舞台の外で考える|第1回「演出補について」
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「舞台の外で考える」は、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクがこれまでの活動を軸に、上演の枠を超えた視点から思索を展開する連載である。連載は、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクとDance Base Yokohamaの共同で実施され、各回ごとに両Webサイトを交互に往来しながら進行する。実験的かつ内省的に、舞台芸術に関わる多様な側面を探究し、アーティストと創造環境の新しい関係性を浮き彫りにする。
舞台の外で考える
考えるべきことがあまりに多すぎるので、まずは連載を全4回で区切り、「演出補について」「滞在制作について」「喪失について」「企画について」をそれぞれの主題に据えることにする。3つ目の「喪失について」とは、つまり「企画頓挫について」であり、それを経て4つ目「企画について」でそこからの立ち直りを思索したい。今思ったこと、現状の現実味を書き連ねる。それが私たちの現在地であり、完全ではないことを前提とする。私たちはいつまでもメインストリームの心構えで外角低めに邁進し、コントロールすればするほど打ちにくい変化球を発明してしまう。
私たちは二人組の舞台作家である。2人でプロジェクトを立ち上げ、プロデュースし、ディレクションする。ただ、プロデュースに関しては、ずっと別の誰かに任せたいと思っている。本当は作品づくり以外のことはやりたくないし、考えたくない。だから、私たちの活動に興味があり、ともに隆盛を極めようという意欲のある方がいれば、ぜひ spacenotblank@gmail.com までメールしてほしい。私たちはどこまでいっても芸術家であり、プロデュース能力はあくまで付帯的なものにすぎない。日本ではそれでもやらざるを得ない現実があるが、本音を言えば、作品づくりに専念したい。一緒に動いてくれる、考えてくれる人を心から必要としている。劇場のアソシエイト・アーティストだって、二つ返事で引き受ける。
光の中のアリス 2024年11月 シアタートラム 撮影:日景明夫![]() |
2024年11月、シアタートラムで上演した『光の中のアリス』。作は、これまでに『ささやかなさ』『光の中のアリス』『ミライハ』『再生数』『ダンスダンスレボリューションズ』の5作品を協働してきた松原俊太郎。この上演にあたり、演出補をチームに迎えようと考えたが、頼める人がすぐに思い当たらず、オープンコールを実施することにした。「2024年の2つのオープンコール(異なる舞台の出演者と演出補)」と銘打って募集をかけたところ、予想を遥かに超える応募が集まった。応募してくださった皆様に心から感謝している。選考は書類審査とオンライン面談で行ない、面談は私たちではなく、リハーサル・ディレクターの山口静に任せた。一般的な権力勾配は避けがたく残るにしても、演出者のみの判断で演出補を選んだという事実が、その後のクリエーションにおける上下関係を強めるのではないかという懸念があったからだ。山口静からオンライン面談での応募者たちの印象を伺い、最終的に髙橋遥と土田高太朗の2人に演出補を依頼した。当初、募集要項には「演出補1名」と記載し、1人だけを選ぶつもりだったが、検討を重ねた結果1人に絞りきれず、演出補同士でも対話を深められる可能性があることを考慮して、2人にお願いすることにした。
『光の中のアリス』には、私たちが出演することがあらかじめ決まっていた。演出補を招きたいと思った最初のきっかけは、「自分たちが出演するシーンで客観的な意見がほしい」というシンプルな思いだった。だが、実際のクリエーションでは「ここを見てほしい」といった具体的な指示はほとんど出さず、リハーサル全体を通じて意見を交わしながら進めた。私たちの4つの目に演出補の4つの目が加わり、合計8つの目で演出を構築する空間が生まれたと感じている。そうした緊張感があった。具体的な判断は私たちが行なうという前提に加えて、髙橋遥と土田高太朗の存在がリハーサルに刺激を与え、「見る」「見られる」「見せる」「見させる」という関係が複雑に反射し合っていたと確信している。
上演では、荒木知佳の瞬間移動トリックを実現するため、髙橋遥がスタントダブルのような役割で迫りの上に立ち、下から上に両腕だけを荒木知佳のものとして突き出して出演した。全編英語字幕付き上演だったため、土田高太朗は映像の加藤菜々子と組み、字幕の細かい調整を最後まで担った。どちらもが多様な役割を果たしながら、上演を支える欠かせない存在として機能していた。
光の中のアリス 2024年11月 シアタートラム 撮影:日景明夫![]() |
演出補とは何か
私たちが初めて演出補を迎えたのは、2019年3月に北沢タウンホールで上演した『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』だった。演出補を務めた山下恵実は、「ひとごと。」を主宰する演出家、振付家である。この時点ではまだ「ひとごと。」としての作品発表はしておらず、制作者からの紹介で協働に至った。この舞台は一般参加型の企画で、出演者が10人を超える規模の作品を私たちが初めて手がけたものだった。そのため、私たちとは異なる視点でクリエーションに参加する存在が必要だと感じ、山下恵実をチームに招いた。
リハーサルごと、場面ごとに意見を交わしながら進め、山下恵実には私たちと異なる視点から率直な意見をチーム全体に述べてもらった。私たちから細かく「これをしてほしい」と指示するよりも、そこに居て感じたことを伝えてもらうことが主な役割だった。当時、チームにはリハーサル・ディレクターという役職がなく、ウォーミングアップの進行やチーム全体の調子を管理する役割を担ってもらうこともあった。この時点で、私たちにとって演出補は、舞台創造に新しい視点やアイデアを吹き込むために極めて重要な存在だと実感していた。
特に印象的だったのは、演出補という立場を活かして、山下恵実が私たち以上に率直な意見をメンバーと気兼ねなく共有していた点である。私たちが印象を述べると、それはディレクションとして機能し、メンバーの表現の方針に直接影響を与えるリスクがあった。対して、演出補の意見はそうした意向とは一線を画す客観的な視点として、上演の「今」を浮かび上がらせてくれたように感じた。チーム全体がクリエーションの現在地を都度確認し続ける状況が、そこには生まれていた。
言葉だけでは満ちたりぬ舞台 2019年3月 北沢タウンホール 撮影:三野新![]() |
次に私たちの演出補を務めたのは、2021年11月に穂の国とよはし芸術劇場PLATのアートスペースで上演した『ミライハ』での古賀友樹だった。『ミライハ』は、穂の国とよはし芸術劇場PLATが継続的に実施する「高校生と創る演劇」の一環として制作され、『光の中のアリス』と同じく松原俊太郎が作を務めた。古賀友樹は、私たちの舞台にたびたび出演する俳優で、演出を専門にはしていない。それでも演出補を依頼したのは、松原俊太郎との協働に私たちとともに継続的に関わっていたことと、高校演劇の経験があったからである。高校生が演劇に取り組むとはどういうことかを理解し、松原俊太郎の戯曲と高校生たちが経験してきた演劇における戯曲との差異を、実感として高校生たちと共有し続けられるのではないかと考えた。実際、その通りだった。
古賀友樹の役割は、印象を伝えるだけに留まらず、高校生たちと対話することに終始していた。具体的に何を話していたかはわからないが、松原俊太郎の戯曲を読むこと、演じること、演劇をすること、さらには受験や学校のこと、そして『ミライハ』に照らした未来のことなど、さまざまな話を交わしていたのだろうと想像する。俳優ならではの視点で、「こうやってみよう」と単純な見本を提示できた瞬間もあったはずだ。上演時には明確な出演者ではない形で高校生たちと舞台に上がり、上演を進行する役割を担った。高校生たちにとって、古賀友樹がともに舞台に居ることが支えとなり、字義通り上演の成立を補う存在として機能していた。
私たちにとって演出補とは、細かなディレクションを超えた次元で、創造環境全体に新しい視点やアイデアを吹き込み、客観的な意見と、個々の意志の両方で上演を支える存在だと捉えている。クリエーションにおける問題に対して、具体的にどう対策すべきなのかを指し示す知の占有はせず、ただ「今何が起こっているのか」を客観的に共有し、チーム全体が現在地を確認し続ける。その実践がクオリティを創出し、上演でもそれを再現するための下支えとなる。そこに、私たちだけの目では見えない何かが創造される余地がある。
さらに、演出補は明確な分業を担保する存在でもあることを明記しておきたい。私たちは二人組ゆえに、別々の場面を同時進行することもあるが、演出補が居ればさらに役割を分担できる。これから組み立てる場面の練習を事前に進めたり、すでに組み立てた場面の反復練習をともに行なったりする。そうした動きがそれぞれの空間で同時進行し、自動化され、それぞれが知らない間に舞台が完成に近づいていくのは、私たちのクリエーションでよく見られる光景だ。演出補の存在が出演者に自ら動く意欲を与え、それぞれが創造環境に自分なりのやり方で臨むきっかけを生み出しているのである。
ミライハ 作:松原俊太郎 2021年11月 穂の国とよはし芸術劇場PLAT 撮影:伊藤華織![]() |
第2回「滞在制作について」では、継続的な「場所」との協働について考える。私たちが「場所」に根を張り、短期集中的な創造作業を実施することで何を発見したのか、2025年1月のDance Base Yokohamaにおける『ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー「練習曲」』の滞在制作を例に、問いながら掘り下げたい。
2025年3月6日(木)
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク Ayaka Ono Akira Nakazawa Spacenotblank
二人組の舞台作家・小野彩加と中澤陽が舞台芸術作品の創作を行なうコレクティブとして2012年に設立。舞台芸術の既成概念と、独自に研究開発する新しいメカニズムを統合して用いることで、現代における舞台芸術の在り方を探究し、多様な価値創造を試み続けている。固有の環境と関係から生じるコミュニケーションを創造の根源として、クリエーションメンバーとの継続的な協働と、異なるアーティストとのコラボレーションのどちらにも積極的に取り組んでいる。2023年度より、Dance Base Yokohama レジデントアーティストとして、これまでに企画「継承する身体」の滞在制作、『訓練されていない素人のための振付コンセプト001/重さと動きについての習作(原作:contact Gonzo)』のショーイング、『ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー「練習曲」』の滞在制作と上演を Dance Base Yokohama にて実施。世界に羽ばたく次世代クリエイターのための Dance Base Yokohama 国際ダンスプロジェクト “Wings” にて、新作『ダンス作品第3番』を創作、上演予定。
再生|レビュー|多田淳之介:新生『再生』
多田淳之介 Junnosuke Tada |
演出家。東京デスロック主宰。古典から現代戯曲、ダンス、パフォーマンス作品まで幅広く手がけ、現代社会に於ける当事者性をアクチュアルに問い続ける。創作活動のほか公共劇場の芸術監督や自治体のアートディレクター、国際舞台芸術フェスティバルのディレクターなどを歴任し、国際・教育・地域を活動の軸に海外公演や国際コラボレーション、人材育成、教育機関や地域でのアートを活用したプログラムなど数多く手掛ける。2013年日韓合作『가모메 カルメギ』にて韓国の第50回東亜演劇賞演出賞を外国人演出家として初受賞。四国学院大学、女子美術大学非常勤講師。近年の演出作はSPAC『伊豆の踊子』、KAAT+東京デスロック+第12言語演劇スタジオ『外地の三人姉妹』など。 |
スペースノットブランクによる『再生』の上演をスタジオHIKARIで観た。『再生』は私が主宰する東京デスロックが2006年に初演した作品であり、これまでにも私自身の演出では2011年に中野成樹+フランケンズ、渡辺源四郎商店、KAIKA劇団会華*開可、韓国の第12言語演劇スタジオなど他劇団の俳優との上演や、2017年、2022年には東京デスロックでも再演をしてきた。岩井秀人氏の演出で2015年(FAIFAI公演)、2023年(ハイバイ公演)にも上演されている。しかしこの作品には戯曲と呼べるものは存在しない。私以外の演出家が演出する場合も、30分のパフォーマンスを3回繰り返すという構造のみによって『再生』という名の作品として上演されている。近年では東京芸術劇場道場のワークインプログレス、日大芸術学部の学生による上演などでは30分に限らずさらに短い時間の繰り返しでの上演も行われている。今回のスペースノットブランクによる『再生』は、これまでのどの『再生』とも違った上演でもあり、全ての『再生』と同じく『再生』の上演だった。
原案者として原作の内容、構造、コンセプトなどについて触れておくと、東京デスロックという劇団は2001年の設立当初は劇団名にもある通り「死」にまつわる物語を上演していた。人が死ぬ悲しい話というよりも、「死」という不条理にどう我々の「生」は対峙していくのかということを演劇作品として上演してきた。『再生』初演もそういった劇団の作風もあり当時社会問題となっていた「集団自殺」をテーマに選び、「死」に対して音楽や踊りや食事という「生の喜び」を用いて表現することを試みた。そして30分の死に至る喜びの饗宴を繰り返してみせることで、決して繰り返せない一回性の「生」と「死」を強調していく作品となった。ただ『再生』を他のカンパニーやアーティストに上演してもらう場合、特に私からの上演に対しての注文は無い。集団自殺でなくても構わないし、30分を繰り返さなくても構わない。『再生』というタイトルで上演することだけが上演許可の条件であり、何を許可しているのかすらわからないが、『再生』を上演したいというのであればそれぞれが考える『再生』を私も見てみたい。今回も私のその欲求は十二分に満たされた。原案者としてはこんなに嬉しいことはない。
スペースノットブランク版の『再生』が原作やこれまでの上演と大きく違った部分は、身体性の提示、身体と時間(繰り返し)による表現方法であったと思う。東京デスロック版や他の上演では、繰り返すごとに身体の有限性、つまり身体の消耗が見える構造になっている。といっても演劇作品の上演であるので少なくとも私が演出する場合は俳優はいかに疲れて見えるか、という演技(もちろん実際の疲弊を利用してはいるだろうが)をしている。これも当然のことだが本当に疲れてしまうと、かなり緻密な振り付けがなされているので実践できなくなってしまう。デスロック版『再生』は、俳優が疲れて動けなくなってしまうほどの、と評されることもある(むしろ演出意図通りではあるが)が、疲れて動けないのではなく、疲れて見えるように実は休んでいる。演出、演技のテクニックとして、終始動き続けるよりも一度止まってから動き出した方が、疲れているように見える。そして繰り返すごとに生身の身体による「生」の表現が強まっていくのが東京デスロック版『再生』の特徴だと言えるだろう。一方スペースノットブランク版では、当然繰り返していくごとにパフォーマーの身体の疲弊は多少は見て取れるものの、それを「生」の表現としては取り入れていないことは確信できる。彼らの表現方法は演劇やダンスというジャンルではカテゴライズされない、まさにコンテンポラリーな舞台芸術作品である。『再生』もダンスかもしれないし演劇かもしれない。あえて振り付けという言葉を使えば、彼らが繰り返しの中でその表現を強めていったのはその「振り付け」であったと感じた。それは彼らの手法のおそらく根本にある、その時の身体とその動き、繰り返しや蓄積した時間による身体の、その時、による、その動き、がその瞬間の表現として、つまり一回性の生命の表現として強度を極めていく上演だったと感じた。パフォーマーたちのいわゆる「振り付け」は少なくとも3回同じように繰り返されている、と同時に一度も同じ表現にはなっていない。1回目、2回目、3回目と「振り付け」は同じだとしても強度や表現としては違うものになっていた。それはなぜだろうか。
私の『再生』にはその派生として『再/生』という別の作品があり、さらに『再/生』をダンサーたちとリクリエーションした『RE/PLAY DANCE Edit.』という作品もある。この『再生』から派生した2つの作品は30分を繰り返す構造ではないが、繰り返すことでの表現の変化を取り込んだ作品である。特にダンサーたちとの作品では、同じ振り付けを何度も踊ることでダンス上演や観客との関係への問いを強めていく構造になっている。スペースノットブランクの『再生』を観客との関係で考えてみると、東京デスロック版『再生』に比べると明らかに観客との関係を意識した構造になっていた。おそらく『RE/PLAY DANCE Edit.』と共通する部分もあるのではいかと推測するが、自分の身体から生まれる表現を観客に対してどう届けるのか、「生む」という作業と「届ける」という作業をどう意識するか。動きを「生む」ことでそれは「届く」ものであるという考え方ももちろんあるが、ただ「届ける、届く」ことを意識した身体はまた別の強度を生むのではないかと私自身は考えている。具体的に彼らがどういったクリエーションを行っていたのかは知らないのだが、彼らの『再生』の強度には観客との対峙という要素が含まれていたと思う。それは観客側からも生み出されるもので、観客側からの、もう一回見る、さらにもう一回見るというバイブスに身体を呼応させることで同じ振り付けでありながら違った表現、強度が生まれていたのだと思う。常に生きている(呼応し、変化し、留まれない)ことへの意識があることは手法は違っても全ての『再生』の上演に共通している部分だ。
さらに『再生』の構成要素として大きなウエイトを占めるのが音楽の存在であり、録音された音源は繰り返しを担保する大きな要素の一つでもある。東京デスロック版では、30分の中で5〜6曲の楽曲を使用し、俳優たちはその曲に合わせ歌い踊り、そして音量は繰り返すたびに大きくなっていく。30分の芝居の繰り返しとは別の90分のタイムラインで音楽の音量と照明の光量は増していき、聞こえるものと見えるものが変化していく構造になっている。スペースノットブランク版でも90分のタイムラインでの音響、照明の変化はあったとは思うが、印象的だったのは生演奏によるギターの弾き語りがあったことだ。音楽の存在をどう位置付けるか、録音された音源を再生することを含め、その瞬間のライブの事象として音楽の存在を位置付ける表明のようにも受け取れ、非常に彼ららしい『再生』研究の成果だと感じた。今回の『再生』の上演しかり、スペースノットブランクの活動として自分たちより世代が上の作家や作品とのコミュニケーションは非常に特徴的だ。2006年の東京で表現されていたものを2024年の日本でいかに再生するのか、それは再生でもあり新生でもある作業だったと思う。
『再生』は台本もなく音源の指定もない。劇中のセリフ(あったとすれば)の指定もない。その分上演するその時代の孤独感や集団性にコミットした上演が可能であることも特徴だろう。スペースノットブランクの『再生』は上演の形態、構造、手法においてはこれまでのどの上演にもなかった要素の進化、深化があり、まさに現代に新生された『再生』であったと思う。原案者としてはもちろんさらにまた違った『再生』も見てみたい。スペースノットブランクによる『再生』も別会場ではまた全く違った上演(出演者が一人であったり)になると聞いている。今回然り、今後の上演も現在を生きる「生」の瞬きが見られるのだと確信している。もちろん今後『再生』を上演したいというアーティストや団体が増えてくれたら嬉しい。スペースノットブランクの上演を見てそう思ってもらえたらなお嬉しい。
レビュー
白尾芽:疲れるのは誰?
多田淳之介:新生『再生』
再生|レビュー|白尾芽:疲れるのは誰?
白尾芽 May Shirao |
東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学コース(伊藤亜紗研究室)修了。修士論文を元にした論文に「ポストモダンダンスにおける観客性と「身体的共感」──イヴォンヌ・レイナーの作品を中心に」『Commons Vol.3』(未来の人類研究センター、2024年)がある。ウェブ版「美術手帖」等での編集・執筆を経て、現在出版社勤務。 |
Web |
ワークショップ=歓待
開演の約2時間前、会場に足を運ぶと、すでに舞台上には出演者と参加者が集まって各自ストレッチをしたり、話をしたりしている。そのまま舞台の床で自分もなんとなくストレッチらしき動きをしていると、ワークショップが始まる。宮悠介が主導するウォームアップをしながら、参加者はそれぞれ名乗り、中澤陽はこれから「30分の物語」をどのような段取りで再生するのかを説明する。『再生』は説明文にある通り「30分の物語を3回繰り返す」構造を持つ舞台作品であり、「30分の物語」はほぼ途切れなく続く全8曲にあわせて切り替わる8つの場面から構成されている。どの曲にあわせて何をやるかはすべて決まっていて、一度聞いただけでは覚えられないのだが、都度指示をするのでそれについてきてください、と言われる。
じゃあやってみましょう、ということになる。まずは参加者全員で横1列に並び、出演者の瀧腰教寛による『街は水族館』の弾き語りを聞いた後、UA『太陽手に月は心の両手に』にあわせて舞台の後ろから前に向かって動きをつけながら進み、最前まで行ったら戻って、また進むことを繰り返す。最初の数回は出演者の動きに従い、次にやりたい人が好きな動きで先導する。曲がaiko『ストロー』に切り替わると、今度の指示は「前の場面の動きをできるだけ思い出して同じ順番で繰り返す」というものだが、当然途中からすべてがあやふやになり、参加者は思い思いに、列の半分ずつで違う動きを繰り出したりもする。こうして動きは自然と出演者から参加者へと受け渡され、その後も乗りやすいポップソングの効果や、何人かのダンスや演劇の訓練を受けているであろう参加者(と出演者)のスキルが相まって、わたしたちは集団として、言われるがままにそれぞれの場面をある程度遂行できてしまう。そして、なんというか、とても親切なのだ。紛れもなく参加者は歓待されていて、各場面は誰でも参加できるようにアレンジされ、優秀なファシリテーションがあり、迷ったり考えたりする必要がない。確実に自分が何をするべきかはわかる(武術っぽくエイ、エイ、と拳を突き出したり、両手を上げてクラップしながら飛び跳ねたり)が、それが一体なんなのかがまったくわからない、そういう状況は、心地よく楽しいと同時に、怖い。
観客の教育
この1時間の経験を経て、公演を見ることになった。ダンサーたちは横1列でそれぞれ台のようなものに腰掛け、瀧腰の『街は水族館』を聞く。歌い終わった瀧腰がギターを下ろして指を鳴らすと、『太陽手に月は心の両手に』が始まる。イントロのギターにあわせて誇張した反復横跳びのような動きをする瀧腰に、宮と斉藤綾子が合流し、ボーカルが入ると同時に、3人が前進しながら激しく踊りだす。1人が腕を前に突き出すときほかの誰かがしゃがみ込む、足を振り上げるエネルギーが誰かのジャンプを生み出す、カニのような動きが伝染する(ように見える)。3人が舞台の最前まで到達すると、小野彩加、山口静、ゴーティエ・アセンシが並んで同じように前進しながら踊りだす。ほぼ同時に古賀友樹が立ち上がり、瀧腰・宮・斉藤も歩いて後方に戻りつつ途中からまた踊りを始める。もうダンサーたちの組み合わせはバラバラになり、たまたま近接する者たちがそれぞれを振り付け合うような瞬間が生まれては消えていく。中澤の印象的なソロを挟んで楽曲の後半では、舞台上を縦横無尽にすれ違いながら踊るダンサーたちの、動きの受け渡し合いがより複雑化する。
曲が終わりに近づくと、ダンサーたちはまた横1列に並び、瀧腰がふたたび指を鳴らすと『ストロー』が始まる。ここでは、直前の場面とまったく同じ動きが正面を90度回転して行われる。唯一異なるのは、後半部分の途中からダンサーが1人ずつ台に戻っていくということだ。それを除けば観客は、同じ動きのシークエンスを、3回の〈再生〉のなかで計6回見ることになる。ある動きに対してテンポもムードも違う曲を与えることで行われる反復は、教育的にも感じられる。反復の教育的な効果のひとつは言うまでもなく、個々のダンサーの際立ったジェスチャーだけでなく、前述のような動きの受け渡し合いがより大きな単位で見えてくることだろう。しかし本作でそれよりも強く感じられたのは、タイミングの感覚である。たとえば、寝転んだ古賀と小野が作る凹凸のような体勢のペア、中澤がソロに入る合図のように行われる小野の大きな投げキッス(のような腕の動き)、アセンシ・古賀の両手指差し、互いに離れた場所にいた宮・瀧腰・山口が一瞬合流して合わせる拳。こうしたある種の気持ちいい(satisfying)タイミングは、動きの流れを把握するポイントにもなり得る。観客は〈再生〉という反復構造の中でもっと「よく見るように」教育され、まるで自分がその場をオペレーションしているような視点を得ながら、さらに熱心に舞台上を見つめることになる。
ちなみに『ストロー』の後半部分でダンサーが1人ずつ捌けた後、アウトロにあわせて舞台の対角線上に沿って行われるのは瀧腰のソロである。ちょこちょこと何かを触っているような手足、垂直のジャンプにあわせて太腿を叩く音、伸びやかに振り回される腕と独特な膝の硬直──すでに2回は繰り返し見た動きに、観客はもう一度集中することになる。前の2回と異なるのは、舞台の端まで進んでから、最後のフェイントのような中腰のポーズでゆっくりと時間を取り、体を起こしてから一瞬、顔を残して後ろに戻っていくことである。縦、横、対角線のバリエーションにおいて、唯一対角線だけ、その顔の先に観客がいない。しかし、瀧腰は何かをじっと見つめ、それと目を合わせて立ち去る。それは〈再生〉という閉じた構造そのものに対して唯一外側から向けられた視線として、観客もすでにその中に取り込まれていることを確認するジェスチャーのように機能する。
タスクとしての振付
本作の原案は、多田淳之介が主宰する東京デスロックが2006年に発表した同名の演劇作品である。集団自殺をテーマに、畳敷きの部屋で鍋と酒を囲んだ最後の宴会に興じ、人々が「何かひとつ幸せに死んでいく」(*1)までを描いたものだ。スペースノットブランクは、同じことを3回繰り返すという構造は厳密に継承しつつ、セリフは最小限とし、ダンスをメインに据えて翻案した。元の『再生』が、飲み食いし、騒ぎ、動くことの繰り返しで疲弊していく体のグロテスクさによって、死に向かう集団の幸せな狂気というスペクタクルを立ち上げるものであったとすれば、本作はどこまでもクリーンで禁欲的だ。缶や瓶のままの酒や鍋といった美術もなく、出演者の服装も黒1色で、舞台上ではダンサーたちの体が際立つ。いずれも繰り返しの構造が演者を疲れさせることは間違いないが、本作ではその疲労に演出が入り込むことを周到に避け(*2)、ダンサーたちが与えられたタスクを遂行すること自体を全面に押し出し、むしろ疲労を覆い隠しているようにも思われた。たとえば、原案の『乾杯』の場面における薬と酒は、個包装の小さなドーナツに置き換えられている。神妙な音楽にあわせた静かなドーナツの乾杯は、原案の「死」というテーマを限りなく脱色した純粋なタスクとして印象づけられる(*3)。そしてその後に続くのは、ダンサーたちがそれぞれの1日のルーティーンをマイム的に圧縮して踊る場面だ。ここでも、ダンサーたちが日々うんざりするほど繰り返しているタスク=ルーティーンが、舞台上でのタスクとして課され、また繰り返される。
本作においてダンサーたちは、いま課せられているタスクがどのような全体に寄与するのかを知らないかのように踊る(*4)。観客は、回を追うごとに「ここでこれをする」というタスクと、それを実行した結果が同じ(または微妙に異なる)であることを、毎回確認する。つまりダンサーと観客は、「何をするべきかはわかるがそれがなんなのかはわからない」という状態を、3回の〈再生〉を通して共有することになる。そしてそこで前景化するのが、ある瞬間の、ある動きと動きが呼応する一瞬のタイミングの感覚である。観客はここで奇妙な欲望を抱きもするだろう。すなわち、3回がすべて同じように、知っていることが知っているタイミングで起きることと同時に、どこかで誰かが間違えるのを少しだけ期待するのである。
ダンサーたちは、記憶をなくしたように、望まれれば何回でも繰り返せるというふうに、ちっとも疲れてなどいない様子で毎回舞台に登場する。それはもはや繰り返しというより、生まれ直しというほうが近いかもしれない。彼らのタスクの積み重ねは、それ自体としては一向に像を結ばない。経験を蓄積し、疲労し、間違いを期待し、そこになんらかの全体像のようなものを見出すのは、観客のほうなのである。どれだけ見ても、どんな像も生まれてこない可能性もある。それでもこの〈再生〉の構造は、よく見ることへと観客を手招きする。最後の『街は水族館』を聞きながら思ったのは、そういう歓待は心地よく楽しいと同時に、怖い、ということである。
*1──「東京デスロック・多田淳之介インタビュー」(エンタメ特化型情報メディア スパイス、2022年7月21日)
*2──たとえば2006年の東京デスロック『再生』初演時には、3回目の最後の場面に俳優全員が血を吐くという演出がなされている。高木登による初演のレビュー「身体によって発想された身体による物語」(ワンダーランド、2006年11月17日)にも該当の場面への言及がある。
*3──ここでは、中澤が作中でたびたび見せた眼鏡を指で上げる動作が、ドーナツを掲げて乾杯するタイミングの合図になっていたと思う。個人の癖のようなものがタスクになり、繰り返され、それが観客にタイミングの感覚を生み出す。
*4──このことは、スペースノットブランクが独自に生み出した「フィジカル・カタルシス」という振付の手法にも関係するだろう。「フィジカル・カタルシス」においては、他者と交感しながら動きを次々と生み出し、そこから他者との関係を捨象して、自分の動きだけを繋ぐことでフレーズを作る、という方法が中心になっているという(筆者によるスペースノットブランクへのメールインタビュー、2024年12月25日)。振付は生み出された時点ではいかなる全体も志向していない即興のようなものであり、それを舞台上に配置するときにタスク的な性質を帯びると言えるかもしれない。偶然生まれた動きを舞台に上げるにはそれを「再現」しなければならない、というジレンマは、ダンスやパフォーマンスにおいて普遍的なものであるだろう。
レビュー
白尾芽:疲れるのは誰?
多田淳之介:新生『再生』
光の中のアリス|レビュー|山本浩貴(いぬのせなか座):顔をあつめる
山本浩貴(いぬのせなか座) Hiroki Yamamoto |
1992年生。小説家/デザイナー/制作集団・出版版元「いぬのせなか座」主宰。小説や詩や上演作品の制作、書物・印刷物のデザインや企画・編集、芸術全般の批評などを通じて、生と表現のあいだの個人的な結びつき、または〈私の死後〉に向けた教育の可能性について検討・実践している。主な小説に「無断と土」(『異常論文』『ベストSF2022』)。批評に『新たな距離』(フィルムアート社)。デザインに『クイック・ジャパン』(159-167号)、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座)。企画・編集に『早稲田文学』2021年秋号(特集=ホラーのリアリティ)。 |
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「わあ、すごーい、お顔がいっぱい、おいしそー!」と言う。
「みんな見てるー? げんきー?」とも言う。
肩車された人。
手を振る先に、確かに手を振りかえすたくさんの顔があるのだろう。微笑ましさに遠くから笑ってしまいそうだ。でも二度観劇したその二度とも客席のかなり後方側に座る私からは、振る手は見えてもその顔は見えず、たくさんの後頭部ばかりが並んでいる。毛、だらけ(アンパンマンとは縁遠い、それ)。これじゃあ「おいしそー!」とも言えない。
舞台の上にはたくさんではないがいくつかの顔がヒカリに照らされてある。役者だろうか、スタッフだろうか、みんな顔を隠さずどうどうとそこらにいる。しかも時には4つならんだ画面で、あるいは細長くバカでかい画面で、舞台上の顔(の一部)がリアルタイムに映し出される。「お顔がいっぱい、おいしそー!」と、ちょっと、言えそうな気もしてくる。
それでもこちらとあちらの顔の総量はどこまでも大きなギャップを抱えたままだろう。当たり前だ、こちらは客として、ほとんど匿名な顔で舞台上の人らを一方的に見に来ているのだから。最前列で手を振るならまだしも後方の席ならなおさら私は身を晒すつもりがない、そのぶん肩車されたあの人ほどにはたくさんの「おいしそー」な顔を見られていない。
ただ、そのギャップを急激に埋めようとするかのように、肩車されたあの人は、わちゃわちゃ手足を動かしながら舞台上にいる他の役者らに向けて大声で話す、言い終わるとふとこっちを向いて、何度も何度も、わけのわからないドヤ顔をする。言い放った言葉を自ら受け止めるように? あるいは受け止める姿勢をこちらに顔として手渡すために?
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「顔」について書かれた戯曲だと思う。たとえば「わあ、すごーい」と手を振るあの一連のシーンは戯曲でまさに「かおしゅうごう」と名付けられていたし、ヒカリによる想起(できなさ)が主たる展開を生む本作においてヒカリが最初に思い出すのは、愛する騎士の「大事に抱えてきたケーキの箱をわたしに手渡す寸前に落っことしたときの顔」だ。死んで忘れられることになる騎士に「死なないで」と言うヒカリが「じっとよく見る」のもやはり騎士の顔である。
もちろんヒカリと騎士のあいだに交わされるこれらの顔は、愛する者どうしを描くうえでごくごく普通に慣用句的に用いられるものでしかない。私らは愛する誰かを思い出すとき、その相手の顔を思い浮かべるとされる。あるいは相手の気持ちを推し量るときにも、相手に何かを伝えるときにも、私らは相手の顔を見て、相手の顔に向かって、表現したり受け止めたりするものだとされる。
ただ本作において、顔はただ一対一で対面し見つめ合うばかりではない。より重要な顔として、「画面」の手前側から「画面」の奥を見つめる視聴者=観客のそれがあるだろう。
『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』を主たる参照元とする本作は、現実と虚構の錯綜を扱う上で、その分別や往来を実現させる境界面を「鏡」ではなく(より他者による表現とそれへの没入を感じさせるだろう)「画面」として描く。虚実の錯綜は、鏡によって作り出された私と私のあいだで起こるのではなく、「虚構」の誰かの顔とそれを見つめ自身の「現実」を投じ愛する私の顔、もしくは逆に「虚構」の誰かの顔から見つめられ「現実」を侵食される私の顔、それらのあいだで生じる。
こうした──ありふれた指摘をしておけばマスメディアやインターネットを始めとする様々な「画面」奥のフィクション(陰謀論、推し活、etc.)を自らの現実として受け取り翻弄される人々を戯画化したような──設定のもと、登場人物らはそれぞれの異なる現実(よそから見れば虚構)に属しながら、画面越しに相手の顔を見つめ、愛し、さらには画面を乗り越え相手の現実を訪れることで、複数の現実(虚構)、いくつかの顔をすり合わせていく。
3
たとえば騎士とヒカリ、バニーとミニーという2つのペアは、一見すると後者のほうが虚構めく存在に感じられるだろう。確かにバニーとミニーは現実に属するとは思えないようなパロディめく顔を備えている。だが戯曲冒頭のト書きでは、バニーとミニーこそが画面の手前側にいて、画面のなかの騎士とヒカリを見つめている。バニーが「アリス!」と呼びかける、それが本編の最初の台詞となる。
さらにバニーはミニーとともに画面の向こう側に乗り込み、騎士とヒカリからすれば「ミニーとバニーは映像から出てきて」、両者が出会う。画面が踏み越えられた瞬間、顔は見つめるだけではいられなくなり、見つめられる側をも演じなければならなくなる。複数の現実の存在をこの身において受け止めなければならなくなる。
これに伴う負荷を、しかし人は人である限りなかなか自覚できないものだ。私が私である限り、外から私を見つめ私が思うのとは別の現実を投げ込んでくる顔は、虚構めいた外部、「変態、暴徒、痴漢!」でしかない。「お前が死んだ事実は動かしようがない」などとどれだけ言われても、私にとっての生々しい現実はそれとは別である。
「あいつらは自分の物語から出られない、ルールを破れないんだ」とバニーは言う。あいつらとはこの世界を司るようでいて実際にはもうひとつの(唯一のではない)現実に立つだけの滑稽でかわいいQとKのことだが、騎士とヒカリも基本的には同様だろう。バニーとミニーだけが、奇妙に画面をまたぎ、セグウェイでいとも簡単に水平移動する。
そしてかれらを自らの物語から引きずり出す。QとKはバニーの一言でヒカリと手をつなぎ踊らされる。騎士とヒカリはふたりがともに生き、愛しあう世界から追い出され、騎士が死ぬが騎士のことをヒカリが覚えていられる世界か、それとも騎士が死なずに済むがヒカリは騎士のことを忘れる世界かを選ばせられる。いや、より正確には前者こそがもともとあった現実で、そこに後者を被せたのがバニーとミニーなのだろう。結果生まれるのは「ヒカリといたワンルーム」でも「もう死んだ地面の上」でもない「半分死んだおもひでのなか」だ。
ただこの「半分死んだおもひで」は、騎士のそれではない。騎士は自分が死んだといってもそれをうまく自覚することはできず、良くてただ〈信じがたい現実〉として受け入れることしかできない。なぜなら死者は自らを死者として思考し得ないからだ。思考できている以上、ここには私があり、私が生きている現実がある。やはり「ルールを破れないんだ」。
では「半分死んだおもひで」は誰のものなのか? ヒカリだ。ヒカリは生死ではなく〈覚えているかどうか〉でもって虚実の二重性を経験する。それは自身の生死とは違い、明瞭な二者択一を強いず、ゆえに「思い出し中」のなかで「ぜんぶおぼえてる。でも、思い出せない」中途半端な私がありうる。外から見てもその顔は(生死とは違い)おぼえているのかおぼえていないのかよくわからず、「おぼえてる?」「やっとおもひだしたか!」とまわりから何度も問われては自らを疑い、かすかな感覚を現実とも虚構とも言い難い何かとして拾い上げては顔に曖昧に表すしか無い。
思い出しているのか、思い出せていないのか。私はあなたの顔に何を見、そこからどのような現実を汲み取るべきなのか。虚実の二重性をその内側で経験する「もしも」の顔に、本作は名を与える。それがヒカリ+アリス=「ヒカリス」だった。
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その名はどこから来たのか。もちろんひとつには参照元である『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』から、現実にいたヒカリが虚構に迷い込んだことを示すものとしてあるだろう。虚実を隔てる「画面」を跨いできたバニーとミニーはヒカリを終始「アリス」と呼ぶ。ただ全員がそのひとを「アリス」と呼ぶのではない。騎士もQもKも「ヒカリ」と一貫して呼んでいる。
本作においてヒカリとアリスは虚実の分類を示すマーカーである以上に、誰がその人を呼ぶかという、人と人の関係性として機能するのだ。そしてなかでも上演を通じて特に強調されるのは、騎士/ヒカリと、バニー/アリスの関係性である。最初の台詞がそうであったように、この作品は、騎士とヒカリのあいだの愛だけではなく、バニーとアリスの愛をも描いている。「ヒカリス」とはその両者の愛がひとりの人物(の顔)において強引に重ねられた状態にこそ由来する。
本作は現時点で2度上演されている。私は2020年の初演と今回をともに見て、同じ団体による上演ながら、その印象の違いに驚かされた。初演ではバニーの存在感が極めて前景化していたのだが、今回は「ヒカリス」の顔が舞台全体を束ねている。初演時の記録映像を見返すとその違いは確かにはっきりとしている、冒頭からバニーが舞台の中心に立ってヒカリに手首あたりを握られている。バニーが観客席に向かい、「アリス」、「アリス」と指さしながら言う。その腕を横からヒカリが奪い、掲げながら「イヌー」と最初の台詞を言い始める。隅にいた騎士が飛ぶ、床に這いつくばり匍匐前進し、舞台前面を回り込み、ヒカリのそばまでやってくると立ち上がってヒカリに向いて台詞を言う。騎士とヒカリの二人の会話。しばらくするとミニーがそばに寄ってきて一言いい、また離れていく。二人の会話が続く。そのあいだ、ずっとバニーはヒカリに手首あたりを握られたまま、そばにいる。
その後も初演は、ミニーが主に舞台奥に座り、騎士とヒカリが主に中央付近でやり取りする、そこにバニーが執拗につきまとい、ときに舞台全体を蹂躙するように不可解に動き回るというやり方で上演される。私はこのバニーの演技に圧倒され、と同時に〈騎士とヒカリの関係に呪いめく不気味な存在としてのバニーが侵入してくる〉という理解を与えられた。
一方、今回の上演では、バニーは不気味な存在というより滑稽でさびしげで愛すべき存在であり、騎士とヒカリの体をときに支えながら、まっとうにヒカリをアリスとして愛するものだと感じられた。バニーは開演前から所在なげに、舞台全体を蹂躙するというより単にのんびりしているという感じでひとり歩き回る。他の出演者らが舞台床の上昇とともにようやく現れると、にこやかにそこにまざって握手をしあう。ともに字幕の映る「画面」を見上げたあと、ひとり離れて様々な声音で観客席に向かって、誰かを探すように「アリス」と繰り返し言う。振り向いてヒカリの方を見て「アリス!」と言う。それに驚くようにヒカリが反応するところから上演は始まる。バニーは「かおしゅうごう」のなかからアリスの顔を見つけ、ヒカリは「アリス!」という声を自身に対する呼びかけとして聞くことで自らの時間を始めるのだ。
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初演で物語を支える骨格として舞台上に立ち、それゆえバニーに蹂躙されてもいた騎士とヒカリのカップリングは、今回の上演では3場になるまで明確には組み上がらない。冒頭から騎士とヒカリは二人きりになることがなく、バニーやミニーとともにいる。舞台の奥行きは初演と比べてかなり狭く、立ち位置に応じて別のレイヤーに存在しているようには見えず、最初から4人が同じ場所でやり取りをしているように感じられる。しかもヒカリは騎士とふたりきりで話しているはずの台詞を、バニーに向けて話す(「あなたのお肉、ふれておかなきゃ」と言うときも騎士ではなくバニーに触れる)。騎士はヒカリに向けて声を発するけれど、ずいぶん遠くからだし、顔を向けてももらっていないし、ほとんど一方的な独り言みたいだ。ミニーは舞台上のほかの3人の関係性のバランスを自らの体で引き受けるかのように踊っている。バニーはヒカリからのアプローチに答え、ヒカリを持ち上げ、合図があればともに倒れてあげる。バニーとヒカリのあいだに言葉のやり取りはない。ただ、ヒカリと愛し合っているように見えるのは騎士ではなくバニーだ。ヒカリは騎士とやり取りしながら、身振りと顔の向く先によってアリスとしてバニーからの愛を受け止めている。
いったい誰が誰に向けて話し、誰が誰を見つめ、愛しているのかわからない。そもそもどこからどこまでがバニーとミニーの属する「画面」の手前側で、騎士とヒカリの属する「画面」の向こう側なのかわからない。つまり見つめている顔と見つめられている顔の違いが(バニーとミニーの「画面」越境以前からすでにもう)わからない。この混雑が今回の上演の特に冒頭付近をひどく負荷の強いものにしているわけだが、その負荷が開こうとしている先に、あのドヤ顔はあるだろう。
人が声を発する。その次に別の人が声を発する。ふたりは会話をしているのか、それとも別のひとに向けて話しているのか。その声は誰に向けたものなのか、その顔は誰を引き受けたものなのか? 声は舞台上を錯綜し、それゆえにどの顔も〈声の向けられた先〉として振る舞うことが(やろうと思えば)できる。顔はあらゆる内面をフィクショナルに立ち上げ周囲の声を取り込む沼だ。ばかでかく細長い「画面」で切り取られたQとKの顔は作品後半の舞台空間を覆い、あらゆる台詞に応じているようにすら見えるだろう。そこに拮抗するのはひとり過剰な身体的負荷のもと舞台上を縦横無尽に動き回る初演のバニーではない。騎士のように優しく嬉しそうにヒカリに「アリス!」と呼びかけるバニー、それに会話ではなく身振りと顔の向きで応じ、そのまま担がれ遠くまで空間を、客席の「かおしゅうごう」を見渡せるようになった「ヒカリス」だ。
肩車されたその人がわちゃわちゃした手足で台詞を言いながら、もしくは(台詞の意味内容が指すだろう先以外も含めた)誰かをぎょろっと覗き込みながら、あいだに見せるあのドヤ顔。それは、虚実の境界を担いそれを往来させるはずの「画面」が適度な距離のへだたりとしてすら舞台上に存在しない代わりに、虚実の境界面として、あるいは方方から見つめられてはいくつもの「現実」の愛を投じられる先として機能する──そんな多重の機能を背負っていられる──小さなでこぼこした面だ。それはまた、役者本人の顔であるとともにヒカリ+アリス=「ヒカリス」という(ここには具体として存在しないはずの)役柄の顔であり、騎士との「十年と二ヶ月と三日の愛」を思い出したかもしれないし忘れたままかもしれない〈どうどうとした迷いの顔〉でもある。
私らはそのドヤ顔に、やはり私らの「現実」を投げ込み、愛す。そうすることで私らが経験してこなかった、「十年と二ヶ月と三日の愛」を忘れたのかもしれないし思い出せるのかもしれない「もしも」の生々しい厚みを知る。知る? そんなもの、本当にあるのかどうかなんてわからないのに。そもそもこれは演劇であり、虚構なのに。演じているだけなのに。でも「もしも、それが現実で、ほんとうのことだとしたら?」、という仮定の質感を、ただの〈虚実の錯綜〉などといった軽薄な理解でもってではなく、私らはそこにある顔において「引き受ける」。そしてそこで立ち現れている二重の現実を、どちらかでなく「両方とも抱きしめて」、その姿勢のまま、どこかに向けて「話しつづける」声たちを私への/からの声として聞く。いくぶん離れた客席の、この私のひとつの顔で。
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賑やかにわちゃわちゃとした舞台が終わるとき、すこし下へ沈んだ舞台中央の床に立つ騎士とバニーとミニーに見上げられながら、ひとり舞台の最前に立って、騎士への最後の言葉をやはり騎士にではなく客席の「かおしゅうごう」へ向けて「あなた」と話す「ヒカリス」。「もしも、ほんとうにあなたがわたしを愛していて、わたしがあなたを愛していたのなら、もしも、そんなあなたが死んで、わたしだけが生き残ったのなら……」。あつまる顔。言い終われば振り返り、3人と同じ面へいったん降りながら、再びのぼり、いつも座っていた舞台隅の椅子に座る。眠る顔。そこに宿るのは、騎士にとってどの現実のレイヤーにも還元できない「いちばんのしあわせ」である「ヒカリそのもの」の厚みであり、多重性であり、「十年と二ヶ月と三日の愛」という現実としては(それをまさに只中で経験する以外に)誰も表現し得ないだろう極めてフィクショナルな、それでも現実らしい「おもひで」の時間だ。その取り返しのつかない生の長さを、ここにではなくそこにある愛を、たった1時間40分ほどの上演を経て、たったひとつの顔があつめている。舞台上でありながら下方へゆっくり落下し消えていく騎士の投げる帽子が、上演のたび違う場所に落ちて、でも「ヒカリス」のそばで、そのつど違う仕方で「もしも」として祝福する。私の顔がまだ見ている。
レビュー
佐々木敦:アリス、光の中の
artscape|山川陸:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『光の中のアリス』
後藤護:アリスは土星人サン・ラーに出会いそうで出会わない──『光の中のアリス』評
白尾芽:可能性の物語
徳永京子:これはスペノ版『百億の昼と千億の夜』
山本浩貴(いぬのせなか座):顔をあつめる
ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」
その3「トーンとグルーヴ/上演に向けて」
光の中のアリス|レビュー|徳永京子:これはスペノ版『百億の昼と千億の夜』
徳永京子 Kyoko Tokunaga |
演劇ジャーナリスト。東京芸術劇場企画運営委員。せんがわ劇場演劇アドバイザー。読売演劇大賞選考委員。緊急事態舞台芸術ネットワーク理事。朝日新聞に劇評執筆。演劇専門誌act guideに『俳優の中』、季刊誌エスに『演劇3rd EYE』連載中。ローソンチケットウェブメディア『演劇最強論-ing』企画・監修・執筆。著書に『「演劇の街」をつくった男─本多一夫と下北沢』、『我らに光を─蜷川幸雄と高齢者俳優41人の挑戦』、『演劇最強論』(藤原ちから氏と共著)。 |
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『光の中のアリス』は、神様だか宇宙人だか、不思議な存在の実験対象に選ばれてしまったひと組の恋人の受難の物語だ。騎士(ナイト)という死んだ青年(古賀友樹)が、ミニー(伊東沙保)とバニー(東出昌大)という上から目線の謎のふたり組に、恋人ヒカリ(荒木知佳)の記憶から一緒に過ごした10年間の思い出を根こそぎ消失されたあとで彼女のもとに戻ることを命じられ、自分と初めて会うヒカリに拒否されながら愛を切々と訴える。なぜこのふたりが選ばれたのかは明かされない。ナイトの死因も語られない。ただ、実験の目的がヒカリを現代のアリスとして覚醒させることらしいのはわかる。けれども、現代とは? アリスとは?
空いているんじゃありません、空けているんです──。そんな主張を団体名に掲げるスペースノットブランク(以下、スペノ)は、2012年の設立以来、活動のペースとしては、むしろ隙間を埋めるのが使命であるかのように活発に公演を打ってきた。しかもそのどれもが(筆者は全公演を観ているわけではないが)、演技とダンス、意味とエモーショナルの境界線を全力で撹拌して溶かすようなハイカロリーな作品だ。前例が見つからない彼らのパフォーマンスは、緻密でありながら、コンセプチュアルな団体名を裏切るような野生味と明るさが特徴でもある。そしていつも観客の中に物語の塊を残して終わる。その塊をほぐして現れるのは、人によって異なるストーリーや風景で、その陽性の抽象性に惹かれて次の公演にも足を運ぶことになる。それが多くの人に伝わっていることは、全国さまざまなコンペティションでの結果が証明している(この公演も、世田谷パブリックシアターの若手支援事業であるフィーチャード・シアターに選出されてのものだ)。
そんなスペノが信頼を置く劇作家のひとりが、長いスパンの歴史を背景にした根源的な生への問いに、俗っぽい駄洒落を散りばめて観客を煙に巻く松原俊太郎で、『光の中のアリス』は2作目の協働作品だが、この戯曲に、さらなる構えの大きさとロマンチシズムへの信頼とを感じ、これまで抱いてきた松原戯曲との印象の違いに驚いた。
さらなる構えとは、ナイトとヒカリの外側に、彼らより高次元な存在らしいミニーとバニーを置き、その外側にキングとクイーンというさらに謎、さらに高次元の存在を置いた点にある。光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』のラストシーンのように、より良い生と安らかな死を求めて戦争さえ厭わず苦難の道を行く人間の長い長い営みは、大きな存在の手による実験が起こした科学反応に過ぎないのかもしれず、その大きな存在もまた、もっと高い次元にいる存在の気まぐれの実験から生まれた命かもしれない。そうした果てのない連続性がこの戯曲には含まれている。
そうやって時間的にも空間的にも拡大していったあと、ひとりの人間の思い出が別の人間に及ぼすという小さな話に戻り、大と小を行き来する運動を繰り返していくと、フォーカスは現代に移る。軽い言葉によって歴史が片づけられ、死が記号化、無記名化され、死者と生者が分断しているこの時代へとだ。ミニーとバニーはその修正のためにどこかから派遣されてきたらしい。彼らに消された恋人たちの10年分の思い出は、歴史と呼ぶには短か過ぎるが、その間に起きた災害や事件や事故は間違いなくあり、多くの場合、死が紐づけられている。それを語る人がいなくなること、思い出す手立てがなくなること、その殺伐とした行く末への警告が、極端な方法で繊細に描かれているのがこの作品だった。
今回の上演は、’20年の初演とキャスト一部変更した再演で、筆者は初演未見だが、印象は相当違うだろうと予想する。というのも’20年版はロームシアター京都内のノースホールが会場で、シンプルなブラックボックスであるノースホールに比べ、シアタートラムは面積自体も大きいが、天井が高く、舞台奥の両脇にドアがついており、床が下がるセリの機能も備えた、余白のある空間だからだ。
事実、トラムのつくりを有機的に使った美術(カミイケタクヤ)が、作品世界の構造を巧みに観客に伝える役割を担っていた。ミニーとバニー、ナイトとヒカリが動き回るアクティングエリアの奥に、一段高くなったDJブースのようなセットがあり、そこにはキングが常駐して、オペレーターよろしく現場の熱とは距離を置き、4人の様子を見ながら機材をいじっている。その奥に組まれたもっと高い台にはクイーンが立っているが、彼女はずっと後ろ向きで、下にいる者たちに顔さえ見せない。
開演前の舞台上には、黄色と黒のテープが赤いコーンに張り巡らされた四角いエリアがつくられ、工事現場の立ち入り禁止の表示にも見えるそれは、劇場という空間の性格を考えた時には結界という意味も持ち、囲われたのが死を扱う聖なる場所だと示唆される。一方で、舞台奥のドアはどちらも上演中ずっと開いていて、この作品がここに集まった観客のものだけではなく外にも意識が向けられているとわかる。付け加えると、劇世界が登場人物たちだけで閉じていないことは、オープニングからほどなく、バニー役の東出がアリスを探し始める時、客席に向いて何人かの観客とはっきり目を合わせて「アリス?」と聞くことからも感じられた。
さて、冒頭にこの話は受難劇だと書いたが、ナイトとヒカリの受難ぶりは、スペノならではの俳優の身体への運動系の負荷で、せりふよりも雄弁に描かれる。「他者たちとの交わりの中で発生する真空ポケット」とされる思い出を、ヒカリの中に甦らせたいナイトは、真空の強靭な殻を破るべく、死者でありながら、這い、跳び、全身を使い動き回る。その対象となるヒカリもまた、突然放り込まれた突拍子もない状況(『不思議の国のアリス』が落ちる穴と同様のおとぎ話的世界)の中で七転八倒する。この点に関しては、あれだけ激しく動きながらきちんとせりふを聞かせた荒木、古賀、そして東出、伊東のスキルの高さが絶賛に値すると書き残しておきたい。ミニーやバニーも無関係ではいられないビーカーの中の化学反応は、立場の上下や生と死の距離を反映させた動きとなって舞台上にエネルギーを積み上げ、やがて、ホワイトアウトのように静かなクライマックスを迎える。
ラストシーンでヒカリが引き受けるのは、生き残った人間が死者に対してできる精一杯の誠意だ。と同時に、それを引き受けた時、ヒカリはアリスになった。あるときは歪み、あるときは自分を追い越す“不思議”な時間を引き受け、“鏡”に映る己の姿から目を背けない。それが現代のアリスの条件なのではないか。
ただ、ひとつだけ気になることがある。ヒカリを本当に、死者の思いを継いで生きていく生者と考えていいのだろうか。なぜなら彼女はずっと裸足だった。自宅で寛いでいたから、という設定なのかもしれないが、裸足は死者のシンボルである。もしもヒカリが最初から死んでいたのだとしたら、この物語から読み取れる救いは、かなり小さなものになる。戯曲にはヒカリの足もとについての指定はない。演出の意図は何か、答えを知るのが怖くて、まだ小野と中澤に確認できずにいる。
レビュー
佐々木敦:アリス、光の中の
artscape|山川陸:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『光の中のアリス』
後藤護:アリスは土星人サン・ラーに出会いそうで出会わない──『光の中のアリス』評
白尾芽:可能性の物語
徳永京子:これはスペノ版『百億の昼と千億の夜』
山本浩貴(いぬのせなか座):顔をあつめる
ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」
その3「トーンとグルーヴ/上演に向けて」
光の中のアリス|レビュー|白尾芽:可能性の物語
白尾芽 May Shirao |
東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学コース(伊藤亜紗研究室)修了。修士論文を元にした論文に「ポストモダンダンスにおける観客性と「身体的共感」──イヴォンヌ・レイナーの作品を中心に」『Commons Vol.3』(未来の人類研究センター、2024年)がある。ウェブ版「美術手帖」等での編集・執筆を経て、現在出版社勤務。 |
Web |
──わたしはずうっと踊りたかっただけ、ひとりでもふたりでも何人いようが!(ヒカリ、あるいはミニー)
ヒカリは〈どこにでもいるふつうの女の子〉(*1)。〈このワンルームをいい部屋にするために〉、がんばって働いてきた。休みの日は〈ずっと行きたいなあって思ってたパンケーキ屋さんに行っ〉て、〈んんーヤミーってほどでもな〉いパンケーキを食べたりもする。ヒカリは奔放な女の子。奔放であるとは、ひとつに、ある場所にとどまらないことだと言えるかもしれない。ほんとうなら、自分が安心できる場所にずっといられるのが一番いいはずなのだ。でもヒカリにとって世界は変な場所で、ちょっと落ち着かない。だからヒカリは、いつも動き回っている。
ヒカリと一緒に暮らしてきたナイトは、ある日、半分死ぬ。ヒカリは深い眠りの中で、ナイトとの〈おもひで〉を根こそぎ引っこ抜かれてしまう。ナイトは〈おもひでは最低ふたり以上で支え持つものだ〉と言ってヒカリとの実質的な別れを嘆きながら、眠るヒカリを抱き上げては落とし、を繰り返す。魚のように動きつづけていたヒカリに、やっと重力がはたらく。寝ている人は重い。〈まるでマシマロみたい〉に軽くなったナイトが、重いヒカリの体を抱いたり転がしたりする。
目覚めたヒカリはナイトのことを知らない。そんなヒカリはナイトにとって、〈だいじなことをたくさん忘れて今日ムーに侵され〉、〈資本に犯され〉た存在である。しかしヒカリにしてみれば、自分の部屋に不法侵入してきたナイトは〈変態、暴徒、痴漢〉、〈ナンパ師〉にしか見えない。〈プレイプレイプレイプレイプレイプレイプレイプレイプ?〉(*2)ヒカリは長い眠りから覚めて、知らない男を前に、何かを──自分はつねにこの地面に引っ張られ、何かに侵入され、邪魔される、穴だらけの存在であるということを──思い出しているようにも見える。そしてヒカリは、うんざりするほどナイトとお話ししたあと、〈会話の流れをぶったぎってしあさっての方向にねじ曲げる〉。〈あっ、雪! 雪が降ってる!〉この奔放さとはきっと、ヒカリが知らず知らずのうちに身につけた生存戦略であり、世界に抵抗するためのひとつの方法なのだ。
そんなヒカリは、ミニーとバニーによって見出される。二次元世界に出自を持つかれらには実体がなく、〈からっぽのすっかすかの空洞〉なのだが、だからこそ現実にすっと入り込んで、〈あったことはなかったことにし、なかったことはあったことにする〉こともできる。かれらにとってヒカリの奔放さは、現実とそうでない場所を行き来するための絶好の道具だ。ただそのためにはミニーやバニーと同様、キャラクターという乗り物が必要になる──そこで、ヒカリの中に、アリスが見出される。最初は渋っていたヒカリも、ミニーとバニーのしつこい説得を受けて、だんだんやる気になってくる。床を叩き、足を踏み鳴らすヒカリは、この世の重力を、まとわりつくスカートを、疲れを、楽しみながら、踊る。こうしてヒカリ=アリスは、この世界の〈いのちの、愛の、やさしさの、もう半分〉を乗せて、遠く現実の折り返し地点まで、運ぶことになる。
折り返し地点は光の中にある。〈どぉーーーしてこんなに明るいのぉー?!〉世界は反転する。ヒカリを包んでいた〈地上を隈なく照らす光〉は折り返され、自分を見つめる無数の〈おかお〉が、ぼうっと浮かんでくる。少し時計を巻き戻してみれば、〈かお〉の予感は冒頭ですでに与えられていた。ヒカリがパンケーキを食べるあいだに思い出していたのは、〈あなたが大事に抱えてきたケーキの箱をわたしに手渡す寸前に落っことしたときのかお、かお、かお、かおかおかおかお…〉。このときヒカリの頭に浮かんでいたのはきっと、ナイトのちょっとうざいリアクションがコマ送りになったようなもの、つまりふたりの〈おもひで〉の断片だっただろう。しかしいまヒカリの目の前にあらわれたのは、もっとぼんやりした、でも粒粒とした〈かおしゅうごう〉だ。ヒカリは、ナイトを知らないように、かお一つひとつのこともまた知らない。ヒカリはそれらを、集合写真だと思う。〈まさかみんな、死んじゃったの?〉ナイトというひとりの人間の不在は折り返され、集められておとなしく座っている多数の人間の、名前のないかおたちの集合が、死というイメージとなって、ヒカリを見つめる。
考えてみれば、最初からどこかおかしかった。そもそもみんな死んでいるのだ。お話は(半分)死にそうなナイトとヒカリの会話から始まるが、〈いまのうちにあなたのお肉、ふれておかなきゃ〉と言うヒカリが触っているのはバニーの体である。その後、ナイトがぐっと自分の胸元からナイフを引き抜くような動きをすると、今度はミニーが崩れ落ち、人形みたいに腕がブラブラになってしまう。まるでヒカリとナイト、バニーとミニー、そしておそらくキングとクイーンはそれぞれ鏡合わせのように、ロールシャッハ・テストのように存在しているようだ。ときに組み合わせは入れ替わり、互いを好きであると同時に嫌い、怖がると同時に信頼する。〈私だって私ですけど〉。あなたの中にわたしがあり、わたしの中にあなたがある。ひとりの人間のよく知った顔の中に〈かお〉という一般があり、ひとりの人間の死の中に死という一般がある。
かれらの旅は、真ん中でふたつに折った紙のような現実をめぐるものだった(ひとつの辺を出発して、折り返し地点を通過し、元いた辺に戻ってくる)。出発地点と到着地点は重なっているが、紙をもう一度開けば、ふたつの点は遠く離れてしまう。紙を開くまでは、ひとつが、つねにふたつである可能性を残しておける(*3)。でも、わたしたちは多くの場合、ひとつしか選べない。〈提示された選択肢がいいって思ったこと一度もないんだよね〉。〈ハッピーエンド〉を求めるキングやとにかく誰かの首をちょんぎりたいクイーン(*4)は、白黒はっきりさせることをよしとするこの世の力の象徴であり、〈自分の物語から出られない〉。キングとクイーンによる審判の最後、ヒカリはまたしても自分の体の疲れを確かめるように踊る。わたしたちには無条件に、理不尽に、重力がのしかかる。〈筋は筋や〉。それをよけたり、ねじ曲げたりすることはやっぱりできない。それでも、ひとつのものの中に、ありえたふたつを探すことはできるかもしれない……だから、〈クイーンさん、キングさん、ちょっとおやすみしない?〉
奔放であること、ひとつの中にふたつ(あるいはそれ以上)を見ることが、よいことなのか、救いなのか、身を守る術になりうるのかはわからない。ヒカリの罪は〈自分を正当化し、そのほかたくさんのひとの悲しみを、お前の立っている地面を支えている世界の苦しみを忘れ、ごみ箱に放置した〉ことだとキングは言った。きっと、ひとりでこの世界のすべての悲しみを思い出すことは、できない。でも、ひとりの悲しみの中に〈そのほかたくさんのひとの悲しみ〉があるとしたら? ヒカリは最初で最後の選択をし、あらすじが尽きた後もたくさんのおしゃべりによって引き伸ばされたお話をいま、終わらせ、そして同時に始まらせようとしている。
*1──以下、〈〉内は戯曲からの引用。一部、舞台上での発話に近づけて表記を変更した部分がある。
*2──ナイトはこの世の暴力に晒されたヒカリを心配しているが、ヒカリにとって目の前のナイトはその暴力を代表する存在だ。しかしこの行き違いもしくは反転によって、〈だって、なんか、話ができちゃう〉こともまた確かである。
*3──これは登場人物たちの発話においても実践されている(イヌー、おもひで/おもにで、あーす、などの単語に特徴的)。ある言葉は、つねにほかの意味へと転ぶ(あるいは転ばずに伸びきったままでいる)可能性を残したまま発せられる。
*4──クイーンは、キングを殺したバニーに〈よくやった〉と言う。ヒカリに日々〈浴びせられることばは「屈辱」的〉なものばかりであり、ミッキーが無条件にヒーローであろうとするせいで〈ミニーの日常災難つづき〉……男たちがピエロでパンダであるいっぽう、女たちは物語を壊したがっているようにも見える。
レビュー
佐々木敦:アリス、光の中の
artscape|山川陸:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『光の中のアリス』
後藤護:アリスは土星人サン・ラーに出会いそうで出会わない──『光の中のアリス』評
白尾芽:可能性の物語
徳永京子:これはスペノ版『百億の昼と千億の夜』
山本浩貴(いぬのせなか座):顔をあつめる
ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」
その3「トーンとグルーヴ/上演に向けて」
光の中のアリス|レビュー|後藤護:アリスは土星人サン・ラーに出会いそうで出会わない──『光の中のアリス』評
後藤護 Goth-O Mamoru |
暗黒綺想家。『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社)で第1回音楽本大賞「個人賞」を受賞。その他の著書に『悪魔のいる漫画史』(blueprint)、『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン)。『博覧狂気の怪物誌』(晶文社)、『日本戦後黒眼鏡サブカルチャー史』(国書刊行会)を現在準備中。 |
X / note / Web連載:綺想とエロスの漫画史 |
小野彩加・中澤陽によるコレクティヴ「スペースノットブランク」の名前を見て、手強い相手だなと直観した。「スペース」や「ブランク」という「何もない空間 empty space」をやや響かせる語を選択するだけでもけっこう厄介なのに、そこにnot という意味反転のアクロバティックな一語が入っているのだから。notで意味をめまぐるしくturn!turn!turn!(反転!反転!反転! byバーズ)させる土星人サン・ラーのような重力と反重力の使い手か、と思っていたら松原俊太郎作の『光の中のアリス』には「虚無」や「真空」や「重力」といった語彙がわんさか出てくる。登場人物たちは最初から死んでいる、といって始まる。さあ曲者だ。
ズブの演劇素人であるぼくに、『光の中のアリス』劇評の依頼が、佐々木敦氏を経由して舞い込んできたのは一体なぜか。光テーマに対して「暗黒がすなわちわれわれのパースペクティヴなのだ」(澁澤龍彥)と言わんばかりに「暗黒綺想家」を名のるぼくに、〈光〉と〈闇〉の凄絶かつ血みどろのゴシック明暗対比を演じてみせよ、というサジェストか。おそらくそうではない。作者・松原俊太郎氏が「光の中のアリス」を書く上でマーティン・ガードナー『詳注アリス』(亜紀書房)を参考にお書きになったとのことで、何を隠そうこれ、わが恩師・高山宏の翻訳というのもあり、そこから白羽の矢が立ったと幻覚する。
というわけで11/9(土)に観劇した。ヒカリ(荒木知佳)がplay、play、play……と連呼してたらいつのまにかrape、rape、rape……にひっくり返るなど、ブラックなものふくめ言語遊戯はやはり大量だったが、そこにウィアードな身ぶり手ぶりが(最後に述べるが足ぶりも!)くっつくとこんなにもワクワクするものかと感じ入った。ナイト(古賀友樹)が関根勤のカマキリ拳法のような構えを取り、さらに跳躍と身体のねじりをくわえて「はらわたが雑巾絞りされてて、肺が引き金で引かれて、背中をナメクジが這って、脳みそがミキサーで撹拌されてる」と叫ぶゴアな痛覚表現のパフォーマンス。あるいは身体をバッチバッチ平手打ちしながら「おばかさーん」というヒカリに対して、謎にピーーンと背倒立して「目が覚めちゃうだろー」とナイトが叫ぶスラップスティックなパフォーマンスには、理解を絶した「さかさまの世界」のワンダーがあった。パッション屋良と江頭2:50の漫才のようだった(いや冗談ではなく、真ん中にマイクスタンドを立てたお笑いコンビのような漫才形式が時折採用されるのだ)
戯曲の(もともとヘンテコな)言葉もさらに奇妙に引き延ばされたり、捻じ曲げられたり変形されたりしていて音響的実験の様相を呈する。スクリーンにはタテにヨコにと次々と字幕テクストが表示され、そこにノイズ混じりでドリーミーなアンビエントミュージックや、ナレーションや役者のセリフも重なるものだから、ゴダール『映画史』のように焦点が定まらず撹乱される。観客は一つのパースペクティブ(遠近法)に安住することが許されず、二重三重に分裂していくアナモルフォーズ(畸形遠近法)に眩暈を感じるだろう。視覚的にも聴覚的にも、認識論的にも。
「グラシアンが機知(インヘニオ)と呼んだものはわたしには不快です。なにしろそれは言葉遊びで、その言葉遊びは単に言葉だけのもの、つまり慣習の中だけのものでしたから」と言ったのは机上の空論城に住まうインドア怪獣ボルヘスであったが、表層だけが上滑りしていく言語遊戯の悪夢を描きつつも、『光の中のアリス』はそこに「重力」なり「身体」なりをくわえてレジストしている印象を受けた──きわめて面白真面目(セリオ・ルーデレ)なやりかたで。葛藤してるようで遊んでる、遊んでるようで葛藤してる、そのあいだのスペースを漂いながらふと訪れるウィズダムにぼくなどは感服した。
「あったことをなかったことにし、なかったことをあったことにするの」とはバニー(東出昌大)のパワーワードだが、この劇は歴史修正主義に対するクエスチョンマークがちらちら見える。「比喩が重なりすぎてよく分からない」(ヒカリ)というセリフもあったが、歴史修正主義ならぬ歴史修〈辞〉主義もクエスチョンマークなのか。すると、歴史は「ファクト」の客観的記述などではなく、歴史家それぞれの「修辞」によって編まれた「フィクション」にすぎないと喝破し、一部からアウシュヴィッツをなかったことにする歴史修正主義を看過する危険思想と叩かれたヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』に対して、この劇はやや懐疑的なスタンスをとることになる。
この劇は、フィクションに重心が偏り過ぎてやや楽観的なホワイト史観ではなく、現実と虚構のあいだのスペースに浮かぶ(いや、引き裂かれる)ことで得られる、一義性に凝固しない相対思考のウィズダムのほうに寄っている。それゆえ「結論」めいたものを出す愚は、ラストの「つづけ」というエンドレスな一言によって否定される(あるいは「つづけ」の一言ではじまる帷子耀.のノンセンス・ポリティカル詩「カリクロ」に緩やかに接続される)。「みんなが黙示録の実現を夢みているこんなご時世、なんだったら人間にできる最大の抵抗は、お話を終わらせないってことだろう」というナイトの記憶に残る名台詞は、加速主義への蛇足主義(?)によるカウンターと勝手に受け取った。
「人が激突する現実はミルフィーユ爆弾。何層にも折りたたまれているんだ」とか「ヒトが直面する現実は双子の特攻隊、二重にやってくるんだ」とか、現実を二重三重、十重二十重に折り重なった比喩の襞としてみる見方がバニーによって何度か表明される。ドゥルーズのバロック哲学のコンセプト「襞(ル・プリ)」のようである。ところで、公演時期がちょうどアメリカ大統領選に重なった。トランプが勝った。リベラルと融合した北米型ピューリタニズムの一枚岩思考(違反したあの者の首を切るのじゃ!)はますます強くなるだろう。そんなときにパラドックスや相対思考が救済力になると考えれば、バニーの言葉は叡智として響く。「みんなして自分らにだけ都合のいいお気に入りの現実に加担した2010年代の悲惨さを忘れずに、ね…」というバニーの言葉におもわずドキッとした。作り手の意図に反していたら恐縮だが、ぼくはバニーが賢者に思えた。
第2幕「おもひでしんくうかん」のタイトルは象徴的だ。本作はさながら松岡正剛スタイルで「鬱」と「うつろ」の言語遊戯にウツツを抜かしながら今日ムー(虚無)を呼び寄せ、真空たる「おもひで」というインナースペース(内宇宙)に突っ込んでいく。同じく言語遊戯派の黒人音楽家サン・ラーであるが、この土星人は対照的にアウタースペース(外宇宙)に向かった。「私が扱っているのはアウタースペースです。というのも、人はどういうわけかインナースペースの避難所(ヘイヴン)や楽園(ヘヴン)に向かって役割を演じることに囚われているのですが、私はそこにはいないからです」という、サン・ラーのハードドライなアウタースペース志向のSF思想よりかは、「光の中のアリス」は地上の人間心理にあえてふみとどまっている。「歴史」から「神話」への移行をサン・ラーは訴え、リアリティにまつわる葛藤を退けることでアフロ・フューチャリズムの始祖になった。在米黒人の思い出したくもない負の歴史をメタヒストリカルに「書き換えた」偉人だと。とはいえ、「おもひで」の重荷のリアリティから逃れると単なる外宇宙「フィクション」になってしまうと危惧したのか、この劇は重力で地上にひっぱられ、サン・ラーと袂を分かつかのようだ。
第5幕「かうんとふるねす」(ちなみにサン・ラーは「カウントゼロ」がフェチ語だった!)でふわっふわっな光の世界に飛び立つのだが、演劇は「結局、最終的には身体に戻ってくる」とは松原の発言だ(佐々木敦インタビューによる)。身体となると、やけに印象に残る細部があった。ヒカリだけ裸足だったことだ。小学二年生の無垢なまなこ(黒眼鏡かけてたが)でぼくはガン見してしまった。ワンルームのなかで展開されている設定だからリラックスして裸足なのだと簡単に片付けることもできるが、残りの役者がみな靴を履いているので嫌でも対照が際立つ。山口昌男の「足の文化人類学」をここで思い出した。頭や手に対して足がコミュニケーションにおいて重要な役割をあたえられず、いつも上半身の奴隷であったとし、むしろ四股を踏んで天と地をつなぐ力士のようにその足にこそ象徴人類学的に重大な意味があると「さかさまさかさ」(ピーター・ニューエル)な階級闘争をした名文だ。頭でっかちなノンセンスを転倒させるものとして、頭から一番離れた場所であるヒカリの足の生々しいリアリティが終始あった。ミニー(伊東沙保)がローラースケート(?)で舞台上をあっちゃこっちゃ光GENJI(古語)のように滑るときの、地上から遊離したふわっふわっ感覚は生足にはない。
伝説的なルイス・キャロル研究者エリザベス・シューエルが述べたように、結局のところふわっふわっのノンセンスは常に身体の重さと昏さ——彼女は「オルフェウス的暗黒」と呼んだ——の問題に回帰する。というか回帰しなきゃヤバい。「生き始めるには、動かなければならない」とは開幕早々にスクリーンに流れた言葉だった。「世界喪失の技術」(ハイデガー)である無重力なノンセンス言語遊戯は、逆説的に重力のリアリティを欲するのだと改めて思った。
レビュー
佐々木敦:アリス、光の中の
artscape|山川陸:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『光の中のアリス』
後藤護:アリスは土星人サン・ラーに出会いそうで出会わない──『光の中のアリス』評
白尾芽:可能性の物語
徳永京子:これはスペノ版『百億の昼と千億の夜』
山本浩貴(いぬのせなか座):顔をあつめる
ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」
その3「トーンとグルーヴ/上演に向けて」
光の中のアリス|レビュー|佐々木敦:アリス、光の中の
佐々木敦 Atsushi Sasaki |
思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。芸術文化の複数の領域で執筆、教育、プロデュースなどを行なっている。著書多数。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』。近著として『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の喪失』『「教授」と呼ばれた男ー坂本龍一とその時代』などがある。 |
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スペースノットブランク『光の中のアリス』に私は「ルポルタージュ」という名目で参加し、飛び飛びではあるが三度にわたって稽古を見学してルポを書いてきた。そのようなことをしたのは初めてであり、いろいろな意味で刺激的な経験だった。今これを書いているのは2024年11月27日であり、すでに公演終了から二週間以上が経過している。ルポの続きであり上演レビューでもあるような文章を、これからしたためてみようと思う。
結果として私は初日と千穐楽の二度観劇した。結果として、というのは当初は初日しか観れない予定だったのだが、やはりどうしても楽日に行くべきだと思い、制作の花井さんに無理を言って席を確保してもらったのだった。ギリギリの連絡で申し訳なかったです。
11月1日初日。偶然にもこの日の午後、座・高円寺の劇場創造アカデミー13期生の成果発表会で、松原俊太郎作、スペノによって初演された『ダンスダンスレボリューションズ』の試演に行ったら松原君も来ていた。講師の宮崎玲奈(ムニ)による演出は彼女が最近参加しているオフィス・マウンテン的な台詞=身体を酷使するスタイルで、出演者たちはかなり大変そうだったが、スペノとは全く異なるアプローチで、なかなか興味深かった。私は上演後のアカデミー生たちのトークの途中で出てしまったので、客席にいた松原君が何か話したのかは知らない。なので期せずして松原俊太郎デイになったわけである。夜になって三軒茶屋シアタートラムに行くと、もぎりの横にはスペノの二人がいて、中に入ると松原君がいた。すでに舞台上には東出昌大がいて、観客の視線を集めていた。段取り通りである。こうして『光の中のアリス』は幕を開けた(これは比喩的表現で、もう開いてた、というか幕はなかったが)。
さすがに稽古から何度も観てくるとわかりみが違う、などと終演後に松原君とスペノには言ったものの、ではどのくらい本当にわかったのかというとむろん定かではなく自信もないのだが、一見すると難解に思われる松原戯曲も、エクスペリメンタルに見えるスペノの演出も、見方というか掴み方がわかってくると難解さはほどけ、実験はポップに転化する。ことに『光の中のアリス』は出演者6名が
ヒカリ=荒木知佳──ナイト=古賀友樹
ミニー=伊東沙保──バニー=東出昌大
クイーン=小野彩加──キング=中澤陽
と2×3のスッキリした組み合わせになっていて、ある意味わかりやすいのだが、がしかしこの3つの二人組は虚構としての位相が異なっている。誤読をおそれず私の言葉で無理やりまとめると、ヒカリーナイトは「現実」から「ファンタジー(妄想?)」に移動した。もう少し詳しく言うとヒカリがファンタジーに迷い込んだ/逃げ込んだ/取り込まれたのにナイトが追ってきた/ついてきた。バニーとミニーはファンタジーの側に属していて、ヒカリの世話(?)をあれこれ焼いて、現実に戻らせないように振る舞うことを使命にされている(が段々変化する)。キングとクイーンはファンタジーの国を統べる者たちであり、最初からずっと舞台上に存在しているが、口を出し始めるのは劇の後半になってからである。この属性と役割はそのまま、この演劇の主演と助演と演出の寓意になっている。この戯曲=舞台=物語の基本的な構造は、以上のようなものだと思う。
『光の中のアリス』が『光の国のアリス』ではないのは、松原俊太郎が「国」の一字を嫌ったからだと私は京都での初演のレビューに書いた。だが、ナショナリズムをカッコに括れば、王と女王が出てくる以上、これはやはり「不思議の国」での物語である。ルイス・キャロルが書いたのは、アリスという名の少女が「不思議の国」に行って戻ってくるという物語だ。アリスはウサギを追っていて穴に落ち、ファンタジーに侵入する。
『意味の論理学』でジル・ドゥルーズはこう言っている。「アリスには、複数の冒険ではなく、一つの冒険がある。すなわち、表面への上昇、偽の深淵の拒絶、すべてが境界を通り過ぎることの発見」。ドゥルーズのアリス論は、表面性とナンセンス(非意味)への讃歌である。ところで今した引用はこう続く。「それゆえに、キャロルは、当初予定したタイトル『アリスの地下の諸冒険』を放棄するのである」。地下ではなく表面、穴に落ちるのではない、そもそも穴など実はどこにもありはしない、アリスが経験するのはむしろ上昇なのだ、とドゥルーズは言っている。だがしかし、これに対して松原俊太郎は、スペノは、こう反論しているのではないか。確かにそうかもしれない。おそらく「哲学的」には正しいのだろう。だが、それでもやはり「地下」は存在する。それははるか昔から存在していたし、今やますます世界じゅうに、そこに、ここに、落とし穴の奥に無数に存在しているのだ。だからこそ、地下を、穴を、光へと変換する、いやそれは不可能だとしても、ほんとうは真っ暗な地下でしかない不思議の国に光を灯し、ほんとうは他のみんなと一緒に地下で死んでいるアリスを光で包み込み、アリスを光の中に、アリスの中に光を送り込み、そしてそれを逆さまに辿って、ヒカリという女の子を誕生させなくてはならない。
11月10日。千穐楽。初演の時はまだ硬さも感じた舞台上の身体と発話は、当然ながら格段にこなれていた。最初と最後しか観れていないので、上昇曲線をつぶさに感じることは出来なかったが、ラスト一回のこの時には、高め安定がしばらく続いてある意味で落ち着いた空気感が生じていたように思う。初回を観た際は終盤の盛り上がりに興奮を隠せなかったが、最後は私自身、これまでの記憶を呼び起こしつつ、淡い感慨に耽りながら舞台を見守る感じだった。余裕が出たからか、俳優たちの振る舞いもしなやかでたおやかで、野放図とは違う自由さが感じられ、それは千穐楽を自らじっくりと味わっているようでもあった。そうして『光の中のアリス』は終演を迎えた。最初に稽古を見学したのは9月9日だったので、丸二ヶ月、得難い体験だったと思う。私のヒカリスもこうして終わった。
キャロルのアリスは不思議の国に侵入する際、穴を長々と、延々と落下する。落下ではなく上昇なのだとドゥルーズは述べたが、それでも尚、私は、ヒカリの中のアリスは、穴に、地下に、落ちたのだと思う。そして繰り返すが、この地下、この穴を、なんとかしなくてはならないのだ。前にも書いたことだが、この劇には、おそらくその底に、きわめて現実的な、現実そのものである出来事が潜んでいる(それはたとえば「十年と二ヶ月と三日」という謎めいた時間の呈示に隠されているのかもしれない)。そしてそれは間違いなく、途方もなく悲劇的な、陰惨でさえあるかもしれぬ出来事である。だから彼女はファンタジーに逃げ込まずにはいられなかったのだし、ファンタジーの方は、そんな彼女を優しく迎え、可愛がり、利用し、食べてしまおうとする。なぜならファンタジーとは実のところ、現実そのもののことであるからだ。地下とは、この世界のことなのだ。穴に落ちたはずだったのに、着いたのは足を踏み外した地面/表面だったのである(この意味ではジル・ドゥルーズは正しかったのかもしれない)。
だからヒカリスは、松原俊太郎は、スペースノットブランクは、たぶんほんとうは、こう言っているのである。今ここに、光あれ、と。
ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」
その3「トーンとグルーヴ/上演に向けて」
ラブ・ダイアローグ・ナウ|レビュー|髙橋慧丞:また愛するために/ラブのフィギュール 20240818
髙橋慧丞 Keisuke Takahashi |
会社員。西暦2018年頃から観客として様々な劇場に足を運ぶようになる。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」基礎科・演習科第1期生。ことばの学校第1期生有志合同誌『tele-』vol.2・vol.3・vol.4・vol.5に寄稿。パフォーマーとして、吉祥寺ダンスLAB vol.6/小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』、バストリオ『新しい野良犬/ニューストリートドッグ』出演。 |
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西暦2024年8月18日日曜日。多くのサラリーマンにとってお盆休みの連休が終わるその日の夕方16時に私は三鷹駅に降り立っていた。暑さはいつまでも続いていて歩くだけで汗が出る。速乾機能があるはずのTシャツを着てきたのに、経年劣化なのか、全く乾かず汗染みが目立つ。気にしながらも向かっていたのはインディペンデント・スペースSCOOLだった。私個人としてはかなり馴染みのある場所で何も考えずに歩いても到着できる自信がある。私は今の私に蓄積している文化的知識のほとんどをそこで教わったような気がしたがそれは気のせいだ、SCOOLはただ開かれているスペースであるに過ぎなく、だが私はここ数年で何度もそこを訪れては多くの刺激を得てきた。三鷹駅から歩いて5分ほどに位置するビルの5階にあって、かつてそのビルは「おもちゃのふぢやビル」というかわいい名前だった(1階に「おもちゃのふぢや」というおもちゃ屋さんがあった)が私の記憶だと3年ほど前に廃業してオーナーが代わったということなのだろう、今は「三京ユニオンビル」というシュッとした名前になっている(1階はおしゃれなカフェになっている)。それで私がその日向かったのは『呼び水』というイベントを観るためだった。
『呼び水』の開催概要は下記の通りである。「8月のこの週末、SCOOL前の三鷹中央通りでは毎年恒例の阿波踊り大会が行われます。その開催時間帯に合わせて、5組出演のショーケースイベントを行います。阿波踊り大会の最中は、屋外からの音漏れも大きく、本来ならば公演等のイベントは避けるものですが、それを“呼び水”として、(このイベントを企画するに至った様に、)誰かの何かの新しいきっかけになるのか、試行したいと思います。ぜひご来場ください。」
なるほど。確かに向かうまでの道中では、見慣れているはずの道なりに出店の準備がされていたり、道路と歩道の間にバリゲードテープが貼られていたりした。それでその5組というのが、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、ジョンのサン、高嶋晋一、たくみちゃん、土屋光であり、この文章は小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『ラブ・ダイアローグ・ナウ』のために書かれ始めている。書かれ始めていることは確かだが、如何せん、そうした特殊なショーケースイベント内に置かれたひとつの上演であったことをまずは述べておかなければならないだろう。開演前、SCOOLの店主であり『呼び水』の出演者でもある土屋光から伝えられたのは、改めてのこのイベントの概要と、外で行われる予定の『第57回三鷹阿波おどり』は開演約30分後の17時頃より始まるということ、それから上演順が高嶋晋一、土屋光、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、たくみちゃん、ジョンのサン、となり各組の間に転換時間は設けるものの、そのうち前半3組はひとつながりのものとしてみてほしいということだった。ならば『ラブ・ダイアローグ・ナウ』に話を移す前に簡単にその流れに触れておく必要があるだろう。
SCOOL入口の正面の壁に向かってコの字型に客席が(全部で50席ほど?)設置されている。椅子に囲まれたその空間が『呼び水』の舞台となっているようだ。かなり狭い。イベントの始めとなる高嶋晋一のパフォーマンスは、開場時間中、舞台上で座り込む高嶋の状態を見せることからすでに始まっていた。というよりは、それは始まりをいかにして始めるのかということをあらゆる手段を使って表そうとするパフォーマンスだった。舞台上には天井から吊るされたジッパーが向かい合わせになっており、壁際に鉄の棒が立てかけられていたり、ホワイトボードが置かれていたりする。始まりの瞬間のことを高嶋は「開闢」と言い換え、さらにそれに近い状態として「開閉」があると宣言し、ジッパーを開いたり、両手に持った鉄の棒2本を突き合わせて左右に離したり、ホワイトボードに貼られたマスキングテープを勢いよく剥がしたりすることをいくつも重ねて行いながら「開闢」に繋がる「開閉」の感じを観客と分かち合おうとする。割り箸を連続で何本も割り続けるところは笑えたし、そうまで執拗にやられると段々と言わんとしていることがわかるような気にさせられる。「初めと終わりが同時になければ開闢じゃない」「すべてのところ、すべての時に開闢はある」と高嶋は言う。高嶋のパフォーマンスの途中で、『第57回三鷹阿波おどり』が予告通りに始まったようで、祭囃子の音は建物の中にいることが嘘かのような鮮明さで聞こえる。続く土屋光のパフォーマンスは、まさしく今、外で鳴り響いている阿波おどりの祭囃子を機材で取り込んで、舞台上に設置した別の機材を操作して様々に変調させながら出力し、演奏をするというものだった。私はあまりにも音楽に対する知識に乏しく、細かい技術についてあれこれと述べるのは難しいが、高嶋のパフォーマンスを受けて考えるなら、そこに生じていたのは確かに既に始まっているものに新たな始まりの形を与え半ば強制的にひとつの終わりに向かわせるような力だろう。阿波おどりのリズムは土屋の操作によって歪みをもたらされ、本来備えていないはずの音(土屋の操作による電子音)を差し挟まれながら、それ自体がひとつの、全く別の形態を与えられ、「演奏」として出力される。外で鳴り響いていたはずの祭囃子は会場内では土屋の奏でる音にかき消されてしまった。そしてそれは宣言と共に確かに終えられる。土屋の「演奏」後、スピーカーを通した大きな音を聴き続けていた私の耳は、高嶋のパフォーマンス中にその鮮明さに驚いたことを忘れてしまうほどに、建物の外から聞こえる阿波おどりの音が全く気にならなくなっていた。
さて、話はようやく小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『ラブ・ダイアローグ・ナウ』に至る。
『ラブ・ダイアローグ・ナウ』はいままで様々な環境下で上演が重ねられてきた(2017年:調布市せんがわ劇場、2018年:SCOOL・調布市せんがわ劇場、2020年:豊岡演劇祭・ストレンジシード静岡・鳥の演劇祭)。私はそのうちの2回、西暦2018年5月13日日曜日調布市せんがわ劇場、西暦2020年9月21日月曜日ストレンジシード静岡で上演を観たことがあり、私はこの作品の観劇を通して小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクを知ることになるし、もっといえばそれは私が演劇の観客を始めた大きなきっかけとなった。同じタイトルが冠されているがそれぞれの上演で使われているテキストは恐らくは全て異なっている。それらはその時々の出演者に伴って変化しているはずである。なぜなら、クリエーションに際して独自のテキスト生成システム「聞き取り」が使われているからである。「聞き取り」とは何か。西暦2023年11月23日から11月27日にかけて東京都目黒区駒場1丁目11−13にあった今はもう無いこまばアゴラ劇場で上演された『松井周と私たち』でも披露されたその独自のシステムについて、詳しくは既に公開されているレビューのいくつかをご一読いただくのがいいだろう。
参考①:松井周と私たち|レビュー|越智雄麿:「何」がそれを語らせているのか?
参考②:言葉とシェイクスピアの鳥|レビュー|佐々木敦:舞台芸術にとって「システム」とは何か?
ごく簡単に書けば、「聞き取り」とは、ある質問を投げかけられた出演者がその場で即興で答えを喋り、それを書き留めるものが目の前にいるという状況のことである。話が飛躍しても全くの嘘を語っても良いことが事前に共有されたその時間は質問者が終わりを宣言するまで続く。出演者が変われば自ずと内容も変わるはずであるし、もっといえばクリエーションを行う日の出演者のコンディションや時勢にも多分に影響を受けるシステムである(ちなみに筆者は『言葉とシェイクスピアの鳥』のクリエーションで実際に「聞き取り」を体験している)。以上のことから『ラブ・ダイアローグ・ナウ』のテキストに共通点があるのだとすれば、それは質問者の質問内容、ということになるが、私は過去の上演テキストを所持しておらず、あったとしても答えとなる台詞から逆算して導き出すのは恐らくかなり困難である。そうした方向でこの作品を考える時、どうしても事前に共有されている作品のステートメントに引き寄せられてしまいそうになる。今一度、作品が置かれた状況の方に重心を置いてみよう。
舞台上には、譜面台がふたつ並べられ、その脇にマイクスタンドがひとつ。小野彩加と中澤陽がマイクを通して簡単な自己紹介とこれから『ラブ・ダイアローグ・ナウ』という作品を上演することを述べて舞台上からいなくなる。ぞろぞろと6人の出演者=甲斐ひろな、加賀田玲、今野ゆうひ、杉田のぞみ、髙橋春香、中田ベル、が楽屋から出てくる。コの字型に並べられた客席に区切られた狭い舞台が直立した人たちで満たされる。始めから全員が舞台上に居続けることになるとは正直思っていなかったこともあって、そのぎっしりとした光景には異様な面白みがある。加賀田玲と杉田のぞみはヴァイオリンを抱えており、譜面台の前に立つ。弾くのかと思うが、弾かず、二人は目配せをしている。やがて加賀田玲がヴァイオリンを抱えたまま移動、全員の配置がやんわりと変わって横一列に並ぶ。スペースが足りず甲斐ひろなだけが杉田のぞみの後ろに隠れている。それぞれの服装は、記録映像が手元にあるわけではないので正確に記すことができないが、おそらく各個人の私服であり統一性はない。しばらく無言が続き、5人の視線がちらちらと加賀田玲に集中している。始まりを始めることを期待されているらしい加賀田玲はそれでもなかなか言葉を発さずに、気まずそうに舞台下手側に移動する。焦らされている、と感じる。小野彩加と中澤陽の宣言の後に始められているはずの舞台はもう始まっているはずなのに、何かの始まりのようなものを期待してしまっている感覚がある。やがて、この舞台のために用意された言葉の連なりは始まり、この舞台をひとつの終わりに導くまで、舞台上で常に誰かが喋っている状況が続く。少し長くなるが冒頭の箇所を引用する。
加賀田玲 人居ますか
髙橋春香 トイレかいいよ
加賀田玲 生まれて生まれる前はこうでなくてはいけないとかがその時はすごく嫌で病院で生まれただけで住んではないんですけどその時はすごいなんかぎらぎらしていたのでまあ今もしてるかもしんないすけど一度もサッカーをそれまでやったことがないってことだったんですけどしょっちゅうサッカーをやっていてここに居ないとそこに行って何かを見たいって思って部活とか音楽バンドとか軽音部みたいなをやってましたあの全然それに関して後悔とか劣等感は何ひとつなくてむしろすっきり清々しいところがバンドやっててバンドをやっててええやっています一番輝かしいこと唯一あるとすると先生が集合みたいに言って集まるんですけどすごいダッシュで集まったら前に当たっちゃっておでこが後頭部と当たってちょっと形が歪な感じになって先生とかと喧嘩みたいになって先生でやっていたのでなんかその感じでやっていますもっと深掘りしたいな髪が長かった最近髪を短くしておでこが音楽やってて久しぶり久しぶり忘れちゃったなあ久しぶり久しぶり髪の毛切ったラブ・ダイアローグ・ナウ人居ますか
髙橋春香 トイレか
杉田のぞみ うん
髙橋春香 いいよ
加賀田玲 止まって止まって
甲斐ひろな 久しぶり
加賀田玲 久しぶり
今野ゆうひ えーとえーとー
すれ違うような言葉たちだ。発言に応答するかのように思える発言があったとしても後には、またすぐに違う言葉が挟まれる。長いモノローグは、出演者それぞれに個別で用意されている。誰かが喋っている間、他の出演者はたまにそちらに顔を向けるが強い関心がある様子ではない。狭い舞台上をうろうろと歩き続けており、狭いのですぐに別の出演者と対峙して、互いに避け合うかまたは一方が立ち止まり全く避けるそぶりを見せずにもう片方が慎重に体を動かして、すれ違う動きをする。また、体の動きでいえば、髙橋春香がダンスのような動きをして、それを見ていた今野ゆうひが少し真似をして途中でやめるといった動作も記憶に残っている。そうした時間がしばらくの間続いて、杉田のぞみ、今野ゆうひ、甲斐ひろな、中田ベルが順に長いモノローグを終えると、冒頭で加賀田玲が喋り始めた舞台下手のあたりに全員が集合して内側を向いて円になり、短いセリフを加賀田玲、甲斐ひろな、中田ベルが次々に話すシーンとなる。やはりここでも発言は会話にはなりきらずいくつもの脱線を繰り返すが、最終的には「可愛い」と「あーーーーーー」が何度も復唱されて段々と声量も大きくなっていき、意味は全くわからないままだが現象としての高まりを見せる。このシーンでは出演者の顔が見えていないので、客席に座っている身としては発言者が誰であるか声からでしか判断ができず、しかし聞き分けられるほどに全員の声を記憶できているわけではないので、誰が言っているのかわからなかった。ただ分かるのは、舞台上に点在していた体がひとつの場所に円形になって集まっていることだけだ。やがて集団から抜け出した中田ベルが客席の方を見て「ラブ・ダイアローグ・ナウ」と言うと、ぞれぞれの出演者たちはまた舞台上に散らばって歩き対峙しすれ違う。
何かが始まって何かが終わっている。それが繰り返されている。その感覚がずっとある。意味がつながった気がしたと思えばすぐに話が違う方向に飛び、誰もそれを深堀してはくれない。舞台はその後、甲斐ひろな→杉田のぞみ→髙橋春香→加賀田玲→髙橋春香→加賀田玲の順で少し長めのモノローグが繰り返されて終わりとなる。
だからつまり『ラブ・ダイアローグ・ナウ』では何がおこなわれていたのだろうか。西暦2018年5月13日日曜日調布市せんがわ劇場で観たときにも(前述のとおり話されている内容に違いがあり、上演時間も違い、舞台空間も出演者も動き方ももちろん違うが)モノローグの連続という意味では同じ構成だった。西暦2020年9月21日月曜日ストレンジシード静岡にしたってそうだった。比較して検討するには、正確な記憶も記録も私にはない。引き続き、『呼び水』の中に配置されたこの上演だけを考えるとき、どこのタイミングで起きたことかは忘れたが、指摘しておきたいことが3つある。
① 加賀田玲と杉田のぞみは譜面台に置いた譜面をみながら冒頭にかかげていたヴァイオリンを演奏する。
② マイクスタンドに付けられていたマイクは途中髙橋春香と加賀田玲の発話の際に使用される。
③ 加賀田玲がどこかから白い紙を折って作られたハートマークを取り出し、心臓の鼓動を口で真似る。その後、また別のタイミングで今野ゆうひが心臓の鼓動を口で真似て、自らが被っていたキャップの中から少し小ぶりな同じく白い紙を折って作られたハートマークを取り出す。
これらに共通しているのは物体が物体として期待されている役割を果たすことだ。譜面台は譜面を置かれ、ヴァイオリンは弾かれ、マイクは拡声し、ハートマークは鼓動の音を立てる。全て容易に想像できる。例えば譜面台にご飯を並べて食事することもなければ、ハートマークが猫の鳴き声を放つこともない。極めてわかりやすい使われ方をしている。なぜこうも訳のわからないことばかりが起こるのにこれらは直球なのだろうか。いや、考え方が違うのかもしれない。本当は全て起こるべくして起こることしか起こっていない。ばらばらに散らばってぶつかりそうになりながらもすれ違い続ける体たちは遂に集合を果たしたように。予感は極めて周到に予感されるように構成されていて、その通りの形になる。終着点は極めて倫理的でまっとうなのだ。ただ構成がややこしいだけだ。全てがモノローグのまま終わることはなく、ダイアローグになることが予告されている。誰かのいる場で発話されたことは、それに対する反応がなくても、聞かれている。出演者たちのかつての今を背負った言葉たちは『ラブ・ダイアローグ・ナウ』の中に構成され、今それが発話される舞台という場所がある。それを聞き何かを思うこと、その中に何かを予感すること、無数に開かれるダイアローグの可能性。出会うべくして出会われる全てのものことの間に宿り得るもの。あるいはそれが愛?
この文章は小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『ラブ・ダイアローグ・ナウ』のために書かれ始めた。そしてもう時期終わるだろうことは私の横にあるこのページのスクロールバーが予告している。そう。終わるのだ。始まったのだから。終わり。必ず訪れるもの。そしてそこからまた始めるためにこそまた終わるのだと、昔ある人から教わった。そんなに昔ではない。でも今よりは昔だ。私はそこに形作られるものを信じよう。また何かを、誰かを、私をも含めた誰かが新たに受け止められるように願おう。それは一方通行ではない。それは始まりと終わりがひとときに出会って目を合わせる一瞬の無限とも思えるような時間に生起するもの。始まったその瞬間にやがて終わる未来が予告されている。未来が予告されるようなことなどないはずなのに。我々には今しかないはずなのに。でも永遠不変のものはないから。例えばそれは、それをうまく例えることはとても難しいが、例えばそれを西暦2024年8月18日日曜日、三鷹駅から徒歩5分ほどのところに位置するビルの5階、かつて「おもちゃのふぢやビル」と呼ばれていて今は「三京ユニオンビル」と呼ばれているそのビルの5階にあるインディペンデント・スペースSCOOLの中で、甲斐ひろな、今野ゆうひ、杉田のぞみ、髙橋春香、中田ベルと共にそこに立つ加賀田玲は、幾分か脱力した様子でこのように言っただろう。
加賀田玲 瞬間こうパンッとこっちの人ともう一人がもうぶつかってぶつかるとま当たり前ですけどすごい音が鳴ってもう中身が入れ替わるっていうのが当たり前なんですけどでもう一回来た方に戻っていくでも中は中身は違うっていうでその時にさっきのぶつかった時の音がまだ耳が耳がジーンとしてさっきの大きな音が鼓膜に響きが残ってる状態でまた元来た方向に別の方向に帰って出会ったこと出会った形跡は耳鳴りだけっていうそんなことがそういうことがあるといいなと思います瞬間こうパンッとこっちの人ともう一人がもうぶつかってぶつかるとま当たり前ですけどすごい音が鳴ってもう中身が入れ替わるっていうのが当たり前なんですけどでもう一回来た方に戻っていくでも中は中身は違うっていうでその時にさっきのぶつかった時の音がまだ耳が耳がジーンとしてさっきの大きな音が鼓膜に響きが残ってる状態でまた元来た方向に別の方向に帰って出会ったこと出会った形跡は耳鳴りだけっていうそんなことがそういうことがあるといいなと思います
光の中のアリス|ルポルタージュ|佐々木敦:その3「トーンとグルーヴ/上演に向けて」
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10月28日月曜日、前回の見学からまたもや三週間が経ってしまった。もう初日は五日後、本日は森下スタジオでの稽古最終日である。
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各場ごとの細かい調整を経て、すでに何度も通し稽古が行われており、この日も前日の稽古を踏まえた注意点が演出からいくつか伝えられたあと、すぐに最初から通しが始まった。
松原俊太郎の戯曲は暗喩と寓意を徹底的に駆使して書かれており、キャラクターの心理(のようなもの)を云々することは不可能に近いし、ナンセンスである。俳優はとにかく自らの身体をフルに使って、本質的には文字の集積でしかない、まったくもって架空の存在に息を吹き込むしかない。と同時に演劇というものは、舞台上に立つ者が誰某の役ということになっていれば観客には自動的にそう見えてしまうという便利な(困った)ものでもある。役者はこの困難と安易の狭間で何かをするわけだが、それにしても『光の中のアリス』の「人物」とは何なのか? しかし私の目に映ったのは、それぞれ個別にインタビューをさせてもらった現実存在としての荒木さん伊東さん古賀さん東出さんではなく、すでに戯曲→演劇という虚構のなかの人物になっていた。四人の俳優は発話と挙動と存在感によってリアルの世界に転写されたことばになっていた。ここまで来るために、俳優たちが何を行なってきたのか、演出家たちは何をしたのか、私はあらためてもっと稽古を逐一見届けてこなかったことを後悔した。
通し稽古はスタジオを本番の舞台に見立てて行われたが、当然ながらシアタートラムそのものというわけにはいかないので、本番では複数のモニターに映像や字幕が映示されることになっているがここでは小さなモニターが一台しかなく、セットも美術も無論ない。しかし前回とは違い、俳優四名、スペノの二人、演出補佐二名、制作、リハーサル・ディレクターに加えて、舞台監督の鈴木英生さん、音響の櫻内憧海さん、映像の加藤菜々子さん、手話通訳の田中結夏さんと同監修の江副悟史さんが参加していた。通しは(おそらく)本番で使用されるスペノ作品ではお馴染みライアン・ロットの音楽を流しつつ、手話通訳ありで進行した。基本的にスタッフはそれぞれの作業を確認しつつ見守っているのだが、中澤君からテロップ出しのタイミングについて映像の加藤さんに細かい指示が出されていた。京都の初演の時も、というかスペノの舞台ではいつも、字幕や映像の使用が重要である。同様に中澤がところどころ段取り確認的な言葉を発する以外は俳優の台詞しか聞こえない。小屋入り前の最後の通しなのだが、すでに大枠は仕上がっているので、緊張感よりもどこかリラックスした雰囲気さえ感じられた(手探りゆえの緊張感は前回の見学のほうが高かったかもしれない)。
通しは、終わった直後に感想を求められてつい口に出たのは、前は「面白かった!」だったが、今はそれが「カッコいい!」に変わってきた、ということだった。なんとも雑駁な印象だが、戯曲に込められた風刺と諧謔が俳優を通して実体化することによって、ある意味で理屈を超えた輻輳的なエモーションと、運動性に富んだスタイリッシュな感覚が生じていた。そこには音楽の演奏で言うところのトーン(音調)とグルーヴ(律動)があった。特に4場のアンサンブルには興奮させられた。それは(また音楽のたとえだが)ノイジィでグリッチィでポリリズミックなのだが、しかし独特な調和が感じられる。素朴に言えば「息が合ってる」ということなのだが、むしろバラバラなものがバラバラなまま錯綜することでひとつのうねりを生み出しているような感じだった。うまくいっている、と思った。
通しは100分弱くらいだっただろうか? 終わると1時間の休憩。散歩に出ようと思って外に出たら、ちょうど森下スタジオの前の道を俳優四人が揃って歩いていた。なぜかいったん右に行ったあと、引き返してきて左に歩いていったのだが、身長差がすごくあるのでなんだか不思議な集団に見えた。あの様子、写真に撮ればよかった!
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休憩後は、まず中澤君から演出上の細かい修正/追加が十数箇所入った。台詞と動きの確認と改訂。興味深かったのは俳優に対する言葉遣いの丁寧さと精確さ、丁寧と精確を大事にしようとする姿勢、だった。間違えているとかこれはいけないとかこうしてくれとかこうするべきとは絶対に言わない。私は他の演出家のやり方をほとんど知らないが、それにしても非常に言葉を選んで話しているという印象だった。しかし遠慮しているというのではない。伝え方、伝わり方を誠実に考えたうえでの言い方だと思った。また、意味よりも効果のありようについて述べていることが多かったのも特徴的だった。なにしろ戯曲が戯曲なので、内面描写をしても仕方がない。あくまでも「観客にどう受け取らせるか」にフォーカスした演出になっていて、つまり「劇的効果」ということである。
次いで小野さんが台本のメモを見ながら各役者に修正点と改善点を述べていったが、彼女はアクティングエリアに出て行って自分で言って/動いてみせるというやり方で、これがまたわかりやすくて面白かった。言語による説明よりも、こういう感じ、と見せてしまう。普段からスペノは論理の中澤、直感の小野という感じなので(?)、二人の演出法のコントラストが掛け算的に機能しているのだと思う。
二人の指摘はしかし、すでに微調整の段階に思えた。俳優たちもすぐに理解して応える。個人の演技だけでなく、稽古もここまで進むと役者同士の互いの認識や信頼も出来上がってきているので、あうんの呼吸でレスポンスが終わり(それでも結構時間は掛かった)、あとは最後の方の気になる場面を何度かやってみて、はいこれでいいですね、という感じになったら終了予定時間の30分ほど前だった(いつも時間を使い切らず、なるべく前倒しで終えるようにしているのだと思う)。
こうして稽古場のスケジュールは終わった。お疲れ様でした。明日は俳優はお休み、スタッフは先に小屋入りして仕込みを開始し、水曜から場当たり、木曜夜がゲネプロで、11月1日金曜が初日である。座組みの雰囲気としては焦りは微塵もない(ように見えた)。むしろ「いよいよか!」という期待の感覚が漂っていた。仕事の都合上、ゲネプロは観られないのだが、トラムの稽古もちょっとだけでも覗きに行ければと思っている。
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松原俊太郎作、スペースノットブランク演出『光の中のアリス』は、松原君のインタビューでも語られているように、ルイス・キャロルの、あの「アリス」二部作を下敷きにしている。演劇という芸術フォームにおいて、演出と上演は戯曲のフィジカル&マテリアルな読解である。この読み解きは演出家と俳優とスタッフ全員によって行われているが、最終的には観客それぞれの受け止めがそれを更に分散的に読解する。そして松原戯曲ほどこの多重の「読み解き」に耐えるものはないだろう。
理屈抜きに面白い! 単純にカッコいい! と言うことも出来るし、それは確かにそうなのだ。だが、理屈ありでも面白く、複雑なカッコよさも備えていなければ、それは最悪の意味での「エンタメ」でしかない(良き「エンタメ」だってもちろんあるが)。ヒカリスはやはりそれとは違う。この芝居の観客には、普段よりも少しだけ知覚を研ぎ澄まし、頭脳を能動的に動かしつつ、しかしけっして身構えることなく、上演を目の当たりにして欲しいと思う。
だがしかし、それは「わかろうとする」という態度とは異なる。わかろうとすると、わからないところが、わからないということが、どうしても気になってしまう。だからそうではなく、つまりわかるわからないではなく、無理をしてわかろうとはせずに、しかし「考える」ということが肝要なのだと思う。読解は、どこかにある(かどうかは本当は誰にも──作り手にも──わからない)正解に向けたものではなく、もっと自由で野蛮な作業なのだ。
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ヒカリスは、あなたに謎かけをする。アリスがそうされたように。あるいは、アリスがそうしたように。この「謎」には、答えがない。これは答えがないということが最初からあからさまになっている「謎」なのだ。
ヒカリス、お前は誰だ? スペースノットブランク、お前たちは何者だ?
『光の中のアリス』は、こうしてまもなく遂に本番を迎える。乞うご期待!
ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」
その3「トーンとグルーヴ/上演に向けて」
インタビュー
松原俊太郎
荒木知佳
古賀友樹
伊東沙保
東出昌大
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佐々木敦 Atsushi Sasaki |
思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。芸術文化の複数の領域で執筆、教育、プロデュースなどを行なっている。著書多数。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』。近著として『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の喪失』『「教授」と呼ばれた男ー坂本龍一とその時代』などがある。 |
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