光の中のアリス|レビュー|佐々木敦:アリス、光の中の
佐々木敦 Atsushi Sasaki |
思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。芸術文化の複数の領域で執筆、教育、プロデュースなどを行なっている。著書多数。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』。近著として『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の喪失』『「教授」と呼ばれた男ー坂本龍一とその時代』などがある。 |
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スペースノットブランク『光の中のアリス』に私は「ルポルタージュ」という名目で参加し、飛び飛びではあるが三度にわたって稽古を見学してルポを書いてきた。そのようなことをしたのは初めてであり、いろいろな意味で刺激的な経験だった。今これを書いているのは2024年11月27日であり、すでに公演終了から二週間以上が経過している。ルポの続きであり上演レビューでもあるような文章を、これからしたためてみようと思う。
結果として私は初日と千穐楽の二度観劇した。結果として、というのは当初は初日しか観れない予定だったのだが、やはりどうしても楽日に行くべきだと思い、制作の花井さんに無理を言って席を確保してもらったのだった。ギリギリの連絡で申し訳なかったです。
11月1日初日。偶然にもこの日の午後、座・高円寺の劇場創造アカデミー13期生の成果発表会で、松原俊太郎作、スペノによって初演された『ダンスダンスレボリューションズ』の試演に行ったら松原君も来ていた。講師の宮崎玲奈(ムニ)による演出は彼女が最近参加しているオフィス・マウンテン的な台詞=身体を酷使するスタイルで、出演者たちはかなり大変そうだったが、スペノとは全く異なるアプローチで、なかなか興味深かった。私は上演後のアカデミー生たちのトークの途中で出てしまったので、客席にいた松原君が何か話したのかは知らない。なので期せずして松原俊太郎デイになったわけである。夜になって三軒茶屋シアタートラムに行くと、もぎりの横にはスペノの二人がいて、中に入ると松原君がいた。すでに舞台上には東出昌大がいて、観客の視線を集めていた。段取り通りである。こうして『光の中のアリス』は幕を開けた(これは比喩的表現で、もう開いてた、というか幕はなかったが)。
さすがに稽古から何度も観てくるとわかりみが違う、などと終演後に松原君とスペノには言ったものの、ではどのくらい本当にわかったのかというとむろん定かではなく自信もないのだが、一見すると難解に思われる松原戯曲も、エクスペリメンタルに見えるスペノの演出も、見方というか掴み方がわかってくると難解さはほどけ、実験はポップに転化する。ことに『光の中のアリス』は出演者6名が
ヒカリ=荒木知佳──ナイト=古賀友樹
ミニー=伊東沙保──バニー=東出昌大
クイーン=小野彩加──キング=中澤陽
と2×3のスッキリした組み合わせになっていて、ある意味わかりやすいのだが、がしかしこの3つの二人組は虚構としての位相が異なっている。誤読をおそれず私の言葉で無理やりまとめると、ヒカリーナイトは「現実」から「ファンタジー(妄想?)」に移動した。もう少し詳しく言うとヒカリがファンタジーに迷い込んだ/逃げ込んだ/取り込まれたのにナイトが追ってきた/ついてきた。バニーとミニーはファンタジーの側に属していて、ヒカリの世話(?)をあれこれ焼いて、現実に戻らせないように振る舞うことを使命にされている(が段々変化する)。キングとクイーンはファンタジーの国を統べる者たちであり、最初からずっと舞台上に存在しているが、口を出し始めるのは劇の後半になってからである。この属性と役割はそのまま、この演劇の主演と助演と演出の寓意になっている。この戯曲=舞台=物語の基本的な構造は、以上のようなものだと思う。
『光の中のアリス』が『光の国のアリス』ではないのは、松原俊太郎が「国」の一字を嫌ったからだと私は京都での初演のレビューに書いた。だが、ナショナリズムをカッコに括れば、王と女王が出てくる以上、これはやはり「不思議の国」での物語である。ルイス・キャロルが書いたのは、アリスという名の少女が「不思議の国」に行って戻ってくるという物語だ。アリスはウサギを追っていて穴に落ち、ファンタジーに侵入する。
『意味の論理学』でジル・ドゥルーズはこう言っている。「アリスには、複数の冒険ではなく、一つの冒険がある。すなわち、表面への上昇、偽の深淵の拒絶、すべてが境界を通り過ぎることの発見」。ドゥルーズのアリス論は、表面性とナンセンス(非意味)への讃歌である。ところで今した引用はこう続く。「それゆえに、キャロルは、当初予定したタイトル『アリスの地下の諸冒険』を放棄するのである」。地下ではなく表面、穴に落ちるのではない、そもそも穴など実はどこにもありはしない、アリスが経験するのはむしろ上昇なのだ、とドゥルーズは言っている。だがしかし、これに対して松原俊太郎は、スペノは、こう反論しているのではないか。確かにそうかもしれない。おそらく「哲学的」には正しいのだろう。だが、それでもやはり「地下」は存在する。それははるか昔から存在していたし、今やますます世界じゅうに、そこに、ここに、落とし穴の奥に無数に存在しているのだ。だからこそ、地下を、穴を、光へと変換する、いやそれは不可能だとしても、ほんとうは真っ暗な地下でしかない不思議の国に光を灯し、ほんとうは他のみんなと一緒に地下で死んでいるアリスを光で包み込み、アリスを光の中に、アリスの中に光を送り込み、そしてそれを逆さまに辿って、ヒカリという女の子を誕生させなくてはならない。
11月10日。千穐楽。初演の時はまだ硬さも感じた舞台上の身体と発話は、当然ながら格段にこなれていた。最初と最後しか観れていないので、上昇曲線をつぶさに感じることは出来なかったが、ラスト一回のこの時には、高め安定がしばらく続いてある意味で落ち着いた空気感が生じていたように思う。初回を観た際は終盤の盛り上がりに興奮を隠せなかったが、最後は私自身、これまでの記憶を呼び起こしつつ、淡い感慨に耽りながら舞台を見守る感じだった。余裕が出たからか、俳優たちの振る舞いもしなやかでたおやかで、野放図とは違う自由さが感じられ、それは千穐楽を自らじっくりと味わっているようでもあった。そうして『光の中のアリス』は終演を迎えた。最初に稽古を見学したのは9月9日だったので、丸二ヶ月、得難い体験だったと思う。私のヒカリスもこうして終わった。
キャロルのアリスは不思議の国に侵入する際、穴を長々と、延々と落下する。落下ではなく上昇なのだとドゥルーズは述べたが、それでも尚、私は、ヒカリの中のアリスは、穴に、地下に、落ちたのだと思う。そして繰り返すが、この地下、この穴を、なんとかしなくてはならないのだ。前にも書いたことだが、この劇には、おそらくその底に、きわめて現実的な、現実そのものである出来事が潜んでいる(それはたとえば「十年と二ヶ月と三日」という謎めいた時間の呈示に隠されているのかもしれない)。そしてそれは間違いなく、途方もなく悲劇的な、陰惨でさえあるかもしれぬ出来事である。だから彼女はファンタジーに逃げ込まずにはいられなかったのだし、ファンタジーの方は、そんな彼女を優しく迎え、可愛がり、利用し、食べてしまおうとする。なぜならファンタジーとは実のところ、現実そのもののことであるからだ。地下とは、この世界のことなのだ。穴に落ちたはずだったのに、着いたのは足を踏み外した地面/表面だったのである(この意味ではジル・ドゥルーズは正しかったのかもしれない)。
だからヒカリスは、松原俊太郎は、スペースノットブランクは、たぶんほんとうは、こう言っているのである。今ここに、光あれ、と。
ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」
その3「トーンとグルーヴ/上演に向けて」