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佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて

 スペースノットブランク(以下スペノ)のウェブサイトの『舞台らしきモニュメント』の作品紹介には、次の一文がある。「「在る物」としての舞台を「現れる物」としてのモニュメントに代置し、上演(時間)と舞台(空間)の関係を見直そうとする純粋舞台」。いつもながらスペノは自分らがやっている/やろうとしていることの言語化能力が高い。書かれてある通りの作品であることは上演を観れば明らかであり、だから以下の拙文もこの一節への個人的なコメントというか、持って回ったパラフレーズにしかならないのかもしれないが、このユニーク極まる「舞台」について、幾らかのことを述べてみたいと思う。
 そう、ここで問題にされているのは、何よりもまず「舞台」である。舞台とは何か? それはどこにあり、何をする/何がなされるものなのか? つまり「舞台」の成立条件とは何か? これとは別に「劇場」という言葉があり、実際、作品中でシアターという語も発話されるのだが、「劇場」じゃなくて「舞台」だというのは、前者がどちらかといえば場所や建物を想起させがちなのに対して、後者はもう少し抽象性を帯びているからだろうか。「上演(時間)と舞台(空間)」とあるが、「舞台」とは「時間」と「空間」における「上演」と呼ばれる行為=現象の生起/生成だと言ってもよいかもしれない。この「時間と空間」は理念的なものだが、その都度、具体的現実的な「今、ここ」でリアライズされる。いやこれでは何も言ったことにはならない。何らかの意味で準備された──それは「稽古」と呼ばれるプロセスのこともあればもっと緩い設定や前提のこともある──出来事があるとして、それを「舞台」たらしめる要素とは、おそらく「(ダンスなども含めて)演る者」と「観る者」の二項であろう。私が鏡の前で台詞を言っているだけでは「舞台」とは呼べないし、観客だけで演者がいなければ「舞台」にはならない、と思われている。だが観られている者たちには演じているつもりなど毛頭ないのに、そこに「観る者」がいれば、それも一種の「舞台」と呼べなくはないし、観客が自ら演者に変態するという仕掛けもあり得る。公園のベンチにひとり座って、目の前にひろがるひとびとの様子を「舞台」のように/として鑑賞する、ということは可能だ。だからこの話に限らず、そこに広義の「観客」が存在していれば、そこは一種の「舞台」なのだという強弁がしばしばなされるし(それは「音楽」の「リスナー」についても同じである)、私も基本的にはその立場なのだが、それは私が「観る者」であるからであって、「演る者」の側にいるスペノが根本に立ち返ってあらためて問おうとしているのは、観客がいるいないとはまったく別の次元で、その時そこで起きるそれが厳密な意味で──そう、ここで重要なのは或る種の「厳密さ」なのだ──「舞台」になるのかどうかの線引きは如何にしてなされるのか、なされ得るのか、ということになるのではないか。すなわち、演る側と観る者が特定の同じ空間に居るのだからそれだけでもう「舞台」なのだというくだらない常識とはきっぱり縁を切って、そこで何が起きていれば「舞台」になるのか、を問うこと。
 始まるなり大須みづほと古賀友樹が「なんですか」を互いに連呼し、観る者はなんですかとはなんのことかとしばし訝しむのだが、すぐにいちおうの答えは与えられる。「これが舞台です/なんですか」「この舞台は二人で舞台をしています」。あとでもう二人出てくるが(奈良悠加と平野光代)、まだこの時は二人だ。しばらく後に、こんなやりとりがある。

 舞台は どこでも成り立つんじゃないか
 別なんじゃないかな
 例えば ポスターが貼られていて ポスターって認識した時に ポスターはある種の舞台なんじゃないかな
 (中略)
 舞台って どこでも舞台になる
 舞台ってなったからには舞台になります
 意図してても 意図してなくても そういう役割になってしまう
 舞台の終わりは まず脱線から入る
 最初は舞台から入りました 何を話すべきか迷っていて うーん うーん うーん 伝えたいことは山ほどある
 なんですか
 今 何一つ言葉を発せない状況にいて 「わたし」 だけが何かを伝えることができて そしてそれが舞台だということ ここに 「わたし」 は驚きを持ってまして これこそが舞台なんです 乱暴です これが舞台  街で何が舞台ですかって訊かれたら これが舞台です 言うしかありません だからここで伝えられるのは何もない なぜならこれが舞台だからです 世界の終わりと似てる

 こんなことが舞台らしきそこであからさまに語られてしまう。ほんとうにスペノは自分らがやっている/やろうとしていることの言語化能力が高い。こんなのに何を付け加えたらいいのか。たとえば「舞台らしきモニュメント」を「演劇らしきドキュメント」と単純素朴に言い換えてみる。ドキュメントは記録、モニュメントは記念碑。ドキュメント演劇という言い方があって、それは何らかの意味や方法による何ごとかの「記録ドキュメント」を「演劇」として提示しようとする仕立てのことだが、それとはちょっとというかだいぶ違っていて、今まさに演じられているそのそれ自体を現在進行形の「記録」として、あるいはいつかどこかで演じられた何かの「記録(記憶?)」として、その時その場で演じてみせるという再帰的なループ構造。モーターだけがあって駆動される機構のない空洞マシン。だが俳優は覚えていて稽古もした「台詞」を言っているのであって、勝手にたわ言をくっちゃべってるわけではない。演じているということを演じているということを演じてみせているというメタメタ無限循環。とはいえ物語がないわけでは、物語られるものが何もないということではない。ある。それはたぶん確かにあるのだが極めて稀薄で微弱であり、掴もうとすると、摘もうとすると、雪片のようにあっけなく溶け去ってしまう。この感じはベケットの「物語」に似ている。モロイとかマロウンとか名無しとか。おそらくここにドキュとモニュの違いが関与してくる。記念碑モニュメントとしての「演劇」。墓でもアーカイヴでもなく、一回性の現前としてのみ立ち上がる「碑」としての「舞台」。いまだ「舞台」ではないものどもがみんなで頑張って遂に「舞台」になるまでを物語る感動的なストーリー。話を戻すと、だから「舞台はどこでも成り立つんじゃないか」「別なんじゃないかな」というのは本当にそうで、なるほど「舞台」はいつでもどこでも成り立ちはするだろうが、なぜか成り立たないこともあって、それは仕上がりとか完成度の話ではなく、そこには何かの回路というか鍵穴というか目盛みたいなものが存在しているのだ。それをスペノはどうにかして探り当てようとしている。そして実際、それは、すなわち「舞台」は、そこは最初から舞台であるのにもかかわらず、上演中、何度も空中楼閣のように浮かび上がってきてはあえなく崩壊し、再び三たび組み立てを開始するのである。「この舞台は体当たり三回ぐらいやってすごい大爆笑みたいな舞台です」。また終わるためにこそ、また始めなくてはならないのだ。
 スペノはドキュからモニュへと「上演」の位相を移動させた。どこでも成り立つはずの「舞台」の、そうであるがゆえの今日的な困難、もはやほとんど誰もわざわざ問題にしようとはしない、だがしかし実のところますます難しさを極めていっている難題に敢然と挑戦し、これ「は」舞台ですと当たり前のことを宣って済ますのではなく、これ「が」舞台ですと言えるにはどうすべきか、にひとつの答えを示してみせた。それはいつもながら頼もしくも勇気ある営み/試みであり、このようなかくも原理的な問題を、かくもアクチュアルに、かつかくもチャーミングに処理してみせた才気と手腕に、今更ながら感嘆の念を禁じ得ないのであった。

佐々木敦 Atsushi Sasaki Twitter
思考家。作家。HEADZ。SCOOL。その他。著書多数。広義の舞台芸術にかんする著作として、『即興の解体/懐胎』『小さな演劇の大きさについて』など。近刊として、児玉美月との共著『反=恋愛映画論』、三年ぶりの映画論集『映画よさようなら』など。

舞台らしきモニュメント
『舞台らしきモニュメント』と『再生数』の映像配信を行ないます。

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