続・継承する身体|レポート(前編)|長谷川祐輔:フィジカル・カタルシスとコンステレーション──カタルシスがフィジカルなものであるために
| 長谷川祐輔(哲学者・ドラマトゥルク) |
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| 新潟大学大学院博士前期課程修了。フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの崇高論を中心に研究。 「プロジェクト」や「アトリエ」をキーワードとして、理論と実践が重なる場で生成するものを探究している。 芸術制作や美的実践のプロセスに立ち会うなかで、作品の形にはおさまらない言葉、出来事、行為の記録・保存、コンセプトの設計を続けてきた。 障害福祉の企業にて支援員として勤務。 最近の活動履歴。執筆:「ワークショップ映画と俳優の創作的ミメーシス──濱口竜介の制作論における多層的な声の表出について」(2023)、「崇高の二重化とアナムネーシスの問い──ラクー゠ラバルトとリオタール」(2024)、「モードとコンテンポラリー──山縣良和の『その後に書かれた』ファッションについて」(2025)など。 作品:AAPA『敷居またぎ』(2024)、藤中康輝『光の中で眠る』(2025)、エリア51『光かもしれない』(2026)など。 |
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクが主催する「続・継承する身体」は、主催の二人、招聘アーティスト=ゲスト、コアの参加者となる「メンバー」、ゆるやかに参加する「オブザーバー」といった幅広い間口の人たちによって行われた。プロジェクトは今のところ2026年の8月と12月に予定されている。この文章は8月のプログラムが全て修了した段階で書かれる、全体レポートの前編という位置付けのものだ。
どこから書き始めればいいのか分からない程に参加者の属性や関心は多彩で、プログラムの中では充実したレクチャーやワークが行われた。各回の個別のレポートは、すでにメンバーが全ての回について書いている(注1)。
しかし濃密な時間の中で、話題としては直接触れられなかったこともある。「フィジカル・カタルシス」、そして身体を継承するとはどういうことなのかという問い自体は、そこまで直接展開されたわけではない。もちろんスペースノットブランクのホームページには、フィジカル・カタルシスについて「ダンスの『メソッド』としての側面と『作品』としての側面を併せ持つそれは、過程と結果のどちらもの性質を有して」いるものという説明があり、そのポテンシャルとして「ダンサー、俳優、そのどちらでもない人たちの根源的な身体性を客体化」(注2)する作用を持っているメソッドにして作品であるということは前提にある。しかし今回の企画の中では、言葉としてはほとんど場に登場していなかった。もちろん、レクチャーやワークを通してメソッドから派生するものが垣間見える瞬間は多々あった。
そこでこのレポートでは、プログラムの中で登場したいくつかのキーワードや参加した経験を手がかりとしながら、全体を貫くものとしての「フィジカル・カタルシス」について、あらためてその輪郭を描き出してみたい。
1. 生きることとつくることから立ち上がる「術式」
連続でゲストが登壇する前、プログラムの第2回ではスペースノットブランクのお二人による「術式の開示」の回があった。行われたのは魔術の披露や特別な技術の共有などではなく、彩加さん(小野彩加)と陽さん(中澤陽)それぞれの人生と創作についての講義だった。ここでその内容を振り返ることはしないが、重要なのはこの回で示された時間の使い方──自分の人生を振り返りつつ、要所で現在の創作・関心を語る──がその後の招聘アーティストにも受け継がれていたことだ。このスタイルにおいては、話が現在取り組んでいる企画や創作などから始まるのではなく、振り返ることが可能な範囲での過去が起点となって講義が進められたことが重要になっている。そうすることで現在に至るまでの流れ、大人として表向けになされたアウトプットの形にはおさまらない出来事やエピソードなどが奥行きを持って表出される。話し手の人物像が立体的に伝わってくる。
バイオグラフィカルな語りと現在取り組んでいることが撚り合わされて、一本の糸として聞き手に届く。このプログラムで一貫して導入されていたこの語りのスタイルを、ここでは「術式(人生+ワーク)」(を開示する技法)として捉える。
2. 身振りと言葉の採集──深化する自己紹介
人生と活動が不可分に結びついていることを言い表す言葉としての「術式」。7名の招聘アーティストも、前半はレクチャーで後半はワークという構成で時間を組み立てていた。前半のレクチャーは、現在取り組んでいることや最近の実績などの話ではなく、幼少期や学生時代の話から始まり、転換点となった出来事について語ることを通して現在への道筋が立ち現れるような語りとなっていた。後半のワークは、レクチャーで語られた人生の履歴が影としてちらつくような内容にそれぞれなっていたと思う。
この話を参加者(メンバーとオブザーバー)に向けてみよう。参加者はまとまった時間を持ってレクチャーをしたりワークを企画する機会は特になかった。しかし、10回のプログラムを通して、参加者のバイオグラフィカルな背景と現在の関心・活動の重なりが断片として透視される機会は振り返ってみたら案外多かったのではないかと思う。それは分かりやすいところでは自己紹介であり、ワークとしては自分のプロフィール、生活、過去を素材として行うもの──「本人という謎」(鴻池留衣)(注3)、「〈喩え〉を作る」(山本浩貴)(注4)──であったり、アーティスト橋本真那の《A THEATER》(2025)という作品から派生した、目の前の相手を観察しながらおのれの立場、振る舞いを決めていくワーク「主役をずらすためのテスト」(注5)では、自己と他なるもの、言葉と身体が繊細な次元で混ざり合い、目の前の相手に対して想像力を働かせる意識が研ぎ澄まされた。決して明らかになることのない他者の全体像への想像力は、その明らかになることのないという不可能性によって緊張感が生まれ、ドライブされる。
ここでは自己紹介とそこから派生したワークについて簡単に記述しておく。
プログラムの初回は、ほぼ丸一日を通して様々な仕方で自己紹介が行われた回だったと言える。最初は円形に座ってメンバーとオブザーバーの全員が自己紹介を行う。この間メモを取ることは許可されていない。全員の自己紹介が終わった後は、誰か一人を選んで他己紹介をする。メモを取ることも許可されておらず、全員の名前を一度聞いただけの状態で初めて会った人を紹介するとなった時には、記憶をたどる想像力が活性化するのが分かった。以外と名前を覚えていたこと、誰のエピソードだったか思い出せること。自分が誰かを紹介する時にも、誰かが自分を紹介してくれた時にもこのことを実感した。
今振り返れば、ここにフィジカル・カタルシスの原型があったと思う。一度聞いた人の名前、趣味、エピソードを覚えているということ。それを別の他人に紹介できるということ。人の言葉を経由して紹介される〈わたし〉の自画像を見ることには、カタルシスがある。それは人の生が高速で流れ去っていき、昨日や一週間前のことさえ覚束ない中で、その人の中に自分が存在しているのだという確実にして微細な手触りを与えてくれる。
午前中は半日かけて自己・他己紹介が行われた。午後はそこから派生したワークを行った。ワークにはいくつか段階があった。関係する部分だけ振り返っておく。
一つ目のワークは円の形になって行われた。手順としては一人ずつランダムに中央まで歩き、30秒間静止する。30秒経過するまでの間に、午前中の自己紹介で自分が言った一言、あるいは一文を言って自分の席に戻っていく、というものだ。個人的には、自己紹介の内容は覚えているものの記憶している文面は限られていた。その中で何を言うか、というところで無意識に言葉が選ばれていった。他の参加者はどのようにして言葉を選んでいたのかは見ただけでは分からない。
ただ、ここで一つ強調しておきたいのは、おぼろげな言葉の中から選び取られる言葉の断片には、その人のその人らしさ、生活の背景、一番身体に刻まれていることが反映されているように見えたということだ。知り合って間もない相手ではあるが、静止する立ち姿に加えて、そこからランダムに出力される言葉の断片は、少なからずその人の生きてきた履歴を映し出す。
二つ目のワークは、全員が歩いたり立ち止まったりして行われる。参加者は空間をランダムに動く。歩く、座る、立ち止まる、の3つを繰り返していく。他者の気配、目線、動きなどを身体的に受け取りながら、ぐるぐると動き続ける。
そのプロセスで、午前中に行われた自己紹介で登場したフレーズ、単語の中から一つを選び、ランダムなタイミングで発語する。いくつか列挙してみるならば、「会社員・パフォーマー」、「その手続き」、「よろしくお願いします」、「どちらでも大丈夫です」、「料理研究家の」、「普段は」、といった風に誰が言ったのか特定できるものとそうではないものが渦のように混ざり合いながら、集まったばかりの参加者同士のあいだに仄かな共同性が生成されていく。
自分のフレーズが拾われた、あの人のフレーズを拾おう、誰が言ったのか忘れたけれどこの言葉を言いたい、といった感覚は会ったばかりの他者へ働かせることができる配慮の種類として、極めて繊細で豊かなものだと感じた。
一般的な自己紹介で本人から一番初めに話される情報は、大体の場合属性以上のことを伝えるものではない。名前、所属、肩書き、最近はまっていること、出身地といった情報は、関わる相手に不信感を与えない程度に機能するぐらいで、関係性を築くに十分な情報ではない。だからといって、どんな場でも自己紹介をアレンジする余裕やフィジカルな要素を織り交ぜるという発想を持てればいいというわけでもない。ただ、丹念に時間をかけて行われた自己・他者の紹介、エピソードの採集には、人を知ることと自分を知ってもらうこと、さらにそれが他者と関係性を結ぶことや作品へと昇華されていくレベルのポテンシャルを備えた断片であるという気づきは、今後も自分の中に抱えておきたい。
3. 〈わたし〉のコンステレーション
参加者が何気なく場にこぼした身振りと言葉を拾い合い、交換する。プロジェクトの全体を通してそのような機会が多かったと思う。身振りと言葉の採集という行為は、人称や宛先が特定できなくなる次元まで高められることで、パフォーマンスや上演作品に接近する。
自分の言葉が拾われる、人の中に自分が存在する、自分が他者を受け止める、他者の振る舞いの習慣や語り口への微細な感度を行き届かせようとする。カタルシスがフィジカルな触発をもたらすものであるためには、こうした姿勢や作用が必要なのだろうと思う。これは、劇ならぬ悲しい出来事がデジタルメディアを通して日常的に生活へと浸透してくる中で、とても重要な意味合いを持っている。
例えば「ドパガキ」に代表される快楽を得ているかのように錯覚する身体感覚には、フィジカルなカタルシスが欠落している。絶え間なく流れ込んでくるインスタントな映像を見続ける時間には、自分の言葉を誰かに受け取ってもらう、誰かの言葉を全身的に受け取る、そして別の他者との交通が発生するということが成立しない。そこにあるのは欲望を肥大化し続ける終わりなき受容だけであり、カタルシスとは性質が異なる。
プロジェクトを通して「フィジカル・カタルシス」について考えることは、カタルシスのエフェクトが本来フィジカルなものであり、それは言葉や身振りを他者と交換することで初めて成り立つものであるという、現在の日常感覚においては忘却されやすいことについて想い起こさせてくれる機会となった。
ところで「続・継承する身体」は12月にも予定されている。最後に今後へ向けた視点を一つ追加して、この全体レポート(前編)を締めることにしたい。
「フィジカル・カタルシス」はメソッドにして作品でもあり、そのエッセンスには身振り、言葉、その他非言語的な要素を場に共有し、自他身分化な状態になるところまで分解や生成を重ね、再度身体化していくということがあったとひとまずはまとめられる。そして、そのプロセスではその場に一緒に居合わせている他者たちの言葉、身振り、振る舞いなどの固有性や、生の履歴の断片がうっすらと透視される。それは、確かにデジタルメディアが日常に溶け込み、アルゴリズムに管理された生活環境において身体性を持って他者と交流する優れた技法でもあるだろう。
同時に、次に気になることもある。それは、ワークを通じて断片的に透視される他者の要素は、いかにして断片ではなくなるのか、すなわち離散的に共有される他者の身体的・言語的なエレメントは、いかにして一つの像を結び、その人独自の星座、〈わたし〉のコンステレーションを立ち上げるのかということだ。
ワークを通して様々な手段によって他者の情報の断片が場に共有されることで、人物像の一部が垣間見えるようにはなっていた。しかし、当然ながらそれはまだ断片であり、人物なり作品としての星座を結ぶ次元にまで達していたわけではないということは、次に向けて書き留めておきたい。
12月には何が行われるのか分からない。というか決まっていない。どんなプログラムになるにしても、8月のプロジェクトで撒かれた種が芽を結び、そのさらに先に向けても育てていけるような時間にしていきたい。
――
注1:以下で全て公開されている。https://spacenotblank.com/performance/inheritingbodies
注2:https://spacenotblank.com/performance/physicalcatharsis(最終閲覧:2026年09月06日)
注3:長谷川祐輔「秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉」
注4:坂本彩音「そうぞうの余白/他者のまなざしを自分の体に通してみる」
注5:和田華子「隣り合う人。」
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