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光の中のアリス|インタビュー|古賀友樹

Photo by Tatsuya Nakagawa
古賀友樹 Yuki Koga
俳優。1993年9月30日生まれ。俳優として、ゆうめい『みんな』『弟兄』『巛』『あかあか』、シラカン『蜜をそ削ぐ』、劇団スポーツ『すごくうるさい山』『ルースター』『徒』、かまどキッチン『燦燦SUN讃讃讃讃』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ネイティブ』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『すべては原子で満満ちている』『氷と冬』『フィジカル・カタルシス』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『光の中のアリス(作:松原俊太郎)』『救世主の劇場』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』『舞台らしきモニュメント』『クローズド・サークル』『ウエア(原作:池田亮)』『ハワワ(原作:池田亮)』『再生数(作:松原俊太郎)』『本人たち』『セイ(原作:池田亮)』『言葉とシェイクスピアの鳥』などの作品に参加する他、演出補として、穂の国とよはし芸術劇場PLAT 高校生と創る演劇『ミライハ(作:松原俊太郎 / 演出:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク)』に参加している。2020年、びっくり箱リアクション王決定戦 ビリ1グランプリ 第1回王者。2023年、CoRich舞台芸術まつり!2023春 演技賞受賞。
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聞き手:佐々木敦
話し手:古賀友樹
場所:『光の中のアリス』稽古場

Photo by Haruka Takahashi

佐々木敦(以下、佐々木) 面談室みたい。この部屋がその雰囲気を醸し出してしまうっていう感じですけど。

古賀友樹(以下、古賀) 緊張しますねー。

佐々木 緊張することないですよ(笑)。よろしくお願いします。

古賀 お願いします。

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクとの出会い

佐々木 古賀さんは、今回の座組の中でスペースノットブランクに一番古くから出てらっしゃる方だと思うんですよね。まずはやっぱり、スペースノットブランクとはどういう出会いだったんですか?

古賀 え、じゃあ話していいですか?

佐々木 ぜひお願いします。

古賀 え、じゃあもう本当に、本当のエピソードなんで、話しますよ?

佐々木 全然お願いします。

古賀 僕、福岡県出身で、高校卒業するまでは福岡に住んでたんですけど、その時Perfumeが大好きだったんですね。

佐々木 なんか、意外すぎる話の始まりですね。

古賀 当時はちょうど『トライアングル』っていうアルバムが出る前くらいだったと思うんですけど。

佐々木 まだブレイク前ですね。

古賀 そう。『ポリリズム』が出てちょっと経った頃みたいな。それで、当時のTwitter上で、中澤陽の同級生と仲良くなりまして(笑)

佐々木 Perfume繋がりで?

古賀 そう。中澤陽の同級生の方もPerfumeが好きで、Twitter上で仲良くなった。

佐々木 えー。

古賀 詳しい経緯は忘れちゃったんですけど、その方が、当時多摩美術大学の映像演劇学科の1年生だったんですね。僕は高校演劇やってたから演劇良いなって思ってて、進学先を迷ってたんですよ。ちょうどその時、四国学院大学の演劇コースが1期生募集してたからそこに行こうと思ってたんですけど、そしたらその中澤陽の同級生の方が「多摩美においでよ」って。

佐々木 その方は1つ先輩ってことですよね。

古賀 そうそう。で、僕、大学受験の時に中澤陽の家に泊まったんです。

佐々木 そうだったんですか(笑)

古賀 その、だから、スペースノットブランクとの出会い以前にまずPerfumeがあって。

佐々木 友達の友達からだったってことですね。中澤君は大学受験の時に泊めてくれた人ってことですか。

古賀 そう。

佐々木 へぇー!

古賀 そう。大学受験で泊まりに行くついでに、中澤陽とその同級生の方の映像制作の手伝いとかもして。で、なんやかんやあって、僕はAO入試落ちて。3人しか落ちなかったらしいんですけど(笑)

佐々木 逆にすごい。

古賀 その後に一般入試の方を受験して受かりました。その時にはもう既に小野さんと中澤さんは2人で一緒に作品を作ってたから、大学入学後は僕がそこに合流する形で。

佐々木 はいはい。

古賀 というか、受験前に中澤陽が「合格しなくても東京で一緒に作品作ろうよ」って言ってくれて。

佐々木 その軽さ、すごいな。

古賀 もう入学前から中澤陽と5月に作品作ることが決まってたんですね。で無事に合格して上京して、その1週間後にはもう稽古が始まってるみたいな。

佐々木 ははは。

古賀 で、事務所の会議室みたいなところで3人で作品を稽古して作ったっていうのが、出会い。

佐々木 上京してから稽古への流れが早い(笑)

古賀 何するかも分かんないまま合流したら、バリバリダンス作品だった。

佐々木 そうなんだ。

古賀 今では全くやってないんですけど、プロジェクションマッピングとダンスを混ぜて作るみたいなイケイケな、当時的にはイケイケだったんですけど。っていう作品を一緒にやったっていうのが、本当の最初です。

佐々木 すごい出会いですね。古賀さんは高校演劇やってたわけじゃないですか。いわゆるダンスの経験はなかった?

古賀 ないです、未経験でした。

佐々木 すごいですね、やってみたら出来たみたいな感じですか。

古賀 というより、基本やれることしかやらない、当時からそれはそうですね。当時は自分で振りを考えるとかあんまりやってなかったから、2人が僕にぴったりの振りを一緒に考えてくれてたみたいな感じです。ジャンプ系が得意だからそういう振りで。

佐々木 わりと最初からフィットしたというか、周波数が合ったみたいな感じはあったんですか。

古賀 そうですね。別に嫌な感じはせず、ギクシャクすることもなく、すごく平和な時間を過ごしましたね。

始まりから並走して

佐々木 古賀さんが合流した時には、既に小野さんと中澤さんはスペースノットブランクっていう名前だったんですか?

古賀 当時は違う名義だったんですよ。まだ全然、いまの体制じゃない時でした。

佐々木 古賀さんの大学生時代と、2人がスペノになっていく過程は並行してたんですか?

古賀 並行してます。僕が2年生に上がってちょっとしたら、中澤陽は多摩美から居なくなりました。

佐々木 中澤君が多摩美だったってことさえいま初めて聞きましたよ。経歴謎だからね。

古賀 そう。途中から居なくなったので、先輩というよりは一緒に作ってる人みたいな。

佐々木 大学からは居なくなったけど、作品は作り続けてたってことですよね。それがどのタイミングでスペースノットブランクになっていったんですか?

古賀 いまの手法がクッと定まってきたのが、『緑のカラー』とか『ラブ・ダイアローグ・ナウ』。それこそ『ラブ・ダイアローグ・ナウ』は、僕と今井菜江さんの思い出話とほぼ空想で作られてるんですけど。そこで土台がどんどん作られていった感じ。

佐々木 古賀さんはあの手法の誕生の瞬間からやってたんですね。

古賀 やってましたね。これで本当に作れるのかなーって思いながら。

佐々木 思うよね、それは絶対。思うけど、やったら出来ちゃったっていう。

古賀 出来ちゃいましたね。

佐々木 僕は『緑のカラー』とその後のせんがわ劇場演劇コンクールの凱旋公演が本当に衝撃的だったから、わりとその後すぐに三鷹のSCOOLでスペースノットブランクに出てもらったんじゃないですか。

古賀 出ましたね。

佐々木 その頃はまだその手法のプロトタイプ段階みたいな。

古賀 基本的に自分が喋ったことを喋る。パンチラインみたいな台詞があるから、あとで復唱してサビみたいな形で使ったりするんですけど、基本的には自分が喋ったことを全部喋るし、自分から出たものしか喋んないし。

佐々木 それが台詞になるってことですもんね。

古賀 時々人から貰ったものもあるけど。

佐々木 それもあるんだ。

古賀 っていうやり方は本当にその時にギュッとやって作りましたね。

佐々木 古賀さんはスペノの初期の頃からずっと一貫して出演をされていて、もう一方で他の現場の作品にも出るじゃないですか。棲み分けみたいな感じはないんですか?

古賀 僕自身はあんまり差異はないです。

佐々木 そうなんですか。どっちも同じような感じでやる?

古賀 同じですね。これ言うと、なんて横柄なやつなんだって思われるかもしれないですけど、まずは自分がやりたいようにやる。それを調整するっていうのがスペノのやり方でもあるし。どの現場でも、まずは好きなようにやってみてーっていうのがあると思うので。

佐々木 最初にインタビューされない、ってことくらいしか違いはない。

古賀 最近はインタビューも要所でしか使わなくなりましたけどね。でも、そうですね。あんまり変わらないかもしれない。

佐々木 僕は古賀さんのスペノ以外の出演作品も見たことあるんですけど、作品毎にすごい違うんですよね。まず見た目も変えてくる、髪型とか色々。

古賀 髪色とかね。

佐々木 そうそう。それはすごいカメレオン型みたいな感じがしちゃうんですけど、それは毎回自分で「変えよう!」みたいな感じなんですか。

古賀 全然変える気はないですね。人が見て捉え方はバラバラで良い、と僕は思ってるから。基本的に自分で決めたこだわりみたいなものは絶対にやるんですけど、「今回は変えてやろう」とかはあんまり思わないかな。

佐々木 古賀さんはめっちゃスペノに出てるわけじゃないですか。だからこう、スペノに対して変化を求めるというか、そういう意識ってちょっとあるのかなぁって思ったんですけど。

古賀 でもまぁ、2人の今の流れと飽きがあるし、僕の流れと飽きもあるから。

佐々木 そうですよね、そりゃあそうだ。

古賀 たぶん、変わったりしてんのかなぁ。分かんないなぁ。

佐々木 古賀さんはスペースノットブランクの手法の誕生の瞬間にも立ち会ってるから、あんまり特殊な感じはしないのかもしれないですけど、途中から来た人がいきなりあの手法で作ったら「何これ」ってなるじゃないですか。

古賀 なりますよ。僕だって思ってますよ。

佐々木 あ、思ってますか?

古賀 おもろ手法だなって思ってます。

佐々木 あーやっぱそうなんですね。

古賀 そりゃそうですよ(笑)。まぁ多少は麻痺してる部分はあると思うんですけど。

佐々木 麻痺(笑)

古賀 いやでも、当時も画期的だなぁって思った。おもろーって。

佐々木 その手法で面白く出来上がるっていうのがすごいですよね。普通は面白くならないだろってのもあるし。

古賀 そうですね、聞き取りっていう手法もフィジカル・カタルシスっていう手法も、どっちもそれだけで食っていけるじゃんっていうレベルの。

佐々木 発明ですよね。古賀さんはスペノに出続けてもう10年くらい?

古賀 10年は越えてますね、2人との関わりで言ったら。

佐々木 まぁ、共に歩んできた戦友みたいな感じもあるということですよね。

古賀 戦友かなぁ。

戯曲と立ち上げる

佐々木 最初のうちは聞き書き的な手法で作っていたけど、既存の戯曲をやるっていうことにもなっていったわけじゃないですか。松原俊太郎さんは劇作家で戯曲をがっつり書く方だから、『ささやかなさ』が最初にあって、その後が『光の中のアリス』で。これはもう本当に戯曲じゃないですか。

古賀 そうですね。

佐々木 普段と全然作り方が違いますよね。それは当然スペノにとっても挑戦だったと思うんですけど、古賀さんは自分で演じてみて初演の時どうだったんですか。

古賀 でも、僕は『ささやかなさ』が前の段階としてあるので、『光の中のアリス』はすごくやりやすい。『ささやかなさ』を高松のギャラリーで上演した時は、役者が2人なのもあってとんでもない台詞量で、しんどーって思って。当時は滞在先で食あたりを起こして体調も崩しちゃって。ヘトヘトでボロボロでやってたっていうのが記憶としてはあるので。それを経て、『光の中のアリス』は2人じゃないし、4人だし。まあ厳密には小野さんと中澤さん合わせて6人ですけど、なんか楽しいし、楽しげ。

佐々木 戯曲をやる時はいつもと作り方も違うわけじゃないですか。

古賀 あんまり変わんないって思っちゃいますね。逆にめっちゃ無責任なこと言いますけど、分担してくれてありがたいって思います。戯曲があるから、面白さ担保されてるじゃんっていう。普段の聞き取りの手法って、とりとめもない話が殆どなんですよ。「最近、コーヒーに凝ってて、熱いのと、寒いのがあるんですけど⋯⋯」みたいな。

佐々木 スペノっぽい(笑)

古賀 「冷たい」を「寒い」って言い間違ったのもそのまま使っちゃうみたいな。そういう話も、だって、つまんないじゃないですか(笑)。それをなんとか上演で意味のあるものに、まぁ無意味だなって思いながらやるんですけど、面白みのあるもの、見れるものとしてやってはいくけど。

佐々木 仕上げていかなきゃいけないっていう。

古賀 でも戯曲は、台詞に沿って話せば筋が通るからありがたいって思う。

佐々木 戯曲があること自体がもうありがたいってなるという(笑)

古賀 そう。自分から出たテキストは自分から出たただのモノにしか見えない、人から見たら面白みのあるテキストなのかもしれないけど、「いやこれは⋯⋯」っていうのが今までいっぱいあるし。

佐々木 そもそもは自分がダラダラ喋ったことですもんね。

古賀 本当に。だから、やっぱ松原さんのテキストは本当に面白いし。

佐々木 確かに。本当にそうですよね。

古賀 面白いし、立ち上がっていくと、良いなって思うシーンも空間もいっぱいあるので。そういった面で初演時は、何て言えば良いんだろ。ラッキーっていう(笑)。「松原さん、2作目も書いてくれてありがとう!」っていう。

佐々木 そうですよね、その後も書いてますからね。

古賀 そう。だって1作目の『ささやかなさ』は言ってしまえば、僕と西井裕美さんの2人で役者やってて、厳密には小野中澤も舞台上に居たんですけど、これが例えば、「あー、書いて失敗だったわ」って思われたら2作目出来ないじゃないですか。

佐々木 あー、確かにね。まぁ松原君の方もハマったってことだね、スペノに。

古賀 2作目が出来るってことは、多少なりとも引きがあったんだって思って。

佐々木 全然あったんじゃないですか?

古賀 良かったーって。ラッキーって。書いてくれてありがとうーって。

新しい風でふたたび

佐々木 『光の中のアリス』の初演が4年前に京都であった時、僕は「スペノが戯曲やるんだ、しかも松原君の!」って思って見に行ったわけですけども、初演の手応えというのはどういう感じだったんですか。

古賀 やっぱり自分たちでやってる作品はめっちゃ面白いって思ってたんですけど、どう受け容れられるかっていうのは僕はあんまり考えないことにしてるんですよ。受け取りはお客さんがやることだし、僕らはただ出す。面白いと思ったことを面白い状態で出す。で、思ってた以上に好評で良かったって思いました。もっと言い方悪いと、スベると思ってました。

佐々木 あー。「何これ?」みたいな。

古賀 そう、意味分かんないから。

佐々木 聞き取りとは違う方向性の「何これ?」感が、松原戯曲自体にあるということもあるんですけど。でも結局やって良かったなと思ったし、これからもこういう機会があればいいなってなったんですもんね。

古賀 そうですね本当。だから、儲けもんやなーって、良かったーって思いました。

佐々木 今回はそれが再演になるわけじゃないですか。京都でしか上演してないから東京でいつかやるっていう話は前からあったと思うんですけど、いよいよやりますよってなった時にはどう思われましたか?

古賀 まずは、「出来る、やった!」っていう喜びはもちろんありました。『光の中のアリス』は、勝手に周りで幻の作品って言われてるから。

佐々木 見れなかったからね、東京の人は。

古賀 そう。なんか評判良かったらしいじゃん? みたいなことしか。

佐々木 なんで東京でやんないの? みたいなことですよね。

古賀 いやいやそういう企画なんだよって感じなんですけど。で、やれるっていう楽しみはあるんだけど、戯曲は変わらずにいきますってなった時に、もちろん皆で作るものではあるけど、自分は更新しないといけないからちょっとプレッシャーはありますね。

佐々木 あー、初演と全く同じことやるわけにはいかないしってことですよね。

古賀 やるにしても、初演のクオリティよりも高めないとっていうプレッシャーが半々くらいですね。楽しみ半分、プレッシャー半分。『光の中のアリス』っていう題名だけど、もしまた内容がガッと変わってたら、プレッシャーは5分の1くらいになるけど。

佐々木 そっか、なるほど。4年が経って色々構える部分があるってことですね。

古賀 初演を見てくれた人は、どう変わるのかを楽しみにして欲しいとは思いつつも、超えなきゃって思ってますね。

佐々木 いま稽古期間の半分くらいですよね。4年前はこうだったみたいなことと、新たに変えるっていうことが話にありましたけど、どんな感じでいま稽古に臨まれてますか。

古賀 身体が覚えてる部分は少なからずある。声を発した時に、「あ、この言葉、息のとり方気持ちいいな」っていうのをやっぱり思い出すんです。思い出して、やっぱりこう話した方がいいなって思う箇所もあるけど、それで気持ちよくなってていいの? っていう横槍を自分が刺してくるわけですよ。

佐々木 まだ何かやりようがあるんじゃないかみたいな。

古賀 もうちょっとチャレンジした方が良いんじゃないかみたいなのを思いつつも。でもそこは自分で上手いこと折り合いをつけるじゃないですけど、「やっぱりそうか」、「やっぱり違うのかも」っていう調整をしてます。もちろん新しく演出が変わるところは、楽しく新しくやってます。

佐々木 今回メインキャストの半分が入れ替わっているわけですけども、再演といっても大きな違いがあると思うんですよ。やっぱり初めてスペノに出る人は、どれだけキャリアがあっても新鮮さと戸惑いがあったりするものだと思うんですね。古賀さんから見て、皆が現場に馴染んでいく過程って感じたりするんですかね。

古賀 馴染んでいくというよりは、力を貸してもらってるみたいな、新しい風っていう感じ。僕自身はすごく頼りたいと思うし、作品として活かしたい。初演時の矢野昌幸さんと佐々木美奈さんもすごい素敵でしたけど、今回はもう読み合わせの段階で「これは全く違うものになる」って思いました。演出の2人も「とりあえずこれだと思うものを出してもらえれば、それに間違いはないので」って言ってるんですけど、そこで出てくるパワーって確かなものだから、それをありがたくお裾分けしてもらおうって気持ちです。

佐々木 4年ぶりに『光の中のアリス』をやってみて、作品の世界観はどういう風に捉えてますか? 捉え難い作品ではあると思うんですけど、やっぱ不思議な戯曲じゃないですか。

古賀 でもやっぱ、読み直すと気づくというか、深まるところはあって。深まるというか、解釈が変わるみたいな。やっぱりお話をずっと続ける話ではあると思うんですね。思い出す、思い出さないとか、そういうのが作品の中で繰り返し描かれると思うんですけど、僕がそういう捉え方出来るかもなって思ったのが、もしかすると最初のシーンがエピローグなんじゃないかなーとか。

佐々木 ほうほう。

古賀 いや、辻褄合わないとこはあるんですけどね。騎士とヒカリのその後っていうのは作品の中で描かれないですけど、もしかすると最初のシーンを2人のエピローグとして見ることも出来るんじゃないかとか。そういう新しい糸口を見つけて戯曲を楽しもうと思うわけなんですよ、貪欲だから。

佐々木 本当に色んな解釈にひらかれた謎満載な戯曲ですもんね。

古賀 謎満載。自分、騎士(ナイト)っていう役なんですけど。

佐々木 騎士(ナイト)って何なんだよっていう(笑)

古賀 分かんない。全然「こいつ何?」って思っちゃうし、感情とか全く入れ込めない。

佐々木 そうですよね、感情の問題がほぼない戯曲ですもんね。まぁいつもだけど。

古賀 ほぼない。かなり抽象化されてる。

佐々木 でも、エモーショナルに言ったりしなきゃいけない部分もあるじゃないですか。

古賀 語りかける! みたいなとこですよね。それは、相手のパワーを借りつつも相応しいものにしようとは努めてますけど、楽しんでるっていうのはあります。

Photo by Haruka Takahashi

上演に向けて

佐々木 僕が前に稽古場に来たのが数週間前だから、このペースだと次はもう本番なんじゃないかという感じなんだけども、古賀さん自身の意気込みとかありますか?

古賀 めちゃくちゃ楽しめる作品にはなると思います。それだけは確かに言える。でも、楽しめるけど、もしかしたら⋯⋯。あら、マイナスなこと言おうとしてる(笑)

佐々木 ははは。

古賀 楽しめるとこがいっぱいありすぎて、どこを取っていいのか分かんないって人がいるかもしれないな、とは。

佐々木 バーンって。

古賀 そう、バーンって。おもちゃ箱、玉手箱、バーンっていう作品になるとは思う。まぁ最終的に演出の2人が調整してくれると思うんですけど。お客さんに対しては、あんまり気負わずに見に来てくれたら楽しめるよっていうことは言えますし、言いたい。

佐々木 「わかりたい」って思いすぎると、「わからない」という答えが出てきてしまう可能性があるかもしれないので、もっとオープンマインドで見て欲しい作品ではあるよねっていう。

古賀 チケット取って、よし見にいくぞ! っていうのが演劇の常ではあるんですけど、「あ、天気良いなー、演劇やってるー、入ろう」みたいなのが一番たぶん良い。本当はね。

佐々木 三軒茶屋を散歩してて、つい入っちゃうみたいな。

古賀 何だこれ? 『光の中のアリス』やってるなぁ、みたいなのが一番良い。

編集:髙橋遥 土田高太朗

ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」

インタビュー
松原俊太郎
荒木知佳
古賀友樹

Photo by Arata Mino
佐々木敦 Atsushi Sasaki
思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。芸術文化の複数の領域で執筆、教育、プロデュースなどを行なっている。著書多数。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』。近著として『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の喪失』『「教授」と呼ばれた男ー坂本龍一とその時代』などがある。
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光の中のアリス

光の中のアリス|インタビュー|荒木知佳

Photo by Junya Osakabe
荒木知佳 Chika Araki
俳優。1995年7月18日生まれ。俳優として、FUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』、毛皮族『Gardenでは目を閉じて』、theater apartment complex libido:『libido: 青い鳥(作:モーリス・メーテルリンク)』、彩の国さいたま芸術劇場『導かれるように間違う(作:松井周 / 演出:近藤良平)』、たくみちゃん『―(dash)#2 Rosetta Stone』、ロロ『BGM』、セビロデクンフーズ『石田、ゴーゴーヘブン!』、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『緑のカラー』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『舞台らしき舞台されど舞台』『すべては原子で満満ちている』『フィジカル・カタルシス』『光の中のアリス(作:松原俊太郎)』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』『ウエア(原作:池田亮)』『再生数(作:松原俊太郎)』『バランス』『セイ(原作:池田亮)』などの舞台作品に参加するほか、本日休演『天使の沈黙』MV、『春原さんのうた(監督:杉田協士)』『彼方のうた(監督:杉田協士)』『走れない人の走り方(監督:蘇鈺淳)』などの映像、映画作品に参加している。2021年、KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD 2020にてベストダンサー賞受賞。同年、マルセイユ国際映画祭2021(FID)にて俳優賞受賞。
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聞き手:佐々木敦
話し手:荒木知佳
場所:『光の中のアリス』稽古場

Photo by Haruka Takahashi

佐々木敦(以下、佐々木) そのTシャツ良いですね。

荒木知佳(以下、荒木) 良いですか? やったー。

佐々木 何人ものイラストレーターが描いたかのように見えるけど1人がデザインしたんですか。

荒木 1人です! アーティストの大原舞さんという方が、私の持ってる白Tに描いてくれた。

佐々木 そうなの? じゃあ一点物だ。

荒木 一点物!

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクとの出会い

佐々木 たぶん僕は荒木さんを初めて見たのがスペースノットブランクの作品だったんですよね。だから荒木さんとスペノ(「スペースノットブランク」の略称)は切っても切り離せないみたいな感じなんです。やっぱり最初は、どういう経緯でスペノに出演されるようになったのかをお伺いしたいです。

荒木 まず多摩美術大学の先輩の古賀友樹さんがスペースノットブランクによく出演していて。

佐々木 先輩だったんですか。

荒木 そうなんですよ。聞いたところによると、古賀さんと一緒に出演する方で誰か良い人いるかなぁってことをスペースノットブランクのお二人が古賀さんに訊いて、古賀さんが「荒木知佳という人が大学の後輩にいる。」って答えてくれて、それで声が掛かって出演することになった。

佐々木 たぶん僕が荒木さんを最初に見たのは、下北沢で上演した『緑のカラー』だったと思うんですよ。それがスペノ初出演ですか?

荒木 最初です、それが最初。

佐々木 荒木さんは大学でも演劇を学んでたんですよね。やっぱりスペースノットブランクって作り方といい作品といいあんまり見たことないような手法じゃないですか。最初呼ばれてやりますよってなった時に、まずインタビューとかされる訳じゃないですか。それって最初の出演時はどう感じてたんですか?

荒木 どっちかというと古賀さんを信用してたというか、古賀さんが居るからまあ大丈夫だろうなっていう。

佐々木 じゃあ、わりと楽しく出来た感じ?

荒木 楽しく出来た感じです。出演する前にせんがわ劇場演劇コンクールで上演されてたスペースノットブランクの作品を見たんですよ。

佐々木 『ラブ・ダイアローグ・ナウ』ですね。グランプリを獲ったやつ。

荒木 そう。それを見に行って、よく分かんないけどすごい面白いなぁって思ったんですよね。なんか動きが面白くて、なんでその動きになってんだろ、何をやってるんだろうっていう謎がどんどんなんか、もっと知ってみたいし、もっと中に入ってどういうことが行なわれてるのかを知りたいし、まあ古賀さんいるし大丈夫だろうっていう。

佐々木 そこらへんの安心感はあったという。

荒木 安心感、ありました。

スペースノットブランクの創作

佐々木 スペノは他の現場とは稽古の仕方からして違うじゃないですか。古賀さんが居る安心感があったにせよ、やっぱり「こんなことやったことないよ」っていう風になるじゃないですか。

荒木 なりましたね(笑)

佐々木 それはやってみたら意外とハマったというか。

荒木 出来たというか気づいたら、ね。変な動きとかもして。

佐々木 普通にちゃんと戯曲があって役目があってみたいなやつとは違う潜在能力みたいなのを引き出される感じがあったんですかね。

荒木 あーそうかも。最初聞き取りで自分の話をして、それがそのまま台詞になるみたいな。普通じゃない。でも面白かった。めっちゃ面白いなーって思って。

佐々木 スペノの場合は、創作の出発点がインタビューじゃないですか。ああいうのって話すこととか決めてるの?自分の中で。

荒木 決めてない。

佐々木 もうその場で思いついたことを喋ってるの?

荒木 はい。もうパッと思いついたことを瞬発的に。

佐々木 一番最初の時は、それが台詞になるって言われても何のことだか分かんないですよね。

荒木 いやもう分かんなかったです。

佐々木 でも何度も何度もやってる訳じゃないですか。だんだん、こういうこと言ってやろうみたいな気にならない?

荒木 いやならないですね。嘘を言ってもいいし作り話でもいいしっていうインタビューの仕方が上手なのかな。

佐々木 でもやっぱり何回かやってると、いま自分が口にしたエピソードやそのキラーフレーズが台詞になっちゃうかもって思うじゃないですか。

荒木 いやー、思ったことないかも。

佐々木 そうなんだ、すごい。でもそれが良いですよね。毎回本当にリセットして新鮮な感じでやれるっていうのは。

荒木 だから「えーっと、うーん」とかも入ってるから、あぁそっかーそうだった、って毎回思う。ここも台詞になるんだったーみたいな。

佐々木 僕はスペースノットブランクで初めて見た作品が『緑のカラー』だったんだけど、荒木さんを見て「なんだこの獣のような目をした人は」って思ったんですよね。なんか取り憑かれたように演技してたから、その時に名前も一緒に覚えたみたいなことがあったんですよ。その時はスペースノットブランクの創作方法も知らなかったから、何だろうこれって僕も思ったんですよね。その後にせんがわ劇場演劇コンクールの賞を獲った後の『ラブ・ダイアローグ・ナウ』の凱旋公演でも荒木さんは出演されてたんですよね。

荒木 出てましたね。

佐々木 じゃあそれが2個目ってことか。

荒木 2個目ですねー。

佐々木 面白いとか、やったことないけどやってみたら楽しいとかあったと思うんですけど、多分スペノの側からも荒木さんがハマったから何度も出演してるってことがあると思うんですよね。そのシンクロみたいなのは何ですかね。

荒木 なんだろうー。でも話してることが結構分かるというか、なんかうん、分かるーみたいなことが多い気がする。自分もゴールを設定せずに分かんない所に行ってみたいっていうポテンシャルはあるから、それがいけた要因なのかな。型にハマったどこかに行くよりは、自分の知らない世界に行ってみたいみたいな。

佐々木 それはもうスペノとピッタリですよね。

荒木 確かに(笑)

フィジカルの強さと振り幅

佐々木 スペースノットブランクは作品数も公演数も多いからどんどん出演することになるじゃないですか。でもその間に他の現場の作品にも出演する訳ですよね。その切り替えみたいなのはどうなんですか。

荒木 ええーどうなんだろう。でもだんだんスペースノットブランクは「ただいま」みたいな気持ちになっちゃう。

佐々木 若干ホーム感があるっていう。

荒木 この空気感に帰ってきました! みたいなのはあるけど、でもなんかやっぱり1つの方向性の荒木知佳みたいなのにもなりたくなくて、色んなのにも挑戦して色んな自分の一面を発見出来たらいいなみたいな。新しい所にも行くけど、続けるのも続けて行った方が見えてくるというか。

佐々木 まあ、ずっと同じことやる訳じゃないですもんね。変わってくるし進化してくる。

荒木 その先に何があるんだろうっていうラインと新しいものの発見ラインと、どっちもないとなんか不安みたいな気持ち。

佐々木 そういう意味ではだいぶ理想的な感じになっていったっていうことですよね。スペースノットブランクっていう線もあるけど、それ以外の線も持ってるから、振り幅的にも色々全然違うだろうから。

荒木 スペノの作品は、めっちゃ動くから痩せられる。

佐々木 痩せられるのはともかく(笑)、スペノの作品での荒木さんを見てていつも思うのは、身体能力がとにかくものすごく高い。そのフィジカルの強さみたいなのは何なんですかね、元々持ってたんですか?

荒木 多摩美の勅使川原三郎さんの授業でめちゃめちゃ鍛えられた気がします。3時間ジャンプして跳び続けて。跳び続けていくと段々気持ちよくなって楽しい境地に行ける。行った瞬間にどこまでも行けるってなる。

佐々木 スタミナがあるってのはやっぱりあるんだね。

荒木 そうかも。負けず嫌いでもあるのかも。

佐々木 絶対やり遂げてやるみたいな、結構無茶なこと言われる方が燃えるみたいな。

荒木 そう、昨日の自分に勝つみたいな気持ちが常にある。

佐々木 すごいな。

荒木 昨日の自分を超えてやったぞ! みたいな気持ちが常に(笑)

佐々木 すごい向上心、あらゆる総合的な向上心を持ってる。

映画と舞台の身体性

佐々木 スペースノットブランクをやりつつも他の作品にも出演する中で、やっぱ荒木さんの大きなトピックは映画だと思うんですよね。『春原さんのうた』は荒木知佳っていう俳優にとってもすごく大きなことだったと思うんですよ。で、映画はまた違うじゃないですか。杉田協士監督の映画の作り方も普通の映画と違うかもしれないけど、でもやっぱり全然違う。映画に出てみて発見とかありました?

荒木 発見、なんだろう。杉田さんが緊張しない環境というかすごく素敵な空間を作る人だから、それに乗っかるみたいな感じでその場にただ居るだけでいいみたいな。何か自発的にやってやろうみたいな気持ちを逆に持たないっていう流れに乗っかって、これ来たからこうだーみたいな感じ。でもそれもスペノのダンスにも似てるかも。なんかこれ来たから次こう動くとか。

佐々木 単に一方的じゃなくて、向こうが投げたものに対して自分がどう打ち返すか分かんないけど、打ち返すことでまた来るみたいな。

荒木 来る、転がっていくみたいな。

佐々木 じゃあちょっと似てるとこあるんですね。

荒木 似てるとこあるかも。ただスペノだと駆け引き的に「よし、仕掛けよう」みたいなのはちょっとあるけど、杉田さんの映画はそんなことは無く。

佐々木 やっぱシナリオがちゃんとありますもんね。

荒木 それもあるし、その流れに乗ってそこにただ居るだけというか。それもめっちゃ面白かったです。本当に何も考えなかった。次の台詞何だっけとかも全く考えずに、こうなったらこの台詞出てくるよなーみたいな。あっ、すごーいみたいな(笑)

佐々木 それが荒木さんの特殊能力なんじゃないですか。

荒木 あっ、そうなんですか? 

佐々木 なんていうかな、こう、覚えてないみたいな。いちいち新鮮にいけるよっていう感じがもしかすると。

荒木 確かに忘れちゃう。

佐々木 あと演技の在り方も映画と演劇ってそもそも違うじゃないですか。演劇は上演が始まったらずっとだけど、映画はワンカットワンカット撮ってるわけだし。荒木さんの中では自然に現場の在り方みたいなのに馴染めた感じですか。

荒木 でも映画の現場がまず分かってないから。

佐々木 杉田監督の映画の現場に行ったのが最初だからってこと?

荒木 そうかも。でもめっちゃカメラがいっぱいみたいな現場にはまだ行ったことないから、そうなった時の自分の、何だろ、それもめっちゃ興味ある。どうなるのかは分かんないけど。

佐々木 台詞の言い方もスペースノットブランクの場合は特殊じゃないですか。現実でああいう喋り方あんまりしてないみたいな。でも、例えば『春原さんのうた』とかは本当に自然な一言二言で会話してるみたいな、発声の仕方自体も違うみたいな、それは割と自分の中で処理できたんですか?

荒木 あの空間でいまこのお話だったらこの声だし、スペノで、舞台上で、お客さんに届ける声だったらこの声だし、この発声だし、聞いて欲しいからゆっくり言ったりとか大きく言ったりとか逆に静かに言ったりとか、関係性によって出る発声だから。

佐々木 それは結構自然にコントロール出来ちゃう感じなんですか。

荒木 そういう感じなのかも。だから私はどっちも自然って思っちゃう。

佐々木 別にどっちかの方が自然だけどこっちは無理してるとかじゃなく、割とどっちもスルッと出来た?

荒木 スルッと出来た!

佐々木 すごいじゃない。

荒木 すごいですか? 私も違和感はない。

佐々木 僕はやっぱり『春原さんのうた』の荒木さんを見た時に、「あ、こんな演技も出来ちゃうんだ」と思ってすごい新鮮だったんですよ。たぶんそう思った人は他にもいると思うので、映画の仕事ってのも続けていってほしいと思うんですよね。

Photo by Haruka Takahashi

思い出し中

佐々木 『光の中のアリス』は4年前に初演があって、松原俊太郎さんの戯曲をやったのも初めてだったと思うんですけど、当時の思い出ってありますか。

荒木 松原さんと沢山お話しした思い出があるかも。

佐々木 初演の時に?

荒木 『光の中のアリス』の脚本を書く前に、それこそインタビューみたいな感じでお話ししたりして、それもちょっと組み込まれてるのかなーっていう。

佐々木 だってヒカリは荒木さんへのあてがき、あれがあてがきって訳分かんないけど、そういう感じですよね?

荒木 「こんなに私が喋りやすい台詞になってる、すごい!」と思って。

佐々木 おーなるほど。それはやっぱり松原さんがインタビューで喋り方とかを観察してますよね。さすがですね。

荒木 すごい覚えやすくて、なんか戯曲イチ覚えやすい(笑)

佐々木 じゃあめちゃくちゃノって出来たんだ。今回再演となった訳ですけども、4年経ってみてどうですか? 初演の時は再演するとは思ってなかったと思うんですけど、今回かなり座組が変わって、劇場がトラムになるってことだけでもずいぶん違うと思うんですけど。

荒木 やー、まずめっちゃ嬉しい。再演がすごい嬉しい。シアタートラムってのもめっちゃ嬉しい。通る度に「いつかはここで!」って思ってたから。

佐々木 あ、初トラムなんだね。

荒木 はい、初トラムです。三軒茶屋めっちゃ好きで、「いつかここで!」って。

佐々木 そういう意味ではもう待望の。

荒木 いやー、そうなんですよ。劇場が好きなんですよ。去年KAATでやった時も、「KAATで絶対やりたい!」って思ったらKAATのお話が来て。

佐々木 それは良いことだよね。

荒木 はい、場所が好きかもしれない。

佐々木 トラムってまた特殊だよね。上が開いてたりとか奥があったりとか、全然初演の時とは同じ作品でも違った感じになりそうですよね。

荒木 そうですね、しかも地下が開いてるっていう。

佐々木 中澤君がそういう話もしてましたね、フルに使った感じで上演が出来ると。いまは稽古途中だと思うんですけど、4年ぶりに演じてみて作品に対しての感じ方、自分の演技も含めて、どう感じてますか?

荒木 どうなんだろう。でも初演の動きを見て、今回もちょっと取り入れようみたいなことが結構あって、でも何でこういう動きしてたっけっていうのが、もう覚えてない、忘れちゃうから。何でこれだったんだろう、何でこの動きなんだろうとか、何でこの時こういう声出してたんだっけっていうのは。

佐々木 自分でやったけど、その理由はよく思い出せない。

荒木 そう、理由が分からなくなって、今回もやる上で、どうしてこの発声になるんだろうっていうのをもう一回自分で考え直す作業が入るんだなと思って、それがいま大変というか。

佐々木 例えばその中で、だからこうするってのもあるし、いまだったら変えるみたいなこともあり得るってことですか。

荒木 あり得ると思います。

佐々木 それは少しずつ変わっていってるみたいな。

荒木 変わってます、たぶん。初演は結構力が入ってたけど、今回はそんな力入らずにやりたいなーとか。

佐々木 あの時はそうでしたよね。結構がっつり戯曲だし。

荒木 がっつり戯曲だし、なんか身体性に力がこもってたけど、今回はもうちょっと力抜いたバージョンで出来ないかなーとか色々考えたりしてます。本当に記憶が、忘れちゃうから、初演の記憶がもうない。

佐々木 まあ普通に考えたら4年経ってたら忘れてますけどね、結構な部分は。

荒木 基本、全部新鮮。

佐々木 読み合わせをちょっと見させていただいた時に、やっぱり荒木さんと古賀さんは結構スルッとやってる感じがあったと思う。

荒木 本当ですか?

佐々木 手探り感はない感じがしたんですけど、そうでもなかったですか? 意識としては。

荒木 そうでもなかったです。どうやって喋ろうみたいな。いつも毎回本読み緊張しちゃうんですよね。

佐々木 全くそう見えないですね。

荒木 文字を読むの苦手なんです。覚えちゃえば大丈夫なんですけど。文字を追うってのが苦手で、ゲシュタルト崩壊起こしちゃう。でもすごい面白いから、松原さんの戯曲すごい面白い。

佐々木 僕も聞いてて、読み合わせ聞いてるだけで笑っちゃうっていうか、何で笑ってるのか自分でもよく分からないみたいな感じありますね。

荒木 そう、言ってるだけでもなんか面白いみたいな。本読みで新鮮に感じられました。しかもみんなまた違う新しいメンバー。

佐々木 そうですよね、また違うヒカリスが見れるという。

荒木 めっちゃ面白いです、伊東沙保さんも東出昌大さんも。すっごい面白いから。

Photo by Haruka Takahashi

上演に向けて

佐々木 考えてみたら本番まであと3週間くらいかな。意気込みというと変だけど、まあ11月に入ったら本番がもう控えてるわけじゃないですか。

荒木 やばいです。

佐々木 いまの心境はどうですか。

荒木 体力的な問題で、いま1場を頑張って作ってるところでもう汗ビッチャビチャだから結構心配。終わる頃にはどうなっちゃってんだろうって。もうビチョビチョ具合が。水溜りとか作っちゃうんじゃないか。

佐々木 本番でそうならないようにしないといけないですよね。でも尻上がりに毎回ガーッと稽古していくって感じなんですかスペノって。

荒木 いやどうなんだろう、毎回違うから。

佐々木 そうなんだ、それも違うんだ。

荒木 分からないです、まだ。

佐々木 いつも同じ感じのパターンっていうのはそんなにないんですね。

荒木 ない気がする。

佐々木 回数出てる人がそう言うんだから本当にそうなんだ。

荒木 私が忘れてるだけかもしれないけど、毎回違う。

佐々木 僕はマーダーミステリーやらされて。すごい面白かったんだけど、どゆことって思ったよね。

荒木 (笑)

佐々木 でも、そういうのも色々取り入れながら楽しんで稽古やってるんだ。

荒木 信頼関係が結構それで出来るから、信頼関係さえあればもう大丈夫みたいな。

佐々木 まあ回数やらないといけないですもんね本番は。

荒木 そうですねー。でも今回皆面白いから絶対面白いものは出来るっていう確信だけはある。あとはもう、体力との勝負(笑)

編集:髙橋遥 土田高太朗

ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」

インタビュー
松原俊太郎
荒木知佳
古賀友樹

Photo by Arata Mino
佐々木敦 Atsushi Sasaki
思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。芸術文化の複数の領域で執筆、教育、プロデュースなどを行なっている。著書多数。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』。近著として『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の喪失』『「教授」と呼ばれた男ー坂本龍一とその時代』などがある。
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光の中のアリス

光の中のアリス|ルポルタージュ|佐々木敦:その2「戸惑いと疑い」

光の中のアリス|ルポルタージュ|佐々木敦:その1「読み合わせとマーダーミステリー」

 気づけば前回の稽古見学から三週間も経ってしまっていた(前回はマーダーミステリーをやっただけですが)。この日は四人の俳優に個別にインタビューすることになっていて、少しだけ構えて稽古場に行ってみると、まずは今回のリハーサルディレクターで、ダンサー、振付家でもある山口(静)さんが仕切る「山口さんタイム」。要はウォーミングアップなのだが、この日はヨガの動画(英語のナレーション付き)を小さなモニターで再生し、それを観ながら皆さん体をほぐしていった。小野(彩加)さんや演出補の髙橋(遥)さんもやっていて、自分もやるべきなのか少し悩んだ。もしも山口さんに声を掛けられたら参加しようかと思っていたが、遠慮されたのか言われずに済みました(でも今後も遠慮してください!)。

Photo by Atsushi Sasaki

 その後、そのまま車座になって「おしゃべり」の時間。それぞれの出身地の話、好きな食べ物の話、「原風景」の話など。伊東(沙保)さんが千葉県、東出(昌大)さんが埼玉県、荒木(知佳)さんが北海道、古賀(友樹)さんが福岡県と見事にバラバラで、山口さんは(たぶん)江東区の出身。「原風景」って何でしょうね、と誰かが言ったのに「何度も夢に見る風景じゃないですかね」と私が思わず口にして、夢の話に移行していった。実は『光の中のアリス』も一種の「夢」の話なんですよね。
 それからひとり30分ずつお時間をいただいて別室でインタビュー。宣伝映像と記録映像の、SCOOLでも何かとお世話になっている日景(明夫)さんがカメラも回してくれる。松原俊太郎さんのZOOMインタビューも見事にテキスト化してくれた髙橋さんと、同じく演出補の土田高太朗さんが立ち会って記録してくれたので、私はただ喋っただけ。荒木さん→伊東さん→古賀さん→東出さんという順番で、全員にほぼ同じ質問をしたのだが、当然ながら問い方も変わるし答え方も答えも異なる。スペースノットブランクとの距離感や馴れ初め(古賀さんの話、全然知らなくて私自身ビックリした!)、伊東さんと東出さんの出演の経緯や現在の心境など、短い時間ではあったが、非常に面白かった。順次公開されていく予定なので、楽しみにしていただきたい。

Photo by Atsushi Sasaki

 そしてようやく稽古となった。4場のおさらい。主に中澤(陽)君が演出としての指示と意見を投げかけつつ、小野さんも適宜、中澤君と相談したり彼に問われて答えたり、俳優にアドバイスをしたりしていた。私は一般に演出家が稽古で何をしているのかをほとんど知らないが、なんとはなしの印象としては、サラリとしているようで微妙に繊細というか、今の時点では、ということだろうが、細かい調整よりも「感じ」を掴んでもらうことに傾注しているように思われた。インタビューでは新参加のお二人が現状の役作り(?)への今ひとつの捉えがたさを語っていたのだが、いざ演技を始めると曖昧さや逡巡はほとんどなく、複数の可能性を色々と試行錯誤してみている感が強かった。稽古期間としてはおよそ半分くらい、初日まで約三週間であり、スケジュール的な進み行きとしては多少遅れ気味なのかもしれないが、まだ全員で走り始めてまもない、全力疾走に向けて「ヒカリス」をインストールしている状態という感じがした。
 「4」をさらった後、残った時間ギリギリまで最初からそこまでを通した。途中で止めたりはせず、とにかくやってみた。当然ながらまだまだ手探り感が多々あったが、ひとつ確実に言えることは、松原戯曲の図抜けた面白さである。意味はよくわからないのに、なんなら全然わからないところもあるのに、なのに無類に面白い。思わず笑ってしまうのだが、その笑いの根本に何が横たわっているのか、はかりがたい。難解かもしれないが異様に可笑しい、まさに「インポッシブル・ギャグ」(松原俊太郎の最新戯曲の題名)。不可能ギャグ。風刺と諧謔に塗れた叙事と叙情。エモコア言語遊戯。アクチュアルなアレゴリーと異化の演劇。前のルポにも書いたが、それは俳優たちによって発話されることによって書記から音声へと変態を遂げる(そのように書かれてある)。まだまだ先は長い(だが時間はもうそれほどない)。しかし本番初日を迎える日には、まちがいなく劇は遺漏なく見事に仕上がっており、チャーミングで戦慄的な「光の中のアリス」が観客の前に立ち現れることを私は理屈抜きに確信したのだった。

Photo by Atsushi Sasaki

 荒木、古賀の二人は、初演にも出ていたしスペノの常連なので、勝手知ったる風で伸び伸びやっている感じだったが、伊東、東出には戸惑いや疑問も垣間見えた。しかしそれは当然のことだろう。それにもしかしたら、それが良いのかもしれない。役を掴んだ(というのがどういうことなのか私にはさっぱりわからないが)と確信し得た時、それこそが罠ではないか。出演者が戸惑いと疑い(それは戯曲にも演出にも自らにも向けられてよい)を手放さないこと、スペノにはむしろそのような状態が最善なのではないか、、などと勝手なことを考えているうちに終了時間となり、映画の撮影があるという荒木さんは颯爽と稽古場を後にし、東出さんも上がって、この日は解散になった。お疲れ様でした。

Photo by Atsushi Sasaki

 次に稽古場にお邪魔した時は、諸々どうなっているだろうか? 本番までに少なくとももうあと1日は見学に行きたいと思っている。行けるかな???

(つづく)

ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」

インタビュー
松原俊太郎
荒木知佳
古賀友樹

Photo by Arata Mino
佐々木敦 Atsushi Sasaki
思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。芸術文化の複数の領域で執筆、教育、プロデュースなどを行なっている。著書多数。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』。近著として『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の喪失』『「教授」と呼ばれた男ー坂本龍一とその時代』などがある。
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光の中のアリス

光の中のアリス|インタビュー|松原俊太郎

松原俊太郎 Shuntaro Matsubara
劇作家。1988年熊本生まれ、京都在住。2015年、戯曲『みちゆき』が第15回AAF戯曲賞大賞を受賞。2019年、戯曲『山山』が第63回岸田國士戯曲賞を受賞。主な戯曲に『光の中のアリス』『君の庭』、小説に『ほんとうのこといって』『イヌに捧ぐ』など。2024年度セゾン・フェローⅠ。
Web / X / Instagram

聞き手:佐々木敦
話し手:松原俊太郎
場所:Zoom

佐々木敦(以下、佐々木) 本当は8月31日に京都で会うはずだったんですけど、台風で。ひどいタイミングで台風が来ちゃって。

松原俊太郎(以下、松原) ね。ご還暦おめでとうございます。

佐々木 あーいえいえ。

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクとの出会い

佐々木 まずはスペースノットブランクとの馴れ初めを伺った方がいいかな。

松原 馴れ初めは、京都芸術センターの企画で演劇計画っていう上演を前提としない戯曲を書く3ヵ年の企画があって。その企画の初稿を発表した時に、スペノ(「スペースノットブランク」の略称)がそれを読んで「この人に戯曲を書いてもらいたい」みたいなことを思ったらしくて。

佐々木 『カオラマ』ってやつですね。

松原 そうですね、『カオラマ』の初稿で。全く完成してない戯曲を読んでメールをくれたみたいな感じですね、ほんと突然でした。

佐々木 なんか “突然” 多いみたいですよね、スペノって。

松原 もうメール魔ですね、完全に。

佐々木 じゃあその時はスペノのこと全然知らなかったの?

松原 知らなかったです。新作の書き下ろしをお願いされて、その翌年の2019年くらいに『ささやかなさ』高松版の上演がありました。

佐々木 そういうきっかけで会ったとしたら、『カオラマ』を上演するっていうことになんでならなかったのかな。もっと早くってことだったんですかね。演劇計画の1年目に声掛けてきたってことだから、それを待ってるとプラス2年経っちゃうみたいなこともあるんですかね。

松原 たぶんそうですね。

佐々木 ほぼ未知の東京の若手アーティストから戯曲を書き下ろしてくれませんかっていう連絡があって、その時はスペノのこと知らなかったのに書きますよってことになったのはどうしてだったんですか。

松原 なんでですかね。その時は『山山』とかも描いてた時期だったので、文章が溢れ出てた時期だったんですよね。まぁだから書けるだろうなと思ったし、実際にスペノの2人がダンスをやられてるっていうのは知ってたんで、そういう2人組に対して書いてみて、もし何らか良いものが出てきたら良いみたいな期待があったんだと思います。2人芝居だったのもあってそんなに負荷がかかるようなこともなかったので、気楽に書いたみたいな感じです。

佐々木 実際に彼らの公演を直接的には見ないまま、『ささやかなさ』を書いたということなんですね。ご存知のように、スペースノットブランクは出演者にインタビューをしてそれを上演していくっていう、セミドキュメントのような非常に特殊な方法論で舞台作っているじゃないですか。僕はわりと前からスペノさんを見ててすごく面白いと思ってたんですけど、彼らが人の戯曲をやるっていうことがあんまり想像できなかったんです。それとは別に松原戯曲も見ていたから、「このクロスどういうこと?」みたいな気持ちもすごくあったんですよね。彼らにとっても松原さんにとっても挑戦だったと思うんですけども、意気込みとかはあったんですかね。

松原 初期段階では意気込みっていうものは特になくて自分の書けるものを書くみたいな感じだったんですけど、最初の『ささやかなさ』の高松公演を観て、これは凄いなと思った。聞き書きの時の身体と、戯曲をやる時の身体が全然違ってて、それに対応できるということ自体がすごかった。

佐々木 すごくコントラストがあるんですよね。

松原 全然違うものをスペノが作り出しているのを見て、それ以降はそういう身体を意識して書くようになったという感じですかね。

佐々木 松原さんが地点にずっと戯曲を書いてきて、他の機会にも書いていこうというタイミングの時に丁度スペノがやって来たってことですね。『ささやかなさ』は高松で上演したけれども、いわゆる本公演的なものがコロナでとんでしまって、その次に『光の中のアリス』がやってきたと。その次に『再生数』とか『ダンスダンスレボリューションズ』があって⋯⋯、気付いてみたら結構もうコラボレーションの数も多いですね。

『ヒカリス』の始まり

佐々木 今回の稽古初日に中澤さんが、「松原さんとはいくつも作ってきたけど『光の中のアリス』は結構演劇だと思う」と言ってました。いちばん演劇演劇していることもあって今回これが再演となったという話があったんですけど、これを書く過程はどうだったんですかね。

松原 ロームシアターのKIPPUという企画で、スペノから戯曲を書き下ろしてくれないかと言われて。その2、3ヶ月前くらいに『君の庭』が終わったところだったんですよ。コロナが始まった年でもあって、『君の庭』の次はどうする?汗汗みたいになってて、それまでにやってみたかったことを思い出すと、ルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』をモチーフに何か出来ないかということはずっと考えてたので、それを下敷きにしたら何かできるんだろうなっていう感じでしたね。その時に、高山宏さんが翻訳しているマーティン・ガードナーの『詳注アリス』(亜紀書房)っていうでっかい本を本棚の中で見つけたときに(これはいけるな)という感じでした。

佐々木 じゃあもう本当に結構入口としてもがっつりルイス・キャロルから出発しているんですね。『光の中のアリス』の初演は2020年の12月だったと思うので、後から考えたら本当にコロナの間隙をついて出来た公演でしたね。あれ自体も飛んでても不思議じゃなかったわけで。執筆時間もすごく短かったけれども、非常にノって書いたということだと思うんですね。さっき言ってた、前からアリスで何かやってみたかったということはどういうことだったんですか?

松原 ナンセンスに興味があったって感じですかね。言葉で何かしら異化するじゃないですけど、現実とされているものを言葉でどう改変していくかってことを考えた時に最初に出てくるのがルイス・キャロルだった。その時は歴史修正主義とかが台頭してきた時期でもあったので、その辺りのバランスを考えつつ何ができるかなという感じでした。

佐々木 演劇でアリスというと、別役実を思い出したりするんですけど、それは頭によぎったりはしてたんですか。

松原 まったくなかったですね。ただまぁあの、初演の後に野田秀樹の夢の遊眠社っぽいねって言われたことはあります。

佐々木 まあ言われると、なるほどと思うところも2割くらい無くはない(笑)

戯曲の書き方

佐々木 そもそもどうやって戯曲書いてるんですか? 僕は東京の映画美学校でことばの学校というものをやってて色んな人に来てもらうんですけど、「どうやって書き始めて、どうやって書き進めて、どうやって書き終えてるんですか」という具体的かつ身も蓋もない質問を毎回誰に対してもしてるんですよね。

松原 固定されないようにやってきたというか。戯曲を書くってなった時は、相手とどう作っていくかで考えることが結構多いですね。ここ最近の書き方だと『光の中のアリス』はルイス・キャロルで、『ミライハ』は高校生で、『再生数』は映画で、『ダンスダンスレボリューションズ』はダンスで。テーマとも少し違うものというか、メディアみたいなものを意識しつつ⋯⋯『光の中のアリス』はルイス・キャロルはもちろんのこと、メディア的なもので意識したのはアニメだったんですよね。アニメで可能になっている身体を、舞台でどう可能にさせるかを考えつつ書いたみたいなところがありますね。既存の舞台でこれまで前提とされてきた身体を、他のメディアの身体と組み合わせてどう新しい身体が作れるかみたいなことをこれまでずっと考えてきたんじゃないですかね。それは前提の形式としてあるんですけど、戯曲は結構こうやっぱり形式として結構強いというか。年々、名前とか邪魔だなって毎回思うんですよ。

佐々木 ははは。

松原 名前があって台詞がある、あの形式自体がちょっとだんだん嫌になってきてる。人物が話す会話として一行を独立させて書き連ねていく、みたいなことはいくらでも書こうと思えば書けるんですど、何かこれまでと違うものが出てくるかというとそうでもなくこういう駄々を乗り越えるためにも、とりあえず今はト書きを頑張ってますね。

佐々木 なるほど。実際、ト書きっていうのは上演で発されない言葉じゃないですか。むしろそこに可能性というか面白みを見出していっていると。

松原 『ダンスダンスレボリューションズ』では、演出の二人がト書きをセリフとして発するという前提にはなってるんですけど、あれはト書きをト書きとして読む前提のもと書いてたりとか。『山山』の時も、ト書きを排してセリフだけで進めていくみたいなことをやってて。ト書きとの関係で作っていくみたいなことはありますね。

佐々木 今の話は、これからの松原戯曲のあるいは松原作品の方向性の一つを示唆しているのかなという気もしますね。いわゆる戯曲じゃなくなっていくというか、ベケットとか分かりやすいですけど、実際そういう風になっていった劇作家の例も過去にある訳で。そもそも、前に悲劇喜劇で松原さんが岸田賞とった時に岡田利規さんと対談やったじゃないですか。色々今してるような話が出て、岡田さんが「僕は絶対に松原さんの戯曲を演出するんだ」みたいなこと言って未だに実現されてないみたいなことがあったりするんですけど(笑)
松原さんは地点に戯曲をいくつも書いてきたけれども、地点の三浦基さんの演出自体が役と台詞に拘束されない仕方が大前提なので、さっきの話とある意味で逆だけども、「誰それが何々と発する」と戯曲に書いてあってもそういう風にならない訳ですよね。「結局これ分散されちゃうんだよね」と分かりつつも戯曲を書いていたわけじゃないですか。そのことでいうと、『光の中のアリス』の場合は出演者がスペノ2人も含めて6人なんですけど、当て書きというか、出演者が何人で云々みたいなとこから逆算して書いてる部分はあったんですかね。

松原 もとから知ってたのが古賀友樹さんで、古賀さんだったらなんでも話せるだろうなとかは思いつつ、荒木知佳さんと矢野昌幸さんは当時は名前は知ってたけど自分のテキストで読んでもらったことはなく、佐々木美奈さんは初めましてだったので、ほんとにぼんやりとしたイメージしかなかった。うっすら、この人は悪い感じだろうとかこの人は主だったところところがいいだろうなーくらいですかね。当て書きっていう程でもなかった。

佐々木 最初に登場人物表とかは設定するんですか。

松原 あれは事後的に書いてます。登場人物の後に属性みたいなものが書いてると思うんですけど、それは書きつつ足していくみたいな感じなので、最初はやっぱりざっくりとしてますよね。

佐々木 そのざっくり書くがいかにして成されたのかっていうことがやっぱり知りたい訳なんだけども(笑)。なんていうのかな、小説とかの書き方と戯曲の書き方って違うといえば違うんだけど全然似てないわけでもないと思うんですよね。小説の場合は、設計図的なプロットと人物表がある方が楽な人もいると思うんです。要はどうやって書いてるんですかってことの肉付けの話なんですけど。

松原 やっぱり戯曲だと箱書きが代表的なんじゃないですかね。1、2、3と何場か作って。

佐々木 シーン設定ですか。

松原 そうですね。僕の場合は1、2、3、4、5と数字を振って、それに自分が興味の出そうな章題みたいなものをたてて、その中に人物を解き放って書いていくみたいな感じですかね。章題のざっくりしたイメージの中で、ざっくりとした人物たちがどう関係を作っていくのかみたいな。だからもう最初はバーッと書く。ただまあスペノの場合はノーカットで上演するので、エコノミーを気にしてテキストを結構削っていきますね。圧縮もするし、分かりやすさとか伝わりやすさも一応意識してどんどん書き直していくみたいな形ですね。

佐々木 じゃあ割と脚本はブワッと書くみたいな。

松原 最初はそうですね。ブワッと書いていけるとこまで行くみたいな。まあでも絶対に途中で止まるので、6場あるとしたら3場くらいで絶対止まっちゃうので。そこで、ひたすら3までを書き直しちゃうっていう状態に陥るんですよ。それで、書き直しているうちに4を思いついて5も思いつくみたいなことになる。ラストシーンとかは本当にもうめちゃくちゃ頑張って力技で捻り出しますね。

佐々木 あんまり逆算型ではないってことですね。

松原 そうですね(笑)

佐々木 書きながら収束するんじゃなくて発見していくみたいな。

松原 そうですね、やっぱりそこは保坂和志さんあたりからの影響が大きいので。書きつつ何が発見出来るかを楽しみに書くということをやってます。

佐々木 「飽きない」と言うと変だけど、書くことに倦まないで済む為には、自分自身が驚きながら書いていくっていうのはやっぱり必要ですよね。
セリフを書いていく時に、松原さんの頭の中で声が聞こえているとか言ってるみたいなことはあるんですかね。そもそも松原さんは、自分が演出家でもないし俳優でもないじゃないですか。ある意味すごく根本的に、どうしてこの人は劇作家になったんだろうっていうことは大きな謎としてあるんですけど。要するに、セリフは実際には音声として発話されるわけなんだけど、戯曲のセリフを書くときに松原俊太郎の頭の中ではどのようにそれがやって来てるんですかね。(セリフを)言ったりしてるの?

松原 言わない。でも書いてるうちにめちゃくちゃ声が鳴り止まなくなる時があって。さっきの一行一行書いていく話、保坂和志さん的に書いていくっていうのもまぁそうなんですけど、鳴っちゃう状態になった時に身体が大変。それを書いていくってなると収集がつかなくなっちゃうというか、その状態まで持っていくことをやりたがらなくなっちゃったんですよ。

佐々木 拡散しちゃうから?

松原 拡散しちゃうし、書き直さないといけないし、その後やらないといけないことが決まってるので。

佐々木 その後どうなるか分かってるから、そのモードに入ると警戒しちゃうってことですか。

松原 そうそう。戯曲のためにはそのモードになった方が絶対良いんですけど、ならない。そことの戦いみたいな感じ。

佐々木 鳴る方向性は別に良いことな訳だけど、鳴りきらないようにしてるんだ。不安な部分でずっと飛んでいく、っていうイメージみたいなことだと思うんですけど。

松原 そうですね。やっぱり声が鳴るという状態があるから戯曲になるんだと思いますね。あと自分の頭の中でも舞台みたいなところがあって、その中に人物達が配置されていて、そこで何かしらのおしゃべりがされている、アクションがなされているみたいなことがあるので、テキストに出力する時は戯曲に適した設定に慣れ親しんでる。舞台で発せられた声みたいなものを聞くことで、これまで自分の中で積み上げられてきたテキストが新しく蘇生されていくみたいな、組み変わっていくみたいな経験が一番最初にあったので、それを毎回更新したい意欲は自分の中にあるんだと思いますね。

編集を経由しない戯曲

佐々木 『光の中のアリス』の初演時は、時間がすごく短かったってことですけど、これまでの劇作家としての経験の中でどの程度の難易度だったんですか。スルッと書けた方とか、わりと難産だったとか。

松原 全てノーカットで上演されるというのが前提で6人に書いているので、結構大変だったはずなんですけど、ルイス・キャロルが前提にあったのが結構デカかったですね。

佐々木 そこから色々発想出来ることがあったということですか。

松原 そうですね。ルイス・キャロルが前提であればこそ大丈夫になる部分が多かった。あと、そんなにスペノのことも知らなかったので、知らない強みもあったのかな。

佐々木 考えてみたら、カットされずそのまま上演されることが新鮮な体験ということ自体が特殊だけどね(笑)。絶対おかしいじゃんってなる訳ですけど、松原さんの場合はプロセスとしてはそうだったということになるわけで。

松原 まあでも書いたものが全部が乗るって結構異常なことだと思いますけどね(笑)。だって普通に映画の脚本とかでも複数人で書き直したりするじゃないですか。

佐々木 まあ現場での判断もあるでしょうし。

松原 そう。戯曲って集団で色々編集されていくはずなんですよ。そっちの方が面白くなると思いますね、編集されていった方が。

佐々木 実際の上演っていうレベルではってことですよね。

松原 そうですね。『光の中のアリス』も、ラストシーンとか結構遅れて書き直したというか、稽古場の様子を聞きながら書き直していくみたいなことを恐らくやってた。その後のスペノの作品でもそういうことはやってます。『再生数』では特に顕著でしたけど、稽古の動画を見せてもらって書き直していくみたいな。

佐々木 でも最終的に『ダンスダンスレボリューションズ』で舞台上にいるっていう状態まで来たわけですよね。今回、『光の中のアリス』の再演にあたって、初演の戯曲はいじってるんですか?

松原 ほぼいじってない、ほぼまんまです。ただ、結構音楽を使っているので問題は著作権周りですね。ディズニーは結構大変だし。

佐々木 なんか曲を変えなきゃいけないんでしょ?

松原 あとセリフ量的にもめちゃくちゃ多いので、個人的にはカットしたいんですけど。

佐々木 じゃあ、そのままの戯曲でいきましょうというのはスペノ側からの要望というわけだ。

松原 そうですね、はい。

佐々木 さっきの話もそうですけど、スペースノットブランクは戯曲をやる場合に、基本的にはそのまんまやるんだってことは公言もしてると思うし、方法論の差異化みたいなのはかなりあって、戯曲自体に手を入れないことで自分たちを律している部分もあるんでしょうね。

松原 スペノは俳優に対する演出においても、その人がその人であることを重要視する。僕の場合は、松原が書いた戯曲であるっていうことを尊重するみたいな。そういうスタンスっていうのを大事にしてるってことなんでしょうね。

佐々木 ちょっとまた話が遡りますけど、『光の中のアリス』の初演を見た時、自分の戯曲がそのまんま発話されるってことで、上演を見た時にどういうふうに感じたとかありますか。

松原 僕は自作の戯曲が上演される時めちゃくちゃ緊張するんですよ。地点の時はそんなに緊張しないんですけどね、地点の時は、やっぱりどこか半分切り離されてるじゃないけど。

佐々木 上演で変わってる部分もすごく多いですしね。

松原 ただスペノの場合は全部そのまんまっていうので、一緒に観てる観客の反応とかめちゃくちゃ気になっちゃいますね。ただ、記録動画って基本的にあんまり面白くないと思うんですけど、『光の中のアリス』は記録動画を観てめちゃくちゃ面白かったので、これは良い作品なんだなってことをだいぶ遅れて認識しました。上演時は、シーンごとに個々の俳優の状態や発話にその都度感動するみたいなことは結構ありましたね。

フィクションからひらく「現実」への身振り

佐々木 アリスが出発点だっていうことと、執筆時が国粋主義的なものが盛り上がっているタイミングだったみたいな話がありましたよね。一方で非常にフィクショナルな設定がありながらも、もう一方ですごくアクチュアルというか、現実のまさに今ここみたいなものに対しての痛烈なコメントみたいなものがあると思うんですよ。アリスがどうしてヒカリスになったの? ってこともあるんですけど、アリスをある意味では媒体としてそこに考えていることを色々乗せていくわけじゃないですか。初演から数年経って外側の世界状況や社会も変わってるって中で、今度の上演に向けて劇作家としてはどういう風な思いがあるんですかね。

松原 この作品自体がどういう風に受容されてるのかっていうのは京都で上演しただけじゃ全然分からなかったんですよ。こっち側の意図じゃないですけど、その当時は、「現実」ってされてるものに対する向き合い方みたいなもののバリエーションみたいなものが結構少ないなって思ってました。少ないというか、「受け止め」だったり、「逃げ」だったり、それへの「抵抗」であったり、テンプレだけがたくさんあるなっていう気がしていて、現実においてそのバリエーションみたいなものがあんまりないなっていう実感があり。そこに荒唐無稽なフィクションを挟むことによって、現実への別の向き合い方を作り出せないかということはあった気がしますね。それこそ佐々木さんの『未知との遭遇』(筑摩書房)じゃないですけど、現実とどう絡んでいくかという問題はずっとあって、『ささやかなさ』もそういう問題を主軸に書いていたところはあったと思いますし。

佐々木 ルイス・キャロルのアリスの物語は不思議の国と鏡の国とあるわけですけど、あれはファンタジーであるけど、一方でドゥルーズとかみたいな哲学的な解析とかも出来るじゃないですか。高山さん等の一連のものもずっとある一方で、迷い込むというよりも、脱出するというのかな。現実に脱出するのか、現実から脱出するのか分からないけども、「現実」っていうものを捉え直すために現実じゃないものを設定するということが、フィクションの一つの方法論で向いているやり口の1つじゃないですか。そういう意味では、アリスという設定はそもそもすごく向いている題材な気もしていて、実際『光の中のアリス』も出られるにはどうしたらいいかという話になってるんだと思うんですよね。そこは何重にも隠喩になっているからストレートにメッセージとして伝わってくる訳ではないんだけども、じわじわ効いてくると。

松原 ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』もそうだけど、言葉遊びしかしない人物達の間に巻き込まれて、表層で悪夢を見るみたいな状態になった後に最終的には現実に戻ってきて、それが誰かの見た夢の中だったかもしれないというオチがつくわけですよね。結局、最終的には身体に戻ってくる。それまで舞台に立たされていた身体がどうなるかみたいな状態に落ち着くんですよね、絶対。そのあたりのルイス・キャロルの設定自体は舞台ともパラレルだし、最終的にその身体がどういうふうになって、どういうことを言うのか、を意識しつつ書いたなってことを今思い出しました、話をしていて。

佐々木 そうですね。それが最終的に身体に戻ってくるっていうのが、要は演劇の定義みたいなものですもんね。純粋にテクストとして独立して読むことも出来るんですけど、この間読み合わせ全部聞いてて、やっぱり声に発せられることによって孵化するというか孵化されるテクストだなあと改めてすごく思ったんですよね。今回キャストも一部変わっていて、かなり違った感じに見えるんじゃないのかなと思ったのでそれもすごく楽しみです。

佐々木 稽古を観に来たりしないんですか?

松原 稽古はたぶん行かないと思いますね。そんなにたぶん、言うこともないので。

佐々木 じゃあ、上演中に東京に来ることになるだろうという予定ですかね。その時にまたリアルで会えたら良いですね。

松原 そうですね、ぜひ。

編集:髙橋遥 土田高太朗

ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」

インタビュー
松原俊太郎
荒木知佳
古賀友樹

Photo by Arata Mino
佐々木敦 Atsushi Sasaki
思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。芸術文化の複数の領域で執筆、教育、プロデュースなどを行なっている。著書多数。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』。近著として『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の喪失』『「教授」と呼ばれた男ー坂本龍一とその時代』などがある。
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光の中のアリス

光の中のアリス|ルポルタージュ|佐々木敦:その1「読み合わせとマーダーミステリー」

 松原俊太郎が戯曲を書き下ろし、小野彩加と中澤陽が演出したスペースノットブランクの演劇作品『光の中のアリス』、略称『ヒカリス』は、ロームシアター京都と京都芸術センターによる35歳以下の若手舞台芸術アーティストに対する創造支援プログラム “KIPPU” の選出作品として、2020年12月にロームシアター京都で初演された。スペノと松原のコラボレーションは、同年5月の『ささやかなさ』が一作目になるはずだったが、コロナ禍で上演中止となり、『ヒカリス』はいわばリベンジとしての新作だった。私は京都に赴いて上演を鑑賞し、「ヒカリスとは誰か?」と題した劇評をロームシアター京都のウェブサイトに寄稿した
 あれからおよそ4年、『ヒカリス』が帰ってくる。いや、新たなる装いで『ヒカリス』がやってくる、と言うほうが正確かもしれない。2024年度に新設されたばかりの「世田谷パブリックシアター フィーチャード・シアター」の一環としてのこのたびの公演は、東京初演である。京都ヴァージョンからの大きな変更は、キャストの3分の1が変更されていること。ミニー役の佐々木美奈が伊東沙保に、バニー役の矢野昌幸が東出昌大にそれぞれ替わっている。ヒカリ役の荒木知佳、騎士役の古賀友樹、Q役の小野、K役の中澤は初演と変わらずである。松原戯曲は多少ともアップデートされているのかもしれないが、細かい比較はまだ出来ていない。当然ながらスタッフにも異同がある。なにしろ4年が経っているのだ。ご承知の通り、京都初演のあともコロナ禍は延々と、まさに延々と続いた。道を歩いていて、電車に乗っていて、マスクをしていない人のほうが多いと感じるようになったのは、まだわりと最近のことである。コロナのことだけではなく、日本国内の社会状況も世界情勢もいろいろと、大きく変わった。微細な変化は無数にあるだろう。そもそも演劇の上演は一回ごとが新たなる回帰、相異なる反復だが、再演とはしばしば、いうなればn度目の初演である。それにもちろん、今回はじめて『ヒカリス』に、スペノの作品に出会う観客もたくさん居るはずだ(そう望んでいる)。
 私は今回、小野彩加と中澤陽から依頼を受けて、この公演の「ルポルタージュ」を受け持つことになった。稽古を何度か見学してレポートを書き、出演者たちにインタビューを行い、上演に向けてのイントロダクションを執筆し、私にとっては『ヒカリス』の2度目の劇評をしたためる。他にも何かするかもしれない。今書いているこのこれは、ミッションの最初の原稿である。
 劇評や批評の書き手としてのみならず、舞台芸術にさまざまなかたちでかかわるようになって久しいが、私は稽古見学や立ち会いを基本的にしない方針を採ってきた。多忙なせいもあるが、途中経過、ワークインプログレスを把握するよりも、いきなり上演を観たほうが新鮮だし、出会い頭にリアルタイムであれこれ考えるほうが自分の思考のタチに向いている。演劇/映画/音楽ライターの中には稽古や撮影やレコーディングを見学することを好む人もいると思うが、私はなんだか種明かしを先に見てしまうような気がして機会があっても遠慮してきた(ごく僅かな例外のひとつは、2010年初頭、岡田利規=チェルフィッチュの『私たちは無傷な別人であるのか?』の小規模な公開稽古を観に行って、そのあとで岡田君とトークしたことだが、あれは一度きりだし、今回とはかなり違う。ちなみにその時のことは『コンセプション』という本に採録されている)。自分がプロデュースした幾つかの舞台でさえ、私は稽古にはほとんど行かなかった。
 いや、やっぱり無駄に多忙であることが大きいのかもしれない。もしもしかるべき立場で稽古を観るのなら、最初から最後まで観なくてはならない、たかが一度や二度覗きに行ったからといって、何かがわかる/何かを言えるはずもない、という気持ちが、おそらくはあったのだと思う。これまでは。だが今回、私は「ルポルタージュ」を引き受けることにしたのである。いかなる心境の変化なのか。スペノは私が近年もっとも衝撃を受けた演劇作家のひとり(ふたりだが)であり、私はこれまで『ヒカリス』の他にも複数のスペノ作品について機会に応じてレビューを書き、もっと長い批評の中でも言及してきた(私は2020年に『これは小説ではない』と『それを小説と呼ぶ』という双子のような二冊の文芸批評の本を出したが、そのどちらにもスペノは出てくる)。私が主任講師を務めている映画美学校言語表現コース「ことばの学校」の第3期演習科の専任講師もお願いした。批評家として以外にも、とあるライヴに一緒に行こうと誘われたり(コロナ禍のせいで実現しなかった)、私の還暦祝いに日本酒を贈っていただいたり(ありがとうございました美味しくいただきました)、とはいえこれまで一度も個人的に食べたり呑んだりしたことはないのだが、人として(?)も好感を持っていることも大きいのかもしれない。
 だが、やはり一番の受諾理由は、スペノがどうやって演劇を作っていくのかを、この目で見てみたかったから、ということになるだろう。オリジナルの演劇/ダンス作品については先に触れた「ことばの学校」の講義などによってベーシックな方法論を知ることが出来たものの、では現代日本語演劇では今なお珍しい「純粋劇作家」であり、これは限りなく肯定的な意味で言うのだがめくるめく謎と多重底の秘密に満ち満ちた難解さをもって知られる松原俊太郎の戯曲を二人はいかにして「演出」しているのか? そもそもスペノにとって「演出」とは何か? そもそも「演劇」にとって「演出」とは何か? 「ルポルタージュ」をオファーされた時、私をこのような「???」が蠱惑的な表情で襲い、ついつい(という言い方も妙だが)いいですよと二つ返事で引き受けていたのだった。私はスペノの、『ヒカリス』の、仕掛けと仕組みと仕立てと仕上げに大変興味がある。そして、このような次第となったわけである。
 とはいうものの、やっぱり私には『ヒカリス』の創造過程を全部観るなんてことはどうしても出来ない(すみません)。これまでのところ私が稽古場に行けたのは二度きり、稽古初日と、その一週間後のそれぞれ数時間に過ぎない。以下に、とりあえず最初の「ルポ」をお送りする。

某月某日某所

 出演者が全員揃った稽古初日ということで、この日は午前中と午後に一度ずつ戯曲の読み合わせが行われた。参加者は小野、中澤、荒木、伊東、古賀、東出、演出補の髙橋遥と土田高太朗、リハーサル・ディレクターの山口静、制作の花井瑠奈、私は午後から見学した。最初に、おそらく午前の読み合わせを踏まえてスペノから主に戯曲の引用部分の発話(歌うところもある)に関するサジェスチョンがあったが、それは数分で終わり、すぐに最初から読み始める。実際の上演では読まれないト書きは中澤が、チャプターのタイトルは小野が担当していた。

Photo by Atsushi Sasaki

 私が注目していたのは、やはりまずは新たに参加した伊東と東出の二人だった。4年前の京都上演の記憶はもはや朧げ(以下)だが、新キャストが『ヒカリス』にいかなる化学変化を及ぼすのかに当然ながら強い関心があった。実は今回の座組の中で、私がもっとも古くから知っている俳優は伊東沙保である。チェルフィッチュの『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』が2009年にベルリンのHAU(Hebbel am Ufer)で世界初演された際、同作を含む日本文化の現在を紹介するフェスティバルにスピーカーとして私も招聘されていたのだが(オープニングパーティでDJしたのが懐かしい)、伊東はこの時のキャストのひとりだった(でも話したりはしてない)。それより前から舞台では観ていて、名前は覚えていた。虚構の登場人物の感情の表出を完璧な精度でコントロールする、「上手さ」を超えた上手過ぎる女優、というのが私のイメージ。東京デスロックや木ノ下歌舞伎など数々の名作での名演はもちろん、近年は映画でもたびたびその姿を見る。スペノへの出演は初だと思う。同じく初スペノ、というか今回の公演情報が発表された際、これはもう致し方なく大きな話題になったのが東出昌大である。私はテレビをまったく観ないのでドラマなどでの活躍は残念ながらよく知らないのだが、私にとって東出は何と言ってもまず第一に映画俳優である。特に黒沢清監督の何作かにおけるバイプレイヤーぶりや、斎藤久志監督の遺作となった佐藤泰志原作の『草の響き』の主演は強く印象に残っている。舞台では、2018年に三島由紀夫の『豊饒の海』がマックス・ウェブスターの演出で上演された時、主役の松枝清顕を演じていたのを観たことがある(2022年に東京夜光『悪魔と永遠』に主演しているが、残念ながら私は未見)。伊東、東出ともに初演の佐々木、矢野とはかなり違ったタイプの俳優である。そしてそれは読み合わせでもすでに現れていたと思う。私はその違いを「明度」と「笑い」の二項で述べてみたいと思ったりしているが、いくらなんでも時期尚早だろう。

Photo by Atsushi Sasaki

 周知のように荒木と古賀はともにスペノの過去作品に多数出演しており、看板俳優と呼んでもいい。読み合わせにおいても二人はかなりリラックスしているように感じられた。初演の記憶を軽くリマインドしつつウォーミングアップ的に芝居のリブートをはかりつつある、というような。スペノの二人が演じるQとKは劇の後半から登場する(それにこの二役は他の四人とは存在の位相が異なっている)ので、まずはヒカリ、騎士、ミニー、バニーのアンサンブルということになるが、午前の(最初の)読み合わせを観ていないのでなんとも言えないが、私には新参加の二人もすでにかなり戯曲を読み込んでおり、読み合わせもただ単に台詞を口に出してみるという段階をとうに超えているように思われた。細かい言い直しや調整はあったがおおむね引っかかる箇所もなく、スペノも特に流れを止めることはなく、ほぼぶっ通しで戯曲全編が発話された。傍らで聞いていてあらためて感じ入ったのは、松原戯曲のユニークさと面白さである。「光」の「中」の「アリス」というタイトルに込められた意味については京都公演の劇評でも少しばかり考察したが、読み解こうとすればするほどにわからなくなり、そのこと自体が演劇の快楽を発現させる松原の劇言語の異様さと、それとまったく矛盾しないチャーミングさが、俳優たちの「声」によって、始まりのこの時点ですでにして立ち上がりつつあるように私には思えた。
 戯曲をひと通り読み終えると、やはり演出からは多言はなく、あとは今後の予定のすり合わせなどでこの日の稽古は終了となった。稽古場のトイレで東出さんと隣り合わせになった。私もまあまあ大柄だが更に10センチくらいデカい。スペノの舞台上の彼を早く観たくなった。

某月某日某所

 稽古場に着くと小野さんがおずおずと「佐々木さんにお願いしたいことがあるのです」と言う。なんですか? と返すと、これからみんなでマーダーミステリーをやりませんか、と言われた。えええ? どゆこと? と思ったし、私はマーダーミステリーというものをやったことがなかったので戸惑い爆発だったが、ええと、いいですよ、と即答し、なんとこの日は、とあるマーダーミステリーをやっただけで稽古(?)は終わったのだった。ゲーム参加者は荒木、伊東、古賀、小野、山口、私、ゲームマスターは中澤君。東出さんと演出補の二人、制作花井さんは不在だった。やったゲームはプレイヤーが6人なので、ちょうど数が足りた。聞けばスペノの稽古ではマーダーミステリーなどのいわゆるパーティゲームを前からよくやっており、私同様マーダーミステリー初体験だった伊東さん以外は慣れたものだった。

Photo by Atsushi Sasaki

 この日にプレイしたマーダーミステリーはグループSNEの『因習村の極光』だった。私は基本的なルールも知らないので、見よう見まねで参加した。それに私はいちばん不利である。だってプレイヤーの中でただひとり演技経験が全然ないのだから。ネタバレにならぬようサラリと述べるに留めるが、私は「カメラマン」の役となり、ゲーム冒頭の「読み合わせ」では二言三言台詞もあって、その後も役になり切って(はないが)ゲームというか物語が進んでいった。マーダーミステリーには人狼の要素もあり(人狼だってやったことない)、他のプレイヤー(演技者にして競技者)が皆、私を騙そうとしているかのように見えてきて疑心暗鬼に陥りつつも、私も少しは騙してやらねばと内心ちょっと気張ったりしているうちに、やがてゲームは大団円を迎えた。開始から四時間近くが経過していた。戯曲の読み合わせより長いじゃないか!

(つづく)

ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」

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松原俊太郎
荒木知佳
古賀友樹

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佐々木敦 Atsushi Sasaki
思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。芸術文化の複数の領域で執筆、教育、プロデュースなどを行なっている。著書多数。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』。近著として『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の喪失』『「教授」と呼ばれた男ー坂本龍一とその時代』などがある。
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光の中のアリス

言葉とシェイクスピアの鳥|レビュー|関田育子:『言葉とシェイクスピアの鳥』をみて

関田育子 Ikuko Sekita WebXInstagramYouTube
立教大学現代心理学部映像身体学科卒。2019年に演劇ユニット[関田育子]として団体を設立。俳優の身体と劇場の壁や床、戯曲など、演劇を構成するあらゆる要素を同じ解像度で知覚、認識することを目指す“広角レンズの演劇”を提唱し、その実践として演劇作品の上演を行なっている。観客の身体が、普段は知覚しないこと(俳優の身体と劇場の壁などが等価に見えるなど)を実感することにより、有用性のもと規定された今までの価値基準を解体させ、新たな視座を獲得することを目的としている。2023年『micro wave』で「かながわ短編演劇アワード2023」⼤賞・観客賞を同時受賞。

ある一定の時間を有したプロジェクトであるということ

 2024年1月に吉祥寺シアターにて上演された『言葉とシェイクスピアの鳥』という作品(試み)は、2022年の7月より「クリエーションを前提としたクリエーションを実践しないチーム」として集まったメンバーが対話や情報共有を通じて“集団の言葉”を生成することを目指し、2023年の7月より上演に向けてのクリエーションが開始された。また、この上演は、“舞台を物体として配置すること”すなわち、“上演と舞台の関係を見直し、観客をも物体として保存することを志す”=「物体三部作」という構想の中の第二部作品である(第一部は2021年9月に上演された『舞台らしきモニュメント』)。本作品のコンセプトは「集団」「集団の言葉」「言葉の意味の侵入」と掲げられており、タイトルにもあるウィリアム・シェイクスピアとの関係は、シェイクスピアの「言葉」が、間接的にアメリカという大国を侵略してしまったかもしれないという逸話を創作の導入とし、舞台による舞台の侵略を描く。これの情報はステートメントや公式のサイトから読み取るとこのできる情報であるが、ここでいう「言葉」とはどのように定義され、いかにして検討されているのかが気になった。なぜならば、最初に行う「言葉」の定義がズレてしまっていたら、その後に書くこと全てが的外れになるという恐怖があるからだ。

鑑賞状態と恐る恐るの定義

 前提として、私はこの試みの位置付けやプロセスを知らないままに鑑賞した。さらに、シェイクスピアに対しての知識もない状態であった。会場である、吉祥寺シアターは三階まであり、コの字型にギャラリー(バルコニーのようなもの)で囲まれている。さらに、舞台面の中央奥にはシャッターがありその奥にはガレージのようなスペースがある。壁や床や扉、シャッターの色は黒い。観客が目視できる扉は上手と下手に2つずつ、ガレージの上手と下手に1つずつ。6枚の扉を確認できた。また客席の後方には二階のホワイエに通じる出入り口が2つと一階から客席に通じる扉が左右にあった。
 客席は前方から緩やかな傾斜があり、前から3列目あたりで一度中通路があった。劇場のサイトでは最大座席数は189席となっている。私は中通路を挟んで1列目、すなわち全体で見るとおそらく4列目くらいから観劇した。俳優がさまざまな出捌け口から出てくる本作品においてどこから鑑賞したのかということも検討されるべきだと思い示しておく。
 さて、作品の上演が始まり、その中で様々な運動や会話がなされているが、そこに物語的な脈絡は意図的に排除され、15人の俳優が群れであり、個人でもあるようなタスクをこなしている印象がある。この作品における「言葉」とはなんだろうか。ステートメントに以下のような表現がある。

『言葉とシェイクスピアの鳥』には、大きな三つの要素として「関係のない言葉」と「関係のある言葉」と「劇場という構造物に対していくつかの形態を示そうとする空間と身体」が表現される。そこに筋立てた物語は存在しない。それぞれの要素の生態のようなものが、それぞれの環境のようなものにどのようにして適合しようとするのか、そもそもの存在のようなもの自体を選択しようとするのか。敵対と親睦を用いて舞台による舞台の侵略を上演の時間と空間に体現することを目指す。

 「関係のない言葉」「関係のある言葉」とあるが、何との関係なのだろうか。一度、この“関係”というのを“他のものへの作用をもたらすか否か”と仮留めする。作用というのはこの場合向けられた対象によって異なる。例えば、名前であれば、相手の存在あるいは相手との立場の相関関係を広く提示することである。その点で言えば、「関係のある言葉」とは普段、使い慣れており、イメージがつく。しかし、「関係のない言葉」とはなんだろうか。言葉というのはそもそも物事を伝達する記号的な側面もあることから、どうしても他に作用を与えてしまうのではないかと思うが、上演を観ているうちにその“関係のなさ”を発見した。さっぱり意味がわからないところが、そこかしこにあった。観劇という体験を持って初めて「関係のない言葉」の存在をきちんと認識させてもらった。他の作品を鑑賞している時に意味がわからないことなどたくさんあるのだが、そのわからなさを自分の知識や経験の不足のせいであると思いどこか罪悪感を感じていたが、今回はその罪悪感を感じることが一切なく、堂々とわからなかった。
 次に、「言葉」について仮の定義をする。舞台上では複数人が同時に発話することもあり、すべての台詞を聞き取ることは不可能であったが、戯曲を拝読している際も、すべての台詞を読み取ることに失敗した。もちろん文字を追うことは可能であるが、言葉を実感を持って理解することができない。今までの「言葉」とは全く異なる様相で、出会い頭につぐ出会い頭といったような殆ど事故と言ってもいいような読書体験になった。そして、その体験から得たものがあった。

「読めない」文字と「醸す身体と空間」

 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクの戯曲を読むのは初めてではなかったが、本作の戯曲を「読む」という作業は文字をあるいは表現の意味をとるという作業ではなかった。その作業は「詠む」という表記の方が近いように思う。「詠む」というのを辞書で引くと「1 声を長く引く。また、声を長く引いて詩歌などをよむ。2 詩歌・俳句などを作る。(goo辞書)」とあるが、2個目の要素にある“作る”という感覚がとても近い。関田育子の作品を鑑賞した学生の感想にも「まるで演劇を“詠んで”いるかのようでした」と評されたことがあるが、その時に受けたこの「詠む」という動詞の印象が今回の読書体験と類似している。読者が意味を汲み取るだけでは読めないのだ。読み手も何かを生成しなくては、よみ進めることができない。「何か」というのは人それぞれにあってよい。イメージであったり、空間であったり、身体、動作でもいい。私自身は戯曲を持ちながら、劇場の図を描いていた。しかし、それは実際の吉祥寺シアターではなく、全くの別の図面だった。その架空の劇場を拵えることで、「詠もう」としていたのである。
 15人の俳優が舞台上に一堂に会するシーンがある。物理的な俳優の多さに群れを感じるが、そこには「同類が集める」という意味合いは全くない。統制がとれている状態からかけ離れた、ただいるだけの群れである。その環境には中心も周縁もなく、また、それらを規定する基準すらない。ただ、そこ(舞台)にいる俳優の身体にはそれぞれの生活から引っ張り出されたものや、舞台という状況から要請された、観客に観られていることに起因するような動きがそれぞれの身体から湧き出ていた。その身体を「醸す身体」と仮定する。それらの身体の把握はおそらく劇場という空間がもたらすものだ。なぜならば、客席にもその身体が散らばっているのに、それらの身体には意識が向くことが少ないからである。劇場という空間が俳優の身体を、観客の視認の対象たらしめている。

「言葉」とは

 本作品における「言葉」の仮定義として私が導き出したのは、「言葉とは何かを規定するためのものではなく、その定まらなさを保証するもの」とも言えるのではないかということ。常に暫定的なもので、「言葉」以外の様々な要素との相互連関の中でしか効力を持たない記号のようなものに思えた。そしてこの構造は他の事柄(演劇、演技、照明、音響、戯曲など)に置き換えても考えることができるかもしれない。今後の「物体三部作」を鑑賞した際にそのことについても考えたい。

言葉とシェイクスピアの鳥

吉祥寺シアター
出演者インタビュー
出演者インタビュー:動画
稽古場レポート

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
長いステートメント
最初で最後のイントロダクション
ふみかのゆうがなひととき|吉祥なおきち×吉祥寺ダンスLAB. vol.6 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』上演記念コラボメニュー紹介

レビュー
佐々木敦:舞台芸術にとって「システム」とは何か?
関田育子:『言葉とシェイクスピアの鳥』をみて

言葉とシェイクスピアの鳥|レビュー|佐々木敦:舞台芸術にとって「システム」とは何か?

佐々木敦 Atsushi Sasaki X
思考家/批評家/文筆家。HEADZ主宰。SCOOLオーナー(桜井圭介と共同)。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。著書多数。演劇論集として『小さな演劇の大きさについて』。最新刊は『増補新版 ニッポンの思想』(ちくま文庫)。

 近年、お笑いの世界において、システム漫才、もしくはただ単にシステムと呼ばれている方法論がある。その名の通り、何らかのシンプルなシステムに則って行われる漫才のことで、掴みの後にまず提示されるやりとりのパターンが繰り返され、何往復かしてオチが来る。M-1グランプリの覇者たち、ダブルボケの笑い飯、リターン漫才のミルクボーイ、あるなしクイズのウエストランドは典型的なシステム漫才であり、その他にも、ナイツやオードリー、ハライチなど、実力派とされる漫才コンビにシステムを導入している者は多い。
 システムの利点は、それ自体はまさにシステム=形式的なパターンだけなので、題材や内容を変えるだけで漫才の流れが成立する、したがって量産が容易になるということである。もちろん客を笑わせるためにはディテールが重要なのだが、ユニークなシステムを創造し、看板にすることによって認知度も高まるし、客に一種の安心感を与えることにもなる。この意味でのシステム漫才の最高峰は何と言ってもミルクボーイだろう。彼らは「オカンが忘れた」何かを当てるというシステムだけで、膨大な数のネタをストックしており、しかもそれらがどれも面白い。
 だが、もちろん、これは両刃の剣であって、システムは安易だと批判されることも多いし、やがては(あるいは突然に)飽きられてしまう可能性もある。システムといってもその強度はさまざまだし、耐用年数もある。とはいえ、魅力的なシステムの開発が、多くのお笑い芸人の目指すところであろうことは想像に難くない。
 ポイントは、システム芸人は同じネタをやっているわけではないということである。むしろ別の出力=ネタを(大袈裟だが原理的には)無限に編み出すためにシステムを導入しているのであって、M-1優勝後にグランプリを獲った芸人がテレビで何度も決勝ネタを披露させられているように、同一の漫才を複数の機会にやっているわけではない。同工異曲がシステムの効用である。システムはいわば計算式であり、代入する数値によって算出される解はまったく異なってくる。

 さて、舞台芸術にかんして、システムという考え方をすることは可能だろうか? 漫才も一種の舞台芸術だが、ここでは演劇、ダンス、パフォーマンスを指すものとする。当然ながら完全に同列に語ることは出来ない。漫才やコントは演劇と似ているところがあるが、イコールではない。笑える二人芝居は漫才とは違う。もしも漫才に見えたとしたら、そこでは俳優たちが漫才師の役をやっているのである。確かに、ある種の演劇とコントは今やかなり近接しており、かもめんたるやダウ90000のように両方のジャンルで活躍したり、一方からもう一方へ越境していくケースもあるが、コントは一種の演劇であるとは言えても、演劇がコントと同じということにはならない。システム漫才やシステムコントは存在しても、システム演劇という言い方は(おそらく)今のところ存在していない。
 だが、ダンスにかんしては、少々話が違ってくる。言うまでもなく、振付=コレオグラフィは、ある種のシステムだと考えられるからである。振付家の才能と個性は、独自の振りと、その連結や編集の妙によってはかられる。だが、もちろん振付家によって、やり方はそれぞれであって、システムと呼べるくらいに形式的な振付法を案出する者もいれば、もっと感覚的であったり即興的であったりするようなやり方を好む者もいるだろう。だが、特徴的な振付が、その振付家のマーキングとして観客に受け取られるという意味では、ダンスにはシステム的思考と呼べるものがあると言ってよい。コレオグラフィとは、システムの構築と、その応用である。ダンス作品を観て、先行する誰某ぽい、と思う時、若手芸人のネタを先輩芸人の誰某ぽいと言うのと同じく、システムの類似が言われているのである。

 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク(以下スペノ)は、2023年11月にこまばアゴラ劇場で上演された『松井周と私たち』──ジェローム・ベルの『ピチェ・クランチェンと私』にインスパイアされたこの作品は、松井周とスペノが互いにインタビューし合うという内容だった──の中で、自らのダンス作品の振付法のひとつ(「フォーム」と呼ばれている)を解説し、松井とともに実演してみせた。スペノが「フィジカル・カタルシス」という総タイトルのもとに継続的に実験/実践しているダンスの考案法の一種だが、それはおおよそ次のようなものである。
 ひとりの振付家が振付を全て考えるのではなく、このやり方には二人以上が必要である。まず一方が短い動き=フォーム(それは何でもよい)を何度も反復する。もう一方はそれを見て、そこから自分が「取れる」要素を探し出し、それに反応した動き=フォームを反復する。相手はそこからまた要素を取ってフォームを……というように何度も往復していくと、互いに相手の動きを「取り合う」ことで複数のフォームが出来上がる。それらを覚えておいて、最初から全部繋げると一連の振りとなり、二人が同時に遂行すると別々の振りだが内的に関連したデュオ・ダンスが完成する。
 こうした具体的な、だが抽象的でもある方法をスペノは「仕組み」と呼んでいる。言い換えればシステムである。連想と反応のピンポン運動によるフォーム=振付の生成。重要な点は、ここには言語が介在していないということである。身体と、その動きしかない。だが同時に「取る」という行為には明らかに観念的な次元が存在している。何を持って「取った」ことになるのかは、取る側の感覚と判断に委ねられており、言葉で説明する必要はない(説明してもよいのだが)。そして、こんな単純な仕組み=システムを実際にやってみると、ダンサーではない松井周のひとつながりのフォームも、あたかもダンスのように見えてくる、いや、それは紛れもなくダンスそのものであった。
 すでによく知られていることだが、スペノは演劇作品も独自に考案した仕組み=システムによって作っている。それは次のようなものだ。まず出演者それぞれに何らかのテーマで話をしてもらう。それは思い出話でもいいし、最近の体験談でもいいし、いま思いついたこと、考えていることでもいいし、全部嘘でもいい。スペノはそれらをすべて文字に書き起こし、加工変形し、編集して、台詞にする。そうして得られた台詞は話した本人たちに戻され、もともと彼ら彼女らから発せられた虚実混淆のエピソード群は配分され配列されて、或る長さの「演劇」が出来上がる。振付家の権能をダンサーに分与した「フィジカル・カタルシス」の「フォーム」と同様、このシステムも、劇作という上演の土台となる作業を出演者に明け渡すことによって、演劇の作者性を解体してみせる。だが、そのシステムを発明し、駆動させているのはスペノである。結果としてスペノの作品は同じ題名(それはある意味で「同じ作品」ということである)であっても、出演者が変わればまったく別の内容になる。システムは同じだが──むしろ同じであるからこそ──結果は異なる。それは計算式と代入される数値の関係と同じである。スペノの場合、再演は新作初演と同じことなのだ。

 『言葉とシェイクスピアの鳥』は、吉祥寺シアターが主催する連続企画「吉祥寺ダンスLAB.」の一環として上演された。出演者は総勢15名、休憩を挟んで上演時間2時間半というかなり長尺の作品である。キャストには俳優もいれば、ダンス経験を持つ者、俳優でもダンサーでもない者など、さまざまな出自と経験を持った人々が集まっていた。
 確かめたわけではないが、上演を観て台本に目を通した限りでは、今回もこれまでと同様のシステムによって作られたものと推察される。しかも「演劇」と「ダンス」の二重のシステムである。タイトルを構成する「言葉」「シェイクスピア」「鳥」は内容やテーマを指すものというよりも、起動因というか作業仮説としてのキーワードのごときものだったのかもしれない。むしろ観客がこの題名と響きあう何かを上演の内に意識的/無意識的に探し当てようとしてしまうことが、この不思議で魅力的なタイトルの狙い、少なくともそのひとつであったと言えるのではないかと思う。スペノの作品は、そのシステム上、出演者が多ければ多いほど、豊かで複雑な内容になる。これもいつものことだが、出演者たちの個性や能力を踏まえて、民主的と呼ぶべき「見せ場」の等分が為されている(ことによって長大化していることも確かである)。個々の場面を詳しく観ていったらキリがないので、ここでは「システム」にかかわる二つの点について述べておきたい。
 まずひとつは、この作品には何度かダンスを観せる場面があり、終わりがけには出演者全員による群舞のシーンが設定されているのだが、私にはそれがまさに「フォーム」の実演というか(それはそうに違いないが)、より精確に言うと、目の前で行われている振りから、それがどのようにして産み出されたのかを逆算出来るような気がした、ということである。『松井周と私たち』と同じことが行われていたわけではないのだが、私は結果としてそこに在るダンスに、システムの駆動ぶりを、いわばリバースモードで見出した。もちろんそれは、そのような気がした、ということでしかない。だが、これは特異な体験だった。確かに『松井周と私たち』を観ていたから私はそう思ったのであって、何も知らない人はそんなことは考えなかっただろう。ダンスだと思わなかった人もいたかもしれない。しかしスペノは、わざわざ『松井周と私たち』という作品の中で自分たちが創り出したシステムを解説し実演してみせたのであって、そのような自己言及的、メタ的な趣向はこれまでの作品でもたびたび試みられていた。何かしらの「作品」を産出/算出するためのシステムの多くは隠蔽されていることが多い。なぜならその方が長持ちするからである。だがスペノはそれをすでに幾度となく公然と開示して、ネタばらししている。二人はシステムを開発しただけではなく、そのマニュアルを公開し、他者たちに供与しようとしているのである。スペノのダンスはシステムの生産物であると同時に、システムのデモンストレーションでもある。普通はシステムがわかってしまうと興醒めするものだが、スペノの場合は逆である。その「作品」は、システムが透けて見えるほど、より一層面白いのである。
 もうひとつは、これもおそらくだが、いつもの「台詞生成システム」によって台本が作られたと思しき『言葉とシェイクスピアの鳥』を観つつ、つまりそこで発される言葉の数々は、スペノの二人にとって「他者たちの言葉」であったわけだが、にもかかわらず、それらには明らかに共通するトーンのようなものがある、ということである。これは以前から、最初からそうだったのかもしれないが、私は今回、はっきりと認識した。台詞が出来上がっていくシステムの一部始終に立ち会ったわけではないので、そのプロセスにおいていかなる作業が施されているのかは未詳だが、スペノの台本=戯曲には、間違いなく「文体」と呼べる傾向性がある。このことは、スペノが松原俊太郎の戯曲を上演するときと比較してみればわかる。「文体」とは「作者」に所属するものである。個別の出演者たちに起源を持つ、舞台の上で発され語られる言葉は、しかし同時にスペノの言葉にもなっている。それは、別役実の文体、唐十郎の文体、平田オリザの文体、岡田利規の文体、藤田貴大の文体、松原俊太郎の文体、などという場合と同じ意味で、スペースノットブランクの文体なのである。
 では、どうしてそんなことが起こるのか? ただ単にスペノが書き直しているからか? そうなのかもしれないが、私としては、ここにシステムのマジックが存しているのだと断じてみたい。つまり、スペノが開発したシステムは、汎用性を持つとともに固有性も導出するのだ。逆に言えば、私が「スペースノットブランクの文体」だと認識している言葉の有様も、システムの側に属しているということである。いやむしろ、小野彩加と中澤陽にとって、スペースノットブランク自体が、ひとつの複合的なシステムなのかもしれない。ブランクは空無だがスペースは余白である。スペースにXを代入すると、それは俄かに動き出し、作品と呼ばれる何かを算出/産出する。『言葉とシェイクスピアの鳥』は、そのような驚嘆すべきスペノシステムの、最新のプロダクツである。

言葉とシェイクスピアの鳥

吉祥寺シアター
出演者インタビュー
出演者インタビュー:動画
稽古場レポート

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
長いステートメント
最初で最後のイントロダクション
ふみかのゆうがなひととき|吉祥なおきち×吉祥寺ダンスLAB. vol.6 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』上演記念コラボメニュー紹介

レビュー
佐々木敦:舞台芸術にとって「システム」とは何か?
関田育子:『言葉とシェイクスピアの鳥』をみて