。

要はもっと「かかわらなくてはいけない」ということを考えている、のだと思う。
それは俳優と観客の関係性だけではない。流れる音、当てられる照明、映し出される映像とも、そして言わずもがな俳優たちとの間でも、である。
そうして光栄ながらこのような依頼をいただき「本人たち」を観劇した。
観客の前で俳優の古賀さんが時折自意識と戦いながらも「かかわろうとしている」いでたちに(そしてそれは時間を経るにつれて強度を増していったように思う。観客もあるルールを心得たのだ)ある生々しさを感じて、ひどく共鳴した瞬間が多々あった。
そのルールを心得た観客たちはそのまま第二部に突入し、なかばその共犯関係を楽しむようになってきていたように感じる。
言葉はすでに解体され、観客と俳優との間を自在に行き来していた。
実験が成功していたかどうかはともかく、それはあまり重要ではなく、でも確かに化学反応が頻繁に起きていてとても奇妙で豊かな時間だった。
そして帰り道、なんとなく自分が抱えている悩みについて答えは出なくとも、新しい風が吹いたのである。

全てを言葉にできたかどうかは眉唾ものだが、そしてこれが批評という様式をなしているかは疑わしいが、とても豊かな体験だった。このような経験を頂けてとても感謝しているし、同じ、作品を創作する者として勝手に意見交換ができた気になっている。勝手に。
素敵な機会をありがとうございました。

稲葉賀恵 Kae Inaba WebTwitterInstagram
演出家。文学座所属。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒。
在学時より映像作品などの創作をスタート。2008年文学座入所。2013年座員に昇格後、4月に文学座アトリエの会『十字軍』にて初演出し、高い評価を得る。
主な演出作品は、『解体されゆくアントニンレーモンド建築旧体育館の話』(15年 シアタートラムネクストジェネレーション)、『誤解』(18年 新国立劇場)、『ブルーストッキングの女たち』(19年 兵庫県立ピッコロ劇団)、『墓場なき死者』『母 MATKA』(共に21年 オフィスコットーネ)、『熱海殺人事件』(21年 文学座アトリエの会)など。近年の作品に『Equal-イコール-』(unrato)、『サロメ奇譚』(梅田芸術劇場)、『加担者』(オフィスコットーネ)、『私の一ヶ月』(新国立劇場)『幽霊はここにいる』(PARCO劇場)など。第30回読売演劇大賞優秀演出家賞受賞。

本人たち

レビュー
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本人たち|鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること

 スペースノットブランク(以下、スペノ)の作品が持つユニークなリアリズムについて、いつか長めに書きたいな、とぼんやり考えていた。僕は「批評」と名のついた文章を書いたことがないし、また今後もそのつもりはない。別に毛嫌いしている訳ではなく、「批評しない人」という立場を目下のところ貫いておきたいというのが率直な理由だ。そんな小説家が他人の芸術作品について意見を書くとなれば、必然的に「感想文」になり、発表するとなれば、専ら文芸誌のエッセイ欄となる訳である。エッセイの依頼があれば(そしてテーマの設定が自由であれば)、最近鑑賞した映画などの感想を書くことが多い。
 僕は何かを批評したい訳ではない。貶したい訳でも、褒めたい訳でもない。対象を自由に理解し、大いに誤解し、真意みたいなものをことごとく裏切り、それを味わう、という行為としての「執筆」がしたい。スペノについてもなんとなく、そうしたいなと思っていた。彼らの作品の概要を、観たことのない人に向かって的確に説明することが、仮に可能だとして、しかしそれがしたい訳ではない。僕が書きたいのは、レビューでも解説でも批評でもない。おそらくエッセイなのだろうけれど、「対象を自由に理解し、大いに誤解し、真意みたいなものをことごとく裏切りつつ、それを味わう」という作業内容に着目してみれば、むしろ小説が一番近い気がする。
 ただし本記事は、『本人たち』(なんていう最高なタイトルだ)と言う彼らの作品のレビューなので、そのように執筆される。

 乱暴にぶっちゃけてしまおう。失礼を承知であえて言うと、スペノを鑑賞して何に興奮するか、何に興味が湧くかと言えば、スペノの表現そのものもそうだが、しかしそれよりもむしろ、それを体験してしまった自分自身に対してなのだ。今後の自分には、どのような表現の可能性が広がっているのだろう、と言う自惚れた好奇心を抱く。作品の鑑賞により僕がこの感覚を抱く作家は、スペノ以外に実はいないのだ。それがいつの頃からかよく覚えていない。初めに彼らの舞台を観た時は、ノり方を掴むのに確かに苦労した。が、スペノ自身の意図みたいなものをこちらから探ろうとするのを断念してから、ある時スペノはとことん「ダンス」なんだと理解し、スッと腑に落ちた。楽しみ方がわかった。この楽しみ方で楽しむ上で、他の人の感想や考察は特に必要ない。スペノが自己言及したアナウンスでさえ、一観客たる僕の解釈と、その価値は相違なくなる。
 今回の観劇でもそのように感じた。スペノは言葉を「振動するもの」として扱っている。言葉だけではなく、舞台を構成するあらゆるものが「振動するもの」として扱われている。

 周知の通り、宇宙は振動するひもで出来上がっている可能性が高い。とても小さな振動する無数のひもが、それぞれその振動の周期などのバリエーションによって、様々な種類の素粒子に姿を変え、存在していると考えられている。我々と身の回りのものを構成する物質、電子も光子もクオークも、ほどいてしまえば全く同一のひもでしかない。
 舞台上に上げる言葉にしろ、身体にしろ、光にしろ、スペノは一旦それぞれの属性を「振動するもの」にまで解体して、彼らなりに配置し直す。彼らの作品の解釈の困難さは、ここに起因すると思われる。言葉にしろ、身体にしろ、光にしろ、舞台上(あるいは舞台外)ではまず、ただそこで、振動しているだけなのだ。振動、即ちスペノはとことん「ダンス」なのだと悟った所以だ。
 例えば登場人物(たち)のセリフ(があった場合)、彼らはしばしば饒舌で、しかし誰に向かって発話しているのかなかなかわからない。今回の『本人たち』も、第一部、第二部と併せて三人の人物にセリフが当てがわれていた。いや、本当にセリフは「当てがわれていた」のだろうか? まるで複数の人物のセリフをかき混ぜたようだ。本作の戯曲の表紙に記されている文言によると、彼らは「リアリズムを攪拌」することを「探究」してきたと言う。
 僕は小説家なので、小説のことを考える。小説は言葉を使って構築する芸術だ。従ってどうしたって言葉にいちいち付随する「意味」という派手な装飾が、作品に多量に散りばめられてしまう。小説に組み込まれた言葉はどれをピックアップしてみても、必ず作品の中で有機的に、もしくは御しがたく機能している。どんな形であれ、いつも図々しく意味を発生する。すると小説は、意味がうじゃうじゃ詰め込まれているから、解釈のクイズ大会の様相を呈し、存在そのものが慌ただしい。
 舞台もまた言葉を駆使する。そしてスペノはどうやら、言葉をナレーションではない、なんらかの舞台装置として利用しているらしいことが僕にはわかってきた。ある特定のポイントに、特定の言葉をはめ込むのだが、一旦意味を置き去りにし、登場人物や光や時間と同じレイヤー上で拾い上げている。
 ただしここで言葉は、意味を完全に失うわけではない。置き去りにされるのは言葉が持参している古い方の意味だ。実際のところ、スペノ達の勝手気ままに付与した意味が振り回される。スペノの作品を解釈する目的で、作品内から言葉を掬い取っても、結果失敗しがちなのは、掬い上げた代物自体が持つ(僕らが知っている)意味が、作品全体の中で振る舞っている機能を象徴してくれないからだ。
 それでもなんとなく全体を観られてしまうところが、スペノのセンスのすごいところでもある。もちろんそれはそうなのだけれど、舞台という形式の長所による「ズル」な部分もあるのではないだろうか。何しろ彼らは、音声を扱える。一次元情報の小説では太刀打ち出来ない「幅」があるのは間違いない。

 そうか。僕は自作を書く上で、言葉を「振動するもの」レベルまで解体したことがこれまで無かった。そこまでして小説を書きたいくらいの小説に対する興味が今の僕には無いだけなのかもしれないけれど、そのうち着手するのだろう。
 振動を楽しめ! その波長、周波数、エネルギーを味わえ!
 現実世界と呼ばれる僕らの生きる空間において、言葉はまず機能する以前に振動しているということだ。普段、目や耳に入ってくる情報のうち、ほとんどのものが個人には関係が無い。言葉こそまさにそうで、テキストが大量に生産され、聞く人、読む人のいない場所に垂れ流されている。大切なのはそこではなく、それらがまずはとにかく振動しているという事実だ。

 振動を楽しめ! その波長、周波数、エネルギーを味わえ!
 スペノの舞台はまるでそう主張しているかのようだ。なんでこんな根本的なことを僕は忘れていたのだろう、と彼らの舞台を観るたびに毎回思う。毎回思っているということは根本的に響いていないということなのかもしれないが。僕もいつか、言葉の持つ響き(振動)に勝手に意味をつけて、誰にも分からない話(振動)をいつか書いてみたい。それこそまさに、言葉をダンス(振動)させたい。

 ところで「念力暗転」だけがしかし、なぜか本作で文字通りの意味を主張していて怪しい。本作で登場する「謎の」単語だ。スペノはいつも、セリフのある作品においては、作品の軸となりうる印象深い(造語的な)単語を忍ばせる傾向がある気がする。
 舞台とは世界を装うものだと、門外漢の僕は考えている。舞台上を世界と見立て、演者を人間と見立て、時間を時間と見立てる。そのために、作り手はそれぞれの位置にそれっぽいものを配置する。宇宙の全てが振動するものだとしたら、舞台の作り手に可能な行為の究極は、舞台上の構成物の解体と再構築(即ちひも固有の振動パターンの自由自在な改変)となる。
 小説ももしかしたら、この手法で作れたりしないだろうか。可変振動小説。

鴻池留衣 Rui Kounoike Twitter
小説家。1987年生まれ。著書に『ナイス・エイジ』(新潮社)、『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』(新潮社)がある。

本人たち

レビュー
本人たち|山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
本人たち|東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
本人たち|鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
本人たち|稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
本人たち|神田茉莉乃:見ること、見られること
本人たち|高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
本人たち|長沼航:1でも2でも群れでいて
本人たち|中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

本人たち|山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演

「伝える」とはなんなのか?

山本浩貴(以下、山本):スペースノットブランクの作品はこれまでかなりの数が発表されてきているけれど、ひどく大まかに分けるなら3つほどの方向性が挙げられると思う。すなわち、①(肉体の運動を見せることを重視した)ダンス的方向性、②(物語性のある戯曲を自分らで用意したり、あるいは外部の書き手によるそれを採用したりすることで実現する)演劇的方向性、③(観客とのあいだで生じる関係性を実験的に操作していく)インスタレーション的方向性。これらがそれぞれの作品で、いずれかに比重を置いたり、絡まり合ったりしつつ展開されていくところがある。
 今回、hさんとふたりで「プレビュー上演」を見た『本人たち』は、この3つのうち③の傾向の強い作品のひとつだと思う。軽く背景に触れておけば、第一部「共有するビヘイビア」は2018年と2019年に会話とダンスから成る作品として発表され、さらに2021年に『クローズド・サークル』という会話と映像操作中心の作品へと発展させられたのち、今回に至る。第二部「また会いましょう」は2022年に展示作品として発表されたのち、今回に至る。そして総体としては、2020年にスペノがコロナ禍を受けて始めたプロジェクト『本人たち』の延長線上にあるものとして組み上げられているとされる。
 その上で、今回の『本人たち』は、まだ本番がどうなるかわからないけれど、少なくともプレビュー上演だけで言えば、③インスタレーション的方向性として作られたスペノ作品のなかでも特に方法論が明確で、完成度の高いものになりつつあるように感じられた。作品の制作過程で収録された会話や私的発話を記録、編集し、戯曲化して舞台上の肉体に発話させるやり方も、これまで以上に発展・洗練されていたし──どうでもいいような細部の話や身振りがほとんどすべてゆるやかに必然的な意味を持つような構成が取られていたし──、発話方法や「念力暗転」という技(舞台上の肉体が観客に向けて瞼をゆっくり閉じるように促していく、結果、照明などが点いたまま舞台が暗転する)に代表されるような、観客との関係性の設計と操作に関しても、ことごとくクリティカルなものとして響くように仕組まれていたと思う。
 なによりそれらのもたらす完成度の高さをめぐる認識が、作品の描く情動や主題や物語の厚みといったかたちをとらず、徹底して、作品全体を通じて提示されるところの方法論の明確さと強さ、そのシンプルさに由来しているようであることに、驚かされるところがあった。なかなか伝わりづらい言い方になっちゃうけれど、この作品のなかで語られる内容も、形式も、ひとつひとつはぺらぺらなまま、それでいていずれもが喩的な意味合いを託されるようにうまく構成されていて、結果としてあらゆる雑多な部分がたったひとつのシンプルな問い──「上演とは何か」──に十全に寄与し検証するものとなっている。その演出・構成の精緻さにおののくというようなところがあった、という感じかな。
 hさんは今回、スペノの作品は初めて見たと思うけれど、どうだった?

h:「伝える」ってなんだろう、と思って見てた。第一部の古賀友樹さんの演技に特徴的だけれど、ものすごく観客の側を巻き込んで、いろいろなことを伝えてくる。台詞のなかでも──プレビュー上演時点で使っていた戯曲のデータをもらったからそこから引用すると──《何を伝えようかなって考えてる顔でした》《現在の状況についてお伝えさせてください》とか、「念力暗転」の実演のときに《この素晴らしい発明をした人物から「私」はその技を伝授され 今「あなた」に伝えています》って言うとか、いろんな箇所で「伝える」ことについて直接的に言及していた。
 あと、これまで発表されてきた「共有するビヘイビア」を振り返るみたいなところでも、はっきり言われてたよね。《根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通していると思います ダンスの工程とか なぜこのダンスが生まれたか 紹介する 説明とか 紹介っていうのがこの共有するbehaviorを説明する上で正しい伝え方だと思っていて 今説明の説明をしてる だから何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」このダンスを伝えます このダンスの背景を伝えます みたいな》って。ここは山本くんがいま言っていた、ひとつひとつの要素はぺらぺらなまま単一のシンプルな問いに収斂していく、という話に自己言及的にふれているところでもある。

山本:そうそう。《何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」》が重要なんだ、ってね。話される個々の話題やその主体の個人的情報に重きが置かれるのではなく、それらが立ち上げうるところの「伝える」関係性こそが問題なんだ、と。

h:ただ、その上で、この作品が「伝える」ことを絶望的なものとして捉えているのか、それとも希望として捉えているのか、まだちょっとわかってない。そこが気になる。
 古賀さんのあの、ディズニーランドのキャストみたいな喋り方って、なんなんだろう。すごい語りかけてくるんだよね。最初から最後まで。

山本:本編はもちろん、開場後、上演の始まる前の時間にも、古賀さんがひとり舞台の上で観客に向けてめちゃくちゃ喋りかけてくる(笑)。そしてそのまま殆どシームレスに上演が始まり、第一部が終わったあと、第二部までの休憩時間にも延々と話している。

h:終わったあと質問すればよかったけれど、古賀さんはプレビュー上演のときのあの格好のまま、本番もやるのかな。

山本:すごいラフな格好だったよね。制作スタッフみたいというか。

h:喋り方も丁寧な感じで、いわゆる演劇上演前の事務連絡について話したりもする。もちろん俳優に前説を喋らせる演出ってよくあると思うんだけれど、それとも一線を画していた気がする。眼の前の俳優が観客である自分たちに語りかけてきているのか、それとも舞台上で完結しているのか、本当にわからなくなるというか……あなたは私に伝えたいの? それとも自分が練習してきたことをここでやりたいの? っていう、そこの境目がなくなる感じ。

山本:「あなた」って、古賀さんのこと?

h:そう。演劇って、もちろん観客に何かを伝えたくて上演するということもあると思うんだけれど、別にそのときも、観客を直接的に巻き込む必要は実はない。そこで完結しててもいいというか。俳優が観客に語りかけたりすることがあったとしても、実際には、俳優や劇は観客側から見られているだけ。俳優も観客側を本当には見ていない。こちらを見る演技をしているだけ。でもこの作品で古賀さんは、「ようこそ!」とか、ぼくはこうなんですよね、みたいなことを延々と言ってきたりするし、念力をかけてきたり、じゃんけんをしてきたりする(笑)。

山本:俳優が観客に視線を合わせてくるのはまだしも、じゃんけんをしかけてくるというのは、例えば無観客上演だと不可能なことだよね。観客側からの応答がないと成立しない。しかも、じゃんけんに勝つか負けるかが明確に舞台上で為される発話に影響を与えている、こちら側の行為が舞台上に干渉して進行を変えたということがはっきり知覚される。言い方を変えれば、いまここで見ている上演が、こちら次第でそうはならなかった可能性がすごく明確に意識されることになる。

h:その感じは、例えば第二部の「また会いましょう」ともまた全然違う。第二部では舞台と観客は一般的な演劇と同じく切れている感覚があるんだけれど、第一部はずっと前説のように、今日ここでやること、自分がいまやっていることを、こっち側にひたすら説明してくるし、観客側からの応答も迫られる。そういうあり方が、第二部にも響いてきて、作品全体として、やっぱり形式的にも内容的にも「伝える」ことが中心の問いになっていたのだと思う。第二部だって、ふたりの俳優のあいだでそれが交わされるという違いはあるけれど、自分を伝える喋り……つまり自己紹介や日記が軸になってたし。第一部を経たあとだとその受け取り方もけっこう変わる。

先取りされた発話と私という能動性

山本:第二部では、自己紹介や日記的に私的な日々を語る誰かの発話を記録して、それをもとに台詞を作っている部分が多くあったよね。日記や自己紹介する発話(それを記録したテクスト)って、それが日記や自己紹介だと知らされてなくてもそうだとわかる。そういう私的な成分を多く含んでいるというか、そのテクストの読み取りに際してそれを表現しているひとの私的な情報を、表現を受け取る側が仮構し適用していかなければならなくなるようなものとしてある。そしてそのようなテクストたちが、明らかに編集され、当人から引き剥がされた状態で発話されている。

h:それって、第二部だけじゃなくて第一部もそうだったのかな。

山本:第一部は比較的、自己紹介や日記をもとにした台詞は少なめだったと思うけれど、基本的な作り方は同じなんじゃないか。《現在は13時39分にこちらの音声を収録しております ここはスタジオでございます》とか《2月15日 収録してる 頭が動かない》みたいな台詞もあったよね。明らかに誰かが今こことは別のどこかで収録した音声(をもとにしたテクスト)を、目の前の古賀さんが平然と話している。もともとの発話が古賀さんによるものかどうかはわからないけれど(第二部では同じひとりの個人情報に由来するだろう話をふたりが共有して話すから、確実に自分とは別のひとの発話を再現していることがわかるわけだけれど)、重要なのは当人かどうか以前に、少なくともいまここで思考され自発的に発話された言葉ではないと認識できることだろう。
 これと関連して、自動音声の問題がある。第一部と第二部に共通する舞台美術として、観客席側からは何が映されているのか見えない角度で置かれた一台のディスプレイがある。その付近からは、時折、自動音声で作られただろう声が流れる。断言できないけれど、第一部でのそれは、今回の「共有するビヘイビア」のもととなった『クローズド・サークル』で古賀さんと出演していた鈴鹿通儀さんの声をもとにしたものだったんじゃないかと思う。そして古賀さんは、その声に命令されるように動きを変えたり、あるいはディスプレイに向き合ってうまく会話したりもする。
 ここがまたひとつポイントで……自動音声と会話する時点で、観客側からすれば、明らかにその発話は事前に用意され、会話しているふうに装われたものだと感じられる。もちろんわざわざそんなことをせずとも、演劇って、もともと先んじて用意されたテクストをそれを書いたひとではない別のひとが舞台上で発話することが、ジャンル的な基本、暗黙の了解とされている。その意味では、会話が事前に用意され、再現されているものであることになんら驚きはない(そもそもぼくらが見たプレビュー上演と概ね近いものを、この数日後の「本番」に他の人たちが見るとされていることからもそれは明らかだ)。ただ、この作品では、観客とのインタラクティブ性も含め、そのような基本、暗黙の了解そのものを上演の素材として用い、検証し、組み替えるようなギミックを大量に投入している。結果、舞台上の俳優における、ある種の自由意志や、能動的かつ即興的な発話をめぐる認識(不可能性)に、主題としての焦点があたるようになっている。
 台詞のなかでもそのことは明確に触れられる。例えば第一部で何度か繰り返される以下の台詞。《言葉の集大成が言葉 ことの始まり 言葉が発生した瞬間のこと それがいつ というのはとても簡単なことでして 今です 今この 瞬間 言葉が生まれました 嘘です 何かを説明するときというのが言葉が必要なときです》。いまここで言葉が生まれているのか、あるいはずっと前に先取りされていてそれをいま言わされているだけなのか。そこに《何かを説明する》こと、つまりは「伝える」ことの問題があるとはっきり語られている。
 ほかにも《話すことない》って台詞があったり、あとはSpotifyのシャッフル再生の話とかね(笑)。あれも一見するとただのばか話みたいなんだけど、自分が聞きたくて能動的に曲を選ぶのではなく、サービスの側から「あなたの聞きたい曲」が先取りされ、それを聞かされる──そういう事例のひとつだと考えられるわけだ。観客とのインタラクティブ性も、観客側からすれば、目を閉じさせられるとか、じゃんけんさせられるといった、行為の強いられ感として生じるものだろう。
 こうした先取りをめぐる問題は、「戯曲とは何か」という問いを用意しつつ、上演を見るとはどういう事態なのか、何かを発し伝えてこようとする肉体を見つめ受け取ろうとするとはどういう営みなのか、といった問いにまで直結していくものだと思う。眼の前の肉体が何かを表現しているとき、それがいまこの瞬間その肉体において思考され、私自身のものとして発せられたものなのか、そうでないのか。そのような受け取りをめぐる試行錯誤として「上演」はある……そしてその延長線上に「伝える」こともあるし、(このあとしっかり話すことになるだろうけれど)会話や上演を含めた「舞台」、場をめぐる想像力の問題もあるだろう。そうした見立てのもと生み出される方法論や技術を、今回は、それによって表現しうる物語の展開を試みるのではなく、方法論や技術そのものを純粋にプレゼンテーションしている、という気がした。
 もうすこし事例をあげれば……例えば字幕をめぐる話も台詞のなかにあったよね。《最近だと全てのセリフに字幕がついている 字幕をつけている 話している人が今から話すことを既に意識してその字幕に合わせて喋る 喋ることに字幕を合わせる どっちが正しいんだろう てな具合にリンクして喋る》。『クローズド・サークル』ではディスプレイに表示された字幕テキストを俳優が見ながら発話しては、リモコンで画面を操作して次のテキストに進む、というようなことをやっていたけれど、これもまさに発話の先取りの問題だよね。俳優の発話の背後に、事前に用意されたテクストが存在していることが隠されていない。今ここで即興的に発話されたものではないことが明確に示されつつ上演が進んでいく。
 今回のプレビュー上演を考えるときさらに興味深いのが、俳優のひとたちがみんな印刷された戯曲を手に持って上演していたことだよね。おそらくはまだ台詞が固まりきっていないからだとは思いつつも、もしかしたら本番でもそうなのかも、と思ったりしながら見てた。

h:そうそう。特に第一部はそうかもと感じた。

山本:俳優の肉体や思考に表現の由来があるのではなく、手に持っているテキストの側にその由来がある。俳優は手にもったテキストに喋らせられているだけである、それこそ自動音声のように……。個人的に思い出すのは、ぼくらとも関係の深い、写真家/舞台作家の三野新さんが中心になって2018年に上演された「アフターフィルム:performance」。三野さんの同名映像作品をもとにした上演で、スペノのふたりも出演していたんだけど──確かそれが、ぼくがスペノのふたりを目撃した最初の機会であり、またその上演のアフタートークが、三野さんから写真集『クバへ/クバから』の制作企画を持ちかけられた瞬間でもあったわけなのだけれど──、そこでものすごく印象的だったのが、俳優がスマホをそれぞれもって台詞を発話していたことだった。三野さん由来のアイデアなのか、それともスペノからのアイデアなのかはわからない。ただ、あまりに簡単な(いわゆるリーディング公演みたいな)そのギミックだけで、発話をめぐる自由意志や由来がスマホの画面の側に奪われた肉体が演出できていたことに驚いたのを覚えてる。

h:なるほど。今回の本番はどうなるんだろう。手に持ったまま出るのかな。

山本:少なくとも、本番では英語字幕を出すらしいね。手に何も持っていなかったとしても、かなり近い状態にはなる気がする。

そこにないものを想像させられる

h:戯曲の話でもうひとつ気になったのが、台詞がいろんなところでもじられてる、ってことだった。例えば上演前に古賀さんが話しているとき、「手をクロジにして」って言うんだけど、なにそれ、と。「くの字」のことなのかなって身振りから想像して聞いてたんだけど、イントネーションも含めてよくわからなくて。このひとどこ出身なんだろうとか思ってた(笑)。ほかにも、もっと細かな言い間違いとか、噛んでるみたいな発話がたくさんあった。会場である「STスポット」について変な話が展開されるときにも、「SDスポット」とか「SPスポット」とかって言っていたし。
 いったいなんだったんだろうと思って、プレビュー上演が終わった後、「なんでも質問していいですよ」って空気だったから質問したんだけど、戯曲を自動文字起こしで作ってるから細かな間違いがあるんだ、そのほうがもともとの音を残せていると考えているんだ、って回答だったんだよね。
 そのときは、へーなるほどと思ったんだけど、いま、送ってもらった戯曲を見ると、こんなに間違えてるの!? って驚いた。

山本:文章で読むと本当にめちゃくちゃだよね(笑)。

h:「クロジ」は《黒字》だし、たしか上演では「アイカサ」って聞こえていたところも、戯曲では《AI傘》になってたり。でも発話されたものを聞いたときには、ふつうに理解して聞けてしまっていた。もちろん細部までぜんぶ言ってることが理解できたって感覚はなかったけれど──意味分かんないこと言ってるなーって感じだったけど(笑)──それでも、ふつうの言葉を話しているようには感じていた。それが、戯曲だけを見ると、けっこう理解できない。ただ、上演を先に見ている自分は、いま戯曲のテキストを読んでも、誤字を残してある意味不明な文が、頭の中で勝手に発話の記憶をもとに正されるからか、わりと読めちゃう。これってなんなんだろう。

山本:重要なのはやっぱり、この戯曲が、最初に書き言葉として作り出されたものじゃなくて、まず発話として生まれた、ということだと思う。発話され、録音された音声が、きれいに文章として整えられるのではなく、音の質感に由来するエラーも含んだかたちで文字化され、編集され、戯曲となっている。
 この制作過程について考えるとき、例えば文字化を経ずに音源データそのままを戯曲として扱う、というやり方もありえたかとは思う。ただ、いちどテキスト化することで、複数人で共有しやすくなっただろうし、編集もしやすくなったはず。特に第二部は、ふたりの会話が緻密にコントロールされているけれど、音のままこれをやるのは困難だっただろう。
 その上で、あくまで最初の発話における音の質感も重視されている。それをテキスト化の際に綺麗に整えようとすることは避けられている。
 ここには、もちろん、戯曲とは書き言葉から成るものである、という既成概念へのカウンターという面も少なからずあるかと思うんだけど、それ以上に、最初の発話の瞬間にあった情報、例えば言い淀みやスリップなどをなるべく尊重する、そしてそれを戯曲にする(つまり舞台の肉体が従う先とする)という姿勢がある……と言えるのかな。

h:ただ、自動文字起こしは現状、そんなに音に正確なわけではないじゃない。言い淀みやスリップがあったからこのテキストになっているというところもあるだろうけれど、それ以上に、単純に人間の発話がうまく理解できずに(あるいは過度に正しい言葉として受け取ろうとして)変なテキスト化を行なってしまっているところがあると思う。
 そういう機械的なエラーを残したまま、もういちど人間に発話させる。その声を観客として聞いたとき、わりとけっこう、ふつうに言葉として聞けてしまう。そこでの、言葉を聞く側の、聞こえた音をありえそうな言葉に補正していく機能について、わたしは考えたんだよね。これはあとから戯曲を見て思ったことではあるんだけれど。

山本:なるほどな。他者の発話をトレースすると言うと、例えば手塚夏子さんの「私的解剖実験シリーズ」を思い出す。夫の気持ちというか存在そのものを理解するために、何気ない身振りを映像に撮り、それを細部まで完全にトレースしようとする。さらにそれを複数人で共有し、演じようとする。岡田利規さんや山縣太一さんをはじめ、各所に大きな影響を及ぼした作品だけれど、スペノがやっているのは、問題意識として近いところもありつつ、明らかに違うところもある。手塚さんほどには当然精密ではなく、ざっくりしているわけだけれど、それゆえに見えるものもたくさん生じている。
 スペノも発話の様子を映像で撮っていたりするかもしれないけれど、少なくとも観客からは発話の瞬間の身振り(を再現している気配)は把握できないようになっている。音声に関しても、音ひとつひとつを厳密に表記しようとするならそういう筆記法はこの世の中に存在しているわけだけれど、そうではなくあくまで自動文字起こしを経由させ、いわゆる自然言語でテキスト化した上で、俳優に発話させている。

h:しかも自動文字起こしを使っているということは観客からすればわからない、ということが重要だと思う。ただの聞き間違いかもとか、意図的に言葉を崩しているのかもと思ったりするだけで。

山本:なるほどな。「SDスポット」とかってはっきり言われると、何かしら意図のある言い換えなのかなと思うよね。ぼくは「STスポット」に関する明らかに嘘っぱちな話をしていることもあって、わざと別の名前にずらして言ってるのかと思って聞いてた。

h:あの話に出てくる「佐藤さん」って、ほんとにいるの? 穴を掘ってここを作ったってほんとなの? とか……お前の言ってることは本当なのかどうなのかはっきりしろ、みたいな瞬間が何度も起こるよね。

山本:胡散臭さがすごい。それはテキストだけの問題じゃなくて、古賀さんの演技体の特異性から立ち上がるものでもあると思う。いま目の前で考え発話しているようでもあり、観客と対話しているようでもあり、でも明らかに自分とは別の場所に由来を抱えて喋らせられてもいる、その絶妙な演技のバランスから生じる胡散臭さ。

h:そうね、すごく面白かった。胡散臭いというと悪いニュアンスが強くなっちゃうけど(笑)。

山本:でも、胡散臭さとしか言いようがない質感がある(笑)。

h:言ってる内容をどこまで真に受けて聞いて良いのかわからなくなるんだけど、でも観劇中は、やっぱり意図とかを汲み取ろうとしちゃう。それでけっこう辻褄が合った気にもなるし。でも、実際には、別に「STスポット」をあえて「SPスポット」と言い換えて言っていたわけじゃなくて、ずっと「STスポット」に関する話をしていただけなんでしょう? ただの文字起こしの結果なので……みたいな。悔しいよね、自分のなかの相手を汲み取る能力みたいなものを無駄に使わされている感じがして(笑)。機械のエラーをわたしに押し付けないでよ、って。

山本:そこで生じる「ただの機械的な情報にも人間的な意味や意図を汲み取ってしまえる」ということもまた、肉体に能動性を見るかどうかに関わる話でもあるわけだよね。

h:そうそう。

山本:いったん自動文字起こしを挟むことで、表現における由来、根拠を、最初のひとの発話にのみ還元できるものではないようにしている、と。そういえば『クローズド・サークル』でも似たような方法が取られていた。テクストや上演の流れが、「バックギャモン」っていうテーブルゲームのルール・進行にのっとって決められていたのね。そこでもやっぱり観客側は「なんでここでこの発話が為されたんだろう」といろいろ考えさせられるんだけれど、蓋を開ければ、「ゲームがこうなっているからですよ」とあっさり返されてしまうわけだ。何かしらの物語や意図を探ろうとするのに、その先にあるのはそれ自体としては何の意味も持たないただのルール(の遂行・上演)でしかない。
 こういうところから、例えばぼくなんかは、大岩雄典さんのインスタレーション作品を連想したりする。大岩さんも、(大岩さんそのものとイコールで結ばれがちな)特定の作家性に作品が還元されないよう、明確なゲームルールを露骨に提示して、観客側からの意図の汲み取りを不全にしたりする。さらに、観客側の行為を戯曲や美術などでもって先取りしてしまう、そこで起こる不快感なども含めて作品の質にしていたりする。スペノと大岩さんはやっていることが近い、とも言えるかもだけど、それ以上に、上演というものそれ自体が備えている諸々をストイックに問おうとすると必然的にそういう作品の作り方になる、って話だろうなと理解している。
 ちなみに、音に関わる操作は、第一部では「おやすみんみんぜみ」みたいな言葉遊びに関する話にまで進んでいったけれど、これもまた、音が依拠するルールをもとになかば自動的に発生する表現にひとがいろいろな情動を勝手に立ち上げてしまうという話だと思う。
 音の問題を扱うとこういう議論展開になることはよくあって、例えば詩歌の形式をめぐっても同様のことが生じる。短歌の定型、つまり57577にのっとって音が並べられていき、ひとつの表現が作られるとき、そこにある情動や思考は音の醸す言語的な意味に由来するものなのか、作者に由来するのか、あるいは57577というリズムに由来するのか。だれがその表現にとっての主体であり、原因なのか。そこに埋め込まれていると読み手側が感じてしまった情動や思考は、果たしてどこからやってきているのか? なんてね。
 そういったことが、今回の作品では、戯曲と上演を考える上での一例としてさりげなく提示されている。全編にわたって話されている内容はぺらぺらなんだけど、それらがいずれも問いを鮮明化することにうまく寄与させられている、と言っていたのはこういうようなところのこと。
 例えばマスクの奥での口の動きを想像させるような身振りや台詞があったけれど、あれも同じ。一見するとどうでもいい細部だけれど、観客側からすれば、知覚情報としては得られていない空間(マスクの向こう側)を自分がいつのまにか想像してしまっている、そのことを自然と自覚させられる一例となっている。
 このまま、空間をめぐる想像の話に進めば……第二部でよりはっきり扱われることだけれど、舞台上の発話によって観客がこことは別の空間を想像させられてしまうという事態は、いろいろな角度から展開されていたよね。「STスポット」をめぐる話も、いまここの舞台をめぐる想像力に関わるものだと言えるし、それこそ言葉遊びの話のとき、古賀さんが、舞台奥の出入り口に立って、こちらからは見えない壁の向こう側に向けて話していたのも、そうした想像力への注意をシンプルに喚起する演出だったと思う。

h:あそこは今回の作品のなかで一番笑えるところだったよね。「おはヨーグルト」は「おはよう」と「ヨーグルト」の組み合わせが最高ですよね、朝と爽やかな感じがいいんですよとか(笑)。そういうことを舞台の裏に向けて話しながら、ときどき観客側を見る。その様子も面白い。あれって、観客が笑ってるかどうか確認しているみたいだったよね。反応をうかがってるのかな、っていう。なのに裏に向けて話している。それまでの前説みたいにがんがん舞台上から話しかけてくるのとの対比もあって、不思議な印象だったな。

ダンスと共有

h:わたしが「伝える」ということについて考えたのは、主には第二部を通じてだった。
 第二部は、すごく簡単に言ってしまえば、渚さんと西井さんというふたりの俳優が舞台上で話している。でも、ふつうの会話とかではなくて、一方的に話したり、同時に別々のことを話したりしている。

山本:バーっとまくし立てるような感じでね。

h:でも、聞いていて、ぜんぜん意味がわからないとかではない。ふたりだからぎりぎり何を話しているかは掴めたりする。そして、ときどき「わかった?」「わかった」みたいなやり取りがあって、話が急に止まる。逆に言えば、話が止まるその直前に、ふたりが応答しあう瞬間が訪れる。観客からすると、「あれ? やっぱり話してた? お互いわかりあえてたの?」と思うわけだよね(笑)。でも話が再開すると、またお互いがぜんぜん違うことを言っていたりする。この、お互いぜんぜん別の話をしているのに時々お互いに伝えあえていると錯覚させられるような瞬間が生まれる、これってなんなんだろうと考えたんだよね。

山本:それは、ふたりの俳優のあいだで何かが伝えあえている、ということ? それとも、俳優たちから観客側に何かが伝えられてしまっている、ということ?

h:両方。伝わっていないなと感じつつ、でも伝わっているとも感じる、じゃあそもそも「伝わらない」ってなんなの、とか。

山本:なるほど。それは第一部でいったん明晰に言語化されつつ展開されていたことでもあるよね。あらためてあなたが引いていたところを引けば──《根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通していると思います ダンスの工程とか なぜこのダンスが生まれたか 紹介する 説明とか 紹介っていうのがこの共有するbehaviorを説明する上で正しい伝え方だと思っていて 今説明の説明をしてる だから何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」このダンスを伝えます このダンスの背景を伝えます みたいな》、とか。

h:まあその意味では、素直だよね、わたしは。「伝える」がテーマだと言われて、その通り受け取ってるんだから。

山本:でもこの作品自体、そういう意味での明晰さ、露骨さがあると思うよ。何かを隠したりこっそり表現したりするのではなく、はっきりと「ここに問題があるんです」と開示した上でやっているというか。

h:第二部は第一部で展開されたテーマがより実践的に展開されているのかな。ふたりのあいだのやりとりには、わりとふつうに会話として成立しているところもある。伝わってるかも、とかではなく、あきらかにふつうにやり取りしているところ。でもすぐにまた、すれちがいになる。だから、「伝わってる」「伝わってない」をめぐるこちらの認識もどんどん揺らいでいく。そこが面白い。

山本:また第一部の話にもどっちゃうけど、もともと「共有するビヘイビア」が2018年と2019年に上演されたときには、ダンスの背後にある制作過程などを観客に共有するという意図をもった作品だったということは、台詞のなかでも明言されている通り、やはり重要なことのような気がする。
 ものすごくざっくりした話になるけれど、ダンスって、踊る側からするとものすごくいろいろな感覚や思考を展開していたりするけれど、それを見る側は、なんか動いて表現してるっぽいな、程度の解像度でしか捉えられていないことが多いと思う。踊っている肉体を外から視覚的に認識することはできるし、そこでの身振りを通じて踊っている肉体か、あるいはそれが依拠しているコレオグラフを作成したひとが何かしらを表現しようとしていることまではわかる。でもそれが何なのかまでには至らぬまま──ブラックボックス化したまま──見終わってしまう。
 肉体の身振りを見て、それが由来している感覚や思考を把握するというのは実のところけっこう難しい。熱さを受けての条件反射とかなら、大半の肉体は同様の動きをするだろう。白鳥の見た目を真似して踊る、とかもまだわかりやすい。でも、例えば「生」を表現して下さい、みたいに言われると、みんな思い思いの動きをするほかないだろう。そうして為された表現から、その由来を明確に逆算することは、身振りがひどく定型的なものである場合を除けば、かなり難しいだろうと思う。そしていわゆるダンス作品の場合、条件反射も複雑な表現もひっくるめて編集し、構成していくわけだから、さらにことは複雑になっていく。
 そうしたなかで、2018年と2019年バージョンの「共有するビヘイビア」では、ダンスを作る過程での議論と、ダンスそのものを、ともに編集・構成し、ひとつの作品のなかで展開する。つまりダンスだけを提示するのではなく、その背後にあるものの開示・共有込みで観客に見せていく。自然と作品は、ダンスをそれ足らしめている必然性、発端のようなものの言語化と伝達をめぐるものにもなっていく(こうやって語っていくと、いぬのせなか座が自分らの詩や小説を、その制作過程や背後の思考をめぐる座談会(しかも何重にも編集・構成されたそれ)とともに一冊にまとめて発表していたのと、やり方として近かったのだろうなと感じる。実際、実はぼくはスペノを見始めるだいぶ前から、いぬのせなか座とスペノは近いんじゃないかとたびたび周りから言われ、気になっていた……)。
 ついでに言えば、2022年7月に見た『ストリート リプレイ ミュージック バランス』も、ダンスを構成する複数の要素・要因をひとつひとつ丁寧に観客に見せては並置していき、掛け合わせ、厚みのあるダンスの経験を徐々に作っていく作品だった。ものすごく教育的かつロジカルなプロセスを踏むことで、身振りはその場で生み出された即興的なものとしてではなく、漠然とした謎でもなく、厳密に計算され仕組まれた身振りとして把握できるようになっていく。さらにはその身振りが作り出す周囲の空間への想像力の推移も、クリアに観客側に自覚されるようになるんだよね。
 「共有するビヘイビア」は、すでに何度も触れている通り『クローズド・サークル』という作品に発展するんだけれど、そこではいわゆるダンス的な成分はぐっと減り、ふたりの俳優による発話が中心になる。そしてその先に、今回の作品があるわけだ。つまりは発話・会話にすごく重きを置いている今回の作品の背景に、ダンスとその共有をめぐる問題意識や蓄積があるということ……スペノの経歴を知っているなら当たり前のことかもしれないけれど……このことはあらためて重要な気がする。眼の前の肉体が何に依拠して発話し、身振りを行なっているのか。それをめぐる観客側の認識とはどのようなものか。舞台と観客のあいだの「伝える」という関係はいったい何なのか。それら全体を取り巻く空間とは何なのか。
 ……ということを踏まえた上での(笑)、第二部における「会話」の問題、だよね。

破壊的テクストと共有される場

山本:第二部で重要なポイントのひとつに、テキストの反復的共有がある。具体的には、例えば岸田國士で卒論を書いたという話を俳優ふたりともが時間を置いてそれぞれ同じように発話する。これって観客側の認識で言えば、ある種の役柄の交代のように感じられる事態なんだけれど、もう少し踏み込んでいえば、そのテキストを文字起こしする前の自己紹介的な発話が俳優ふたりに共有されているわけだよね。しかもひとりの発話がふたりに共有されているということは、少なくともそのうちのひとりは、自分とは別の者が私的な情報をめぐるものとして為した発話を再現していることになる。ひとりではなくふたりで話すことで、そのような認識に自然と無理なく観客側が至るようになっている。

h:しかもそれは、岸田國士みたいな固有名詞だけじゃなくて、いぬがかわいいとか、好きな映画はなんですか、みたいな台詞を起点にしても把握できる。つまりかなりの頻度で、ふたりがひとつの人物を演じているようだというのがわかる。
 もうひとつ謎なのは、第二部でも第一部と同じく舞台上に、こちらからは何が映っているのかわからない角度でディスプレイが置かれているんだけれど、そこから声がすると、舞台上のふたりが異様な驚き方をしながら、舞台奥のふたつの出入り口にそれぞれすっぽり収まっていくところ。後ろ向きに一気に激しくさがっていって、痛みのようなものを感じているふうに見える。やめてほしいというか、嫌がっているというか、こわがっているというか……いずれにせよプラスの感情じゃないよね。そうした場面が何度か繰り返される。あれはなんなんだろう。

山本:現象としてはわかりやすくはあるんだけれどね。

h:そう、何かしらのルールがあるということはよくわかる。「ディスプレイが喋ったら嫌がる」というね。まあそれも徐々に解体されるわけだけど。
 他にも、身振りに関するルールがいくつかあるようなのは認識できる。例えば、「どういうところに住んでたんですか」みたいに聞かれたら、台にのぼってそれに答える、とか……その意図まではわからないし、そもそも把握が合っているかどうかもわからないんだけれど、何かしらここにはルールが働いているんだなとはわかる。そしてそれは、ふたりの「会話」からすれば、すごく安心できるものとしてあるなと感じる。
 ふたりは基本的に話している内容がずれていて、同じ舞台上にいるにもかかわらず、お互い隔絶され、力の及ばない場所にいるように感じられる。でも、さっきも言ったように、あるとき急に、「そうですよね」「はい」みたいな応酬がくる。それが、見ていてすごくこわいんだよね。こんなにそばにいるのに交われないんだ、伝えあえないんだ、というところから、急に会話が成立したようになって、また離れていく。その伝わらなさとか、伝わったかと思えばまた離れていくこわさと比べると、身振りに関するルールは、どこか安心できるものがあった。
 ……というか、今気づいたけれど、第二部の戯曲、やばくない?(笑)けっこうちゃんとした台詞だと思ってたけれど、文章で見ると、第一部よりもさらに意味わかんない。《チキン鶏肉ねんとりこしょっぱい》って、なに。

山本:これは……(笑)。

h:ふたりが同時に話すから聞き取れないんだと思ってたけれど、ほんとに意味わかんないこと言ってたんじゃん(笑)。たったふたりでも同時に話されると無理なんだ、って思ってたけど、これじゃそもそも聞き取れるわけがなかった。

山本 なるほどなあ。

h:ひとりひとりで喋っているときの台詞は、当たり前だけれど聞き取れるわけだし、上演中は内容も含めて理解できてる気になってた。でも戯曲を見ると、かなりへんだったことがわかる。例えばこことか……。

 N1 メープルシロップは振りつき
 N2 もう学びっていう名前なんですよ
 N1 そうなんですか 珍しいですね
 N2 違う弓田 すごい お母さんのおねちゃんが真弓さんです いとこが愛美ちゃーんでしたね
 N1 うん なっちゃん うんちゃんって言われます でもまだちゃんは 飲み物が好きNO中のビルオーナーとコーヒーかな
 N2 コーヒーが好きです

 この場面、はっきり覚えてるけど、《愛美ちゃーん》とかは聞き取れるけれど《なっちゃん うんちゃんって言われます》とかは「ん? なんだろう」くらいまでしか理解できない。《飲み物が好きNO中のビルオーナーとコーヒーかな》とかになるとぜんぜんわからなかった。でも次に《コーヒーが好きです》と来ると、急に会話として聞こえてくる……。
 上演中は、ひとりひとりはちゃんとそれぞれで理解できるようなことを喋ってて、でも同時に話していたり台詞が意図的にすれ違わされていたりするから理解が追いつかないだけ、と思っちゃうけど、戯曲を見ると、そもそも伝わることなんて最初から喋ってなくて、互いに、それから観客にも伝える気がなかったんじゃん、と思う。何かがあるわけじゃない、何もないことを言われていただけだったのに、上演である以上──というかひとが前で言葉を喋っている以上──そこにはなにかがあると思わされてしまっている。これは、やっぱりこわいことだよね。日常も実はこんなものだと言われている気もしたし。

山本:破壊的な文章でもって「聞こえさせていない」ところと、会話としても意味内容としても「聞こえさせている」ところが、ものすごくうまくレイアウトされているよね。ずっと会話が成立しない、意味がわからない、とかじゃなくて、わかるところとわからないところのリズムがコントロールされている。

h:そうだね、されてた。テキストそのものもだし、発話でも、ふたりのあいだでうまく間を置いたりしていた。「聞こえて……る?」みたいな(笑)。

山本:そうそう。テキスト内外のいろいろな要素を駆使して、会話の成立(不)可能性を精密に演出している。視線の向きや、どこでどう頷くかとか。音楽のリズムを取っているときの頷きと相槌の頷きが同期させられる、みたいなこともあったと思う。
 あと、空間の共有……土地や風景の描写はもちろんだけれど、例えば《柴が居ますね》とか《どら焼き》とかみたいに特定の対象をフィクショナルに名指すような発話はけっこうな頻度でふたりのあいだで共有され、ともに立つ場を形成する。その瞬間、会話が成立したりする(そのように感じられたりする)んだけれど、とはいえ仮構される対象の位置も、お互い想定している場所がずれていることが明らかだったりするから、すぐに崩れていってしまう。
 ほかにも、「それ」「これ」「あれ」みたいな指示代名詞は、会話の成立(をめぐる知覚)を促していたよね。「私」もそうだし、あとはやっぱり名詞の反復は最たるものだったと思う。一方、同じく人物名でもってふたりのあいだのずれが強調されたりもするわけだけれど。そういう細部のコントロールがすごい。
 さらにもうひとつだけ加えると、ディスプレイに向かって「音楽をこの部屋に流してほしい」って言う場面があったよね。すると実際に音楽が流れる。それは舞台上のふたりにも、観客席にも、さらに言えば会場外の廊下を歩いているひとたちにももしかしたら聞こえているかもしれないものだ。これまで触れてきたようなどれよりも、はるかに強い共有、同期の礎としてある。舞台美術を指さして「これ」と言うときがあったと思うけど、それよりも強力なものだと思う。

h:伝わってるんだな、と感じられる。

山本:でも、次に発話されるのは《違う ちょっと違う ちょっとたぶん違う》。やはりだけれど、また共同の場は崩れる……このあたりの半ば露骨とも言える展開の塩梅が、うまいんだよなあ。
 こういうことの積み重ねが、二つの肉体のあいだの共通の場をめぐる判定基準の検証となり、すなわち「会話」というもの、「伝える」ということの判定基準の検証となり、さらにはある肉体における自由意志や思考をめぐる判定基準の検証となる……そしてもちろん、第一部をめぐって話していたような、戯曲の問題にもなっていく。戯曲もいわば、舞台上の複数の肉体が帰属する共同の場の一種だよね。ひとつの同じ戯曲を共有できているということは、ひとつの場を共有できているということであり、そこには(一般的な意味かどうかとは別に、肉体と肉体が同じ地平を共有して関わり合うという意味で)会話が成立するだろう。言い換えれば、そのような対象であるからこそ、この作品において戯曲は、音楽と同じように「違う」ものとみなされ、自動文字起こしを挟んでエラーを大量に食い込ませられたり、もととなる発話主体を置いたりして、単一の書き手に統合されないように操作されている。
 こうした諸々が、上演という表現形式における最たる素材としての、観客と舞台のあいだに生じる想像力に関わるものとして、一気に貫かれるというか、ぜんぶ同じ問題なんですよと示されているような感覚があったな。
 そしてその上で、舞台そのものとは別で収録され戯曲の素材とされているところの、日記的な発話とはいったいなんなのか、というところにまで返っていくのかもしれない。

話すことのなさと方法

山本:話し損ねたことを最後に手短に並べておくと……第二部での《歩きたくなったら歩いてもらって》という台詞(続けて、言われた側が歩き始める)も印象的だった。まさに能動受動、行為の由来の問題だよね。しかもこの台詞も、間を置いてもうひとりが同じく発話することになる。この交換可能性。
 あとはドッペルゲンガーのモチーフも、第一部・第二部共通のものとしてあったよね。第二部で言うと、例えばここ。《この前すごいおばあちゃんに似てる人がいたんですね おばあちゃんは髪型がすごい 毎日パーマを当てに行ってたんですよ 毎日当てに行ってたんだけど その人はショートカットでピンクの髪型だったのね ベリーショートだけど 他はどう見てもおばあちゃんにそっくりだった いきなり話しかけてもちょっとびっくりされるかなと思って 普通に後をつけてたんだけど その人がすごいこっちをすごい伺ってきてたから 会釈しようと思って釈して通り過ぎたんだけど その通り過ぎた瞬間に「私」だって思ったんですね》。

h:ああ! あったあった。それすごくこわかった。しかもディスプレイに向けて話してた気がする。すごく嫌だった。第一部にも似たようなことがあったね。

山本:どこだったっけ……いま(2023/03/16)はまだ記録映像が届いてないから、戯曲のデータを検索しつつ記憶をたどることしかできないのだけれど……あ、ここだね。

h:《出会いの場というのは どのような場所だとお考えでしょうか 例えば公園 例えば学校 例えば道野途中 駅のホームでした 別の線と線が交わるところ 大きな駅のホームでした そこで 年老いた「自分」と出会いました 姿は全然今とは全く似てませんでした でも直感で「自分」だということが認識できました どっちとも言わず話していました 内容としてはゲンキーみたいな 体とか壊してないのとか 最近楽しかったこと何 ほとんど久しぶりに会った友達と会ったときに話すような内容ばっかりで 何故なら深入りして何かを話すことが結構怖かった だから 当たり障りのないような 割とライトめな会話をメインで話してた》。

山本:そして自動音声が《話すことない》と返事するのか……。この作品全体における「話すことない」っぽさはすごいよね。

h:あんまり意味ないもんね(笑)。

山本:にもかかわらず、大量に喋り続けてて、それを観客は聞こうとしちゃう。聞こうとさせられちゃうような演出や演技、テクストの技術がすごくある。

h:あと、第一部と比べると第二部のほうは、すごく自制的というか、自分を抑えて喋ってる印象がすごくあった。言葉をここに置くよ? 置くよ? みたいな丁寧さがあったというか。それは演出の複雑さ、意識し実現しなくちゃいけないことの多さから来るものでもあると思うんだけれど、その上で、すごく抑制されている感覚が全体にある。だからこそ、ディスプレイから自動音声が聞こえた瞬間、ふたりがわーって驚いて激しく動くのに対しても、すごくこわく感じられる。ものすごく強い感情の発露に見えるから。

山本:そういう抑揚を作るのが、ほんとにうまい。

h:だってさ、ちょっと眠くなりそうなときにそういうことをやってくるでしょう?

山本:確かに(笑)。

h:そういううまさもあった。やっぱり情報量が多いから頭がぼーっとしてきちゃうしすごく疲れるんだけど、いいタイミングですごく明確な出来事が起こる。そういうところもすごく面白い。

山本:あと、最後にもう一個だけ。ちょっとメタ的な話というか、作品全体を比喩的に表現している箇所の話になっちゃうんだけれど……。

h:「0.5人」の話?

山本:ああ、それも重要だね。それと絡むようでもあることとして、第二部の冒頭、「念力暗転」の話から始まるんだけれど、西井さんが前に出てきて念力暗転を実演するような振る舞いをする一方、同時に少し後ろで渚さんがその様子を外から描写するような話をする。ひとりがひとりをはっきり語って記述する場面というのは、ここくらいなのかな……ここで示される関係性はすごく印象的で、作品全体を貫くイメージにもなるところだったなと思う。もう何度も触れてきているけれど、なにかに先取りされている感覚もあるし、私が私を語っている、ある種の分身関係の発露というような感覚もある。なんというか、最晩年のベケットを思わせるところもある。
 またその話が念力暗転の方法の説明をめぐるものだったということも、極めて重要だった気がする。この作品の軸は方法のプレゼンテーションなんだ、ということが意識付けられたというか。つまりはエピソードや個々人の情動などではなく、異なる人物、異なる場所で転用可能、反復可能な何かをめぐるものなんだ、と。《知ってるのは 舞台上に1人 人が立っていて 手をかざして それ見てる人がまぶたを閉じるっていうやつを知ってるんですけど》って渚さんが西井さんに向けて語るとき、それは西井さんがいま演じている誰か個人を描写しているのではなく、あくまで念力暗転の方法、具体的なプロセスの話をしているだけなのね。でもそれが、目の前に立っているひとの描写にも聞こえるんだよ。この妙な状態が、すごくおもしろいし、今日話してきたこと全体をあらわしているようにも個人的に感じられる。
 で、結局、「本人たち」ってなんなのか、ってところだけれど、上演と生の根幹にある、特定の「舞台」に限られない、極めて日常的で匿名的かつ反復可能な形式……それがつまりは伝達をめぐる方法であり、演出であり、社会の構成単位であり、新たな意味での戯曲である、のか……。

 2023/03/16-19

※プレビュー上演は2023年3月15日に「STスポット」にて非公開で行われた。
※引用したテクストは、いずれも2023年3月16日にスペースノットブランクより共有されたプレビュー上演時の戯曲データに由来する。

山本浩貴 Hiroki Yamamoto WebTwitter
1992年生。言語表現・レイアウト。小説や詩やパフォーマンス作品の制作、書物・印刷物のデザインや企画・編集、芸術全般の批評などを通じて、〈私が私であること〉の表現あるいは〈私の死後〉に向けた教育の可能性について共同かつ日常的に考えるための方法や必然性を検討・実践している。主な小説に「無断と土」(鈴木一平との共著、『異常論文』ならびに『ベストSF2022』掲載)、主な批評に「死の投影者による国家と死」(『ユリイカ』2022年9月号 特集=Jホラーの現在)、主なデザインに「クイック・ジャパン」(159号よりアートディレクター)、主な企画・編集に『早稲田文学』2021年秋号(特集=ホラーのリアリティ)。2015年より主宰する「いぬのせなか座」は、小説や詩の実作者からなる制作集団・出版版元として、各種媒体への寄稿・インタビュー掲載のほか、パフォーマンスやワークショップの実施、企画・編集・デザイン・流通を一貫して行なう出版事業の運営など多方面で活動したのち、2021年末をもって第一期終了、現在は山本のみを固定メンバーとした流動的なかたちをとっている。理論・批評の単著を2023年刊行予定。
小説の制作のほか、「いぬのせなか座」のメンバーとして山本浩貴とともに書物・印刷物のデザイン、パフォーマンスの制作を行なう。主なデザインに田恭大『光と私語』(いぬのせなか座叢書3)、主な小説に「すべての少年」、「盆のこと」(『いぬのせなか座2号』)、『2018.4』『六月二一日』(いずれもいぬのせなか座)など。

本人たち

イントロダクション:植村朔也

レビュー
本人たち|山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
本人たち|東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
本人たち|鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
本人たち|稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
本人たち|神田茉莉乃:見ること、見られること
本人たち|高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
本人たち|長沼航:1でも2でも群れでいて
本人たち|中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

本人たち|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 Sakuya Uemura
批評家。1998年12月22日生まれ。千葉県出身。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの保存記録を務める。過去の上演作品に『ぷろうざ』『えほん』がある。

 スペースノットブランクの「保存記録」として働き始めてから、この3月でちょうど3年が経つ。この文章は『本人たち』のイントロダクションとして依頼されたものだけれど、いい節目なので、保存記録の活動を振り返る場としても利用させてもらいたい。そして過去に書いたお粗末な『本人たち』評の簡単な修正を試みたい。
 保存記録というのは、写真や映像を撮る人なのではなくて、スペースノットブランクが何をしているのか観測して、わかったことをかたちにしていくということなのだけれど、正直なところ自分にはいまだにほとんどのことがよくわかっていない。
 作家がなにを思ってなにをしようとしているのかは、やろうと思えば稽古場での作家の発言からある程度たどれるし、ちょくちょく作家がLINEで教えてくれることもあったりするから、それをまとめてしまえばいい感じもするが、そんなに単純な仕事ではない。実際、事前に話を聞いていても、スペースノットブランクの舞台を観るといつも呆気にとられてしまうし、なにを書いていいかわからなくなる。その分平気で遠慮なしに稽古場に行ったり作家と話したりしているようなところがある。
 やろうとしていることとやっていることはしばしば一致しないものだ、というのは当然として、スペースノットブランクはコレクティヴとしての集団制作の方法それ自体を制作しようとしているようなところがあるから、作家とか、その意図とかいった概念自体あんまりあてにできない。わたしがスペースノットブランクに書いてきた批評に対して、制作論に終始していて、結果としての舞台については得るところがないという旨の批判が寄せられたことは一度や二度ではない。しかし、そのようなプロセスと結果の弁別の自明視を問題視し、作品を扱う単位としての制作の技法に目を向けないことには、スペースノットブランクの作品の記録としては不十分だと考えてきた。一方で、そうした作品性格が規定する、観客への可能な効果の方向性についても、わたしは書いてきたつもりでいる。
 『本人たち』の最初の作品群(第一期)は2020年9月に、YouTube上の動画と、スペースノットブランクの公式WEBサイト上のいくつかのテキストというかたちで発表された。各作品には「5月31日」などの日付が付されているが、動画概要に「スペースノットブランク『本人たち』の5月31日の映像です」とあることから、この日付はタイトルのたぐいではなく、いくつもの『本人たち』のそれぞれにさしあたりつけられたラベルという感がある。ここでは便宜的に各『本人たち』をそれぞれ同題の別作品とみなしているが、この理解はおそらく正確ではない。具体的な発表時期については動画以外記述がなく、はっきりしない。テキストはクリエーションメンバーの発した言葉を編集したもののはずで、おそらく日付はその発話が為された日を表している。
 続けて、11つのテキストからなる『本人たち』第二期、2つのテキストからなる『本人たち』第三期がある。さらにこの第三期のテキストを使用した、ANB Tokyoでの展示『また会いましょう』がある。それから第二期と第三期の間に、paperCで連載された「本人たちが大阪に行こうとしながらも行かなくなってしまった二〇二二年一月のいくつかの現像」があって、これは写真と短文からなる。このように、『本人たち』のクリエーションは2020年以降、スペースノットブランクによって継続的に行われ続けてきた。
 そして今回、『本人たち』はSTスポットで上演される。しかも、『本人たち』は『共有するビヘイビア』『また会いましょう』という二つの作品を包括した形で上演されることになっているのだ。問題なのは、動画、テキスト、舞台というメディア形式の横断性それ自体ではない。それら諸々の『本人たち』を貫いている共通因子が何であるのか、見当がつけがたいのだ。
 たとえば、『本人たち』の諸テキストを読んでみるとする。第三期6月13日。これは様々な「本人たち」の言葉を収集して、編集したもので、しかしどの言葉を誰が発話したかは曖昧にされているから、ひどく個人的な内容で、本人的な文体を持ちながら、特定の人間に帰属しない、「本人たち」の文章としか言えないものなのだ、というくらいのことは、すぐに言える。しかしこれはスペースノットブランクのほかの多くの作品にも共通して言えることで、作品の特徴としては説明になっていないのである。
 ほんとうはここにリンクを貼ることさえ躊躇われるのだが、過去にわたしが書いた『本人たち』評はひどい出来で、やはりこの誤りを犯している。そこでは作品は「過剰な多声性=非個体性と過剰な本人性=個体性によって、一層強く鑑賞者の想像力を喚起し」、そのことでオンライン演劇の悪条件も乗り越えられると言った旨のことが書かれている。
 言い訳をすると、わたしはもともと舞台批評家を志していたわけではなくて、「保存記録」の仕事は経験の浅いままに見切り発車で始めてしまったところがあるので、初期の評はそのほとんどが的を外しているし、執筆のスタンスも悪い意味で安定していない。いくらかまともに、方法的に書けるようになり始めたのは、2020年の暮れの『光の中のアリス』から、2021年の『ささやかなさ』にかけての時期のことで、それまでの評は素人同然である。保存記録の産物という都合上簡単に消去できないのが歯がゆいのだが、一度まとまった時間を取って、これまでの評を抜本的に書き直す必要を感じている。
 『本人たち』の共通因子のつかみがたさに話を戻す。厄介なことに、スペースノットブランクはタイトルをてきとうにつけているのでもない。今回『本人たち』の部分集合として上演される『共有するビヘイビア』は、過去に二度上演されたのち、『クローズド・サークル』への改名を経て再上演された作品である。それが、再度『共有するビヘイビア』へと名前を戻されている。
 つまり、ステートメントと照らし合わせても毎度不可解なスペースノットブランクの上演(というのはいくつかスペースノットブランクの作品を観て確かめてもらうほかないが、ほんとにそうなのだ)のそれぞれは、しかし特定の名によって束ねられて他から区別されるに足る相応の共通因子を時に有しているはずであって、そしてわたしの見立てでは、それがそれらの上演に固有の問題構制を示している。命名は舞台の制作と上演に先行しているから、実際に上演される舞台がこれら問題構成に還元しきれない過剰を産出していくことは当然として、しかしなおスペースノットブランクの批評においてはこれらの名の根拠を問う必然性がある。というのも、作家性というのは、作家の天才とか人間的個性というよりは、特異な問題構制を追いかけていくことの効果として事後的に見出されることがしばしばであって、制作の主体概念を問いに付してきたスペースノットブランクの舞台について、単におのおのの観客のうちに生じた効果を記述するのにとどまることなく、なんらかの共有可能な言説を打ち立てようとするのであれば、まずはここから始めるほかないからだ。問いは名とともに繰り返される。その問いをくり返し問うていく作業をわたしは自身の仕事と定義している。それが定点観測的にスペースノットブランクの作品を絶えず追いかけていくことの意味だと考える。結果的に、その文章は作家のステートメントに準拠したナイーブな意図主義的批評のように読まれているかもしれないが、少なくともここしばらくのわたしの仕事はそう単純なものにはなっていない。
 ところで、この依頼された「イントロダクション」は、『本人たち』本番がどうなっているのか全然知らないままに書かれている。だからわたしには『本人たち』の問題構制については仮説を立てることしかできない。それでも見立てはあるのであらかじめ書いておこうと思う。
 これまでのスペースノットブランクのテキストは、稽古場で出演者と演出者が場を共有するなかで、そのやりとりから生成され編集されてきた。対して、『本人たち』第一期の2020年というのは、このような場の共有が不可能になるような制作状況であった。この結果、場やそこでの関係性よりも「本人たち」が前景化してきたのだろうということは言える。場所性の強い印象を帯びた『クローズド・サークル』の題が退けられて『共有するビヘイビア』の言葉が回帰してくることもここから説明できる。
 あるいは、これまでスペースノットブランクのステートメントに登場してこなかった「戯曲」という言葉にも注目される。スペースノットブランクはどのようにこの「戯曲」概念を定義していて、それがいかに『本人たち』の上演性格と結びついているのかは当然問われていい。
 さて、批評が読まれないことを批評家が嘆くのは野暮の最たるものだが、スペースノットブランクについて他人が論じた文章で、わたしの評を参照したものがこれまでないのには、正直不満がある。議論がぜんぜん進んでいかないからである。スペースノットブランクについては、わたしはやはり純粋な批評家というよりは保存記録として書いているので、誰かの議論にいつか役立つようにと思って記録してきた。曲がりなりにも3年にわたって執筆をつづけてきた以上、批判的に言及するくらいの価値は誰かに認めてもらわなくては困るのである。だから今回、保存記録の仕事についての所感を赤裸々に書いた。
 スペースノットブランクは近頃みずからさまざまな書き手にオファーを出し、レビューを募っているが、それらが相互に参照する気のない複数であることには疑問がある(わたしが近頃批評の掲載を戦略的に遅延させている一因はここにある)。今回のスペースノットブランクはオープンコールでレビュアーを4名も募っている。だからわたしも恥を捨ててオープンに呼びかける。どうか誰か次の問いについて議論を進めてほしいと思う。そのようにしてこの文章は導入たらんことを目指す。実際のところ、『本人たち』はいったいなにをしているのだろうか。

本人たち

イントロダクション:植村朔也

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって

 2022年の京都エキスペリメント公式作品として上演されたスペースノットブランク(以下、スペノと表記)による『再生数』(作・松原俊太郎)を、ロームシアター京都・ノースホールで見た。後述するように、「見た」という表現が正しいかどうか、この作品にかぎっては、実はよくわからない。
 いつものスペノ作品同様、わたしにとっては「わけがわからない」内容だった。公式パンフレットには「スクリーンに映されたドラマ、これは映画か演劇か」という基本コンセプトが書いてあり、上演はまさにそのコンセプトのリテラルな実現だったとひとまず言っておける。舞台上に大きなスクリーンがひとつ据えられていて、作品のほとんどはそのスクリーンに映る映像を見るということになっていたのである。ただし、録画映像とライヴ(中継)映像のスイッチはなかったと思われ──ライヴ映像のなかで、スクリーンにプロジェクションされた録画映像を参照するシーンはある──、固定または手持ちの撮影用カメラを通し、上演は客席のスクリーンに〈届けられた〉。上演が展開する具体的な場所は、地下二階に位置するノースホールのホワイエに加え、ふだん観客は立ち入れない舞台裏の空間や楽屋などで、そこを俳優とスタッフたちがスピーディな動きをふくめて移動しつつ、作品は進行していった。
 スクリーンに映し出される映像の構図やカット割りはすべて事前に決定されていたようで、俳優たちは、その構図・カット割りのシナリオに沿って、いわばライヴで〈映画〉を上演/上映していく。ある台詞であるカメラを見たかと思うと、次の台詞ではその反対側にあるカメラを見て話す。また別の場面では引き気味のカメラが遠くの俳優たちを映し出す。そういう具合で、映像はディゾルヴやカットは多用せずに絶妙なスイッチングを経ながら継続していく。四人の俳優が全員収まっているカットから、次には二人、あるいは一人が、俳優の顔が交互に、それぞれクロースアップされる映像になるといった一般的に映画では当然の「画面作り」を想起させながら、上演/上映は続いていった。と同時に、「ネタバレ」ならぬ映画撮影の形式性の可視化というと大げさだが、そもそも意図されているのだと思われるが、撮影するカメラやそれを操作するスタッフの姿は比較的無造作に画面に映り込むことも、場合によっては許容されていた。ここ、、は映画の撮影現場?それとも映画の〈中〉、はたまた映画の撮影現場の〈外〉、あるいは映画の〈中〉の〈外〉?
 観客はと言えば、劇場の客席に普通に座ったまま、いつかは演劇の上演、つまりは劇場空間/舞台でのライヴの公演が始まるだろうなあという淡い期待を抱かされたまま、ほぼ常時、スクリーンに映写される映像内で展開する「撮影のプロセス」=戯曲に書かれたなんとなくの物語の進行、、、、、、、、、、、に見入ることになる。ただ、ときおり劇場内のスピーカーを通して聞こえてくる音声と、それと重なってライヴでかすかに聞こえてくる「元」の音声(=壁/ドア越しに聞こえる生声)に聞き入ったりすることもできる。さらに、俳優の動きを映像で確認しつつ、いわば気配として、客席内でその動きをなんとなく、、、、、感得したりもする。ノースホールの客席外の構造を知っている観客であれば、今スクリーンに映っているのはホワイエだとか、舞台袖だとか、楽屋だとか、なんとなく了解できる、といったような、きわめて特異な経験をすることにもなる。そして、上演中、三度ほど、生身の俳優が舞台上に登場することで、ああ、わたしたちは演劇の上演にたちあっている(かもしれない)と妙に納得したりする機会も与えられる。
 タイトルの「再生数」は松原俊太郎による戯曲のテーマであるだけでなく、ここまで見てきたように上演/上映の原理的属性に言及もしている。つまり、これは、〈映画で演劇〉なのだが、ここでいう映画には、ライヴ配信で再生数を稼ぐ、、、、、、、、、、、、というYouTube的視覚文化の領域内にある「映画」という意味合いも組み込まれている。必要十分条件を満たしたいわゆる映画、つまり、空間の移動あり、屋外ロケあり、日時の変化ありというより、YouTuber(でなくてもよいが)のゲーム実況に近い意味での「映画」という側面ここにはある。ただし、このゲーム実況は即時的にはインターアクティヴではなく、視覚音声情報は、一方的に上演する側から観客に向かって発出されつづけるだけである。観客にとっては、イマーシヴではないし、相互交信(交通)なるイリュージョンも、基本的にここにはない。観客は異化もされないが同化もできない。映画ではないのに映画を見ることに、あるいは、同じことだが、演劇ではないのに演劇を見ることに、ただただ自覚的になっている自己の意識を〈見る〉だけである。
 つまり、この上演は映画や演劇の形式をあえて問題化するといったようなモダニズム的な心性とは無縁だが、かといって、それらの形式と戯れてみせるといったポストモダンの〈身振り〉とも関係がない。それは何より、松原のテクストが、同時代の視覚文化とわたしたちの身体と心を貫く多層で錯綜する問題性を、〈極細のより糸〉としか呼べないアクチュアルだったりリアルだったりフェチだったり文学的だったり歴史的だったりする〈動機=モチーフ〉として言葉として群れさせ、、、、、、、、、つつ、「これは映画の撮影です」といううっすらしたナラティヴを基底/支持体として、縫い合わせるという時間的/空間的ドラマトゥルギーを実装させるからである。だから、最初に書いたように、「わけがわからない」が、正しい感想である(とわたしは思う)。
 たしかに、俳優自身ではなく登場人物はいる。戯曲テクストでは、衣装を含めて、以下のように書いてある。

 登場人物
 ピース 観客/無地
 ノン/黒子 観客/無地

 ミチコ 子ども、大人/スポーツウェア
 フフ 子ども、動物/ドレス

 武 責任者/スーツ
 翼 ニヒリズム/ジャニーズ
 (戯曲テクストより)

 そして、時間が経過するにつれ、シスターフッド(ミチコとフフ)、映画/演劇の現場における監督的/家父長的暴力/権力(武と翼)、〈映画〉にも〈映画の外〉からも、二重に不可視化/疎外化された存在(ピースとノン)などと、乱暴に主題を取り出してしまいたい誘惑──上演ではわからない可能性もあるが、松原が登場人物に与えた、上で引用した固有名がまさにそうした〈立ち位置〉を指し示していたりもする──に駆られるような人物たちの言動と行動がそのテクストに書き込まれている。
 さらにそこに、死と再生(映画/演劇の終演と新たな開始)といった古典的なテーマ性は、ネットでの再生という同時代的意味が付加されることもあって、〈終わり=死、、、、、から、、始まり=生、、、、、までのインターヴァルが極小化している、、、、、、、、、、、、、、、、、、──そして、極小化してこその再生数稼ぎである──事態へも、松原によって当然拡張されている。はたまた、特定の映画作品だけでなく、多様な映画のジャンル的特性──アクション映画、メロドラマ映画、アート系映画──の引用/援用/使用が、テクストのレベルと上演のレベルに埋め込まれて/ちりばめられてもいる。
 なので、結果的であれ、情報過多になってしまって「わけがわからない」のだから、上演の「いま、ここ」に身を浸し/意識を埋没させて、その瞬間瞬間に生起する視覚イメージや俳優の身振り/表情/汗や、見事なカメラワークや、俳優が語る言葉が喚起する情動や思考を、それはそれとして、場当たり的にその一瞬その一瞬で感受し、反芻したり忘却していればすむといえばすむ。すむというのはダメという意味ではなく、すませるほかはないように、この上演はできている。だから、やっぱり「わけがわからない」のか?

 さて、タイトルに示したメタモダニズムというもしかしたら聞き慣れない読者が多いかもしれない語がある。別件でたまたま読んでいた研究書で見つけたのだが、どうやら2010年くらいから使われていたらしい。「メタ」ではあるが、モダニズムとポストモダニズムのあいだを行ったり来たりする、右往左往する──もちろん、あえて、、、──といったイメージでよいだろうか。肯定的に言えば、いいとこ取りである。たとえば、わたしがこの語を知ることになったダニエル・シャルツは次のように説明している。

 ここ〔引用者註:メタモダニズムの諸実践〕において意味は、もはや集団としての大勢の観客のために生成されるのではなく、個人単位で生成されるのである。メタモダニズムは、パロディでもノスタルジーでもない、誰もがフェイクであることを知っていながら純粋にオーセンティックである経験を可能にするのである。ここが肝心なのだが、観客はフェイクやシミュレーションという概念、さらにはパフォーマティヴな自己を自覚しているからこそ、このフェイクな状況の中でオーセンティックな経験を得ることができるようになったのである。モダニズムが観客に課した能動的であると同時に受動的であるという分裂と、ポストモダニズムが観客に与えたあらゆるリアリティの喪失を、観客が交渉させてきたように思われるのである。i

あっ、『再生数』の話だ、とわたしは単純に思ってしまった。フェイクは日本語に入ってきたが、その反対語のオーセンティック(真正な)はそうなっていない。「リアル」とか「アクチュアル」とか近似のカタカナ語があるからだろうか。フィクションだとわかっていながら/いるからこそ、むしろ真正な経験(という感覚)が可能になるといったようなことになる。しかしそれは、集団的ではなく個人個人で異なるものとしてある。

 メタモダニズムでは、すべての意味と真実は個人的なものである。そのような経験には、真正性(authenticity)と親密性(intimacy)のメカニズムが極めて重要な意味を持つ。メタモダン演劇は、個人主義的で、親密で、個人レベルではあるが、純粋にリアルである。それは、観客のオーセンティックな経験への渇望を知り、それに応えるものである。ii

ことほどさように、『再生数』を見た観客は同じ経験をしたとはとうてい言えないようになっている。これまでのスペノの、松原俊太郎の、参加俳優についての、予備知識の量や質が観客ひとりひとり異なるといったような意味ではない。異なるのは当たり前で、それは「ふつうの演劇」でも同じことだ。しかし「ふつうの演劇(近代劇/モダニズム的演劇)」は、そういう異なる前提や予備知識とともに劇場を訪れる観客に、共有可能な共通の経験を与えて、観客をあるまとまった集団として主体化しようとする(「能動的であると同時に受動的」)。「一体感」や「感動」で観客席が盛り上がる。他方のポストモダニズムは、共有可能性や共通の経験なるものは、「フェイク=構築されたもの」だとして批判するが、オルタナティヴを与えることがなく、断片や分断やフェイク性をまんま、、、放置する。
 したがって、前者であれ後者であれ、どちらがデフォルトである観客も、『再生数』にたちあうと「わけがわからない」で思考停止する可能性が高い。しかし、観劇態度が習慣化して硬直していないふつうに日常生活を生きている、、、、、、、、、、、、、、観客であれば、『再生数』のさまざまな瞬間にさまざまな情動・感覚・思考を喚起される。身につまされるとか、「あるある」とかいった通俗的な応答もありえるが、そのような通俗的な応答を喚起しないように『再生数』は作られていて(とわたしは思う)、なにかもっと、そう、真正なもの、、、、、、としか呼べない情動・感覚・思考をもたらしているのではないか。
 そのためには、逆説的に聞こえるかもしれないが、「親密さ」という要素も重要である。ここでの「親密さ」は、シャルツ的には字義通りの距離の近さや少人数の観客──場合によっては一対一のパフォーマンス──のようなイメージなのだが、『再生数』の親密性は、映像での俳優のクロースアップという逆説的な親密性、、、、、、、──通常の演劇では、俳優の顔をクロースアップで見ることはできない──と、まったくその逆に、直接俳優に触れる可能性を原則的には排除している中継による映像、、、、、、、中心の上演という方法によって、もたらされる。
 こうやって『再生数』をメタモダニズムと呼んでみたところでなにかが起きるわけではないのだが、少なくとも「わけがわからない」まま忘却することにはならないのではないか。言い換えれば、「わけがわからないけどおもしろい」(!?)でおしまいではなく、「わけがわからないから感覚的・知的反芻の持続が必然になる」と、わたしは勝手に思っているのである。
──────────

i Schulze, Daniel. Authenticity in Contemporary Theatre and Performance (Methuen Drama Engage) (p.58). Bloomsbury Publishing. Kindle 版. 和訳は引用者。以下同様。
ii Ibid. はじめてこの語を使ったのはVermeulen, Timotheus and Robin van den Akker. “Notes on Metamodernism,” Journal of Aesthetics & Culture 2 (2010): 30 July 2012であるらしい。

内野儀 Tadashi Uchino
1957年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年より学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲』(1996)、『メロドラマからパフォーマンスへ』(2001)、『Crucible Bodies』 (2009)。『「J演劇」の場所』(2016)。公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。「TDR」誌編集協力委員。

再生数
『舞台らしきモニュメント』と『再生数』の映像配信を行ないます。

批評
佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて
内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって

佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて

 スペースノットブランク(以下スペノ)のウェブサイトの『舞台らしきモニュメント』の作品紹介には、次の一文がある。「「在る物」としての舞台を「現れる物」としてのモニュメントに代置し、上演(時間)と舞台(空間)の関係を見直そうとする純粋舞台」。いつもながらスペノは自分らがやっている/やろうとしていることの言語化能力が高い。書かれてある通りの作品であることは上演を観れば明らかであり、だから以下の拙文もこの一節への個人的なコメントというか、持って回ったパラフレーズにしかならないのかもしれないが、このユニーク極まる「舞台」について、幾らかのことを述べてみたいと思う。
 そう、ここで問題にされているのは、何よりもまず「舞台」である。舞台とは何か? それはどこにあり、何をする/何がなされるものなのか? つまり「舞台」の成立条件とは何か? これとは別に「劇場」という言葉があり、実際、作品中でシアターという語も発話されるのだが、「劇場」じゃなくて「舞台」だというのは、前者がどちらかといえば場所や建物を想起させがちなのに対して、後者はもう少し抽象性を帯びているからだろうか。「上演(時間)と舞台(空間)」とあるが、「舞台」とは「時間」と「空間」における「上演」と呼ばれる行為=現象の生起/生成だと言ってもよいかもしれない。この「時間と空間」は理念的なものだが、その都度、具体的現実的な「今、ここ」でリアライズされる。いやこれでは何も言ったことにはならない。何らかの意味で準備された──それは「稽古」と呼ばれるプロセスのこともあればもっと緩い設定や前提のこともある──出来事があるとして、それを「舞台」たらしめる要素とは、おそらく「(ダンスなども含めて)演る者」と「観る者」の二項であろう。私が鏡の前で台詞を言っているだけでは「舞台」とは呼べないし、観客だけで演者がいなければ「舞台」にはならない、と思われている。だが観られている者たちには演じているつもりなど毛頭ないのに、そこに「観る者」がいれば、それも一種の「舞台」と呼べなくはないし、観客が自ら演者に変態するという仕掛けもあり得る。公園のベンチにひとり座って、目の前にひろがるひとびとの様子を「舞台」のように/として鑑賞する、ということは可能だ。だからこの話に限らず、そこに広義の「観客」が存在していれば、そこは一種の「舞台」なのだという強弁がしばしばなされるし(それは「音楽」の「リスナー」についても同じである)、私も基本的にはその立場なのだが、それは私が「観る者」であるからであって、「演る者」の側にいるスペノが根本に立ち返ってあらためて問おうとしているのは、観客がいるいないとはまったく別の次元で、その時そこで起きるそれが厳密な意味で──そう、ここで重要なのは或る種の「厳密さ」なのだ──「舞台」になるのかどうかの線引きは如何にしてなされるのか、なされ得るのか、ということになるのではないか。すなわち、演る側と観る者が特定の同じ空間に居るのだからそれだけでもう「舞台」なのだというくだらない常識とはきっぱり縁を切って、そこで何が起きていれば「舞台」になるのか、を問うこと。
 始まるなり大須みづほと古賀友樹が「なんですか」を互いに連呼し、観る者はなんですかとはなんのことかとしばし訝しむのだが、すぐにいちおうの答えは与えられる。「これが舞台です/なんですか」「この舞台は二人で舞台をしています」。あとでもう二人出てくるが(奈良悠加と平野光代)、まだこの時は二人だ。しばらく後に、こんなやりとりがある。

 舞台は どこでも成り立つんじゃないか
 別なんじゃないかな
 例えば ポスターが貼られていて ポスターって認識した時に ポスターはある種の舞台なんじゃないかな
 (中略)
 舞台って どこでも舞台になる
 舞台ってなったからには舞台になります
 意図してても 意図してなくても そういう役割になってしまう
 舞台の終わりは まず脱線から入る
 最初は舞台から入りました 何を話すべきか迷っていて うーん うーん うーん 伝えたいことは山ほどある
 なんですか
 今 何一つ言葉を発せない状況にいて 「わたし」 だけが何かを伝えることができて そしてそれが舞台だということ ここに 「わたし」 は驚きを持ってまして これこそが舞台なんです 乱暴です これが舞台  街で何が舞台ですかって訊かれたら これが舞台です 言うしかありません だからここで伝えられるのは何もない なぜならこれが舞台だからです 世界の終わりと似てる

 こんなことが舞台らしきそこであからさまに語られてしまう。ほんとうにスペノは自分らがやっている/やろうとしていることの言語化能力が高い。こんなのに何を付け加えたらいいのか。たとえば「舞台らしきモニュメント」を「演劇らしきドキュメント」と単純素朴に言い換えてみる。ドキュメントは記録、モニュメントは記念碑。ドキュメント演劇という言い方があって、それは何らかの意味や方法による何ごとかの「記録ドキュメント」を「演劇」として提示しようとする仕立てのことだが、それとはちょっとというかだいぶ違っていて、今まさに演じられているそのそれ自体を現在進行形の「記録」として、あるいはいつかどこかで演じられた何かの「記録(記憶?)」として、その時その場で演じてみせるという再帰的なループ構造。モーターだけがあって駆動される機構のない空洞マシン。だが俳優は覚えていて稽古もした「台詞」を言っているのであって、勝手にたわ言をくっちゃべってるわけではない。演じているということを演じているということを演じてみせているというメタメタ無限循環。とはいえ物語がないわけでは、物語られるものが何もないということではない。ある。それはたぶん確かにあるのだが極めて稀薄で微弱であり、掴もうとすると、摘もうとすると、雪片のようにあっけなく溶け去ってしまう。この感じはベケットの「物語」に似ている。モロイとかマロウンとか名無しとか。おそらくここにドキュとモニュの違いが関与してくる。記念碑モニュメントとしての「演劇」。墓でもアーカイヴでもなく、一回性の現前としてのみ立ち上がる「碑」としての「舞台」。いまだ「舞台」ではないものどもがみんなで頑張って遂に「舞台」になるまでを物語る感動的なストーリー。話を戻すと、だから「舞台はどこでも成り立つんじゃないか」「別なんじゃないかな」というのは本当にそうで、なるほど「舞台」はいつでもどこでも成り立ちはするだろうが、なぜか成り立たないこともあって、それは仕上がりとか完成度の話ではなく、そこには何かの回路というか鍵穴というか目盛みたいなものが存在しているのだ。それをスペノはどうにかして探り当てようとしている。そして実際、それは、すなわち「舞台」は、そこは最初から舞台であるのにもかかわらず、上演中、何度も空中楼閣のように浮かび上がってきてはあえなく崩壊し、再び三たび組み立てを開始するのである。「この舞台は体当たり三回ぐらいやってすごい大爆笑みたいな舞台です」。また終わるためにこそ、また始めなくてはならないのだ。
 スペノはドキュからモニュへと「上演」の位相を移動させた。どこでも成り立つはずの「舞台」の、そうであるがゆえの今日的な困難、もはやほとんど誰もわざわざ問題にしようとはしない、だがしかし実のところますます難しさを極めていっている難題に敢然と挑戦し、これ「は」舞台ですと当たり前のことを宣って済ますのではなく、これ「が」舞台ですと言えるにはどうすべきか、にひとつの答えを示してみせた。それはいつもながら頼もしくも勇気ある営み/試みであり、このようなかくも原理的な問題を、かくもアクチュアルに、かつかくもチャーミングに処理してみせた才気と手腕に、今更ながら感嘆の念を禁じ得ないのであった。

佐々木敦 Atsushi Sasaki Twitter
思考家。作家。HEADZ。SCOOL。その他。著書多数。広義の舞台芸術にかんする著作として、『即興の解体/懐胎』『小さな演劇の大きさについて』など。近刊として、児玉美月との共著『反=恋愛映画論』、三年ぶりの映画論集『映画よさようなら』など。

舞台らしきモニュメント
『舞台らしきモニュメント』と『再生数』の映像配信を行ないます。

批評
佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて
内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって