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山田由梨:わたしが客席で居心地が悪かったのは

 『セイ』を観劇した。スペースノットブランク(以下、スペノ)の作品を観るのは、これで2作目である。最初に観たのは、今年、かながわ短編演劇アワード2023演劇コンペティションで観た作品『本人たち』だ。この大会では二部作である本作のうち後半の1本のみを上演しており、それだけでは私はこの団体が何をやろうとしているのかがよく分からなかった。それで、同時期にSTスポットで上演していた同作を観に行った。そこで一部二部とセットで観劇し、ようやく何をしていたのかがわかった気がした。
 ここで補足すると、わたしは批評を書く人間ではなく、スペノのお二人と同じく演劇を作る者だ。これからわたしが書くことは、ただの感想だし、想像だし、本来彼らがやろうとしていることとは違う意図を汲んでいるかもしれない。だけど、感想とはそれでいいのだし、「わたしはこう観たんだー」ということ以外に、わたしには言えない。それは、わたしが思ったことを嘘なく書いている限り間違いなんていうことはない。普段、観客にもそうやって勝手に観て、勝手な感想をじゃんじゃん言ってほしいなと常日頃思っているのでわたしもそうする。
 『本人たち』に話を戻す。本作は、パフォーマンスの前説や事前説明をそのままパフォーマンス化する一部と、女性二人が自分の話や考えていることを話し合ったり、相槌を打ったりする、そのことだけをパフォーマンス化する二部で構成されている。どちらもそこで語られている言葉がなんの意味もたないのが特徴で、いや、話していることの意味は別に通っているのだけど、明らかにその意味というものを理解させることを目的としていないのが分かる作品だった。早々に意味を追うことを放棄したわたしは、それを話している身体の振る舞いや、マスクから上の顔の表情、声の「それらしい」高低差、そういったものを鑑賞する。どこか居心地の悪さを感じながら。そういう作品だったと思う。
 「それらしい」振る舞い──それは例えば前説をしている人らしい振る舞い──を見ているので、それはもちろん「それそのもの」ではない。それ「らしく」パフォーマンス化しているのだから、それは「それそのもの」ではないのだ。ただ、『本人たち』は本人たちが本人たちを演じているため、限りなく「それ」と感じてしまう。けど、やっぱりそれはパフォーマンスなんだから、そもそもだって演劇なのだから、違うよね、「それらしい」のだよね、ということだった。
 『セイ』を見ているときにもこの手法があった。「それ」そのものではない、「それらしい」をパフォーマンスするという手法が。そして2作品目を見て、わたしは共通するものを発見した。それはおそらく、「それらしい」パフォーマンスをしているとき、その模している本体を「茶化している」ように感じるということだった。これが先述したように、観客席でわたしがなんだか居心地が悪く感じていた理由だったのだと思う。
 「茶化す」という行為は、物事の絶対的に見える価値をゆらがし、相対化し、距離を取ることを可能にする。しかし一方で、茶化す主体は、安全な場所からその物事の真摯さを冷笑し、嘲笑する加害のリスクと裏合わせでもある。そして、何かを茶化しているように見えるパフォーマンスを見ている時、観客であるわたしも茶化されているような気持ちになってくる。彼らが茶化す対象に自分もはいっているのだろうか、それともわたしは茶化す側にいるのだろうか、と、そういう居心地の悪さがある。スペノはこういった事象に自覚的に向き合いながら、観客のあり方をゆるがすような作品の提示の仕方を目指しているのかもしれない。
 例えば、前半に行われたライブパフォーマンスのシーン。アコスティックギター1本で、生活に密着した歌詞を、熱心に歌い上げるパフォーマーを茶化す。それも大真面目に茶化す。機材のセッティングや音響はこだわっていて本格的だが、身振りや歌唱力、ギターテクニックは下手すぎてもいけないし、上手すぎてもいけない。あまりにも上手ければ、それ自体が「本物の」パフォーマンスになってしまうし、下手すぎればパフォーマンスにすらならない。したがって、絶妙に上手くないパフォーマンス、絶妙に心に響かない歌詞、このような加減を維持しながらライブパフォーマンスを演じ、茶化すのである。絶妙に感動できないライブ感を維持し続けること、本物感を演出し続けていると、その先で、茶化し切れない真面目な部分がだんだん透けて見えてくる。どうしてそこまで茶化したいのか、ここまでして、という切実な想いが浮かび上がってくるのだ。
 それは例えば、熱狂的なファンに支えられてライブパフォーマンスを行うアーティストたちへの憧れ、そういったアーティストを熱狂的に支持するファンたちへの羨望、そのどちらもにもなれない自分たち、何者にもなれず──本作で描かれている主人公のように──女性にモテず、フィギュアを愛する以外の選択肢を見つけられない男性の苦しみが描かれているように見えてくる。
 後半で、この主人公の男性のかなり真摯な叫びが、俳優によって語られる。この作品の上演では、俳優が発話する全ての言葉がAIによって文字起こしされる形で、スクリーンに映し出されているのだが(先述のライブパフォーマンスの最中も、歌う人のすぐ後ろで、歌った歌詞が文字起こしされ、投影されている)、この語りのシーンでも例外ではない。そのAIの文字起こしは、iPhoneのSiriを思い浮かべればわかるように、正しくは聞き取ってもらえず、絶妙に間違え、別の言葉に誤変換されてしまったりする。ここでも言葉の意味が、意味をなさないことを具現化し、言葉なんてただの音でしかないのだ、という一面を示し続けている。
 その苦しい想いの吐露のシーンの言葉がAIに誤変換されているとき、一見ここでもその思いを茶化しているように思えるのだが、むしろ逆で、その真面目さは茶化すことができないものとして、どんどん浮き彫りになるように思えた。この真面目で深刻な苦しみの部分こそ、もしかしたら本当は笑い飛ばして、茶化し尽くすこともできるのではないか、その先が見たいという風にも個人的には思った。
 このAIの誤変換の演出は絶妙に可笑しく、わたしが観ていたときにも客席から笑いが度々起きていた。わたしもこの演出が好きだった。なんだかAIは呑気でいいなと思ったのだ。人間は悲しいことがあったら、自分を傷つけたり、人を傷つけたりするけれど、機械はそんな悲しみさえも間違えちゃったりして、お茶目で呑気。でも、ほんとは呑気ですらない、ただの音処理マシーンなのだけど。それでも、機械が人間の深刻さを、茶化してくれている。そこには機械と聞いて、冷たさや無機質さをイメージするのとは逆の、生暖かい質感があった。劇場を出たとき、梅雨の夜の生暖かい風を感じて、そんなことを考えながら家にかえった。

山田由梨 Yuri Yamada WebTwitterInstagram
1992年東京生まれ。作家・演出家・俳優。立教大学在学中に「贅沢貧乏」を旗揚げ。俳優として映画・ドラマ・CMへ出演するほか、小説執筆、ドラマ脚本・監督も手がける。『フィクション・シティー』(17年)、『ミクスチュア』(19年)で岸田國士戯曲賞最終候補にノミネート。2020・2021年度セゾン文化財団セゾンフェローI。NHK夜ドラ「作りたい女と食べたい女」脚本。WOWOWオリジナルドラマ「にんげんこわい『辰巳の辻占』」、「にんげんこわい2『品川心中』」脚本・監督。

セイ

イントロダクション
池田亮

オープンリハーサルのレビュー
有吉玲/高橋慧丞/田野真悠

レビュー
森山直人:「演劇」から、神々を悪魔祓いすることは可能か?──スペースノットブランク『セイ』劇評
山田由梨:わたしが客席で居心地が悪かったのは

森山直人:「演劇」から、神々を悪魔祓いすることは可能か?──スペースノットブランク『セイ』劇評


 突然だが、かつて演劇史は、いわば神々の権力闘争の歴史だった。
 たとえば、「名優」たちが「神」として君臨していた時代があった。やがて、今度は「劇作家」という「神」がその絶対性を主張するようになる。だが、20世紀には「演出家」というまったく別の「神」が現れる。2022年7月に亡くなったピーター・ブルックなど、まさにそうした神々の一人だった。
 ところが、いまや時代は「コレクティヴ」だと言われる。いいかれば、それは「神の死」以後の到来ということになるだろう。たしかに、多くのアート・コレクティヴが、世界各地でさまざまな成果を発表している。だが、「演劇」というジャンルにようやく訪れたかにみえる一種のデモクラシーは、真の意味で「神」という存在を「悪魔祓い」できるものなのだろうか。──たしかな答えを見出した人など、おそらくまだいない。


 ところで、自らを「コレクティヴ」を名乗るスペースノットブランクが、2023年6-7月に発表した新作『セイ』は、「神の死」を謳歌する作品などではまったくなかった。それどころか、まさに生々しくも血なまぐさい「神の死」の現場に、いまなお立ち会おうしているという点だけでも、きわめて興味深い「実験演劇」だった。
 少なくとも本作では、「原作者」である池田亮も、「共同演出」の小野彩加も中澤陽も、演劇上演から「神」の存在を抹消できるなどとは、これっぽっちも考えていなかったように見える。というより、これまでだってスペースノットブランクは、松原俊太郎であれ、池田亮であれ、「原作者」という名の「神」を、むしろ率先して自分たちの創作現場に招き寄せるという、ある意味では矛盾したコレクティヴなのではなかったか。その意味では、『セイ』もまた、スタイリッシュとは無縁の、とてつもなく古いタイプの作品だとさえ言えるかもしれない。なにより、本作は、『ウエア』、『ハワワ』などの先行作品(残念ながら筆者は未見)を含む「メグハギ・サーガ」(=神話)のスピンオフだと事前に宣言されてもいるのだから、すべては「神」の周囲に事態が展開したとしても不思議ではない。
 だからこそ、問題は、そこでの「神」がどのような存在であり、どのようにしてその「死」が演じられるのか、に絞られてくる。「神」は、なぜ、なんのために必要とされているのか?


 興味深いことに、「神」の輪郭は、これもまた事前の媒体で、「元死刑囚の男」と、あっさり予告されてしまっている。

 元死刑囚の故・真坂家様の意識はサーバーに無事保存されました!/そして我が国開発による最新型AI「セイ」により、デジタル上で更生と再生と転生を繰り返す試行錯誤を行いました。/この度、実験結果の報告会を開催いたします。

 そして、私たち観客が上演場所(=「報告会」の開催場所?)である神奈川県立青少年センター・スタジオHIKARIを訪れると、舞台上に「ハの字」型に大きめのスクリーンが2台設置されていて、そこには、「はじめに/第三者への公開を固く禁じます。/総務大臣への実行を報告します」という、明らかに事前告知に呼応する注意書きのようなものが投影されている。そして、開演前に──だが、ほんとうのところ、この上演の「開演」とは、正確にはいつのことだと考えればよいのか微妙なのだが──出演者である奈良悠加が、ついで古賀友樹、瀧腰教寛が、観客へのリアルな歓迎の辞を述べつつ、「はじめに、全てを決めるのはI(アイ)です。私であり、あなたであります」という定型文を繰り返し口にするのだ。
 すでにここには、いくつかのことが暗示されている。少なくとも、①その後の上演で実際にそういう台詞が出てくるが、ここでの「I(アイ)」には、作者である池田亮のイニシャルが透けてみえること、すなわち、「I(アイ)」は原作者の〈虚構の分身〉を装う何者か、つまりは〈作者〉という「神」にほかならないこと、②上記の定型文が、三人の俳優によって反復されることで、上記の「I(アイ)」、つまり〈私〉は複数化されていること、そして、③「あなた」という単語が「私」という単語と並置されることで、観客ひとりひとりもまた「私」にほかならず、全てを決める存在=「神」であるかもしれないこと、の3点である。
 はたして「全てを決める」存在、すなわち「I(アイ)」とは、「元死刑囚」なのか、原作者なのか、演者たちなのか、それとも観客ひとりひとりなのか。──『セイ』はひとまず、絶対的な「神」の座をめぐって、複数の、異なる立場の存在が集合する一種の闘技場として、劇場空間を位置づける。もちろんそれは一方的な予告であり、おそらく偽の情報にほかならないのだろう。だが、そうはいっても、ひとまず「観客」としてこの場に訪れてしまった人々の方は、わけもわからず、その後の事柄の推移を、ひとまずは受け入れ、見守るほかはない。


 上演時間が約2時間の『セイ』は、奇妙な2部構成をとっている。第1部は、瀧腰教寛──上演台本上は「I1」とされている──による、30分ほどの単独ライブであり、しだいに観客には、それらの歌が「元死刑囚」=「神」になろうとした人物への、追悼ソングであることがわかってくる。10分間の休憩をはさんで第2部に入ると、瀧腰に加えて、古賀友樹(=I2)、奈良悠加(=I3)、荒木知佳(=I4)が次々に登場し、中盤以降は、どうやら最新型AI「セイ」にすべての人格的記憶と知能を預けた元死刑囚本人のものらしい長いいくつものモノローグが、異なる俳優たちの身体を通じて「上演」されていく。2台のスクリーンの間には、小山のように盛り上がっている装置があるのだが、劇の終盤にさしかかると、あたかも元死刑囚本人が出現でもしたかのように、荒木が小山のなかから登場する。巨視的にみれば、そこにはストーリーラインのようなものも感じられるのだが、その場の観客側の体験としては、元死刑囚をめぐる断片的ないくつかのつぶやきや、一見それとは無関係にみえるサカナクションやレディ・ガガの持ち歌が歌われる場面の、雑然としたコラージュといった印象である。


 だが、なんといっても、この作品のひとつの見せ場は、〈AI〉という他者の容赦なき「誤変換」攻撃を前に、死にゆく「元死刑囚」が、悲痛なあきらめを強いられていく後半の場面にあるだろう。第2部で、「聖」「姓」「性」「請」「See You, See I」「世」「生」といった具合に変換されながら、『セイ』という題名の本作は、未来のデジタル社会の悦楽と限界とを、なんとか視野におさめようとする。「元死刑囚」は、どうやらあまり金銭的にも恵まれず、孤独に性欲を発散させてフィギュアを精液で汚しつづけるような人生を送っていたらしい。夢と現実とが交錯しながらダイナミックに繰り広げられる「神」の悲劇的なモノローグは、にもかかわらず、俳優たちの上演によって熱がこもればこもるほど、そういうときに限ってスクリーン上にAIが誤変換したセンテンスとして文字化されてしまい、失笑の的とならざるを得ない。たとえば、「勝手に俺の言葉変えんなお前」と怒鳴っても、それはただちに「勝手にお前俺のこと馬鹿円なお前」に誤変換されてしまう。「フィギュア」や「toは」のような簡単な単語でさえ、何度繰り返し言い聞かせようが、その都度、とんでもない誤変換(「フィリア」や「通話」など)として返ってきてしまうのだ。パフォーマーの全身から発せられる挫折感と徒労感の激しさは、単純に観客の心を打つだけの力があった。
 いうまでもなく、そこで繰り広げられる対話のディスコミュニケーションは、爆笑を誘うようなものでないにしても、明らかに喜劇的な要素をもっている。元死刑囚とAI──上演の具体性としては生身の俳優とスクリーンの間のやりとりは、いつのまにか『リア王』における、荒野をさまよう王(King)と道化(Fool)の名高いシーンとそこで両者の関係性を、ふと連想させたりもする。リア王は、悪辣な娘たちにすべてを剥ぎ取られ、「神」の座から容赦なく引きずりおろされる。そしてリアの傍らにいる道化は、リアの愚かさを巧みにつき、あたかも対等な存在であるかのようにふるまっていた。ここまで見てきてほぼ明らかなように、現代日本の社会にすくう孤独の病──それは観客席に座るひとりひとりにも、濃淡の差はあれ、思い当たるものであろう──を連想させる「元死刑囚」という存在が、捨て身の行為を通して成就しようとした「神」になることの野望が打ち砕かれ、そのかわりに道化というパートナーを得ることができるのなら、それはそれで悪くない生き方ではないか・・・。

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 だが、事態はそれほど簡単には終わらない。というのも、ここでのAI=道化は、明らかに勝ち過ぎであり、まるで「道化」が新たに「神」の座についたかのようにさえ見えるからである。だとすれば、『セイ』という物語は、要するに、「AI」がこれからは新たな「神」として、あまねく世界を支配することになる、という話なのだろうか。・・・そう単純にも言えないのは、いうまでもなく、ここでスクリーン上に投影されている「AI」の言葉はすべて、「原作者」の池田亮、もしくは共同演出の小野彩加+中澤陽によってスクリーニングされた言葉であるに決まっているからである!
 だとすれば、結局のところ、演劇作品『セイ』における「神」とは、「演出家」の謂いにほかならないということなのか。「原・作者」の書いた言葉を、ある程度自由に再編する権限を有する「演出家」は、どんなに謙虚にふるまってみても、やはり「演劇作品」にとって不可欠の「神」でありつづけるほかはないのか。おそらくたしかなのは、池田亮とスペースノットブランクのあいだには、ちょうどリアと道化のような共犯関係が成立しているということである。
 最後に、これまであえて触れずにきたが、もうひとつだけ、「はじめに、全てを決めるのはI(アイ)です」という例のフレーズと同様に、この作品のキーとして、暗号のように何度も繰り返されるフレーズについても一瞥しておかなければならない。
 「ここはフリースペースなんだ」──そう、まさにこのフレーズは、折に触れて、一種の強迫観念のようにこの作品のなかで繰り返されていた。ここで、間違いを恐れずに断言するならば、本当はこのフレーズこそが、この作品の中心であり、「神」になるべき存在だったはずなのだ。だが、「ここはフリースペースなんだ!」という言葉ほど、高い理想としらじらしさとが同居しているものもない。打ち砕かれた野望の前には、打ち砕かれた空っぽの理想がある。そして、まさにその「フリースペース」は、けっして手元にやってくるはずのない青い鳥のように、頭上のはるかかなたをゆっくりと旋回するばかりだ。スペースノットブランクのはるか頭上に旋回する「理想」をあざ笑う権利は誰にもない。なぜなら、その旋回する「理想」とは、まさに現代社会の、世界全体の、あらゆる人々の頭上を、空虚に旋回する何かに相違ないからである。

森山直人 Naoto Moriyama
演劇批評家。1968年生まれ。多摩美術大学美術学部・演劇舞踊デザイン学科教授。京都造形芸術大学教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員を経て現職。2012年から2019年まで、KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員長を務めた。著書に『舞台芸術の魅力』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文、劇評に、「日本語で「歌うこと」、「話すこと」:演劇的な「声」をめぐる考察」(『舞台芸術』24号)、「メロドラマ」が「メロドラマ」から解放されるとき──上田久美子『バイオーム』評」(関西えんげきサイト)、他多数。

セイ

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池田亮

オープンリハーサルのレビュー
有吉玲/高橋慧丞/田野真悠

レビュー
森山直人:「演劇」から、神々を悪魔祓いすることは可能か?──スペースノットブランク『セイ』劇評
山田由梨:わたしが客席で居心地が悪かったのは

セイ|池田亮:イントロダクション

池田亮 Ryo Ikeda WebTwitterInstagram
脚本家・演出家・造形作家。1992年埼玉県出身。舞台・美術・映像を作る団体〈ゆうめい〉所属。梅田芸術劇場所属。遺伝や家族にまつわる実体験をベースとした舞台作品『姿』がTV Bros.ステージ・オブ・ザ・イヤー2019、テアトロ2019年舞台ベストワンに選出、2021年芸劇eyes・東京芸術劇場にて再演。『娘』が国際交流基金「日本の新作戯曲」に掲載。近年ではTVアニメ『ウマ娘』一期二期脚本、テレビ朝日『最初はパー』レギュラー出演、フジテレビ「生ドラ!東京は24時」第二夜『美大の駅伝』監督・脚本、株式会社いきもんより発売のカプセルトイ『クリスタルハンドルの水栓リング』の原型・発起人など、ノンジャンルでの活動を通して創作の多面性を解析しながら『セイ』の原作を担う。

2020年より自分が原作を提供し、スペースノットブランクが上演した『ウエア』『ハワワ』は三部作構成の「メグハギサーガ」における第一部と第二部の作品であり、今作『セイ』は第三部ではなくスピンオフ作品となっております。

メグハギサーガは「メグハギ」という存在を軸に、描き出される世界にて起こる生物たちのドラマ、そして自分たちが生きている現実と時に共鳴し、時に反発するアドベンチャーを描いています。

このメグハギとは何か。それは例えば、顧客に愛されるキャラクターを創造するためのソーシャルメディア企業の会議室で、参加者全員がブレストで思考・発案する「自分にとって最も理想とするキャラクター像」を各々取りこぼすことなく全て混ぜ合わせたような存在です。分かりやすさや売れるためのプロモーション目的とはかけ離れ、本来ならば他者とのディスカッションによって変化したり削られたりして商業的な成功を目指し一つに絞られていくだろうキャラクター像ではなく、売れる売れない関係なく地球上に存在する個々人の感覚を何一つボツにすることなく加え続け、生命が存在する数だけの欲求と理想を持った究極の八方美人な集合体のイメージです。全体主義かつ個人主義であるという矛盾を抱えています。メグハギサーガの劇中、メグハギが内包する自他の全ての欲求と理想が表象した際、無限な他者の欲求と理想が同時に全てみえてしまい、それは当の本人にとっては快感だが他人にとっては不快感とも感じるようなこともあり、個々の生命同士が永遠に分かり合えないような嫌悪感の塊やアンコンシャスバイアスの化身的な存在にもなります。関わる人が多すぎて軸を失いカオスな展開になってしまったメディア作品のように、それ以上に、グロテスクで有象無象な欲求と理想がひしめき合っています。

この原作を描く自分はそのような「関わる人が多すぎたり意見が多すぎて方向を完全に見失った作品」にこそメタ的だけど人間らしさが非常に多く描かれていると感じて、そして描くものの方向が統一されないというものに自らが欲する救いと価値を感じ、スペースノットブランクに原作を提供する際は「矛盾と見失い」ということをテーマに原作のクリエーションを行っています。感覚として「新品しか売っていないリサイクルショップ」のような「本物の乗用車しか売っていない模型屋」のようなものを考えるイメージです。

『ウエア』では世界中の理想と欲求を限りなく集めようとし始めるメグハギの誕生があり、『ハワワ』ではメグハギに反抗するため個々の欲求と理想を否定する現実主義の「オヌユキ」が誕生します。そしてメグハギとオヌユキは神話のように合体し、意識と無意識を逆転させる「メダハギ」が誕生します。登場人物たちは、現実からの逃げ場所となっていた想像の世界では、もはや現実に太刀打ちできなくなったため、新たに無意識の世界へ突入していくところから第三部は開幕します。正直、まだ自分でもよく分かっていません。そして『セイ』は、意識から無意識に逆転する狭間の一部を描いたスピンオフです。メダハギは遺伝子情報を学習したAIを起点として人間の意識と無意識を逆転する実験を行いました。正直、自分でもこんなこと書いてて結構分かっているけど結構分かっていません。

『セイ』やメグハギサーガには、どうしても原作者である自分の感覚が付き纏います。人を選ぶけど選ばないかもしれないし、人によっては嫌悪かもしれないけど愛好かもしれないし、分かりにくさの果てか分かりやすさの目の前かもしれません。『セイ』の原作は前作『ハワワ』よりも多く映像と音楽が加わりました。それは自分自身も言語化できていないけどできている感覚に、文字以外のものを活用して作り上げようとしたからでした。上演をするためのものだけど上演をするためではなく、他者にも読んでもらうためなのに自分だけが読むためだけに生み出しました。今回も『セイ』が「上演される」ということに大きく矛盾を感じていますが、よりその矛盾が生まれるほどに、周りで蠢いている生命の振れ幅が大きく何重にも感じられていく気がします。

かつて「全員クローンだったら本当に幸せなのに」なんて考えていた中二病な自分を隠しつつ曝け出しつつ、その恥ずかしくも変わっていたけど変わらない当時の浅はかな理想と欲求もメグハギに預けたまま、原作『セイ』は小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクに渡りました。小野と中澤によって原作のルールは書き変わり、額田大志による多数の音楽も加わり、自分以外の多くのキャストスタッフによってなされる予想外と想定内で原作とは別物でそのままの『セイ』の上演は「静かな絶叫上映会」になりました。

原作は公開しないので、2023年6月29日(木)から7月2日(日)だけ『セイ』はご観客の皆様の前でのみ生まれます。

セイ

イントロダクション
池田亮

オープンリハーサルのレビュー
有吉玲/高橋慧丞/田野真悠

レビュー
森山直人:「演劇」から、神々を悪魔祓いすることは可能か?──スペースノットブランク『セイ』劇評
山田由梨:わたしが客席で居心地が悪かったのは

セイ|有吉玲/高橋慧丞/田野真悠:オープンリハーサルのレビュー

有吉玲:感染と増殖の上演──「リハーサル」によせて

 review、つまり、再び見るという仕方で「あなたが思うレビュー」の筆をとりたい。
 鑑賞にあたり提示された第一の、そして最大の設えは上演が「リハーサル」であるということだった。観客/私は、予めそれがリハーサルであるということを知らされ、リハーサルへの関心そのものの記述を上演前に済ませ、舞台芸術関係者というリハーサルに馴染んだ身分として上演に同席していた。その作品が「メグハギ三部作」二部終わりのスピンオフ、『セイ』であった。ウェブサイト記載の説明書きは以下である。

 “亡くなった死刑囚の意識をサーバーに保存。デジタル上でAIにより繰り返される更生と再生と転生。それらの現実への報告。”

 リハーサルという、副産性、反復性、そして未完性──「本番」に未だ至らないと同時に舞台の本質的な終わりえなさに係るという点において二重であるこの意味合い──に裏打ちされるこの上演機構と、一見これほど適合的な舞台もそうない。つまりこの条件において、スペースノットブランクは明確に再演の問題を突きつけている。
 と、鑑賞前の私は気楽に考えていた。
 しかしこの舞台は、そんなクリシェがかった解釈タームを圧倒的なライヴ感と侵襲性によって忘れさせるものであった。
 この舞台は終わらないのではなく、終わり続け、そして始まり続けているのではないか。繰り返されるズレあいは軽快な演者らを駆動する。演者らはおのおのの役割を全うしながら、始まりを生き続けてゆく。そしてその中で明確な役割をあてがわれ、振り付けられ、巻き込まれてゆくのが、他でもない観客/私/あなたである。
 『舞台らしきモニュメント』においてチケット代わりとなった「私」のチェキ写真のように、スペースノットブランクは観客に「持ち帰り」を要請していた。しかし今やあのリハーサルは、観客/私の現実の時間に侵食し、「持ち帰り」のできる代物ではなくなっている。リハーサルは「現在」として観客/私に立ち現れ続け、パラサイトされた観客/私は気がつけばあるフレーズを口ずさんでいるという仕方において、侵襲を自覚することとなる。そして、新たに始まりを生きる一員となるのだ。
 Say、為い、性、姓、sey、聖、生、they、スペースノットブランクは、ありきたりのリフレインを行わない。それは観客の感染と舞台の増殖という名の下で正しく理解されるべきである。「実存しない意味と実存する意味が「上演」というシチュエーションを用いて実存という意味と意味という意味を意味」することの先で、カウンタブルな個人を前提した有性生殖が軽やかに乗り越えられてしまう(と、言ってしまわせられている)舞台を目の当たりにした観客/私/あなたは、今後もこのコレクティヴの上演を見続けてしまうであろうというのが、現状ここで書きうることである。

有吉玲 Ray Ariyoshi Web
パフォーマー。
「感覚を保存する体づくり」を指針とした活動を行う。

高橋慧丞:はてしなきめぐはぎ

 『ウエア』初演&再演、『ハワワ』の上演を経て、〈メグハギサーガ〉はそのスピンオフ作品『セイ』へと連なる。
 スピンオフ。なんて良い言葉だろうか。本流に対する愛情が深ければ深いほど、胸が高鳴る。未だ明らかにされていなかった見知らぬ一面の公開が予見されている。見知らぬ一面。なんて魅惑的な響きだろうか。
 ひと足さきに目撃した身として断言するが、朝食を食べずに席に着くことは危険だ。しかし後は気軽な気持ちで、目の前で展開される物事に素直に反応を示しているうちに、気がつけば、とてつもなくドラマティックなアドベンチャーが思わぬ角度からあなたをその内部に取り込んでしまうことだろう。
 たとえ本流に対する愛情を微塵も持ち合わせていなかったとしても、こんな一面を体感させられたら、あなたはもっと〈メグハギ〉について深く知りたくなってしまうことだろう。
 そこで何が行われるかについて簡単にだけ触れておく。
 瀧腰教寛が歌い、奈良悠加が歌い、古賀友樹が歌い、荒木知佳が歌う。
 オープンリハーサルで体感したのはそうした約2時間の、俳優たちの生がほとばしる、濃密なエネルギーの奔流だった。2時間もあったら疲れてしまうかもと思ったあなたも安心の10分間の休憩が用意されていて、それは観劇の休憩史上最高に、心身ともに安らかになれるものであることをお約束する。
 第一部 → 休憩 → 第二部、この構成が完璧だ。
 本番へ向けて一段と精度が高まり、凝りに凝った舞台美術の中でこの作品が上演されるのだと考えると、オープンリハーサルを観終わったばかりでありながらすでに本公演が楽しみでならない。
 『セイ』、あまり演劇を観たことがない方にこそ観てほしい。
 『セイ』、スペースノットブランクの演劇を観たことがない方にこそ観てほしい。
 『セイ』、スペースノットブランクの演劇をむかし観たけれどなんかよくわかんなかったし苦手っぽいかもと思っている方にこそ観てほしい。
 『セイ』、もちろん既に期待している方は観てほしい。
 『セイ』、子供も大人も観てほしい。
 『セイ』、最近落ち込むような出来事があった方にこそ特に観てほしい。
 劇場を出るときあなたは「YES!」と叫んでいるだろう。あるいはそのさかさまの言葉を。再生してほしい。逆再生してほしい。何度でも螺旋状になって永遠に。

高橋慧丞 Keisuke Takahashi Twitter
映画美学校 言語表現コース「ことばの学校」基礎科・演習科 第1期生。スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』のクリエーションメンバーとして城崎国際アートセンターにて行われるアーティスト・イン・レジデンスに参加する未来を考えていると手が動き、アーティストを志しているものとなって勝手に書類を送りつけ執筆の機会をいただきました。

田野真悠:「セイ」音から始まる物語

 ドラムにギター、マイクスタンド、大きなスピーカー。私は何を観に来たのか、どうしてここに来たのか。
 頭にたくさんのハテナが浮かんだまま、MCに呼び掛けられるままに時は進み、自分の過去と現在の整合性は取れない。
 説明書、論文、命題、自己啓発本、参考書、そういった類のものは皆「はじめに」から始まる。
 この物語も「はじめに全てを決めるのは I です。」と前置きがなされてから進んでいった。
 「セイ」生、正、政、静、性、say、、、音から連想されるものは形の違う「ことば」だった。
 スペースノットブランクは概念の破壊と創造を試行するアーティストであるという認識が、本作を通してよりはっきりとしたものになると感じた。
 今いたはずの空間は、気づかぬうちに乗っ取られ、別の空間に変わりゆく。今この瞬間でさえ、AIによってほだされているのかと錯覚する。
 AIとI(私)の対話。反復と呼応によってそれはエラーにも、新しい正解にもなりうる。
 全てを決めるのは、I(私)か、AIか、それとも愛か。
 あまり目立たない街角で寂れた様子を想起させるライブハウスから始まる物語がどのように着地するのか、多くの人に見届けて欲しい。

田野真悠 Mayu Tano
役者。初出演、主演作である田之上裕美監督作品「裸足」が東京国際映画祭Amazon Prime Videoテイクワン賞や、なら国際映画祭NARA-wave にノミネートされ、以降数多くの映画に出演。2023年以降も複数の公開待機作を控える。

セイ

イントロダクション
池田亮

オープンリハーサルのレビュー
有吉玲/高橋慧丞/田野真悠

レビュー
森山直人:「演劇」から、神々を悪魔祓いすることは可能か?──スペースノットブランク『セイ』劇評
山田由梨:わたしが客席で居心地が悪かったのは

中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

11月19日
世界は 私たちがここで言うことをほとんど気に留めず 長く記憶することもないでしょう しかし 彼らがここで行ったことは決して忘れることはできません ここで戦った彼らがこれまで立派に進めてきた未完の仕事に ここで捧げるのは むしろ生きている私たちなのです むしろ ここにいる私たちが 私たちの前に残された大きな仕事に専念するために この名誉ある死者たちから 彼らがその全力を尽くした大義への献身を高めることです 最後の全力投球を 私たちは この砲弾の死者が無駄死にすることのないよう 強く決意することを聞くことです 神の下にあるこの国が自由の新生を遂げ 人民の人民による人民のための政治が地上から滅びることがないように

www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

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4月13日
いっぽう、わたしが求められているのは「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー」です。本人たちを見た、本人たちによる、本人たちのレビュー。「見(られ)た」対象(らしきもの)の名は二重鉤カッコで括られていなくて──スペースノットブランクは公式ウェブサイト上の公演名の表記を二重鉤カッコで統一しています──、「レビュー」(=「による」もの)の制作主体(らしきもの)が「本人たち」と呼ばれています。これらのことによって、「レビュー」を修飾する──つまり、このテキストの内実を規定する──「本人たちの」という文節は謎めいてきます。あわてんぼうなスペースノットブランクの担当者さんが、カッコをつけわすれてしまったのでしょうか。いやいや、募集されていたのは、やはり「『本人たち』を見た「本人たち」による『本人たち』のレビュー」ではない何かなのです(とはいえ仮にそうだったとしても真ん中の「「本人たち」」は不可解ですが)。第一部に出演した古賀友樹さんも次のように喋っていました。

〈本人たち本人たち本人たち 本人たち「私」も本人たち 前に本人たち 今のこの体形とは違う本人たちもあり 本人たちは無数に存在してる でも それ以外の説明のしようがなくて だから思ってることしか言えない 本人たち決してそのイコール本人ではない 本人って言ってるけど 本人ですかって言われたら本人じゃないです本人たちです みたいな 怖い 怖い だから 概念です 本人たち 誰かのプライバシー それは決して本人じゃない〉

さて困りました。『本人たち』のレビューをそのまま書いてしまったら、いけないのかもしれません。せっかく無料で二回も上演を見せてもらい、販売されている戯曲の冊子までもらい受け、記録映像まで送ってもらったのに、要件を満たしていないじゃないかと違約金をせまられてしまうかもしれません。辛いです。しかもそのことに気がついてしまったのは、さらに一週間後のことでした。

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6月25日
お昼到着です

ありがとうございます でしょ 魚いる持ってくるだけの人 新私agさん ねえ なんなんだよもう一気に持ってこい なあ 細かく何度も持ってくんのお昼は なんでなんだよもうたらふく食ったよ いいってサイレントヒルはう 引いて連投あもう を切るも良い夜になるぞ e翌春ランチは これ 最悪、1/100でもヒール選んジャズが 百合って隅っこから 全部に消化純子さんがいなかったのを 言いてランチはもう

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4月18日
スペースノットブランクで「保存記録」を務める植村朔也さんのイントロダクションに即して考えてみましょう。

「ステートメントと照らし合わせても毎度不可解なスペースノットブランクの上演[…]は、しかし特定の名によって束ねられて他から区別されるに足る相応の共通因子を時に有しているはずであって、そしてわたしの見立てでは、それがそれらの上演に固有の問題構制を示している。[…]制作の主体概念を問いに付してきたスペースノットブランクの舞台について、単におのおのの観客のうちに生じた効果を記述するのにとどまることなく、なんらかの共有可能な言説を打ち立てようとするのであれば、まずはここから始めるほかないからだ。問いは名とともに繰り返される。」

もちろん、制作メンバーにクレジットされている方の言葉を留保なく例証にりようすることは、権利上難しく思います。とはいえ、「上演に固有の問題構制」が、複数のレビュアーを招いた「オープンコール」企画に対する命名行為においてもその顔をのぞかせていることだけは間違いありません。

然るべき名が貼りつけられることで、〈無数〉なものの語りえなさはなんとか手なずけられます。鑑賞者の多様な位置づけからしてみれば到底数えきれない「ぺら」「ぺら」な諸要素は、ひとたびそれらを補綴する名を与えられると、多くのことが思われ・語られうるオブジェクトへと実体化していきます。それは(リテラルかつフェノメナルに)余白だらけでもいっこうに問題ありません。ホチキスを使わない「無線綴じ」で簡素に製本された戯曲のように。

内野儀さんは2022年にスペースノットブランクが上演した『再生数』を、一見したところ「わけがわからない」としながらも、次のように評しました。同作は中継映像に媒介された「親密さ」も手伝って、観客各人に、「通俗的な」生活履歴との呼応とは位相を異にする「真正なものとしか呼べない情動・感覚・思考」(傍点省略)をもたらす、と。してみると、一連の経験は「再生数」という名のもとで=その代理として(in the name of)はじめて可能になったものだとはいえないでしょうか。このとき、目の当たりにされた上演の瞬間瞬間でいかなる相互関係が成立・破断していたか、ということをめぐっての細微な価値判断は、宙吊りにされます(急ぎ足ながら、スペースノットブランクとも協働することの多い松原俊太郎さんの言葉を引いて、事態を概観するたすけとしましょう──「戯曲の登場人物には登場人物を見ている観客が含まれる。[…]観客は沈黙し、何ら反応を返さなくても、現にただそこにいて、見て、聞いている。観客は対話に含まれている。これを無視するわけにはいかない。登場人物同様、対話に身を曝している観客の身体は一瞬一瞬で変化している」(「聞こえる声のための対話のエチュード」))。経験の支持体となるある状況に指をさし名をつけることができたら、わたしたちの共通の足場(プラットフォーム)はひとまず確保される。このことが重要なのです。

(たとえば、ポーカーテーブルの上での「コール」を、局面が不確定な状態で──嬉々としてか、嫌々なのかはわからないまま──勝負に乗り続けるための手続きであるといい換えてみましょう。そうであれば、オープンコールによって開かれたままのわたしたちのプレイ(上演=戯曲)にも、まだ決着はついていないはずです。)

さて、『再生数』の「再生数」に対する関係がそうであるように、『本人たち』は「本人たち」へと無限に近づいていくことが、ぼんやり見えてきました。

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4月14日4月21日
どうやって 捨てよう どうやって 届けよう ジャガイモは 秋じゃない かもしれない

どうだろう 春 夏 秋 冬 今

かもしれない

季節は 共通認識している

かもしれない

春だなあ

冬 寒い

今 窓を閉めました

ひとり かもしれない

どうだろう

送らないで おきましょう もう 満足 尊敬してなかった まったく尊敬してなかったけど すごい尊敬した 大人に対して 守られている時に 上の 守られていない 経験している それを考えると すごいなあ 思います 花火みたい

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4月22日/7月25日/12月1日
「私の散らばりと折りたたみを練習しながら、その散らばりと折りたたみの性質自体を考える、そういう公園そのものを作る公園での遊びこそが、楽しい遊び。そういう遊びを、無理にでも肉体に強いていく必要がある。」(鈴木一平+なまけ+山本浩貴+h「座談会1 2015/05/17→2015/05/31」)

八年前に山本浩貴の発した言葉が、第一部「共有するビヘイビア」での古賀友樹のパフォーマンスと共振している。客入れ中の場内の雰囲気を否応なく張り詰めさせる前説や、劇場空間をめぐってなされる虚実入り乱れたエクフラシスといった、遊び心のあるふるまいについてだけいっているのではない。遊び場をつくる遊び──すなわち、稽古場を含む非-劇場で遂行された制作プロセスが発話内容や身振りの上でも構造の上でも反復されながらの上演は、〈もっとでたらめになっていく〉。〈でたらめになっていって 混沌の中に生まれてそれが上演だから〉。

幾度かの名義変更を被り、その都度〈マイナーチェンジ〉が施されてきたという『共有するビヘイビア(或いはクローズド・サークル)』について、同名のウェブページに掲載されているインフォメーション(作品概要)にはこうある。

「『共有するビヘイビア』は、私たちの恒常的な舞台のつくり方を観客と共有し、生み出される舞台を世界へと共有する。行為としてのクリエーションを分解し、パフォーマンスが組み立てられる過程を展開することで、観客が私たちの舞台を追体験しながらそこに実在する上演の時空間の部分を想像力によって担い続けることとなる。」

「舞台のつくり方を観客と共有し、生み出される舞台を世界へと共有する」営みの〈根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通している〉。〈上演っていう言葉を使って説明を行っています 中身は別になんだっていいんです〉。制作/伝達過程へと再帰する制作/伝達行為として自己表明する舞台は、そのうえ十分に笑えるものであるからには、ほかでもなく「公園そのものを作る公園での」「楽しい遊び」である。それは、さんざん指摘されているとおり、大小ないまぜのコンポーネントが幾重にも「散らばり」「折りたた」まれたすえに出来している。(タイポだらけの奔放なテキストをことごとく読みこなしていく古賀の演技体(おもに発話)は、強度の「強い」られ感をまといつつ、〈言葉の集大成〉としての〈言葉〉たる説得力を発揮してもいる。)

また、精妙なステージングを志向するとき、予測と制御を逸脱しうる観客の鑑賞態度の放埒さは忌むべきものと考えられてしまいそうだが、そういうわけでもない。第二部「また会いましょう」で、渚まな美と西井裕美は出会いの被膜を行ったり来たりしながら調整の限りを尽くされた掛け合いに興じる。ダイアローグは同期したと思ったらすぐさま非同期に転じてしまう。リプレイされる当たり障りのない会話(に聞こえるもの)は、アクターとキャラクターとナレーターの分節化をまったく自明でなくする。そこには婚活や家庭をめぐる誰かの実際的な生の息遣いが感じられ、地名や人名、実在しそうな対象のイメージがちりばめられていることもあいまって、あいまいな景色の共同想起がなされる。このとき動員される観客の「想像力」は、まぎれもなくわたしたち自身のものである、のだが……、

「たえず自己にまつわる記憶を喚起し、それを想像力に結びつけて、存在の感覚を確認すること──これこそが、[チェーザレ・]パヴェーゼのような日記作家の、自分の日記を再読し新たな記述を追加するさいの、一見したところ苦渋にみちてはいるが、それでも他の何ものにも換えがたい楽しみであったにちがいない。」(富永茂樹「自己保存装置としての日記」)

社会学者は、書き手によって繰り返し読まれ、いつでも加筆修正されうる、自己目的化した日記が、実利や自己規律のために用立てられることなく「保存という行為の本質を何にもまして純粋に守」るさまに、逆説的な「自由ないし解放」の契機を見た。たしかに、第二部では、十一の場それぞれの見出しに日付が掲げられていて、カンパニーのウェブサイト上で公開されている日付つきの第三期「本人たち」のテキストと合致する発話もあった。そういえば、昨日参加した日記をめぐるトークイベントでは、日記を日記たらしめるのは何かと聴衆の一人に問われた小説家の滝口悠生が「最初に日付が書いてあること」だと答えていたが、そうであるなら「また会いましょう」もまた日記である、と強弁できなくもない。しかし、わたしたちが直面したものと日記とはやはり多少の異同がある。つまり、「喚起」される「記憶」はいささかも「わたし」のものではない。それどころか、「喚起」される「記憶」はそこにいるアクターのものである保証も、彼女らの傍らで演出に従事していたほかのだれかのものである保証もない(もちろん日記は実在する人物による偽らざる生の記述である必要などみじんもないが、少なくとも、読解を通じて(日記の書き手としての地位を引き受けうる)統合された執筆主体が仮設されるテキストでなければならないだろう)。帰属先をもたない光景が空間に満ち満ちていくばかりなのだ。

ところで、起源なき言葉たちの周りをうろつく「本人たち」の『本人たち』は、いわゆる「アーカイヴ」と呼ばれるものに似た仕方で作動しているようなところがある。そこで、アーカイヴの再構築やデータベーススキーマの再設計などに携わるアーカイヴの理論家・上崎千のレクチャーを手がかりにしてみよう。適宜パラフレーズしつつ、議論の一部を紹介したい。

上崎は、ブルース・ナウマンのヴィデオ作品《Wall/Floor Positions》(1968年)が雑誌『Avalanche』(1971年冬号)上に掲載された際のエディトリアル・デザインに着目する。パフォーマーによる一連の動作をうつした複数枚の静止写真が(ブラウン管のフレーム付きで)紙面にレイアウトされるとき、そこには「表現」の「プレゼンテーション」(提示、現前化)とは異なる「ドキュメンテーション」(記録、文書化)という時間的契機が現れる。しかし同時に、印刷物の上で「分解された(ばらされた laid out)」「記録」写真は、映像内に継起するパフォーマンスとは異なる時間枠にしたがって「再構築」される。ならば、これはすでに一個の「表現」と化しているといえまいか。逆に、おおもとのヴィデオ「作品」も、生(ライヴ)のパフォーマンスを撮り収めた「記録」としての性格を帯びている。かくして、事態は限りなく輻輳していき、もはや「表現」と「記録」のいずれかを本質化することはできない。あいだの「/」はつねに引かれ直すのだ。そして、確たる始源の欠缺から生じるこのような運動性にこそ「アーカイヴに特有のフィクション性」がほの見える。「私たちは、「アーカイヴ」の持つフィクショナルな質に積極的に関与し、そこにどのようなリアリティを構築していくのかという課題を担っている」。

日付の振られたテキスト群、観客から見える/見えない映像(+字幕)、自在に変形を遂げる舞台空間たちが織りなす『本人たち』は、「宇宙のようなスペース」とでも形容したくなる、質(としての)量を備えたエンティティと化している。それは果たして、「本人たち」という名辞のみによって束ねられた、いまにも四散しかねない集合体である。『本人たち』は、(カッコなしの)本人たちになり代わる欲望をつねに秘めているともいえるだろう。上演はアーカイヴのように身をかわして、わたしたちの手をすり抜け続ける。なればこそ、上演に上演として触れ、それをしかと批評するためには、その運動性と構築性を丸ごと反復する「保存」「記録」行為を措いてほかにない。

「おもちゃをもっとも有効に修正することは、教育者であれ、製造業者であれ、物書きであれ、大人の手におえるものではない。子どもがあそびながら自分で修正するのだ。おもちゃは、どこかに置き忘れられ、こわされ、そして修繕される。」(ヴァルター・ベンヤミン「昔のおもちゃ:メルキッシュ博物館のおもちゃ展覧会」)

第一部冒頭で宣言されたように、わたしたちはみな〈上演に送り出〉される〈子[ども]〉である。子どもたちはそれぞれの現在地においてきっとまた会うだろう。プレイは共有されるたびに、新たなるプレイとして再生するのだ。

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3月17日
これ 文章で読んで面白いかわからないけど、本当に

あの過去最高のジョークのやつ ちょっと面白くないですかね

うん いいですよね

飯豊山わかった 音声できいてなんか すごい変な音が出るってなんなんだと思って

なんか音で聞くと面白いかもしれないですよ

いやあ まあでも、そう だからこう、なんつうのかな どう使われる加工わからないという見込みの上で 話ずっとしてる方が 素直で良いかなみたいな やっぱなんつうの、こう なんかまあ 僕っぽい文章をちゃんと意識していくかって思ったら こうなった

うんうん

やあ なんかこう、わざとらしいところもあるから とりあえず使いづらいと思うけど

たしかに こうじの部分ではこう 時のレトリックみたいのが 結構普段書いてる文章よりは素直に出てる気がしてて するっていう言い方も なんか誠実な気がしますけど

本当に何も感覚 何も考えずともかく 適当に書いたらこんな感じだよね、うん

僕もこれ ちょっと実は 全く何をどうするか決め決めずに書いてもらったから なかなかちょっと面白かったんですけど そういう面白さぼくがあったからなんか 満足したんですけど やっぱこう書かれたtextなんで それをそのまま上演するっていうことはちょっとしないというのはまずあって むしろその書かれたことは事実としてあるっていうことに 僕は演出上の意味があると思うので ある種のこの文章を一つのモニュメントにしつつ それを取り巻く出来事をその舞台に乗せるっていうぐらいの感じかな と思っております なので、今いろいろしゃべってもらって 私、今ちょっと 会話のレベルがちょっとなんかメタなるからあれだから言いにくいんですけど 今しゃべってもらったことは 結構ある種のモーメントの干渉経験っていうことのアーカイブになるかなって思っているので で、それを舞台にしようかなっていう 今の あの、これまでずっと あの、今 ディクテーションで撮ってたんですけど 会話を そのまま使うかどうか別として これ 今 あらためていろいろ喋ってもらった中で ズームをね 限られた価格だからなかなか難しいんですけど いってみれば その癖とか身振りとかを ちょっと幾つか出してサンプリングして それを来週の本番の時にはじめいくつか示して どれが面白いかなっていうところから始めようかなっていう なんとなく思って なんか 今の時点で堂々作っていくっていう方向で お二人の方から なんかあります フィードバックっていうか アドバイスっていうか 助けて欲しいんですけど 当日にはどうにかなるんだろうなあっていうすごい謎の気持ちがあります 最悪過激だから あの しゃべってもらえれば何とかなるので なんか面白いポイント 僕らが合意できて 困ったらもうその面白ポイントに向かっていくように あの場を作っていくっていう方向で なんか縁起したら もしかしたら あの別に何も台本とかなくても大丈夫かもしれないけど

ねえ怖いですね

いうかなんか そこそこでもデータもとれた データとか言ったらあれですけど 蓄積もできたので 僕しゃべりすぎましたけどどう考えても、まああの

終わる

そうですね まあ、うん

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ソース(参照順)
Abraham Lincoln, “The Gettysburg Address: Bliss Copy”, Abraham Lincoln Online, 2020 (Originally addressed on: Nov 19, 1863).
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』(戯曲)、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、2023年。
タイマン森本【トンツカタン森本】「【タイマン】サツマカワRPG×トンツカタン森本」(動画)、YouTube、2022年6月25日投稿。
植村朔也「イントロダクション」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年3月21日掲載。
山本浩貴+h(いぬのせなか座)「伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年3月21日掲載。
東京はるかに(植村朔也)「舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評」『批評 東京はるかに』(note)、2023年4月3日掲載。
内野儀「メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年1月31日掲載。
松原俊太郎「聞こえる声のための対話のエチュード」『現代詩手帖』61巻11号(2018年11月号)、思潮社、2018年10月29日、57-61頁。
「4月14日」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2021年4月14日掲載。
「4月21日」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2021年4月21日掲載。
山本浩貴+h+鈴木一平+なまけ「座談会1」『いぬのせなか座』1号、いぬのせなか座、2015年11月23日、8-37頁。
「共有するビヘイビア(或いはクローズド・サークル)」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、掲載日不明。
富永茂樹「自己保存装置としての日記」『都市の憂鬱:感情の社会学のために』新曜社、1996年3月5日、173-177頁(初出:『GRAPHICATION』212号、富士ゼロックス株式会社、1986年2月)。
植本一子+金川晋吾+滝口悠生「日記を書く/誰かを書く」(『三人の日記 集合、解散!』刊行記念イベント)、SCOOL、2023年4月21日開催。
上崎千「アーカイヴ的思考(archival mind)について」『地域・社会に関わるアートアーカイブ・プロジェクト:ピープラスアーカイブ 一年の活動記録』特定非営利活動法人アート&ソサイエティ研究センター、2011年3月、20-29頁。
小野彩加 中澤陽「メッセージ」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2022年1月15日掲載。
ヴァルター・ベンヤミン(丘澤静也訳)「昔のおもちゃ:メルキッシュ博物館のおもちゃ展覧会」『教育としての遊び』晶文社、1981年9月25日、38-48頁(初出:1928年)。
など

中本憲利 Kent Nakamoto
インディペンデント・キュレーター。企画、批評ほか。複数の団体でPRに従事。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

長沼航:1でも2でも群れでいて

 スペースノットブランクで保存記録を務めている植村朔也さんが「水族館」の比喩を用いて同団体の諸作品の特徴を説明している[注1]。曰く、水槽のガラスを隔てて向こうにいる水族館の魚は独自の世界を有しており、こちら側にいる人間に頓着しない。それに似て、「スペースノットブランクの舞台が客席との間に設けている仕切りは、どちらかといえば水族館の壁寄りの「第四の壁」であ」[注2]り、俳優が観客の属している時空間とは独自の時空間においてパフォーマンスをしているように見受けられることを、スペースノットブランクの作品がもたらす特異な効果だと述べている。
 この指摘に言及するのは、僕が「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビューのオープンコール」の応募に際して課された簡易レビューおよび志望動機を、動物園での経験を手がかりに書いていたからだ。動物園で猿を見るのがちょっとしたマイブームで、けれどそれはマイブームと呼ぶには僕が舞台のことを考えるうえで重要な出来事でありすぎた。

 檻の中にはロープや鎖、柱や段差などが設けられていて、人間よりはるかに俊敏な猿はそれらを用いながら、縦横無尽に動き回ったり、はたまた端でうずくまったりしている。それぞれの個体は違う目的を持って行為しており、そこでは「異なる線がいろいろな方向へと引かれていくような時間と空間が広がっていて、私はそれを作品──つまり、主体の意図が介在した構成物──ではないが、まさしく舞台だと思う」。「個体の群れが集合と離散を繰り返していきながら、檻を運動で充していくあの様子。彼らにとってそれはただの生命維持行為の延長であり普通のことだ。しかし、見つめる私にとってはまなざされるべき舞台であった。人のつくった作品で、こんな充実を観ることはできないだろうか」[注3]。
 動物園の猿の檻のような舞台を観たい。しかし、私たちは猿ではない。植村さんも「スペースノットブランクは魚ではない」[注4]と念を押している。パフォーマンスをする俳優もパフォーマンスを観る観客も人間であり、人間は人間に見つめられるときもはや猿や魚のようではいられない。自分をどうやってプレゼンテーションするかをどこかで考えてしまう。無頓着ではいられないのだ(というか、魚のことは知らないが、猿だって他の猿の目は気にして行動するものだ)。
 また、舞台は多くの場合、劇場と呼ばれる場所で上演され観られる。動物園の猿がいる檻は彼らにとって生活の場だ。生活の場が同時に舞台のように見つめられうる。だがしかし、上記の理由から私たちは生活の場をそのまま舞台として他の人間に見せることはできない。生活に根差した普通のことが充ちているだけで面白いのに、人間はなかなかそれを舞台にはできない。そして、生活の場から離れた劇の場において、わざわざ何かしらの表現をこしらえている。
 僕の最近の関心は、生活の場から離れた劇(の)場において行われる表現は俳優/観客にとってどのように根拠づけられるのかという点にある。そして、『本人たち』は生活の場──言い換えれば、舞台に立つ人間がその人自身でありうる地点──と劇の場を独自の仕方で貫通させようとする探究を突き詰めたものでありそうで、これを観ることは僕の関心を深めるのに役立つのではないかと、応募時の僕は目論んでいた。

 だが正直に言えば、『本人たち』を観て、僕は困ってしまった。観ているときはそこまで困惑しない。決して理解不可能なことだけやっているわけではない。むしろこれまでのスペースノットブランクの上演に比べれば、コンセプトが作中で説明されてしまって非常に分かりやすい。
 けれど、思い出してそれについて考えるとか何かを書いたりする段階になると、途端にはっきりしなくなる。それぞれの部分が他の部分と関連しているのに、どういう関係にあるかを言い当てるのが非常に難しいのだ。
 例えば、ほとんど古賀友樹さんの一人芝居(ないし1.5人芝居)である第一部の『共有するビヘイビア』には「ガンバリズム」から始まる一連のシークエンスがある。ここでは「おやすミンミンゼミ」「おはヨーグルト」「ありがとうもろこし」「ありが10匹」など、二つの言葉を合成する言葉遊び的な言い回しについて真面目に「お休みの静かなイメージ から一気にうるさいイメージのミンミンゼミがくっつくことで ギャップの笑いが生じる」「これは多分ありがとうと言っている対象にたいしてトウモロコシをあげてる」[注5]などと説明される。確かにユーモラスで面白く、内容もよく覚えている。けれど、一体なんでこういう話になったのか、それからこのあとどういう話になったのかが全く思い出せない。
 さらに言えば、一群のセリフを抜き出しても、繋がりが判然としないものもある。第一部の終盤に出てくる「いわゆる簡単にちょっと対してっていう 簡単に自己自己紹介をしてもらう 説明してくれ として 自己紹介として 自分のことを ラストに行けないんです」[注6]というKの台詞は全体としてはラストに向けて自己紹介をお願いするものとして聞ける/読めるが、厳密にはよくわからない部分がとても多い。
 僕は上演のあいだに起きる物事を容易にやり過ごせてしまう。なんとなくでいられてしまう。それが観客という立場なのかもしれないが、同時にたくさんのことが無視される。でも、たくさんのことを無視してしまってもいいように、もしかしたらこの作品は作られているかもしれない。

 山本浩貴+hがプレビュー上演のレビューで触れているように、本作では俳優と観客の間にある伝達の構造に焦点が当たる[注7]。必然的に最も強調されるのはメタ的な伝達だ。(作中の例示を引っ張ってくれば)「疲れたよ」という言葉が「疲れたという底を示す」(体を示す)[注8]ものとして使われるように、作中の無数の言葉は全て「伝えてるよ」、すなわち「「伝えてるよ」を伝えてるよ」のパラフレーズとして捉えられる。例えば、第一部では、『本人たち』のこれまでの来歴、STスポットの歴史、顔の(部分的な)情報、「念力暗転」のやり方など様々な事柄が絶えず俳優から観客へと伝えられていく。ここでは、いま観ているもの、いまいる場所、いまかけられている技が説明されている。過去に収録・録音された音声をもとに作られたであろう部分でさえ、現在の上演を支えるクリエーションの時間の説明として機能する。そして、それらは説明の内容自体が目的であるというより、作中で説明されるような説明する「私」と説明される「あなた」の関係を構築するための手段として用いられている。
 だからこそ、第一部における古賀さんの口ぶりは完全に観客を志向している。観客に対して何かを伝えているし、何かを伝えていますよということも伝えるように身振りや視線や声の大きさなどが操作される。聞いている「あなた」に対して、古賀さんは絶えずさまざまな仕方で関わろうとする。しまいには、観客のうちの1人とジャンケンまでしてのけ、その勝敗によってシーンが分岐する。
 とすると、古賀さんは水族館や動物園的な独自の世界を作り上げているとは全くもって言えない。水族館の中で似た場所・時間を見つけるならイルカショーだろう。完全に他者から観られていることを意識した振る舞い、丁寧に習得された技をお客様に披露する時間、ときに水をかけたり鰭をふったりするインタラクティブ性。閉じられた水槽ではなく、開かれたショーの舞台として『本人たち』の第一部は捉えられる。飼育員兼イルカの古賀さんの「私はあなたにお見せしています」という態度で貫かれている第一部を観て、私はすっかりエンターテインされてしまう[注9]。
 しかし、ここで伝達とは何を指しているのか。そもそも「何かを説明するとき」に要請されるとされた言葉は、この上演においては前提である[注10]。つまり、戯曲があってパフォーマンスが行われるのであって、説明の意志が言葉を生んでいるわけではない。
 僕は上演を観て、戯曲を読んだ。画面ではほとんど隣接しているこの「観て」と「読んだ」の間には、実際には2週間ほどの時間的な隔たりがある。このように言葉は実際の時空間における構成とは異なる仕方で使えてしまうわけだが、『本人たち』の戯曲もこうした言葉の操作可能性に基づいて作られているように読める[注11]。
 上演において話される言葉は、どうやら過去の稽古場などで話されたものを採集し、文字起こしされたものであるようなのだが、それが元々はどこで語られていたかという文脈からは剥ぎ取られている[注12]。上演を観ていると、言葉の来歴などはそもそもどうでもよく、すでに記録されてしまった言葉を道具としていまここの劇(の)場において観客への伝達関係を作ろうとパフォーマンスが行われているように思える。説明するために言葉が生まれるのではなく、言葉が説明になるためにパフォーマンスが生まれる。そんな転倒が生じている。だからこそ、時に不可解なディテールをもっている説明そのものよりも、それがなんとなく説明になっていることの方に目が向いてしまう。

 と、これまであまり前置きなく『本人たち』の第一部についてのみ触れてきた。上述したことがそのまま妥当するのは第一部だけである。なぜ、第二部『また会いましょう』について口数が少なくなってしまうのか。それは第二部の多くの時間が渚まな美さんと西井裕美さんの2人の同時発話によって進行していき、第一部よりも処理すべき情報量が格段に増え、結果として意味的・理性的な認識よりも聴覚的・感性的な知覚の方に上演の効果がシフトしていくこと、それに伴い僕のうちに生じた感覚を書き落とすのが難しいことに由来している。しかし、このまま放っておくには第二部はあまりにも第一部と異なる。
 第二部で用いられるテキストは第一部に比べて、より由来のわかりやすいものになっている。意味が通っている部分と通っていない部分は依然あるものの、語られるトピックが生まれた場所や卒業論文のテーマ、就いていた仕事、美術館コンでの失敗、自分の名前などについてであること、元々この言葉を話していた人物の実際の個人的経験が反映されているであろうことが認識できる。また、様々な固有名詞(岡山、岸田國士、『かもめ』、横浜、草間彌生など)が出てくるのも特徴的で、話されていることが私たちの現実と地続きのものであると感じられる[注13]。第二部の言葉は、おそらくは実際に演じている2人のあいだでなされたか、もしくはそれぞれが演出家とした会話から作られているだろうと推測できるような内容と質、日常的な響きを多くの箇所で保っている。
 だが、直ちに付言したいのは、このようなトピックの理解しやすさ・とっつきやすさは見方を変えれば、内容としてはひたすら凡庸な話がずっと展開されるとも言えるということだ[注14]。もちろん、美術館コンには意外とアートに関心の薄い人ばかり集まるとか、岡山県民は相互不干渉な県民性を持っているとか、興味深いトピックがないとはいえない。ただ、第一部で古賀さんが言葉を使って僕らを楽しませようとするのに比べれば、渚さんと西井さんははるかにどうでもよく聞こえる内容を話している、もしくはどうでもよく聞こえるように話している。
 しかし、「念力暗転」と並んで上演のなかで最も鮮烈なシステム──2人の俳優が身振り・字幕とともに台詞を同時に発話する──によって、僕は舞台上で語られる言葉に単なる意味の把握とは異なる仕方で耳をそばだてる。似たようなトピックについて、異なる言葉の配置がなされた二つのテキストが同時に読まれる。言語的な意味を把握するよりも前に、会話の響きのようなものだけが耳を覆う。喫茶店の真ん中からいろんな席の会話を聞いているような音環境である。一方の発話に耳を集中させようとしても、同じくらいの声量で、同じようなトピックについて話している。すると、ついもう一方の俳優の声も聞いてしまう。そのなかで音が急に言語として飛び込んでくる瞬間があり、それに出くわすとついつい笑ってしまう(特に私が2回目に観た3/31の上演では何度もそういった時間があった)。「年齢キャンペーンその年にキャンペーンをそれとも念力を念力を年齢決定でも結構使ってるかもしれないですよね」[注15]と西井さんが言うとき、その傍らではつねに渚さんの声が聞こえている。ふと水面から姿を現す魚のように、急に「年齢決定」というよくわからない語が入ってきて、笑ってしまう。言葉が説明として使われる第一部と異なって、第二部では個人的な話題からなるテキストの同時発話がもたらす運動の推移を感覚的に味わうことになる。

 第一部と第二部を横断して言いたいのは次のこと──『本人たち』は全体を通して「群れ」を扱う上演だった。
 第二部の全編を通して、渚さんと西井さんはただ2人のあいだで(例外としてメタ出演の近藤千紘さんの声がありはするものの)言葉と身振りでの交感を行っているのみだ。ときおり観客に視線を送りもするが、だとしても観客とは独立したシステムのなかで言葉と身振りのダンスが行われ続ける。たった2人ではあるが捉えきれない情報量で横溢する舞台を観るしかない。そうした経験をもたらす第二部は動物園的ないし水族館的だといえる。
 思うのは偶然みたいだということ。猿を見ていて感動するのは、生じる複数の行為の交わりがどこまでいっても偶然的だから。そして、偶然だけれども同時に、メカニズムが明確だからだ。周囲のロープや段差や食べ物など環境との交わりによって、それぞれの個体の行為は誘発されている。それらが檻の中を充たすとき、群れとしての充実に感動してしまう。
 『本人たち』の第二部で起きる言葉と言葉のすれ違い/合流の運動は、おそらくかなりの程度意図的に操作されているだろう。だが、観る僕はそれらをほとんど偶然的な充実みたいに受け取る。上演の場で何が捕捉されるかはわからない。偶然捉えられた台詞を僕は聴き、偶然捉えられた身振りを僕は観る。僕のうちに起きる感性的な音や言葉や身振りとの出会いは、意図的な操作によって引き起こされる偶然だ。それに対して、第一部は僕においてぜんぜん偶然的にならない、と思った。
 でも、1人しか出演者のいない第一部もまた群れ的な性質を持ち合わせていたとも思う。それはテキストの作られ方と受け取られ方に関わっている。
 動物園で見る猿は、それぞれに名前がついていて、飼育員や足繁く通うファンたち──そういう人たちが本当にいるのだということを僕は黑田菜月さんの展示「写真で紡ぐ、思い出の中の動物園」で知った──には識別可能だが、一見の僕なんかは正直子供か大人かくらいしか見分けることができない。それは『本人たち』における言葉の記名性と類比できる。それぞれの言葉を話した人物の名前ないし時間や場所は、稽古場にいた当人や演出家にとってはそれぞれの要素のうちに明記されているかもしれないが、観客にはそれを読むことはできない。「これは誰の話なんだろう」と思って思考を巡らせても答えはわからない。言葉は原理的に弁別不可能な群れになっている。
 そして、『本人たち』においては、語られた言葉が常に誤った解釈に晒される可能性が機械文字起こし・機械翻訳によって、観客の解釈に先立って提示されてすらいる。すでに間違って認識されてしまっている個体がウヨウヨしている。ここで私たちはもはや名前を取り違え(られ)ていい[注16]。

 それぞれに由来を持ち記名されていた言葉や身振りは稽古場から戯曲/劇場に移しかえられるなかで、「本人たち」という匿名的な群れへと再編される。なんらかの由来の存在を暗示するものの、元々の姿とは別様に組み立てられてしまっている。その組み立てこそがフィクションとして有効に機能しうるのは僕も共感できる。けれど、僕はどこかで腑に落ちていない。僕にはもっと別のことを分かりたい欲望があったのだろう。
 『本人たち』に出てくる俳優は、編集された言葉の群れを観客への説明として聞かせるために労を費やしたり、自分の発話が自分の身振りや相手の発話とうまく並行するように自身の感覚を動員している。どちらにせよ舞台上での表現の起点はいまここの関係を成立させることにある。個人としては、上演環境が実際に群れの運動によって充たされる第二部の、音声と言語を行き来するような戯曲と上演の双方にまたがる操作に活路を見出したいけれど、使い古された雑巾をまだ使っちゃうみたいにしてたくさんの言葉を自分の身体において束ねている第一部の古賀さんの演技もすごいものではあるのだろう(自分は途中で心が折れてしまいそうでやれそうもないが、もしかしたら心なんてものを持ち出さずにできるようにパフォーマンスはプログラムされているのかもしれない)。でも、さらにいえば、総じてもっとその俳優が触れている世界のことがわかりたかった。いまここではない過去の蓄積として現前する「本人」の姿が見たかった。ナイーブな僕は、共有や伝達を志向しながらも転倒や屈折を高い強度で持ち込んでくるスペースノットブランクの意地の悪さに、打ちのめされ続けている。

─────

[注1]植村朔也(2022)「1. 舞台は水族館か? 2. 数えられてもダンスか? 3. 舞台はどこに行ったのか? 4. 見えないものがすべてなのか?:スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』評」
[注2]植村朔也、前掲記事。
[注3]以上は「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビューのオープンコール」応募時に筆者の書いた簡易レビューおよび志望動機より。
[注4]植村朔也、前掲記事。
[注5]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』戯曲 p.7。
[注6]同上、p.12。
[注7]hさんの「「伝える」ってなんだろう、と思って見てた」「いろんな箇所で「伝える」ことについて直接的に言及していた」などの発言を受け、山本さんは「話される個々の話題やその主体の個人的情報に重きが置かれるのではなく、それらが立ち上げうるところの「伝える」関係性こそが」上演において中心的に扱われていたと語っている。
 山本浩貴+h(2023)「伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演」
[注8]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.7。
[注9]ちなみに、終盤にはハーネスをつけた滝沢秀明やハリウッドで有名なジャスティンさんが来てくれる豪華なショーだ。
 同上、p.13。
[注10]「言葉が発生した瞬間のこと それがいつ というのはとても簡単なことでして 今です 今この瞬間 嘘です 何かを説明する時というのが言葉が必要なときです」(小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.3)。
[注11]これまでのいくつかの引用から気づけるかもしれないが、この戯曲では句読点が使われず、英語のようにスペースを用いた分かち書きがされている(それは英語のように一語単位でなされるわけではなく、また文節ごとに切られているわけでもなく、長さは一定でない)。スペースが使用されると個々の言葉の塊が、それぞれ紙面の上に等価なものとして配置されているように把握されうる。そうして、語-句-節-文-文章のヒエラルキーに基づく文章構成がゆるやかに解体される。この記載法は編集的なテキストの作り方に適したものであるように思えるし、句読点による分かち書きというアイデア自体、前から後ろへのリニアな筆記と読解のための工夫に感じられてくる。
[注12]どうやら2月15日に稽古場かどこかで収録された音声を基にしたテキストがあるようだということは、その日付や説明が含まれることから推測可能だ。
 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.3。
[注13]『かもめ』が出てくるところで語られているのはおそらくNTLiveのラインナップとして上映されていたものの感想であり、また草間彌生や(直接的に名前は出されないが)何でも「包む」作家として言及されるクリストとジャンヌ=クロードの「作家性」についての話は、僕が個人的に受けていた岸井大輔さんの創作の授業で語られるエピソードに酷似していた。こうした自分の私生活における知識や経験と語られる言葉の重なりによって、それがまた別の人間の私的な知識や経験と紐付いたものであると認識可能だ。
[注14]そして凡庸なのだけれど、どうやら第一部で語られる問題系に重なるような個人的エピソードが語られているように聞こえるのも、このテキストの特徴だ。山本さんもレビュー内で「この作品のなかで語られる内容も、形式も、ひとつひとつはぺらぺらなまま、それでいていずれもが喩的な意味合いを託されるようにうまく構成されてい」る、と凡庸だが相互に連関していないわけでもない絶妙な塩梅でなされるテキスト構成を端的に指摘している。
 山本浩貴+h、前掲記事。
[注15]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.18。
 hさんも前掲のレビュー内で指摘している通り、会話の断片らしく聞こえる第二部の台詞は戯曲を読んでみると、意味不明な部分も多い。この箇所も何を言っているのかはよくわからない。同時発話の部分は、テキストの理解できる度合いが場所によって異なるが、こうして濃淡をつけることによって観客の聴覚的な把握を操作しているのかもしれない。
 ちなみに、同時発話ではなく会話のように話者交替が起き1人ずつ喋っている箇所でも、それぞれが別々の会話から採られた相互に関係ない内容を話していることが多い。
[注16]第一部でも第二部でも、終盤において名前がクローズアップされるのは、このような素材の記名性の観点からも重要であろう。「古賀」ではなく「ジャスティン」として名を置き換えられてしまう。もしくは、街コンで会った男に裕美(ひろみ)ではなく裕美(ゆみ)と呼ばれ続ける。もしくは、俳優活動のために「渚まな美」という芸名を新たに付与する。これらの小さなエピソードは自他にとって名前が恣意的なものでありえ、間違えられたり異なる名前を名乗ったりしても大きな問題がなくコミュニケーションが進んでいくことを示す。
 また、『本人たち』第一部には、おそらく意図的に一切人称代名詞が使われないシーンがあった。S(メタ出演の鈴鹿通義さんが想起される、上演では下手側に置かれたスピーカーから機械音声が出力されていた)が「ここに来る」までのあれこれについて話した後、K(出演の古賀友樹さんが想起される)が以下のセリフを言う。

 「男性です まず漢字を教えます ちょっと間違える可能性が高いのでここでは言わないでおきましょう 生誕しまして 今もその名を名乗って生きております 食べ物を食べる 最近食べたのはカレーじゃないですか カレーの大盛りを しかも激辛で食べました」(小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.5)

 まだ続くがここらへんにしておこう。その前にあるSのセリフにも、実は一つも「私」や「僕」などの一人称代名詞は使われていないのだが、台詞を聞いているときにまごつくことはない。少なくともネイティブの日本語話者であれば、このセリフを聞けばそれが発話主体の行動を説明するものであることは理解できるはずだ。だが、Kのセリフのようにいくつかの記述を紐付ける対象が見つからないとき、私たちの頭は混乱する。誰が「男性」なのか、誰が誰に「漢字を教え」るのか、誰が何を「間違える可能性が高い」のか、何を「ここでは言わない」のか、「ここ」とはどこか。
 そしてこの「私たち」にはDeepLも含まれる。上演においては常に後方の壁面にDeepLを通して英語に翻訳された戯曲が表示されていた。英語と日本語の文法規則の違いにより、DeepLは日本語ではそれ抜きでも(文法的には)成立している人称代名詞を補わなければいけない。手元に字幕のデータはないため正確な引用はできないが、当該箇所においてはかなりでたらめにIだのheだのtheyだのがあてがわれていた記憶がある。機械によって名前の代わりに使われる代名詞も恣意的に与えるこの操作は、『本人たち』における名前の取り違えの挿話と類似した状況を実際の上演に持ち込むものだ。

長沼航 Naganuma Wataru WebTwitter
 俳優。1998年生まれ。
 横浜国立大学大学院都市イノベーション学府建築都市文化専攻Y-GSCポートフォリオコース修了。
 散策者とヌトミックの2つの劇団に所属しつつ、俳優の立場から演劇やダンスなど舞台芸術の創作・上演に幅広く関わっている。主に非物語的なパフォーマンス作品に出演することが多く、その演技においては自分自身の身体と他者の書いた言葉を並列的に扱うことを目指している。
 また、舞台上に立つ人間が自身の技術をどのように運用しているかを明らかにすることに関心を抱いており、俳優の技芸についての勉強会「俳優の兵法を学ぶ」や、パフォーマンスとトークを通じて即興について考える「即興と反復」を(とてもスローペースで)企画・開催しつつ、演劇/演技の創作過程についての論考やエッセイ、記事などの執筆を行っている。
 近ごろはひとがある仕方で生きていることを肯定するための諸々を制作することに関心を持ちながら、演劇活動と生活の結び目を探している。2023年はインタビューをたくさんしたい、小粒でもピリリと辛い文章が書きたい、お金がほしい。
 最近の演出作品に「タムロバ・シアター」(2023)、出演作品に、ヌトミック『SUPERHUMAN 2022』(2022)『ぼんやりブルース』(2021/22)があり、最近の文章に、「感覚の計量──小松海佑の漫談について」(『悲劇喜劇』2023年3月号)、「オンラインでしかあり得ない舞台芸術を目指して──Asian Performing Arts Campにおけるハイブリッド性と越時性」(東京芸術祭Webサイト)がある。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う

〈言葉 ことの始まり つまり誰かが何かを伝えようとしたとき〉
〈ちょっと離れたところに住んでる人の周りにはすごい美味しい草があるみたいな シェアするために言葉が生まれたみたいなことなのかなと思って〉
〈それから最初は遊びだと思い こういう感じなんですか 難しいな でもこれはこうですっていうことだとは思う そういう感じでいきますか〉

 まずもって言葉が発せられていく。まずあるのはその感想。第一部では古賀友樹のからだを通して、第二部では渚まな美と西井裕美のからだを通して、あるいは舞台下手に置かれたモニターを通して鈴鹿通儀と近藤千紘の人工音声が流れて、言葉が発せられる。目線を上げれば、正面の壁にはDeepLで翻訳された英語字幕が投影されている。言葉ばかりだ。そうした無数の言葉が敷き詰められた『本人たち』にはいくつもの分岐がある。それはひとつの作品でありながら、しかしその上演ごとに複数に、巧妙に、観劇体験が枝分かれするように構成されている。この文章を綴る〈本人〉は演劇についてのまとまった文章を書いて公開するのも初であるし、ここに展開するのが批評と呼ばれるに耐えるものなのかも不明だが、そのことについてできるだけ言葉を尽くしていきたいと思う。
 当たり前のことだが、通常「演劇」の「舞台」はその場その時の今この瞬間何かが行われていくわけだから、全く同じものが寸分の狂いもなく再演されるということは、その表現の性質上あり得ない。ではここでいう観劇体験が枝分かれするとはどういうことか。それを観客の側に返して、例えば入場して前の方の席に座るか、後ろの方の席に座るかといった単純な問題を言いたいのではない。言いたいのではないが、そんな単純でくだらない問題をも『本人たち』は問題化してしまう。入場して席に座ろうとすると、入場のタイミングによっては既に、開演前の舞台上で古賀友樹が喋っている。〈どうぞお好きな席に 前の席の方がよりスリリングな体験が 後ろの席の方はゆったりと でもお尻は痛いかも 全席〉そのように言葉が敷かれた空間で座席を選択する行為はそれぞれの観客に、その言葉の規定を受容したことを、その選択を選択したことを意識させる。そしてもしも前の席に座るならば後ろの席のゆったりさを思うのかもしれない。
 こうした言葉による操作は、もっとわかりやすい形で繰り返される。例えば、古賀友樹はじゃんけんの勝敗で自らのマスクの着脱を決めると言い、実際に任意の観客とじゃんけんをする。勝敗は決まり、マスクの着脱が決まり、マスクを外した古賀/マスクを外せなかった古賀に分岐することが、どちらかの結果になったことが、どちらをも選ぶことは叶わなかったことが、観客に意識されあるいは他方を想像させる。ここに「念力暗転」を例示してもいい。丁寧に説明されたルールに則って観客が目を瞑る/瞑らないはそれぞれの観客に左右されるが、促された以上どちらかの結果には確実に至ってしまうわけだ。第一部『共有するビヘイビア』はその戯曲内容を説明するように言葉を使用し、物語的に単一に結ばれることのないいくつもの断片を、時にそれは露骨な嘘話も交えながら、観客に向けて猛列な勢いで投げかけて、その言葉の意味内容を観客に強く意識させ、想像させていた。想像のために言葉が用意されている。そしてこの規則は『本人たち』全体に敷衍する。そうした時、第二部『また会いましょう』はその実践の意味を強くする。
 渚まな美と西井裕美は、時に、同時に発話し、言葉はリズミカルにもつれあい心地よく耳に響くが、観客にはその全ての意味内容を聞き取ることは不可能である。戯曲を見ると「分岐α」「分岐β」「分岐γ」「分岐δ」と全部で4つのセクションにおいてその同時発話が行われる。戯曲には「合流」のセクションも記載されており、そこで二人は通常の対話のように言葉を互いに交わすが、内容が一致し話が噛み合う瞬間はほとんどない。つまり戯曲上の「分岐」が指し示すのは、彼女たち自身が分岐しているために別の世界線で別の話をしてしまっている、というような意味のことではない。そういった意味では彼女たちは既に分岐している。そこで分岐するのはむしろ観客の体験である。観客は同時発音の中で自らが聞き取れた単語を、話の筋を、部分的に聞き取り想像を働かせる。ここで重要なのは単一な一筋の物語がないことの方ではなく、複数の聞き取れた/聞き取れなかった物語がそこに生起し続け均一に並置されることである。そうして暗示されていたのはその可変的な舞台空間、観客の選択によって、どの言葉に注意を向けるかという他ならぬその観客自身の選択によって、言葉自体の意味内容が同一の進行のもと過剰なまでに枝分かれしていくということではなかっただろうか。「演劇」は「ここにないものをあることにする」ある種のゲーム的な側面を持つが、ここに分岐が生まれ、単一の舞台が無数に存在することになる。
 ステートメントによれば〈二人は同一人物として扱われる〉らしい。ならば、二人の口から語られる個人史のようなものはある一人の女性を示すことになるが、上演の進行と共に言葉によって仮想される姿形は造形されると同時に部分的な欠落を生じさせてしまう。しかしながらそのまま個人史のようなものは重ねられ、言葉による共有の部分的な失敗はその層を厚くして上演は引き伸ばされる。とある人物のことが語られていながらその人物のことをうまく想像できないような事態に陥る。ステートメントに書かれる〈未然の上演〉とはこの状態のことを指すのではないか。女性の結婚の話や、街コンの話が、ある特定の個人の話という意味合いを超えて、そうした未来を志向する女性一般の言葉へとすり変わる。個人的な話でありながらどこまでも実体のない個人の話が同時に響くその場で、連続性のない想像はその言葉の社会的な要素を拠り所とし始めて、また新たな像を思い描く。
 こうして『本人たち』は、いくつもの分岐、いくつもの言葉を残して静かに終わった。終演のアナウンスは行われず、舞台上には向かいあって目を瞑るN1とN2が残されている。〈本人〉は見事に攪拌され、複数化し、それぞれの言葉を抱えて去っていく。そうしてその1つの、いや、いくつかの記憶を使ってその1つの側面を書いてみた、と言おうか。

高橋慧丞 Keisuke Takahashi Twitter
映画美学校言語表現コース ことばの学校 第一期生。スペースノットブランク「クリエーションを前提としたクリエーションを実践しないチーム」のメンバーであることとは全く関係なく勝手に今回のオープンコールに書類を送りつけ執筆の機会をいただきました。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

神田茉莉乃:見ること、見られること

人と対面で会った時、いつも思いっきり面食らった気持ちになってしまう。
今から出会うと知ってその場に行く。でも、実際に対面するとそれらは夢の中、現実ではない場所、想像の中で行われていた質の抜けたものだったことに気づく。駅で手を振りながら近づく時、遠くから相手を認識した時、声をかけられて振り向いた時、相手を見て、夢から急激に浮き上がってようやく現実に立ち戻る。会いたくなかった訳ではないけれど、ただ驚く。現実は思ったよりもずっとちゃんとした形をしている。
上演が始まった時、私は本当に居心地が良くないな、と思っていた。
話しかけられている? 自分ではない、他の客に。いや、やっぱり自分に話かけられている…。
上演を見ることは人と対面することに似ていると思った。ある程度こうだろうとかそう予想しているせいかもしれないし、モニター越しに見るのとは違い、状況に自分が巻き込まれているかのような近さや現実感があるから、かもしれない。
それにしてもこの上演の最初は真に居心地が悪かった。なぜならこの舞台の内側に気づいたら入れられていたからだ。

第1部、舞台上には男性の演者が1人。ディズニーランドでキャストが説明する時のように、はつらつといかにも楽しげな態度で話はじめる。「嘘です」「バベルの塔ってどこにできたんですか」「地球の真ん中に」「STスポットスポット」「穴を掘ってちょうどその上に」「本当にあるんです あれ」大きくはっきり分かりやすく、わざとらしく無機質。詐欺師に訳のわからない商品を薦められているようだった。ひとつの文章がその場で直接的に意味を発生させているとは言えず、架空と実在も混在している。話題もするすると逃げて変わる。言葉だけが点滅してチカチカする。アニメ『エヴァンゲリオン』のタイトル様式のように、黒い背景に白字太字の明朝体、次々現れては端から消えていく。礫が降り注ぐような状況に混乱する。意味を置き去りにし、別の意味を見せようとしているのだろうか。そもそもモールス信号のように全く別の部分から伝えようとしているのか。言葉を追いかけるのに必死でその場に意味があるのか、わからなかった。
人が何かを喋る様はこんな感じなのだろうと思った。正しい文章の形式を書き出すわけでもなく、考えて喋るのはむずかしい。けれど、日常で行われる他愛もない話にしっかりした文体は必要ない。英語が喋れない人が単語のみを喋るみたいにいっそ話していたりする。言葉を理解するならその程度でもわかる、でも伝えることはできない。いつも言葉だけが浮き上がる。そういう状況では言葉だけが意味を補ってしまう。質を置き去りに、おざなりにして、ひとつのものを勝手に築き上げる。それを思うと、この人と対面し一方的に話されているこの場にはそういう空虚が浮かんでいるように思えた。
話しかけられているような、でもやはり話しかけられていないし、演者は役をやっている。でも、この舞台の外側にいるんだとそう思うには、対面をしているという強い状況から離れることができない。この関係性をどう捉えていいのか、全然わからない。介入されそうな怖さと力強くこじ開けられる時の気持ちよさ、諸刃の剣を握れと言われている。

「念力暗転って知ってますか」と問いかけられる。知らない。粘膜暗転? 奇妙な話のはずなのに普通のことのように話してくる。
演者は超能力者のように手のひらを徐々に下げていく。空中で何か重いものを下に押し下げようとする動作で、ぐっと力をこめながら手を下げていく。私たちは、客はそれに合わせて目を閉じる。最後は演者が指パッチンをして、目を開けるというルールだ。
そうすると、ここがどんな場所だろうと暗闇に、そして別の場所のことを目の裏で考えればどこにだって行ける、どんな場所にもできるということらしい。念力暗転が成功すると今度は指示的に話が始まって、瞼の裏を見ながら演者の喋るストーリーに身を沈めていく。操られている、ともいう。
「駅のホームでした」「年老いた「自分」と出会いました」「割とライトめな会話をメインで話してた」
自分が知っている記憶から場所を想像して、状況を埋めていって、感情を浸していく。自分という人間で補いながら念力暗転をする。本当だったら舞台からは隔離されていたはずだった私は今どこにいるのだろうか。この場所、空間や状況や感情、次元は演者が喋るこの言葉と私の中身とで作られていく。指示されて瞼を閉じることに、ものすごい抵抗を感じた。私に言ってない、私は舞台上の人じゃないからだ。私ではない。でも瞼を閉じておくと、誰に言っていようが、言ってなかろうがどうでも良くなった。このストーリーの中では自由に動けない。感情も操作されてる。これは私の話ではない。誰か別の人の話だった。

第2部は女性が2人。
「念力暗転 知ってますか」
それを口火にして、それぞれが別の方向へ話をはじめる。
「知ってるのは 舞台上に1人」「さっき ねんりきって」「同じですかね」「この眼球にまぶたのところ」「世代じゃないかもしれないけど かめはめ波」「最初は後者だと思ってたんですね」つらつらと二重合唱。
「ね」「そう」「そうですそうです」気の無い相槌が間に挟まっていて成り立っている風だ。全然成り立ってはいないけれど。ある時、急に会話が噛み合い知り合いかのような状態に戻るが、どこかですれ違ってまた離れていってしまう。2人はジリジリとお互いを注意深く避けながら間を行き来し、目配せをする。舞台上にある客側から完全に背を向けたモニターを3人目の人のように扱って、相手と交互に目配せをしたりしている。ただ噛み合ってないのか、単純にすごく険悪な関係なのか、全然違うグループの井戸端会議がごく近い場所で行われていたのか、そういう状態が交差して雰囲気が少しずつ変化していく。相手に目配せをしては無視して自分の話をし続ける。もし友人だったとしたら一方的すぎるコミュニケーションだ。2人の間に見えない人間が挟まっていて、話題をどこかで捻じ曲げたり切ったりまた繋げたりしている役を担っているようだった。

「立って 音楽をこの部屋に流してほしい」
感情的なものからは遠いと言っていいのか、演者がやっている役が誰なのか、それは見ている側からは知る由もないのだけれど、ここにくるまでずっと、コミュニケーションは対外的で説明する話す歩くというそういう動作がメインだった。その中で大きく声を張り上げる。だから他と異なる状態が気になった。白けた悲しげなアコーディオンの音がヒョロヒョロと部屋全体に鳴った。
「違う ちょっと違う ちょっとたぶん違う」
音楽が終わると落胆し魂が抜けたように後退り座り込んでしまう。
そんな相手を気遣いながら、隣に腰を下ろす。様子を伺い、なるべく明るくしようと努めるように声をかける。
「だけで大丈夫です」

大抵の言葉には共通する認識とか意識とか、見えない共通項とか、規則とかそういう複雑で余分なものが混ぜ込まれている。話そのものの意味を見えなくするほどに。嘘ではない、けれど本当でもない。だから違うものが前に出始めて、言葉を仕舞い込んでほしいと思う。仕舞ってしまってから、違うところから出したいと思う。喋る話は嘘、表現するための借り物、その際に犠牲になったものを炙り出してあげたかった。より良い表現をと饒舌に、言えることがなくなってしまい黙り込む、嘘を平気で表現する、悲劇めいて。対話も対面も意味がない。あるとしたら、もっと別の場所にある。その場所を力一杯開けようとしている。自分自身のも、人のも。これを握っていると血が滲んで痛い。けれど手に食い込むと初めて握っているものの形がわかるようなそんなものだった。

見るということは見られているということ。見る側も見られる側も対等で、境界があろうが、何者であろうが、公平だ。
本人たちという演劇は、次元のことを言っているようにも、ごく繊細な会話の、言葉のことを言っているようにも、舞台とは、上演とはと言っているようにも思えた。
客側から背を向けられたモニターも、壁に張り付いた2つの穴をつなげている演者のみが通ることのできる通路も、客席との間に横たわる細長い花道のような舞台も、全部見ている側からは次元の違う存在だ。夢から覚めたように現実を見る。でも現実を見るまではいつまでも自分という次元に仕舞われたままのものだ。眼前に晒された本物、現実は思ったよりもずっとちゃんとした形をしている。自分自身が把握できる訳がなかった、手に負えないのだとようやく気づく。それを無理やり決めてしまうことも、決めずに置いておくことも選ぶ権利は公平にある。
何かを発芽させようとしている。
見ている側も、このまま進めばこの舞台と客席とその間に必ず出現するはずの何かを目を凝らして見ようと焦がれているように思えた。
そこで上演は終わった。最後の部分は自分で決めないといけないようだ。

神田茉莉乃 Marino Kanda Instagram
1995年横浜生まれ
2015年上矢部高校 美術陶芸コース 卒業
2018年武蔵野美術大学 建築学科 卒業
2023年東京藝術大学 美術研究科 彫刻コース 卒業
アーティスト。
粘土による造形からはじめ、建築、彫刻を学ぶ。距離や時間や視覚などを内包する空間に対しての自身の思想を作品にする。主に塑像、映像、図面などを使用したインスタレーションの制作をする。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

コロナ禍の芸術表現において、観客、鑑賞者と作品の関係性を築くバランスが著しく変化したと私は感じている。
特に演劇表現について、観客と俳優との共犯関係、その結び方は複雑性を帯びた。
俳優自身が受け取る観客の情報はマスクによって覆われている。というかある意味これから、自分たちの目の前でつばきを飛ばして俳優が発語するという緊張感で、開演前の客席は心なしか遠く、ひんやりとした雰囲気に変わった。小劇場であればあるほど、その物理的距離がセンシティヴな問題になる。
その点で今回上演された「本人たち」という作品は、その関係性の不自由さ、危うさを逆手にとってplayする実験のような手つきが私にとってとても刺激的な時間であった。
そしてその実験のタイトルが「本人たち」であることにも、なんというか同じ演劇を創作している人間として、とてもスリリングなタイトルだと膝を打った。

正直「批評」を書いたことがないので、演劇創作をしている人間として、自分の悩める問題や課題と照らし合わせて作品を探るような様子になって恐縮だが、それが私にとって一番素直に言葉を連ねることができそうだと思ったので、書いてみている。
私ごとだが、この頃舞台上で発語する言葉について、「伝える」言葉について、答えの出ない問いが蠢いている。これは世に言う「リアリズム」とはなんぞやという話にもなってくる。
この点において今回の作品は言葉を「意味」として伝えることをある意味放棄させる、「言葉」そのものの表現は意味がなく、言葉を発している人物の状態とその空間を観客が観察するという時間が多く流れた。これが非常に現実的で、観客と共犯関係を結ぶような匂いを帯びている。ある種のインスタレーション的手つきである。
この空気感は私にとってとても羨ましく、魅力的な時間であった。

私は普段ストーリーテリングが比較的はっきりとした戯曲を扱う演出者で、言葉を自ら紡がない。
なのである種戯曲の奴隷であり、「言葉」の扱いについては作家の意図を汲むべく、四方八方から観察して撫で回し、そこで何が起こっているのか明確にお客さまに提示するという方法をとっている。
しかしながら、それが果たして面白いのか、と言われると、特に観客論という観点で考えるととても脆弱な方法かもしれない、と思うことが最近ままある。
スペースノットブランクの作品を観るのは大変恥ずかしい話なのだが、初めてだった。もちろんお名前や周りの評も聞いていて、とても興味があった。何より、テキスト、空間、俳優、各媒体、そして観客の関係性を研究者のごとく追求している印象があった。
まず私は数年間その関係性について疑ったり、分析することをしてこなかった時期がある。往々にして、「言葉」は俳優が表現する音であり、その意味を明瞭に伝える、色合いを伝えることに尽力すべきだと思う時期があったのである。
この点において、自分たちが所属している「新劇劇団」をなかばディスることになるが(ただ我が集団の方法論が一概に悪いとは思わないし、良い面ももちろん大いにある)まず「言葉」を疑うということをあまりしてこなかった。そして何が起こっているかということを「表現」することがある「リアリズム」であると考えるところがあった。
これはとても分かりやすいし、なんというかとても明瞭だ。安心するというか、安全。
ただ数年前から私は、これじゃあ絶対に立ち行かないのではないかという確信を得るようになる。
そこで今回の「本人たち」である。テキストを見ると、この言葉たちの羅列は前後の意味を成しているようでいて成していない。成していないようでいて成している。言葉たち自体がお互いの言葉を疑っているというか、信じていないというか、拮抗している。
そして上演を見ると、発語している俳優はその言葉を割り当てられていることにどうやら自覚的である。言葉と俳優との間に距離がある。第一部は一人の俳優が30人強の観客と「見る」「見られる」という共犯関係を結ぶが、第二部に関しては俳優が二人になることでより複雑性を帯びる。
俳優がダイアローグをラリーしながら(とはいえこのダイアローグも意味は重要視されていない。関係性に変化がないという訳ではないけれど著しく変わることもない)時折観客に目線を送る。
観客はそこかしこで発語されるワードをすくい取って、彼らのパーソナルな履歴を勝手に想像する。しかしやがてそれさえも嘘かもしれないというか、あてがわれた言葉に過ぎないと思えてくる。
そうなってくるとやがて、この空間のサイズに立っている俳優そのものの質量というか、存在を観察するようになる。言葉はある記号として観客と空間を結ぶ時間のようなものになるというか、それが妙に「今」の体感として観客と共鳴し合う感覚を味わったのである。
これを「リアリズム」と呼ぶかどうかは別として(私はこの頃演劇表現において「リアリズム」という言葉にものすごい警戒心を抱いている)、妙に現実感がある行為として私にガシガシ響いた。ようはすこぶるスリリングで興奮する瞬間だったのである。

先ほど、自分が信じてきた方法論では絶対立ち行かないのでは、と言った。
そう考えたきっかけとして思い出すのが、「モノローグ」を話すある俳優のいでたちである。その俳優は観客に話しかけているのだが、ある時、「いや、この人は本当に観客には話しかけてはいない」と思ったのだった。確かに言葉は明瞭だし、意味は伝わっている「ような気がする」。でも、何にもかかわりがない。観客に対して閉じているように感じたのだ。
確か翻訳劇を稽古している時で、その俳優の役は言わずもがな外国人なのだが、行き詰まった私は、一回街頭に立って見ず知らずの街ゆく人たちにそのモノローグを話してきてみてくれないか、と言った。今から思うとなんて横暴な稽古だ、と思うが(そしてそれはなかなか難しいよということで、実際は行われなかったのだが)その時の私は観客と俳優の関係について、そして扱う言葉について頭を抱えて悩んでいた。そしてその悩みはここに来て一層複雑性を帯び始めた。
コロナ禍で、観客との関係が著しく変わった。観客はあるリスクを背負うことになった。
商業演劇を創作するようになって、作品の空間デザインにかかわらず、地方公演によって著しく規模が、劇場空間が変わるようになった。
必ずしも作品に興味がある客層ではない観客席に向かって、自分の作品を上演するには。

要はもっと「かかわらなくてはいけない」ということを考えている、のだと思う。
それは俳優と観客の関係性だけではない。流れる音、当てられる照明、映し出される映像とも、そして言わずもがな俳優たちとの間でも、である。
そうして光栄ながらこのような依頼をいただき「本人たち」を観劇した。
観客の前で俳優の古賀さんが時折自意識と戦いながらも「かかわろうとしている」いでたちに(そしてそれは時間を経るにつれて強度を増していったように思う。観客もあるルールを心得たのだ)ある生々しさを感じて、ひどく共鳴した瞬間が多々あった。
そのルールを心得た観客たちはそのまま第二部に突入し、なかばその共犯関係を楽しむようになってきていたように感じる。
言葉はすでに解体され、観客と俳優との間を自在に行き来していた。
実験が成功していたかどうかはともかく、それはあまり重要ではなく、でも確かに化学反応が頻繁に起きていてとても奇妙で豊かな時間だった。
そして帰り道、なんとなく自分が抱えている悩みについて答えは出なくとも、新しい風が吹いたのである。

全てを言葉にできたかどうかは眉唾ものだが、そしてこれが批評という様式をなしているかは疑わしいが、とても豊かな体験だった。このような経験を頂けてとても感謝しているし、同じ、作品を創作する者として勝手に意見交換ができた気になっている。勝手に。
素敵な機会をありがとうございました。

稲葉賀恵 Kae Inaba WebTwitterInstagram
演出家。文学座所属。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒。
在学時より映像作品などの創作をスタート。2008年文学座入所。2013年座員に昇格後、4月に文学座アトリエの会『十字軍』にて初演出し、高い評価を得る。
主な演出作品は、『解体されゆくアントニンレーモンド建築旧体育館の話』(15年 シアタートラムネクストジェネレーション)、『誤解』(18年 新国立劇場)、『ブルーストッキングの女たち』(19年 兵庫県立ピッコロ劇団)、『墓場なき死者』『母 MATKA』(共に21年 オフィスコットーネ)、『熱海殺人事件』(21年 文学座アトリエの会)など。近年の作品に『Equal-イコール-』(unrato)、『サロメ奇譚』(梅田芸術劇場)、『加担者』(オフィスコットーネ)、『私の一ヶ月』(新国立劇場)『幽霊はここにいる』(PARCO劇場)など。第30回読売演劇大賞優秀演出家賞受賞。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること

 スペースノットブランク(以下、スペノ)の作品が持つユニークなリアリズムについて、いつか長めに書きたいな、とぼんやり考えていた。僕は「批評」と名のついた文章を書いたことがないし、また今後もそのつもりはない。別に毛嫌いしている訳ではなく、「批評しない人」という立場を目下のところ貫いておきたいというのが率直な理由だ。そんな小説家が他人の芸術作品について意見を書くとなれば、必然的に「感想文」になり、発表するとなれば、専ら文芸誌のエッセイ欄となる訳である。エッセイの依頼があれば(そしてテーマの設定が自由であれば)、最近鑑賞した映画などの感想を書くことが多い。
 僕は何かを批評したい訳ではない。貶したい訳でも、褒めたい訳でもない。対象を自由に理解し、大いに誤解し、真意みたいなものをことごとく裏切り、それを味わう、という行為としての「執筆」がしたい。スペノについてもなんとなく、そうしたいなと思っていた。彼らの作品の概要を、観たことのない人に向かって的確に説明することが、仮に可能だとして、しかしそれがしたい訳ではない。僕が書きたいのは、レビューでも解説でも批評でもない。おそらくエッセイなのだろうけれど、「対象を自由に理解し、大いに誤解し、真意みたいなものをことごとく裏切りつつ、それを味わう」という作業内容に着目してみれば、むしろ小説が一番近い気がする。
 ただし本記事は、『本人たち』(なんていう最高なタイトルだ)と言う彼らの作品のレビューなので、そのように執筆される。

 乱暴にぶっちゃけてしまおう。失礼を承知であえて言うと、スペノを鑑賞して何に興奮するか、何に興味が湧くかと言えば、スペノの表現そのものもそうだが、しかしそれよりもむしろ、それを体験してしまった自分自身に対してなのだ。今後の自分には、どのような表現の可能性が広がっているのだろう、と言う自惚れた好奇心を抱く。作品の鑑賞により僕がこの感覚を抱く作家は、スペノ以外に実はいないのだ。それがいつの頃からかよく覚えていない。初めに彼らの舞台を観た時は、ノり方を掴むのに確かに苦労した。が、スペノ自身の意図みたいなものをこちらから探ろうとするのを断念してから、ある時スペノはとことん「ダンス」なんだと理解し、スッと腑に落ちた。楽しみ方がわかった。この楽しみ方で楽しむ上で、他の人の感想や考察は特に必要ない。スペノが自己言及したアナウンスでさえ、一観客たる僕の解釈と、その価値は相違なくなる。
 今回の観劇でもそのように感じた。スペノは言葉を「振動するもの」として扱っている。言葉だけではなく、舞台を構成するあらゆるものが「振動するもの」として扱われている。

 周知の通り、宇宙は振動するひもで出来上がっている可能性が高い。とても小さな振動する無数のひもが、それぞれその振動の周期などのバリエーションによって、様々な種類の素粒子に姿を変え、存在していると考えられている。我々と身の回りのものを構成する物質、電子も光子もクオークも、ほどいてしまえば全く同一のひもでしかない。
 舞台上に上げる言葉にしろ、身体にしろ、光にしろ、スペノは一旦それぞれの属性を「振動するもの」にまで解体して、彼らなりに配置し直す。彼らの作品の解釈の困難さは、ここに起因すると思われる。言葉にしろ、身体にしろ、光にしろ、舞台上(あるいは舞台外)ではまず、ただそこで、振動しているだけなのだ。振動、即ちスペノはとことん「ダンス」なのだと悟った所以だ。
 例えば登場人物(たち)のセリフ(があった場合)、彼らはしばしば饒舌で、しかし誰に向かって発話しているのかなかなかわからない。今回の『本人たち』も、第一部、第二部と併せて三人の人物にセリフが当てがわれていた。いや、本当にセリフは「当てがわれていた」のだろうか? まるで複数の人物のセリフをかき混ぜたようだ。本作の戯曲の表紙に記されている文言によると、彼らは「リアリズムを攪拌」することを「探究」してきたと言う。
 僕は小説家なので、小説のことを考える。小説は言葉を使って構築する芸術だ。従ってどうしたって言葉にいちいち付随する「意味」という派手な装飾が、作品に多量に散りばめられてしまう。小説に組み込まれた言葉はどれをピックアップしてみても、必ず作品の中で有機的に、もしくは御しがたく機能している。どんな形であれ、いつも図々しく意味を発生する。すると小説は、意味がうじゃうじゃ詰め込まれているから、解釈のクイズ大会の様相を呈し、存在そのものが慌ただしい。
 舞台もまた言葉を駆使する。そしてスペノはどうやら、言葉をナレーションではない、なんらかの舞台装置として利用しているらしいことが僕にはわかってきた。ある特定のポイントに、特定の言葉をはめ込むのだが、一旦意味を置き去りにし、登場人物や光や時間と同じレイヤー上で拾い上げている。
 ただしここで言葉は、意味を完全に失うわけではない。置き去りにされるのは言葉が持参している古い方の意味だ。実際のところ、スペノ達の勝手気ままに付与した意味が振り回される。スペノの作品を解釈する目的で、作品内から言葉を掬い取っても、結果失敗しがちなのは、掬い上げた代物自体が持つ(僕らが知っている)意味が、作品全体の中で振る舞っている機能を象徴してくれないからだ。
 それでもなんとなく全体を観られてしまうところが、スペノのセンスのすごいところでもある。もちろんそれはそうなのだけれど、舞台という形式の長所による「ズル」な部分もあるのではないだろうか。何しろ彼らは、音声を扱える。一次元情報の小説では太刀打ち出来ない「幅」があるのは間違いない。

 そうか。僕は自作を書く上で、言葉を「振動するもの」レベルまで解体したことがこれまで無かった。そこまでして小説を書きたいくらいの小説に対する興味が今の僕には無いだけなのかもしれないけれど、そのうち着手するのだろう。
 振動を楽しめ! その波長、周波数、エネルギーを味わえ!
 現実世界と呼ばれる僕らの生きる空間において、言葉はまず機能する以前に振動しているということだ。普段、目や耳に入ってくる情報のうち、ほとんどのものが個人には関係が無い。言葉こそまさにそうで、テキストが大量に生産され、聞く人、読む人のいない場所に垂れ流されている。大切なのはそこではなく、それらがまずはとにかく振動しているという事実だ。

 振動を楽しめ! その波長、周波数、エネルギーを味わえ!
 スペノの舞台はまるでそう主張しているかのようだ。なんでこんな根本的なことを僕は忘れていたのだろう、と彼らの舞台を観るたびに毎回思う。毎回思っているということは根本的に響いていないということなのかもしれないが。僕もいつか、言葉の持つ響き(振動)に勝手に意味をつけて、誰にも分からない話(振動)をいつか書いてみたい。それこそまさに、言葉をダンス(振動)させたい。

 ところで「念力暗転」だけがしかし、なぜか本作で文字通りの意味を主張していて怪しい。本作で登場する「謎の」単語だ。スペノはいつも、セリフのある作品においては、作品の軸となりうる印象深い(造語的な)単語を忍ばせる傾向がある気がする。
 舞台とは世界を装うものだと、門外漢の僕は考えている。舞台上を世界と見立て、演者を人間と見立て、時間を時間と見立てる。そのために、作り手はそれぞれの位置にそれっぽいものを配置する。宇宙の全てが振動するものだとしたら、舞台の作り手に可能な行為の究極は、舞台上の構成物の解体と再構築(即ちひも固有の振動パターンの自由自在な改変)となる。
 小説ももしかしたら、この手法で作れたりしないだろうか。可変振動小説。

鴻池留衣 Rui Kounoike Twitter
小説家。1987年生まれ。著書に『ナイス・エイジ』(新潮社)、『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』(新潮社)がある。

本人たち

レビュー
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鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって