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山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演

「伝える」とはなんなのか?

山本浩貴(以下、山本):スペースノットブランクの作品はこれまでかなりの数が発表されてきているけれど、ひどく大まかに分けるなら3つほどの方向性が挙げられると思う。すなわち、①(肉体の運動を見せることを重視した)ダンス的方向性、②(物語性のある戯曲を自分らで用意したり、あるいは外部の書き手によるそれを採用したりすることで実現する)演劇的方向性、③(観客とのあいだで生じる関係性を実験的に操作していく)インスタレーション的方向性。これらがそれぞれの作品で、いずれかに比重を置いたり、絡まり合ったりしつつ展開されていくところがある。
 今回、hさんとふたりで「プレビュー上演」を見た『本人たち』は、この3つのうち③の傾向の強い作品のひとつだと思う。軽く背景に触れておけば、第一部「共有するビヘイビア」は2018年と2019年に会話とダンスから成る作品として発表され、さらに2021年に『クローズド・サークル』という会話と映像操作中心の作品へと発展させられたのち、今回に至る。第二部「また会いましょう」は2022年に展示作品として発表されたのち、今回に至る。そして総体としては、2020年にスペノがコロナ禍を受けて始めたプロジェクト『本人たち』の延長線上にあるものとして組み上げられているとされる。
 その上で、今回の『本人たち』は、まだ本番がどうなるかわからないけれど、少なくともプレビュー上演だけで言えば、③インスタレーション的方向性として作られたスペノ作品のなかでも特に方法論が明確で、完成度の高いものになりつつあるように感じられた。作品の制作過程で収録された会話や私的発話を記録、編集し、戯曲化して舞台上の肉体に発話させるやり方も、これまで以上に発展・洗練されていたし──どうでもいいような細部の話や身振りがほとんどすべてゆるやかに必然的な意味を持つような構成が取られていたし──、発話方法や「念力暗転」という技(舞台上の肉体が観客に向けて瞼をゆっくり閉じるように促していく、結果、照明などが点いたまま舞台が暗転する)に代表されるような、観客との関係性の設計と操作に関しても、ことごとくクリティカルなものとして響くように仕組まれていたと思う。
 なによりそれらのもたらす完成度の高さをめぐる認識が、作品の描く情動や主題や物語の厚みといったかたちをとらず、徹底して、作品全体を通じて提示されるところの方法論の明確さと強さ、そのシンプルさに由来しているようであることに、驚かされるところがあった。なかなか伝わりづらい言い方になっちゃうけれど、この作品のなかで語られる内容も、形式も、ひとつひとつはぺらぺらなまま、それでいていずれもが喩的な意味合いを託されるようにうまく構成されていて、結果としてあらゆる雑多な部分がたったひとつのシンプルな問い──「上演とは何か」──に十全に寄与し検証するものとなっている。その演出・構成の精緻さにおののくというようなところがあった、という感じかな。
 hさんは今回、スペノの作品は初めて見たと思うけれど、どうだった?

h:「伝える」ってなんだろう、と思って見てた。第一部の古賀友樹さんの演技に特徴的だけれど、ものすごく観客の側を巻き込んで、いろいろなことを伝えてくる。台詞のなかでも──プレビュー上演時点で使っていた戯曲のデータをもらったからそこから引用すると──《何を伝えようかなって考えてる顔でした》《現在の状況についてお伝えさせてください》とか、「念力暗転」の実演のときに《この素晴らしい発明をした人物から「私」はその技を伝授され 今「あなた」に伝えています》って言うとか、いろんな箇所で「伝える」ことについて直接的に言及していた。
 あと、これまで発表されてきた「共有するビヘイビア」を振り返るみたいなところでも、はっきり言われてたよね。《根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通していると思います ダンスの工程とか なぜこのダンスが生まれたか 紹介する 説明とか 紹介っていうのがこの共有するbehaviorを説明する上で正しい伝え方だと思っていて 今説明の説明をしてる だから何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」このダンスを伝えます このダンスの背景を伝えます みたいな》って。ここは山本くんがいま言っていた、ひとつひとつの要素はぺらぺらなまま単一のシンプルな問いに収斂していく、という話に自己言及的にふれているところでもある。

山本:そうそう。《何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」》が重要なんだ、ってね。話される個々の話題やその主体の個人的情報に重きが置かれるのではなく、それらが立ち上げうるところの「伝える」関係性こそが問題なんだ、と。

h:ただ、その上で、この作品が「伝える」ことを絶望的なものとして捉えているのか、それとも希望として捉えているのか、まだちょっとわかってない。そこが気になる。
 古賀さんのあの、ディズニーランドのキャストみたいな喋り方って、なんなんだろう。すごい語りかけてくるんだよね。最初から最後まで。

山本:本編はもちろん、開場後、上演の始まる前の時間にも、古賀さんがひとり舞台の上で観客に向けてめちゃくちゃ喋りかけてくる(笑)。そしてそのまま殆どシームレスに上演が始まり、第一部が終わったあと、第二部までの休憩時間にも延々と話している。

h:終わったあと質問すればよかったけれど、古賀さんはプレビュー上演のときのあの格好のまま、本番もやるのかな。

山本:すごいラフな格好だったよね。制作スタッフみたいというか。

h:喋り方も丁寧な感じで、いわゆる演劇上演前の事務連絡について話したりもする。もちろん俳優に前説を喋らせる演出ってよくあると思うんだけれど、それとも一線を画していた気がする。眼の前の俳優が観客である自分たちに語りかけてきているのか、それとも舞台上で完結しているのか、本当にわからなくなるというか……あなたは私に伝えたいの? それとも自分が練習してきたことをここでやりたいの? っていう、そこの境目がなくなる感じ。

山本:「あなた」って、古賀さんのこと?

h:そう。演劇って、もちろん観客に何かを伝えたくて上演するということもあると思うんだけれど、別にそのときも、観客を直接的に巻き込む必要は実はない。そこで完結しててもいいというか。俳優が観客に語りかけたりすることがあったとしても、実際には、俳優や劇は観客側から見られているだけ。俳優も観客側を本当には見ていない。こちらを見る演技をしているだけ。でもこの作品で古賀さんは、「ようこそ!」とか、ぼくはこうなんですよね、みたいなことを延々と言ってきたりするし、念力をかけてきたり、じゃんけんをしてきたりする(笑)。

山本:俳優が観客に視線を合わせてくるのはまだしも、じゃんけんをしかけてくるというのは、例えば無観客上演だと不可能なことだよね。観客側からの応答がないと成立しない。しかも、じゃんけんに勝つか負けるかが明確に舞台上で為される発話に影響を与えている、こちら側の行為が舞台上に干渉して進行を変えたということがはっきり知覚される。言い方を変えれば、いまここで見ている上演が、こちら次第でそうはならなかった可能性がすごく明確に意識されることになる。

h:その感じは、例えば第二部の「また会いましょう」ともまた全然違う。第二部では舞台と観客は一般的な演劇と同じく切れている感覚があるんだけれど、第一部はずっと前説のように、今日ここでやること、自分がいまやっていることを、こっち側にひたすら説明してくるし、観客側からの応答も迫られる。そういうあり方が、第二部にも響いてきて、作品全体として、やっぱり形式的にも内容的にも「伝える」ことが中心の問いになっていたのだと思う。第二部だって、ふたりの俳優のあいだでそれが交わされるという違いはあるけれど、自分を伝える喋り……つまり自己紹介や日記が軸になってたし。第一部を経たあとだとその受け取り方もけっこう変わる。

先取りされた発話と私という能動性

山本:第二部では、自己紹介や日記的に私的な日々を語る誰かの発話を記録して、それをもとに台詞を作っている部分が多くあったよね。日記や自己紹介する発話(それを記録したテクスト)って、それが日記や自己紹介だと知らされてなくてもそうだとわかる。そういう私的な成分を多く含んでいるというか、そのテクストの読み取りに際してそれを表現しているひとの私的な情報を、表現を受け取る側が仮構し適用していかなければならなくなるようなものとしてある。そしてそのようなテクストたちが、明らかに編集され、当人から引き剥がされた状態で発話されている。

h:それって、第二部だけじゃなくて第一部もそうだったのかな。

山本:第一部は比較的、自己紹介や日記をもとにした台詞は少なめだったと思うけれど、基本的な作り方は同じなんじゃないか。《現在は13時39分にこちらの音声を収録しております ここはスタジオでございます》とか《2月15日 収録してる 頭が動かない》みたいな台詞もあったよね。明らかに誰かが今こことは別のどこかで収録した音声(をもとにしたテクスト)を、目の前の古賀さんが平然と話している。もともとの発話が古賀さんによるものかどうかはわからないけれど(第二部では同じひとりの個人情報に由来するだろう話をふたりが共有して話すから、確実に自分とは別のひとの発話を再現していることがわかるわけだけれど)、重要なのは当人かどうか以前に、少なくともいまここで思考され自発的に発話された言葉ではないと認識できることだろう。
 これと関連して、自動音声の問題がある。第一部と第二部に共通する舞台美術として、観客席側からは何が映されているのか見えない角度で置かれた一台のディスプレイがある。その付近からは、時折、自動音声で作られただろう声が流れる。断言できないけれど、第一部でのそれは、今回の「共有するビヘイビア」のもととなった『クローズド・サークル』で古賀さんと出演していた鈴鹿通儀さんの声をもとにしたものだったんじゃないかと思う。そして古賀さんは、その声に命令されるように動きを変えたり、あるいはディスプレイに向き合ってうまく会話したりもする。
 ここがまたひとつポイントで……自動音声と会話する時点で、観客側からすれば、明らかにその発話は事前に用意され、会話しているふうに装われたものだと感じられる。もちろんわざわざそんなことをせずとも、演劇って、もともと先んじて用意されたテクストをそれを書いたひとではない別のひとが舞台上で発話することが、ジャンル的な基本、暗黙の了解とされている。その意味では、会話が事前に用意され、再現されているものであることになんら驚きはない(そもそもぼくらが見たプレビュー上演と概ね近いものを、この数日後の「本番」に他の人たちが見るとされていることからもそれは明らかだ)。ただ、この作品では、観客とのインタラクティブ性も含め、そのような基本、暗黙の了解そのものを上演の素材として用い、検証し、組み替えるようなギミックを大量に投入している。結果、舞台上の俳優における、ある種の自由意志や、能動的かつ即興的な発話をめぐる認識(不可能性)に、主題としての焦点があたるようになっている。
 台詞のなかでもそのことは明確に触れられる。例えば第一部で何度か繰り返される以下の台詞。《言葉の集大成が言葉 ことの始まり 言葉が発生した瞬間のこと それがいつ というのはとても簡単なことでして 今です 今この 瞬間 言葉が生まれました 嘘です 何かを説明するときというのが言葉が必要なときです》。いまここで言葉が生まれているのか、あるいはずっと前に先取りされていてそれをいま言わされているだけなのか。そこに《何かを説明する》こと、つまりは「伝える」ことの問題があるとはっきり語られている。
 ほかにも《話すことない》って台詞があったり、あとはSpotifyのシャッフル再生の話とかね(笑)。あれも一見するとただのばか話みたいなんだけど、自分が聞きたくて能動的に曲を選ぶのではなく、サービスの側から「あなたの聞きたい曲」が先取りされ、それを聞かされる──そういう事例のひとつだと考えられるわけだ。観客とのインタラクティブ性も、観客側からすれば、目を閉じさせられるとか、じゃんけんさせられるといった、行為の強いられ感として生じるものだろう。
 こうした先取りをめぐる問題は、「戯曲とは何か」という問いを用意しつつ、上演を見るとはどういう事態なのか、何かを発し伝えてこようとする肉体を見つめ受け取ろうとするとはどういう営みなのか、といった問いにまで直結していくものだと思う。眼の前の肉体が何かを表現しているとき、それがいまこの瞬間その肉体において思考され、私自身のものとして発せられたものなのか、そうでないのか。そのような受け取りをめぐる試行錯誤として「上演」はある……そしてその延長線上に「伝える」こともあるし、(このあとしっかり話すことになるだろうけれど)会話や上演を含めた「舞台」、場をめぐる想像力の問題もあるだろう。そうした見立てのもと生み出される方法論や技術を、今回は、それによって表現しうる物語の展開を試みるのではなく、方法論や技術そのものを純粋にプレゼンテーションしている、という気がした。
 もうすこし事例をあげれば……例えば字幕をめぐる話も台詞のなかにあったよね。《最近だと全てのセリフに字幕がついている 字幕をつけている 話している人が今から話すことを既に意識してその字幕に合わせて喋る 喋ることに字幕を合わせる どっちが正しいんだろう てな具合にリンクして喋る》。『クローズド・サークル』ではディスプレイに表示された字幕テキストを俳優が見ながら発話しては、リモコンで画面を操作して次のテキストに進む、というようなことをやっていたけれど、これもまさに発話の先取りの問題だよね。俳優の発話の背後に、事前に用意されたテクストが存在していることが隠されていない。今ここで即興的に発話されたものではないことが明確に示されつつ上演が進んでいく。
 今回のプレビュー上演を考えるときさらに興味深いのが、俳優のひとたちがみんな印刷された戯曲を手に持って上演していたことだよね。おそらくはまだ台詞が固まりきっていないからだとは思いつつも、もしかしたら本番でもそうなのかも、と思ったりしながら見てた。

h:そうそう。特に第一部はそうかもと感じた。

山本:俳優の肉体や思考に表現の由来があるのではなく、手に持っているテキストの側にその由来がある。俳優は手にもったテキストに喋らせられているだけである、それこそ自動音声のように……。個人的に思い出すのは、ぼくらとも関係の深い、写真家/舞台作家の三野新さんが中心になって2018年に上演された「アフターフィルム:performance」。三野さんの同名映像作品をもとにした上演で、スペノのふたりも出演していたんだけど──確かそれが、ぼくがスペノのふたりを目撃した最初の機会であり、またその上演のアフタートークが、三野さんから写真集『クバへ/クバから』の制作企画を持ちかけられた瞬間でもあったわけなのだけれど──、そこでものすごく印象的だったのが、俳優がスマホをそれぞれもって台詞を発話していたことだった。三野さん由来のアイデアなのか、それともスペノからのアイデアなのかはわからない。ただ、あまりに簡単な(いわゆるリーディング公演みたいな)そのギミックだけで、発話をめぐる自由意志や由来がスマホの画面の側に奪われた肉体が演出できていたことに驚いたのを覚えてる。

h:なるほど。今回の本番はどうなるんだろう。手に持ったまま出るのかな。

山本:少なくとも、本番では英語字幕を出すらしいね。手に何も持っていなかったとしても、かなり近い状態にはなる気がする。

そこにないものを想像させられる

h:戯曲の話でもうひとつ気になったのが、台詞がいろんなところでもじられてる、ってことだった。例えば上演前に古賀さんが話しているとき、「手をクロジにして」って言うんだけど、なにそれ、と。「くの字」のことなのかなって身振りから想像して聞いてたんだけど、イントネーションも含めてよくわからなくて。このひとどこ出身なんだろうとか思ってた(笑)。ほかにも、もっと細かな言い間違いとか、噛んでるみたいな発話がたくさんあった。会場である「STスポット」について変な話が展開されるときにも、「SDスポット」とか「SPスポット」とかって言っていたし。
 いったいなんだったんだろうと思って、プレビュー上演が終わった後、「なんでも質問していいですよ」って空気だったから質問したんだけど、戯曲を自動文字起こしで作ってるから細かな間違いがあるんだ、そのほうがもともとの音を残せていると考えているんだ、って回答だったんだよね。
 そのときは、へーなるほどと思ったんだけど、いま、送ってもらった戯曲を見ると、こんなに間違えてるの!? って驚いた。

山本:文章で読むと本当にめちゃくちゃだよね(笑)。

h:「クロジ」は《黒字》だし、たしか上演では「アイカサ」って聞こえていたところも、戯曲では《AI傘》になってたり。でも発話されたものを聞いたときには、ふつうに理解して聞けてしまっていた。もちろん細部までぜんぶ言ってることが理解できたって感覚はなかったけれど──意味分かんないこと言ってるなーって感じだったけど(笑)──それでも、ふつうの言葉を話しているようには感じていた。それが、戯曲だけを見ると、けっこう理解できない。ただ、上演を先に見ている自分は、いま戯曲のテキストを読んでも、誤字を残してある意味不明な文が、頭の中で勝手に発話の記憶をもとに正されるからか、わりと読めちゃう。これってなんなんだろう。

山本:重要なのはやっぱり、この戯曲が、最初に書き言葉として作り出されたものじゃなくて、まず発話として生まれた、ということだと思う。発話され、録音された音声が、きれいに文章として整えられるのではなく、音の質感に由来するエラーも含んだかたちで文字化され、編集され、戯曲となっている。
 この制作過程について考えるとき、例えば文字化を経ずに音源データそのままを戯曲として扱う、というやり方もありえたかとは思う。ただ、いちどテキスト化することで、複数人で共有しやすくなっただろうし、編集もしやすくなったはず。特に第二部は、ふたりの会話が緻密にコントロールされているけれど、音のままこれをやるのは困難だっただろう。
 その上で、あくまで最初の発話における音の質感も重視されている。それをテキスト化の際に綺麗に整えようとすることは避けられている。
 ここには、もちろん、戯曲とは書き言葉から成るものである、という既成概念へのカウンターという面も少なからずあるかと思うんだけど、それ以上に、最初の発話の瞬間にあった情報、例えば言い淀みやスリップなどをなるべく尊重する、そしてそれを戯曲にする(つまり舞台の肉体が従う先とする)という姿勢がある……と言えるのかな。

h:ただ、自動文字起こしは現状、そんなに音に正確なわけではないじゃない。言い淀みやスリップがあったからこのテキストになっているというところもあるだろうけれど、それ以上に、単純に人間の発話がうまく理解できずに(あるいは過度に正しい言葉として受け取ろうとして)変なテキスト化を行なってしまっているところがあると思う。
 そういう機械的なエラーを残したまま、もういちど人間に発話させる。その声を観客として聞いたとき、わりとけっこう、ふつうに言葉として聞けてしまう。そこでの、言葉を聞く側の、聞こえた音をありえそうな言葉に補正していく機能について、わたしは考えたんだよね。これはあとから戯曲を見て思ったことではあるんだけれど。

山本:なるほどな。他者の発話をトレースすると言うと、例えば手塚夏子さんの「私的解剖実験シリーズ」を思い出す。夫の気持ちというか存在そのものを理解するために、何気ない身振りを映像に撮り、それを細部まで完全にトレースしようとする。さらにそれを複数人で共有し、演じようとする。岡田利規さんや山縣太一さんをはじめ、各所に大きな影響を及ぼした作品だけれど、スペノがやっているのは、問題意識として近いところもありつつ、明らかに違うところもある。手塚さんほどには当然精密ではなく、ざっくりしているわけだけれど、それゆえに見えるものもたくさん生じている。
 スペノも発話の様子を映像で撮っていたりするかもしれないけれど、少なくとも観客からは発話の瞬間の身振り(を再現している気配)は把握できないようになっている。音声に関しても、音ひとつひとつを厳密に表記しようとするならそういう筆記法はこの世の中に存在しているわけだけれど、そうではなくあくまで自動文字起こしを経由させ、いわゆる自然言語でテキスト化した上で、俳優に発話させている。

h:しかも自動文字起こしを使っているということは観客からすればわからない、ということが重要だと思う。ただの聞き間違いかもとか、意図的に言葉を崩しているのかもと思ったりするだけで。

山本:なるほどな。「SDスポット」とかってはっきり言われると、何かしら意図のある言い換えなのかなと思うよね。ぼくは「STスポット」に関する明らかに嘘っぱちな話をしていることもあって、わざと別の名前にずらして言ってるのかと思って聞いてた。

h:あの話に出てくる「佐藤さん」って、ほんとにいるの? 穴を掘ってここを作ったってほんとなの? とか……お前の言ってることは本当なのかどうなのかはっきりしろ、みたいな瞬間が何度も起こるよね。

山本:胡散臭さがすごい。それはテキストだけの問題じゃなくて、古賀さんの演技体の特異性から立ち上がるものでもあると思う。いま目の前で考え発話しているようでもあり、観客と対話しているようでもあり、でも明らかに自分とは別の場所に由来を抱えて喋らせられてもいる、その絶妙な演技のバランスから生じる胡散臭さ。

h:そうね、すごく面白かった。胡散臭いというと悪いニュアンスが強くなっちゃうけど(笑)。

山本:でも、胡散臭さとしか言いようがない質感がある(笑)。

h:言ってる内容をどこまで真に受けて聞いて良いのかわからなくなるんだけど、でも観劇中は、やっぱり意図とかを汲み取ろうとしちゃう。それでけっこう辻褄が合った気にもなるし。でも、実際には、別に「STスポット」をあえて「SPスポット」と言い換えて言っていたわけじゃなくて、ずっと「STスポット」に関する話をしていただけなんでしょう? ただの文字起こしの結果なので……みたいな。悔しいよね、自分のなかの相手を汲み取る能力みたいなものを無駄に使わされている感じがして(笑)。機械のエラーをわたしに押し付けないでよ、って。

山本:そこで生じる「ただの機械的な情報にも人間的な意味や意図を汲み取ってしまえる」ということもまた、肉体に能動性を見るかどうかに関わる話でもあるわけだよね。

h:そうそう。

山本:いったん自動文字起こしを挟むことで、表現における由来、根拠を、最初のひとの発話にのみ還元できるものではないようにしている、と。そういえば『クローズド・サークル』でも似たような方法が取られていた。テクストや上演の流れが、「バックギャモン」っていうテーブルゲームのルール・進行にのっとって決められていたのね。そこでもやっぱり観客側は「なんでここでこの発話が為されたんだろう」といろいろ考えさせられるんだけれど、蓋を開ければ、「ゲームがこうなっているからですよ」とあっさり返されてしまうわけだ。何かしらの物語や意図を探ろうとするのに、その先にあるのはそれ自体としては何の意味も持たないただのルール(の遂行・上演)でしかない。
 こういうところから、例えばぼくなんかは、大岩雄典さんのインスタレーション作品を連想したりする。大岩さんも、(大岩さんそのものとイコールで結ばれがちな)特定の作家性に作品が還元されないよう、明確なゲームルールを露骨に提示して、観客側からの意図の汲み取りを不全にしたりする。さらに、観客側の行為を戯曲や美術などでもって先取りしてしまう、そこで起こる不快感なども含めて作品の質にしていたりする。スペノと大岩さんはやっていることが近い、とも言えるかもだけど、それ以上に、上演というものそれ自体が備えている諸々をストイックに問おうとすると必然的にそういう作品の作り方になる、って話だろうなと理解している。
 ちなみに、音に関わる操作は、第一部では「おやすみんみんぜみ」みたいな言葉遊びに関する話にまで進んでいったけれど、これもまた、音が依拠するルールをもとになかば自動的に発生する表現にひとがいろいろな情動を勝手に立ち上げてしまうという話だと思う。
 音の問題を扱うとこういう議論展開になることはよくあって、例えば詩歌の形式をめぐっても同様のことが生じる。短歌の定型、つまり57577にのっとって音が並べられていき、ひとつの表現が作られるとき、そこにある情動や思考は音の醸す言語的な意味に由来するものなのか、作者に由来するのか、あるいは57577というリズムに由来するのか。だれがその表現にとっての主体であり、原因なのか。そこに埋め込まれていると読み手側が感じてしまった情動や思考は、果たしてどこからやってきているのか? なんてね。
 そういったことが、今回の作品では、戯曲と上演を考える上での一例としてさりげなく提示されている。全編にわたって話されている内容はぺらぺらなんだけど、それらがいずれも問いを鮮明化することにうまく寄与させられている、と言っていたのはこういうようなところのこと。
 例えばマスクの奥での口の動きを想像させるような身振りや台詞があったけれど、あれも同じ。一見するとどうでもいい細部だけれど、観客側からすれば、知覚情報としては得られていない空間(マスクの向こう側)を自分がいつのまにか想像してしまっている、そのことを自然と自覚させられる一例となっている。
 このまま、空間をめぐる想像の話に進めば……第二部でよりはっきり扱われることだけれど、舞台上の発話によって観客がこことは別の空間を想像させられてしまうという事態は、いろいろな角度から展開されていたよね。「STスポット」をめぐる話も、いまここの舞台をめぐる想像力に関わるものだと言えるし、それこそ言葉遊びの話のとき、古賀さんが、舞台奥の出入り口に立って、こちらからは見えない壁の向こう側に向けて話していたのも、そうした想像力への注意をシンプルに喚起する演出だったと思う。

h:あそこは今回の作品のなかで一番笑えるところだったよね。「おはヨーグルト」は「おはよう」と「ヨーグルト」の組み合わせが最高ですよね、朝と爽やかな感じがいいんですよとか(笑)。そういうことを舞台の裏に向けて話しながら、ときどき観客側を見る。その様子も面白い。あれって、観客が笑ってるかどうか確認しているみたいだったよね。反応をうかがってるのかな、っていう。なのに裏に向けて話している。それまでの前説みたいにがんがん舞台上から話しかけてくるのとの対比もあって、不思議な印象だったな。

ダンスと共有

h:わたしが「伝える」ということについて考えたのは、主には第二部を通じてだった。
 第二部は、すごく簡単に言ってしまえば、渚さんと西井さんというふたりの俳優が舞台上で話している。でも、ふつうの会話とかではなくて、一方的に話したり、同時に別々のことを話したりしている。

山本:バーっとまくし立てるような感じでね。

h:でも、聞いていて、ぜんぜん意味がわからないとかではない。ふたりだからぎりぎり何を話しているかは掴めたりする。そして、ときどき「わかった?」「わかった」みたいなやり取りがあって、話が急に止まる。逆に言えば、話が止まるその直前に、ふたりが応答しあう瞬間が訪れる。観客からすると、「あれ? やっぱり話してた? お互いわかりあえてたの?」と思うわけだよね(笑)。でも話が再開すると、またお互いがぜんぜん違うことを言っていたりする。この、お互いぜんぜん別の話をしているのに時々お互いに伝えあえていると錯覚させられるような瞬間が生まれる、これってなんなんだろうと考えたんだよね。

山本:それは、ふたりの俳優のあいだで何かが伝えあえている、ということ? それとも、俳優たちから観客側に何かが伝えられてしまっている、ということ?

h:両方。伝わっていないなと感じつつ、でも伝わっているとも感じる、じゃあそもそも「伝わらない」ってなんなの、とか。

山本:なるほど。それは第一部でいったん明晰に言語化されつつ展開されていたことでもあるよね。あらためてあなたが引いていたところを引けば──《根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通していると思います ダンスの工程とか なぜこのダンスが生まれたか 紹介する 説明とか 紹介っていうのがこの共有するbehaviorを説明する上で正しい伝え方だと思っていて 今説明の説明をしてる だから何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」このダンスを伝えます このダンスの背景を伝えます みたいな》、とか。

h:まあその意味では、素直だよね、わたしは。「伝える」がテーマだと言われて、その通り受け取ってるんだから。

山本:でもこの作品自体、そういう意味での明晰さ、露骨さがあると思うよ。何かを隠したりこっそり表現したりするのではなく、はっきりと「ここに問題があるんです」と開示した上でやっているというか。

h:第二部は第一部で展開されたテーマがより実践的に展開されているのかな。ふたりのあいだのやりとりには、わりとふつうに会話として成立しているところもある。伝わってるかも、とかではなく、あきらかにふつうにやり取りしているところ。でもすぐにまた、すれちがいになる。だから、「伝わってる」「伝わってない」をめぐるこちらの認識もどんどん揺らいでいく。そこが面白い。

山本:また第一部の話にもどっちゃうけど、もともと「共有するビヘイビア」が2018年と2019年に上演されたときには、ダンスの背後にある制作過程などを観客に共有するという意図をもった作品だったということは、台詞のなかでも明言されている通り、やはり重要なことのような気がする。
 ものすごくざっくりした話になるけれど、ダンスって、踊る側からするとものすごくいろいろな感覚や思考を展開していたりするけれど、それを見る側は、なんか動いて表現してるっぽいな、程度の解像度でしか捉えられていないことが多いと思う。踊っている肉体を外から視覚的に認識することはできるし、そこでの身振りを通じて踊っている肉体か、あるいはそれが依拠しているコレオグラフを作成したひとが何かしらを表現しようとしていることまではわかる。でもそれが何なのかまでには至らぬまま──ブラックボックス化したまま──見終わってしまう。
 肉体の身振りを見て、それが由来している感覚や思考を把握するというのは実のところけっこう難しい。熱さを受けての条件反射とかなら、大半の肉体は同様の動きをするだろう。白鳥の見た目を真似して踊る、とかもまだわかりやすい。でも、例えば「生」を表現して下さい、みたいに言われると、みんな思い思いの動きをするほかないだろう。そうして為された表現から、その由来を明確に逆算することは、身振りがひどく定型的なものである場合を除けば、かなり難しいだろうと思う。そしていわゆるダンス作品の場合、条件反射も複雑な表現もひっくるめて編集し、構成していくわけだから、さらにことは複雑になっていく。
 そうしたなかで、2018年と2019年バージョンの「共有するビヘイビア」では、ダンスを作る過程での議論と、ダンスそのものを、ともに編集・構成し、ひとつの作品のなかで展開する。つまりダンスだけを提示するのではなく、その背後にあるものの開示・共有込みで観客に見せていく。自然と作品は、ダンスをそれ足らしめている必然性、発端のようなものの言語化と伝達をめぐるものにもなっていく(こうやって語っていくと、いぬのせなか座が自分らの詩や小説を、その制作過程や背後の思考をめぐる座談会(しかも何重にも編集・構成されたそれ)とともに一冊にまとめて発表していたのと、やり方として近かったのだろうなと感じる。実際、実はぼくはスペノを見始めるだいぶ前から、いぬのせなか座とスペノは近いんじゃないかとたびたび周りから言われ、気になっていた……)。
 ついでに言えば、2022年7月に見た『ストリート リプレイ ミュージック バランス』も、ダンスを構成する複数の要素・要因をひとつひとつ丁寧に観客に見せては並置していき、掛け合わせ、厚みのあるダンスの経験を徐々に作っていく作品だった。ものすごく教育的かつロジカルなプロセスを踏むことで、身振りはその場で生み出された即興的なものとしてではなく、漠然とした謎でもなく、厳密に計算され仕組まれた身振りとして把握できるようになっていく。さらにはその身振りが作り出す周囲の空間への想像力の推移も、クリアに観客側に自覚されるようになるんだよね。
 「共有するビヘイビア」は、すでに何度も触れている通り『クローズド・サークル』という作品に発展するんだけれど、そこではいわゆるダンス的な成分はぐっと減り、ふたりの俳優による発話が中心になる。そしてその先に、今回の作品があるわけだ。つまりは発話・会話にすごく重きを置いている今回の作品の背景に、ダンスとその共有をめぐる問題意識や蓄積があるということ……スペノの経歴を知っているなら当たり前のことかもしれないけれど……このことはあらためて重要な気がする。眼の前の肉体が何に依拠して発話し、身振りを行なっているのか。それをめぐる観客側の認識とはどのようなものか。舞台と観客のあいだの「伝える」という関係はいったい何なのか。それら全体を取り巻く空間とは何なのか。
 ……ということを踏まえた上での(笑)、第二部における「会話」の問題、だよね。

破壊的テクストと共有される場

山本:第二部で重要なポイントのひとつに、テキストの反復的共有がある。具体的には、例えば岸田國士で卒論を書いたという話を俳優ふたりともが時間を置いてそれぞれ同じように発話する。これって観客側の認識で言えば、ある種の役柄の交代のように感じられる事態なんだけれど、もう少し踏み込んでいえば、そのテキストを文字起こしする前の自己紹介的な発話が俳優ふたりに共有されているわけだよね。しかもひとりの発話がふたりに共有されているということは、少なくともそのうちのひとりは、自分とは別の者が私的な情報をめぐるものとして為した発話を再現していることになる。ひとりではなくふたりで話すことで、そのような認識に自然と無理なく観客側が至るようになっている。

h:しかもそれは、岸田國士みたいな固有名詞だけじゃなくて、いぬがかわいいとか、好きな映画はなんですか、みたいな台詞を起点にしても把握できる。つまりかなりの頻度で、ふたりがひとつの人物を演じているようだというのがわかる。
 もうひとつ謎なのは、第二部でも第一部と同じく舞台上に、こちらからは何が映っているのかわからない角度でディスプレイが置かれているんだけれど、そこから声がすると、舞台上のふたりが異様な驚き方をしながら、舞台奥のふたつの出入り口にそれぞれすっぽり収まっていくところ。後ろ向きに一気に激しくさがっていって、痛みのようなものを感じているふうに見える。やめてほしいというか、嫌がっているというか、こわがっているというか……いずれにせよプラスの感情じゃないよね。そうした場面が何度か繰り返される。あれはなんなんだろう。

山本:現象としてはわかりやすくはあるんだけれどね。

h:そう、何かしらのルールがあるということはよくわかる。「ディスプレイが喋ったら嫌がる」というね。まあそれも徐々に解体されるわけだけど。
 他にも、身振りに関するルールがいくつかあるようなのは認識できる。例えば、「どういうところに住んでたんですか」みたいに聞かれたら、台にのぼってそれに答える、とか……その意図まではわからないし、そもそも把握が合っているかどうかもわからないんだけれど、何かしらここにはルールが働いているんだなとはわかる。そしてそれは、ふたりの「会話」からすれば、すごく安心できるものとしてあるなと感じる。
 ふたりは基本的に話している内容がずれていて、同じ舞台上にいるにもかかわらず、お互い隔絶され、力の及ばない場所にいるように感じられる。でも、さっきも言ったように、あるとき急に、「そうですよね」「はい」みたいな応酬がくる。それが、見ていてすごくこわいんだよね。こんなにそばにいるのに交われないんだ、伝えあえないんだ、というところから、急に会話が成立したようになって、また離れていく。その伝わらなさとか、伝わったかと思えばまた離れていくこわさと比べると、身振りに関するルールは、どこか安心できるものがあった。
 ……というか、今気づいたけれど、第二部の戯曲、やばくない?(笑)けっこうちゃんとした台詞だと思ってたけれど、文章で見ると、第一部よりもさらに意味わかんない。《チキン鶏肉ねんとりこしょっぱい》って、なに。

山本:これは……(笑)。

h:ふたりが同時に話すから聞き取れないんだと思ってたけれど、ほんとに意味わかんないこと言ってたんじゃん(笑)。たったふたりでも同時に話されると無理なんだ、って思ってたけど、これじゃそもそも聞き取れるわけがなかった。

山本 なるほどなあ。

h:ひとりひとりで喋っているときの台詞は、当たり前だけれど聞き取れるわけだし、上演中は内容も含めて理解できてる気になってた。でも戯曲を見ると、かなりへんだったことがわかる。例えばこことか……。

 N1 メープルシロップは振りつき
 N2 もう学びっていう名前なんですよ
 N1 そうなんですか 珍しいですね
 N2 違う弓田 すごい お母さんのおねちゃんが真弓さんです いとこが愛美ちゃーんでしたね
 N1 うん なっちゃん うんちゃんって言われます でもまだちゃんは 飲み物が好きNO中のビルオーナーとコーヒーかな
 N2 コーヒーが好きです

 この場面、はっきり覚えてるけど、《愛美ちゃーん》とかは聞き取れるけれど《なっちゃん うんちゃんって言われます》とかは「ん? なんだろう」くらいまでしか理解できない。《飲み物が好きNO中のビルオーナーとコーヒーかな》とかになるとぜんぜんわからなかった。でも次に《コーヒーが好きです》と来ると、急に会話として聞こえてくる……。
 上演中は、ひとりひとりはちゃんとそれぞれで理解できるようなことを喋ってて、でも同時に話していたり台詞が意図的にすれ違わされていたりするから理解が追いつかないだけ、と思っちゃうけど、戯曲を見ると、そもそも伝わることなんて最初から喋ってなくて、互いに、それから観客にも伝える気がなかったんじゃん、と思う。何かがあるわけじゃない、何もないことを言われていただけだったのに、上演である以上──というかひとが前で言葉を喋っている以上──そこにはなにかがあると思わされてしまっている。これは、やっぱりこわいことだよね。日常も実はこんなものだと言われている気もしたし。

山本:破壊的な文章でもって「聞こえさせていない」ところと、会話としても意味内容としても「聞こえさせている」ところが、ものすごくうまくレイアウトされているよね。ずっと会話が成立しない、意味がわからない、とかじゃなくて、わかるところとわからないところのリズムがコントロールされている。

h:そうだね、されてた。テキストそのものもだし、発話でも、ふたりのあいだでうまく間を置いたりしていた。「聞こえて……る?」みたいな(笑)。

山本:そうそう。テキスト内外のいろいろな要素を駆使して、会話の成立(不)可能性を精密に演出している。視線の向きや、どこでどう頷くかとか。音楽のリズムを取っているときの頷きと相槌の頷きが同期させられる、みたいなこともあったと思う。
 あと、空間の共有……土地や風景の描写はもちろんだけれど、例えば《柴が居ますね》とか《どら焼き》とかみたいに特定の対象をフィクショナルに名指すような発話はけっこうな頻度でふたりのあいだで共有され、ともに立つ場を形成する。その瞬間、会話が成立したりする(そのように感じられたりする)んだけれど、とはいえ仮構される対象の位置も、お互い想定している場所がずれていることが明らかだったりするから、すぐに崩れていってしまう。
 ほかにも、「それ」「これ」「あれ」みたいな指示代名詞は、会話の成立(をめぐる知覚)を促していたよね。「私」もそうだし、あとはやっぱり名詞の反復は最たるものだったと思う。一方、同じく人物名でもってふたりのあいだのずれが強調されたりもするわけだけれど。そういう細部のコントロールがすごい。
 さらにもうひとつだけ加えると、ディスプレイに向かって「音楽をこの部屋に流してほしい」って言う場面があったよね。すると実際に音楽が流れる。それは舞台上のふたりにも、観客席にも、さらに言えば会場外の廊下を歩いているひとたちにももしかしたら聞こえているかもしれないものだ。これまで触れてきたようなどれよりも、はるかに強い共有、同期の礎としてある。舞台美術を指さして「これ」と言うときがあったと思うけど、それよりも強力なものだと思う。

h:伝わってるんだな、と感じられる。

山本:でも、次に発話されるのは《違う ちょっと違う ちょっとたぶん違う》。やはりだけれど、また共同の場は崩れる……このあたりの半ば露骨とも言える展開の塩梅が、うまいんだよなあ。
 こういうことの積み重ねが、二つの肉体のあいだの共通の場をめぐる判定基準の検証となり、すなわち「会話」というもの、「伝える」ということの判定基準の検証となり、さらにはある肉体における自由意志や思考をめぐる判定基準の検証となる……そしてもちろん、第一部をめぐって話していたような、戯曲の問題にもなっていく。戯曲もいわば、舞台上の複数の肉体が帰属する共同の場の一種だよね。ひとつの同じ戯曲を共有できているということは、ひとつの場を共有できているということであり、そこには(一般的な意味かどうかとは別に、肉体と肉体が同じ地平を共有して関わり合うという意味で)会話が成立するだろう。言い換えれば、そのような対象であるからこそ、この作品において戯曲は、音楽と同じように「違う」ものとみなされ、自動文字起こしを挟んでエラーを大量に食い込ませられたり、もととなる発話主体を置いたりして、単一の書き手に統合されないように操作されている。
 こうした諸々が、上演という表現形式における最たる素材としての、観客と舞台のあいだに生じる想像力に関わるものとして、一気に貫かれるというか、ぜんぶ同じ問題なんですよと示されているような感覚があったな。
 そしてその上で、舞台そのものとは別で収録され戯曲の素材とされているところの、日記的な発話とはいったいなんなのか、というところにまで返っていくのかもしれない。

話すことのなさと方法

山本:話し損ねたことを最後に手短に並べておくと……第二部での《歩きたくなったら歩いてもらって》という台詞(続けて、言われた側が歩き始める)も印象的だった。まさに能動受動、行為の由来の問題だよね。しかもこの台詞も、間を置いてもうひとりが同じく発話することになる。この交換可能性。
 あとはドッペルゲンガーのモチーフも、第一部・第二部共通のものとしてあったよね。第二部で言うと、例えばここ。《この前すごいおばあちゃんに似てる人がいたんですね おばあちゃんは髪型がすごい 毎日パーマを当てに行ってたんですよ 毎日当てに行ってたんだけど その人はショートカットでピンクの髪型だったのね ベリーショートだけど 他はどう見てもおばあちゃんにそっくりだった いきなり話しかけてもちょっとびっくりされるかなと思って 普通に後をつけてたんだけど その人がすごいこっちをすごい伺ってきてたから 会釈しようと思って釈して通り過ぎたんだけど その通り過ぎた瞬間に「私」だって思ったんですね》。

h:ああ! あったあった。それすごくこわかった。しかもディスプレイに向けて話してた気がする。すごく嫌だった。第一部にも似たようなことがあったね。

山本:どこだったっけ……いま(2023/03/16)はまだ記録映像が届いてないから、戯曲のデータを検索しつつ記憶をたどることしかできないのだけれど……あ、ここだね。

h:《出会いの場というのは どのような場所だとお考えでしょうか 例えば公園 例えば学校 例えば道野途中 駅のホームでした 別の線と線が交わるところ 大きな駅のホームでした そこで 年老いた「自分」と出会いました 姿は全然今とは全く似てませんでした でも直感で「自分」だということが認識できました どっちとも言わず話していました 内容としてはゲンキーみたいな 体とか壊してないのとか 最近楽しかったこと何 ほとんど久しぶりに会った友達と会ったときに話すような内容ばっかりで 何故なら深入りして何かを話すことが結構怖かった だから 当たり障りのないような 割とライトめな会話をメインで話してた》。

山本:そして自動音声が《話すことない》と返事するのか……。この作品全体における「話すことない」っぽさはすごいよね。

h:あんまり意味ないもんね(笑)。

山本:にもかかわらず、大量に喋り続けてて、それを観客は聞こうとしちゃう。聞こうとさせられちゃうような演出や演技、テクストの技術がすごくある。

h:あと、第一部と比べると第二部のほうは、すごく自制的というか、自分を抑えて喋ってる印象がすごくあった。言葉をここに置くよ? 置くよ? みたいな丁寧さがあったというか。それは演出の複雑さ、意識し実現しなくちゃいけないことの多さから来るものでもあると思うんだけれど、その上で、すごく抑制されている感覚が全体にある。だからこそ、ディスプレイから自動音声が聞こえた瞬間、ふたりがわーって驚いて激しく動くのに対しても、すごくこわく感じられる。ものすごく強い感情の発露に見えるから。

山本:そういう抑揚を作るのが、ほんとにうまい。

h:だってさ、ちょっと眠くなりそうなときにそういうことをやってくるでしょう?

山本:確かに(笑)。

h:そういううまさもあった。やっぱり情報量が多いから頭がぼーっとしてきちゃうしすごく疲れるんだけど、いいタイミングですごく明確な出来事が起こる。そういうところもすごく面白い。

山本:あと、最後にもう一個だけ。ちょっとメタ的な話というか、作品全体を比喩的に表現している箇所の話になっちゃうんだけれど……。

h:「0.5人」の話?

山本:ああ、それも重要だね。それと絡むようでもあることとして、第二部の冒頭、「念力暗転」の話から始まるんだけれど、西井さんが前に出てきて念力暗転を実演するような振る舞いをする一方、同時に少し後ろで渚さんがその様子を外から描写するような話をする。ひとりがひとりをはっきり語って記述する場面というのは、ここくらいなのかな……ここで示される関係性はすごく印象的で、作品全体を貫くイメージにもなるところだったなと思う。もう何度も触れてきているけれど、なにかに先取りされている感覚もあるし、私が私を語っている、ある種の分身関係の発露というような感覚もある。なんというか、最晩年のベケットを思わせるところもある。
 またその話が念力暗転の方法の説明をめぐるものだったということも、極めて重要だった気がする。この作品の軸は方法のプレゼンテーションなんだ、ということが意識付けられたというか。つまりはエピソードや個々人の情動などではなく、異なる人物、異なる場所で転用可能、反復可能な何かをめぐるものなんだ、と。《知ってるのは 舞台上に1人 人が立っていて 手をかざして それ見てる人がまぶたを閉じるっていうやつを知ってるんですけど》って渚さんが西井さんに向けて語るとき、それは西井さんがいま演じている誰か個人を描写しているのではなく、あくまで念力暗転の方法、具体的なプロセスの話をしているだけなのね。でもそれが、目の前に立っているひとの描写にも聞こえるんだよ。この妙な状態が、すごくおもしろいし、今日話してきたこと全体をあらわしているようにも個人的に感じられる。
 で、結局、「本人たち」ってなんなのか、ってところだけれど、上演と生の根幹にある、特定の「舞台」に限られない、極めて日常的で匿名的かつ反復可能な形式……それがつまりは伝達をめぐる方法であり、演出であり、社会の構成単位であり、新たな意味での戯曲である、のか……。

 2023/03/16-19

※プレビュー上演は2023年3月15日に「STスポット」にて非公開で行われた。
※引用したテクストは、いずれも2023年3月16日にスペースノットブランクより共有されたプレビュー上演時の戯曲データに由来する。

山本浩貴 Hiroki Yamamoto WebTwitter
1992年生。言語表現・レイアウト。小説や詩やパフォーマンス作品の制作、書物・印刷物のデザインや企画・編集、芸術全般の批評などを通じて、〈私が私であること〉の表現あるいは〈私の死後〉に向けた教育の可能性について共同かつ日常的に考えるための方法や必然性を検討・実践している。主な小説に「無断と土」(鈴木一平との共著、『異常論文』ならびに『ベストSF2022』掲載)、主な批評に「死の投影者による国家と死」(『ユリイカ』2022年9月号 特集=Jホラーの現在)、主なデザインに「クイック・ジャパン」(159号よりアートディレクター)、主な企画・編集に『早稲田文学』2021年秋号(特集=ホラーのリアリティ)。2015年より主宰する「いぬのせなか座」は、小説や詩の実作者からなる制作集団・出版版元として、各種媒体への寄稿・インタビュー掲載のほか、パフォーマンスやワークショップの実施、企画・編集・デザイン・流通を一貫して行なう出版事業の運営など多方面で活動したのち、2021年末をもって第一期終了、現在は山本のみを固定メンバーとした流動的なかたちをとっている。理論・批評の単著を2023年刊行予定。


小説の制作のほか、「いぬのせなか座」のメンバーとして山本浩貴とともに書物・印刷物のデザイン、パフォーマンスの制作を行なう。主なデザインに田恭大『光と私語』(いぬのせなか座叢書3)、主な小説に「すべての少年」、「盆のこと」(『いぬのせなか座2号』)、『2018.4』『六月二一日』(いずれもいぬのせなか座)など。

本人たち

イントロダクション
植村朔也:イントロダクション

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演

本人たち|植村朔也:イントロダクション

 スペースノットブランクの「保存記録」として働き始めてから、この3月でちょうど3年が経つ。この文章は『本人たち』のイントロダクションとして依頼されたものだけれど、いい節目なので、保存記録の活動を振り返る場としても利用させてもらいたい。そして過去に書いたお粗末な『本人たち』評の簡単な修正を試みたい。
 保存記録というのは、写真や映像を撮る人なのではなくて、スペースノットブランクが何をしているのか観測して、わかったことをかたちにしていくということなのだけれど、正直なところ自分にはいまだにほとんどのことがよくわかっていない。
 作家がなにを思ってなにをしようとしているのかは、やろうと思えば稽古場での作家の発言からある程度たどれるし、ちょくちょく作家がLINEで教えてくれることもあったりするから、それをまとめてしまえばいい感じもするが、そんなに単純な仕事ではない。実際、事前に話を聞いていても、スペースノットブランクの舞台を観るといつも呆気にとられてしまうし、なにを書いていいかわからなくなる。その分平気で遠慮なしに稽古場に行ったり作家と話したりしているようなところがある。
 やろうとしていることとやっていることはしばしば一致しないものだ、というのは当然として、スペースノットブランクはコレクティヴとしての集団制作の方法それ自体を制作しようとしているようなところがあるから、作家とか、その意図とかいった概念自体あんまりあてにできない。わたしがスペースノットブランクに書いてきた批評に対して、制作論に終始していて、結果としての舞台については得るところがないという旨の批判が寄せられたことは一度や二度ではない。しかし、そのようなプロセスと結果の弁別の自明視を問題視し、作品を扱う単位としての制作の技法に目を向けないことには、スペースノットブランクの作品の記録としては不十分だと考えてきた。一方で、そうした作品性格が規定する、観客への可能な効果の方向性についても、わたしは書いてきたつもりでいる。
 『本人たち』の最初の作品群(第一期)は2020年9月に、YouTube上の動画と、スペースノットブランクの公式WEBサイト上のいくつかのテキストというかたちで発表された。各作品には「5月31日」などの日付が付されているが、動画概要に「スペースノットブランク『本人たち』の5月31日の映像です」とあることから、この日付はタイトルのたぐいではなく、いくつもの『本人たち』のそれぞれにさしあたりつけられたラベルという感がある。ここでは便宜的に各『本人たち』をそれぞれ同題の別作品とみなしているが、この理解はおそらく正確ではない。具体的な発表時期については動画以外記述がなく、はっきりしない。テキストはクリエーションメンバーの発した言葉を編集したもののはずで、おそらく日付はその発話が為された日を表している。
 続けて、11つのテキストからなる『本人たち』第二期、2つのテキストからなる『本人たち』第三期がある。さらにこの第三期のテキストを使用した、ANB Tokyoでの展示『また会いましょう』がある。それから第二期と第三期の間に、paperCで連載された「本人たちが大阪に行こうとしながらも行かなくなってしまった二〇二二年一月のいくつかの現像」があって、これは写真と短文からなる。このように、『本人たち』のクリエーションは2020年以降、スペースノットブランクによって継続的に行われ続けてきた。
 そして今回、『本人たち』はSTスポットで上演される。しかも、『本人たち』は『共有するビヘイビア』『また会いましょう』という二つの作品を包括した形で上演されることになっているのだ。問題なのは、動画、テキスト、舞台というメディア形式の横断性それ自体ではない。それら諸々の『本人たち』を貫いている共通因子が何であるのか、見当がつけがたいのだ。
 たとえば、『本人たち』の諸テキストを読んでみるとする。第三期6月13日。これは様々な「本人たち」の言葉を収集して、編集したもので、しかしどの言葉を誰が発話したかは曖昧にされているから、ひどく個人的な内容で、本人的な文体を持ちながら、特定の人間に帰属しない、「本人たち」の文章としか言えないものなのだ、というくらいのことは、すぐに言える。しかしこれはスペースノットブランクのほかの多くの作品にも共通して言えることで、作品の特徴としては説明になっていないのである。
 ほんとうはここにリンクを貼ることさえ躊躇われるのだが、過去にわたしが書いた『本人たち』評はひどい出来で、やはりこの誤りを犯している。そこでは作品は「過剰な多声性=非個体性と過剰な本人性=個体性によって、一層強く鑑賞者の想像力を喚起し」、そのことでオンライン演劇の悪条件も乗り越えられると言った旨のことが書かれている。
 言い訳をすると、わたしはもともと舞台批評家を志していたわけではなくて、「保存記録」の仕事は経験の浅いままに見切り発車で始めてしまったところがあるので、初期の評はそのほとんどが的を外しているし、執筆のスタンスも悪い意味で安定していない。いくらかまともに、方法的に書けるようになり始めたのは、2020年の暮れの『光の中のアリス』から、2021年の『ささやかなさ』にかけての時期のことで、それまでの評は素人同然である。保存記録の産物という都合上簡単に消去できないのが歯がゆいのだが、一度まとまった時間を取って、これまでの評を抜本的に書き直す必要を感じている。
 『本人たち』の共通因子のつかみがたさに話を戻す。厄介なことに、スペースノットブランクはタイトルをてきとうにつけているのでもない。今回『本人たち』の部分集合として上演される『共有するビヘイビア』は、過去に二度上演されたのち、『クローズド・サークル』への改名を経て再上演された作品である。それが、再度『共有するビヘイビア』へと名前を戻されている。
 つまり、ステートメントと照らし合わせても毎度不可解なスペースノットブランクの上演(というのはいくつかスペースノットブランクの作品を観て確かめてもらうほかないが、ほんとにそうなのだ)のそれぞれは、しかし特定の名によって束ねられて他から区別されるに足る相応の共通因子を時に有しているはずであって、そしてわたしの見立てでは、それがそれらの上演に固有の問題構制を示している。命名は舞台の制作と上演に先行しているから、実際に上演される舞台がこれら問題構成に還元しきれない過剰を産出していくことは当然として、しかしなおスペースノットブランクの批評においてはこれらの名の根拠を問う必然性がある。というのも、作家性というのは、作家の天才とか人間的個性というよりは、特異な問題構制を追いかけていくことの効果として事後的に見出されることがしばしばであって、制作の主体概念を問いに付してきたスペースノットブランクの舞台について、単におのおのの観客のうちに生じた効果を記述するのにとどまることなく、なんらかの共有可能な言説を打ち立てようとするのであれば、まずはここから始めるほかないからだ。問いは名とともに繰り返される。その問いをくり返し問うていく作業をわたしは自身の仕事と定義している。それが定点観測的にスペースノットブランクの作品を絶えず追いかけていくことの意味だと考える。結果的に、その文章は作家のステートメントに準拠したナイーブな意図主義的批評のように読まれているかもしれないが、少なくともここしばらくのわたしの仕事はそう単純なものにはなっていない。
 ところで、この依頼された「イントロダクション」は、『本人たち』本番がどうなっているのか全然知らないままに書かれている。だからわたしには『本人たち』の問題構制については仮説を立てることしかできない。それでも見立てはあるのであらかじめ書いておこうと思う。
 これまでのスペースノットブランクのテキストは、稽古場で出演者と演出者が場を共有するなかで、そのやりとりから生成され編集されてきた。対して、『本人たち』第一期の2020年というのは、このような場の共有が不可能になるような制作状況であった。この結果、場やそこでの関係性よりも「本人たち」が前景化してきたのだろうということは言える。場所性の強い印象を帯びた『クローズド・サークル』の題が退けられて『共有するビヘイビア』の言葉が回帰してくることもここから説明できる。
 あるいは、これまでスペースノットブランクのステートメントに登場してこなかった「戯曲」という言葉にも注目される。スペースノットブランクはどのようにこの「戯曲」概念を定義していて、それがいかに『本人たち』の上演性格と結びついているのかは当然問われていい。
 さて、批評が読まれないことを批評家が嘆くのは野暮の最たるものだが、スペースノットブランクについて他人が論じた文章で、わたしの評を参照したものがこれまでないのには、正直不満がある。議論がぜんぜん進んでいかないからである。スペースノットブランクについては、わたしはやはり純粋な批評家というよりは保存記録として書いているので、誰かの議論にいつか役立つようにと思って記録してきた。曲がりなりにも3年にわたって執筆をつづけてきた以上、批判的に言及するくらいの価値は誰かに認めてもらわなくては困るのである。だから今回、保存記録の仕事についての所感を赤裸々に書いた。
 スペースノットブランクは近頃みずからさまざまな書き手にオファーを出し、レビューを募っているが、それらが相互に参照する気のない複数であることには疑問がある(わたしが近頃批評の掲載を戦略的に遅延させている一因はここにある)。今回のスペースノットブランクはオープンコールでレビュアーを4名も募っている。だからわたしも恥を捨ててオープンに呼びかける。どうか誰か次の問いについて議論を進めてほしいと思う。そのようにしてこの文章は導入たらんことを目指す。実際のところ、『本人たち』はいったいなにをしているのだろうか。

植村朔也 Sakuya Uemura
批評家。1998年12月22日生まれ。千葉県出身。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの保存記録を務める。過去の上演作品に『ぷろうざ』『えほん』がある。

本人たち

イントロダクション
植村朔也:イントロダクション

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演

内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって

 2022年の京都エキスペリメント公式作品として上演されたスペースノットブランク(以下、スペノと表記)による『再生数』(作・松原俊太郎)を、ロームシアター京都・ノースホールで見た。後述するように、「見た」という表現が正しいかどうか、この作品にかぎっては、実はよくわからない。
 いつものスペノ作品同様、わたしにとっては「わけがわからない」内容だった。公式パンフレットには「スクリーンに映されたドラマ、これは映画か演劇か」という基本コンセプトが書いてあり、上演はまさにそのコンセプトのリテラルな実現だったとひとまず言っておける。舞台上に大きなスクリーンがひとつ据えられていて、作品のほとんどはそのスクリーンに映る映像を見るということになっていたのである。ただし、録画映像とライヴ(中継)映像のスイッチはなかったと思われ──ライヴ映像のなかで、スクリーンにプロジェクションされた録画映像を参照するシーンはある──、固定または手持ちの撮影用カメラを通し、上演は客席のスクリーンに〈届けられた〉。上演が展開する具体的な場所は、地下二階に位置するノースホールのホワイエに加え、ふだん観客は立ち入れない舞台裏の空間や楽屋などで、そこを俳優とスタッフたちがスピーディな動きをふくめて移動しつつ、作品は進行していった。
 スクリーンに映し出される映像の構図やカット割りはすべて事前に決定されていたようで、俳優たちは、その構図・カット割りのシナリオに沿って、いわばライヴで〈映画〉を上演/上映していく。ある台詞であるカメラを見たかと思うと、次の台詞ではその反対側にあるカメラを見て話す。また別の場面では引き気味のカメラが遠くの俳優たちを映し出す。そういう具合で、映像はディゾルヴやカットは多用せずに絶妙なスイッチングを経ながら継続していく。四人の俳優が全員収まっているカットから、次には二人、あるいは一人が、俳優の顔が交互に、それぞれクロースアップされる映像になるといった一般的に映画では当然の「画面作り」を想起させながら、上演/上映は続いていった。と同時に、「ネタバレ」ならぬ映画撮影の形式性の可視化というと大げさだが、そもそも意図されているのだと思われるが、撮影するカメラやそれを操作するスタッフの姿は比較的無造作に画面に映り込むことも、場合によっては許容されていた。ここ、、は映画の撮影現場?それとも映画の〈中〉、はたまた映画の撮影現場の〈外〉、あるいは映画の〈中〉の〈外〉?
 観客はと言えば、劇場の客席に普通に座ったまま、いつかは演劇の上演、つまりは劇場空間/舞台でのライヴの公演が始まるだろうなあという淡い期待を抱かされたまま、ほぼ常時、スクリーンに映写される映像内で展開する「撮影のプロセス」=戯曲に書かれたなんとなくの物語の進行、、、、、、、、、、、に見入ることになる。ただ、ときおり劇場内のスピーカーを通して聞こえてくる音声と、それと重なってライヴでかすかに聞こえてくる「元」の音声(=壁/ドア越しに聞こえる生声)に聞き入ったりすることもできる。さらに、俳優の動きを映像で確認しつつ、いわば気配として、客席内でその動きをなんとなく、、、、、感得したりもする。ノースホールの客席外の構造を知っている観客であれば、今スクリーンに映っているのはホワイエだとか、舞台袖だとか、楽屋だとか、なんとなく了解できる、といったような、きわめて特異な経験をすることにもなる。そして、上演中、三度ほど、生身の俳優が舞台上に登場することで、ああ、わたしたちは演劇の上演にたちあっている(かもしれない)と妙に納得したりする機会も与えられる。
 タイトルの「再生数」は松原俊太郎による戯曲のテーマであるだけでなく、ここまで見てきたように上演/上映の原理的属性に言及もしている。つまり、これは、〈映画で演劇〉なのだが、ここでいう映画には、ライヴ配信で再生数を稼ぐ、、、、、、、、、、、、というYouTube的視覚文化の領域内にある「映画」という意味合いも組み込まれている。必要十分条件を満たしたいわゆる映画、つまり、空間の移動あり、屋外ロケあり、日時の変化ありというより、YouTuber(でなくてもよいが)のゲーム実況に近い意味での「映画」という側面ここにはある。ただし、このゲーム実況は即時的にはインターアクティヴではなく、視覚音声情報は、一方的に上演する側から観客に向かって発出されつづけるだけである。観客にとっては、イマーシヴではないし、相互交信(交通)なるイリュージョンも、基本的にここにはない。観客は異化もされないが同化もできない。映画ではないのに映画を見ることに、あるいは、同じことだが、演劇ではないのに演劇を見ることに、ただただ自覚的になっている自己の意識を〈見る〉だけである。
 つまり、この上演は映画や演劇の形式をあえて問題化するといったようなモダニズム的な心性とは無縁だが、かといって、それらの形式と戯れてみせるといったポストモダンの〈身振り〉とも関係がない。それは何より、松原のテクストが、同時代の視覚文化とわたしたちの身体と心を貫く多層で錯綜する問題性を、〈極細のより糸〉としか呼べないアクチュアルだったりリアルだったりフェチだったり文学的だったり歴史的だったりする〈動機=モチーフ〉として言葉として群れさせ、、、、、、、、、つつ、「これは映画の撮影です」といううっすらしたナラティヴを基底/支持体として、縫い合わせるという時間的/空間的ドラマトゥルギーを実装させるからである。だから、最初に書いたように、「わけがわからない」が、正しい感想である(とわたしは思う)。
 たしかに、俳優自身ではなく登場人物はいる。戯曲テクストでは、衣装を含めて、以下のように書いてある。

 登場人物
 ピース 観客/無地
 ノン/黒子 観客/無地

 ミチコ 子ども、大人/スポーツウェア
 フフ 子ども、動物/ドレス

 武 責任者/スーツ
 翼 ニヒリズム/ジャニーズ
 (戯曲テクストより)

 そして、時間が経過するにつれ、シスターフッド(ミチコとフフ)、映画/演劇の現場における監督的/家父長的暴力/権力(武と翼)、〈映画〉にも〈映画の外〉からも、二重に不可視化/疎外化された存在(ピースとノン)などと、乱暴に主題を取り出してしまいたい誘惑──上演ではわからない可能性もあるが、松原が登場人物に与えた、上で引用した固有名がまさにそうした〈立ち位置〉を指し示していたりもする──に駆られるような人物たちの言動と行動がそのテクストに書き込まれている。
 さらにそこに、死と再生(映画/演劇の終演と新たな開始)といった古典的なテーマ性は、ネットでの再生という同時代的意味が付加されることもあって、〈終わり=死、、、、、から、、始まり=生、、、、、までのインターヴァルが極小化している、、、、、、、、、、、、、、、、、、──そして、極小化してこその再生数稼ぎである──事態へも、松原によって当然拡張されている。はたまた、特定の映画作品だけでなく、多様な映画のジャンル的特性──アクション映画、メロドラマ映画、アート系映画──の引用/援用/使用が、テクストのレベルと上演のレベルに埋め込まれて/ちりばめられてもいる。
 なので、結果的であれ、情報過多になってしまって「わけがわからない」のだから、上演の「いま、ここ」に身を浸し/意識を埋没させて、その瞬間瞬間に生起する視覚イメージや俳優の身振り/表情/汗や、見事なカメラワークや、俳優が語る言葉が喚起する情動や思考を、それはそれとして、場当たり的にその一瞬その一瞬で感受し、反芻したり忘却していればすむといえばすむ。すむというのはダメという意味ではなく、すませるほかはないように、この上演はできている。だから、やっぱり「わけがわからない」のか?

 さて、タイトルに示したメタモダニズムというもしかしたら聞き慣れない読者が多いかもしれない語がある。別件でたまたま読んでいた研究書で見つけたのだが、どうやら2010年くらいから使われていたらしい。「メタ」ではあるが、モダニズムとポストモダニズムのあいだを行ったり来たりする、右往左往する──もちろん、あえて、、、──といったイメージでよいだろうか。肯定的に言えば、いいとこ取りである。たとえば、わたしがこの語を知ることになったダニエル・シャルツは次のように説明している。

 ここ〔引用者註:メタモダニズムの諸実践〕において意味は、もはや集団としての大勢の観客のために生成されるのではなく、個人単位で生成されるのである。メタモダニズムは、パロディでもノスタルジーでもない、誰もがフェイクであることを知っていながら純粋にオーセンティックである経験を可能にするのである。ここが肝心なのだが、観客はフェイクやシミュレーションという概念、さらにはパフォーマティヴな自己を自覚しているからこそ、このフェイクな状況の中でオーセンティックな経験を得ることができるようになったのである。モダニズムが観客に課した能動的であると同時に受動的であるという分裂と、ポストモダニズムが観客に与えたあらゆるリアリティの喪失を、観客が交渉させてきたように思われるのである。i

あっ、『再生数』の話だ、とわたしは単純に思ってしまった。フェイクは日本語に入ってきたが、その反対語のオーセンティック(真正な)はそうなっていない。「リアル」とか「アクチュアル」とか近似のカタカナ語があるからだろうか。フィクションだとわかっていながら/いるからこそ、むしろ真正な経験(という感覚)が可能になるといったようなことになる。しかしそれは、集団的ではなく個人個人で異なるものとしてある。

 メタモダニズムでは、すべての意味と真実は個人的なものである。そのような経験には、真正性(authenticity)と親密性(intimacy)のメカニズムが極めて重要な意味を持つ。メタモダン演劇は、個人主義的で、親密で、個人レベルではあるが、純粋にリアルである。それは、観客のオーセンティックな経験への渇望を知り、それに応えるものである。ii

ことほどさように、『再生数』を見た観客は同じ経験をしたとはとうてい言えないようになっている。これまでのスペノの、松原俊太郎の、参加俳優についての、予備知識の量や質が観客ひとりひとり異なるといったような意味ではない。異なるのは当たり前で、それは「ふつうの演劇」でも同じことだ。しかし「ふつうの演劇(近代劇/モダニズム的演劇)」は、そういう異なる前提や予備知識とともに劇場を訪れる観客に、共有可能な共通の経験を与えて、観客をあるまとまった集団として主体化しようとする(「能動的であると同時に受動的」)。「一体感」や「感動」で観客席が盛り上がる。他方のポストモダニズムは、共有可能性や共通の経験なるものは、「フェイク=構築されたもの」だとして批判するが、オルタナティヴを与えることがなく、断片や分断やフェイク性をまんま、、、放置する。
 したがって、前者であれ後者であれ、どちらがデフォルトである観客も、『再生数』にたちあうと「わけがわからない」で思考停止する可能性が高い。しかし、観劇態度が習慣化して硬直していないふつうに日常生活を生きている、、、、、、、、、、、、、、観客であれば、『再生数』のさまざまな瞬間にさまざまな情動・感覚・思考を喚起される。身につまされるとか、「あるある」とかいった通俗的な応答もありえるが、そのような通俗的な応答を喚起しないように『再生数』は作られていて(とわたしは思う)、なにかもっと、そう、真正なもの、、、、、、としか呼べない情動・感覚・思考をもたらしているのではないか。
 そのためには、逆説的に聞こえるかもしれないが、「親密さ」という要素も重要である。ここでの「親密さ」は、シャルツ的には字義通りの距離の近さや少人数の観客──場合によっては一対一のパフォーマンス──のようなイメージなのだが、『再生数』の親密性は、映像での俳優のクロースアップという逆説的な親密性、、、、、、、──通常の演劇では、俳優の顔をクロースアップで見ることはできない──と、まったくその逆に、直接俳優に触れる可能性を原則的には排除している中継による映像、、、、、、、中心の上演という方法によって、もたらされる。
 こうやって『再生数』をメタモダニズムと呼んでみたところでなにかが起きるわけではないのだが、少なくとも「わけがわからない」まま忘却することにはならないのではないか。言い換えれば、「わけがわからないけどおもしろい」(!?)でおしまいではなく、「わけがわからないから感覚的・知的反芻の持続が必然になる」と、わたしは勝手に思っているのである。
──────────
i Schulze, Daniel. Authenticity in Contemporary Theatre and Performance (Methuen Drama Engage) (p.58). Bloomsbury Publishing. Kindle 版. 和訳は引用者。以下同様。
ii Ibid. はじめてこの語を使ったのはVermeulen, Timotheus and Robin van den Akker. “Notes on Metamodernism,” Journal of Aesthetics & Culture 2 (2010): 30 July 2012であるらしい。

内野儀 Tadashi Uchino
1957年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年より学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲』(1996)、『メロドラマからパフォーマンスへ』(2001)、『Crucible Bodies』 (2009)。『「J演劇」の場所』(2016)。公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。「TDR」誌編集協力委員。

再生数
『舞台らしきモニュメント』と『再生数』の映像配信を行ないます。

批評
佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて
内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって

佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて

 スペースノットブランク(以下スペノ)のウェブサイトの『舞台らしきモニュメント』の作品紹介には、次の一文がある。「「在る物」としての舞台を「現れる物」としてのモニュメントに代置し、上演(時間)と舞台(空間)の関係を見直そうとする純粋舞台」。いつもながらスペノは自分らがやっている/やろうとしていることの言語化能力が高い。書かれてある通りの作品であることは上演を観れば明らかであり、だから以下の拙文もこの一節への個人的なコメントというか、持って回ったパラフレーズにしかならないのかもしれないが、このユニーク極まる「舞台」について、幾らかのことを述べてみたいと思う。
 そう、ここで問題にされているのは、何よりもまず「舞台」である。舞台とは何か? それはどこにあり、何をする/何がなされるものなのか? つまり「舞台」の成立条件とは何か? これとは別に「劇場」という言葉があり、実際、作品中でシアターという語も発話されるのだが、「劇場」じゃなくて「舞台」だというのは、前者がどちらかといえば場所や建物を想起させがちなのに対して、後者はもう少し抽象性を帯びているからだろうか。「上演(時間)と舞台(空間)」とあるが、「舞台」とは「時間」と「空間」における「上演」と呼ばれる行為=現象の生起/生成だと言ってもよいかもしれない。この「時間と空間」は理念的なものだが、その都度、具体的現実的な「今、ここ」でリアライズされる。いやこれでは何も言ったことにはならない。何らかの意味で準備された──それは「稽古」と呼ばれるプロセスのこともあればもっと緩い設定や前提のこともある──出来事があるとして、それを「舞台」たらしめる要素とは、おそらく「(ダンスなども含めて)演る者」と「観る者」の二項であろう。私が鏡の前で台詞を言っているだけでは「舞台」とは呼べないし、観客だけで演者がいなければ「舞台」にはならない、と思われている。だが観られている者たちには演じているつもりなど毛頭ないのに、そこに「観る者」がいれば、それも一種の「舞台」と呼べなくはないし、観客が自ら演者に変態するという仕掛けもあり得る。公園のベンチにひとり座って、目の前にひろがるひとびとの様子を「舞台」のように/として鑑賞する、ということは可能だ。だからこの話に限らず、そこに広義の「観客」が存在していれば、そこは一種の「舞台」なのだという強弁がしばしばなされるし(それは「音楽」の「リスナー」についても同じである)、私も基本的にはその立場なのだが、それは私が「観る者」であるからであって、「演る者」の側にいるスペノが根本に立ち返ってあらためて問おうとしているのは、観客がいるいないとはまったく別の次元で、その時そこで起きるそれが厳密な意味で──そう、ここで重要なのは或る種の「厳密さ」なのだ──「舞台」になるのかどうかの線引きは如何にしてなされるのか、なされ得るのか、ということになるのではないか。すなわち、演る側と観る者が特定の同じ空間に居るのだからそれだけでもう「舞台」なのだというくだらない常識とはきっぱり縁を切って、そこで何が起きていれば「舞台」になるのか、を問うこと。
 始まるなり大須みづほと古賀友樹が「なんですか」を互いに連呼し、観る者はなんですかとはなんのことかとしばし訝しむのだが、すぐにいちおうの答えは与えられる。「これが舞台です/なんですか」「この舞台は二人で舞台をしています」。あとでもう二人出てくるが(奈良悠加と平野光代)、まだこの時は二人だ。しばらく後に、こんなやりとりがある。

舞台は どこでも成り立つんじゃないか
別なんじゃないかな
例えば ポスターが貼られていて ポスターって認識した時に ポスターはある種の舞台なんじゃないかな
(中略)
舞台って どこでも舞台になる
舞台ってなったからには舞台になります
意図してても 意図してなくても そういう役割になってしまう
舞台の終わりは まず脱線から入る
最初は舞台から入りました 何を話すべきか迷っていて うーん うーん うーん 伝えたいことは山ほどある
なんですか
今 何一つ言葉を発せない状況にいて 「わたし」 だけが何かを伝えることができて そしてそれが舞台だということ ここに 「わたし」 は驚きを持ってまして これこそが舞台なんです 乱暴です これが舞台  街で何が舞台ですかって訊かれたら これが舞台です 言うしかありません だからここで伝えられるのは何もない なぜならこれが舞台だからです 世界の終わりと似てる

 こんなことが舞台らしきそこであからさまに語られてしまう。ほんとうにスペノは自分らがやっている/やろうとしていることの言語化能力が高い。こんなのに何を付け加えたらいいのか。たとえば「舞台らしきモニュメント」を「演劇らしきドキュメント」と単純素朴に言い換えてみる。ドキュメントは記録、モニュメントは記念碑。ドキュメント演劇という言い方があって、それは何らかの意味や方法による何ごとかの「記録ドキュメント」を「演劇」として提示しようとする仕立てのことだが、それとはちょっとというかだいぶ違っていて、今まさに演じられているそのそれ自体を現在進行形の「記録」として、あるいはいつかどこかで演じられた何かの「記録(記憶?)」として、その時その場で演じてみせるという再帰的なループ構造。モーターだけがあって駆動される機構のない空洞マシン。だが俳優は覚えていて稽古もした「台詞」を言っているのであって、勝手にたわ言をくっちゃべってるわけではない。演じているということを演じているということを演じてみせているというメタメタ無限循環。とはいえ物語がないわけでは、物語られるものが何もないということではない。ある。それはたぶん確かにあるのだが極めて稀薄で微弱であり、掴もうとすると、摘もうとすると、雪片のようにあっけなく溶け去ってしまう。この感じはベケットの「物語」に似ている。モロイとかマロウンとか名無しとか。おそらくここにドキュとモニュの違いが関与してくる。記念碑モニュメントとしての「演劇」。墓でもアーカイヴでもなく、一回性の現前としてのみ立ち上がる「碑」としての「舞台」。いまだ「舞台」ではないものどもがみんなで頑張って遂に「舞台」になるまでを物語る感動的なストーリー。話を戻すと、だから「舞台はどこでも成り立つんじゃないか」「別なんじゃないかな」というのは本当にそうで、なるほど「舞台」はいつでもどこでも成り立ちはするだろうが、なぜか成り立たないこともあって、それは仕上がりとか完成度の話ではなく、そこには何かの回路というか鍵穴というか目盛みたいなものが存在しているのだ。それをスペノはどうにかして探り当てようとしている。そして実際、それは、すなわち「舞台」は、そこは最初から舞台であるのにもかかわらず、上演中、何度も空中楼閣のように浮かび上がってきてはあえなく崩壊し、再び三たび組み立てを開始するのである。「この舞台は体当たり三回ぐらいやってすごい大爆笑みたいな舞台です」。また終わるためにこそ、また始めなくてはならないのだ。
 スペノはドキュからモニュへと「上演」の位相を移動させた。どこでも成り立つはずの「舞台」の、そうであるがゆえの今日的な困難、もはやほとんど誰もわざわざ問題にしようとはしない、だがしかし実のところますます難しさを極めていっている難題に敢然と挑戦し、これ「は」舞台ですと当たり前のことを宣って済ますのではなく、これ「が」舞台ですと言えるにはどうすべきか、にひとつの答えを示してみせた。それはいつもながら頼もしくも勇気ある営み/試みであり、このようなかくも原理的な問題を、かくもアクチュアルに、かつかくもチャーミングに処理してみせた才気と手腕に、今更ながら感嘆の念を禁じ得ないのであった。

佐々木敦 Atsushi Sasaki Twitter
思考家。作家。HEADZ。SCOOL。その他。著書多数。広義の舞台芸術にかんする著作として、『即興の解体/懐胎』『小さな演劇の大きさについて』など。近刊として、児玉美月との共著『反=恋愛映画論』、三年ぶりの映画論集『映画よさようなら』など。

舞台らしきモニュメント
『舞台らしきモニュメント』と『再生数』の映像配信を行ないます。

批評
佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて
内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって

中間アヤカ:私が体験したスペースノットブランク『ストリート』にまつわる全て

2022年9月末、スペースノットブランクという団体の主宰である中澤さんより1通のメールが届いた。内容は、10月に大阪で『ストリート』という題名のパフォーマンスをやるので、それを見て批評文を書いてほしいという依頼だった。批評家ではなくダンサーである私は、これまで彼らの作品は京都で上演された『バランス』しか見たことがない。依頼を受けるかどうか悩んだが、そんな私にこの話をいきなり投げてきたスペースノットブランクという団体の訳の分からなさに惹かれ、引き受けてみることにした。私は訳の分からないものが好きだし、押しに弱い。

10月2日、日曜日。ロームシアター京都で上演された『再生数』を観に行き、この仕事を引き受けたことを少しだけ後悔した。書ける自信がない。

10月8日、土曜日。『ストリート』は大阪市内で合計5日間、毎日場所を変えて上演されており、この日はその4日目だった。前日に集合場所と上演スケジュールの連絡がメールで届いたのに続いて、上演2時間前に集合場所の詳しい目印が送られてきた。北加賀屋公園の隣にある彫刻作品。あの辺にそんなんあったっけと思いながら、電車に乗った。JRさくら夙川駅に着いた頃、人身事故のアナウンス。しばらく待ってみたが全く動く気配がないので電車を降りた。よりによってなんでこんなところで…と思いながら、関西在住10年目にして初めて夙川の地に降り立つ。道に迷いながら15分くらいかけて歩き、阪急夙川駅から電車に乗った。西梅田で地下鉄に乗り換えるミッションもまだ残っているし、上演前に煩わせてしまって申し訳ないが到着がギリギリになる旨連絡をして、北加賀屋駅の構内図を検索し頭に叩き込んだ。梅田方面から北加賀屋公園に向かう場合は、四つ橋線の前側の車両に乗り北加賀屋駅の西改札を通って4番出口を出るのが一番の近道です。

走って公園前に着くと、中澤さんと出演者の皆さんがにこやかに出迎えてくださった。スペースノットブランクのもう一人の主宰で、『ストリート』の出演者でもある小野ちゃんとは、2015年に黒沢美香の作品で一緒に舞台に立ったことがある。その頃一時的に横浜に住んでいた私は、小野ちゃんにアルバイトを紹介してもらったこともある(それは今思い返してみれば建物の中に設えられた「ストリート」的な場所で通行人に声をかけたりパンフレットを配ったりする仕事だった)。それ以来連絡を取っていなかったので久しぶりに会えて本当に嬉しかったし、顔を見た瞬間に色々と話したい気持ちが溢れてきたが、グッと堪えて上演が始まるのを待った。

『ストリート』を踊ったのは3名のダンサー。オレンジ、ネイビー、カーキ、3人それぞれ違う色のツナギを着ている。まず自己紹介から始まり、そのやわらかな雰囲気に導かれるままなんとなく3人の後を追う。この辺りは前日雨が降ったのか、公園内の土は少し湿っていた。オレンジ色の缶がドロドロの土に逆さまに刺さっている。いつの間にか3人は横一列に並び、勢いをつけて一斉に踊り始めた。先ほど受け取った柔らかな挨拶や、様々な人が集う公園というひらけた場所に接続するには少しばかり違和感のある硬さのある動きだ。彼らはお互い干渉することもなく、真っ直ぐ前に進んでいく。速さではなく、動く身体の形の面白さを競う徒競走のように。ちょうど50mほど進んだ後、砂の上からコンクリート造の一段高い場所へ。再び一列に並び、前へ前へと進む彼らの姿はまるでファッションショーのランウェイを闊歩しているかのように見えた。ここまでの3人の有り様は、生活の中で目にすることのできる既存の設定に置かれた人々の姿を想起させるが、その設定は奇妙な身体の動き、つまりダンスによって時空を越える。未来の徒競走や、未来のランウェイとはこんな感じなんじゃなかろうかと想像させられる。

「未来っぽさ」はどこからやって来るのか。これまで常に3人で一緒に動いていたダンサーたちは、やがてそれぞれの進行方向を選び、分かれ道を行く。観客も3人のうち誰に着いていくかを選択することになる。1人になったダンサーの動きを見ていると、それがどのような動きであるかがこれまでよりはっきりと見えるようになるが、はっきり見えるようになったからと言ってはっきり言葉にできるようになるのとは違う。ものすごく雑な分類の仕方が許されるのであれば、「ポストモダンっぽい」と思った。感情が見えてこない、留まらない、全ての動きを等価に扱うような身体の運び方とリズムにそれを感じたのかもしれない。いつかどこかで見たことあるような、しかしそれそのものではない、何か既存のものに当てはめてその輪郭を見比べることでしか形容できない未知との遭遇(という体験)に「未来っぽさ」は存在するのかもしれない。

オレンジ色の強靭な下半身。尻を追いかける観客。

公園に隣接する野球場には、ボールを投げたり、走ったりしている人たちがいた。私たちはフェンス越しのその光景を身体の右側に携えながら、野球場と公園の間の細い道を進んだ。自転車に乗ったお父さんと子どもが通り過ぎていった。この一本道を通るには決して立ち止まらず、振り返ることなく前へ進んでいかねばならないルールがあるようだ。と思った瞬間、ダンサーが立ち止まった。視線の先には先ほど分かれ道で別れたダンサーと観客たち。待ち合わせが起こり、全員揃ってから、息を整えまた一斉に進み始める。再開(再会)を知らせるかのように、鳩が飛び立った。

公園を出た外側、ストリートには刺激が多い。雑草、野良猫、路駐、壁画、建築。せっかくなのでそれらひとつひとつを眺めたり写真を撮ったりしながら歩きたくなるが、のんびりとした散歩のリズムで進んでいてはダンサーたちに置いて行かれてしまうので叶わない。しかし、こんなに刺激の多いストリートに連れ出しておきながら、さっきからあまり変わらない(ように見える)テンションのパフォーマンスそれだけに興味を持ち続けろと言うのか? ダンス(を見せようとする身体)の傲慢さには全く飽き飽きしますわ、と自分の思考が嫌味なムーブを起こし始めた頃、ふと気付いたことがあった。この場所で披露するように振り付けられたダンサーのムーブメントはこの場所のために作られたものではないのではないか。
どこか別の場所で作られたムーブメントが、北加賀屋公園とその周辺のストリートにインストールされる。北加賀屋公園とその周辺のストリートを観客と共に進んでいくという振付によって。そうして初めて、そのムーブメントはたちまちその場に「似合わない」、「異質な」ものへと変貌を遂げることができるのだ。当たり前の話だが人が動くためには空間が必要で、ムーブメントはその発生の瞬間に身体が置かれていた空間に対応(呼応)した素材としてダンスに固定される。ムーブメントが発生したその場所で上演を迎えることと、その場所から取り外し持ち運んで別の場所へインストールされることには大きな違いがある、ということはそれを踊る当事者でなくても想像が容易いだろう。

夜行バスの駐車場を横目に、動きの発生源を想像するしばしの時間。この運行会社は各バス停の周辺にラウンジを兼ね備えていて、バスの利用者は乗車前と乗車後に無料で使用することができる。私がいつも三宮から乗るバスは、こんなところからやってきていたのか。

工場や倉庫が立ち並ぶ一本道。野球場で会ったお父さんと子どもがまた通り過ぎていった。手を繋いだカップルにも追い越された。彼らはツナギ姿で踊るダンサーや、その動きにゾロゾロとついていく私たち観客には目もくれずに進んでいった。スペースノットブランクの『ストリート』を見に来た訳ではない人たちにとってのストリートは、私たちにとってのそれとは全く違うように見えているのかもしれないし、あるいは道端で人が踊っている程度のことなど案外気にならないのかもしれない。

そろそろ歩き疲れてきたなと感じた頃、人の顔が描かれた岩が道路脇に並べられているのを見つけた。その隣には岩についての説明が描かれた板も置かれていたので、これはノガミカツキというアーティストの『Image Cemetery』という作品なのだと知る。これが作品であるということを知らせる方法が分かりやすくていいなと思った。いつもだったら分かりやすいものには惹かれないはずなのに。そんなことを考えていたら、中澤さんの声掛けによって、『ストリート』の上演が終わったことを知らされた。ここまでずっと進み続けてきたダンサーの身体が最後にどのような形で停止させられたのか、その瞬間を私は見ることができなかった。そうして突然ここから先の行き先は自分ひとりで決めなくてはならなくなったので、駅前のインドカレー屋に向かったが店は閉まっていた。

中間アヤカ Web
1992年別府生まれ、神戸在住。ダンサー。英国ランベール・スクールを卒業後、文化庁・NPO法人DANCE BOX主催「国内ダンス留学@神戸」1期に奨学生として参加。近年では黒沢美香、木村玲奈、contact Gonzo、チェルフィッチュ等の作品に出演する傍ら、自身の作品制作も行う。2019年にArtTheater dB Kobeにて初演した中間アヤカ&コレオグラフィ『フリーウェイ・ダンス』は、TPAM国際舞台芸術ミーティングin横浜、KYOTO EXPERIMENT、クンステン・フェスティバル・デザール、ベルリン芸術祭、ポンピドゥ・センター等で再演を重ねる。誰かや何かに振り付けられる身体にこだわりを持ち、ダンスとしか呼ぶことのできない現象を追い求めている。2018-2020年度DANCE BOXアソシエイト・アーティスト。2022年度よりセゾン文化財団セゾン・フェローⅠ。第16回(令和4年度)神戸長田文化奨励賞受賞。

ストリート

レビュー
小松菜々子:オブザーバーとしての身体
中間アヤカ:私が体験したスペースノットブランク『ストリート』にまつわる全て

小松菜々子:オブザーバーとしての身体

芝生の上に気持ち良さそうに寝転ぶ身体をまじまじと観ていたら、パッと目が開いてじろりと見つめ返される。
目線には遠隔的に何かを刺すような鋭さがある。
広い公園でパフォーマーを追って横断する時、私は誰が観客で誰が通常の公園利用者なのかは把握していなかった。しかし気がつくと意識は鳥のような目線で、誰がこのパフォーマンスを追って歩いている者なのか判断することができた。観客の公園を横断する身体の向きと離れていても行き先を見失って迷子にならないようにとパフォーマーの位置を確認する目線は日常の公園利用者の身体とは明らかに異なっていたからである。

中之島公園の先端で受付を済ませ、私は近くの手すりに腰掛けて開始を待っていた。集合の合図と共に周辺で待っていた観客がぞろぞろと近寄ってくる。景色の一部として場に馴染んでいた、所謂、注意を払っていなかった人に輪郭がついた。同様に私の輪郭も誰かに縁取られたことに気がつく。
秋の落ち着いた空気の中にまだ夏の太陽の暖かさが残る日だった。
公園とはある程度のことならその場所の景色として回収されてしまうような人の行為を吸収する磁力のある場所だと思う。だから私たちは目的もなく立ち止まることができるし、木陰のベンチでお弁当を食べたり、シートを広げて空を見上げることができる。あの日の違和は私を含めた観客は共通した目的を持っていた、そこにあるのだろうか。私たちを日常的な身体と切り離し輪郭づけるもの、あの違和感は一体何か。
本レビューでは、スペースノットブランク『ストリート』の鑑賞体験からパフォーマンスと観客と日常の目線を通した身体性に着目できればと思う。本作品の意図とはズレたところにある可能性はあるが、一人の観客としての視座をここに残す。

公園や日常の中で私たちは輪郭を景色に溶け込ませている。電車の中でも遊歩道の中でもたくさんの人がそれぞれの人生を持ち寄って、束の間の出会いと別れを繰り返しているのに大抵の場合は交差する事も無く通り過ぎていく。私にとってそれは、日常の中で情報量の多さに飲み込まれてしまわないように、多くのことを背景へと押し込めて自分自身も誰かの背景であることに安堵するためな気がする。
何かが気になって堪らなくなり見つめ過ぎてしまわないように。または誰かに見つめられてしまわないように。

では劇場における客席の身体はどうだろうか。
客席の身体も日常の身体同様、何かを主張する訳ではない。自分の身体を背景化させる、もしくは舞台の性質として客席そのものが無いものとして闇の中に身を置く感覚は日常の身体とそう変わらない。しかしそこには「見つめる」行為が特権的に存在する。基本的には客席にいる限り誰かから見つめ返される事も、客席の身体が輪郭を持って作品の中で主張する事も無い。一方的に見つめるのである。

そう、あの集合の合図で輪郭を見せたのは客席の身体だった。15時の噴水の吹き出しの合図で3人のパフォーマーが踊り出すのと同時に私たちも「見る」身体に移り変わった。
パフォーマンスは外部の景色を取り込み、影響されて遂行されていく。道の上で踊りだし、芝生に寝る人の横で寝転がり、走り出しては鳩が一斉に飛び去る。すれ違いざまに振り返り見返す目線。橋の上から立ち止まって成り行きを見守る目線。何か異変を感じるがまたすぐに携帯に落とされる目線。誰かの目線がパフォーマーに注がれる度に自分がそんなにも繊細に誰かの目線の機微を受け取っていたことに気がつく。そしてまさにその時、自分の目線こそが日常のものとは違うままに日常を見つめていた。

あの時、空間にはレイヤーが存在した。パフォーマーと日常、その間に観客なる私たちが立っていた。
パフォーマーが広いコンクリートの広場でフォーメーションを作りながら踊り始めた時、観客がその周りを綺麗に取り囲んだ。上からみるときっと綺麗な二重の円になる。あの時、観客の身体は作品の一部だったと言える。あの瞬間を目の当たりにした人は、きっと観客も含めてパフォーマーだと思ったに違いない。そのくらい観客の目線がパフォーマンスの強度に結びつく。「見る」身体も見られていたのだ。

偶然的でアンコントロールな世界に作品を立ち上げるとき、作家は観客の目線を信じられるか問われる。パフォーマーが外部に影響されるように、観客もパフォーマーと何か偶然的なものを勝手に結合させている。私がパフォーマンスと観客の目線を結びつけたように、誰かの目線はもっと違うものと結びついていたはず。作品が一人一人の観客の目線の中で更に育まれ広がりを見せる。
ベビーカーを押した母親が立ち止まり、踊る身体を見つめる中、ベビーカーの赤ん坊は彼女の側で揺れる花を見つめていた。細い小道にパフォーマーが入ろうとした時、通行人が来て道を譲る。ふと二人の会釈がユニゾンする。観客の一人が道の途中で自動販売機のジュースを買うのが横目に入る。

終盤に差し掛かり、パフォーマンスの隣を綺麗な蛍光緑の服を着た年配の清掃員の男性がゆっくりと台車を引いて歩いていた。彼がパフォーマーを少し通り過ぎたところで私たちは作品の終わりの合図を告げられる。丁寧な挨拶と3回のお辞儀と共にそのまま解散をした。パフォーマーはさっと歩き出し、私は何と無く反対側へ踵を返して駅へと向かった。あのままパフォーマーと清掃員の結合を見つめていたかったと思いながらも、自分が観客の身体から日常の身体に引き戻されていくのが分かる。パフォーマンスは終わったのだ。
あんなにもくっきりと輪郭を持っていた観客の身体も散り散りに日常に溶け込んでいく。再び街中で出会うことがあったとしてもお互い気づくことはできないだろう。それでもあのパフォーマンスの中で私たちが同じ観客同士だと判断できるほどに私たちは身体の居方を変えさせられていたのである。いつから。前日に集合場所のメールが届いたときかもしれないし、家を出たときかもしれないし、集合場所に着いて目印であるオレンジ色の作業着のパフォーマーを探している時からかもしれない。いや、やっぱりあの噴水の前で突拍子もなく踊る身体を見た瞬間が一番のスイッチだった。
駅に向かいながら、先ほどの蛍光緑の服を見た気がしたがそっと目線を逸らした。自分の輪郭をそっと背景に馴染ませる。

小松菜々子 TwitterInstagram
自分自身を宇宙の地学的混合物の表出の一つと捉え、自分の身体と天体的構造の交換可能性をパフォーマンスする。心が動かされることや思考が振付られることをダンスと捉え、身体感覚の拡張をモチーフに作品を制作。
ダンサー/振付家
2022年度DANCE BOXアソシエイト・アーティスト、2023年2月4日、5日に単独公演予定。
今までに余越保子、山田うん、垣尾優、井手茂太、梅田宏明、森山未來の作品にダンサーとして参加。
自身の振付作品に『モザイク』ArtTheater dB (Kobe, 2022)、『Border』Spiral Hall (Tokyo, 2019)など。

ストリート

レビュー
小松菜々子:オブザーバーとしての身体
中間アヤカ:私が体験したスペースノットブランク『ストリート』にまつわる全て

再生数|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや WebTwitter
舞台批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。影響学会広報委員。演劇最強論-ing「先月の1本」連載中。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』『えほん』がある。

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 ロームシアター京都を舞台に、スペースノットブランクと松原俊太郎さんの最新作『再生数』が上演されようとしています。ここではその導入として、この「再生数」という言葉が今日の日本の社会で持つ重要性について、整理しておきたいと思います。ただし、わたしはすでに松原さんの戯曲に目を通していますが、ここからの文章はその主題やメッセージといったものを見繕って図解するものではありません。その点ご承知おきください。

 アイドルとファンは、どちらも幼く、お互いに入れ替え可能な、似たり寄ったりな存在です。なぜでしょうか。
 アイドルにはふつう常に若さが求められます。よく知られるように、たとえばAKB48を先駆けとするグループアイドルの革新性は、卒業制度を設けてメンバーの交替を容易にすることで、パフォーマーの年齢を常に低水準に維持し続けることにありました。
 ところで、ユースカルチャーとは広告のことです。若いうちに観たものがその人をつくるというのは端的な事実です。鉄は熱いうちに打て。映画にせよ音楽にせよ何にせよ、そこでつくられるものには社会や人びとを、特定の方向に差し向けようとする、ある影響の力学が働いているのです。こうした力学が行政的、経済的、企業的な論理を離れて存在することは稀です。たとえば、およそすべてのアイドルは、素敵なのはこんな顔で、素敵なのは若さだという広告塔です。晴れ舞台に立つ限り、本人が何を考えていようと、必ずそうです。演劇にしたってたいてい広告です。ひどく不経済ではあれ。
 ユースカルチャーの消費者であり続けるのは、こうした広告に教え導いて行かれるプロセスへと、くりかえし身を投ずることに他なりません。しかも、今述べました通り、そこで宣伝されるのは若さをよしとするメッセージですから、誰もがこのカルチャーに浸りつづけようとするのは当然の成り行きで、ユースの範囲はどんどん広がっていくことになります。若い人びと、つまり影響を受けてくれやすい人びとが、年齢の別なくたくさん生み出されるのは、広告にとっても好都合です。老いた人びとにも、かわいい老人の魅力は盛んに喧伝され、いつでも今が一番若いという事実の確認が繰り返し迫られます。積み重ねられてきた年月に目を背けて、絶えず今だけをまなざすことは、若さ一般の特徴であると言えます。
 YouTubeやTikTokといったプラットフォームは、コンテンツを発信するアイドルになる可能性をすべての人に開きました。こうしたメディアは、休みなく流れてくるコンテンツにひとの目を釘付けにさせておく工夫に満ちていて、家の中にいて時間を持て余していることの多い若年層を、その受信者や発信者として狙い撃ちしています。YouTubeやTikTokといった場で振りまかれるアイドルの笑顔のフローが、次なるアイドルを虜にしていって、また今日も誰かがアイドルへと再生します。
 わたしたちは、何歳になっても多感で、影響を受けやすい、かわいい若者なのです。

 亀の甲より年の劫、ではなくなってきています。誰もが若くあろうとする社会では、年の数は重要ではないからです。このことを、別の角度からも考えてみましょう。
 中根千枝さんの『タテ社会の人間関係』によれば、人間集団は主に「場」か「資格」かのいずれかを軸に組織されるものだけれども、日本では場の論理が過剰に強いのだそうです。この場合、集団に対する帰属の根拠は、なんらかの資格に求めることはできないので、突き詰めてゆけばどこまでも空虚になります。そうであるがゆえに、わたしがこの場に居るのは、わたしが居るのはこの場だからだという、無敵の論理があちこちでまかり通ることになります。それが問題になるのは、たとえば、そこで行われるはずの排除を内外から批判する視点が閉ざされてしまう時です(「あなたは日本人ではない」と言われる時に、行われているのは何か?)。
 場によって組織された集団としては、家や会社に大学、娯楽産業では息の長いグループアイドルや球団の現場などが、その好例となるでしょう。こうした集団内での序列は、能力の多寡よりも場に帰属した時間の長さによって決定され、すなわち年功序列ということになります。帰属の行為自体がその帰属を正当化する集団では、集団内の階層もこの行為に準じて決定されるのが自然であり、そこで持ち出される尺度が帰属の年数だというわけです。
 となれば、誰もこの場から立ち去りたいとは思わなくなるでしょう。しかも、そこで与えられる権威は実質的には無根拠もいいところなので、逆に反抗する手がかりがありません。そうして生まれるのが、場の外側への繋がりや逃げ道が限りなく閉ざされたタテ社会です。
 ところが、いわゆる新自由主義政策は、個人を家や会社といったタテ社会の枠組みから切り離しました。正社員の減少は特に目立った現象と言えますが、企業という場から切り離されて、根無し草のように漂う人びとが増えれば、当然タテ組織は崩れ、年功序列も失効します。
 なぜそんなことになったのでしょうか? タテ組織の上意下達の論理によらなくても人々をコントロールできる、そういう仕組みが出来上がっていたからです。年功とは別の力の方が人びとをうまく支配できる、ならばそれでいこうとなったわけです。では、その力とは何だったでしょうか。

 広告の父と言われるエドワード・バーネイズさんの著作に、広告そのものの広告として書かれたPropagandaという本があります。バーネイズさんは売り込みます。わたしたち、すなわち西洋白人エリート男性は民主主義社会を選んでしまったのだから、正しい多数決のために、頭の良くない人のことはわたしたちが導いてあげなければいけませんよね。そこで広告という商品はいかがですか? 
 バーネイズさんは、広告の使命は賢い人がそうでない人を導くことにあると考えていました。だから、専門家と呼ばれる偉い人たちをこっそり傀儡にして、売り込みたいことをその口から語らせるという手口が、バーネイズさんにとって最もさえた広告のやり方だったのは、当然のことでした。すぐれた広告は広告の顔をしていません。あらかじめ定まった結果に向かって、御用学者の論文や言説が沢山ばらまかれます。すてきなイメージで大衆を魅了するよりも、専門家に喋らせる方が手っ取り早く効果的だと、広告は最初から訴えていました。
 ここにあるのは、偉いということになっている人が、偉くない人々を導き、そのおかげでさらに偉くなるという、循環的な過程です。そして、このループの元を突き詰めてたどっていった時、その偉さはなにを根拠に生じたのかと問われて、まともに答えられる人は実はあまりいなさそうです。
 ところが、今日、広告を取り巻く基準は一変しています。専門家はすでに必要とされていないのです。人びとに影響を与えるのには、発言に影響力のある人に声をかけるのが一番手っ取り早いという、より素早く効率的なループが発見され、専門的な知見に頼る必要はないことが明らかになったからです。ここでの影響力とは、もちろん再生数のことです。

 長い時間をかけて蓄積された、簡単には数値化できない経験や知識、そうした質的な次元こそが、かつては人を立派にするとされていました。しかし、今はとにかく再生数がものをいう時代です。言葉で遊ぶにしたって、とった年の数が多いより、再生数が多い方が、凄いに決まっています。キリストだって一回しか再生していないのですから。
 それはともかく、このような時代にあっては、成熟と喪失の問題系も大きくずらされることになります。幼さを乗り越えて成熟へという線的な成長観はもう崩壊しています。何回追従されたか(フォロワー数)、何回愛されたか(いいね数)、何回復唱されたか(リツイート数)、そして何より、何回生まれ変わったか(再生数)。これがすべてです。
 あなたに愛されるたびわたしは何度だって再生する。生まれ変われば生まれ変わるほど、新しくて素晴らしいピカピカのわたしになる。だから愛させ続けて魅せる。そういう影響のフィードバック・ループの磁場をうまく作った者勝ちの社会です。そのためにはできるだけ簡単に消費できるわたしになった方がいい。これでは成熟しなければならない理由などなさそうに思えてきます。

 家、という場において、若さへの幽閉は繰り返される傾向にあります。悪しき母性とかいったひどく退屈な勧善懲悪の物語を繰り返したいわけではありませんが、それゆえにこそ、家という場をめぐる抑圧的な構造について、ここで言及しておきます。
 特に日本では、教育の資金繰りを家庭任せにする政策がとられているので、人びとが家から経済的に自立することは難しいです。しかも、自立とは経済的に自立することを言うのだというふしぎな価値観が不断に広告されているから、自立の道を断念し、家のお世話になる子どもとして繰り返し自分を再定義しなければならない人びとが、たくさんいるはずです。
 親の愛を受けることができなかった子供はうまく大人になることができないという、不思議な神話も近年まことしやかにささやかれるようになって、家は家の外にもついてまわります。家からの自立を保証してくれるとされる、決して充足されきることのない愛がそれでも求められるようになり、再生数の出番が無限にやってくることになります。

 ひとつの場所に安らって功を重ねていくことは、もはや成熟とは呼ばれないでしょう。かといって、いくつもの場所を矢継ぎ早に渡り歩いていくといった戦略も、人びとをお互いに切り離し、なじみのある場所からも切り離して、広大な影響の磁場に絡めとって遠隔操作するポリティクスを助長する結果にもなりかねません。
 求められているのが旧来の意味での成熟や自立ではないことは、明らかです。教え導かれるidleなわたしへと、わたしを何度も生まれ変わらせている、いま・ここのこの力はなにか? どうしたらその磁場を逃れられるのか? そしてこの力に抗うことができるのか? わたしたちの知恵と経験と若さとを差し向けるべく問われているのは、そのことなのです。
 最後に、話を舞台に戻したいと思います。劇場が、Twitterという劇場にいくつも備え付けられた小ホールになり下がってから、それなりの月日がすでに過ぎました。生まれ変わった! という感動がものの数でもなくなるようないま、舞台には果たしてなにができるでしょうか。

参考になる文献:
小沢牧子『子どもの場所から』
坂倉昇平『AKB48とブラック企業』
中島梓『コミュニケーション不全症候群』
森真一『自己コントロールの檻』

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再生数

予告編
ティーザー予告編予告編

イントロダクション
植村朔也

プレビュー記事
植村朔也:映像の終わりに寄せて

メッセージ
小野彩加 中澤陽:回を重ねる

出演者インタビュー
鶴田理紗と奈良悠加
荒木知佳と油井文寧
古賀友樹と鈴鹿通儀

インタビュー
松原俊太郎

再生数|松原俊太郎:インタビュー

松原俊太郎 まつばら・しゅんたろう WebTwitterInstagram
劇作家。1988年、熊本生まれ、京都在住。神戸大学経済学部卒。処女戯曲『みちゆき』(2015年)が第15回AAF戯曲賞大賞を受賞。戯曲『山山』(2018年)が第63回岸田國士戯曲賞を受賞。小説『ほんとうのこといって』を「群像」(講談社)2020年4月号に寄稿。主な作品として『正面に気をつけろ』、『光の中のアリス』、『イヌに捧ぐ』など。2022年度セゾン・フェローⅠ。

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植村朔也(以下、植村):スペースノットブランクについてよく言われるのは、意味はわからないけど面白い、ついてはいけないけれど観てしまうといったことです。これは一面では、身体の強度を重んずる舞台が90年代以降減少していって、スペースノットブランクが逆に希少な存在になった結果ではないかと僕は理解しています。松原さんの戯曲の言葉も生半可なものではなく、それをしっかりと声に出すためにはやはり強度が必要とされるように思われます。
つまり、スペースノットブランクと松原さんの共作を語るうえで強度という言葉は外せないわけです。もちろん、その場合今度はこの強度というマジックワードの内実が問われなくてはいけません。たとえば松原さんと縁の深い劇団である地点などと比べた場合に、スペースノットブランクの身体性をあらためて松原さんの視点から言葉にするとしたら、どのようなものになるのでしょうか。

松原俊太郎(以下、松原):地点だと、戯曲の役に沿った新劇的な身体とは全然違って、演出の三浦さんが戯曲から直感で引っ張ってきたワードを基に即興して、劇団員全員で演技のルールを決めてつくるので、最初の段階から身体とテクストに距離ができる。その、テクストに寄りかからない身体を自律させ、戯曲の言葉と対峙させるためにルールづくりをやっているんじゃないかと思っています。
スペノ(注:スペースノットブランクの略称)は俳優自身がもっている身体というものをすごく尊重しているというイメージがありますね。筋や構成をいじったりしない分、地点よりは戯曲の意味に沿った作り方をしていると思います。
身体の強度といったときに、スペノに顕著なのは、始まるときに必ずかなりゆっくりやるんですよね。観客への身体の提示・導入ということももちろんあるかもしれないけれど、あれはスペノ独特という気がします。
そうした間の取り方でいうと、最近だとジョーダン・ピール監督の『NOPE』はスペノそっくりでした。一見すると謎の間だけど、見ていくと何かしらの必然があるという。心理間やアートフィルムのそれとは違いますね。

植村:僕は、本人性ということで言えば地点の方にも感じられるように思うのですが、そこのところはいかがでしょうか。もちろん本人性といったときの意味合いが変わってくるのでしょうが。

松原:地点の場合はほぼ同じメンバーでやるし、演出の三浦さんが俳優たちをよく知っているので、そういう意味の本人性はあると思います。配役や台詞を割り振るときに、俳優のキャラクターを意識することはあると思うんですが、とりたててそれを強調して演出するということはないかと。基本的には、俳優が出してきたものに応答して演出をしていくという形のはずです。

植村:となると、逆にスペースノットブランクの場合は、劇団ではないのが演技の方向性を規定しているとも言えるわけですね。

松原:それはとても重要だと思います。毎回出ている古賀君は例外なんだけど。古賀君のような存在がいて、スペノのやり方が他の出演者と共有されていく。
スペノに関して全く色がないということはないと思う。劇団ではないけれど方法はやはりあって、それが身体にかなり寄っているというか。出演するそのひとがこれまでどういう身体を持ち、どういう演技をしてきたかということはスペノにおいてとても重要だと思うけれど、逆に齟齬をきたす場合もあるはずで、そこで古賀君がいることは助けになってるんじゃないですかね。他の劇団で経験を積まれてきた方たちは、それを活かせることももちろんあれば、蓄積した方法をデコードしなければいけない部分も少なからずあるのかなと思います。

植村:さっきのお話にあった、スペノは地点に比べて戯曲の言葉の意味に寄り添っているというのは、必ずしも明らかではないと思います。言葉と全く無関係に見える動きをしていることが多いので。

松原:書いた身からすると、無関係な動きにはあんまり見えないんですよね。もちろん予想のつかない意外な動きではあるけど、納得はさせられる。だから、振付なんじゃないですか? 
でも、その振付がどういう仕組みで為されているのかはいまだにわかっておらず、たぶん、俳優から何か出てきたものに対して、演出側がなにか提案するという形なのかなとは想像しています。
意味からあの特殊な動きを作ってはいないと思うんですよ。でもその動きが言葉と全く無縁ということではなくて、この戯曲を使ってこのクリエーションをする、というあり方を最大限に大事にしているということだと思います。その中で生まれたものでしかなくて、その時々の俳優とのやり取りであったりとか、戯曲を読んで話し合った結果だったりとか、それら全部がもち込まれた結果あの動きが生まれたという感じで、こういう意味だからこの動きをつけようという風には絶対やっていないと思う。
スペノは演出がかなり特殊で、一般的な演出は戯曲を読んで一つの解釈や態度を呈示するわけだけれど、松原戯曲とスペノの場合にはそうでもないなという感じがするんですよね。戯曲に対峙するというよりは、戯曲を使って表現すると言えばいいのかな。

植村:戯曲をそれ自体完結した作品として解釈するのではなく、戯曲を使って表現するということでは、地点の場合も同様ではないかと思うのですが、それでも言葉と身体の関係性の強さには違いがあるわけですよね。
お聞きしていて思ったのは、スペノの特徴はシーンごとにそれぞれなぜか発生している、独立した納得感にあるのではないかということです。

松原:単純に、地点はテクストをバラすんですよね。地点はバラしたならバラしたなりに、戯曲に対する一つの態度を呈示しなければならないという強迫的な意識はあるんじゃないかなって気がしますね。地点の場合、それを支えるためにあの身体があるという気がします。ただ最近はどうなんでしょう、変化はあるでしょうね。
だからスペノと地点とでは最終的な方向性が全然違いますよね。スペノ特有のシーンごとの独立した納得感も、戯曲が個々のシーンをある程度独立させつつ書いている部分に呼応しているのかなと。全篇クライマックスと謳っていた『光の中のアリス』ではそれが特に顕著でした。

植村:前回のインタビューでは、戯曲から改編を行って上演テクストをつくりなおす劇団地点の場合とは違って、スペースノットブランクでは全ての台詞が読まれるから、稽古の進展に即して戯曲を書き直すようになったということをお話しされていました。
書かれる言葉の性質も変化してきています。言葉が持つ抵抗力のようなものが加減されて、声に出しやすくなっているのです。結果として、上演する側が戯曲とは別のところに強度の根拠を求める必要に迫られるともお話しされていました。
しかしその場合、戯曲はたんなるリーダビリティのものにとどまらない大きな変化を蒙るはずです。たとえば、単純に考えたら、上演する側で強度を用意してくれるなら、戯曲の側は強度を放棄してゆくことにもなりかねない気がするんですが……。

松原:「上演する側が戯曲とは別のところに強度の根拠を」というのは『光の中のアリス』の上演前のインタビューで言っていたんですよね。そのときどういうつもりで言ったのか定かではないですが、今はそうは考えてません。仰る通り、戯曲に強度いらなくない? となっちゃうので。
ただ、強度に関して言うと、今書いている戯曲が『忘れる日本人』『正面に気をつけろ』『山山』を書いていたときとは違うものになっているのは間違いなくて、それはスペノと組んだ際には戯曲の順序通りに上演されるぶん、書く際に上演を強く意識する必要があることが大きいです。「戯曲1」「戯曲2」ってくらい、別のものを書いているという認識です。
日本の演劇を見たときに、戯曲がないな、台本しかないなと『山山』の時までは強く思っていたんですね。舞台で発せられる言葉としてそれだとどうなんだろうという問題意識が強くあり、戯曲だけで自律して成立するものを書こうとしていました。
でもそれは上演を意識しないことで可能になっていた部分が多分にありました。そこでスペノと組んだときに、別のやり方でどう戯曲を自律させられるのかと考えた結果できたのが『光の中のアリス』でした。あれはとてもうまくいったと思います。全国で再演してほしい。

植村:直近の『ささやかなさ』や『ミライハ』での手応えはいかがでしたでしょうか。

松原:『ささやかなさ』については『光の中のアリス』の前に一度高松で上演していて、『悲劇喜劇』掲載用にリライトした後、さらに再演のために書き直したかなり特殊な戯曲になっていたので、その流れのなかに置くのは難しいですね。(マスクを外して喋るシーンの)荒木(知佳)さんが凄かったな。あのシーンだけ抜き出してでも、みんなに見てほしい。

植村:『ミライハ』で出演者全員が高校生となったときも、強度を諦めようとはならなかったわけですよね。

松原:もちろん。ただ、戯曲を自律させるにあたっては、最後のト書きでなんとかギリギリだったなという感じ(参考:植村による『ミライハ』評)で、上演に任せすぎたなと反省しています。
もっと高校生がストレートに発せられる言葉を書くべきだったかなと。やっぱり古賀君みたいには高校生は発声しないし、高校の演劇部に所属している子が多かったから、そこで学んだことを出そうとすると感情がこもるんですよね。それは悪いことではないんですが、ただ自分の書いたテクストにおいては往々にして大変なことになるので。だったら、初めから感情を込めてもいいテクストに挑戦するべきだったなと思ってます。

植村:「戯曲3」ですね笑

松原:そう。そんなテクストがあっていいのかという問題もあるけど、それ含めて考えたほうがいい。もう一回やりたい。

植村:「戯曲1」はもう書かれないんですか?

松原:「戯曲1」は書きたいけど要請されないんですよね。そのまま上演したら3時間超えになるし、上演を度外視して書いてというひとも基本的にはいないので。スペノも「『山山』は無理かもしれないです」みたいに言っていたし。来年2月に演出家不在でつくる予定の『草』という集まりでは、自分と俳優たちだけでつくるので、それこそ上演を意識しないわけにはいかないけど、ここで「戯曲3」の形が作れればとは思ってます。

植村:なるほど。松原さんは9月1日のツイートで、戯曲のスタイルは繰り返し発明される必要があると仰られていました。『再生数』で、こうした「戯曲2」的な書き方に新しい変化はなにか生じていたでしょうか。何か新しいスタイルが発明されるということは今回ありましたか

松原:植村君も今回は稽古場に長くいるということで分かったと思うんですけど、まあ書けませんでした。完成が一カ月押して、稽古の初日で渡すのが10数ページという、考えられないような事態が発生していました。
僕とスペノが共有しているのはこの、スタイルの発明というところで、とにかく前と同じことはできない。『光の中のアリス』が良かろうとその二番煎じはできない。ということで、今回は映像を使って、出演者も6人でいこうと決まって、松原がドラマを書いて映画を作ろうという話になりました。
でも、まずスペノが映像で何かをつくるというのが想像できなくて。映画の身体って、まあ普通じゃないですか。だから、今回の出演者の身体がどう動くのか、イメージがつかなかった。

植村:今回初めから強度のお話をお聞きしたのは、まさにその問題があったからなんです。台詞自体の強度はともかくとして、今回の『再生数』では身体がもつ強度というものの取り扱いが変わらざるを得ないはずですから。

松原:書くうえではひとまずそれは気にしないようにしていましたが、すぐに身体は問題になりました。今回は戯曲に脚本をもち込んだんですが、これも大きくて。
『山山』ではト書きも台詞にして、身体はとりあえず文字だけで作って、それに俳優が身体をあてがうという形をとりました。『光の中のアリス』でも台詞に近い形でト書きを置いて、上演する身体とは距離がある点で同様でした。
ところが脚本を書くとなると、ト書きと台詞がパッキリ分離されているのでそのぶんより強く身体が前提に立ちます。この身体が上演の意識とべったりくっついてなかなか分離できなくて、書くこと自体と演出が切り離せなかった。
出演者がどの程度の身体でいるのか想像できないまま机上には動かない身体だけがあり、テクストをどのレベルで渡していいものか判断がつかず、まあ地獄でした。
これを分離させる一手となったのが、スペノが送ってくれる稽古動画でした。

植村:なるほど。脚本的な書き方というのは、スペースノットブランクから送られてくる稽古場の音声や映像を確認して、俳優の演技体にあわせて書くということだと理解しています。だからこそ、それは松原さんにとってはほとんど演出の仕事でもある。今回、方法としてはその書き方は最後まで貫かれたんですか?

松原:はい、昨日(2022年9月11日)最後の修正稿を送って、ようやく手ごたえがありました。自律したと思います。戯曲に脚本を持ち込むことと、入れ子を完遂することで。

植村:今回、一足先に戯曲を拝読しまして、パズルのようだと思いました。それは、単なる冗談にとどまらない、主題ともかかわる言葉遊びが散りばめられていたからです。しかも一部は普通観客には呈示されないはずの、ト書きのなかにそういう言葉遊びがあるので、演出サイドへのさりげない指示書のようにも読めました。
しかしそうなると、実は松原戯曲はパズル的な、ある種の論理的な構造物として書かれてきたのだろうかと思わされて、驚いてしまったんですね。

松原:そういう言葉遊びは少なからずしていますけれど、さりげない指示書にする意識は全くないです笑 偶然ですね。
でも基本は抽象からしか始まらないので。「死」であったり「わたし」であったりを素材に、そのときどきでこしらえた抽象から始まって、途中から構造が見えてきます。その抽象に強度を与えるための時間がこの二か月でした。抽象にそうした構造が先行しているということはないです。ただ、ネタとしてでもそうした構造があったほうがいいのは確かで、でも苦手なのでそこはもう誰かと組みたいですね。話しているうちにいつのまにかできてくるというのもありますし、話すだけでもいいので。

植村:脚本的に書くといったときの、プロセス自体についても具体的にお聞きしたいです。出演者のキャラクターを掴んだりする単なるあて書とは違った作業が行われているのだろうと推察するのですが、そうだとして、送られてきたデータから何を受けとられているのでしょうか。

松原:基本、声ですね。存在、みたいなことなのかなあ。
送られてくるのが動画というのが今回は重要でした。生身の身体を稽古場で見ていたら書けなかったんじゃないかな。

植村:それは、生身の人間ではなく映像を見るという、今回の公演本番の経験に似ているからでしょうか。

松原:いや、戯曲内の脚本の中で動いている人物としてイメージできるからですね。頭の中でやれよという話ですが、自分が頭の中でやると好んでカオスに向かってしまうので、動画でうまく外部化されてよかったです。
今回の戯曲では、外があって、撮影班がいて、彼らが撮っている部屋があって、それを観ている人たちがいるという設定があって。だから撮影現場を見ている感じで書くことが重要でした。ややこしいなこれ笑

植村:整理になるかわからないですが、松原さんはこれまでの戯曲でも作中劇というか、戯曲の内側で客席と舞台が組まれて、あるいは観る側と観られる側がそれぞれ居て、上演が行われているというようなメタ構造を持つ舞台をいくつか書かれていて、その構造の中から登場人物が外に出ることができたときに、テクストが戯曲として自律するという、逆説的なつくりになっていたと思うんですよ。
しかもそのメタ的な構造の構築であるとか、そこからの解放ということが、単なる論理的な操作ではなくて、いくつもの言葉を連ねてきた結果であるということが重要ですが。ですから先ほどの、メタ構造があることで『再生数』が自律したというのも、やはり単なる論理的な操作とは一線を画することとして理解しています。
松原さんが京都にいて、スペースノットブランクは東京で稽古をするがゆえに、その様子を共有するにはメディアを介さざるを得ず、そのことがかえって作品の強度を底上げしたというのは、大変興味深い話だと思います。稽古場に作家が不在のまま完成に至るジェローム・ベルのダンス作品なども想起させられますしね。遠く離れたままでの、オンラインでの創作ということもコロナ以降多くなったわけですが、そのポジティヴな可能性を示すきわめて特殊な事例じゃないかなと。

松原:そう思います。今回かなり待たせてしまったのは申し訳なかったけれど、動画を送ってもらいながら書くという方法をとれたのはよかったと思います。構造上の必然があったとはいえ、そうでないとあれだけ書けないんだという事実には凹みましたけど、このつくり方は発見でした。ベタにあて書になりそうなところだけどならなかったし。
一人で書いて上演してもらうという形態を取るんだったら「戯曲1」みたいなストロングなスタイルでいけばいいけど、「戯曲2」では上演される身体のイメージと、実際の声が必要なのが、今回はっきりとわかりました。『草』にも関わる話ですが、上演を意識して書くんだったら徹底的にそっちに行きたくて、ただこの徹底は自分ひとりではなかなかできないのが難しい。何にせよその都度何かを徹底させないと書けないのもよくわかりました。

植村:またTwitterの話になりますが、先ほどあった、スタイルの発明ということについて、それは集団で行うべきだと松原さんはおっしゃっていました。それは書き方をみんなで考えるというよりは、出演者が身体を共有するとか、そういった作業を指すことになるのでしょうか。

松原:そうですね。現状は出演者に事前にインタビューを行う、くらいでしかできていませんが、今回の動画のやりとりのようにどんどん見つけていきたいと思っています

植村:来年発表予定の『草』では、演出家は設けないとのことですが、松原さんがご自身で演出をされるわけではないのですよね。

松原:演出とは何かを考えはすると思いますね、もちろん。
荒木さんにせよ敷地君にせよ、予定している座組の中に演出家はいないし、そこで何が必要になるのかというところから始めていくことになると思います。OKの判断を下すのは自分がやることになるだろうけど、合意もそのつど取っていくことになるでしょうね。

植村:演出家不在というのを字義通りに受け取れば、演出は設けず上演を作るのは全部俳優任せということとも理解できるのですが、おそらく、そこでは少し別のことが意識されているのではないかと推察されます。
松原さんやゆうめいの池田亮さんのテクストを用いない場合、スペースノットブランクの舞台には劇作家のポジションが存在しません。テクストの生成にはたしかに演出の2人が関わっているのですが、これは演出家が劇作家を兼ねるということとは区別されます。テクストは稽古場での俳優との共同作業において、しかも演出と不可分な仕方で書かれるからです。集団全体を劇作家とする方法とも呼べますが、劇作家と演出家という伝統的な二項対立を脱構築しにかかる態度とも評価できそうです。
こうしたスペースノットブランクのあり方がいわば逆流して、松原さんの創作への意識をも今回変えつつあるというのが僕の見立てですが、いかがでしょうか。実際、ここまでのお話しから伺える演出観は、いわゆる通常の演出というものの枠組みを少し超えているようにも思われます。
ただ、たとえば演出家が俳優と一緒にテクストを作ったときに、それを劇作と呼ばないのはなんとなく理解できるのですが、その逆ということが果たして本当にあり得るのかは難しい問題だと思います。

松原:判断をした時点で普通は演出になるということですよね。
演出家なしでどうつくられるかについては、それこそその場に誰がいるかに依るんじゃないですかね。それぞれができることを持ち寄って、もしかしたら振付がされるかもしれないし。
いずれにせよ、劇作家と演出家という区分はそう簡単には崩れないだろうなという気がしますね。

植村:となると、演出家不在の第一の意味は、誰が何をするかを決定しない状況を意識的に作りだすことにあるわけですかね。

松原:そうですね。
もともとは、先ほど脚本を書くことを演出と呼んだように、劇作家が戯曲の叩き台を持ってきて、稽古場で俳優が役を負いつつ動いたり発話したりして、そのフィードバックを受けてまた書いて、そのプロセス自体を演出としようと考えていました。俳優は役のキャラクターや出演者、演出家となり、戯曲の完成と同時に上演ができあがる、というような。
でも、今回は無理でした笑 このやり方をとるために2,3ヶ月ごとに4,5日ほど集まって、というような飛び飛びのスケジュールを組んでいたんですが、諸々の都合でそれが崩れたので、話し合いつつあらかじめこちらがまとめて書くということになりそうです。

植村:なるほど。ふたたび『再生数』についてお聞きできればと思いますが、今回は出演者が6人ということで、登場人物も6人書かれました。これまでスペースノットブランクのための戯曲に書かれた人数としては最多のはずですが、いかがでしたか。

松原:6人というと『山山』と同じですからね。6人で自律させようとすると、本当は『山山』と同じ分量が必要なんですよ。ただ今回は「戯曲2」なので、分量とは別なところで大変でした。次からは3人は書くのであとの3人は別の世界から連れてきてほしいと言います。

植村:改めて整理しますと、映像で、6人で、ドラマ、というのが今回のオーダーだったわけですよね。

松原:はい。自分の場合、ドラマなり既存の制度なり諸々の見せかけを援用しつつぶっ飛ばしては笑ったり泣いたり、というふうに書いてきたんですが、今回の映像+ドラマは抑圧として存分に機能しかけていて恐かったです。ドラマは恐ろしいのでやっぱりぶっ飛ばすなり、服従するなり徹底させたほうがよいということを学びました。あとは単純に自分の欲する声の強度として必要なものがよくわかりました。
まあでも一番大きかったのは、前述のとおり書くことに上演と、上演の形式が密接に絡んでることでしたね。普通のことなんだろうけど。とにかくおしゃべりと分離が大事です。

植村:松原さんの戯曲の中に映像が出てくることはこれまでも何度かありましたが、それは明らかに上演でそのまま映像を流すと失敗するように書かれていたことが多かったので、今回そのまま文字通り映像を使うというのはやはり興味深い挑戦だなと思いましたけれどね。
ただ、松原さんは西日本新聞に連載されたエッセイで、荒木さんや敷地理さんの演技は、演技をやめていて素晴らしいということを書かれていましたが、映像だと演技をやめる演技というのはできないのじゃないかと思います。そこで言われていたのは、目の前にいくつもの観客の視線がある中で、それを無視するのでなく、ただ演技をやめることで、客席との関係性を一変させてしまうような演技のことだったと思いますが、映像だと俳優と観客は空間を共有しないわけですから。

松原:いや、できると思いますよ。カメラ目線ってあるじゃないですか。ただ普通に演技をしている体でカメラを見るだけだと特に何とも思わないけど、演技をやめた状態で見たら、「あ、わたし覗き見てた!」という風に観客は驚くんじゃないかな。
カメラ・アイに観客が同化しているのを断ち切られたら、驚かされたり、恥ずかしくなったり何らかの反応が現れるはずです。
映像での演技ということについて言うと、映画ならナチュラルに演じた方が聞こえるんだろうけど、スペノはどうするんでしょうね。

植村:印象として、他の作品に比して「日本」というモチーフの重要性が低下していることが気にかかりました。これは意図してのことなのでしょうか、それとも今回結果的にそうなったということなのでしょうか。思い返せば、近作では次第に「日本」ということが強調されなくなってきていて、今回それが特に極まったなという風に感じています。

松原:政治的な作品ということで言えば、『君の庭』で自身は手応えがあったけれど、特になんにもなかったんですよね。
単純に日本らしさのようなものをネタにするなり使用するなり抵抗するなりして言葉を紡いでいくのは、簡単と言えば簡単だし、日本にいる限りどんな語り口でも具体的に受け取られる。ネタがネタにならないというか。日本なるものや社会的なテーマのネタばかりが言及されて、自分が本当にやりたい抽象がそれに食われるのは残念というか敗北しか感じないので、単純に変える必要は感じていました。ただ、これは書かれたテクストと、舞台で発せられた声と半々の問題だと思います。

植村:近作の小説「いえいえ」では、沈黙が家父長制的な威圧感と結び付けられていました。また、これは沈黙というより無音というべきですが、松原さんは時々音という音がまったく聞こえなくなることがあると、西日本新聞のエッセイで書かれていました。
興味深いのは、劇作家でもある松原さんが沈黙というとき、舞台、特に国内で90年代以降に顕著になったような静かな劇を彷彿とさせることです。実際、舞台が静かだと少しの物音を立てるだけで他の観客の邪魔になるので、窮屈さを感じることもしばしばです。あるいは、松原作品の時は音楽が用いられることが多いですが、スペースノットブランクの舞台もやはり音の数が少なくて、空間を静寂が引き締めているようなところがあります。もちろん沈黙といえばケージのサイレンスの例もあるし、いろいろですが、舞台における静けさを松原さんがどうお考えなのか、最後にお聞かせ願えますか。

松原:静寂で舞台となると、いわゆる静かな劇というよりは、太田省吾が浮かんできますね。極北だと思う。無言劇になるというのは、その必然が凄くわかるというか。ただ、発語と沈黙というのはそんなに対立的にはとらえられないですよね。
演劇はどうしたって発語しなくてはいけないので、沈黙するんだったらもう沈黙劇になってしまうし、沈黙劇でもないというなら、劇をやる必然性というものは単純になくなりますよね。沈黙で終われる劇というものがあるといいですけれどね。
ケージもそうだし、自分の音が聞こえなくなるというのもそうだけれど、それがなにかのデコードになって立ち上がる意識というものはあるなと思っています。それを何かしらに使うのはやってみたいな。「戯曲3」で。

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再生数

予告編
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イントロダクション
植村朔也

プレビュー記事
植村朔也:映像の終わりに寄せて

メッセージ
小野彩加 中澤陽:回を重ねる

出演者インタビュー
鶴田理紗と奈良悠加
荒木知佳と油井文寧
古賀友樹と鈴鹿通儀

インタビュー
松原俊太郎

再生数|古賀友樹と鈴鹿通儀:出演者インタビュー

保存記録の植村朔也がいくつかの質問を考えて個別に出演者たちに送信し、返答を受信したものを、ここに掲載する。

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古賀友樹 こが・ゆうき WebTwitterInstagram
俳優。1993年9月30日生まれ。プリッシマ所属。俳優として、ゆうめい『みんな』『弟兄』『巛』『あかあか』、劇団献身『幕張の憶測』『死にたい夜の外伝』『最悪な大人』、シラカン『蜜をそ削ぐ』、劇団スポーツ『すごくうるさい山』『ルースター』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ネイティブ』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『すべては原子で満満ちている』『氷と冬』『フィジカル・カタルシス』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『光の中のアリス(作:松原俊太郎)』『救世主の劇場』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』『舞台らしきモニュメント』『クローズド・サークル』『ウエア(原作:池田亮)』『ハワワ(原作:池田亮)』などの作品に参加する他、演出補として、穂の国とよはし芸術劇場PLAT 高校生と創る演劇『ミライハ(作:松原俊太郎、演出:スペースノットブランク)』に参加している。
撮影:高良真剣

─────松原さんの戯曲には、どのような感覚をお持ちですか?

距離が近いと思います。
距離感のことです。ほぼ全ての言葉たちが自分ごとに思えてきます。ぐさぐさと刺さる、パンチラインだらけです。
わかる、わかるわー

─────『再生数』というタイトルについてはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

理系のイメージですね。
生数って高校のどこかの記憶で見た覚えがあります。普通に読んだら再生の数なんですけど、どーんと三文字並べられると、神々しいですよね。(多分これは「数」と「教」が似てるから!)

─────スペースノットブランクの舞台では、戯曲中の登場人物の人格や思考の解釈が直接的に反映されているという印象が希薄で、むしろ出演者の本人性が強調されます。こうした演技を行う上で、どのようなことを考えておいででしょうか。

もともと自分は「この人物になりきろう!」という気持ちがあまりないので、性に合ってます。でも自分を出そうとも思ってないので、なんというか、自分の出来る範囲のことをやっている感覚ですね。だから時々自分でも「変な言い回しだなーふざけてるなー」とか思いながらやってますよ。やってる側は別になんでもいいのでね。それが表現としてどう受け取る余地があるか、が大事なので。

─────声や身体について日頃どのようなことを考えていらっしゃいますか。

特に何も考えてないです!
いつも筋トレ頑張ろうと思っても頑張れないし、ストレッチ毎日ちゃんと決まった時間やったら身体柔らかくなるかな? と思って10年が経ちました。覚悟がないのです。そんな時は自分に言い聞かせます。まだその時じゃない。

─────今回演技を行う上で、特に自信やこだわりをお持ちになっていることがあればお教えください。

ちっともそんなこと思ってないですが、場面が切り替わった時にあまり違う人にならないようにしたいです。

─────スペースノットブランクにご自身がこれまで求められてきた身体性のあり方を言葉で説明するとしたら、どのようなものになるでしょうか?

あまりそういうのを求められた記憶がないのですが、強さはひとつのキーワードだと思います。僕はしなやかな強さが好きです。

─────近年スペースノットブランクは京都での公演を重ねてきました。京都の観客の皆さんにお伝えしたいことがあればお教えください。

ハロー
2年ぶりの京都です お邪魔します
(ほんとうは1年と10ヶ月くらいです)

─────「男性性」は松原さんの作品の継続的なテーマの一つだと思われます。この言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

くしゃくしゃにしてゴミ箱に捨てちゃえ🚮
おジャ魔女のオープニングみたいになってしまいましたが、気持ちは、そうですね。
いつかの『再生数』にはマッチョという単語がありました。今その単語は別のものに変わっていますが、僕はマッチョイズムが嫌いです。
「男性性」とは少し使う用途が異なりますが、僕が育ってきた環境ではそいつが当たり前の顔をして踏ん反り返っていました。そういうのは二次元のファンタジーだけでいいです。まじでいらないです。

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鈴鹿通儀 すずか・みちよし Twitter
俳優。1990年7月4日生まれ。中野成樹+フランケンズへの入退団を経て現在フリー。俳優として、中野成樹+フランケンズ『えんげきは今日もドラマをライブするvol.1』『カラカラ天気と五人の紳士(作:別役実)』『マザー・マザー・マザー(作:別役実)』『半七半八』、ままごと『あたらしい憲法のはなし』、劇団子供鉅人『幕末スープレックス』『マクベス』『夏の夜の夢』、ピンク・リバティ『人魚の足』『煙を抱く』、財団、江本純子『忘れていく、キャフェ』、松田正隆『シーサイドタウン』、スペースノットブランク『クローズド・サークル』『サイクル(ワークインプログレス)』『ハワワ(原作:池田亮)』などの舞台作品に参加する他、松井周の標本室「標本空間vol.2 遊び場的ワークショップ集」にて『元プロ野球私設応援団員と考える応援』ワークショップ講師を務める。
撮影:高良真剣 写真提供:トーキョーアーツアンドスペース

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─────松原さんの戯曲には、どのような感覚をお持ちですか?

キーワード(というものがあるとしたら)だけでなく、魅力的なワンワードがごろごろしてます。声に出したい。『山山』も社員のせりふをほぼ全てひとりでボイスメモに録ったりしました。

─────『再生数』というタイトルについてはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

“再生”には機器的機械的イメージと生命的イメージが五分五分で並走してるけど、”数”がつくことによって前者が強く表立つ感じです。でもその裏には後者もしっかりいるヨ、的な。

─────スペースノットブランクの舞台では、戯曲中の登場人物の人格や思考の解釈が直接的に反映されているという印象が希薄で、むしろ出演者の本人性が強調されます。こうした演技を行う上で、どのようなことを考えておいででしょうか。

これまで自分を助けもしてくれた「こうしなければならない」とか「こうあるべきだ」というような教条主義の上着は脱ぎ捨て、つとめてフラットに真摯にあろうとしています。が、ジッパーが噛んじゃってなかなか脱げない…。

─────声や身体について日頃どのようなことを考えていらっしゃいますか。

声はニ゛ャの音が強いので取り扱いに気をつけること、身体は猫背との付き合い方を思っています。

─────今回演技を行う上で、特に自信やこだわりをお持ちになっていることがあればお教えください。

日頃は決め球を自信満々にコースに投げ込むタイプなんですが、手指の感覚に若干のズレが生じてます。ここまでの4人のインタビューを読んで鶴田さんからは「試行」、奈良さんからは「シンプル」、荒木さんは「呼吸」、油井さんは「誠実」というワードを掬い上げました(稽古では共演者の書き言葉にふれることがあまりないのでうれしいです)(古賀さんは同じタイミングでこの文が出るからわからないけど「意志」)。これらと、出演以外の座組みみんなも自分に流して、基本に立ち返り最強のスローカーブをお見せします。

─────スペースノットブランクにご自身がこれまで求められてきた身体性のあり方を言葉で説明するとしたら、どのようなものになるでしょうか?

確信をもった様式(フォーム)が備える強度。その過剰さ、あるいは過疎さ。

─────2022年1月には、池田亮さん原作『ハワワ』にも出演されています。同じスペースノットブランク作品ですが、両作品を比較して見えてくるそれぞれのテキストの特徴はありますか?

『ハワワ』は原作池田さんが紡いだ種々様々の膨大なデータから生まれたものなので、箱の中にレゴもあればクレヨンやミニカーもあって「これは…紐…?」というようなものもある、あったな、という感じ。
『再生数』はしっかりレゴのフォーマットなんだけど、どのピースも松原印で、攻めた色やキレッキレな形が入ってる、という感じ。

─────「男性性」は松原さんの作品の継続的なテーマの一つだと思われます。この言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

自分の中にも深く埋め込まれているなと感じます。今回の作品でも父権と母性、大人と子ども、映画と演劇などあらゆる二項対立(に一見みえるもの)が描かれますが、単純なぶつかり合いのその先へ辿り着くことを目指します。

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再生数

予告編
ティーザー予告編予告編

イントロダクション
植村朔也

プレビュー記事
植村朔也:映像の終わりに寄せて

メッセージ
小野彩加 中澤陽:回を重ねる

出演者インタビュー
鶴田理紗と奈良悠加
荒木知佳と油井文寧
古賀友樹と鈴鹿通儀

インタビュー
松原俊太郎

再生数|荒木知佳と油井文寧:出演者インタビュー

保存記録の植村朔也がいくつかの質問を考えて個別に出演者たちに送信し、返答を受信したものを、ここに掲載する。

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荒木知佳 あらき・ちか TwitterInstagram
俳優。1995年7月18日生まれ。俳優として、FUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』、毛皮族『Gardenでは目を閉じて』、theater apartment complex libido:『libido: 青い鳥(作:モーリス・メーテルリンク)』、彩の国さいたま芸術劇場『導かれるように間違う(作:松井周、演出:近藤良平)』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『舞台らしき舞台されど舞台』『すべては原子で満満ちている』『フィジカル・カタルシス』『光の中のアリス(作:松原俊太郎)』『バランス』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』『ウエア(原作:池田亮)』などの舞台作品に参加する他、本日休演『天使の沈黙』MV、『春原さんのうた(監督:杉田協士)』などの映像、映画作品に参加している。2021年、KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD 2020にてベストダンサー賞受賞。同年、マルセイユ国際映画祭(FID)にて俳優賞受賞。
撮影:高良真剣

─────松原さんの戯曲には、どのような感覚をお持ちですか?

「音」がたいせつなイメージです。たいせつに話したいし、たいせつに聞きたいなと思います。

─────『再生数』というタイトルについてはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

細胞やDNA、を連想します。

─────スペースノットブランクの舞台では、戯曲中の登場人物の人格や思考の解釈が直接的に反映されているという印象が希薄で、むしろ出演者の本人性が強調されます。こうした演技を行う上で、どのようなことを考えておいででしょうか。

今日の自分の体調や気分や呼吸を認識して、周りのみんなの空気を感じた上で、その時の言葉を話すようにしている気がします。登場人物として舞台に立つのではなく、登場人物を担った私としてそこに居ます。

─────スペースノットブランクにご自身がこれまで求められてきた身体性のあり方を言葉で説明するとしたら、どのようなものになるでしょうか?

これは自分にしか出来ない、と自信を持って提示できる身体のあり方を模索することです。常に呼吸を意識して動くことを心がけています。

─────「家族」は松原さんの作品の継続的なテーマの一つだと思われます。この言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

家族ってなんだろう。どういうこと、もの、を家族っていうんだろう。松原さんの作品に触れる毎に思うことです。

─────声や身体について日頃どのようなことを考えていらっしゃいますか。

場所や人によって自分の発する声の性質が変わることを面白いなと感じます。静かな場所では静かに声を出そうって頭で考えてから声を出すのではなく、気づいたらコソコソした声が出ています。
身体の方は、常に痩せたいって考えているのですが、思うように痩せられません。

─────近年スペースノットブランクは京都での公演を重ねてきました。京都の観客の皆さんにお伝えしたいことがあればお教えください。

また京都で公演ができることとても嬉しく思います。私は鴨川でぼーっとする時間が大好きなので、鴨川に行くのも楽しみのひとつです。
今回の作品は、京都のロームシアターという場所そのものが主役になる舞台なのではないかと思います。この場でしか起こらない、その時しかない時間を共にできたら幸いです。お会いできることを楽しみにしております。

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油井文寧 ゆい・あやね
俳優。1994年7月29日生まれ。静岡県出身。児童指導員をしながらときどき演劇に関わっている。俳優として、範宙遊泳『もうはなしたくない』『#禁じられたた遊び』『うまれてないからまだしねない』『フィッシャーマンとマーメイド』、ロロ『はなればなれたち』『BGM』、エンニュイ『きく』、ワワフラミンゴ『タヌキから電話がかかってくる』、Dr. Holiday Laboratory『うららかとルポルタージュ(作:山本浩貴/いぬのせなか座)』、穂の国とよはし芸術劇場PLAT 市民と創造する演劇『階層(作・演出:岡田利規)』などの作品に参加している。

─────松原さんの戯曲には、どのような感覚をお持ちですか?

お茶目な方なんだろうな! っという感じです!

─────『再生数』というタイトルについてはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

私を生きる!!!! うおおおおお!!!!

─────スペースノットブランクの舞台では、戯曲中の登場人物の人格や思考の解釈が直接的に反映されているという印象が希薄で、むしろ出演者の本人性が強調されます。こうした演技を行う上で、どのようなことを考えておいででしょうか。

説得力があればどんな形の演技でも良いと思います。その強度を常にMAXで行くんだ!
なのかなと受け取っています。。私にそれができているかは。。今のところ毎日頭を抱えて頑張っています。

─────声や身体について日頃どのようなことを考えていらっしゃいますか。

その時自分の身体がどう動きたいか、どう喋りたいかに委ねています。無視しない。かっこいい感じで言ってるけど、決め打ちでこれ! と考えてやることがとっても下手なんです。ただ、0か100すぎてどんなに違うことをしても絶対的にクオリティを下げないことが私の課題です。。

─────今回演技を行う上で、特に自信やこだわりをお持ちになっていることがあればお教えください。

演技での自信はありません。毎日落ち込んでいます。
ただ、みんな大好き! という気持ちを持って取り組んでいることには自信があります。
「みんな」というのは、今の座組みはもちろん今まで出会ってきた人たち。
私の場合はそれがパフォーマンスの強度に繋がっている気がします。
みんなを想ってとにかく諦めず誠実にやることのみです。

─────スペースノットブランクの舞台に出演されるのはこれが初めてですが、クリエーションに新鮮な点はおありでしたか。また、以前出演された諸作品と今回の舞台の間に、ご自身の中で連続性を感じる点はおありですか。

真剣に遊ぶことなのかなと思っています。
小野さんや中澤さんスペースノットブランクのレジェンド荒木さん古賀さんを見ているととてもそう思います。中澤さんは誰よりも楽しそうです。
出演者のみんなから出てくるものは本当に素敵で毎日リスペクトの気持ちで稽古ができます。ファンになりました。植村さん、花井さん、山口さん、みんなをリスペクトできる環境で嬉しいです。参加できて嬉しい。。。

─────「家族」は松原さんの作品の継続的なテーマの一つだと思われます。この言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

以前は素敵なものとしか思ってなかったけど、今は他人を「家族」という距離で囲んで起こる危険性を考えるようになりました。でも、私は、暇さえあれば帰るくらい「家族」大好きです。
早く会いたいです。

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再生数

予告編
ティーザー予告編予告編

イントロダクション
植村朔也

プレビュー記事
植村朔也:映像の終わりに寄せて

メッセージ
小野彩加 中澤陽:回を重ねる

出演者インタビュー
鶴田理紗と奈良悠加
荒木知佳と油井文寧
古賀友樹と鈴鹿通儀

インタビュー
松原俊太郎