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舞台らしきモニュメント|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの「保存記録」を務める。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。


 2018年に上演された『舞台らしき舞台されど舞台』を改題した、『舞台らしきモニュメント』。「されど舞台」という、懐疑を経た舞台への晴れやかな肯定をはるかに突き抜けて、その上演行為は「モニュメント」と化してしまいました。造形芸術ではなく上演芸術が「モニュメント」を名乗るのはいったいなぜなのか、ここではこの不思議に素直に向き合ってみたいと思います。
 モニュメントは普通、なにかを象徴しあるいは記念するためにつくられる造形物です。それは時に制作者の意図も超えて、社会的・政治的な意味を帯びます。それを批評的に観るときには、そのモニュメントがどのような<場>に巻き込まれていて、またそれがどのような<場>を新たに生起させているのかに着目することが必要です。ですから、モニュメントはその形態や色彩といった造形性よりは、時代や場所、社会的背景といった文脈のなかでのその「振る舞い」に即して一般に評価されます。しかし、その評価があくまで批評的な目によって与えられるというのは、裏を返せば、モニュメントを取り巻く<場>の力学は普段は自然化され、覆い隠されているということでもあります。人々はモニュメントのパフォーマンスにほとんど目もくれずにその横を通り過ぎてゆくわけです。
 さて、しかしこのように「モニュメントをパフォーマンスと見なせる理由」を思案し続けたところで、「パフォーマンスをモニュメントと見なせる理由」が明らかになることはありません。いま直ちに考えなければならないのはむしろ、一回性を旨とする上演芸術がモノの位相に立つとはどのようなことか、です。
 実は、スペースノットブランクのモノへの関心はいまに始まったことではありません。たとえば2017年に第8回せんがわ劇場演劇コンクールで『ラブ・ダイアローグ・ナウ』がグランプリを受賞した際の受賞者インタビューで、演出の中澤さんは次のように語っています。

──僕たちの作品は身体的な要素は多いんですが、今回の作品は振付は一切していません。その代わりに「物」に依存するということをしていて、「物」をこういう風に使ったらこういう動きが生まれる。観客と出演者の立場をよりフラットにするのと同時に、舞台上にある「物」とか「空間」とか「言葉」も全部同じレベルに引き上げることをしたいと思っていました。出演者の方々は動きに対して「物」をあてはめるんじゃなくて、「物」をどういう風に使ったらどういう動きが生まれるのかを常に考えて「物」を使っています。だから身体表現というよりも、「言葉」はしゃべらなくちゃならないけど、それとまったく違うベクトルの負荷がかかっているという状態を生み出したかったんです。なので「言葉」と「動作」は関係性の違うベクトルをなぞっています。──

重要なのはここで<出演者>の言葉や身体と<モノ>が並置されているばかりではなく、<観客>の存在や<空間>までもが、舞台という同じフラットなレベルに引き上げられようとしていることです。そして、<出演者=モノ=観客=空間>というこの四項関係は、『舞台らしき舞台されど舞台』を第一作目とする、2018-19年にかけて制作された「舞台三部作」シリーズにおいてさらに焦点化されます。そして以降のスペースノットブランクの取り組みのほとんどは、程度の差や方法の違いこそあれ、この<出演者=モノ=観客=空間>という四項関係を「舞台」という同一平面で展開することに賭けられています。
 その狙いはまず、2017年時点での中澤さんの

──やはり出演者がいて、それに対して「物」は使われるものというのが固定概念としてある気がしていて、それを打破していきたいという想いがシンプルにあります。──

という言葉にあるように、世界を演技(あるいは鑑賞)主体に相関的なスケールで捉える見方の外に出ること、人間中心主義的に構成された知覚や行為の解体にあったはずです。
 しかし現在のスペースノットブランクの<モノ>への関心はまた別の方向をも向いているように思われます。その行き先を知るには、彼らのこれまでの軌跡を概観する必要があります。
 2018-19年版「舞台三部作」はとりわけ観客論的な性格の強いものでした。その詳細は拙稿をご参照願いたいと思いますが、そこでは<観客>との関係を問い直すことで、「舞台」というイリュージョンが劇場外部のリテラルな日常性へと伸長していくことが目指されていて、<モノ>や<空間>への関心はどちらかといえば後景に退いています。
 しかしスペースノットブランクは新たな展開へと舵を切ります。わたしが「劇場三部作」と名付けた『光の中のアリス』『バランス』『救世主の劇場』の三作では、あの<出演者=モノ=観客=空間>のうち、<モノ>でもあり<空間>でもある、劇場という物理的機構が異様なまでに前景化するのです。いまやその企図は<観客>の舞台への参与や、「舞台」の日常性への浸潤では説明しきれません。
 「舞台」が<観客>を取り込みその外部へと拡張していくという考え方を、ここで逆向きにまったく転換してしまう必要があります。ごく図式的に単純化して言えば、スペースノットブランクの歩みを規定しているのは、「舞台」に載せられる上演という<上部構造>を支えるさまざまな<下部構造>それ自体を「舞台」として現前させる逆転の発想です。<下部構造>には「舞台」として夢幻化されるまでもなく、生きられるべき複雑なシステムが駆動しているのだから、それは<上部構造>と並置される必然性があるわけです。しかし、そうした<モノの論理>は普段ほとんど可視化されることはありません。<出演者=モノ=観客=空間>の四項関係の脱序列化がこうして変奏されます。
 ここで改めてスペースノットブランクの方法論を確認しておきましょう。スペースノットブランクの作品の主要な特徴は、制作段階に「聞き取り」というプロセスを設け、クリエーションの現場での出演者の発言からテクストを生成することにありました(とはいえそうした作品は、ここ2年ほどはむしろ東京以外の都道府県が上演会場に選択されてきましたが)。稽古場で過ごされる時間、出演者の記憶や語り口といった日常的な素材を舞台の<下部構造>として編集し現前させる方法論がスペースノットブランクの制作態度の基礎にあるということです。
 「劇場三部作」は、舞台の<下部構造>である劇場の物理的機構を強調することで、こうした<下部構造>を象徴的に主題化しました。しかし、それはあくまで象徴にとどまるものでした。『救世主の劇場』評でわたしはある問題点を指摘しています。そこではリテラルな<下部構造>である、<物理的機構としての劇場>と、観客の鑑賞を支配する<制度としての劇場>が混同されていますが、前者にいかに働きかけても後者の変革には至らないのです。舞台という<上部構造>の閉塞を打破するには、象徴としての劇場ではなく、具体的な体系性をもつ<下部構造>に働きかけてこれを操作する必要があるでしょう。
 『舞台らしきモニュメント』が上演される同2021年9月上旬に、スペースノットブランクはさらに別の2作品、『サイクル(ワークインプログレス)』と『ストリート』を発表しています(ただし前者は現時点では小野彩加さんの単独名義)が、ここで試みられていたのも日々のサイクルやストリートの行き交いに眠る体系性を、<下部構造>として捨象することなく「舞台」として生きられるものにすることでした。
 なお、最後に、ここで論じているのは掌握しえない神秘的な<物自体>などではなく、いま確かに我々の下に動き回っていてその内実をいくらか知ることの出来る<モノの論理>であることを断っておきたいと思います。「舞台」と呼ばれるにたる充実を誇るその足場を、充分に生きることが問題なのです。モニュメントが「舞台らしき」装いをとるのは、空白でない空間を確かな足取りで歩まねばならないためだというわけです。


舞台らしきモニュメント|作品概要

未だ見ぬ上演のモードを探して|竹田真理:小野彩加 中澤陽 『バランス』評

 本作はKYOTO CHOREOGRAPHY AWARD 2020に選出された6作品のうちの一作で、去る3月11日、12日の二日にわたる公演の一日目に京都芸術センターで上演された。他の選出作品の多くが昨今のコンテンポラリーダンスに見とめられるささやかな傾向としてのナラティブへの回帰を示す中で、本作『バランス』はナラティブやドラマの再現を作品創作の動機としない点で異色だった。演出の小野彩加と中澤陽の関心は、ダンスで何を描き伝えるかではなく、ダンスをどこにどのように見出すかであり、動きの発見や構成の原理、及びその方法論を探求しているように見える。そのことは例えば上演空間を均質に照らす照明、床の隅々まで均等に使われるアクティングエリア、個性を消したダンサーの黒い服、音楽を用いず音響効果も入れない素の演出といった修辞を排した作品フレームの立て方にも見て取れる。こうしたミニマルな方向性は何よりダンスの動きそのものに顕著だった。日常的な動作を粗削りな振付に仕立て、二人のダンサーは途中二度ほどハケる以外、ほとんど休止を入れずにひたすらに動く。ダンサー二人のうち少なくとも一人はダンスを専門としない演劇畑の俳優(荒木知佳)で、もう一方の出演者(立山澄)ともども、全編を通じて一切のダンス・テクニックに拠らない振付を動いていく。
 二人は並んで舞台に入り中央に位置を取ると、一方は床に寝そべり、もう一人は傍らに立ったまま腕を盛んに動かして、何かの信号にも遊戯にも見える身振りを行う。そこからそれぞれ別個の振付をフロア全面を使って動いていく。「ダンス・テクニックに拠らない」とは端的にステップを踏まないことである。音楽的に分節されない時間の上を、わずかに腰を落としたナチュラルな姿勢を基本に、ラジオ体操程度の可動域で、およそ人の身体が営み得るあらゆる動作、しかし実際には行われることのない架空の動きを、洗練させずに粗削りのまま、ぞくぞくと繰り出してゆく。二人の関係は同調、反復、対比などのコードを回避しつつ、ときに接触したり交差したり、離れた場所で星座のように呼応していたり、後半にはフォルムを重ねて“景”を作る場面もある。そこに交わされているや否やのコミュニケーションを名付ける言葉はないが、同じ空間に同時にいることがモチベーションとなって進行を司っていることは確かである。

 作品のもつミニマルな方向性については、スペクタクルにノー、名人芸にノー、物語表現や虚構にノーを突きつけたアメリカのポストモダンダンスに引き寄せて理解できるだろう。ジャドソン教会派が牽引したこの方向性は当時のダンスへの批判であったが、舞踊史上のトピックであると同時に、いつの時代にもダンスの成り立ちを批評的に捉えようとする表現者が自ら降り立つ原点でもある。「舞台芸術に成る以前のダンスを考察する」を主題に掲げる小野と中澤は、舞踊史の外部に立って、ダンスを根本から思考しようとしているのだろう。
 しかし本作にはポストモダンダンスを参照項とするのみでは収まらない要素がある。ダンサー二人が舞台に入った瞬間から観客を圧倒するパフォーマンスの熱量がそうだ。ジャドソン教会派のよく知られた作品、イヴォンヌ・レイナーの『トリオA Trio A』やトリシャ・ブラウンの『ウォーター・モーター Water Moter』を映像で見ると、ミニマルで分析的な身体言語を、平素のピッチで調整された(つまり特別に調整されていない)身体が動いていく様子が分かる。日本のコンテンポラリーダンスの文脈でジャドソン的な思考を展開する山下残でも、身体のピッチは日常と地続きにあり、脱力した身体に力が漲ることはない。それが本作『バランス』では真逆を志向しているといえるのだ。二人のダンサーは尋常ではないレベルの集中を見せ、緊張感が舞台空間の全体に及んでいる。動きはまったく技巧的ではないが、荒木と立山は自らの筋力と瞬発力によりパフォーマンスに質量を与え、35分間、密度濃く、数多の動きをこなしていく。その質感は見る者に息をつかせぬほどソリッドで、そのこと自体が挑戦的であり、批判意識を体現している。

 後にトークで明らかにされるのだが、本作の動きは稽古場でのダンサー二人と小野・中澤との緊密なやり取りの中から採取している。特定の個人が振り付けているのではなく、創作を通した複数の人の関わりの中で動きが発見されているのである。冒頭、ダンサーの一人がホリゾントの壁前を横切るわずか数秒のシーンがあるが、演出ミスかと見紛うほどにただ普通に歩く姿は、上演の時間と現実を生きる身体との接続を示していたのだろうか。
 日常の動きにリソースを求め、素人をパフォーマーに起用することもあったポストモダンダンスは、ダンスを民主的に解放し、劇場の外へと出ていった。山下残では稽古場で生まれた動きを素材とした技巧性のない簡素な振付言語によって、普通の人々へ、日常へ、さらに政治性へとダンスを開いた。これに対して小野と中澤は、稽古の現場や人々の関係性に創作のリソースを得る点で共通するも、それを劇場芸術の枠の中に引き入れ、上演の形式のもとに扱おうとしていて、ダンスの外部との関係も対照的である。

 ナラティブを再現しない本作『バランス』の舞台言語は、ミニマルでありながら日常の経験世界に根差しているが、では生のままの現実であるかといえば、そこにフィクショナルな手の跡が見て取れて、一定の形状化、記号化が施されてあり、上演のフレームにおいて再構成されている──今回の舞台から観察されるのはどうやらこの辺りまでだが、例えば演技のソリッドな質感は、これら創作上の作業の過程で、上演のための調整のモードとして作り手が施したフィクションであり、創意の発露と言っていいのだろう。同時に、上演という形式が逃れようのない身体性を強く訴えかけてもいる。
 小野と中澤はこれまでにも数々の作品を発表しているが、いくつかは発語を中心とし、いくつかは身体の動きを扱い、直近では戯曲を用いた劇であるように、それぞれ形態が大きく異なる。おそらく小野と中澤は、作品ごとに異なるタスクを課すことで、それがどのような動きや言葉や身体のあり様、モードを生み出すか、そのモードが現実の経験的な世界や営まれる関係性を、どのようにアクティブに掬い取り舞台上に投影するのかを、実験を重ねるようにして試しているのではないだろうか。そうした個別のタスクの設定にこそ小野・中澤の創造性の契機があるように思われる。そうして映し出される我々の生とはどのような様相を呈し得るのか。今作のタスクは表題どおり「バランス」。関係性のミニマムである二つの身体のあり様を、未だ見ぬモード/様式をもって、しかし紛れもない現実の手応えとともに、映し出そうとする試みであったろう。


竹田真理 たけだ・まり
ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスを中心とした取材・執筆活動を行う。毎日新聞大阪本社版、国際演劇評論家協会関西支部批評紙「Act」ほか一般紙、舞台芸術専門誌、ウェブ等に寄稿している。


バランス|作品概要

ささやかなさ|推薦・応援コメント

スペースノットブランクの2人との出会いは、彼らが『ラブ・ダイアローグ・ナウ』でグランプリを受賞した2017年第8回せんがわ劇場演劇コンクールで私が審査員を務めた時でした。この時、初めて彼らの存在を知り、翌年の受賞者公演をはじめ、いくつかの公演を拝見しました。観るたびに感じるのは、彼らの多面性と、彼らの吸収力・探求心の大きさと幅の広さです。いわゆるダンスという枠組にも演劇という枠組にも収まらず、常に良い意味で観客の期待を裏切り続けている彼らの飽くなき探究の現在形としての作品を観ることは、彼らの成長・発展過程の目撃者になるということなのではないかと思います。スペースノットブランクの小野彩加と中澤陽のお二人とも優れたパフォーマーなのですが、自らがパフォーマンスすることを優先するのではなく、あくまで自らが創造したい作品にとってベストな方法を選択するという姿勢が、彼らのクリエーターとしての可能性を感じさせます。そんな彼らの今をぜひ目撃してください。

矢作勝義[穂の国とよはし芸術劇場 芸術文化プロデューサー]


私にとってスペースノットブランクは、真に〈現在〉を感じさせる(それゆえ極めて〈同時代的〉と思える)数少ない表現主体のひとつである。かれらの作る作品には、「なぜいまこの表現形式か?」「なぜいまこの言葉や肉体か?」「なぜいまこの世界にこのような制作(過程)か?」といった疑いと、それを乗り越えるための(いまあるべき)新たな発明や確信が、常にある。そこで光と音は、舞台上の時空間を、ほとんど冗談みたいな軽薄さでもって飽和させていく。溢れかえった必然の気配──同じく〈現在〉をクリティカルに構築する書き手・松原俊太郎の(「再演」という名でこそ可能な「新作」)戯曲を、(はたして他にありうるだろうか? と思える演出と役者たちによって)上演する本作が体験されるべきは、他でもない〈いま〉だ。

山本浩貴[「いぬのせなか座」主宰]


『ささやかなさ』の上演は、私をどこかとても遠いところへ連れて行ってくれた。
目の前で発される言葉や身体、舞台上で起こるあらゆる事象を楽しみながらも、同時にずっと遠いところ、宇宙のような、果てしない空間で起きていることを眺めているような、不思議な感覚。

スペースノットブランクの作品は、思考を超え、身体中のあらゆる器官を総動員して楽しめるところがとても好きだ。
舞台上で行われるふるまいのひとつひとつに無意識に身体が反応して、全身が喜んでいるような、他では感じられない多幸感に包まれる。
スペースノットブランクは、これから先も私たちをまだ見ぬ世界へのトリップへ連れ出してくれるだろう。

金沢の地でも、たくさんの方が『ささやかなさ』と出会うことを願っています。

山下恵実[演出家]


いつも以上に、自分だけの感覚で誰かに伝えたくなってしまうのが『ささやかなさ』です。
ネタバレになるかもしれませんが、大ヒット青春アニメから深夜にやっていた学園アニメ、海外のカートゥーンアニメから昭和初期の白黒アニメ全てをミックスさせて、登場人物達をアニメーターの線でなく俳優の身体で無理矢理再現していくような躍動感と次元を超えた緻密なやりとりの応酬に、切実な痛痒さと野心を見せつけられます。
幼少期、アニメのキャラクター達に憧れ、技名を叫んで夢中になって練習していた自分の記憶を炙り出される。それを恥ずかしいし痛々しいと思うけれど、スペノはそんな羞恥を跳ね除け、むしろ楽しみ、どうすればもっと良いかを悩み考え続けていて、あの時の自分が辿り着けなかった境地に立っている。
最高で異色のごっこ遊びから始まり、時間を超えて必殺技や名言や迷言を堂々と吐き続け、何度も名シーンを繰り返し、遂にはごっこではない全く新しいものを作り上げてしまう。だから『ささやかなさ』の皆さんに惹きつけられてしまう。
是非、これからご覧になる皆さんからも、感じたものをお聞かせ願いたいです。

池田亮[脚本家・演出家]


もはやスペースノットブランクの宣伝部の一員のようですが、コメントを求められれば私でよければ何度でも書こうと思います。この人たちの舞台だからこそ見られるものがあるから。見ないと知ることができないから。そこには生きている人がいるから。私自身も大好きな金沢での、金沢21世紀美術館での、シアター21での公演、盛況になりますように。

杉田協士[映画監督]


最近、劇場で驚くことが本当に少なくなった。予定調和でやることが、「危機の時代」の演劇が生き残るための戦略なのだろう。ただ、少数の例外がある。今回『ささやかなさ』を上演する劇作家の松原俊太郎と演劇制作集団であるスペースノットブランク(以下、スペノ)はその例外だ。いや、例外中の例外かもしれない。何が起きるかわからない、のだ。松原の戯曲は、岸田戯曲賞を2019年に受賞した『山山』以降も、予測不能な言語的強度を獲得しつつあり、そのテクストの上演を試みること自体が、ひとつの大きなチャレンジとなる。往年の野田秀樹を凌駕するような速度感あふれる言葉遊びと、どこかで見たようなシチュエーションとそこから予告なくずり変わっていくその場その場の字義通り場当たり的な感覚。カフカと学園物とメタシアターと学芸会と天皇制と家族と生と死が、なんとなく混濁しながら松原の言葉の力で前へ前へと推進させられていく『ささやかなさ』は、スペノのふたりの確かな上演(性)の構築力と、それに応える俳優陣によって、力強く、かろうじて、スリリングに、不条理に、楽しく、悲しく、感動的に、ほろ苦く、展開する。必見である。たまには劇場で、驚きを体験してもよいのではないか。

内野儀[演劇批評]


スペノの公演を観るたびに、僕は小説家として、自分がやりたいことをやれている自信がなくなります。同時に、自分にはまだ未知の可能性があるという確信も得られます。「スペノはこうやった。こういうことが出来るのだから、自分にもまだ方法は山ほどあるはずだ」と。いつも刺激を受けます。様式と言うのは、自分で作るものなのだと教えられます。スペノは一見、既存の様式を破壊しているだけのように思えますが、しかし何度も観れば、単なるカオスではなく、そこに一貫した思想が横たわっているのがはっきりと分かります。一つ一つの動きが、全体の中で必然的な位置に置かれている。よく計算されている。完成度の高いコンセプトアルバムを聴いているような感じです。そして何より、楽しんで作っているところがいい。実はスペノのアイデアの源泉って、すごく卑近なところにあると僕は考えています。サブカルチャーと言うと微妙に違うのですが、実生活に密着した芸術の感動と言いますか。身近にあるそれを発見するセンスは非凡で、だからこそ作品には妙な高尚さがあるし、もちろんポップなところ、クルっているところもあったりして、とにかく僕を惹きつけます。

鴻池留衣[小説家]


正直に言う。スペースノットブランクの舞台をそれなりに見続けてきてるし、だから当然、彼らのパフォーマンスをとても面白いと思っているのだけど、じつは、一度たりとも「理解した!」と思えたためしがないのだ。むしろ「全然わっかんねー」と言うべきかも。これは、“ある種の表現”に対する僕の「読解力」の欠如の問題なのだろう。ディスレクシアの中のどれかに似ているかも。あと、昔読んだウディ・アレンの小説に「パントマイムがまったく理解できない男」の話があったっけ。
そのアレンの小説の主人公は、周りの観客がパントマイムを見ながら逐一ドッカンドッカンと爆笑している最中、1人冷や汗を垂らしてあせりまくるのだったが、僕がスペノを観ている最中は全然そんな感じじゃなくて、一瞬一瞬、「ひゃー♡」とか「ややや!」とか「むむむむむ…」ってな感じに反応していて、そう、「読解、理解」ナシでただただ「反応」している、できているのです。要するに超楽しめている、ということ。一言で言うならば「手に汗握る」的な。一瞬たりとも目が離せないそれを楽しんでいます。百聞は一見に如かず、騙されたと思って観てみて下さい!

桜井圭介[音楽家・ダンス批評]


スペノを見ていると、出演者は何を考えて舞台に立っているのだろうと思う。これは私の最近の関心にも繋がる。私は人前で演奏をするとき、不安になることがある。それは自分のコンディションであったり、観客の反応に否応なしに影響を受けてしまうからだ。しかし、スペノの出演者にそんな迷いは一切ない。何がこんなにも彼らを突き動かしているのだろう。ふと思ったが、彼らの振る舞いはいわゆる「リアルな演技態」からかけ離れている。しかし、リアルとは何だろうか? 例えばテレビドラマを見ていると、緻密な脚本と演技が私たちの心に揺さぶりをかけてくる。感情の波が襲ってくる。だが、私たちの日常は、整理された脚本の上に成り立っているわけではない。筋道だったストーリーに沿って生きているのではない。私たちの日常において、ある劇的な瞬間は急激に訪れる。翻弄される。その繰り返しである。そう考えると、スペノの演技は「リアル」なのかもしれない。『ささやかなさ』は四人の出演者により、私たちの想像もつかない劇的な瞬間が披露されていく。スペノはストーリーではなく、ナラティブを語る。その語られ方は、日常で劇的な瞬間が訪れる際の「リアル」に基づいている。だからスペノは「劇」である。嘘みたいな「リアル」だ。あぁ、恐ろしい!

額田大志[作曲家・演出家]


戯曲の鬼才と上演の異才がタッグを組んだ記念すべき一作目である『ささやかなさ』は、公演毎に松原俊太郎がテクストを書き改め、スぺースノットブランクの二人と俳優たちがそれに応えることでひたすらアップデートを重ねてきた。
両者はすでに第二作『光の中のアリス』も発表しているが、それゆえ『ささやかなさ』の再演は『ヒカリス』の次なる新作でもあった。
私は高松での初演は観られず、戯曲のみ読んでいて、東京での再演を観て驚愕した。核の部分は踏まえつつ、さまざまな点で大きく違っていたからだ。
となると、今度の金沢公演では果たしてどう変わっているのか、、でも行けない(…)。
とはいえもちろん、過去上演を観ている必要はない。演劇は、特にスペノは、最新の上演が最新の表現だ。
ささやかなさとは何か? それが「ささやかさ」の「無さ」であるとするなら、そこで言われる「ささやか」とは何なのか? 
これは正解を隠した作品ではない。絶えざる問いかけとしての、終わりなき思考へと誘う作品だ。

佐々木敦[思考家]


ささやかなさ、を観た帰り道は多分ニヤついていた。いいものを見てしまった、と何度も小さい声で言っていた気がする。駅のホームに着いてもまだ浮かれていた。体は余韻の中にいたし、そこから離れたくなかった。

あの時間をうまく言葉にできない。寝起きで飲む炭酸水みたいにパンチがあって、目が覚める。心地がいいのにピリリと緊張する。全く知らないのに懐かしいと錯覚する。声を出して笑ってしまった。

それぞれに役があり、役割があるけれど、ただ人を見ていたようにも思う。何をするか、じゃなくて、誰がするか、なんだなと勝手に納得をした。
言葉は優しくて真っ直ぐで、少しの歪さがある。どうしてこんなにも惹きつけられるんだろう。ずっと聴いていたい。

ささやかな差で皆さまが、スペースノットブランクに、ささやかなさに、出会うことを願っています。

山口静[ダンサー]


ささやかなさ|作品概要

ささやかなさ|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの「保存記録」、小田尚稔の演劇の「広報」を務める。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。


 『ささやかなさ』に幾度もあらわれる「ボバディ」という単語に、それはおそらくは身体のことを言っているのだとひとまず考えてよいでしょうが、わたしは二つの小説の冒頭を想起します。ひとつは『ボヴァリー夫人』です。

──ぼくたちは教室にいた(Nous étions à l’étude)──

 思い出したのは、「ボバディ」と「ボヴァリー」は音が似ているし、『ささやかなさ』は教室を舞台にするからですが、それだけではありません。三人称を中心として進行するこの小説には以降「ぼくたち」、いやそれどころか「ぼく」自身がほとんど登場しません。この不思議を蓮實重彦は『反=日本語論』というエッセイ集の「「あなた」を読む」という文章で、読者と語りの行為の間で共犯関係を築くための操作だという従来の有力説をあっさり退けた上で、こんな風に説明しています。

──フランス語の「ぼくたち」Nous とは、「ぼく」の数倍化されたものではなく、この「ぼく」と「ぼく」ならざる他の人称の集合からなりたっていて、その構成要素相互のあいだには「排他的関係」が成立しているのだ。〔…〕「ぼくたち」が生きているのは、共犯関係ではいささかもなく、「排斥関係」なのだ。この集合的複数性を構成する生徒たちの中で、誰とも名ざされてはいない「ぼく」Je が残りの連中、すなわち「彼ら」Eux からひそかに身を引きはなし、その無名の「ぼく」が、「話者」としての優位を確立するのである。かくして『ボヴァリー夫人』にあっては、語る行為が、語られる事件(=物語)に先行するという特殊な形態が読者の前に提示されることになる。そして、『ボヴァリー夫人』が「現代小説の祖」であるとしたら、語る行為と物語の離婚が、何ら前衛的な畸形性を誇示することなく、誰もが口にしうるごくありきたりな人称代名詞の中に実現されているからにほかならない。読めそうにみえて読めない言葉とは、そうしたものなのである。──

わたしはここまでフローベールと蓮實に仮託してずいぶん楽に『ささやかなさ』のイントロダクションを済ませてきてしまいましたが、急いで話を2021年の日本の舞台に戻せば、『ボヴァリー夫人』同様の発話主体の曖昧化と語りの前景化の操作はこの演劇界をいまだ席巻しています。一人の俳優が複数の登場人物を演じあるいは俳優同士で登場人物を交換することはもはやクリシェ的表現と化していますが、表層の現れは類似していてもその核には違いが当然見出されるでしょう。たとえば自他の境界なき前─個我的な同質性へと向かう「日本的」心性の発露としてそれを捉える語りが多くの舞台には妥当するように思われますが、『ささやかなさ』の表現はむしろその対極にあります。そこに働いているのは「排除」と「選別」の論理です。そもそも同質的全体主義は松原戯曲において常に最大級の敵意を向けられるところのものです。しかし一方で松原さんの作品にある種の抽象性や匿名性が強く働いていることも確かです。そもそも「ボバディ」の「バディ」とは何なのでしょうか。bodyかbuddyかでニュアンスが大きく変わってきます。いずれにしても単一の存在のうちに複数の身体の現れを観る思想がわずか四字のうちに凝縮されているわけですが、前者の場合そこにはボディ(body)とバディ(body)が同一の場所をめぐり争う排除と選別の論理が強く働くでしょう。後者の場合その複数の身体は友人同士の連帯感のうちに「幸福に」安らうでしょう(ちなみに、buddyは英語圏で特に男性の友人や仲間同士を意味します)。それら二つの顔が相互に反転しながら「ボバディ」を構成しています。

──彼はそこにいるのだが、われわれの目には見えない、それはたんなる情報の起点、ひとつの境界、ひとつの記憶のようなものであり、自分の正体は決して明かさずに、ある時点で見たこと、知ったことだけを報告する。彼の正体が曖昧なのは、自分がどんな人物かという点について彼が口をつぐんでいるからだが、それだけではなく、彼が複数の人称で語っているせいもあるだろう。〔…〕語り手と語られたこととのあいだにまったく距離のないこのような空間的視点のおかげで、小説は開幕の時点から、読者と物語のあいだにきわめて親密な関係をつくり出す。──

いま引用したのは同じ『ボヴァリー夫人』についてのバルガス=リョサの解説です。彼は『ボヴァリー夫人』からその形式の着想を得たとしか思われない一つの中編小説、「小犬たち」を書いています。

──その年はまだ、みんな半ズボンをはいていて、ぼくたちはタバコも吸わず、サッカーが何より好きで、波乗りの練習も始めたばかり、やっと〈テラサス・クラブ〉の飛込み台の二番目の板から飛び込めるようになり、腕白で、つるつるした肌をし、好奇心が強くて、ひどくすばしっこく、がつがつしていた。クエリャルはその年、シャンパニャ校に入学したのだった。──

「ぼくたち」はチョート、チンゴロ、マニューコ、ラロという四人の男から成っているのですが、そのうちの特定の誰かの語りが名指しで前景化してくることはありません。彼らはすでに老年を迎えていて、幼き学校時代のクエリャルとの思い出を回想しています。物語は少年クエリャルが犬に男性器を食いちぎられて《ちんこ》というあだ名をつけられやがて社会から疎外され死に至るまでを描いたものです。「ぼくたち」はクエリャルとつるんでいたのだけれど、クエリャルを「ぼくたち」に引き入れることは決してなく、むしろ彼をとりまく社会的な制度の暴力を具現して(これは彼らが個々の存在を透明化して語りの権能として機能することとパラレルなわけですが)、クエリャルを迫害した犬に同化します。そして彼らの個我は「ぼくたち」という全体性へと犬同然に溶解していくのです。語りは犬たちの存在のありふれた卑小さへの自省に閉じられていきます。

──その頃にはみんなすっかり一人前の大人になっていて女房も車もあり、子供たちはシャンパニャ校やインマクラーダ学院、サンタ・マリア学院などに通っており、アンコンやサンタ・ローサ、スールの海岸などに別荘を建築中で、ようやく太り始め、白髪もちらほら、腹もせり出して、筋肉はたるみ、字を読むときには眼鏡を使い、食べたり飲んだりした後はどうも気分が悪く、肌にはそばかすや小皺も目につくようになっていた。──

しかし、犬とイヌとでは話が全然違ってしまいます。松原さんの作品に幾度も登場する「イヌ」という登場人物(?)、その重要な存在性格は「居ぬ」であると同時に物語にその座を占めて「居る」、不在の在の体現です。『ささやかなさ』とは一つには「ささやかな差」による偶然的で理不尽な排除への抵抗の物語です。つまりは死者の引き受けをめぐる物語です。「小犬たち」と違って、ここでは迫害され、死の憂き目に遭うのはイヌ自身です。2019年に香川県高松市のMOTIFで上演された『ささやかなさ』を、わたしは「あなた」という二人称に着目しながら、自閉する世界での死者の汎神化の物語として論じました。しかし、いまでは『ささやかなさ』をNous をめぐる物語として捉え返す必要を感じています。死者にメディアとしての仮想的身体を与えることがイメージの基本的機能だとすれば、この「引き受け」は表象=上演 représentation の行為とほとんど同義です。演技とは、俳優という椅子をめぐる亡霊たちのフルーツバスケットに他なりません。そのゲームでは当然あの排除と選別の論理が再度顔を覗かせてしまうわけですが、上演という営みがそんなくそったれな世界への有意味な抵抗となりうるかどうかは、すべてそこに紡がれるイメージのありようにかかっています。


ささやかなさ|作品概要

4月28日

4月28日の映像

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海 海 海 海は未知の可能性に溢れている

昔 いつの昔かわからないけど 生まれた時の 形 量 今の 形と 量は 違う

寛大 寛大 神秘を持っているけど 恐ろしさも感じていて 二極化

挟んで他を見たことはないけど この先には違う陸と繋がっているんだな 地平線が弧を描いている 丸みを感じたり 色んな面を 色んな事を考えさせて 体感させて くれる。

ボトル ボトルにお手紙入れて運ぶ 逸話みたいなのを聞いたり

未知な 未知の生物 未知生物 出会ったの事のない

魚 魚 類 魚類

奥深くには行ったことがないから 想像でしかないけど どこかに沈んでるのかな 地球

陸の上 陸から見えていたものが どうにかかんちゃらして もしかしたら深くにあるかもしれない

アトランティスが眠ってる

確認できる術 確認しようとしないけど 書物とかを見て、そういう逸話なのか、本当なのか、わからない 揺れ っていうのかな。ところを知ると、すごく、ときめく

父のサングラスがなくなった 波にさらわれてサングラスがなくなった

そして、やっと、こうして、こうして、人間になっていく

人魚姫とか、ファンタジーだけど。


本人たち|作品概要

4月21日

4月21日の映像

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もしかしたら 地形によって 二つしか季節を味わえない かもしれない

ジャガイモは 秋じゃない かもしれない

秋に 紅葉とか 銀杏を見る かもしれない

ひとり かもしれない

人 物 動物 言葉 話すだけじゃない

かもしれない

手話 文通 行為 会話 対話 説明 可能性

四つの季節があります

春 夏 秋 冬 今

かもしれない

季節は 共通認識している

かもしれない

春だなあ

冬 寒い

丸裸 寒さが 増す

星空 花火 霜柱 一、二

雪が 降る 四、三

夏になると プールとか海に行く

秋 準備期間で 暖かい土から 冷たい土に 変化する

サツマイモが 美味しい

生い茂った葉っぱが 枯れ始め

緑色から 赤 黄色 茶色 青空 青さ

秋は 栗拾いとか したことない

紅葉 紅葉 紅葉 紅葉とか

冬になると 寒いって言ったり

春 桜が 色とりどりの花が 咲いている

目覚める

今でも 思い出すことができます

なんで 苦手なのか 考えているけど できることが思い浮かびません ひとりではなくて 複数人 苦手って言ったのは みんなで ひとりじゃない人数で 効率が良い って思っちゃったからなのかな でも 効率の良さを目指しているんじゃなくて ただ ひとり 以外でやることなんじゃないかと思うと 苦手ではない かもしれない

今 窓を閉めました

足手まといになる 可能性


本人たち|作品概要

4月14日

4月14日の映像

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何について 話しましょう

掃除 手伝う

どうやって 捨てよう

逆さまにすれば ガスを抜ける

外で やりましょう

逆さにしたら できます

夏の風物詩 風情があります

に なりました

どうやって 届けよう

どうだろう どうだろう

送らないで おきましょう

身体を 拭く

洗濯機を 回す

話を してました

もう 満足

抜きで やりましょう

穴が あいてる

似合ってない 似合ってない

ドライヤーを 当てる

髪型が 決まる

家で 洗える

大人は 経験してるから 一人暮らしをしてて 上が 多いから 尊敬する

尊敬してなかった まったく尊敬してなかったけど すごい尊敬した 大人に対して 守られている時に 上の 守られていない 経験している それを考えると すごいなあ 思います

長かった印象があるから 重みが 言葉の重みが

花火みたい


本人たち|作品概要

4月7日

一、二、三、四、ペロリ した。

たぶん零時過ぎに寝て、朝目覚ましがなって、気が済むまでベッドの上に居ました。

本当ならば お昼ご飯 は家で食べる予定だったんだけど、なーんかね、ふと 買ってしまった。お芋のタルト みたいな 小さい すぐ 食べれる。買ってから、公園 色んなお店がたくさんあって、溢れてるんですよ。食 食 材 に だから、あー あれも食べたい これも食べたい ってなって 結局食べ歩きみたいなことをしてた。で その お芋 みたいな タルト 食べた後に、なんか牡蠣の、なんだろ甘酢っぽい味の。で、ネギが入ってる 中華 なのか 和食 なのかわからない、カレーとか、あの 野菜炒めとか、とも言えないような、あの なんか お客さんがね よく入ってる。あ お客さんが並んでた団子屋さんを見つけてしまって、団子と、団子食べて、そうしましたらよ、冷凍庫にある余り物とか、スーパーで安く仕入れたもので、タイトルみたいなのがない創作料理が出てくる。出てくるのは、その、牡蠣の料理なんですよね。でも、それがなんなのかもわからないし、唐揚げがあるじゃないかと、甘いものに揚げ物はやっぱりちょっと、それも、そのね、そこも、並んでる唐揚げだったの。で、テイクアウトしたいなって 思って あの 梅しそ唐揚げ 一個買って食べました。好きな食べ物 何 って言われても、牡蠣のあれをなんて言ったらいいかわからなくて 好きなんだけど その後に餃子を見つけてしまって、もう最近餃子食べたいなと思ってたから、そこはテイクアウトじゃなくてイートインで。餃子を 四 個。ブロッコリーと、鶏肉を、下味つけて、マヨネーズを網目状にかけて、オーブンで焼く。近くには、平日休みでお酒を飲んでて、三人で来てて、キツいんだけど、すごい甘甘な会話を聞いて。聞きながら、餃子を 四 つ。食べました。ずっと メインディッシュ 柳葉魚 鰯を焼きましたみたいな 煮魚シリーズ メインかと思ったら スティック野菜 マヨネーズつけて皆さんでどうぞ 肉がダン あとなんだろ あ そうしたらよ ミスタードーナツの抹茶の新味 抹茶のポンデリング 楽しい休日 終わり。おやすみ。今日は言わない。日付が変わるところから考えてた。じゃあ、遡って、昨日の出来事をお話します。ホワイトロリータです、って言ったら、ダメだ、って言われたぐらいルマンド派だった。リアルなお話。七時とかだったかな。早く寝れない理由を探りたかったのと、気持ちが良い生活習慣に戻したいと思って、朝ご飯を。七時に起きて、お手洗いと口内洗浄を行なった。お水を飲みながら朝食の準備をした。玄米 納豆卵かけご飯 お味噌汁 サラダ 文旦 林檎 スタートを、切れたかな。最近 引越しを考えてるけど、最近 柑橘を買うってなるとよく行くお店に行けなくなることが、可能性としてあるかなあ と思うと ちょっと寂しくて。朝ご飯食べて、ちょっと自転車乗りたいな って思ったのと、物件見に行こうかな って思って、自転車に乗って、公園まで行きました。街道沿いを走ったんだけど、すごい公園があったりとか、緑が多くて、閑静。住宅街なんだけど閑静な住宅街って感じ。もしね、引越しするなら、そこもいいな、って、思って、思ったんだ。でも 結局探していくと 希望とする 持っている 希望とする条件とかで探してもらうと やっぱり ちょっと残念な感じ え、本当に、もうちょっと話したいな。まだあるけど、まだあるけど きっと 一時くらいかなあって思って、何度も整えていたから、覚えていない。夢を見てたし、もうお昼過ぎてるだろうなあって もうお昼過ぎてるだろうなあって 何度も 何度も 思いながら、ふとした瞬間に時計を確認したら 十一時。十三時ではなくて、何度も、タイミングを見計っていたことを思い出した。


本人たち|作品概要

4月6日

一年前は がんばろう としてる時期ですかね

四月二日 十五時 作るっていうのが仕事であって、それが 一分で、一分のために十九時から しか その仕事はなくて。だから本当にそれまでパソコン開いて 何してたっけなあ トートバッグとかを調べて過ごしてました。仕事はありませんか、って訊いても ないです って言われるので、十五時から十九時まで 仕事なし

四人で二人はその二人プラスもう二人の四人でもう一人唯一の四人の中の一人だけ一緒だったので四人が三年間ぐらいは四人ともう一人のもう二人も四人で四人で行きました。四人の内の一人の四個目ぐらい食べて手が止まったんですね。自由な縛りのないんで、そりゃもちろん人気で、二時間くらい四時間ぐらい電動自転車の電動自転車を電動自転車を買ったので電動自転車が電動自転車の値段で四時間使って、電動自転車で電動自転車を電動自転車を四時間の使い方がバラバラに去っていく。ていう感じでした

仕事があるから 物件があるから

説明していないと ものすごいやばい。誤解されそうなコミュニケーションの取り方をして。本当に直接ちゃんと会うんだけど、ちょっとみんなに誤解されるみたいなのが あって

今日 まだ食べてない ずっと そう 冷蔵庫に アイスがあって どのタイミングで食べるかっていうのが 今日のメインイベント。

昨日 行ったところは もう どうでもよかった。昨日の物件は、

一昨年 一番最初にコミュニケーションで覚えてるのは 悔しさに乗っかって突っ込んでみたのがすごい コミュニケーションの取り方を、上下関係だけを見て物事を言ってくる人に対しては それをやらせるわけにはいかないので、敬うという心がけ、そういうタイプの普通に関わってくるっていうのは ある程度、気を遣えますよ まあ えーと で なんだろ えー なんか あの なになに みたいな なんかこう って でも その って ま チャレンジとして センス 言葉選びのセンスの良さ、発揮できなかったセンスの良さみたいなのに 距離 壁 みたいなものを持っていた

無期限の延長をします。それはすごい綺麗な桜だった

唯一、訊かれた質問は。ルマンドと、ホワイトロリータ。


本人たち|作品概要

4月5日

桜が 思い出します。その時にいただいた おいなりさんがすごく美味しく 待ち受け おいなりさん おいなりさんの裏側を使ってる おいなりさん。

四月スタートの予定だったんだけど、最初だけ、三月の、いつだったっけ、三月に、もらってた 一番 最後。それが三月で、電化製品は買ったんだけど届くのが遅くて、最初の一週間は電化製品なし。電化製品が届いても布団が届かなくて、最初は、一ヶ月は、掛け布団で全身をぐるぐる巻きにして過ごす あと エアコンが壊れ、シャワーが壊れ、ガスの火が付かなくなり、洗濯機から水が漏れ、最初の一ヶ月はちょっと地獄

メイン。コーチしてくれてた人が、キーパーソン。身体を整えるみたいなので、耳のラインと肩が前に出てる人は同じラインにできます それをやりたいです って言いに行ったら、いいよ って言ってくれて、

生活を、送っておりました 生活をし、ゴミ捨て場の位置とかも、言われてるところと違う場所だったらしくて、お母さんがゴミとか持って、ゴミ捨て 指定された場所に持ってったけど そこじゃないです。って言われて、もっと奥の方です。とか

ボッコリ ボッコリしてるところを 思い出す。この地の、ボッコリしたところを思い出す。

いつを最後に会ったのか 覚えてないなあ 連絡は年に一回 お手紙をくれる お花 押花 貝殻付き。もらって、一回水に浸して、投げる。

三月の最終週。一番おもしろかったのが、友達を家に呼んで、ご飯振舞います って言って出た料理が やきそば たこやき おにぎり だった時。なんで って思ったけど めっちゃ料理上手だけど なんじゃこれ そんな感じで みんなで笑った。

知らなかった

そう

うん 予約。予約っていうか、買ったの あったけど、それは ギリギリ

でも、あれだな。一年前だ。


本人たち|作品概要