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舞台らしきモニュメント|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの「保存記録」を務める。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。


 2018年に上演された『舞台らしき舞台されど舞台』を改題した、『舞台らしきモニュメント』。「されど舞台」という、懐疑を経た舞台への晴れやかな肯定をはるかに突き抜けて、その上演行為は「モニュメント」と化してしまいました。造形芸術ではなく上演芸術が「モニュメント」を名乗るのはいったいなぜなのか、ここではこの不思議に素直に向き合ってみたいと思います。
 モニュメントは普通、なにかを象徴しあるいは記念するためにつくられる造形物です。それは時に制作者の意図も超えて、社会的・政治的な意味を帯びます。それを批評的に観るときには、そのモニュメントがどのような<場>に巻き込まれていて、またそれがどのような<場>を新たに生起させているのかに着目することが必要です。ですから、モニュメントはその形態や色彩といった造形性よりは、時代や場所、社会的背景といった文脈のなかでのその「振る舞い」に即して一般に評価されます。しかし、その評価があくまで批評的な目によって与えられるというのは、裏を返せば、モニュメントを取り巻く<場>の力学は普段は自然化され、覆い隠されているということでもあります。人々はモニュメントのパフォーマンスにほとんど目もくれずにその横を通り過ぎてゆくわけです。
 さて、しかしこのように「モニュメントをパフォーマンスと見なせる理由」を思案し続けたところで、「パフォーマンスをモニュメントと見なせる理由」が明らかになることはありません。いま直ちに考えなければならないのはむしろ、一回性を旨とする上演芸術がモノの位相に立つとはどのようなことか、です。
 実は、スペースノットブランクのモノへの関心はいまに始まったことではありません。たとえば2017年に第8回せんがわ劇場演劇コンクールで『ラブ・ダイアローグ・ナウ』がグランプリを受賞した際の受賞者インタビューで、演出の中澤さんは次のように語っています。

──僕たちの作品は身体的な要素は多いんですが、今回の作品は振付は一切していません。その代わりに「物」に依存するということをしていて、「物」をこういう風に使ったらこういう動きが生まれる。観客と出演者の立場をよりフラットにするのと同時に、舞台上にある「物」とか「空間」とか「言葉」も全部同じレベルに引き上げることをしたいと思っていました。出演者の方々は動きに対して「物」をあてはめるんじゃなくて、「物」をどういう風に使ったらどういう動きが生まれるのかを常に考えて「物」を使っています。だから身体表現というよりも、「言葉」はしゃべらなくちゃならないけど、それとまったく違うベクトルの負荷がかかっているという状態を生み出したかったんです。なので「言葉」と「動作」は関係性の違うベクトルをなぞっています。──

重要なのはここで<出演者>の言葉や身体と<モノ>が並置されているばかりではなく、<観客>の存在や<空間>までもが、舞台という同じフラットなレベルに引き上げられようとしていることです。そして、<出演者=モノ=観客=空間>というこの四項関係は、『舞台らしき舞台されど舞台』を第一作目とする、2018-19年にかけて制作された「舞台三部作」シリーズにおいてさらに焦点化されます。そして以降のスペースノットブランクの取り組みのほとんどは、程度の差や方法の違いこそあれ、この<出演者=モノ=観客=空間>という四項関係を「舞台」という同一平面で展開することに賭けられています。
 その狙いはまず、2017年時点での中澤さんの

──やはり出演者がいて、それに対して「物」は使われるものというのが固定概念としてある気がしていて、それを打破していきたいという想いがシンプルにあります。──

という言葉にあるように、世界を演技(あるいは鑑賞)主体に相関的なスケールで捉える見方の外に出ること、人間中心主義的に構成された知覚や行為の解体にあったはずです。
 しかし現在のスペースノットブランクの<モノ>への関心はまた別の方向をも向いているように思われます。その行き先を知るには、彼らのこれまでの軌跡を概観する必要があります。
 2018-19年版「舞台三部作」はとりわけ観客論的な性格の強いものでした。その詳細は拙稿をご参照願いたいと思いますが、そこでは<観客>との関係を問い直すことで、「舞台」というイリュージョンが劇場外部のリテラルな日常性へと伸長していくことが目指されていて、<モノ>や<空間>への関心はどちらかといえば後景に退いています。
 しかしスペースノットブランクは新たな展開へと舵を切ります。わたしが「劇場三部作」と名付けた『光の中のアリス』『バランス』『救世主の劇場』の三作では、あの<出演者=モノ=観客=空間>のうち、<モノ>でもあり<空間>でもある、劇場という物理的機構が異様なまでに前景化するのです。いまやその企図は<観客>の舞台への参与や、「舞台」の日常性への浸潤では説明しきれません。
 「舞台」が<観客>を取り込みその外部へと拡張していくという考え方を、ここで逆向きにまったく転換してしまう必要があります。ごく図式的に単純化して言えば、スペースノットブランクの歩みを規定しているのは、「舞台」に載せられる上演という<上部構造>を支えるさまざまな<下部構造>それ自体を「舞台」として現前させる逆転の発想です。<下部構造>には「舞台」として夢幻化されるまでもなく、生きられるべき複雑なシステムが駆動しているのだから、それは<上部構造>と並置される必然性があるわけです。しかし、そうした<モノの論理>は普段ほとんど可視化されることはありません。<出演者=モノ=観客=空間>の四項関係の脱序列化がこうして変奏されます。
 ここで改めてスペースノットブランクの方法論を確認しておきましょう。スペースノットブランクの作品の主要な特徴は、制作段階に「聞き取り」というプロセスを設け、クリエーションの現場での出演者の発言からテクストを生成することにありました(とはいえそうした作品は、ここ2年ほどはむしろ東京以外の都道府県が上演会場に選択されてきましたが)。稽古場で過ごされる時間、出演者の記憶や語り口といった日常的な素材を舞台の<下部構造>として編集し現前させる方法論がスペースノットブランクの制作態度の基礎にあるということです。
 「劇場三部作」は、舞台の<下部構造>である劇場の物理的機構を強調することで、こうした<下部構造>を象徴的に主題化しました。しかし、それはあくまで象徴にとどまるものでした。『救世主の劇場』評でわたしはある問題点を指摘しています。そこではリテラルな<下部構造>である、<物理的機構としての劇場>と、観客の鑑賞を支配する<制度としての劇場>が混同されていますが、前者にいかに働きかけても後者の変革には至らないのです。舞台という<上部構造>の閉塞を打破するには、象徴としての劇場ではなく、具体的な体系性をもつ<下部構造>に働きかけてこれを操作する必要があるでしょう。
 『舞台らしきモニュメント』が上演される同2021年9月上旬に、スペースノットブランクはさらに別の2作品、『サイクル(ワークインプログレス)』と『ストリート』を発表しています(ただし前者は現時点では小野彩加さんの単独名義)が、ここで試みられていたのも日々のサイクルやストリートの行き交いに眠る体系性を、<下部構造>として捨象することなく「舞台」として生きられるものにすることでした。
 なお、最後に、ここで論じているのは掌握しえない神秘的な<物自体>などではなく、いま確かに我々の下に動き回っていてその内実をいくらか知ることの出来る<モノの論理>であることを断っておきたいと思います。「舞台」と呼ばれるにたる充実を誇るその足場を、充分に生きることが問題なのです。モニュメントが「舞台らしき」装いをとるのは、空白でない空間を確かな足取りで歩まねばならないためだというわけです。


舞台らしきモニュメント|作品概要

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