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内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって

 2022年の京都エキスペリメント公式作品として上演されたスペースノットブランク(以下、スペノと表記)による『再生数』(作・松原俊太郎)を、ロームシアター京都・ノースホールで見た。後述するように、「見た」という表現が正しいかどうか、この作品にかぎっては、実はよくわからない。
 いつものスペノ作品同様、わたしにとっては「わけがわからない」内容だった。公式パンフレットには「スクリーンに映されたドラマ、これは映画か演劇か」という基本コンセプトが書いてあり、上演はまさにそのコンセプトのリテラルな実現だったとひとまず言っておける。舞台上に大きなスクリーンがひとつ据えられていて、作品のほとんどはそのスクリーンに映る映像を見るということになっていたのである。ただし、録画映像とライヴ(中継)映像のスイッチはなかったと思われ──ライヴ映像のなかで、スクリーンにプロジェクションされた録画映像を参照するシーンはある──、固定または手持ちの撮影用カメラを通し、上演は客席のスクリーンに〈届けられた〉。上演が展開する具体的な場所は、地下二階に位置するノースホールのホワイエに加え、ふだん観客は立ち入れない舞台裏の空間や楽屋などで、そこを俳優とスタッフたちがスピーディな動きをふくめて移動しつつ、作品は進行していった。
 スクリーンに映し出される映像の構図やカット割りはすべて事前に決定されていたようで、俳優たちは、その構図・カット割りのシナリオに沿って、いわばライヴで〈映画〉を上演/上映していく。ある台詞であるカメラを見たかと思うと、次の台詞ではその反対側にあるカメラを見て話す。また別の場面では引き気味のカメラが遠くの俳優たちを映し出す。そういう具合で、映像はディゾルヴやカットは多用せずに絶妙なスイッチングを経ながら継続していく。四人の俳優が全員収まっているカットから、次には二人、あるいは一人が、俳優の顔が交互に、それぞれクロースアップされる映像になるといった一般的に映画では当然の「画面作り」を想起させながら、上演/上映は続いていった。と同時に、「ネタバレ」ならぬ映画撮影の形式性の可視化というと大げさだが、そもそも意図されているのだと思われるが、撮影するカメラやそれを操作するスタッフの姿は比較的無造作に画面に映り込むことも、場合によっては許容されていた。ここ、、は映画の撮影現場?それとも映画の〈中〉、はたまた映画の撮影現場の〈外〉、あるいは映画の〈中〉の〈外〉?
 観客はと言えば、劇場の客席に普通に座ったまま、いつかは演劇の上演、つまりは劇場空間/舞台でのライヴの公演が始まるだろうなあという淡い期待を抱かされたまま、ほぼ常時、スクリーンに映写される映像内で展開する「撮影のプロセス」=戯曲に書かれたなんとなくの物語の進行、、、、、、、、、、、に見入ることになる。ただ、ときおり劇場内のスピーカーを通して聞こえてくる音声と、それと重なってライヴでかすかに聞こえてくる「元」の音声(=壁/ドア越しに聞こえる生声)に聞き入ったりすることもできる。さらに、俳優の動きを映像で確認しつつ、いわば気配として、客席内でその動きをなんとなく、、、、、感得したりもする。ノースホールの客席外の構造を知っている観客であれば、今スクリーンに映っているのはホワイエだとか、舞台袖だとか、楽屋だとか、なんとなく了解できる、といったような、きわめて特異な経験をすることにもなる。そして、上演中、三度ほど、生身の俳優が舞台上に登場することで、ああ、わたしたちは演劇の上演にたちあっている(かもしれない)と妙に納得したりする機会も与えられる。
 タイトルの「再生数」は松原俊太郎による戯曲のテーマであるだけでなく、ここまで見てきたように上演/上映の原理的属性に言及もしている。つまり、これは、〈映画で演劇〉なのだが、ここでいう映画には、ライヴ配信で再生数を稼ぐ、、、、、、、、、、、、というYouTube的視覚文化の領域内にある「映画」という意味合いも組み込まれている。必要十分条件を満たしたいわゆる映画、つまり、空間の移動あり、屋外ロケあり、日時の変化ありというより、YouTuber(でなくてもよいが)のゲーム実況に近い意味での「映画」という側面ここにはある。ただし、このゲーム実況は即時的にはインターアクティヴではなく、視覚音声情報は、一方的に上演する側から観客に向かって発出されつづけるだけである。観客にとっては、イマーシヴではないし、相互交信(交通)なるイリュージョンも、基本的にここにはない。観客は異化もされないが同化もできない。映画ではないのに映画を見ることに、あるいは、同じことだが、演劇ではないのに演劇を見ることに、ただただ自覚的になっている自己の意識を〈見る〉だけである。
 つまり、この上演は映画や演劇の形式をあえて問題化するといったようなモダニズム的な心性とは無縁だが、かといって、それらの形式と戯れてみせるといったポストモダンの〈身振り〉とも関係がない。それは何より、松原のテクストが、同時代の視覚文化とわたしたちの身体と心を貫く多層で錯綜する問題性を、〈極細のより糸〉としか呼べないアクチュアルだったりリアルだったりフェチだったり文学的だったり歴史的だったりする〈動機=モチーフ〉として言葉として群れさせ、、、、、、、、、つつ、「これは映画の撮影です」といううっすらしたナラティヴを基底/支持体として、縫い合わせるという時間的/空間的ドラマトゥルギーを実装させるからである。だから、最初に書いたように、「わけがわからない」が、正しい感想である(とわたしは思う)。
 たしかに、俳優自身ではなく登場人物はいる。戯曲テクストでは、衣装を含めて、以下のように書いてある。

 登場人物
 ピース 観客/無地
 ノン/黒子 観客/無地

 ミチコ 子ども、大人/スポーツウェア
 フフ 子ども、動物/ドレス

 武 責任者/スーツ
 翼 ニヒリズム/ジャニーズ
 (戯曲テクストより)

 そして、時間が経過するにつれ、シスターフッド(ミチコとフフ)、映画/演劇の現場における監督的/家父長的暴力/権力(武と翼)、〈映画〉にも〈映画の外〉からも、二重に不可視化/疎外化された存在(ピースとノン)などと、乱暴に主題を取り出してしまいたい誘惑──上演ではわからない可能性もあるが、松原が登場人物に与えた、上で引用した固有名がまさにそうした〈立ち位置〉を指し示していたりもする──に駆られるような人物たちの言動と行動がそのテクストに書き込まれている。
 さらにそこに、死と再生(映画/演劇の終演と新たな開始)といった古典的なテーマ性は、ネットでの再生という同時代的意味が付加されることもあって、〈終わり=死、、、、、から、、始まり=生、、、、、までのインターヴァルが極小化している、、、、、、、、、、、、、、、、、、──そして、極小化してこその再生数稼ぎである──事態へも、松原によって当然拡張されている。はたまた、特定の映画作品だけでなく、多様な映画のジャンル的特性──アクション映画、メロドラマ映画、アート系映画──の引用/援用/使用が、テクストのレベルと上演のレベルに埋め込まれて/ちりばめられてもいる。
 なので、結果的であれ、情報過多になってしまって「わけがわからない」のだから、上演の「いま、ここ」に身を浸し/意識を埋没させて、その瞬間瞬間に生起する視覚イメージや俳優の身振り/表情/汗や、見事なカメラワークや、俳優が語る言葉が喚起する情動や思考を、それはそれとして、場当たり的にその一瞬その一瞬で感受し、反芻したり忘却していればすむといえばすむ。すむというのはダメという意味ではなく、すませるほかはないように、この上演はできている。だから、やっぱり「わけがわからない」のか?

 さて、タイトルに示したメタモダニズムというもしかしたら聞き慣れない読者が多いかもしれない語がある。別件でたまたま読んでいた研究書で見つけたのだが、どうやら2010年くらいから使われていたらしい。「メタ」ではあるが、モダニズムとポストモダニズムのあいだを行ったり来たりする、右往左往する──もちろん、あえて、、、──といったイメージでよいだろうか。肯定的に言えば、いいとこ取りである。たとえば、わたしがこの語を知ることになったダニエル・シャルツは次のように説明している。

 ここ〔引用者註:メタモダニズムの諸実践〕において意味は、もはや集団としての大勢の観客のために生成されるのではなく、個人単位で生成されるのである。メタモダニズムは、パロディでもノスタルジーでもない、誰もがフェイクであることを知っていながら純粋にオーセンティックである経験を可能にするのである。ここが肝心なのだが、観客はフェイクやシミュレーションという概念、さらにはパフォーマティヴな自己を自覚しているからこそ、このフェイクな状況の中でオーセンティックな経験を得ることができるようになったのである。モダニズムが観客に課した能動的であると同時に受動的であるという分裂と、ポストモダニズムが観客に与えたあらゆるリアリティの喪失を、観客が交渉させてきたように思われるのである。i

あっ、『再生数』の話だ、とわたしは単純に思ってしまった。フェイクは日本語に入ってきたが、その反対語のオーセンティック(真正な)はそうなっていない。「リアル」とか「アクチュアル」とか近似のカタカナ語があるからだろうか。フィクションだとわかっていながら/いるからこそ、むしろ真正な経験(という感覚)が可能になるといったようなことになる。しかしそれは、集団的ではなく個人個人で異なるものとしてある。

 メタモダニズムでは、すべての意味と真実は個人的なものである。そのような経験には、真正性(authenticity)と親密性(intimacy)のメカニズムが極めて重要な意味を持つ。メタモダン演劇は、個人主義的で、親密で、個人レベルではあるが、純粋にリアルである。それは、観客のオーセンティックな経験への渇望を知り、それに応えるものである。ii

ことほどさように、『再生数』を見た観客は同じ経験をしたとはとうてい言えないようになっている。これまでのスペノの、松原俊太郎の、参加俳優についての、予備知識の量や質が観客ひとりひとり異なるといったような意味ではない。異なるのは当たり前で、それは「ふつうの演劇」でも同じことだ。しかし「ふつうの演劇(近代劇/モダニズム的演劇)」は、そういう異なる前提や予備知識とともに劇場を訪れる観客に、共有可能な共通の経験を与えて、観客をあるまとまった集団として主体化しようとする(「能動的であると同時に受動的」)。「一体感」や「感動」で観客席が盛り上がる。他方のポストモダニズムは、共有可能性や共通の経験なるものは、「フェイク=構築されたもの」だとして批判するが、オルタナティヴを与えることがなく、断片や分断やフェイク性をまんま、、、放置する。
 したがって、前者であれ後者であれ、どちらがデフォルトである観客も、『再生数』にたちあうと「わけがわからない」で思考停止する可能性が高い。しかし、観劇態度が習慣化して硬直していないふつうに日常生活を生きている、、、、、、、、、、、、、、観客であれば、『再生数』のさまざまな瞬間にさまざまな情動・感覚・思考を喚起される。身につまされるとか、「あるある」とかいった通俗的な応答もありえるが、そのような通俗的な応答を喚起しないように『再生数』は作られていて(とわたしは思う)、なにかもっと、そう、真正なもの、、、、、、としか呼べない情動・感覚・思考をもたらしているのではないか。
 そのためには、逆説的に聞こえるかもしれないが、「親密さ」という要素も重要である。ここでの「親密さ」は、シャルツ的には字義通りの距離の近さや少人数の観客──場合によっては一対一のパフォーマンス──のようなイメージなのだが、『再生数』の親密性は、映像での俳優のクロースアップという逆説的な親密性、、、、、、、──通常の演劇では、俳優の顔をクロースアップで見ることはできない──と、まったくその逆に、直接俳優に触れる可能性を原則的には排除している中継による映像、、、、、、、中心の上演という方法によって、もたらされる。
 こうやって『再生数』をメタモダニズムと呼んでみたところでなにかが起きるわけではないのだが、少なくとも「わけがわからない」まま忘却することにはならないのではないか。言い換えれば、「わけがわからないけどおもしろい」(!?)でおしまいではなく、「わけがわからないから感覚的・知的反芻の持続が必然になる」と、わたしは勝手に思っているのである。
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i Schulze, Daniel. Authenticity in Contemporary Theatre and Performance (Methuen Drama Engage) (p.58). Bloomsbury Publishing. Kindle 版. 和訳は引用者。以下同様。
ii Ibid. はじめてこの語を使ったのはVermeulen, Timotheus and Robin van den Akker. “Notes on Metamodernism,” Journal of Aesthetics & Culture 2 (2010): 30 July 2012であるらしい。

内野儀 Tadashi Uchino
1957年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年より学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲』(1996)、『メロドラマからパフォーマンスへ』(2001)、『Crucible Bodies』 (2009)。『「J演劇」の場所』(2016)。公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。「TDR」誌編集協力委員。

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