スペースノットブランクの2人との出会いは、彼らが『ラブ・ダイアローグ・ナウ』でグランプリを受賞した2017年第8回せんがわ劇場演劇コンクールで私が審査員を務めた時でした。この時、初めて彼らの存在を知り、翌年の受賞者公演をはじめ、いくつかの公演を拝見しました。観るたびに感じるのは、彼らの多面性と、彼らの吸収力・探求心の大きさと幅の広さです。いわゆるダンスという枠組にも演劇という枠組にも収まらず、常に良い意味で観客の期待を裏切り続けている彼らの飽くなき探究の現在形としての作品を観ることは、彼らの成長・発展過程の目撃者になるということなのではないかと思います。スペースノットブランクの小野彩加と中澤陽のお二人とも優れたパフォーマーなのですが、自らがパフォーマンスすることを優先するのではなく、あくまで自らが創造したい作品にとってベストな方法を選択するという姿勢が、彼らのクリエーターとしての可能性を感じさせます。そんな彼らの今をぜひ目撃してください。
矢作勝義[穂の国とよはし芸術劇場 芸術文化プロデューサー]
私にとってスペースノットブランクは、真に〈現在〉を感じさせる(それゆえ極めて〈同時代的〉と思える)数少ない表現主体のひとつである。かれらの作る作品には、「なぜいまこの表現形式か?」「なぜいまこの言葉や肉体か?」「なぜいまこの世界にこのような制作(過程)か?」といった疑いと、それを乗り越えるための(いまあるべき)新たな発明や確信が、常にある。そこで光と音は、舞台上の時空間を、ほとんど冗談みたいな軽薄さでもって飽和させていく。溢れかえった必然の気配──同じく〈現在〉をクリティカルに構築する書き手・松原俊太郎の(「再演」という名でこそ可能な「新作」)戯曲を、(はたして他にありうるだろうか? と思える演出と役者たちによって)上演する本作が体験されるべきは、他でもない〈いま〉だ。
山本浩貴[「いぬのせなか座」主宰]
『ささやかなさ』の上演は、私をどこかとても遠いところへ連れて行ってくれた。
目の前で発される言葉や身体、舞台上で起こるあらゆる事象を楽しみながらも、同時にずっと遠いところ、宇宙のような、果てしない空間で起きていることを眺めているような、不思議な感覚。
スペースノットブランクの作品は、思考を超え、身体中のあらゆる器官を総動員して楽しめるところがとても好きだ。
舞台上で行われるふるまいのひとつひとつに無意識に身体が反応して、全身が喜んでいるような、他では感じられない多幸感に包まれる。
スペースノットブランクは、これから先も私たちをまだ見ぬ世界へのトリップへ連れ出してくれるだろう。
金沢の地でも、たくさんの方が『ささやかなさ』と出会うことを願っています。
山下恵実[演出家]
いつも以上に、自分だけの感覚で誰かに伝えたくなってしまうのが『ささやかなさ』です。
ネタバレになるかもしれませんが、大ヒット青春アニメから深夜にやっていた学園アニメ、海外のカートゥーンアニメから昭和初期の白黒アニメ全てをミックスさせて、登場人物達をアニメーターの線でなく俳優の身体で無理矢理再現していくような躍動感と次元を超えた緻密なやりとりの応酬に、切実な痛痒さと野心を見せつけられます。
幼少期、アニメのキャラクター達に憧れ、技名を叫んで夢中になって練習していた自分の記憶を炙り出される。それを恥ずかしいし痛々しいと思うけれど、スペノはそんな羞恥を跳ね除け、むしろ楽しみ、どうすればもっと良いかを悩み考え続けていて、あの時の自分が辿り着けなかった境地に立っている。
最高で異色のごっこ遊びから始まり、時間を超えて必殺技や名言や迷言を堂々と吐き続け、何度も名シーンを繰り返し、遂にはごっこではない全く新しいものを作り上げてしまう。だから『ささやかなさ』の皆さんに惹きつけられてしまう。
是非、これからご覧になる皆さんからも、感じたものをお聞かせ願いたいです。
池田亮[脚本家・演出家]
もはやスペースノットブランクの宣伝部の一員のようですが、コメントを求められれば私でよければ何度でも書こうと思います。この人たちの舞台だからこそ見られるものがあるから。見ないと知ることができないから。そこには生きている人がいるから。私自身も大好きな金沢での、金沢21世紀美術館での、シアター21での公演、盛況になりますように。
杉田協士[映画監督]
最近、劇場で驚くことが本当に少なくなった。予定調和でやることが、「危機の時代」の演劇が生き残るための戦略なのだろう。ただ、少数の例外がある。今回『ささやかなさ』を上演する劇作家の松原俊太郎と演劇制作集団であるスペースノットブランク(以下、スペノ)はその例外だ。いや、例外中の例外かもしれない。何が起きるかわからない、のだ。松原の戯曲は、岸田戯曲賞を2019年に受賞した『山山』以降も、予測不能な言語的強度を獲得しつつあり、そのテクストの上演を試みること自体が、ひとつの大きなチャレンジとなる。往年の野田秀樹を凌駕するような速度感あふれる言葉遊びと、どこかで見たようなシチュエーションとそこから予告なくずり変わっていくその場その場の字義通り場当たり的な感覚。カフカと学園物とメタシアターと学芸会と天皇制と家族と生と死が、なんとなく混濁しながら松原の言葉の力で前へ前へと推進させられていく『ささやかなさ』は、スペノのふたりの確かな上演(性)の構築力と、それに応える俳優陣によって、力強く、かろうじて、スリリングに、不条理に、楽しく、悲しく、感動的に、ほろ苦く、展開する。必見である。たまには劇場で、驚きを体験してもよいのではないか。
内野儀[演劇批評]
スペノの公演を観るたびに、僕は小説家として、自分がやりたいことをやれている自信がなくなります。同時に、自分にはまだ未知の可能性があるという確信も得られます。「スペノはこうやった。こういうことが出来るのだから、自分にもまだ方法は山ほどあるはずだ」と。いつも刺激を受けます。様式と言うのは、自分で作るものなのだと教えられます。スペノは一見、既存の様式を破壊しているだけのように思えますが、しかし何度も観れば、単なるカオスではなく、そこに一貫した思想が横たわっているのがはっきりと分かります。一つ一つの動きが、全体の中で必然的な位置に置かれている。よく計算されている。完成度の高いコンセプトアルバムを聴いているような感じです。そして何より、楽しんで作っているところがいい。実はスペノのアイデアの源泉って、すごく卑近なところにあると僕は考えています。サブカルチャーと言うと微妙に違うのですが、実生活に密着した芸術の感動と言いますか。身近にあるそれを発見するセンスは非凡で、だからこそ作品には妙な高尚さがあるし、もちろんポップなところ、クルっているところもあったりして、とにかく僕を惹きつけます。
鴻池留衣[小説家]
正直に言う。スペースノットブランクの舞台をそれなりに見続けてきてるし、だから当然、彼らのパフォーマンスをとても面白いと思っているのだけど、じつは、一度たりとも「理解した!」と思えたためしがないのだ。むしろ「全然わっかんねー」と言うべきかも。これは、“ある種の表現”に対する僕の「読解力」の欠如の問題なのだろう。ディスレクシアの中のどれかに似ているかも。あと、昔読んだウディ・アレンの小説に「パントマイムがまったく理解できない男」の話があったっけ。
そのアレンの小説の主人公は、周りの観客がパントマイムを見ながら逐一ドッカンドッカンと爆笑している最中、1人冷や汗を垂らしてあせりまくるのだったが、僕がスペノを観ている最中は全然そんな感じじゃなくて、一瞬一瞬、「ひゃー♡」とか「ややや!」とか「むむむむむ…」ってな感じに反応していて、そう、「読解、理解」ナシでただただ「反応」している、できているのです。要するに超楽しめている、ということ。一言で言うならば「手に汗握る」的な。一瞬たりとも目が離せないそれを楽しんでいます。百聞は一見に如かず、騙されたと思って観てみて下さい!
桜井圭介[音楽家・ダンス批評]
スペノを見ていると、出演者は何を考えて舞台に立っているのだろうと思う。これは私の最近の関心にも繋がる。私は人前で演奏をするとき、不安になることがある。それは自分のコンディションであったり、観客の反応に否応なしに影響を受けてしまうからだ。しかし、スペノの出演者にそんな迷いは一切ない。何がこんなにも彼らを突き動かしているのだろう。ふと思ったが、彼らの振る舞いはいわゆる「リアルな演技態」からかけ離れている。しかし、リアルとは何だろうか? 例えばテレビドラマを見ていると、緻密な脚本と演技が私たちの心に揺さぶりをかけてくる。感情の波が襲ってくる。だが、私たちの日常は、整理された脚本の上に成り立っているわけではない。筋道だったストーリーに沿って生きているのではない。私たちの日常において、ある劇的な瞬間は急激に訪れる。翻弄される。その繰り返しである。そう考えると、スペノの演技は「リアル」なのかもしれない。『ささやかなさ』は四人の出演者により、私たちの想像もつかない劇的な瞬間が披露されていく。スペノはストーリーではなく、ナラティブを語る。その語られ方は、日常で劇的な瞬間が訪れる際の「リアル」に基づいている。だからスペノは「劇」である。嘘みたいな「リアル」だ。あぁ、恐ろしい!
額田大志[作曲家・演出家]
戯曲の鬼才と上演の異才がタッグを組んだ記念すべき一作目である『ささやかなさ』は、公演毎に松原俊太郎がテクストを書き改め、スぺースノットブランクの二人と俳優たちがそれに応えることでひたすらアップデートを重ねてきた。
両者はすでに第二作『光の中のアリス』も発表しているが、それゆえ『ささやかなさ』の再演は『ヒカリス』の次なる新作でもあった。
私は高松での初演は観られず、戯曲のみ読んでいて、東京での再演を観て驚愕した。核の部分は踏まえつつ、さまざまな点で大きく違っていたからだ。
となると、今度の金沢公演では果たしてどう変わっているのか、、でも行けない(…)。
とはいえもちろん、過去上演を観ている必要はない。演劇は、特にスペノは、最新の上演が最新の表現だ。
ささやかなさとは何か? それが「ささやかさ」の「無さ」であるとするなら、そこで言われる「ささやか」とは何なのか?
これは正解を隠した作品ではない。絶えざる問いかけとしての、終わりなき思考へと誘う作品だ。
佐々木敦[思考家]
ささやかなさ、を観た帰り道は多分ニヤついていた。いいものを見てしまった、と何度も小さい声で言っていた気がする。駅のホームに着いてもまだ浮かれていた。体は余韻の中にいたし、そこから離れたくなかった。
あの時間をうまく言葉にできない。寝起きで飲む炭酸水みたいにパンチがあって、目が覚める。心地がいいのにピリリと緊張する。全く知らないのに懐かしいと錯覚する。声を出して笑ってしまった。
それぞれに役があり、役割があるけれど、ただ人を見ていたようにも思う。何をするか、じゃなくて、誰がするか、なんだなと勝手に納得をした。
言葉は優しくて真っ直ぐで、少しの歪さがある。どうしてこんなにも惹きつけられるんだろう。ずっと聴いていたい。
ささやかな差で皆さまが、スペースノットブランクに、ささやかなさに、出会うことを願っています。
山口静[ダンサー]
ささやかなさ|作品概要