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言葉とシェイクスピアの鳥|レビュー|関田育子:『言葉とシェイクスピアの鳥』をみて

関田育子 Ikuko Sekita WebXInstagramYouTube
立教大学現代心理学部映像身体学科卒。2019年に演劇ユニット[関田育子]として団体を設立。俳優の身体と劇場の壁や床、戯曲など、演劇を構成するあらゆる要素を同じ解像度で知覚、認識することを目指す“広角レンズの演劇”を提唱し、その実践として演劇作品の上演を行なっている。観客の身体が、普段は知覚しないこと(俳優の身体と劇場の壁などが等価に見えるなど)を実感することにより、有用性のもと規定された今までの価値基準を解体させ、新たな視座を獲得することを目的としている。2023年『micro wave』で「かながわ短編演劇アワード2023」⼤賞・観客賞を同時受賞。

ある一定の時間を有したプロジェクトであるということ

 2024年1月に吉祥寺シアターにて上演された『言葉とシェイクスピアの鳥』という作品(試み)は、2022年の7月より「クリエーションを前提としたクリエーションを実践しないチーム」として集まったメンバーが対話や情報共有を通じて“集団の言葉”を生成することを目指し、2023年の7月より上演に向けてのクリエーションが開始された。また、この上演は、“舞台を物体として配置すること”すなわち、“上演と舞台の関係を見直し、観客をも物体として保存することを志す”=「物体三部作」という構想の中の第二部作品である(第一部は2021年9月に上演された『舞台らしきモニュメント』)。本作品のコンセプトは「集団」「集団の言葉」「言葉の意味の侵入」と掲げられており、タイトルにもあるウィリアム・シェイクスピアとの関係は、シェイクスピアの「言葉」が、間接的にアメリカという大国を侵略してしまったかもしれないという逸話を創作の導入とし、舞台による舞台の侵略を描く。これの情報はステートメントや公式のサイトから読み取るとこのできる情報であるが、ここでいう「言葉」とはどのように定義され、いかにして検討されているのかが気になった。なぜならば、最初に行う「言葉」の定義がズレてしまっていたら、その後に書くこと全てが的外れになるという恐怖があるからだ。

鑑賞状態と恐る恐るの定義

 前提として、私はこの試みの位置付けやプロセスを知らないままに鑑賞した。さらに、シェイクスピアに対しての知識もない状態であった。会場である、吉祥寺シアターは三階まであり、コの字型にギャラリー(バルコニーのようなもの)で囲まれている。さらに、舞台面の中央奥にはシャッターがありその奥にはガレージのようなスペースがある。壁や床や扉、シャッターの色は黒い。観客が目視できる扉は上手と下手に2つずつ、ガレージの上手と下手に1つずつ。6枚の扉を確認できた。また客席の後方には二階のホワイエに通じる出入り口が2つと一階から客席に通じる扉が左右にあった。
 客席は前方から緩やかな傾斜があり、前から3列目あたりで一度中通路があった。劇場のサイトでは最大座席数は189席となっている。私は中通路を挟んで1列目、すなわち全体で見るとおそらく4列目くらいから観劇した。俳優がさまざまな出捌け口から出てくる本作品においてどこから鑑賞したのかということも検討されるべきだと思い示しておく。
 さて、作品の上演が始まり、その中で様々な運動や会話がなされているが、そこに物語的な脈絡は意図的に排除され、15人の俳優が群れであり、個人でもあるようなタスクをこなしている印象がある。この作品における「言葉」とはなんだろうか。ステートメントに以下のような表現がある。

『言葉とシェイクスピアの鳥』には、大きな三つの要素として「関係のない言葉」と「関係のある言葉」と「劇場という構造物に対していくつかの形態を示そうとする空間と身体」が表現される。そこに筋立てた物語は存在しない。それぞれの要素の生態のようなものが、それぞれの環境のようなものにどのようにして適合しようとするのか、そもそもの存在のようなもの自体を選択しようとするのか。敵対と親睦を用いて舞台による舞台の侵略を上演の時間と空間に体現することを目指す。

 「関係のない言葉」「関係のある言葉」とあるが、何との関係なのだろうか。一度、この“関係”というのを“他のものへの作用をもたらすか否か”と仮留めする。作用というのはこの場合向けられた対象によって異なる。例えば、名前であれば、相手の存在あるいは相手との立場の相関関係を広く提示することである。その点で言えば、「関係のある言葉」とは普段、使い慣れており、イメージがつく。しかし、「関係のない言葉」とはなんだろうか。言葉というのはそもそも物事を伝達する記号的な側面もあることから、どうしても他に作用を与えてしまうのではないかと思うが、上演を観ているうちにその“関係のなさ”を発見した。さっぱり意味がわからないところが、そこかしこにあった。観劇という体験を持って初めて「関係のない言葉」の存在をきちんと認識させてもらった。他の作品を鑑賞している時に意味がわからないことなどたくさんあるのだが、そのわからなさを自分の知識や経験の不足のせいであると思いどこか罪悪感を感じていたが、今回はその罪悪感を感じることが一切なく、堂々とわからなかった。
 次に、「言葉」について仮の定義をする。舞台上では複数人が同時に発話することもあり、すべての台詞を聞き取ることは不可能であったが、戯曲を拝読している際も、すべての台詞を読み取ることに失敗した。もちろん文字を追うことは可能であるが、言葉を実感を持って理解することができない。今までの「言葉」とは全く異なる様相で、出会い頭につぐ出会い頭といったような殆ど事故と言ってもいいような読書体験になった。そして、その体験から得たものがあった。

「読めない」文字と「醸す身体と空間」

 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクの戯曲を読むのは初めてではなかったが、本作の戯曲を「読む」という作業は文字をあるいは表現の意味をとるという作業ではなかった。その作業は「詠む」という表記の方が近いように思う。「詠む」というのを辞書で引くと「1 声を長く引く。また、声を長く引いて詩歌などをよむ。2 詩歌・俳句などを作る。(goo辞書)」とあるが、2個目の要素にある“作る”という感覚がとても近い。関田育子の作品を鑑賞した学生の感想にも「まるで演劇を“詠んで”いるかのようでした」と評されたことがあるが、その時に受けたこの「詠む」という動詞の印象が今回の読書体験と類似している。読者が意味を汲み取るだけでは読めないのだ。読み手も何かを生成しなくては、よみ進めることができない。「何か」というのは人それぞれにあってよい。イメージであったり、空間であったり、身体、動作でもいい。私自身は戯曲を持ちながら、劇場の図を描いていた。しかし、それは実際の吉祥寺シアターではなく、全くの別の図面だった。その架空の劇場を拵えることで、「詠もう」としていたのである。
 15人の俳優が舞台上に一堂に会するシーンがある。物理的な俳優の多さに群れを感じるが、そこには「同類が集める」という意味合いは全くない。統制がとれている状態からかけ離れた、ただいるだけの群れである。その環境には中心も周縁もなく、また、それらを規定する基準すらない。ただ、そこ(舞台)にいる俳優の身体にはそれぞれの生活から引っ張り出されたものや、舞台という状況から要請された、観客に観られていることに起因するような動きがそれぞれの身体から湧き出ていた。その身体を「醸す身体」と仮定する。それらの身体の把握はおそらく劇場という空間がもたらすものだ。なぜならば、客席にもその身体が散らばっているのに、それらの身体には意識が向くことが少ないからである。劇場という空間が俳優の身体を、観客の視認の対象たらしめている。

「言葉」とは

 本作品における「言葉」の仮定義として私が導き出したのは、「言葉とは何かを規定するためのものではなく、その定まらなさを保証するもの」とも言えるのではないかということ。常に暫定的なもので、「言葉」以外の様々な要素との相互連関の中でしか効力を持たない記号のようなものに思えた。そしてこの構造は他の事柄(演劇、演技、照明、音響、戯曲など)に置き換えても考えることができるかもしれない。今後の「物体三部作」を鑑賞した際にそのことについても考えたい。

言葉とシェイクスピアの鳥

吉祥寺シアター
出演者インタビュー
出演者インタビュー:動画
稽古場レポート

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
長いステートメント
最初で最後のイントロダクション
ふみかのゆうがなひととき|吉祥なおきち×吉祥寺ダンスLAB. vol.6 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』上演記念コラボメニュー紹介

レビュー
佐々木敦:舞台芸術にとって「システム」とは何か?
関田育子:『言葉とシェイクスピアの鳥』をみて

言葉とシェイクスピアの鳥|レビュー|佐々木敦:舞台芸術にとって「システム」とは何か?

佐々木敦 Atsushi Sasaki X
思考家/批評家/文筆家。HEADZ主宰。SCOOLオーナー(桜井圭介と共同)。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。著書多数。演劇論集として『小さな演劇の大きさについて』。最新刊は『増補新版 ニッポンの思想』(ちくま文庫)。

 近年、お笑いの世界において、システム漫才、もしくはただ単にシステムと呼ばれている方法論がある。その名の通り、何らかのシンプルなシステムに則って行われる漫才のことで、掴みの後にまず提示されるやりとりのパターンが繰り返され、何往復かしてオチが来る。M-1グランプリの覇者たち、ダブルボケの笑い飯、リターン漫才のミルクボーイ、あるなしクイズのウエストランドは典型的なシステム漫才であり、その他にも、ナイツやオードリー、ハライチなど、実力派とされる漫才コンビにシステムを導入している者は多い。
 システムの利点は、それ自体はまさにシステム=形式的なパターンだけなので、題材や内容を変えるだけで漫才の流れが成立する、したがって量産が容易になるということである。もちろん客を笑わせるためにはディテールが重要なのだが、ユニークなシステムを創造し、看板にすることによって認知度も高まるし、客に一種の安心感を与えることにもなる。この意味でのシステム漫才の最高峰は何と言ってもミルクボーイだろう。彼らは「オカンが忘れた」何かを当てるというシステムだけで、膨大な数のネタをストックしており、しかもそれらがどれも面白い。
 だが、もちろん、これは両刃の剣であって、システムは安易だと批判されることも多いし、やがては(あるいは突然に)飽きられてしまう可能性もある。システムといってもその強度はさまざまだし、耐用年数もある。とはいえ、魅力的なシステムの開発が、多くのお笑い芸人の目指すところであろうことは想像に難くない。
 ポイントは、システム芸人は同じネタをやっているわけではないということである。むしろ別の出力=ネタを(大袈裟だが原理的には)無限に編み出すためにシステムを導入しているのであって、M-1優勝後にグランプリを獲った芸人がテレビで何度も決勝ネタを披露させられているように、同一の漫才を複数の機会にやっているわけではない。同工異曲がシステムの効用である。システムはいわば計算式であり、代入する数値によって算出される解はまったく異なってくる。

 さて、舞台芸術にかんして、システムという考え方をすることは可能だろうか? 漫才も一種の舞台芸術だが、ここでは演劇、ダンス、パフォーマンスを指すものとする。当然ながら完全に同列に語ることは出来ない。漫才やコントは演劇と似ているところがあるが、イコールではない。笑える二人芝居は漫才とは違う。もしも漫才に見えたとしたら、そこでは俳優たちが漫才師の役をやっているのである。確かに、ある種の演劇とコントは今やかなり近接しており、かもめんたるやダウ90000のように両方のジャンルで活躍したり、一方からもう一方へ越境していくケースもあるが、コントは一種の演劇であるとは言えても、演劇がコントと同じということにはならない。システム漫才やシステムコントは存在しても、システム演劇という言い方は(おそらく)今のところ存在していない。
 だが、ダンスにかんしては、少々話が違ってくる。言うまでもなく、振付=コレオグラフィは、ある種のシステムだと考えられるからである。振付家の才能と個性は、独自の振りと、その連結や編集の妙によってはかられる。だが、もちろん振付家によって、やり方はそれぞれであって、システムと呼べるくらいに形式的な振付法を案出する者もいれば、もっと感覚的であったり即興的であったりするようなやり方を好む者もいるだろう。だが、特徴的な振付が、その振付家のマーキングとして観客に受け取られるという意味では、ダンスにはシステム的思考と呼べるものがあると言ってよい。コレオグラフィとは、システムの構築と、その応用である。ダンス作品を観て、先行する誰某ぽい、と思う時、若手芸人のネタを先輩芸人の誰某ぽいと言うのと同じく、システムの類似が言われているのである。

 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク(以下スペノ)は、2023年11月にこまばアゴラ劇場で上演された『松井周と私たち』──ジェローム・ベルの『ピチェ・クランチェンと私』にインスパイアされたこの作品は、松井周とスペノが互いにインタビューし合うという内容だった──の中で、自らのダンス作品の振付法のひとつ(「フォーム」と呼ばれている)を解説し、松井とともに実演してみせた。スペノが「フィジカル・カタルシス」という総タイトルのもとに継続的に実験/実践しているダンスの考案法の一種だが、それはおおよそ次のようなものである。
 ひとりの振付家が振付を全て考えるのではなく、このやり方には二人以上が必要である。まず一方が短い動き=フォーム(それは何でもよい)を何度も反復する。もう一方はそれを見て、そこから自分が「取れる」要素を探し出し、それに反応した動き=フォームを反復する。相手はそこからまた要素を取ってフォームを……というように何度も往復していくと、互いに相手の動きを「取り合う」ことで複数のフォームが出来上がる。それらを覚えておいて、最初から全部繋げると一連の振りとなり、二人が同時に遂行すると別々の振りだが内的に関連したデュオ・ダンスが完成する。
 こうした具体的な、だが抽象的でもある方法をスペノは「仕組み」と呼んでいる。言い換えればシステムである。連想と反応のピンポン運動によるフォーム=振付の生成。重要な点は、ここには言語が介在していないということである。身体と、その動きしかない。だが同時に「取る」という行為には明らかに観念的な次元が存在している。何を持って「取った」ことになるのかは、取る側の感覚と判断に委ねられており、言葉で説明する必要はない(説明してもよいのだが)。そして、こんな単純な仕組み=システムを実際にやってみると、ダンサーではない松井周のひとつながりのフォームも、あたかもダンスのように見えてくる、いや、それは紛れもなくダンスそのものであった。
 すでによく知られていることだが、スペノは演劇作品も独自に考案した仕組み=システムによって作っている。それは次のようなものだ。まず出演者それぞれに何らかのテーマで話をしてもらう。それは思い出話でもいいし、最近の体験談でもいいし、いま思いついたこと、考えていることでもいいし、全部嘘でもいい。スペノはそれらをすべて文字に書き起こし、加工変形し、編集して、台詞にする。そうして得られた台詞は話した本人たちに戻され、もともと彼ら彼女らから発せられた虚実混淆のエピソード群は配分され配列されて、或る長さの「演劇」が出来上がる。振付家の権能をダンサーに分与した「フィジカル・カタルシス」の「フォーム」と同様、このシステムも、劇作という上演の土台となる作業を出演者に明け渡すことによって、演劇の作者性を解体してみせる。だが、そのシステムを発明し、駆動させているのはスペノである。結果としてスペノの作品は同じ題名(それはある意味で「同じ作品」ということである)であっても、出演者が変わればまったく別の内容になる。システムは同じだが──むしろ同じであるからこそ──結果は異なる。それは計算式と代入される数値の関係と同じである。スペノの場合、再演は新作初演と同じことなのだ。

 『言葉とシェイクスピアの鳥』は、吉祥寺シアターが主催する連続企画「吉祥寺ダンスLAB.」の一環として上演された。出演者は総勢15名、休憩を挟んで上演時間2時間半というかなり長尺の作品である。キャストには俳優もいれば、ダンス経験を持つ者、俳優でもダンサーでもない者など、さまざまな出自と経験を持った人々が集まっていた。
 確かめたわけではないが、上演を観て台本に目を通した限りでは、今回もこれまでと同様のシステムによって作られたものと推察される。しかも「演劇」と「ダンス」の二重のシステムである。タイトルを構成する「言葉」「シェイクスピア」「鳥」は内容やテーマを指すものというよりも、起動因というか作業仮説としてのキーワードのごときものだったのかもしれない。むしろ観客がこの題名と響きあう何かを上演の内に意識的/無意識的に探し当てようとしてしまうことが、この不思議で魅力的なタイトルの狙い、少なくともそのひとつであったと言えるのではないかと思う。スペノの作品は、そのシステム上、出演者が多ければ多いほど、豊かで複雑な内容になる。これもいつものことだが、出演者たちの個性や能力を踏まえて、民主的と呼ぶべき「見せ場」の等分が為されている(ことによって長大化していることも確かである)。個々の場面を詳しく観ていったらキリがないので、ここでは「システム」にかかわる二つの点について述べておきたい。
 まずひとつは、この作品には何度かダンスを観せる場面があり、終わりがけには出演者全員による群舞のシーンが設定されているのだが、私にはそれがまさに「フォーム」の実演というか(それはそうに違いないが)、より精確に言うと、目の前で行われている振りから、それがどのようにして産み出されたのかを逆算出来るような気がした、ということである。『松井周と私たち』と同じことが行われていたわけではないのだが、私は結果としてそこに在るダンスに、システムの駆動ぶりを、いわばリバースモードで見出した。もちろんそれは、そのような気がした、ということでしかない。だが、これは特異な体験だった。確かに『松井周と私たち』を観ていたから私はそう思ったのであって、何も知らない人はそんなことは考えなかっただろう。ダンスだと思わなかった人もいたかもしれない。しかしスペノは、わざわざ『松井周と私たち』という作品の中で自分たちが創り出したシステムを解説し実演してみせたのであって、そのような自己言及的、メタ的な趣向はこれまでの作品でもたびたび試みられていた。何かしらの「作品」を産出/算出するためのシステムの多くは隠蔽されていることが多い。なぜならその方が長持ちするからである。だがスペノはそれをすでに幾度となく公然と開示して、ネタばらししている。二人はシステムを開発しただけではなく、そのマニュアルを公開し、他者たちに供与しようとしているのである。スペノのダンスはシステムの生産物であると同時に、システムのデモンストレーションでもある。普通はシステムがわかってしまうと興醒めするものだが、スペノの場合は逆である。その「作品」は、システムが透けて見えるほど、より一層面白いのである。
 もうひとつは、これもおそらくだが、いつもの「台詞生成システム」によって台本が作られたと思しき『言葉とシェイクスピアの鳥』を観つつ、つまりそこで発される言葉の数々は、スペノの二人にとって「他者たちの言葉」であったわけだが、にもかかわらず、それらには明らかに共通するトーンのようなものがある、ということである。これは以前から、最初からそうだったのかもしれないが、私は今回、はっきりと認識した。台詞が出来上がっていくシステムの一部始終に立ち会ったわけではないので、そのプロセスにおいていかなる作業が施されているのかは未詳だが、スペノの台本=戯曲には、間違いなく「文体」と呼べる傾向性がある。このことは、スペノが松原俊太郎の戯曲を上演するときと比較してみればわかる。「文体」とは「作者」に所属するものである。個別の出演者たちに起源を持つ、舞台の上で発され語られる言葉は、しかし同時にスペノの言葉にもなっている。それは、別役実の文体、唐十郎の文体、平田オリザの文体、岡田利規の文体、藤田貴大の文体、松原俊太郎の文体、などという場合と同じ意味で、スペースノットブランクの文体なのである。
 では、どうしてそんなことが起こるのか? ただ単にスペノが書き直しているからか? そうなのかもしれないが、私としては、ここにシステムのマジックが存しているのだと断じてみたい。つまり、スペノが開発したシステムは、汎用性を持つとともに固有性も導出するのだ。逆に言えば、私が「スペースノットブランクの文体」だと認識している言葉の有様も、システムの側に属しているということである。いやむしろ、小野彩加と中澤陽にとって、スペースノットブランク自体が、ひとつの複合的なシステムなのかもしれない。ブランクは空無だがスペースは余白である。スペースにXを代入すると、それは俄かに動き出し、作品と呼ばれる何かを算出/産出する。『言葉とシェイクスピアの鳥』は、そのような驚嘆すべきスペノシステムの、最新のプロダクツである。

言葉とシェイクスピアの鳥

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小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
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最初で最後のイントロダクション
ふみかのゆうがなひととき|吉祥なおきち×吉祥寺ダンスLAB. vol.6 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』上演記念コラボメニュー紹介

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