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中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

11月19日
世界は 私たちがここで言うことをほとんど気に留めず 長く記憶することもないでしょう しかし 彼らがここで行ったことは決して忘れることはできません ここで戦った彼らがこれまで立派に進めてきた未完の仕事に ここで捧げるのは むしろ生きている私たちなのです むしろ ここにいる私たちが 私たちの前に残された大きな仕事に専念するために この名誉ある死者たちから 彼らがその全力を尽くした大義への献身を高めることです 最後の全力投球を 私たちは この砲弾の死者が無駄死にすることのないよう 強く決意することを聞くことです 神の下にあるこの国が自由の新生を遂げ 人民の人民による人民のための政治が地上から滅びることがないように

www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

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4月13日
いっぽう、わたしが求められているのは「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー」です。本人たちを見た、本人たちによる、本人たちのレビュー。「見(られ)た」対象(らしきもの)の名は二重鉤カッコで括られていなくて──スペースノットブランクは公式ウェブサイト上の公演名の表記を二重鉤カッコで統一しています──、「レビュー」(=「による」もの)の制作主体(らしきもの)が「本人たち」と呼ばれています。これらのことによって、「レビュー」を修飾する──つまり、このテキストの内実を規定する──「本人たちの」という文節は謎めいてきます。あわてんぼうなスペースノットブランクの担当者さんが、カッコをつけわすれてしまったのでしょうか。いやいや、募集されていたのは、やはり「『本人たち』を見た「本人たち」による『本人たち』のレビュー」ではない何かなのです(とはいえ仮にそうだったとしても真ん中の「「本人たち」」は不可解ですが)。第一部に出演した古賀友樹さんも次のように喋っていました。

〈本人たち本人たち本人たち 本人たち「私」も本人たち 前に本人たち 今のこの体形とは違う本人たちもあり 本人たちは無数に存在してる でも それ以外の説明のしようがなくて だから思ってることしか言えない 本人たち決してそのイコール本人ではない 本人って言ってるけど 本人ですかって言われたら本人じゃないです本人たちです みたいな 怖い 怖い だから 概念です 本人たち 誰かのプライバシー それは決して本人じゃない〉

さて困りました。『本人たち』のレビューをそのまま書いてしまったら、いけないのかもしれません。せっかく無料で二回も上演を見せてもらい、販売されている戯曲の冊子までもらい受け、記録映像まで送ってもらったのに、要件を満たしていないじゃないかと違約金をせまられてしまうかもしれません。辛いです。しかもそのことに気がついてしまったのは、さらに一週間後のことでした。

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6月25日
お昼到着です

ありがとうございます でしょ 魚いる持ってくるだけの人 新私agさん ねえ なんなんだよもう一気に持ってこい なあ 細かく何度も持ってくんのお昼は なんでなんだよもうたらふく食ったよ いいってサイレントヒルはう 引いて連投あもう を切るも良い夜になるぞ e翌春ランチは これ 最悪、1/100でもヒール選んジャズが 百合って隅っこから 全部に消化純子さんがいなかったのを 言いてランチはもう

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4月18日
スペースノットブランクで「保存記録」を務める植村朔也さんのイントロダクションに即して考えてみましょう。

「ステートメントと照らし合わせても毎度不可解なスペースノットブランクの上演[…]は、しかし特定の名によって束ねられて他から区別されるに足る相応の共通因子を時に有しているはずであって、そしてわたしの見立てでは、それがそれらの上演に固有の問題構制を示している。[…]制作の主体概念を問いに付してきたスペースノットブランクの舞台について、単におのおのの観客のうちに生じた効果を記述するのにとどまることなく、なんらかの共有可能な言説を打ち立てようとするのであれば、まずはここから始めるほかないからだ。問いは名とともに繰り返される。」

もちろん、制作メンバーにクレジットされている方の言葉を留保なく例証にりようすることは、権利上難しく思います。とはいえ、「上演に固有の問題構制」が、複数のレビュアーを招いた「オープンコール」企画に対する命名行為においてもその顔をのぞかせていることだけは間違いありません。

然るべき名が貼りつけられることで、〈無数〉なものの語りえなさはなんとか手なずけられます。鑑賞者の多様な位置づけからしてみれば到底数えきれない「ぺら」「ぺら」な諸要素は、ひとたびそれらを補綴する名を与えられると、多くのことが思われ・語られうるオブジェクトへと実体化していきます。それは(リテラルかつフェノメナルに)余白だらけでもいっこうに問題ありません。ホチキスを使わない「無線綴じ」で簡素に製本された戯曲のように。

内野儀さんは2022年にスペースノットブランクが上演した『再生数』を、一見したところ「わけがわからない」としながらも、次のように評しました。同作は中継映像に媒介された「親密さ」も手伝って、観客各人に、「通俗的な」生活履歴との呼応とは位相を異にする「真正なものとしか呼べない情動・感覚・思考」(傍点省略)をもたらす、と。してみると、一連の経験は「再生数」という名のもとで=その代理として(in the name of)はじめて可能になったものだとはいえないでしょうか。このとき、目の当たりにされた上演の瞬間瞬間でいかなる相互関係が成立・破断していたか、ということをめぐっての細微な価値判断は、宙吊りにされます(急ぎ足ながら、スペースノットブランクとも協働することの多い松原俊太郎さんの言葉を引いて、事態を概観するたすけとしましょう──「戯曲の登場人物には登場人物を見ている観客が含まれる。[…]観客は沈黙し、何ら反応を返さなくても、現にただそこにいて、見て、聞いている。観客は対話に含まれている。これを無視するわけにはいかない。登場人物同様、対話に身を曝している観客の身体は一瞬一瞬で変化している」(「聞こえる声のための対話のエチュード」))。経験の支持体となるある状況に指をさし名をつけることができたら、わたしたちの共通の足場(プラットフォーム)はひとまず確保される。このことが重要なのです。

(たとえば、ポーカーテーブルの上での「コール」を、局面が不確定な状態で──嬉々としてか、嫌々なのかはわからないまま──勝負に乗り続けるための手続きであるといい換えてみましょう。そうであれば、オープンコールによって開かれたままのわたしたちのプレイ(上演=戯曲)にも、まだ決着はついていないはずです。)

さて、『再生数』の「再生数」に対する関係がそうであるように、『本人たち』は「本人たち」へと無限に近づいていくことが、ぼんやり見えてきました。

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4月14日4月21日
どうやって 捨てよう どうやって 届けよう ジャガイモは 秋じゃない かもしれない

どうだろう 春 夏 秋 冬 今

かもしれない

季節は 共通認識している

かもしれない

春だなあ

冬 寒い

今 窓を閉めました

ひとり かもしれない

どうだろう

送らないで おきましょう もう 満足 尊敬してなかった まったく尊敬してなかったけど すごい尊敬した 大人に対して 守られている時に 上の 守られていない 経験している それを考えると すごいなあ 思います 花火みたい

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4月22日/7月25日/12月1日
「私の散らばりと折りたたみを練習しながら、その散らばりと折りたたみの性質自体を考える、そういう公園そのものを作る公園での遊びこそが、楽しい遊び。そういう遊びを、無理にでも肉体に強いていく必要がある。」(鈴木一平+なまけ+山本浩貴+h「座談会1 2015/05/17→2015/05/31」)

八年前に山本浩貴の発した言葉が、第一部「共有するビヘイビア」での古賀友樹のパフォーマンスと共振している。客入れ中の場内の雰囲気を否応なく張り詰めさせる前説や、劇場空間をめぐってなされる虚実入り乱れたエクフラシスといった、遊び心のあるふるまいについてだけいっているのではない。遊び場をつくる遊び──すなわち、稽古場を含む非-劇場で遂行された制作プロセスが発話内容や身振りの上でも構造の上でも反復されながらの上演は、〈もっとでたらめになっていく〉。〈でたらめになっていって 混沌の中に生まれてそれが上演だから〉。

幾度かの名義変更を被り、その都度〈マイナーチェンジ〉が施されてきたという『共有するビヘイビア(或いはクローズド・サークル)』について、同名のウェブページに掲載されているインフォメーション(作品概要)にはこうある。

「『共有するビヘイビア』は、私たちの恒常的な舞台のつくり方を観客と共有し、生み出される舞台を世界へと共有する。行為としてのクリエーションを分解し、パフォーマンスが組み立てられる過程を展開することで、観客が私たちの舞台を追体験しながらそこに実在する上演の時空間の部分を想像力によって担い続けることとなる。」

「舞台のつくり方を観客と共有し、生み出される舞台を世界へと共有する」営みの〈根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通している〉。〈上演っていう言葉を使って説明を行っています 中身は別になんだっていいんです〉。制作/伝達過程へと再帰する制作/伝達行為として自己表明する舞台は、そのうえ十分に笑えるものであるからには、ほかでもなく「公園そのものを作る公園での」「楽しい遊び」である。それは、さんざん指摘されているとおり、大小ないまぜのコンポーネントが幾重にも「散らばり」「折りたた」まれたすえに出来している。(タイポだらけの奔放なテキストをことごとく読みこなしていく古賀の演技体(おもに発話)は、強度の「強い」られ感をまといつつ、〈言葉の集大成〉としての〈言葉〉たる説得力を発揮してもいる。)

また、精妙なステージングを志向するとき、予測と制御を逸脱しうる観客の鑑賞態度の放埒さは忌むべきものと考えられてしまいそうだが、そういうわけでもない。第二部「また会いましょう」で、渚まな美と西井裕美は出会いの被膜を行ったり来たりしながら調整の限りを尽くされた掛け合いに興じる。ダイアローグは同期したと思ったらすぐさま非同期に転じてしまう。リプレイされる当たり障りのない会話(に聞こえるもの)は、アクターとキャラクターとナレーターの分節化をまったく自明でなくする。そこには婚活や家庭をめぐる誰かの実際的な生の息遣いが感じられ、地名や人名、実在しそうな対象のイメージがちりばめられていることもあいまって、あいまいな景色の共同想起がなされる。このとき動員される観客の「想像力」は、まぎれもなくわたしたち自身のものである、のだが……、

「たえず自己にまつわる記憶を喚起し、それを想像力に結びつけて、存在の感覚を確認すること──これこそが、[チェーザレ・]パヴェーゼのような日記作家の、自分の日記を再読し新たな記述を追加するさいの、一見したところ苦渋にみちてはいるが、それでも他の何ものにも換えがたい楽しみであったにちがいない。」(富永茂樹「自己保存装置としての日記」)

社会学者は、書き手によって繰り返し読まれ、いつでも加筆修正されうる、自己目的化した日記が、実利や自己規律のために用立てられることなく「保存という行為の本質を何にもまして純粋に守」るさまに、逆説的な「自由ないし解放」の契機を見た。たしかに、第二部では、十一の場それぞれの見出しに日付が掲げられていて、カンパニーのウェブサイト上で公開されている日付つきの第三期「本人たち」のテキストと合致する発話もあった。そういえば、昨日参加した日記をめぐるトークイベントでは、日記を日記たらしめるのは何かと聴衆の一人に問われた小説家の滝口悠生が「最初に日付が書いてあること」だと答えていたが、そうであるなら「また会いましょう」もまた日記である、と強弁できなくもない。しかし、わたしたちが直面したものと日記とはやはり多少の異同がある。つまり、「喚起」される「記憶」はいささかも「わたし」のものではない。それどころか、「喚起」される「記憶」はそこにいるアクターのものである保証も、彼女らの傍らで演出に従事していたほかのだれかのものである保証もない(もちろん日記は実在する人物による偽らざる生の記述である必要などみじんもないが、少なくとも、読解を通じて(日記の書き手としての地位を引き受けうる)統合された執筆主体が仮設されるテキストでなければならないだろう)。帰属先をもたない光景が空間に満ち満ちていくばかりなのだ。

ところで、起源なき言葉たちの周りをうろつく「本人たち」の『本人たち』は、いわゆる「アーカイヴ」と呼ばれるものに似た仕方で作動しているようなところがある。そこで、アーカイヴの再構築やデータベーススキーマの再設計などに携わるアーカイヴの理論家・上崎千のレクチャーを手がかりにしてみよう。適宜パラフレーズしつつ、議論の一部を紹介したい。

上崎は、ブルース・ナウマンのヴィデオ作品《Wall/Floor Positions》(1968年)が雑誌『Avalanche』(1971年冬号)上に掲載された際のエディトリアル・デザインに着目する。パフォーマーによる一連の動作をうつした複数枚の静止写真が(ブラウン管のフレーム付きで)紙面にレイアウトされるとき、そこには「表現」の「プレゼンテーション」(提示、現前化)とは異なる「ドキュメンテーション」(記録、文書化)という時間的契機が現れる。しかし同時に、印刷物の上で「分解された(ばらされた laid out)」「記録」写真は、映像内に継起するパフォーマンスとは異なる時間枠にしたがって「再構築」される。ならば、これはすでに一個の「表現」と化しているといえまいか。逆に、おおもとのヴィデオ「作品」も、生(ライヴ)のパフォーマンスを撮り収めた「記録」としての性格を帯びている。かくして、事態は限りなく輻輳していき、もはや「表現」と「記録」のいずれかを本質化することはできない。あいだの「/」はつねに引かれ直すのだ。そして、確たる始源の欠缺から生じるこのような運動性にこそ「アーカイヴに特有のフィクション性」がほの見える。「私たちは、「アーカイヴ」の持つフィクショナルな質に積極的に関与し、そこにどのようなリアリティを構築していくのかという課題を担っている」。

日付の振られたテキスト群、観客から見える/見えない映像(+字幕)、自在に変形を遂げる舞台空間たちが織りなす『本人たち』は、「宇宙のようなスペース」とでも形容したくなる、質(としての)量を備えたエンティティと化している。それは果たして、「本人たち」という名辞のみによって束ねられた、いまにも四散しかねない集合体である。『本人たち』は、(カッコなしの)本人たちになり代わる欲望をつねに秘めているともいえるだろう。上演はアーカイヴのように身をかわして、わたしたちの手をすり抜け続ける。なればこそ、上演に上演として触れ、それをしかと批評するためには、その運動性と構築性を丸ごと反復する「保存」「記録」行為を措いてほかにない。

「おもちゃをもっとも有効に修正することは、教育者であれ、製造業者であれ、物書きであれ、大人の手におえるものではない。子どもがあそびながら自分で修正するのだ。おもちゃは、どこかに置き忘れられ、こわされ、そして修繕される。」(ヴァルター・ベンヤミン「昔のおもちゃ:メルキッシュ博物館のおもちゃ展覧会」)

第一部冒頭で宣言されたように、わたしたちはみな〈上演に送り出〉される〈子[ども]〉である。子どもたちはそれぞれの現在地においてきっとまた会うだろう。プレイは共有されるたびに、新たなるプレイとして再生するのだ。

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3月17日
これ 文章で読んで面白いかわからないけど、本当に

あの過去最高のジョークのやつ ちょっと面白くないですかね

うん いいですよね

飯豊山わかった 音声できいてなんか すごい変な音が出るってなんなんだと思って

なんか音で聞くと面白いかもしれないですよ

いやあ まあでも、そう だからこう、なんつうのかな どう使われる加工わからないという見込みの上で 話ずっとしてる方が 素直で良いかなみたいな やっぱなんつうの、こう なんかまあ 僕っぽい文章をちゃんと意識していくかって思ったら こうなった

うんうん

やあ なんかこう、わざとらしいところもあるから とりあえず使いづらいと思うけど

たしかに こうじの部分ではこう 時のレトリックみたいのが 結構普段書いてる文章よりは素直に出てる気がしてて するっていう言い方も なんか誠実な気がしますけど

本当に何も感覚 何も考えずともかく 適当に書いたらこんな感じだよね、うん

僕もこれ ちょっと実は 全く何をどうするか決め決めずに書いてもらったから なかなかちょっと面白かったんですけど そういう面白さぼくがあったからなんか 満足したんですけど やっぱこう書かれたtextなんで それをそのまま上演するっていうことはちょっとしないというのはまずあって むしろその書かれたことは事実としてあるっていうことに 僕は演出上の意味があると思うので ある種のこの文章を一つのモニュメントにしつつ それを取り巻く出来事をその舞台に乗せるっていうぐらいの感じかな と思っております なので、今いろいろしゃべってもらって 私、今ちょっと 会話のレベルがちょっとなんかメタなるからあれだから言いにくいんですけど 今しゃべってもらったことは 結構ある種のモーメントの干渉経験っていうことのアーカイブになるかなって思っているので で、それを舞台にしようかなっていう 今の あの、これまでずっと あの、今 ディクテーションで撮ってたんですけど 会話を そのまま使うかどうか別として これ 今 あらためていろいろ喋ってもらった中で ズームをね 限られた価格だからなかなか難しいんですけど いってみれば その癖とか身振りとかを ちょっと幾つか出してサンプリングして それを来週の本番の時にはじめいくつか示して どれが面白いかなっていうところから始めようかなっていう なんとなく思って なんか 今の時点で堂々作っていくっていう方向で お二人の方から なんかあります フィードバックっていうか アドバイスっていうか 助けて欲しいんですけど 当日にはどうにかなるんだろうなあっていうすごい謎の気持ちがあります 最悪過激だから あの しゃべってもらえれば何とかなるので なんか面白いポイント 僕らが合意できて 困ったらもうその面白ポイントに向かっていくように あの場を作っていくっていう方向で なんか縁起したら もしかしたら あの別に何も台本とかなくても大丈夫かもしれないけど

ねえ怖いですね

いうかなんか そこそこでもデータもとれた データとか言ったらあれですけど 蓄積もできたので 僕しゃべりすぎましたけどどう考えても、まああの

終わる

そうですね まあ、うん

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ソース(参照順)
Abraham Lincoln, “The Gettysburg Address: Bliss Copy”, Abraham Lincoln Online, 2020 (Originally addressed on: Nov 19, 1863).
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』(戯曲)、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、2023年。
タイマン森本【トンツカタン森本】「【タイマン】サツマカワRPG×トンツカタン森本」(動画)、YouTube、2022年6月25日投稿。
植村朔也「イントロダクション」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年3月21日掲載。
山本浩貴+h(いぬのせなか座)「伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年3月21日掲載。
東京はるかに(植村朔也)「舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評」『批評 東京はるかに』(note)、2023年4月3日掲載。
内野儀「メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年1月31日掲載。
松原俊太郎「聞こえる声のための対話のエチュード」『現代詩手帖』61巻11号(2018年11月号)、思潮社、2018年10月29日、57-61頁。
「4月14日」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2021年4月14日掲載。
「4月21日」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2021年4月21日掲載。
山本浩貴+h+鈴木一平+なまけ「座談会1」『いぬのせなか座』1号、いぬのせなか座、2015年11月23日、8-37頁。
「共有するビヘイビア(或いはクローズド・サークル)」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、掲載日不明。
富永茂樹「自己保存装置としての日記」『都市の憂鬱:感情の社会学のために』新曜社、1996年3月5日、173-177頁(初出:『GRAPHICATION』212号、富士ゼロックス株式会社、1986年2月)。
植本一子+金川晋吾+滝口悠生「日記を書く/誰かを書く」(『三人の日記 集合、解散!』刊行記念イベント)、SCOOL、2023年4月21日開催。
上崎千「アーカイヴ的思考(archival mind)について」『地域・社会に関わるアートアーカイブ・プロジェクト:ピープラスアーカイブ 一年の活動記録』特定非営利活動法人アート&ソサイエティ研究センター、2011年3月、20-29頁。
小野彩加 中澤陽「メッセージ」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2022年1月15日掲載。
ヴァルター・ベンヤミン(丘澤静也訳)「昔のおもちゃ:メルキッシュ博物館のおもちゃ展覧会」『教育としての遊び』晶文社、1981年9月25日、38-48頁(初出:1928年)。
など

中本憲利 Kent Nakamoto
インディペンデント・キュレーター。企画、批評ほか。複数の団体でPRに従事。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

長沼航:1でも2でも群れでいて

 スペースノットブランクで保存記録を務めている植村朔也さんが「水族館」の比喩を用いて同団体の諸作品の特徴を説明している[注1]。曰く、水槽のガラスを隔てて向こうにいる水族館の魚は独自の世界を有しており、こちら側にいる人間に頓着しない。それに似て、「スペースノットブランクの舞台が客席との間に設けている仕切りは、どちらかといえば水族館の壁寄りの「第四の壁」であ」[注2]り、俳優が観客の属している時空間とは独自の時空間においてパフォーマンスをしているように見受けられることを、スペースノットブランクの作品がもたらす特異な効果だと述べている。
 この指摘に言及するのは、僕が「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビューのオープンコール」の応募に際して課された簡易レビューおよび志望動機を、動物園での経験を手がかりに書いていたからだ。動物園で猿を見るのがちょっとしたマイブームで、けれどそれはマイブームと呼ぶには僕が舞台のことを考えるうえで重要な出来事でありすぎた。

 檻の中にはロープや鎖、柱や段差などが設けられていて、人間よりはるかに俊敏な猿はそれらを用いながら、縦横無尽に動き回ったり、はたまた端でうずくまったりしている。それぞれの個体は違う目的を持って行為しており、そこでは「異なる線がいろいろな方向へと引かれていくような時間と空間が広がっていて、私はそれを作品──つまり、主体の意図が介在した構成物──ではないが、まさしく舞台だと思う」。「個体の群れが集合と離散を繰り返していきながら、檻を運動で充していくあの様子。彼らにとってそれはただの生命維持行為の延長であり普通のことだ。しかし、見つめる私にとってはまなざされるべき舞台であった。人のつくった作品で、こんな充実を観ることはできないだろうか」[注3]。
 動物園の猿の檻のような舞台を観たい。しかし、私たちは猿ではない。植村さんも「スペースノットブランクは魚ではない」[注4]と念を押している。パフォーマンスをする俳優もパフォーマンスを観る観客も人間であり、人間は人間に見つめられるときもはや猿や魚のようではいられない。自分をどうやってプレゼンテーションするかをどこかで考えてしまう。無頓着ではいられないのだ(というか、魚のことは知らないが、猿だって他の猿の目は気にして行動するものだ)。
 また、舞台は多くの場合、劇場と呼ばれる場所で上演され観られる。動物園の猿がいる檻は彼らにとって生活の場だ。生活の場が同時に舞台のように見つめられうる。だがしかし、上記の理由から私たちは生活の場をそのまま舞台として他の人間に見せることはできない。生活に根差した普通のことが充ちているだけで面白いのに、人間はなかなかそれを舞台にはできない。そして、生活の場から離れた劇の場において、わざわざ何かしらの表現をこしらえている。
 僕の最近の関心は、生活の場から離れた劇(の)場において行われる表現は俳優/観客にとってどのように根拠づけられるのかという点にある。そして、『本人たち』は生活の場──言い換えれば、舞台に立つ人間がその人自身でありうる地点──と劇の場を独自の仕方で貫通させようとする探究を突き詰めたものでありそうで、これを観ることは僕の関心を深めるのに役立つのではないかと、応募時の僕は目論んでいた。

 だが正直に言えば、『本人たち』を観て、僕は困ってしまった。観ているときはそこまで困惑しない。決して理解不可能なことだけやっているわけではない。むしろこれまでのスペースノットブランクの上演に比べれば、コンセプトが作中で説明されてしまって非常に分かりやすい。
 けれど、思い出してそれについて考えるとか何かを書いたりする段階になると、途端にはっきりしなくなる。それぞれの部分が他の部分と関連しているのに、どういう関係にあるかを言い当てるのが非常に難しいのだ。
 例えば、ほとんど古賀友樹さんの一人芝居(ないし1.5人芝居)である第一部の『共有するビヘイビア』には「ガンバリズム」から始まる一連のシークエンスがある。ここでは「おやすミンミンゼミ」「おはヨーグルト」「ありがとうもろこし」「ありが10匹」など、二つの言葉を合成する言葉遊び的な言い回しについて真面目に「お休みの静かなイメージ から一気にうるさいイメージのミンミンゼミがくっつくことで ギャップの笑いが生じる」「これは多分ありがとうと言っている対象にたいしてトウモロコシをあげてる」[注5]などと説明される。確かにユーモラスで面白く、内容もよく覚えている。けれど、一体なんでこういう話になったのか、それからこのあとどういう話になったのかが全く思い出せない。
 さらに言えば、一群のセリフを抜き出しても、繋がりが判然としないものもある。第一部の終盤に出てくる「いわゆる簡単にちょっと対してっていう 簡単に自己自己紹介をしてもらう 説明してくれ として 自己紹介として 自分のことを ラストに行けないんです」[注6]というKの台詞は全体としてはラストに向けて自己紹介をお願いするものとして聞ける/読めるが、厳密にはよくわからない部分がとても多い。
 僕は上演のあいだに起きる物事を容易にやり過ごせてしまう。なんとなくでいられてしまう。それが観客という立場なのかもしれないが、同時にたくさんのことが無視される。でも、たくさんのことを無視してしまってもいいように、もしかしたらこの作品は作られているかもしれない。

 山本浩貴+hがプレビュー上演のレビューで触れているように、本作では俳優と観客の間にある伝達の構造に焦点が当たる[注7]。必然的に最も強調されるのはメタ的な伝達だ。(作中の例示を引っ張ってくれば)「疲れたよ」という言葉が「疲れたという底を示す」(体を示す)[注8]ものとして使われるように、作中の無数の言葉は全て「伝えてるよ」、すなわち「「伝えてるよ」を伝えてるよ」のパラフレーズとして捉えられる。例えば、第一部では、『本人たち』のこれまでの来歴、STスポットの歴史、顔の(部分的な)情報、「念力暗転」のやり方など様々な事柄が絶えず俳優から観客へと伝えられていく。ここでは、いま観ているもの、いまいる場所、いまかけられている技が説明されている。過去に収録・録音された音声をもとに作られたであろう部分でさえ、現在の上演を支えるクリエーションの時間の説明として機能する。そして、それらは説明の内容自体が目的であるというより、作中で説明されるような説明する「私」と説明される「あなた」の関係を構築するための手段として用いられている。
 だからこそ、第一部における古賀さんの口ぶりは完全に観客を志向している。観客に対して何かを伝えているし、何かを伝えていますよということも伝えるように身振りや視線や声の大きさなどが操作される。聞いている「あなた」に対して、古賀さんは絶えずさまざまな仕方で関わろうとする。しまいには、観客のうちの1人とジャンケンまでしてのけ、その勝敗によってシーンが分岐する。
 とすると、古賀さんは水族館や動物園的な独自の世界を作り上げているとは全くもって言えない。水族館の中で似た場所・時間を見つけるならイルカショーだろう。完全に他者から観られていることを意識した振る舞い、丁寧に習得された技をお客様に披露する時間、ときに水をかけたり鰭をふったりするインタラクティブ性。閉じられた水槽ではなく、開かれたショーの舞台として『本人たち』の第一部は捉えられる。飼育員兼イルカの古賀さんの「私はあなたにお見せしています」という態度で貫かれている第一部を観て、私はすっかりエンターテインされてしまう[注9]。
 しかし、ここで伝達とは何を指しているのか。そもそも「何かを説明するとき」に要請されるとされた言葉は、この上演においては前提である[注10]。つまり、戯曲があってパフォーマンスが行われるのであって、説明の意志が言葉を生んでいるわけではない。
 僕は上演を観て、戯曲を読んだ。画面ではほとんど隣接しているこの「観て」と「読んだ」の間には、実際には2週間ほどの時間的な隔たりがある。このように言葉は実際の時空間における構成とは異なる仕方で使えてしまうわけだが、『本人たち』の戯曲もこうした言葉の操作可能性に基づいて作られているように読める[注11]。
 上演において話される言葉は、どうやら過去の稽古場などで話されたものを採集し、文字起こしされたものであるようなのだが、それが元々はどこで語られていたかという文脈からは剥ぎ取られている[注12]。上演を観ていると、言葉の来歴などはそもそもどうでもよく、すでに記録されてしまった言葉を道具としていまここの劇(の)場において観客への伝達関係を作ろうとパフォーマンスが行われているように思える。説明するために言葉が生まれるのではなく、言葉が説明になるためにパフォーマンスが生まれる。そんな転倒が生じている。だからこそ、時に不可解なディテールをもっている説明そのものよりも、それがなんとなく説明になっていることの方に目が向いてしまう。

 と、これまであまり前置きなく『本人たち』の第一部についてのみ触れてきた。上述したことがそのまま妥当するのは第一部だけである。なぜ、第二部『また会いましょう』について口数が少なくなってしまうのか。それは第二部の多くの時間が渚まな美さんと西井裕美さんの2人の同時発話によって進行していき、第一部よりも処理すべき情報量が格段に増え、結果として意味的・理性的な認識よりも聴覚的・感性的な知覚の方に上演の効果がシフトしていくこと、それに伴い僕のうちに生じた感覚を書き落とすのが難しいことに由来している。しかし、このまま放っておくには第二部はあまりにも第一部と異なる。
 第二部で用いられるテキストは第一部に比べて、より由来のわかりやすいものになっている。意味が通っている部分と通っていない部分は依然あるものの、語られるトピックが生まれた場所や卒業論文のテーマ、就いていた仕事、美術館コンでの失敗、自分の名前などについてであること、元々この言葉を話していた人物の実際の個人的経験が反映されているであろうことが認識できる。また、様々な固有名詞(岡山、岸田國士、『かもめ』、横浜、草間彌生など)が出てくるのも特徴的で、話されていることが私たちの現実と地続きのものであると感じられる[注13]。第二部の言葉は、おそらくは実際に演じている2人のあいだでなされたか、もしくはそれぞれが演出家とした会話から作られているだろうと推測できるような内容と質、日常的な響きを多くの箇所で保っている。
 だが、直ちに付言したいのは、このようなトピックの理解しやすさ・とっつきやすさは見方を変えれば、内容としてはひたすら凡庸な話がずっと展開されるとも言えるということだ[注14]。もちろん、美術館コンには意外とアートに関心の薄い人ばかり集まるとか、岡山県民は相互不干渉な県民性を持っているとか、興味深いトピックがないとはいえない。ただ、第一部で古賀さんが言葉を使って僕らを楽しませようとするのに比べれば、渚さんと西井さんははるかにどうでもよく聞こえる内容を話している、もしくはどうでもよく聞こえるように話している。
 しかし、「念力暗転」と並んで上演のなかで最も鮮烈なシステム──2人の俳優が身振り・字幕とともに台詞を同時に発話する──によって、僕は舞台上で語られる言葉に単なる意味の把握とは異なる仕方で耳をそばだてる。似たようなトピックについて、異なる言葉の配置がなされた二つのテキストが同時に読まれる。言語的な意味を把握するよりも前に、会話の響きのようなものだけが耳を覆う。喫茶店の真ん中からいろんな席の会話を聞いているような音環境である。一方の発話に耳を集中させようとしても、同じくらいの声量で、同じようなトピックについて話している。すると、ついもう一方の俳優の声も聞いてしまう。そのなかで音が急に言語として飛び込んでくる瞬間があり、それに出くわすとついつい笑ってしまう(特に私が2回目に観た3/31の上演では何度もそういった時間があった)。「年齢キャンペーンその年にキャンペーンをそれとも念力を念力を年齢決定でも結構使ってるかもしれないですよね」[注15]と西井さんが言うとき、その傍らではつねに渚さんの声が聞こえている。ふと水面から姿を現す魚のように、急に「年齢決定」というよくわからない語が入ってきて、笑ってしまう。言葉が説明として使われる第一部と異なって、第二部では個人的な話題からなるテキストの同時発話がもたらす運動の推移を感覚的に味わうことになる。

 第一部と第二部を横断して言いたいのは次のこと──『本人たち』は全体を通して「群れ」を扱う上演だった。
 第二部の全編を通して、渚さんと西井さんはただ2人のあいだで(例外としてメタ出演の近藤千紘さんの声がありはするものの)言葉と身振りでの交感を行っているのみだ。ときおり観客に視線を送りもするが、だとしても観客とは独立したシステムのなかで言葉と身振りのダンスが行われ続ける。たった2人ではあるが捉えきれない情報量で横溢する舞台を観るしかない。そうした経験をもたらす第二部は動物園的ないし水族館的だといえる。
 思うのは偶然みたいだということ。猿を見ていて感動するのは、生じる複数の行為の交わりがどこまでいっても偶然的だから。そして、偶然だけれども同時に、メカニズムが明確だからだ。周囲のロープや段差や食べ物など環境との交わりによって、それぞれの個体の行為は誘発されている。それらが檻の中を充たすとき、群れとしての充実に感動してしまう。
 『本人たち』の第二部で起きる言葉と言葉のすれ違い/合流の運動は、おそらくかなりの程度意図的に操作されているだろう。だが、観る僕はそれらをほとんど偶然的な充実みたいに受け取る。上演の場で何が捕捉されるかはわからない。偶然捉えられた台詞を僕は聴き、偶然捉えられた身振りを僕は観る。僕のうちに起きる感性的な音や言葉や身振りとの出会いは、意図的な操作によって引き起こされる偶然だ。それに対して、第一部は僕においてぜんぜん偶然的にならない、と思った。
 でも、1人しか出演者のいない第一部もまた群れ的な性質を持ち合わせていたとも思う。それはテキストの作られ方と受け取られ方に関わっている。
 動物園で見る猿は、それぞれに名前がついていて、飼育員や足繁く通うファンたち──そういう人たちが本当にいるのだということを僕は黑田菜月さんの展示「写真で紡ぐ、思い出の中の動物園」で知った──には識別可能だが、一見の僕なんかは正直子供か大人かくらいしか見分けることができない。それは『本人たち』における言葉の記名性と類比できる。それぞれの言葉を話した人物の名前ないし時間や場所は、稽古場にいた当人や演出家にとってはそれぞれの要素のうちに明記されているかもしれないが、観客にはそれを読むことはできない。「これは誰の話なんだろう」と思って思考を巡らせても答えはわからない。言葉は原理的に弁別不可能な群れになっている。
 そして、『本人たち』においては、語られた言葉が常に誤った解釈に晒される可能性が機械文字起こし・機械翻訳によって、観客の解釈に先立って提示されてすらいる。すでに間違って認識されてしまっている個体がウヨウヨしている。ここで私たちはもはや名前を取り違え(られ)ていい[注16]。

 それぞれに由来を持ち記名されていた言葉や身振りは稽古場から戯曲/劇場に移しかえられるなかで、「本人たち」という匿名的な群れへと再編される。なんらかの由来の存在を暗示するものの、元々の姿とは別様に組み立てられてしまっている。その組み立てこそがフィクションとして有効に機能しうるのは僕も共感できる。けれど、僕はどこかで腑に落ちていない。僕にはもっと別のことを分かりたい欲望があったのだろう。
 『本人たち』に出てくる俳優は、編集された言葉の群れを観客への説明として聞かせるために労を費やしたり、自分の発話が自分の身振りや相手の発話とうまく並行するように自身の感覚を動員している。どちらにせよ舞台上での表現の起点はいまここの関係を成立させることにある。個人としては、上演環境が実際に群れの運動によって充たされる第二部の、音声と言語を行き来するような戯曲と上演の双方にまたがる操作に活路を見出したいけれど、使い古された雑巾をまだ使っちゃうみたいにしてたくさんの言葉を自分の身体において束ねている第一部の古賀さんの演技もすごいものではあるのだろう(自分は途中で心が折れてしまいそうでやれそうもないが、もしかしたら心なんてものを持ち出さずにできるようにパフォーマンスはプログラムされているのかもしれない)。でも、さらにいえば、総じてもっとその俳優が触れている世界のことがわかりたかった。いまここではない過去の蓄積として現前する「本人」の姿が見たかった。ナイーブな僕は、共有や伝達を志向しながらも転倒や屈折を高い強度で持ち込んでくるスペースノットブランクの意地の悪さに、打ちのめされ続けている。

─────

[注1]植村朔也(2022)「1. 舞台は水族館か? 2. 数えられてもダンスか? 3. 舞台はどこに行ったのか? 4. 見えないものがすべてなのか?:スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』評」
[注2]植村朔也、前掲記事。
[注3]以上は「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビューのオープンコール」応募時に筆者の書いた簡易レビューおよび志望動機より。
[注4]植村朔也、前掲記事。
[注5]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』戯曲 p.7。
[注6]同上、p.12。
[注7]hさんの「「伝える」ってなんだろう、と思って見てた」「いろんな箇所で「伝える」ことについて直接的に言及していた」などの発言を受け、山本さんは「話される個々の話題やその主体の個人的情報に重きが置かれるのではなく、それらが立ち上げうるところの「伝える」関係性こそが」上演において中心的に扱われていたと語っている。
 山本浩貴+h(2023)「伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演」
[注8]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.7。
[注9]ちなみに、終盤にはハーネスをつけた滝沢秀明やハリウッドで有名なジャスティンさんが来てくれる豪華なショーだ。
 同上、p.13。
[注10]「言葉が発生した瞬間のこと それがいつ というのはとても簡単なことでして 今です 今この瞬間 嘘です 何かを説明する時というのが言葉が必要なときです」(小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.3)。
[注11]これまでのいくつかの引用から気づけるかもしれないが、この戯曲では句読点が使われず、英語のようにスペースを用いた分かち書きがされている(それは英語のように一語単位でなされるわけではなく、また文節ごとに切られているわけでもなく、長さは一定でない)。スペースが使用されると個々の言葉の塊が、それぞれ紙面の上に等価なものとして配置されているように把握されうる。そうして、語-句-節-文-文章のヒエラルキーに基づく文章構成がゆるやかに解体される。この記載法は編集的なテキストの作り方に適したものであるように思えるし、句読点による分かち書きというアイデア自体、前から後ろへのリニアな筆記と読解のための工夫に感じられてくる。
[注12]どうやら2月15日に稽古場かどこかで収録された音声を基にしたテキストがあるようだということは、その日付や説明が含まれることから推測可能だ。
 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.3。
[注13]『かもめ』が出てくるところで語られているのはおそらくNTLiveのラインナップとして上映されていたものの感想であり、また草間彌生や(直接的に名前は出されないが)何でも「包む」作家として言及されるクリストとジャンヌ=クロードの「作家性」についての話は、僕が個人的に受けていた岸井大輔さんの創作の授業で語られるエピソードに酷似していた。こうした自分の私生活における知識や経験と語られる言葉の重なりによって、それがまた別の人間の私的な知識や経験と紐付いたものであると認識可能だ。
[注14]そして凡庸なのだけれど、どうやら第一部で語られる問題系に重なるような個人的エピソードが語られているように聞こえるのも、このテキストの特徴だ。山本さんもレビュー内で「この作品のなかで語られる内容も、形式も、ひとつひとつはぺらぺらなまま、それでいていずれもが喩的な意味合いを託されるようにうまく構成されてい」る、と凡庸だが相互に連関していないわけでもない絶妙な塩梅でなされるテキスト構成を端的に指摘している。
 山本浩貴+h、前掲記事。
[注15]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.18。
 hさんも前掲のレビュー内で指摘している通り、会話の断片らしく聞こえる第二部の台詞は戯曲を読んでみると、意味不明な部分も多い。この箇所も何を言っているのかはよくわからない。同時発話の部分は、テキストの理解できる度合いが場所によって異なるが、こうして濃淡をつけることによって観客の聴覚的な把握を操作しているのかもしれない。
 ちなみに、同時発話ではなく会話のように話者交替が起き1人ずつ喋っている箇所でも、それぞれが別々の会話から採られた相互に関係ない内容を話していることが多い。
[注16]第一部でも第二部でも、終盤において名前がクローズアップされるのは、このような素材の記名性の観点からも重要であろう。「古賀」ではなく「ジャスティン」として名を置き換えられてしまう。もしくは、街コンで会った男に裕美(ひろみ)ではなく裕美(ゆみ)と呼ばれ続ける。もしくは、俳優活動のために「渚まな美」という芸名を新たに付与する。これらの小さなエピソードは自他にとって名前が恣意的なものでありえ、間違えられたり異なる名前を名乗ったりしても大きな問題がなくコミュニケーションが進んでいくことを示す。
 また、『本人たち』第一部には、おそらく意図的に一切人称代名詞が使われないシーンがあった。S(メタ出演の鈴鹿通義さんが想起される、上演では下手側に置かれたスピーカーから機械音声が出力されていた)が「ここに来る」までのあれこれについて話した後、K(出演の古賀友樹さんが想起される)が以下のセリフを言う。

 「男性です まず漢字を教えます ちょっと間違える可能性が高いのでここでは言わないでおきましょう 生誕しまして 今もその名を名乗って生きております 食べ物を食べる 最近食べたのはカレーじゃないですか カレーの大盛りを しかも激辛で食べました」(小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.5)

 まだ続くがここらへんにしておこう。その前にあるSのセリフにも、実は一つも「私」や「僕」などの一人称代名詞は使われていないのだが、台詞を聞いているときにまごつくことはない。少なくともネイティブの日本語話者であれば、このセリフを聞けばそれが発話主体の行動を説明するものであることは理解できるはずだ。だが、Kのセリフのようにいくつかの記述を紐付ける対象が見つからないとき、私たちの頭は混乱する。誰が「男性」なのか、誰が誰に「漢字を教え」るのか、誰が何を「間違える可能性が高い」のか、何を「ここでは言わない」のか、「ここ」とはどこか。
 そしてこの「私たち」にはDeepLも含まれる。上演においては常に後方の壁面にDeepLを通して英語に翻訳された戯曲が表示されていた。英語と日本語の文法規則の違いにより、DeepLは日本語ではそれ抜きでも(文法的には)成立している人称代名詞を補わなければいけない。手元に字幕のデータはないため正確な引用はできないが、当該箇所においてはかなりでたらめにIだのheだのtheyだのがあてがわれていた記憶がある。機械によって名前の代わりに使われる代名詞も恣意的に与えるこの操作は、『本人たち』における名前の取り違えの挿話と類似した状況を実際の上演に持ち込むものだ。

長沼航 Naganuma Wataru WebTwitter
 俳優。1998年生まれ。
 横浜国立大学大学院都市イノベーション学府建築都市文化専攻Y-GSCポートフォリオコース修了。
 散策者とヌトミックの2つの劇団に所属しつつ、俳優の立場から演劇やダンスなど舞台芸術の創作・上演に幅広く関わっている。主に非物語的なパフォーマンス作品に出演することが多く、その演技においては自分自身の身体と他者の書いた言葉を並列的に扱うことを目指している。
 また、舞台上に立つ人間が自身の技術をどのように運用しているかを明らかにすることに関心を抱いており、俳優の技芸についての勉強会「俳優の兵法を学ぶ」や、パフォーマンスとトークを通じて即興について考える「即興と反復」を(とてもスローペースで)企画・開催しつつ、演劇/演技の創作過程についての論考やエッセイ、記事などの執筆を行っている。
 近ごろはひとがある仕方で生きていることを肯定するための諸々を制作することに関心を持ちながら、演劇活動と生活の結び目を探している。2023年はインタビューをたくさんしたい、小粒でもピリリと辛い文章が書きたい、お金がほしい。
 最近の演出作品に「タムロバ・シアター」(2023)、出演作品に、ヌトミック『SUPERHUMAN 2022』(2022)『ぼんやりブルース』(2021/22)があり、最近の文章に、「感覚の計量──小松海佑の漫談について」(『悲劇喜劇』2023年3月号)、「オンラインでしかあり得ない舞台芸術を目指して──Asian Performing Arts Campにおけるハイブリッド性と越時性」(東京芸術祭Webサイト)がある。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う

〈言葉 ことの始まり つまり誰かが何かを伝えようとしたとき〉
〈ちょっと離れたところに住んでる人の周りにはすごい美味しい草があるみたいな シェアするために言葉が生まれたみたいなことなのかなと思って〉
〈それから最初は遊びだと思い こういう感じなんですか 難しいな でもこれはこうですっていうことだとは思う そういう感じでいきますか〉

 まずもって言葉が発せられていく。まずあるのはその感想。第一部では古賀友樹のからだを通して、第二部では渚まな美と西井裕美のからだを通して、あるいは舞台下手に置かれたモニターを通して鈴鹿通儀と近藤千紘の人工音声が流れて、言葉が発せられる。目線を上げれば、正面の壁にはDeepLで翻訳された英語字幕が投影されている。言葉ばかりだ。そうした無数の言葉が敷き詰められた『本人たち』にはいくつもの分岐がある。それはひとつの作品でありながら、しかしその上演ごとに複数に、巧妙に、観劇体験が枝分かれするように構成されている。この文章を綴る〈本人〉は演劇についてのまとまった文章を書いて公開するのも初であるし、ここに展開するのが批評と呼ばれるに耐えるものなのかも不明だが、そのことについてできるだけ言葉を尽くしていきたいと思う。
 当たり前のことだが、通常「演劇」の「舞台」はその場その時の今この瞬間何かが行われていくわけだから、全く同じものが寸分の狂いもなく再演されるということは、その表現の性質上あり得ない。ではここでいう観劇体験が枝分かれするとはどういうことか。それを観客の側に返して、例えば入場して前の方の席に座るか、後ろの方の席に座るかといった単純な問題を言いたいのではない。言いたいのではないが、そんな単純でくだらない問題をも『本人たち』は問題化してしまう。入場して席に座ろうとすると、入場のタイミングによっては既に、開演前の舞台上で古賀友樹が喋っている。〈どうぞお好きな席に 前の席の方がよりスリリングな体験が 後ろの席の方はゆったりと でもお尻は痛いかも 全席〉そのように言葉が敷かれた空間で座席を選択する行為はそれぞれの観客に、その言葉の規定を受容したことを、その選択を選択したことを意識させる。そしてもしも前の席に座るならば後ろの席のゆったりさを思うのかもしれない。
 こうした言葉による操作は、もっとわかりやすい形で繰り返される。例えば、古賀友樹はじゃんけんの勝敗で自らのマスクの着脱を決めると言い、実際に任意の観客とじゃんけんをする。勝敗は決まり、マスクの着脱が決まり、マスクを外した古賀/マスクを外せなかった古賀に分岐することが、どちらかの結果になったことが、どちらをも選ぶことは叶わなかったことが、観客に意識されあるいは他方を想像させる。ここに「念力暗転」を例示してもいい。丁寧に説明されたルールに則って観客が目を瞑る/瞑らないはそれぞれの観客に左右されるが、促された以上どちらかの結果には確実に至ってしまうわけだ。第一部『共有するビヘイビア』はその戯曲内容を説明するように言葉を使用し、物語的に単一に結ばれることのないいくつもの断片を、時にそれは露骨な嘘話も交えながら、観客に向けて猛列な勢いで投げかけて、その言葉の意味内容を観客に強く意識させ、想像させていた。想像のために言葉が用意されている。そしてこの規則は『本人たち』全体に敷衍する。そうした時、第二部『また会いましょう』はその実践の意味を強くする。
 渚まな美と西井裕美は、時に、同時に発話し、言葉はリズミカルにもつれあい心地よく耳に響くが、観客にはその全ての意味内容を聞き取ることは不可能である。戯曲を見ると「分岐α」「分岐β」「分岐γ」「分岐δ」と全部で4つのセクションにおいてその同時発話が行われる。戯曲には「合流」のセクションも記載されており、そこで二人は通常の対話のように言葉を互いに交わすが、内容が一致し話が噛み合う瞬間はほとんどない。つまり戯曲上の「分岐」が指し示すのは、彼女たち自身が分岐しているために別の世界線で別の話をしてしまっている、というような意味のことではない。そういった意味では彼女たちは既に分岐している。そこで分岐するのはむしろ観客の体験である。観客は同時発音の中で自らが聞き取れた単語を、話の筋を、部分的に聞き取り想像を働かせる。ここで重要なのは単一な一筋の物語がないことの方ではなく、複数の聞き取れた/聞き取れなかった物語がそこに生起し続け均一に並置されることである。そうして暗示されていたのはその可変的な舞台空間、観客の選択によって、どの言葉に注意を向けるかという他ならぬその観客自身の選択によって、言葉自体の意味内容が同一の進行のもと過剰なまでに枝分かれしていくということではなかっただろうか。「演劇」は「ここにないものをあることにする」ある種のゲーム的な側面を持つが、ここに分岐が生まれ、単一の舞台が無数に存在することになる。
 ステートメントによれば〈二人は同一人物として扱われる〉らしい。ならば、二人の口から語られる個人史のようなものはある一人の女性を示すことになるが、上演の進行と共に言葉によって仮想される姿形は造形されると同時に部分的な欠落を生じさせてしまう。しかしながらそのまま個人史のようなものは重ねられ、言葉による共有の部分的な失敗はその層を厚くして上演は引き伸ばされる。とある人物のことが語られていながらその人物のことをうまく想像できないような事態に陥る。ステートメントに書かれる〈未然の上演〉とはこの状態のことを指すのではないか。女性の結婚の話や、街コンの話が、ある特定の個人の話という意味合いを超えて、そうした未来を志向する女性一般の言葉へとすり変わる。個人的な話でありながらどこまでも実体のない個人の話が同時に響くその場で、連続性のない想像はその言葉の社会的な要素を拠り所とし始めて、また新たな像を思い描く。
 こうして『本人たち』は、いくつもの分岐、いくつもの言葉を残して静かに終わった。終演のアナウンスは行われず、舞台上には向かいあって目を瞑るN1とN2が残されている。〈本人〉は見事に攪拌され、複数化し、それぞれの言葉を抱えて去っていく。そうしてその1つの、いや、いくつかの記憶を使ってその1つの側面を書いてみた、と言おうか。

高橋慧丞 Keisuke Takahashi Twitter
映画美学校言語表現コース ことばの学校 第一期生。スペースノットブランク「クリエーションを前提としたクリエーションを実践しないチーム」のメンバーであることとは全く関係なく勝手に今回のオープンコールに書類を送りつけ執筆の機会をいただきました。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

神田茉莉乃:見ること、見られること

人と対面で会った時、いつも思いっきり面食らった気持ちになってしまう。
今から出会うと知ってその場に行く。でも、実際に対面するとそれらは夢の中、現実ではない場所、想像の中で行われていた質の抜けたものだったことに気づく。駅で手を振りながら近づく時、遠くから相手を認識した時、声をかけられて振り向いた時、相手を見て、夢から急激に浮き上がってようやく現実に立ち戻る。会いたくなかった訳ではないけれど、ただ驚く。現実は思ったよりもずっとちゃんとした形をしている。
上演が始まった時、私は本当に居心地が良くないな、と思っていた。
話しかけられている? 自分ではない、他の客に。いや、やっぱり自分に話かけられている…。
上演を見ることは人と対面することに似ていると思った。ある程度こうだろうとかそう予想しているせいかもしれないし、モニター越しに見るのとは違い、状況に自分が巻き込まれているかのような近さや現実感があるから、かもしれない。
それにしてもこの上演の最初は真に居心地が悪かった。なぜならこの舞台の内側に気づいたら入れられていたからだ。

第1部、舞台上には男性の演者が1人。ディズニーランドでキャストが説明する時のように、はつらつといかにも楽しげな態度で話はじめる。「嘘です」「バベルの塔ってどこにできたんですか」「地球の真ん中に」「STスポットスポット」「穴を掘ってちょうどその上に」「本当にあるんです あれ」大きくはっきり分かりやすく、わざとらしく無機質。詐欺師に訳のわからない商品を薦められているようだった。ひとつの文章がその場で直接的に意味を発生させているとは言えず、架空と実在も混在している。話題もするすると逃げて変わる。言葉だけが点滅してチカチカする。アニメ『エヴァンゲリオン』のタイトル様式のように、黒い背景に白字太字の明朝体、次々現れては端から消えていく。礫が降り注ぐような状況に混乱する。意味を置き去りにし、別の意味を見せようとしているのだろうか。そもそもモールス信号のように全く別の部分から伝えようとしているのか。言葉を追いかけるのに必死でその場に意味があるのか、わからなかった。
人が何かを喋る様はこんな感じなのだろうと思った。正しい文章の形式を書き出すわけでもなく、考えて喋るのはむずかしい。けれど、日常で行われる他愛もない話にしっかりした文体は必要ない。英語が喋れない人が単語のみを喋るみたいにいっそ話していたりする。言葉を理解するならその程度でもわかる、でも伝えることはできない。いつも言葉だけが浮き上がる。そういう状況では言葉だけが意味を補ってしまう。質を置き去りに、おざなりにして、ひとつのものを勝手に築き上げる。それを思うと、この人と対面し一方的に話されているこの場にはそういう空虚が浮かんでいるように思えた。
話しかけられているような、でもやはり話しかけられていないし、演者は役をやっている。でも、この舞台の外側にいるんだとそう思うには、対面をしているという強い状況から離れることができない。この関係性をどう捉えていいのか、全然わからない。介入されそうな怖さと力強くこじ開けられる時の気持ちよさ、諸刃の剣を握れと言われている。

「念力暗転って知ってますか」と問いかけられる。知らない。粘膜暗転? 奇妙な話のはずなのに普通のことのように話してくる。
演者は超能力者のように手のひらを徐々に下げていく。空中で何か重いものを下に押し下げようとする動作で、ぐっと力をこめながら手を下げていく。私たちは、客はそれに合わせて目を閉じる。最後は演者が指パッチンをして、目を開けるというルールだ。
そうすると、ここがどんな場所だろうと暗闇に、そして別の場所のことを目の裏で考えればどこにだって行ける、どんな場所にもできるということらしい。念力暗転が成功すると今度は指示的に話が始まって、瞼の裏を見ながら演者の喋るストーリーに身を沈めていく。操られている、ともいう。
「駅のホームでした」「年老いた「自分」と出会いました」「割とライトめな会話をメインで話してた」
自分が知っている記憶から場所を想像して、状況を埋めていって、感情を浸していく。自分という人間で補いながら念力暗転をする。本当だったら舞台からは隔離されていたはずだった私は今どこにいるのだろうか。この場所、空間や状況や感情、次元は演者が喋るこの言葉と私の中身とで作られていく。指示されて瞼を閉じることに、ものすごい抵抗を感じた。私に言ってない、私は舞台上の人じゃないからだ。私ではない。でも瞼を閉じておくと、誰に言っていようが、言ってなかろうがどうでも良くなった。このストーリーの中では自由に動けない。感情も操作されてる。これは私の話ではない。誰か別の人の話だった。

第2部は女性が2人。
「念力暗転 知ってますか」
それを口火にして、それぞれが別の方向へ話をはじめる。
「知ってるのは 舞台上に1人」「さっき ねんりきって」「同じですかね」「この眼球にまぶたのところ」「世代じゃないかもしれないけど かめはめ波」「最初は後者だと思ってたんですね」つらつらと二重合唱。
「ね」「そう」「そうですそうです」気の無い相槌が間に挟まっていて成り立っている風だ。全然成り立ってはいないけれど。ある時、急に会話が噛み合い知り合いかのような状態に戻るが、どこかですれ違ってまた離れていってしまう。2人はジリジリとお互いを注意深く避けながら間を行き来し、目配せをする。舞台上にある客側から完全に背を向けたモニターを3人目の人のように扱って、相手と交互に目配せをしたりしている。ただ噛み合ってないのか、単純にすごく険悪な関係なのか、全然違うグループの井戸端会議がごく近い場所で行われていたのか、そういう状態が交差して雰囲気が少しずつ変化していく。相手に目配せをしては無視して自分の話をし続ける。もし友人だったとしたら一方的すぎるコミュニケーションだ。2人の間に見えない人間が挟まっていて、話題をどこかで捻じ曲げたり切ったりまた繋げたりしている役を担っているようだった。

「立って 音楽をこの部屋に流してほしい」
感情的なものからは遠いと言っていいのか、演者がやっている役が誰なのか、それは見ている側からは知る由もないのだけれど、ここにくるまでずっと、コミュニケーションは対外的で説明する話す歩くというそういう動作がメインだった。その中で大きく声を張り上げる。だから他と異なる状態が気になった。白けた悲しげなアコーディオンの音がヒョロヒョロと部屋全体に鳴った。
「違う ちょっと違う ちょっとたぶん違う」
音楽が終わると落胆し魂が抜けたように後退り座り込んでしまう。
そんな相手を気遣いながら、隣に腰を下ろす。様子を伺い、なるべく明るくしようと努めるように声をかける。
「だけで大丈夫です」

大抵の言葉には共通する認識とか意識とか、見えない共通項とか、規則とかそういう複雑で余分なものが混ぜ込まれている。話そのものの意味を見えなくするほどに。嘘ではない、けれど本当でもない。だから違うものが前に出始めて、言葉を仕舞い込んでほしいと思う。仕舞ってしまってから、違うところから出したいと思う。喋る話は嘘、表現するための借り物、その際に犠牲になったものを炙り出してあげたかった。より良い表現をと饒舌に、言えることがなくなってしまい黙り込む、嘘を平気で表現する、悲劇めいて。対話も対面も意味がない。あるとしたら、もっと別の場所にある。その場所を力一杯開けようとしている。自分自身のも、人のも。これを握っていると血が滲んで痛い。けれど手に食い込むと初めて握っているものの形がわかるようなそんなものだった。

見るということは見られているということ。見る側も見られる側も対等で、境界があろうが、何者であろうが、公平だ。
本人たちという演劇は、次元のことを言っているようにも、ごく繊細な会話の、言葉のことを言っているようにも、舞台とは、上演とはと言っているようにも思えた。
客側から背を向けられたモニターも、壁に張り付いた2つの穴をつなげている演者のみが通ることのできる通路も、客席との間に横たわる細長い花道のような舞台も、全部見ている側からは次元の違う存在だ。夢から覚めたように現実を見る。でも現実を見るまではいつまでも自分という次元に仕舞われたままのものだ。眼前に晒された本物、現実は思ったよりもずっとちゃんとした形をしている。自分自身が把握できる訳がなかった、手に負えないのだとようやく気づく。それを無理やり決めてしまうことも、決めずに置いておくことも選ぶ権利は公平にある。
何かを発芽させようとしている。
見ている側も、このまま進めばこの舞台と客席とその間に必ず出現するはずの何かを目を凝らして見ようと焦がれているように思えた。
そこで上演は終わった。最後の部分は自分で決めないといけないようだ。

神田茉莉乃 Marino Kanda Instagram
1995年横浜生まれ
2015年上矢部高校 美術陶芸コース 卒業
2018年武蔵野美術大学 建築学科 卒業
2023年東京藝術大学 美術研究科 彫刻コース 卒業
アーティスト。
粘土による造形からはじめ、建築、彫刻を学ぶ。距離や時間や視覚などを内包する空間に対しての自身の思想を作品にする。主に塑像、映像、図面などを使用したインスタレーションの制作をする。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

コロナ禍の芸術表現において、観客、鑑賞者と作品の関係性を築くバランスが著しく変化したと私は感じている。
特に演劇表現について、観客と俳優との共犯関係、その結び方は複雑性を帯びた。
俳優自身が受け取る観客の情報はマスクによって覆われている。というかある意味これから、自分たちの目の前でつばきを飛ばして俳優が発語するという緊張感で、開演前の客席は心なしか遠く、ひんやりとした雰囲気に変わった。小劇場であればあるほど、その物理的距離がセンシティヴな問題になる。
その点で今回上演された「本人たち」という作品は、その関係性の不自由さ、危うさを逆手にとってplayする実験のような手つきが私にとってとても刺激的な時間であった。
そしてその実験のタイトルが「本人たち」であることにも、なんというか同じ演劇を創作している人間として、とてもスリリングなタイトルだと膝を打った。

正直「批評」を書いたことがないので、演劇創作をしている人間として、自分の悩める問題や課題と照らし合わせて作品を探るような様子になって恐縮だが、それが私にとって一番素直に言葉を連ねることができそうだと思ったので、書いてみている。
私ごとだが、この頃舞台上で発語する言葉について、「伝える」言葉について、答えの出ない問いが蠢いている。これは世に言う「リアリズム」とはなんぞやという話にもなってくる。
この点において今回の作品は言葉を「意味」として伝えることをある意味放棄させる、「言葉」そのものの表現は意味がなく、言葉を発している人物の状態とその空間を観客が観察するという時間が多く流れた。これが非常に現実的で、観客と共犯関係を結ぶような匂いを帯びている。ある種のインスタレーション的手つきである。
この空気感は私にとってとても羨ましく、魅力的な時間であった。

私は普段ストーリーテリングが比較的はっきりとした戯曲を扱う演出者で、言葉を自ら紡がない。
なのである種戯曲の奴隷であり、「言葉」の扱いについては作家の意図を汲むべく、四方八方から観察して撫で回し、そこで何が起こっているのか明確にお客さまに提示するという方法をとっている。
しかしながら、それが果たして面白いのか、と言われると、特に観客論という観点で考えるととても脆弱な方法かもしれない、と思うことが最近ままある。
スペースノットブランクの作品を観るのは大変恥ずかしい話なのだが、初めてだった。もちろんお名前や周りの評も聞いていて、とても興味があった。何より、テキスト、空間、俳優、各媒体、そして観客の関係性を研究者のごとく追求している印象があった。
まず私は数年間その関係性について疑ったり、分析することをしてこなかった時期がある。往々にして、「言葉」は俳優が表現する音であり、その意味を明瞭に伝える、色合いを伝えることに尽力すべきだと思う時期があったのである。
この点において、自分たちが所属している「新劇劇団」をなかばディスることになるが(ただ我が集団の方法論が一概に悪いとは思わないし、良い面ももちろん大いにある)まず「言葉」を疑うということをあまりしてこなかった。そして何が起こっているかということを「表現」することがある「リアリズム」であると考えるところがあった。
これはとても分かりやすいし、なんというかとても明瞭だ。安心するというか、安全。
ただ数年前から私は、これじゃあ絶対に立ち行かないのではないかという確信を得るようになる。
そこで今回の「本人たち」である。テキストを見ると、この言葉たちの羅列は前後の意味を成しているようでいて成していない。成していないようでいて成している。言葉たち自体がお互いの言葉を疑っているというか、信じていないというか、拮抗している。
そして上演を見ると、発語している俳優はその言葉を割り当てられていることにどうやら自覚的である。言葉と俳優との間に距離がある。第一部は一人の俳優が30人強の観客と「見る」「見られる」という共犯関係を結ぶが、第二部に関しては俳優が二人になることでより複雑性を帯びる。
俳優がダイアローグをラリーしながら(とはいえこのダイアローグも意味は重要視されていない。関係性に変化がないという訳ではないけれど著しく変わることもない)時折観客に目線を送る。
観客はそこかしこで発語されるワードをすくい取って、彼らのパーソナルな履歴を勝手に想像する。しかしやがてそれさえも嘘かもしれないというか、あてがわれた言葉に過ぎないと思えてくる。
そうなってくるとやがて、この空間のサイズに立っている俳優そのものの質量というか、存在を観察するようになる。言葉はある記号として観客と空間を結ぶ時間のようなものになるというか、それが妙に「今」の体感として観客と共鳴し合う感覚を味わったのである。
これを「リアリズム」と呼ぶかどうかは別として(私はこの頃演劇表現において「リアリズム」という言葉にものすごい警戒心を抱いている)、妙に現実感がある行為として私にガシガシ響いた。ようはすこぶるスリリングで興奮する瞬間だったのである。

先ほど、自分が信じてきた方法論では絶対立ち行かないのでは、と言った。
そう考えたきっかけとして思い出すのが、「モノローグ」を話すある俳優のいでたちである。その俳優は観客に話しかけているのだが、ある時、「いや、この人は本当に観客には話しかけてはいない」と思ったのだった。確かに言葉は明瞭だし、意味は伝わっている「ような気がする」。でも、何にもかかわりがない。観客に対して閉じているように感じたのだ。
確か翻訳劇を稽古している時で、その俳優の役は言わずもがな外国人なのだが、行き詰まった私は、一回街頭に立って見ず知らずの街ゆく人たちにそのモノローグを話してきてみてくれないか、と言った。今から思うとなんて横暴な稽古だ、と思うが(そしてそれはなかなか難しいよということで、実際は行われなかったのだが)その時の私は観客と俳優の関係について、そして扱う言葉について頭を抱えて悩んでいた。そしてその悩みはここに来て一層複雑性を帯び始めた。
コロナ禍で、観客との関係が著しく変わった。観客はあるリスクを背負うことになった。
商業演劇を創作するようになって、作品の空間デザインにかかわらず、地方公演によって著しく規模が、劇場空間が変わるようになった。
必ずしも作品に興味がある客層ではない観客席に向かって、自分の作品を上演するには。

要はもっと「かかわらなくてはいけない」ということを考えている、のだと思う。
それは俳優と観客の関係性だけではない。流れる音、当てられる照明、映し出される映像とも、そして言わずもがな俳優たちとの間でも、である。
そうして光栄ながらこのような依頼をいただき「本人たち」を観劇した。
観客の前で俳優の古賀さんが時折自意識と戦いながらも「かかわろうとしている」いでたちに(そしてそれは時間を経るにつれて強度を増していったように思う。観客もあるルールを心得たのだ)ある生々しさを感じて、ひどく共鳴した瞬間が多々あった。
そのルールを心得た観客たちはそのまま第二部に突入し、なかばその共犯関係を楽しむようになってきていたように感じる。
言葉はすでに解体され、観客と俳優との間を自在に行き来していた。
実験が成功していたかどうかはともかく、それはあまり重要ではなく、でも確かに化学反応が頻繁に起きていてとても奇妙で豊かな時間だった。
そして帰り道、なんとなく自分が抱えている悩みについて答えは出なくとも、新しい風が吹いたのである。

全てを言葉にできたかどうかは眉唾ものだが、そしてこれが批評という様式をなしているかは疑わしいが、とても豊かな体験だった。このような経験を頂けてとても感謝しているし、同じ、作品を創作する者として勝手に意見交換ができた気になっている。勝手に。
素敵な機会をありがとうございました。

稲葉賀恵 Kae Inaba WebTwitterInstagram
演出家。文学座所属。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒。
在学時より映像作品などの創作をスタート。2008年文学座入所。2013年座員に昇格後、4月に文学座アトリエの会『十字軍』にて初演出し、高い評価を得る。
主な演出作品は、『解体されゆくアントニンレーモンド建築旧体育館の話』(15年 シアタートラムネクストジェネレーション)、『誤解』(18年 新国立劇場)、『ブルーストッキングの女たち』(19年 兵庫県立ピッコロ劇団)、『墓場なき死者』『母 MATKA』(共に21年 オフィスコットーネ)、『熱海殺人事件』(21年 文学座アトリエの会)など。近年の作品に『Equal-イコール-』(unrato)、『サロメ奇譚』(梅田芸術劇場)、『加担者』(オフィスコットーネ)、『私の一ヶ月』(新国立劇場)『幽霊はここにいる』(PARCO劇場)など。第30回読売演劇大賞優秀演出家賞受賞。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること

 スペースノットブランク(以下、スペノ)の作品が持つユニークなリアリズムについて、いつか長めに書きたいな、とぼんやり考えていた。僕は「批評」と名のついた文章を書いたことがないし、また今後もそのつもりはない。別に毛嫌いしている訳ではなく、「批評しない人」という立場を目下のところ貫いておきたいというのが率直な理由だ。そんな小説家が他人の芸術作品について意見を書くとなれば、必然的に「感想文」になり、発表するとなれば、専ら文芸誌のエッセイ欄となる訳である。エッセイの依頼があれば(そしてテーマの設定が自由であれば)、最近鑑賞した映画などの感想を書くことが多い。
 僕は何かを批評したい訳ではない。貶したい訳でも、褒めたい訳でもない。対象を自由に理解し、大いに誤解し、真意みたいなものをことごとく裏切り、それを味わう、という行為としての「執筆」がしたい。スペノについてもなんとなく、そうしたいなと思っていた。彼らの作品の概要を、観たことのない人に向かって的確に説明することが、仮に可能だとして、しかしそれがしたい訳ではない。僕が書きたいのは、レビューでも解説でも批評でもない。おそらくエッセイなのだろうけれど、「対象を自由に理解し、大いに誤解し、真意みたいなものをことごとく裏切りつつ、それを味わう」という作業内容に着目してみれば、むしろ小説が一番近い気がする。
 ただし本記事は、『本人たち』(なんていう最高なタイトルだ)と言う彼らの作品のレビューなので、そのように執筆される。

 乱暴にぶっちゃけてしまおう。失礼を承知であえて言うと、スペノを鑑賞して何に興奮するか、何に興味が湧くかと言えば、スペノの表現そのものもそうだが、しかしそれよりもむしろ、それを体験してしまった自分自身に対してなのだ。今後の自分には、どのような表現の可能性が広がっているのだろう、と言う自惚れた好奇心を抱く。作品の鑑賞により僕がこの感覚を抱く作家は、スペノ以外に実はいないのだ。それがいつの頃からかよく覚えていない。初めに彼らの舞台を観た時は、ノり方を掴むのに確かに苦労した。が、スペノ自身の意図みたいなものをこちらから探ろうとするのを断念してから、ある時スペノはとことん「ダンス」なんだと理解し、スッと腑に落ちた。楽しみ方がわかった。この楽しみ方で楽しむ上で、他の人の感想や考察は特に必要ない。スペノが自己言及したアナウンスでさえ、一観客たる僕の解釈と、その価値は相違なくなる。
 今回の観劇でもそのように感じた。スペノは言葉を「振動するもの」として扱っている。言葉だけではなく、舞台を構成するあらゆるものが「振動するもの」として扱われている。

 周知の通り、宇宙は振動するひもで出来上がっている可能性が高い。とても小さな振動する無数のひもが、それぞれその振動の周期などのバリエーションによって、様々な種類の素粒子に姿を変え、存在していると考えられている。我々と身の回りのものを構成する物質、電子も光子もクオークも、ほどいてしまえば全く同一のひもでしかない。
 舞台上に上げる言葉にしろ、身体にしろ、光にしろ、スペノは一旦それぞれの属性を「振動するもの」にまで解体して、彼らなりに配置し直す。彼らの作品の解釈の困難さは、ここに起因すると思われる。言葉にしろ、身体にしろ、光にしろ、舞台上(あるいは舞台外)ではまず、ただそこで、振動しているだけなのだ。振動、即ちスペノはとことん「ダンス」なのだと悟った所以だ。
 例えば登場人物(たち)のセリフ(があった場合)、彼らはしばしば饒舌で、しかし誰に向かって発話しているのかなかなかわからない。今回の『本人たち』も、第一部、第二部と併せて三人の人物にセリフが当てがわれていた。いや、本当にセリフは「当てがわれていた」のだろうか? まるで複数の人物のセリフをかき混ぜたようだ。本作の戯曲の表紙に記されている文言によると、彼らは「リアリズムを攪拌」することを「探究」してきたと言う。
 僕は小説家なので、小説のことを考える。小説は言葉を使って構築する芸術だ。従ってどうしたって言葉にいちいち付随する「意味」という派手な装飾が、作品に多量に散りばめられてしまう。小説に組み込まれた言葉はどれをピックアップしてみても、必ず作品の中で有機的に、もしくは御しがたく機能している。どんな形であれ、いつも図々しく意味を発生する。すると小説は、意味がうじゃうじゃ詰め込まれているから、解釈のクイズ大会の様相を呈し、存在そのものが慌ただしい。
 舞台もまた言葉を駆使する。そしてスペノはどうやら、言葉をナレーションではない、なんらかの舞台装置として利用しているらしいことが僕にはわかってきた。ある特定のポイントに、特定の言葉をはめ込むのだが、一旦意味を置き去りにし、登場人物や光や時間と同じレイヤー上で拾い上げている。
 ただしここで言葉は、意味を完全に失うわけではない。置き去りにされるのは言葉が持参している古い方の意味だ。実際のところ、スペノ達の勝手気ままに付与した意味が振り回される。スペノの作品を解釈する目的で、作品内から言葉を掬い取っても、結果失敗しがちなのは、掬い上げた代物自体が持つ(僕らが知っている)意味が、作品全体の中で振る舞っている機能を象徴してくれないからだ。
 それでもなんとなく全体を観られてしまうところが、スペノのセンスのすごいところでもある。もちろんそれはそうなのだけれど、舞台という形式の長所による「ズル」な部分もあるのではないだろうか。何しろ彼らは、音声を扱える。一次元情報の小説では太刀打ち出来ない「幅」があるのは間違いない。

 そうか。僕は自作を書く上で、言葉を「振動するもの」レベルまで解体したことがこれまで無かった。そこまでして小説を書きたいくらいの小説に対する興味が今の僕には無いだけなのかもしれないけれど、そのうち着手するのだろう。
 振動を楽しめ! その波長、周波数、エネルギーを味わえ!
 現実世界と呼ばれる僕らの生きる空間において、言葉はまず機能する以前に振動しているということだ。普段、目や耳に入ってくる情報のうち、ほとんどのものが個人には関係が無い。言葉こそまさにそうで、テキストが大量に生産され、聞く人、読む人のいない場所に垂れ流されている。大切なのはそこではなく、それらがまずはとにかく振動しているという事実だ。

 振動を楽しめ! その波長、周波数、エネルギーを味わえ!
 スペノの舞台はまるでそう主張しているかのようだ。なんでこんな根本的なことを僕は忘れていたのだろう、と彼らの舞台を観るたびに毎回思う。毎回思っているということは根本的に響いていないということなのかもしれないが。僕もいつか、言葉の持つ響き(振動)に勝手に意味をつけて、誰にも分からない話(振動)をいつか書いてみたい。それこそまさに、言葉をダンス(振動)させたい。

 ところで「念力暗転」だけがしかし、なぜか本作で文字通りの意味を主張していて怪しい。本作で登場する「謎の」単語だ。スペノはいつも、セリフのある作品においては、作品の軸となりうる印象深い(造語的な)単語を忍ばせる傾向がある気がする。
 舞台とは世界を装うものだと、門外漢の僕は考えている。舞台上を世界と見立て、演者を人間と見立て、時間を時間と見立てる。そのために、作り手はそれぞれの位置にそれっぽいものを配置する。宇宙の全てが振動するものだとしたら、舞台の作り手に可能な行為の究極は、舞台上の構成物の解体と再構築(即ちひも固有の振動パターンの自由自在な改変)となる。
 小説ももしかしたら、この手法で作れたりしないだろうか。可変振動小説。

鴻池留衣 Rui Kounoike Twitter
小説家。1987年生まれ。著書に『ナイス・エイジ』(新潮社)、『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』(新潮社)がある。

本人たち

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演

「伝える」とはなんなのか?

山本浩貴(以下、山本):スペースノットブランクの作品はこれまでかなりの数が発表されてきているけれど、ひどく大まかに分けるなら3つほどの方向性が挙げられると思う。すなわち、①(肉体の運動を見せることを重視した)ダンス的方向性、②(物語性のある戯曲を自分らで用意したり、あるいは外部の書き手によるそれを採用したりすることで実現する)演劇的方向性、③(観客とのあいだで生じる関係性を実験的に操作していく)インスタレーション的方向性。これらがそれぞれの作品で、いずれかに比重を置いたり、絡まり合ったりしつつ展開されていくところがある。
 今回、hさんとふたりで「プレビュー上演」を見た『本人たち』は、この3つのうち③の傾向の強い作品のひとつだと思う。軽く背景に触れておけば、第一部「共有するビヘイビア」は2018年と2019年に会話とダンスから成る作品として発表され、さらに2021年に『クローズド・サークル』という会話と映像操作中心の作品へと発展させられたのち、今回に至る。第二部「また会いましょう」は2022年に展示作品として発表されたのち、今回に至る。そして総体としては、2020年にスペノがコロナ禍を受けて始めたプロジェクト『本人たち』の延長線上にあるものとして組み上げられているとされる。
 その上で、今回の『本人たち』は、まだ本番がどうなるかわからないけれど、少なくともプレビュー上演だけで言えば、③インスタレーション的方向性として作られたスペノ作品のなかでも特に方法論が明確で、完成度の高いものになりつつあるように感じられた。作品の制作過程で収録された会話や私的発話を記録、編集し、戯曲化して舞台上の肉体に発話させるやり方も、これまで以上に発展・洗練されていたし──どうでもいいような細部の話や身振りがほとんどすべてゆるやかに必然的な意味を持つような構成が取られていたし──、発話方法や「念力暗転」という技(舞台上の肉体が観客に向けて瞼をゆっくり閉じるように促していく、結果、照明などが点いたまま舞台が暗転する)に代表されるような、観客との関係性の設計と操作に関しても、ことごとくクリティカルなものとして響くように仕組まれていたと思う。
 なによりそれらのもたらす完成度の高さをめぐる認識が、作品の描く情動や主題や物語の厚みといったかたちをとらず、徹底して、作品全体を通じて提示されるところの方法論の明確さと強さ、そのシンプルさに由来しているようであることに、驚かされるところがあった。なかなか伝わりづらい言い方になっちゃうけれど、この作品のなかで語られる内容も、形式も、ひとつひとつはぺらぺらなまま、それでいていずれもが喩的な意味合いを託されるようにうまく構成されていて、結果としてあらゆる雑多な部分がたったひとつのシンプルな問い──「上演とは何か」──に十全に寄与し検証するものとなっている。その演出・構成の精緻さにおののくというようなところがあった、という感じかな。
 hさんは今回、スペノの作品は初めて見たと思うけれど、どうだった?

h:「伝える」ってなんだろう、と思って見てた。第一部の古賀友樹さんの演技に特徴的だけれど、ものすごく観客の側を巻き込んで、いろいろなことを伝えてくる。台詞のなかでも──プレビュー上演時点で使っていた戯曲のデータをもらったからそこから引用すると──《何を伝えようかなって考えてる顔でした》《現在の状況についてお伝えさせてください》とか、「念力暗転」の実演のときに《この素晴らしい発明をした人物から「私」はその技を伝授され 今「あなた」に伝えています》って言うとか、いろんな箇所で「伝える」ことについて直接的に言及していた。
 あと、これまで発表されてきた「共有するビヘイビア」を振り返るみたいなところでも、はっきり言われてたよね。《根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通していると思います ダンスの工程とか なぜこのダンスが生まれたか 紹介する 説明とか 紹介っていうのがこの共有するbehaviorを説明する上で正しい伝え方だと思っていて 今説明の説明をしてる だから何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」このダンスを伝えます このダンスの背景を伝えます みたいな》って。ここは山本くんがいま言っていた、ひとつひとつの要素はぺらぺらなまま単一のシンプルな問いに収斂していく、という話に自己言及的にふれているところでもある。

山本:そうそう。《何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」》が重要なんだ、ってね。話される個々の話題やその主体の個人的情報に重きが置かれるのではなく、それらが立ち上げうるところの「伝える」関係性こそが問題なんだ、と。

h:ただ、その上で、この作品が「伝える」ことを絶望的なものとして捉えているのか、それとも希望として捉えているのか、まだちょっとわかってない。そこが気になる。
 古賀さんのあの、ディズニーランドのキャストみたいな喋り方って、なんなんだろう。すごい語りかけてくるんだよね。最初から最後まで。

山本:本編はもちろん、開場後、上演の始まる前の時間にも、古賀さんがひとり舞台の上で観客に向けてめちゃくちゃ喋りかけてくる(笑)。そしてそのまま殆どシームレスに上演が始まり、第一部が終わったあと、第二部までの休憩時間にも延々と話している。

h:終わったあと質問すればよかったけれど、古賀さんはプレビュー上演のときのあの格好のまま、本番もやるのかな。

山本:すごいラフな格好だったよね。制作スタッフみたいというか。

h:喋り方も丁寧な感じで、いわゆる演劇上演前の事務連絡について話したりもする。もちろん俳優に前説を喋らせる演出ってよくあると思うんだけれど、それとも一線を画していた気がする。眼の前の俳優が観客である自分たちに語りかけてきているのか、それとも舞台上で完結しているのか、本当にわからなくなるというか……あなたは私に伝えたいの? それとも自分が練習してきたことをここでやりたいの? っていう、そこの境目がなくなる感じ。

山本:「あなた」って、古賀さんのこと?

h:そう。演劇って、もちろん観客に何かを伝えたくて上演するということもあると思うんだけれど、別にそのときも、観客を直接的に巻き込む必要は実はない。そこで完結しててもいいというか。俳優が観客に語りかけたりすることがあったとしても、実際には、俳優や劇は観客側から見られているだけ。俳優も観客側を本当には見ていない。こちらを見る演技をしているだけ。でもこの作品で古賀さんは、「ようこそ!」とか、ぼくはこうなんですよね、みたいなことを延々と言ってきたりするし、念力をかけてきたり、じゃんけんをしてきたりする(笑)。

山本:俳優が観客に視線を合わせてくるのはまだしも、じゃんけんをしかけてくるというのは、例えば無観客上演だと不可能なことだよね。観客側からの応答がないと成立しない。しかも、じゃんけんに勝つか負けるかが明確に舞台上で為される発話に影響を与えている、こちら側の行為が舞台上に干渉して進行を変えたということがはっきり知覚される。言い方を変えれば、いまここで見ている上演が、こちら次第でそうはならなかった可能性がすごく明確に意識されることになる。

h:その感じは、例えば第二部の「また会いましょう」ともまた全然違う。第二部では舞台と観客は一般的な演劇と同じく切れている感覚があるんだけれど、第一部はずっと前説のように、今日ここでやること、自分がいまやっていることを、こっち側にひたすら説明してくるし、観客側からの応答も迫られる。そういうあり方が、第二部にも響いてきて、作品全体として、やっぱり形式的にも内容的にも「伝える」ことが中心の問いになっていたのだと思う。第二部だって、ふたりの俳優のあいだでそれが交わされるという違いはあるけれど、自分を伝える喋り……つまり自己紹介や日記が軸になってたし。第一部を経たあとだとその受け取り方もけっこう変わる。

先取りされた発話と私という能動性

山本:第二部では、自己紹介や日記的に私的な日々を語る誰かの発話を記録して、それをもとに台詞を作っている部分が多くあったよね。日記や自己紹介する発話(それを記録したテクスト)って、それが日記や自己紹介だと知らされてなくてもそうだとわかる。そういう私的な成分を多く含んでいるというか、そのテクストの読み取りに際してそれを表現しているひとの私的な情報を、表現を受け取る側が仮構し適用していかなければならなくなるようなものとしてある。そしてそのようなテクストたちが、明らかに編集され、当人から引き剥がされた状態で発話されている。

h:それって、第二部だけじゃなくて第一部もそうだったのかな。

山本:第一部は比較的、自己紹介や日記をもとにした台詞は少なめだったと思うけれど、基本的な作り方は同じなんじゃないか。《現在は13時39分にこちらの音声を収録しております ここはスタジオでございます》とか《2月15日 収録してる 頭が動かない》みたいな台詞もあったよね。明らかに誰かが今こことは別のどこかで収録した音声(をもとにしたテクスト)を、目の前の古賀さんが平然と話している。もともとの発話が古賀さんによるものかどうかはわからないけれど(第二部では同じひとりの個人情報に由来するだろう話をふたりが共有して話すから、確実に自分とは別のひとの発話を再現していることがわかるわけだけれど)、重要なのは当人かどうか以前に、少なくともいまここで思考され自発的に発話された言葉ではないと認識できることだろう。
 これと関連して、自動音声の問題がある。第一部と第二部に共通する舞台美術として、観客席側からは何が映されているのか見えない角度で置かれた一台のディスプレイがある。その付近からは、時折、自動音声で作られただろう声が流れる。断言できないけれど、第一部でのそれは、今回の「共有するビヘイビア」のもととなった『クローズド・サークル』で古賀さんと出演していた鈴鹿通儀さんの声をもとにしたものだったんじゃないかと思う。そして古賀さんは、その声に命令されるように動きを変えたり、あるいはディスプレイに向き合ってうまく会話したりもする。
 ここがまたひとつポイントで……自動音声と会話する時点で、観客側からすれば、明らかにその発話は事前に用意され、会話しているふうに装われたものだと感じられる。もちろんわざわざそんなことをせずとも、演劇って、もともと先んじて用意されたテクストをそれを書いたひとではない別のひとが舞台上で発話することが、ジャンル的な基本、暗黙の了解とされている。その意味では、会話が事前に用意され、再現されているものであることになんら驚きはない(そもそもぼくらが見たプレビュー上演と概ね近いものを、この数日後の「本番」に他の人たちが見るとされていることからもそれは明らかだ)。ただ、この作品では、観客とのインタラクティブ性も含め、そのような基本、暗黙の了解そのものを上演の素材として用い、検証し、組み替えるようなギミックを大量に投入している。結果、舞台上の俳優における、ある種の自由意志や、能動的かつ即興的な発話をめぐる認識(不可能性)に、主題としての焦点があたるようになっている。
 台詞のなかでもそのことは明確に触れられる。例えば第一部で何度か繰り返される以下の台詞。《言葉の集大成が言葉 ことの始まり 言葉が発生した瞬間のこと それがいつ というのはとても簡単なことでして 今です 今この 瞬間 言葉が生まれました 嘘です 何かを説明するときというのが言葉が必要なときです》。いまここで言葉が生まれているのか、あるいはずっと前に先取りされていてそれをいま言わされているだけなのか。そこに《何かを説明する》こと、つまりは「伝える」ことの問題があるとはっきり語られている。
 ほかにも《話すことない》って台詞があったり、あとはSpotifyのシャッフル再生の話とかね(笑)。あれも一見するとただのばか話みたいなんだけど、自分が聞きたくて能動的に曲を選ぶのではなく、サービスの側から「あなたの聞きたい曲」が先取りされ、それを聞かされる──そういう事例のひとつだと考えられるわけだ。観客とのインタラクティブ性も、観客側からすれば、目を閉じさせられるとか、じゃんけんさせられるといった、行為の強いられ感として生じるものだろう。
 こうした先取りをめぐる問題は、「戯曲とは何か」という問いを用意しつつ、上演を見るとはどういう事態なのか、何かを発し伝えてこようとする肉体を見つめ受け取ろうとするとはどういう営みなのか、といった問いにまで直結していくものだと思う。眼の前の肉体が何かを表現しているとき、それがいまこの瞬間その肉体において思考され、私自身のものとして発せられたものなのか、そうでないのか。そのような受け取りをめぐる試行錯誤として「上演」はある……そしてその延長線上に「伝える」こともあるし、(このあとしっかり話すことになるだろうけれど)会話や上演を含めた「舞台」、場をめぐる想像力の問題もあるだろう。そうした見立てのもと生み出される方法論や技術を、今回は、それによって表現しうる物語の展開を試みるのではなく、方法論や技術そのものを純粋にプレゼンテーションしている、という気がした。
 もうすこし事例をあげれば……例えば字幕をめぐる話も台詞のなかにあったよね。《最近だと全てのセリフに字幕がついている 字幕をつけている 話している人が今から話すことを既に意識してその字幕に合わせて喋る 喋ることに字幕を合わせる どっちが正しいんだろう てな具合にリンクして喋る》。『クローズド・サークル』ではディスプレイに表示された字幕テキストを俳優が見ながら発話しては、リモコンで画面を操作して次のテキストに進む、というようなことをやっていたけれど、これもまさに発話の先取りの問題だよね。俳優の発話の背後に、事前に用意されたテクストが存在していることが隠されていない。今ここで即興的に発話されたものではないことが明確に示されつつ上演が進んでいく。
 今回のプレビュー上演を考えるときさらに興味深いのが、俳優のひとたちがみんな印刷された戯曲を手に持って上演していたことだよね。おそらくはまだ台詞が固まりきっていないからだとは思いつつも、もしかしたら本番でもそうなのかも、と思ったりしながら見てた。

h:そうそう。特に第一部はそうかもと感じた。

山本:俳優の肉体や思考に表現の由来があるのではなく、手に持っているテキストの側にその由来がある。俳優は手にもったテキストに喋らせられているだけである、それこそ自動音声のように……。個人的に思い出すのは、ぼくらとも関係の深い、写真家/舞台作家の三野新さんが中心になって2018年に上演された「アフターフィルム:performance」。三野さんの同名映像作品をもとにした上演で、スペノのふたりも出演していたんだけど──確かそれが、ぼくがスペノのふたりを目撃した最初の機会であり、またその上演のアフタートークが、三野さんから写真集『クバへ/クバから』の制作企画を持ちかけられた瞬間でもあったわけなのだけれど──、そこでものすごく印象的だったのが、俳優がスマホをそれぞれもって台詞を発話していたことだった。三野さん由来のアイデアなのか、それともスペノからのアイデアなのかはわからない。ただ、あまりに簡単な(いわゆるリーディング公演みたいな)そのギミックだけで、発話をめぐる自由意志や由来がスマホの画面の側に奪われた肉体が演出できていたことに驚いたのを覚えてる。

h:なるほど。今回の本番はどうなるんだろう。手に持ったまま出るのかな。

山本:少なくとも、本番では英語字幕を出すらしいね。手に何も持っていなかったとしても、かなり近い状態にはなる気がする。

そこにないものを想像させられる

h:戯曲の話でもうひとつ気になったのが、台詞がいろんなところでもじられてる、ってことだった。例えば上演前に古賀さんが話しているとき、「手をクロジにして」って言うんだけど、なにそれ、と。「くの字」のことなのかなって身振りから想像して聞いてたんだけど、イントネーションも含めてよくわからなくて。このひとどこ出身なんだろうとか思ってた(笑)。ほかにも、もっと細かな言い間違いとか、噛んでるみたいな発話がたくさんあった。会場である「STスポット」について変な話が展開されるときにも、「SDスポット」とか「SPスポット」とかって言っていたし。
 いったいなんだったんだろうと思って、プレビュー上演が終わった後、「なんでも質問していいですよ」って空気だったから質問したんだけど、戯曲を自動文字起こしで作ってるから細かな間違いがあるんだ、そのほうがもともとの音を残せていると考えているんだ、って回答だったんだよね。
 そのときは、へーなるほどと思ったんだけど、いま、送ってもらった戯曲を見ると、こんなに間違えてるの!? って驚いた。

山本:文章で読むと本当にめちゃくちゃだよね(笑)。

h:「クロジ」は《黒字》だし、たしか上演では「アイカサ」って聞こえていたところも、戯曲では《AI傘》になってたり。でも発話されたものを聞いたときには、ふつうに理解して聞けてしまっていた。もちろん細部までぜんぶ言ってることが理解できたって感覚はなかったけれど──意味分かんないこと言ってるなーって感じだったけど(笑)──それでも、ふつうの言葉を話しているようには感じていた。それが、戯曲だけを見ると、けっこう理解できない。ただ、上演を先に見ている自分は、いま戯曲のテキストを読んでも、誤字を残してある意味不明な文が、頭の中で勝手に発話の記憶をもとに正されるからか、わりと読めちゃう。これってなんなんだろう。

山本:重要なのはやっぱり、この戯曲が、最初に書き言葉として作り出されたものじゃなくて、まず発話として生まれた、ということだと思う。発話され、録音された音声が、きれいに文章として整えられるのではなく、音の質感に由来するエラーも含んだかたちで文字化され、編集され、戯曲となっている。
 この制作過程について考えるとき、例えば文字化を経ずに音源データそのままを戯曲として扱う、というやり方もありえたかとは思う。ただ、いちどテキスト化することで、複数人で共有しやすくなっただろうし、編集もしやすくなったはず。特に第二部は、ふたりの会話が緻密にコントロールされているけれど、音のままこれをやるのは困難だっただろう。
 その上で、あくまで最初の発話における音の質感も重視されている。それをテキスト化の際に綺麗に整えようとすることは避けられている。
 ここには、もちろん、戯曲とは書き言葉から成るものである、という既成概念へのカウンターという面も少なからずあるかと思うんだけど、それ以上に、最初の発話の瞬間にあった情報、例えば言い淀みやスリップなどをなるべく尊重する、そしてそれを戯曲にする(つまり舞台の肉体が従う先とする)という姿勢がある……と言えるのかな。

h:ただ、自動文字起こしは現状、そんなに音に正確なわけではないじゃない。言い淀みやスリップがあったからこのテキストになっているというところもあるだろうけれど、それ以上に、単純に人間の発話がうまく理解できずに(あるいは過度に正しい言葉として受け取ろうとして)変なテキスト化を行なってしまっているところがあると思う。
 そういう機械的なエラーを残したまま、もういちど人間に発話させる。その声を観客として聞いたとき、わりとけっこう、ふつうに言葉として聞けてしまう。そこでの、言葉を聞く側の、聞こえた音をありえそうな言葉に補正していく機能について、わたしは考えたんだよね。これはあとから戯曲を見て思ったことではあるんだけれど。

山本:なるほどな。他者の発話をトレースすると言うと、例えば手塚夏子さんの「私的解剖実験シリーズ」を思い出す。夫の気持ちというか存在そのものを理解するために、何気ない身振りを映像に撮り、それを細部まで完全にトレースしようとする。さらにそれを複数人で共有し、演じようとする。岡田利規さんや山縣太一さんをはじめ、各所に大きな影響を及ぼした作品だけれど、スペノがやっているのは、問題意識として近いところもありつつ、明らかに違うところもある。手塚さんほどには当然精密ではなく、ざっくりしているわけだけれど、それゆえに見えるものもたくさん生じている。
 スペノも発話の様子を映像で撮っていたりするかもしれないけれど、少なくとも観客からは発話の瞬間の身振り(を再現している気配)は把握できないようになっている。音声に関しても、音ひとつひとつを厳密に表記しようとするならそういう筆記法はこの世の中に存在しているわけだけれど、そうではなくあくまで自動文字起こしを経由させ、いわゆる自然言語でテキスト化した上で、俳優に発話させている。

h:しかも自動文字起こしを使っているということは観客からすればわからない、ということが重要だと思う。ただの聞き間違いかもとか、意図的に言葉を崩しているのかもと思ったりするだけで。

山本:なるほどな。「SDスポット」とかってはっきり言われると、何かしら意図のある言い換えなのかなと思うよね。ぼくは「STスポット」に関する明らかに嘘っぱちな話をしていることもあって、わざと別の名前にずらして言ってるのかと思って聞いてた。

h:あの話に出てくる「佐藤さん」って、ほんとにいるの? 穴を掘ってここを作ったってほんとなの? とか……お前の言ってることは本当なのかどうなのかはっきりしろ、みたいな瞬間が何度も起こるよね。

山本:胡散臭さがすごい。それはテキストだけの問題じゃなくて、古賀さんの演技体の特異性から立ち上がるものでもあると思う。いま目の前で考え発話しているようでもあり、観客と対話しているようでもあり、でも明らかに自分とは別の場所に由来を抱えて喋らせられてもいる、その絶妙な演技のバランスから生じる胡散臭さ。

h:そうね、すごく面白かった。胡散臭いというと悪いニュアンスが強くなっちゃうけど(笑)。

山本:でも、胡散臭さとしか言いようがない質感がある(笑)。

h:言ってる内容をどこまで真に受けて聞いて良いのかわからなくなるんだけど、でも観劇中は、やっぱり意図とかを汲み取ろうとしちゃう。それでけっこう辻褄が合った気にもなるし。でも、実際には、別に「STスポット」をあえて「SPスポット」と言い換えて言っていたわけじゃなくて、ずっと「STスポット」に関する話をしていただけなんでしょう? ただの文字起こしの結果なので……みたいな。悔しいよね、自分のなかの相手を汲み取る能力みたいなものを無駄に使わされている感じがして(笑)。機械のエラーをわたしに押し付けないでよ、って。

山本:そこで生じる「ただの機械的な情報にも人間的な意味や意図を汲み取ってしまえる」ということもまた、肉体に能動性を見るかどうかに関わる話でもあるわけだよね。

h:そうそう。

山本:いったん自動文字起こしを挟むことで、表現における由来、根拠を、最初のひとの発話にのみ還元できるものではないようにしている、と。そういえば『クローズド・サークル』でも似たような方法が取られていた。テクストや上演の流れが、「バックギャモン」っていうテーブルゲームのルール・進行にのっとって決められていたのね。そこでもやっぱり観客側は「なんでここでこの発話が為されたんだろう」といろいろ考えさせられるんだけれど、蓋を開ければ、「ゲームがこうなっているからですよ」とあっさり返されてしまうわけだ。何かしらの物語や意図を探ろうとするのに、その先にあるのはそれ自体としては何の意味も持たないただのルール(の遂行・上演)でしかない。
 こういうところから、例えばぼくなんかは、大岩雄典さんのインスタレーション作品を連想したりする。大岩さんも、(大岩さんそのものとイコールで結ばれがちな)特定の作家性に作品が還元されないよう、明確なゲームルールを露骨に提示して、観客側からの意図の汲み取りを不全にしたりする。さらに、観客側の行為を戯曲や美術などでもって先取りしてしまう、そこで起こる不快感なども含めて作品の質にしていたりする。スペノと大岩さんはやっていることが近い、とも言えるかもだけど、それ以上に、上演というものそれ自体が備えている諸々をストイックに問おうとすると必然的にそういう作品の作り方になる、って話だろうなと理解している。
 ちなみに、音に関わる操作は、第一部では「おやすみんみんぜみ」みたいな言葉遊びに関する話にまで進んでいったけれど、これもまた、音が依拠するルールをもとになかば自動的に発生する表現にひとがいろいろな情動を勝手に立ち上げてしまうという話だと思う。
 音の問題を扱うとこういう議論展開になることはよくあって、例えば詩歌の形式をめぐっても同様のことが生じる。短歌の定型、つまり57577にのっとって音が並べられていき、ひとつの表現が作られるとき、そこにある情動や思考は音の醸す言語的な意味に由来するものなのか、作者に由来するのか、あるいは57577というリズムに由来するのか。だれがその表現にとっての主体であり、原因なのか。そこに埋め込まれていると読み手側が感じてしまった情動や思考は、果たしてどこからやってきているのか? なんてね。
 そういったことが、今回の作品では、戯曲と上演を考える上での一例としてさりげなく提示されている。全編にわたって話されている内容はぺらぺらなんだけど、それらがいずれも問いを鮮明化することにうまく寄与させられている、と言っていたのはこういうようなところのこと。
 例えばマスクの奥での口の動きを想像させるような身振りや台詞があったけれど、あれも同じ。一見するとどうでもいい細部だけれど、観客側からすれば、知覚情報としては得られていない空間(マスクの向こう側)を自分がいつのまにか想像してしまっている、そのことを自然と自覚させられる一例となっている。
 このまま、空間をめぐる想像の話に進めば……第二部でよりはっきり扱われることだけれど、舞台上の発話によって観客がこことは別の空間を想像させられてしまうという事態は、いろいろな角度から展開されていたよね。「STスポット」をめぐる話も、いまここの舞台をめぐる想像力に関わるものだと言えるし、それこそ言葉遊びの話のとき、古賀さんが、舞台奥の出入り口に立って、こちらからは見えない壁の向こう側に向けて話していたのも、そうした想像力への注意をシンプルに喚起する演出だったと思う。

h:あそこは今回の作品のなかで一番笑えるところだったよね。「おはヨーグルト」は「おはよう」と「ヨーグルト」の組み合わせが最高ですよね、朝と爽やかな感じがいいんですよとか(笑)。そういうことを舞台の裏に向けて話しながら、ときどき観客側を見る。その様子も面白い。あれって、観客が笑ってるかどうか確認しているみたいだったよね。反応をうかがってるのかな、っていう。なのに裏に向けて話している。それまでの前説みたいにがんがん舞台上から話しかけてくるのとの対比もあって、不思議な印象だったな。

ダンスと共有

h:わたしが「伝える」ということについて考えたのは、主には第二部を通じてだった。
 第二部は、すごく簡単に言ってしまえば、渚さんと西井さんというふたりの俳優が舞台上で話している。でも、ふつうの会話とかではなくて、一方的に話したり、同時に別々のことを話したりしている。

山本:バーっとまくし立てるような感じでね。

h:でも、聞いていて、ぜんぜん意味がわからないとかではない。ふたりだからぎりぎり何を話しているかは掴めたりする。そして、ときどき「わかった?」「わかった」みたいなやり取りがあって、話が急に止まる。逆に言えば、話が止まるその直前に、ふたりが応答しあう瞬間が訪れる。観客からすると、「あれ? やっぱり話してた? お互いわかりあえてたの?」と思うわけだよね(笑)。でも話が再開すると、またお互いがぜんぜん違うことを言っていたりする。この、お互いぜんぜん別の話をしているのに時々お互いに伝えあえていると錯覚させられるような瞬間が生まれる、これってなんなんだろうと考えたんだよね。

山本:それは、ふたりの俳優のあいだで何かが伝えあえている、ということ? それとも、俳優たちから観客側に何かが伝えられてしまっている、ということ?

h:両方。伝わっていないなと感じつつ、でも伝わっているとも感じる、じゃあそもそも「伝わらない」ってなんなの、とか。

山本:なるほど。それは第一部でいったん明晰に言語化されつつ展開されていたことでもあるよね。あらためてあなたが引いていたところを引けば──《根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通していると思います ダンスの工程とか なぜこのダンスが生まれたか 紹介する 説明とか 紹介っていうのがこの共有するbehaviorを説明する上で正しい伝え方だと思っていて 今説明の説明をしてる だから何者であるとかとか どういう存在であるかとかはある種関係なくて この現象を伝えようとしている「私」とそれを聞こうとしてくれている「あなた」このダンスを伝えます このダンスの背景を伝えます みたいな》、とか。

h:まあその意味では、素直だよね、わたしは。「伝える」がテーマだと言われて、その通り受け取ってるんだから。

山本:でもこの作品自体、そういう意味での明晰さ、露骨さがあると思うよ。何かを隠したりこっそり表現したりするのではなく、はっきりと「ここに問題があるんです」と開示した上でやっているというか。

h:第二部は第一部で展開されたテーマがより実践的に展開されているのかな。ふたりのあいだのやりとりには、わりとふつうに会話として成立しているところもある。伝わってるかも、とかではなく、あきらかにふつうにやり取りしているところ。でもすぐにまた、すれちがいになる。だから、「伝わってる」「伝わってない」をめぐるこちらの認識もどんどん揺らいでいく。そこが面白い。

山本:また第一部の話にもどっちゃうけど、もともと「共有するビヘイビア」が2018年と2019年に上演されたときには、ダンスの背後にある制作過程などを観客に共有するという意図をもった作品だったということは、台詞のなかでも明言されている通り、やはり重要なことのような気がする。
 ものすごくざっくりした話になるけれど、ダンスって、踊る側からするとものすごくいろいろな感覚や思考を展開していたりするけれど、それを見る側は、なんか動いて表現してるっぽいな、程度の解像度でしか捉えられていないことが多いと思う。踊っている肉体を外から視覚的に認識することはできるし、そこでの身振りを通じて踊っている肉体か、あるいはそれが依拠しているコレオグラフを作成したひとが何かしらを表現しようとしていることまではわかる。でもそれが何なのかまでには至らぬまま──ブラックボックス化したまま──見終わってしまう。
 肉体の身振りを見て、それが由来している感覚や思考を把握するというのは実のところけっこう難しい。熱さを受けての条件反射とかなら、大半の肉体は同様の動きをするだろう。白鳥の見た目を真似して踊る、とかもまだわかりやすい。でも、例えば「生」を表現して下さい、みたいに言われると、みんな思い思いの動きをするほかないだろう。そうして為された表現から、その由来を明確に逆算することは、身振りがひどく定型的なものである場合を除けば、かなり難しいだろうと思う。そしていわゆるダンス作品の場合、条件反射も複雑な表現もひっくるめて編集し、構成していくわけだから、さらにことは複雑になっていく。
 そうしたなかで、2018年と2019年バージョンの「共有するビヘイビア」では、ダンスを作る過程での議論と、ダンスそのものを、ともに編集・構成し、ひとつの作品のなかで展開する。つまりダンスだけを提示するのではなく、その背後にあるものの開示・共有込みで観客に見せていく。自然と作品は、ダンスをそれ足らしめている必然性、発端のようなものの言語化と伝達をめぐるものにもなっていく(こうやって語っていくと、いぬのせなか座が自分らの詩や小説を、その制作過程や背後の思考をめぐる座談会(しかも何重にも編集・構成されたそれ)とともに一冊にまとめて発表していたのと、やり方として近かったのだろうなと感じる。実際、実はぼくはスペノを見始めるだいぶ前から、いぬのせなか座とスペノは近いんじゃないかとたびたび周りから言われ、気になっていた……)。
 ついでに言えば、2022年7月に見た『ストリート リプレイ ミュージック バランス』も、ダンスを構成する複数の要素・要因をひとつひとつ丁寧に観客に見せては並置していき、掛け合わせ、厚みのあるダンスの経験を徐々に作っていく作品だった。ものすごく教育的かつロジカルなプロセスを踏むことで、身振りはその場で生み出された即興的なものとしてではなく、漠然とした謎でもなく、厳密に計算され仕組まれた身振りとして把握できるようになっていく。さらにはその身振りが作り出す周囲の空間への想像力の推移も、クリアに観客側に自覚されるようになるんだよね。
 「共有するビヘイビア」は、すでに何度も触れている通り『クローズド・サークル』という作品に発展するんだけれど、そこではいわゆるダンス的な成分はぐっと減り、ふたりの俳優による発話が中心になる。そしてその先に、今回の作品があるわけだ。つまりは発話・会話にすごく重きを置いている今回の作品の背景に、ダンスとその共有をめぐる問題意識や蓄積があるということ……スペノの経歴を知っているなら当たり前のことかもしれないけれど……このことはあらためて重要な気がする。眼の前の肉体が何に依拠して発話し、身振りを行なっているのか。それをめぐる観客側の認識とはどのようなものか。舞台と観客のあいだの「伝える」という関係はいったい何なのか。それら全体を取り巻く空間とは何なのか。
 ……ということを踏まえた上での(笑)、第二部における「会話」の問題、だよね。

破壊的テクストと共有される場

山本:第二部で重要なポイントのひとつに、テキストの反復的共有がある。具体的には、例えば岸田國士で卒論を書いたという話を俳優ふたりともが時間を置いてそれぞれ同じように発話する。これって観客側の認識で言えば、ある種の役柄の交代のように感じられる事態なんだけれど、もう少し踏み込んでいえば、そのテキストを文字起こしする前の自己紹介的な発話が俳優ふたりに共有されているわけだよね。しかもひとりの発話がふたりに共有されているということは、少なくともそのうちのひとりは、自分とは別の者が私的な情報をめぐるものとして為した発話を再現していることになる。ひとりではなくふたりで話すことで、そのような認識に自然と無理なく観客側が至るようになっている。

h:しかもそれは、岸田國士みたいな固有名詞だけじゃなくて、いぬがかわいいとか、好きな映画はなんですか、みたいな台詞を起点にしても把握できる。つまりかなりの頻度で、ふたりがひとつの人物を演じているようだというのがわかる。
 もうひとつ謎なのは、第二部でも第一部と同じく舞台上に、こちらからは何が映っているのかわからない角度でディスプレイが置かれているんだけれど、そこから声がすると、舞台上のふたりが異様な驚き方をしながら、舞台奥のふたつの出入り口にそれぞれすっぽり収まっていくところ。後ろ向きに一気に激しくさがっていって、痛みのようなものを感じているふうに見える。やめてほしいというか、嫌がっているというか、こわがっているというか……いずれにせよプラスの感情じゃないよね。そうした場面が何度か繰り返される。あれはなんなんだろう。

山本:現象としてはわかりやすくはあるんだけれどね。

h:そう、何かしらのルールがあるということはよくわかる。「ディスプレイが喋ったら嫌がる」というね。まあそれも徐々に解体されるわけだけど。
 他にも、身振りに関するルールがいくつかあるようなのは認識できる。例えば、「どういうところに住んでたんですか」みたいに聞かれたら、台にのぼってそれに答える、とか……その意図まではわからないし、そもそも把握が合っているかどうかもわからないんだけれど、何かしらここにはルールが働いているんだなとはわかる。そしてそれは、ふたりの「会話」からすれば、すごく安心できるものとしてあるなと感じる。
 ふたりは基本的に話している内容がずれていて、同じ舞台上にいるにもかかわらず、お互い隔絶され、力の及ばない場所にいるように感じられる。でも、さっきも言ったように、あるとき急に、「そうですよね」「はい」みたいな応酬がくる。それが、見ていてすごくこわいんだよね。こんなにそばにいるのに交われないんだ、伝えあえないんだ、というところから、急に会話が成立したようになって、また離れていく。その伝わらなさとか、伝わったかと思えばまた離れていくこわさと比べると、身振りに関するルールは、どこか安心できるものがあった。
 ……というか、今気づいたけれど、第二部の戯曲、やばくない?(笑)けっこうちゃんとした台詞だと思ってたけれど、文章で見ると、第一部よりもさらに意味わかんない。《チキン鶏肉ねんとりこしょっぱい》って、なに。

山本:これは……(笑)。

h:ふたりが同時に話すから聞き取れないんだと思ってたけれど、ほんとに意味わかんないこと言ってたんじゃん(笑)。たったふたりでも同時に話されると無理なんだ、って思ってたけど、これじゃそもそも聞き取れるわけがなかった。

山本 なるほどなあ。

h:ひとりひとりで喋っているときの台詞は、当たり前だけれど聞き取れるわけだし、上演中は内容も含めて理解できてる気になってた。でも戯曲を見ると、かなりへんだったことがわかる。例えばこことか……。

 N1 メープルシロップは振りつき
 N2 もう学びっていう名前なんですよ
 N1 そうなんですか 珍しいですね
 N2 違う弓田 すごい お母さんのおねちゃんが真弓さんです いとこが愛美ちゃーんでしたね
 N1 うん なっちゃん うんちゃんって言われます でもまだちゃんは 飲み物が好きNO中のビルオーナーとコーヒーかな
 N2 コーヒーが好きです

 この場面、はっきり覚えてるけど、《愛美ちゃーん》とかは聞き取れるけれど《なっちゃん うんちゃんって言われます》とかは「ん? なんだろう」くらいまでしか理解できない。《飲み物が好きNO中のビルオーナーとコーヒーかな》とかになるとぜんぜんわからなかった。でも次に《コーヒーが好きです》と来ると、急に会話として聞こえてくる……。
 上演中は、ひとりひとりはちゃんとそれぞれで理解できるようなことを喋ってて、でも同時に話していたり台詞が意図的にすれ違わされていたりするから理解が追いつかないだけ、と思っちゃうけど、戯曲を見ると、そもそも伝わることなんて最初から喋ってなくて、互いに、それから観客にも伝える気がなかったんじゃん、と思う。何かがあるわけじゃない、何もないことを言われていただけだったのに、上演である以上──というかひとが前で言葉を喋っている以上──そこにはなにかがあると思わされてしまっている。これは、やっぱりこわいことだよね。日常も実はこんなものだと言われている気もしたし。

山本:破壊的な文章でもって「聞こえさせていない」ところと、会話としても意味内容としても「聞こえさせている」ところが、ものすごくうまくレイアウトされているよね。ずっと会話が成立しない、意味がわからない、とかじゃなくて、わかるところとわからないところのリズムがコントロールされている。

h:そうだね、されてた。テキストそのものもだし、発話でも、ふたりのあいだでうまく間を置いたりしていた。「聞こえて……る?」みたいな(笑)。

山本:そうそう。テキスト内外のいろいろな要素を駆使して、会話の成立(不)可能性を精密に演出している。視線の向きや、どこでどう頷くかとか。音楽のリズムを取っているときの頷きと相槌の頷きが同期させられる、みたいなこともあったと思う。
 あと、空間の共有……土地や風景の描写はもちろんだけれど、例えば《柴が居ますね》とか《どら焼き》とかみたいに特定の対象をフィクショナルに名指すような発話はけっこうな頻度でふたりのあいだで共有され、ともに立つ場を形成する。その瞬間、会話が成立したりする(そのように感じられたりする)んだけれど、とはいえ仮構される対象の位置も、お互い想定している場所がずれていることが明らかだったりするから、すぐに崩れていってしまう。
 ほかにも、「それ」「これ」「あれ」みたいな指示代名詞は、会話の成立(をめぐる知覚)を促していたよね。「私」もそうだし、あとはやっぱり名詞の反復は最たるものだったと思う。一方、同じく人物名でもってふたりのあいだのずれが強調されたりもするわけだけれど。そういう細部のコントロールがすごい。
 さらにもうひとつだけ加えると、ディスプレイに向かって「音楽をこの部屋に流してほしい」って言う場面があったよね。すると実際に音楽が流れる。それは舞台上のふたりにも、観客席にも、さらに言えば会場外の廊下を歩いているひとたちにももしかしたら聞こえているかもしれないものだ。これまで触れてきたようなどれよりも、はるかに強い共有、同期の礎としてある。舞台美術を指さして「これ」と言うときがあったと思うけど、それよりも強力なものだと思う。

h:伝わってるんだな、と感じられる。

山本:でも、次に発話されるのは《違う ちょっと違う ちょっとたぶん違う》。やはりだけれど、また共同の場は崩れる……このあたりの半ば露骨とも言える展開の塩梅が、うまいんだよなあ。
 こういうことの積み重ねが、二つの肉体のあいだの共通の場をめぐる判定基準の検証となり、すなわち「会話」というもの、「伝える」ということの判定基準の検証となり、さらにはある肉体における自由意志や思考をめぐる判定基準の検証となる……そしてもちろん、第一部をめぐって話していたような、戯曲の問題にもなっていく。戯曲もいわば、舞台上の複数の肉体が帰属する共同の場の一種だよね。ひとつの同じ戯曲を共有できているということは、ひとつの場を共有できているということであり、そこには(一般的な意味かどうかとは別に、肉体と肉体が同じ地平を共有して関わり合うという意味で)会話が成立するだろう。言い換えれば、そのような対象であるからこそ、この作品において戯曲は、音楽と同じように「違う」ものとみなされ、自動文字起こしを挟んでエラーを大量に食い込ませられたり、もととなる発話主体を置いたりして、単一の書き手に統合されないように操作されている。
 こうした諸々が、上演という表現形式における最たる素材としての、観客と舞台のあいだに生じる想像力に関わるものとして、一気に貫かれるというか、ぜんぶ同じ問題なんですよと示されているような感覚があったな。
 そしてその上で、舞台そのものとは別で収録され戯曲の素材とされているところの、日記的な発話とはいったいなんなのか、というところにまで返っていくのかもしれない。

話すことのなさと方法

山本:話し損ねたことを最後に手短に並べておくと……第二部での《歩きたくなったら歩いてもらって》という台詞(続けて、言われた側が歩き始める)も印象的だった。まさに能動受動、行為の由来の問題だよね。しかもこの台詞も、間を置いてもうひとりが同じく発話することになる。この交換可能性。
 あとはドッペルゲンガーのモチーフも、第一部・第二部共通のものとしてあったよね。第二部で言うと、例えばここ。《この前すごいおばあちゃんに似てる人がいたんですね おばあちゃんは髪型がすごい 毎日パーマを当てに行ってたんですよ 毎日当てに行ってたんだけど その人はショートカットでピンクの髪型だったのね ベリーショートだけど 他はどう見てもおばあちゃんにそっくりだった いきなり話しかけてもちょっとびっくりされるかなと思って 普通に後をつけてたんだけど その人がすごいこっちをすごい伺ってきてたから 会釈しようと思って釈して通り過ぎたんだけど その通り過ぎた瞬間に「私」だって思ったんですね》。

h:ああ! あったあった。それすごくこわかった。しかもディスプレイに向けて話してた気がする。すごく嫌だった。第一部にも似たようなことがあったね。

山本:どこだったっけ……いま(2023/03/16)はまだ記録映像が届いてないから、戯曲のデータを検索しつつ記憶をたどることしかできないのだけれど……あ、ここだね。

h:《出会いの場というのは どのような場所だとお考えでしょうか 例えば公園 例えば学校 例えば道野途中 駅のホームでした 別の線と線が交わるところ 大きな駅のホームでした そこで 年老いた「自分」と出会いました 姿は全然今とは全く似てませんでした でも直感で「自分」だということが認識できました どっちとも言わず話していました 内容としてはゲンキーみたいな 体とか壊してないのとか 最近楽しかったこと何 ほとんど久しぶりに会った友達と会ったときに話すような内容ばっかりで 何故なら深入りして何かを話すことが結構怖かった だから 当たり障りのないような 割とライトめな会話をメインで話してた》。

山本:そして自動音声が《話すことない》と返事するのか……。この作品全体における「話すことない」っぽさはすごいよね。

h:あんまり意味ないもんね(笑)。

山本:にもかかわらず、大量に喋り続けてて、それを観客は聞こうとしちゃう。聞こうとさせられちゃうような演出や演技、テクストの技術がすごくある。

h:あと、第一部と比べると第二部のほうは、すごく自制的というか、自分を抑えて喋ってる印象がすごくあった。言葉をここに置くよ? 置くよ? みたいな丁寧さがあったというか。それは演出の複雑さ、意識し実現しなくちゃいけないことの多さから来るものでもあると思うんだけれど、その上で、すごく抑制されている感覚が全体にある。だからこそ、ディスプレイから自動音声が聞こえた瞬間、ふたりがわーって驚いて激しく動くのに対しても、すごくこわく感じられる。ものすごく強い感情の発露に見えるから。

山本:そういう抑揚を作るのが、ほんとにうまい。

h:だってさ、ちょっと眠くなりそうなときにそういうことをやってくるでしょう?

山本:確かに(笑)。

h:そういううまさもあった。やっぱり情報量が多いから頭がぼーっとしてきちゃうしすごく疲れるんだけど、いいタイミングですごく明確な出来事が起こる。そういうところもすごく面白い。

山本:あと、最後にもう一個だけ。ちょっとメタ的な話というか、作品全体を比喩的に表現している箇所の話になっちゃうんだけれど……。

h:「0.5人」の話?

山本:ああ、それも重要だね。それと絡むようでもあることとして、第二部の冒頭、「念力暗転」の話から始まるんだけれど、西井さんが前に出てきて念力暗転を実演するような振る舞いをする一方、同時に少し後ろで渚さんがその様子を外から描写するような話をする。ひとりがひとりをはっきり語って記述する場面というのは、ここくらいなのかな……ここで示される関係性はすごく印象的で、作品全体を貫くイメージにもなるところだったなと思う。もう何度も触れてきているけれど、なにかに先取りされている感覚もあるし、私が私を語っている、ある種の分身関係の発露というような感覚もある。なんというか、最晩年のベケットを思わせるところもある。
 またその話が念力暗転の方法の説明をめぐるものだったということも、極めて重要だった気がする。この作品の軸は方法のプレゼンテーションなんだ、ということが意識付けられたというか。つまりはエピソードや個々人の情動などではなく、異なる人物、異なる場所で転用可能、反復可能な何かをめぐるものなんだ、と。《知ってるのは 舞台上に1人 人が立っていて 手をかざして それ見てる人がまぶたを閉じるっていうやつを知ってるんですけど》って渚さんが西井さんに向けて語るとき、それは西井さんがいま演じている誰か個人を描写しているのではなく、あくまで念力暗転の方法、具体的なプロセスの話をしているだけなのね。でもそれが、目の前に立っているひとの描写にも聞こえるんだよ。この妙な状態が、すごくおもしろいし、今日話してきたこと全体をあらわしているようにも個人的に感じられる。
 で、結局、「本人たち」ってなんなのか、ってところだけれど、上演と生の根幹にある、特定の「舞台」に限られない、極めて日常的で匿名的かつ反復可能な形式……それがつまりは伝達をめぐる方法であり、演出であり、社会の構成単位であり、新たな意味での戯曲である、のか……。

 2023/03/16-19

※プレビュー上演は2023年3月15日に「STスポット」にて非公開で行われた。
※引用したテクストは、いずれも2023年3月16日にスペースノットブランクより共有されたプレビュー上演時の戯曲データに由来する。

山本浩貴 Hiroki Yamamoto WebTwitter
1992年生。言語表現・レイアウト。小説や詩やパフォーマンス作品の制作、書物・印刷物のデザインや企画・編集、芸術全般の批評などを通じて、〈私が私であること〉の表現あるいは〈私の死後〉に向けた教育の可能性について共同かつ日常的に考えるための方法や必然性を検討・実践している。主な小説に「無断と土」(鈴木一平との共著、『異常論文』ならびに『ベストSF2022』掲載)、主な批評に「死の投影者による国家と死」(『ユリイカ』2022年9月号 特集=Jホラーの現在)、主なデザインに「クイック・ジャパン」(159号よりアートディレクター)、主な企画・編集に『早稲田文学』2021年秋号(特集=ホラーのリアリティ)。2015年より主宰する「いぬのせなか座」は、小説や詩の実作者からなる制作集団・出版版元として、各種媒体への寄稿・インタビュー掲載のほか、パフォーマンスやワークショップの実施、企画・編集・デザイン・流通を一貫して行なう出版事業の運営など多方面で活動したのち、2021年末をもって第一期終了、現在は山本のみを固定メンバーとした流動的なかたちをとっている。理論・批評の単著を2023年刊行予定。
小説の制作のほか、「いぬのせなか座」のメンバーとして山本浩貴とともに書物・印刷物のデザイン、パフォーマンスの制作を行なう。主なデザインに田恭大『光と私語』(いぬのせなか座叢書3)、主な小説に「すべての少年」、「盆のこと」(『いぬのせなか座2号』)、『2018.4』『六月二一日』(いずれもいぬのせなか座)など。

本人たち

イントロダクション:植村朔也

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

本人たち|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 Sakuya Uemura
批評家。1998年12月22日生まれ。千葉県出身。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの保存記録を務める。過去の上演作品に『ぷろうざ』『えほん』がある。

 スペースノットブランクの「保存記録」として働き始めてから、この3月でちょうど3年が経つ。この文章は『本人たち』のイントロダクションとして依頼されたものだけれど、いい節目なので、保存記録の活動を振り返る場としても利用させてもらいたい。そして過去に書いたお粗末な『本人たち』評の簡単な修正を試みたい。
 保存記録というのは、写真や映像を撮る人なのではなくて、スペースノットブランクが何をしているのか観測して、わかったことをかたちにしていくということなのだけれど、正直なところ自分にはいまだにほとんどのことがよくわかっていない。
 作家がなにを思ってなにをしようとしているのかは、やろうと思えば稽古場での作家の発言からある程度たどれるし、ちょくちょく作家がLINEで教えてくれることもあったりするから、それをまとめてしまえばいい感じもするが、そんなに単純な仕事ではない。実際、事前に話を聞いていても、スペースノットブランクの舞台を観るといつも呆気にとられてしまうし、なにを書いていいかわからなくなる。その分平気で遠慮なしに稽古場に行ったり作家と話したりしているようなところがある。
 やろうとしていることとやっていることはしばしば一致しないものだ、というのは当然として、スペースノットブランクはコレクティヴとしての集団制作の方法それ自体を制作しようとしているようなところがあるから、作家とか、その意図とかいった概念自体あんまりあてにできない。わたしがスペースノットブランクに書いてきた批評に対して、制作論に終始していて、結果としての舞台については得るところがないという旨の批判が寄せられたことは一度や二度ではない。しかし、そのようなプロセスと結果の弁別の自明視を問題視し、作品を扱う単位としての制作の技法に目を向けないことには、スペースノットブランクの作品の記録としては不十分だと考えてきた。一方で、そうした作品性格が規定する、観客への可能な効果の方向性についても、わたしは書いてきたつもりでいる。
 『本人たち』の最初の作品群(第一期)は2020年9月に、YouTube上の動画と、スペースノットブランクの公式WEBサイト上のいくつかのテキストというかたちで発表された。各作品には「5月31日」などの日付が付されているが、動画概要に「スペースノットブランク『本人たち』の5月31日の映像です」とあることから、この日付はタイトルのたぐいではなく、いくつもの『本人たち』のそれぞれにさしあたりつけられたラベルという感がある。ここでは便宜的に各『本人たち』をそれぞれ同題の別作品とみなしているが、この理解はおそらく正確ではない。具体的な発表時期については動画以外記述がなく、はっきりしない。テキストはクリエーションメンバーの発した言葉を編集したもののはずで、おそらく日付はその発話が為された日を表している。
 続けて、11つのテキストからなる『本人たち』第二期、2つのテキストからなる『本人たち』第三期がある。さらにこの第三期のテキストを使用した、ANB Tokyoでの展示『また会いましょう』がある。それから第二期と第三期の間に、paperCで連載された「本人たちが大阪に行こうとしながらも行かなくなってしまった二〇二二年一月のいくつかの現像」があって、これは写真と短文からなる。このように、『本人たち』のクリエーションは2020年以降、スペースノットブランクによって継続的に行われ続けてきた。
 そして今回、『本人たち』はSTスポットで上演される。しかも、『本人たち』は『共有するビヘイビア』『また会いましょう』という二つの作品を包括した形で上演されることになっているのだ。問題なのは、動画、テキスト、舞台というメディア形式の横断性それ自体ではない。それら諸々の『本人たち』を貫いている共通因子が何であるのか、見当がつけがたいのだ。
 たとえば、『本人たち』の諸テキストを読んでみるとする。第三期6月13日。これは様々な「本人たち」の言葉を収集して、編集したもので、しかしどの言葉を誰が発話したかは曖昧にされているから、ひどく個人的な内容で、本人的な文体を持ちながら、特定の人間に帰属しない、「本人たち」の文章としか言えないものなのだ、というくらいのことは、すぐに言える。しかしこれはスペースノットブランクのほかの多くの作品にも共通して言えることで、作品の特徴としては説明になっていないのである。
 ほんとうはここにリンクを貼ることさえ躊躇われるのだが、過去にわたしが書いた『本人たち』評はひどい出来で、やはりこの誤りを犯している。そこでは作品は「過剰な多声性=非個体性と過剰な本人性=個体性によって、一層強く鑑賞者の想像力を喚起し」、そのことでオンライン演劇の悪条件も乗り越えられると言った旨のことが書かれている。
 言い訳をすると、わたしはもともと舞台批評家を志していたわけではなくて、「保存記録」の仕事は経験の浅いままに見切り発車で始めてしまったところがあるので、初期の評はそのほとんどが的を外しているし、執筆のスタンスも悪い意味で安定していない。いくらかまともに、方法的に書けるようになり始めたのは、2020年の暮れの『光の中のアリス』から、2021年の『ささやかなさ』にかけての時期のことで、それまでの評は素人同然である。保存記録の産物という都合上簡単に消去できないのが歯がゆいのだが、一度まとまった時間を取って、これまでの評を抜本的に書き直す必要を感じている。
 『本人たち』の共通因子のつかみがたさに話を戻す。厄介なことに、スペースノットブランクはタイトルをてきとうにつけているのでもない。今回『本人たち』の部分集合として上演される『共有するビヘイビア』は、過去に二度上演されたのち、『クローズド・サークル』への改名を経て再上演された作品である。それが、再度『共有するビヘイビア』へと名前を戻されている。
 つまり、ステートメントと照らし合わせても毎度不可解なスペースノットブランクの上演(というのはいくつかスペースノットブランクの作品を観て確かめてもらうほかないが、ほんとにそうなのだ)のそれぞれは、しかし特定の名によって束ねられて他から区別されるに足る相応の共通因子を時に有しているはずであって、そしてわたしの見立てでは、それがそれらの上演に固有の問題構制を示している。命名は舞台の制作と上演に先行しているから、実際に上演される舞台がこれら問題構成に還元しきれない過剰を産出していくことは当然として、しかしなおスペースノットブランクの批評においてはこれらの名の根拠を問う必然性がある。というのも、作家性というのは、作家の天才とか人間的個性というよりは、特異な問題構制を追いかけていくことの効果として事後的に見出されることがしばしばであって、制作の主体概念を問いに付してきたスペースノットブランクの舞台について、単におのおのの観客のうちに生じた効果を記述するのにとどまることなく、なんらかの共有可能な言説を打ち立てようとするのであれば、まずはここから始めるほかないからだ。問いは名とともに繰り返される。その問いをくり返し問うていく作業をわたしは自身の仕事と定義している。それが定点観測的にスペースノットブランクの作品を絶えず追いかけていくことの意味だと考える。結果的に、その文章は作家のステートメントに準拠したナイーブな意図主義的批評のように読まれているかもしれないが、少なくともここしばらくのわたしの仕事はそう単純なものにはなっていない。
 ところで、この依頼された「イントロダクション」は、『本人たち』本番がどうなっているのか全然知らないままに書かれている。だからわたしには『本人たち』の問題構制については仮説を立てることしかできない。それでも見立てはあるのであらかじめ書いておこうと思う。
 これまでのスペースノットブランクのテキストは、稽古場で出演者と演出者が場を共有するなかで、そのやりとりから生成され編集されてきた。対して、『本人たち』第一期の2020年というのは、このような場の共有が不可能になるような制作状況であった。この結果、場やそこでの関係性よりも「本人たち」が前景化してきたのだろうということは言える。場所性の強い印象を帯びた『クローズド・サークル』の題が退けられて『共有するビヘイビア』の言葉が回帰してくることもここから説明できる。
 あるいは、これまでスペースノットブランクのステートメントに登場してこなかった「戯曲」という言葉にも注目される。スペースノットブランクはどのようにこの「戯曲」概念を定義していて、それがいかに『本人たち』の上演性格と結びついているのかは当然問われていい。
 さて、批評が読まれないことを批評家が嘆くのは野暮の最たるものだが、スペースノットブランクについて他人が論じた文章で、わたしの評を参照したものがこれまでないのには、正直不満がある。議論がぜんぜん進んでいかないからである。スペースノットブランクについては、わたしはやはり純粋な批評家というよりは保存記録として書いているので、誰かの議論にいつか役立つようにと思って記録してきた。曲がりなりにも3年にわたって執筆をつづけてきた以上、批判的に言及するくらいの価値は誰かに認めてもらわなくては困るのである。だから今回、保存記録の仕事についての所感を赤裸々に書いた。
 スペースノットブランクは近頃みずからさまざまな書き手にオファーを出し、レビューを募っているが、それらが相互に参照する気のない複数であることには疑問がある(わたしが近頃批評の掲載を戦略的に遅延させている一因はここにある)。今回のスペースノットブランクはオープンコールでレビュアーを4名も募っている。だからわたしも恥を捨ててオープンに呼びかける。どうか誰か次の問いについて議論を進めてほしいと思う。そのようにしてこの文章は導入たらんことを目指す。実際のところ、『本人たち』はいったいなにをしているのだろうか。

本人たち

イントロダクション:植村朔也

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって

 2022年の京都エキスペリメント公式作品として上演されたスペースノットブランク(以下、スペノと表記)による『再生数』(作・松原俊太郎)を、ロームシアター京都・ノースホールで見た。後述するように、「見た」という表現が正しいかどうか、この作品にかぎっては、実はよくわからない。
 いつものスペノ作品同様、わたしにとっては「わけがわからない」内容だった。公式パンフレットには「スクリーンに映されたドラマ、これは映画か演劇か」という基本コンセプトが書いてあり、上演はまさにそのコンセプトのリテラルな実現だったとひとまず言っておける。舞台上に大きなスクリーンがひとつ据えられていて、作品のほとんどはそのスクリーンに映る映像を見るということになっていたのである。ただし、録画映像とライヴ(中継)映像のスイッチはなかったと思われ──ライヴ映像のなかで、スクリーンにプロジェクションされた録画映像を参照するシーンはある──、固定または手持ちの撮影用カメラを通し、上演は客席のスクリーンに〈届けられた〉。上演が展開する具体的な場所は、地下二階に位置するノースホールのホワイエに加え、ふだん観客は立ち入れない舞台裏の空間や楽屋などで、そこを俳優とスタッフたちがスピーディな動きをふくめて移動しつつ、作品は進行していった。
 スクリーンに映し出される映像の構図やカット割りはすべて事前に決定されていたようで、俳優たちは、その構図・カット割りのシナリオに沿って、いわばライヴで〈映画〉を上演/上映していく。ある台詞であるカメラを見たかと思うと、次の台詞ではその反対側にあるカメラを見て話す。また別の場面では引き気味のカメラが遠くの俳優たちを映し出す。そういう具合で、映像はディゾルヴやカットは多用せずに絶妙なスイッチングを経ながら継続していく。四人の俳優が全員収まっているカットから、次には二人、あるいは一人が、俳優の顔が交互に、それぞれクロースアップされる映像になるといった一般的に映画では当然の「画面作り」を想起させながら、上演/上映は続いていった。と同時に、「ネタバレ」ならぬ映画撮影の形式性の可視化というと大げさだが、そもそも意図されているのだと思われるが、撮影するカメラやそれを操作するスタッフの姿は比較的無造作に画面に映り込むことも、場合によっては許容されていた。ここ、、は映画の撮影現場?それとも映画の〈中〉、はたまた映画の撮影現場の〈外〉、あるいは映画の〈中〉の〈外〉?
 観客はと言えば、劇場の客席に普通に座ったまま、いつかは演劇の上演、つまりは劇場空間/舞台でのライヴの公演が始まるだろうなあという淡い期待を抱かされたまま、ほぼ常時、スクリーンに映写される映像内で展開する「撮影のプロセス」=戯曲に書かれたなんとなくの物語の進行、、、、、、、、、、、に見入ることになる。ただ、ときおり劇場内のスピーカーを通して聞こえてくる音声と、それと重なってライヴでかすかに聞こえてくる「元」の音声(=壁/ドア越しに聞こえる生声)に聞き入ったりすることもできる。さらに、俳優の動きを映像で確認しつつ、いわば気配として、客席内でその動きをなんとなく、、、、、感得したりもする。ノースホールの客席外の構造を知っている観客であれば、今スクリーンに映っているのはホワイエだとか、舞台袖だとか、楽屋だとか、なんとなく了解できる、といったような、きわめて特異な経験をすることにもなる。そして、上演中、三度ほど、生身の俳優が舞台上に登場することで、ああ、わたしたちは演劇の上演にたちあっている(かもしれない)と妙に納得したりする機会も与えられる。
 タイトルの「再生数」は松原俊太郎による戯曲のテーマであるだけでなく、ここまで見てきたように上演/上映の原理的属性に言及もしている。つまり、これは、〈映画で演劇〉なのだが、ここでいう映画には、ライヴ配信で再生数を稼ぐ、、、、、、、、、、、、というYouTube的視覚文化の領域内にある「映画」という意味合いも組み込まれている。必要十分条件を満たしたいわゆる映画、つまり、空間の移動あり、屋外ロケあり、日時の変化ありというより、YouTuber(でなくてもよいが)のゲーム実況に近い意味での「映画」という側面ここにはある。ただし、このゲーム実況は即時的にはインターアクティヴではなく、視覚音声情報は、一方的に上演する側から観客に向かって発出されつづけるだけである。観客にとっては、イマーシヴではないし、相互交信(交通)なるイリュージョンも、基本的にここにはない。観客は異化もされないが同化もできない。映画ではないのに映画を見ることに、あるいは、同じことだが、演劇ではないのに演劇を見ることに、ただただ自覚的になっている自己の意識を〈見る〉だけである。
 つまり、この上演は映画や演劇の形式をあえて問題化するといったようなモダニズム的な心性とは無縁だが、かといって、それらの形式と戯れてみせるといったポストモダンの〈身振り〉とも関係がない。それは何より、松原のテクストが、同時代の視覚文化とわたしたちの身体と心を貫く多層で錯綜する問題性を、〈極細のより糸〉としか呼べないアクチュアルだったりリアルだったりフェチだったり文学的だったり歴史的だったりする〈動機=モチーフ〉として言葉として群れさせ、、、、、、、、、つつ、「これは映画の撮影です」といううっすらしたナラティヴを基底/支持体として、縫い合わせるという時間的/空間的ドラマトゥルギーを実装させるからである。だから、最初に書いたように、「わけがわからない」が、正しい感想である(とわたしは思う)。
 たしかに、俳優自身ではなく登場人物はいる。戯曲テクストでは、衣装を含めて、以下のように書いてある。

 登場人物
 ピース 観客/無地
 ノン/黒子 観客/無地

 ミチコ 子ども、大人/スポーツウェア
 フフ 子ども、動物/ドレス

 武 責任者/スーツ
 翼 ニヒリズム/ジャニーズ
 (戯曲テクストより)

 そして、時間が経過するにつれ、シスターフッド(ミチコとフフ)、映画/演劇の現場における監督的/家父長的暴力/権力(武と翼)、〈映画〉にも〈映画の外〉からも、二重に不可視化/疎外化された存在(ピースとノン)などと、乱暴に主題を取り出してしまいたい誘惑──上演ではわからない可能性もあるが、松原が登場人物に与えた、上で引用した固有名がまさにそうした〈立ち位置〉を指し示していたりもする──に駆られるような人物たちの言動と行動がそのテクストに書き込まれている。
 さらにそこに、死と再生(映画/演劇の終演と新たな開始)といった古典的なテーマ性は、ネットでの再生という同時代的意味が付加されることもあって、〈終わり=死、、、、、から、、始まり=生、、、、、までのインターヴァルが極小化している、、、、、、、、、、、、、、、、、、──そして、極小化してこその再生数稼ぎである──事態へも、松原によって当然拡張されている。はたまた、特定の映画作品だけでなく、多様な映画のジャンル的特性──アクション映画、メロドラマ映画、アート系映画──の引用/援用/使用が、テクストのレベルと上演のレベルに埋め込まれて/ちりばめられてもいる。
 なので、結果的であれ、情報過多になってしまって「わけがわからない」のだから、上演の「いま、ここ」に身を浸し/意識を埋没させて、その瞬間瞬間に生起する視覚イメージや俳優の身振り/表情/汗や、見事なカメラワークや、俳優が語る言葉が喚起する情動や思考を、それはそれとして、場当たり的にその一瞬その一瞬で感受し、反芻したり忘却していればすむといえばすむ。すむというのはダメという意味ではなく、すませるほかはないように、この上演はできている。だから、やっぱり「わけがわからない」のか?

 さて、タイトルに示したメタモダニズムというもしかしたら聞き慣れない読者が多いかもしれない語がある。別件でたまたま読んでいた研究書で見つけたのだが、どうやら2010年くらいから使われていたらしい。「メタ」ではあるが、モダニズムとポストモダニズムのあいだを行ったり来たりする、右往左往する──もちろん、あえて、、、──といったイメージでよいだろうか。肯定的に言えば、いいとこ取りである。たとえば、わたしがこの語を知ることになったダニエル・シャルツは次のように説明している。

 ここ〔引用者註:メタモダニズムの諸実践〕において意味は、もはや集団としての大勢の観客のために生成されるのではなく、個人単位で生成されるのである。メタモダニズムは、パロディでもノスタルジーでもない、誰もがフェイクであることを知っていながら純粋にオーセンティックである経験を可能にするのである。ここが肝心なのだが、観客はフェイクやシミュレーションという概念、さらにはパフォーマティヴな自己を自覚しているからこそ、このフェイクな状況の中でオーセンティックな経験を得ることができるようになったのである。モダニズムが観客に課した能動的であると同時に受動的であるという分裂と、ポストモダニズムが観客に与えたあらゆるリアリティの喪失を、観客が交渉させてきたように思われるのである。i

あっ、『再生数』の話だ、とわたしは単純に思ってしまった。フェイクは日本語に入ってきたが、その反対語のオーセンティック(真正な)はそうなっていない。「リアル」とか「アクチュアル」とか近似のカタカナ語があるからだろうか。フィクションだとわかっていながら/いるからこそ、むしろ真正な経験(という感覚)が可能になるといったようなことになる。しかしそれは、集団的ではなく個人個人で異なるものとしてある。

 メタモダニズムでは、すべての意味と真実は個人的なものである。そのような経験には、真正性(authenticity)と親密性(intimacy)のメカニズムが極めて重要な意味を持つ。メタモダン演劇は、個人主義的で、親密で、個人レベルではあるが、純粋にリアルである。それは、観客のオーセンティックな経験への渇望を知り、それに応えるものである。ii

ことほどさように、『再生数』を見た観客は同じ経験をしたとはとうてい言えないようになっている。これまでのスペノの、松原俊太郎の、参加俳優についての、予備知識の量や質が観客ひとりひとり異なるといったような意味ではない。異なるのは当たり前で、それは「ふつうの演劇」でも同じことだ。しかし「ふつうの演劇(近代劇/モダニズム的演劇)」は、そういう異なる前提や予備知識とともに劇場を訪れる観客に、共有可能な共通の経験を与えて、観客をあるまとまった集団として主体化しようとする(「能動的であると同時に受動的」)。「一体感」や「感動」で観客席が盛り上がる。他方のポストモダニズムは、共有可能性や共通の経験なるものは、「フェイク=構築されたもの」だとして批判するが、オルタナティヴを与えることがなく、断片や分断やフェイク性をまんま、、、放置する。
 したがって、前者であれ後者であれ、どちらがデフォルトである観客も、『再生数』にたちあうと「わけがわからない」で思考停止する可能性が高い。しかし、観劇態度が習慣化して硬直していないふつうに日常生活を生きている、、、、、、、、、、、、、、観客であれば、『再生数』のさまざまな瞬間にさまざまな情動・感覚・思考を喚起される。身につまされるとか、「あるある」とかいった通俗的な応答もありえるが、そのような通俗的な応答を喚起しないように『再生数』は作られていて(とわたしは思う)、なにかもっと、そう、真正なもの、、、、、、としか呼べない情動・感覚・思考をもたらしているのではないか。
 そのためには、逆説的に聞こえるかもしれないが、「親密さ」という要素も重要である。ここでの「親密さ」は、シャルツ的には字義通りの距離の近さや少人数の観客──場合によっては一対一のパフォーマンス──のようなイメージなのだが、『再生数』の親密性は、映像での俳優のクロースアップという逆説的な親密性、、、、、、、──通常の演劇では、俳優の顔をクロースアップで見ることはできない──と、まったくその逆に、直接俳優に触れる可能性を原則的には排除している中継による映像、、、、、、、中心の上演という方法によって、もたらされる。
 こうやって『再生数』をメタモダニズムと呼んでみたところでなにかが起きるわけではないのだが、少なくとも「わけがわからない」まま忘却することにはならないのではないか。言い換えれば、「わけがわからないけどおもしろい」(!?)でおしまいではなく、「わけがわからないから感覚的・知的反芻の持続が必然になる」と、わたしは勝手に思っているのである。
──────────

i Schulze, Daniel. Authenticity in Contemporary Theatre and Performance (Methuen Drama Engage) (p.58). Bloomsbury Publishing. Kindle 版. 和訳は引用者。以下同様。
ii Ibid. はじめてこの語を使ったのはVermeulen, Timotheus and Robin van den Akker. “Notes on Metamodernism,” Journal of Aesthetics & Culture 2 (2010): 30 July 2012であるらしい。

内野儀 Tadashi Uchino
1957年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年より学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲』(1996)、『メロドラマからパフォーマンスへ』(2001)、『Crucible Bodies』 (2009)。『「J演劇」の場所』(2016)。公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。「TDR」誌編集協力委員。

再生数
『舞台らしきモニュメント』と『再生数』の映像配信を行ないます。

批評
佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて
内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって

佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて

 スペースノットブランク(以下スペノ)のウェブサイトの『舞台らしきモニュメント』の作品紹介には、次の一文がある。「「在る物」としての舞台を「現れる物」としてのモニュメントに代置し、上演(時間)と舞台(空間)の関係を見直そうとする純粋舞台」。いつもながらスペノは自分らがやっている/やろうとしていることの言語化能力が高い。書かれてある通りの作品であることは上演を観れば明らかであり、だから以下の拙文もこの一節への個人的なコメントというか、持って回ったパラフレーズにしかならないのかもしれないが、このユニーク極まる「舞台」について、幾らかのことを述べてみたいと思う。
 そう、ここで問題にされているのは、何よりもまず「舞台」である。舞台とは何か? それはどこにあり、何をする/何がなされるものなのか? つまり「舞台」の成立条件とは何か? これとは別に「劇場」という言葉があり、実際、作品中でシアターという語も発話されるのだが、「劇場」じゃなくて「舞台」だというのは、前者がどちらかといえば場所や建物を想起させがちなのに対して、後者はもう少し抽象性を帯びているからだろうか。「上演(時間)と舞台(空間)」とあるが、「舞台」とは「時間」と「空間」における「上演」と呼ばれる行為=現象の生起/生成だと言ってもよいかもしれない。この「時間と空間」は理念的なものだが、その都度、具体的現実的な「今、ここ」でリアライズされる。いやこれでは何も言ったことにはならない。何らかの意味で準備された──それは「稽古」と呼ばれるプロセスのこともあればもっと緩い設定や前提のこともある──出来事があるとして、それを「舞台」たらしめる要素とは、おそらく「(ダンスなども含めて)演る者」と「観る者」の二項であろう。私が鏡の前で台詞を言っているだけでは「舞台」とは呼べないし、観客だけで演者がいなければ「舞台」にはならない、と思われている。だが観られている者たちには演じているつもりなど毛頭ないのに、そこに「観る者」がいれば、それも一種の「舞台」と呼べなくはないし、観客が自ら演者に変態するという仕掛けもあり得る。公園のベンチにひとり座って、目の前にひろがるひとびとの様子を「舞台」のように/として鑑賞する、ということは可能だ。だからこの話に限らず、そこに広義の「観客」が存在していれば、そこは一種の「舞台」なのだという強弁がしばしばなされるし(それは「音楽」の「リスナー」についても同じである)、私も基本的にはその立場なのだが、それは私が「観る者」であるからであって、「演る者」の側にいるスペノが根本に立ち返ってあらためて問おうとしているのは、観客がいるいないとはまったく別の次元で、その時そこで起きるそれが厳密な意味で──そう、ここで重要なのは或る種の「厳密さ」なのだ──「舞台」になるのかどうかの線引きは如何にしてなされるのか、なされ得るのか、ということになるのではないか。すなわち、演る側と観る者が特定の同じ空間に居るのだからそれだけでもう「舞台」なのだというくだらない常識とはきっぱり縁を切って、そこで何が起きていれば「舞台」になるのか、を問うこと。
 始まるなり大須みづほと古賀友樹が「なんですか」を互いに連呼し、観る者はなんですかとはなんのことかとしばし訝しむのだが、すぐにいちおうの答えは与えられる。「これが舞台です/なんですか」「この舞台は二人で舞台をしています」。あとでもう二人出てくるが(奈良悠加と平野光代)、まだこの時は二人だ。しばらく後に、こんなやりとりがある。

 舞台は どこでも成り立つんじゃないか
 別なんじゃないかな
 例えば ポスターが貼られていて ポスターって認識した時に ポスターはある種の舞台なんじゃないかな
 (中略)
 舞台って どこでも舞台になる
 舞台ってなったからには舞台になります
 意図してても 意図してなくても そういう役割になってしまう
 舞台の終わりは まず脱線から入る
 最初は舞台から入りました 何を話すべきか迷っていて うーん うーん うーん 伝えたいことは山ほどある
 なんですか
 今 何一つ言葉を発せない状況にいて 「わたし」 だけが何かを伝えることができて そしてそれが舞台だということ ここに 「わたし」 は驚きを持ってまして これこそが舞台なんです 乱暴です これが舞台  街で何が舞台ですかって訊かれたら これが舞台です 言うしかありません だからここで伝えられるのは何もない なぜならこれが舞台だからです 世界の終わりと似てる

 こんなことが舞台らしきそこであからさまに語られてしまう。ほんとうにスペノは自分らがやっている/やろうとしていることの言語化能力が高い。こんなのに何を付け加えたらいいのか。たとえば「舞台らしきモニュメント」を「演劇らしきドキュメント」と単純素朴に言い換えてみる。ドキュメントは記録、モニュメントは記念碑。ドキュメント演劇という言い方があって、それは何らかの意味や方法による何ごとかの「記録ドキュメント」を「演劇」として提示しようとする仕立てのことだが、それとはちょっとというかだいぶ違っていて、今まさに演じられているそのそれ自体を現在進行形の「記録」として、あるいはいつかどこかで演じられた何かの「記録(記憶?)」として、その時その場で演じてみせるという再帰的なループ構造。モーターだけがあって駆動される機構のない空洞マシン。だが俳優は覚えていて稽古もした「台詞」を言っているのであって、勝手にたわ言をくっちゃべってるわけではない。演じているということを演じているということを演じてみせているというメタメタ無限循環。とはいえ物語がないわけでは、物語られるものが何もないということではない。ある。それはたぶん確かにあるのだが極めて稀薄で微弱であり、掴もうとすると、摘もうとすると、雪片のようにあっけなく溶け去ってしまう。この感じはベケットの「物語」に似ている。モロイとかマロウンとか名無しとか。おそらくここにドキュとモニュの違いが関与してくる。記念碑モニュメントとしての「演劇」。墓でもアーカイヴでもなく、一回性の現前としてのみ立ち上がる「碑」としての「舞台」。いまだ「舞台」ではないものどもがみんなで頑張って遂に「舞台」になるまでを物語る感動的なストーリー。話を戻すと、だから「舞台はどこでも成り立つんじゃないか」「別なんじゃないかな」というのは本当にそうで、なるほど「舞台」はいつでもどこでも成り立ちはするだろうが、なぜか成り立たないこともあって、それは仕上がりとか完成度の話ではなく、そこには何かの回路というか鍵穴というか目盛みたいなものが存在しているのだ。それをスペノはどうにかして探り当てようとしている。そして実際、それは、すなわち「舞台」は、そこは最初から舞台であるのにもかかわらず、上演中、何度も空中楼閣のように浮かび上がってきてはあえなく崩壊し、再び三たび組み立てを開始するのである。「この舞台は体当たり三回ぐらいやってすごい大爆笑みたいな舞台です」。また終わるためにこそ、また始めなくてはならないのだ。
 スペノはドキュからモニュへと「上演」の位相を移動させた。どこでも成り立つはずの「舞台」の、そうであるがゆえの今日的な困難、もはやほとんど誰もわざわざ問題にしようとはしない、だがしかし実のところますます難しさを極めていっている難題に敢然と挑戦し、これ「は」舞台ですと当たり前のことを宣って済ますのではなく、これ「が」舞台ですと言えるにはどうすべきか、にひとつの答えを示してみせた。それはいつもながら頼もしくも勇気ある営み/試みであり、このようなかくも原理的な問題を、かくもアクチュアルに、かつかくもチャーミングに処理してみせた才気と手腕に、今更ながら感嘆の念を禁じ得ないのであった。

佐々木敦 Atsushi Sasaki Twitter
思考家。作家。HEADZ。SCOOL。その他。著書多数。広義の舞台芸術にかんする著作として、『即興の解体/懐胎』『小さな演劇の大きさについて』など。近刊として、児玉美月との共著『反=恋愛映画論』、三年ぶりの映画論集『映画よさようなら』など。

舞台らしきモニュメント
『舞台らしきモニュメント』と『再生数』の映像配信を行ないます。

批評
佐々木敦:モニュメントとしての演劇ドキュメントについて
内野儀:メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって