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光の中のアリス|ルポルタージュ|佐々木敦:その1「読み合わせとマーダーミステリー」

 松原俊太郎が戯曲を書き下ろし、小野彩加と中澤陽が演出したスペースノットブランクの演劇作品『光の中のアリス』、略称『ヒカリス』は、ロームシアター京都と京都芸術センターによる35歳以下の若手舞台芸術アーティストに対する創造支援プログラム “KIPPU” の選出作品として、2020年12月にロームシアター京都で初演された。スペノと松原のコラボレーションは、同年5月の『ささやかなさ』が一作目になるはずだったが、コロナ禍で上演中止となり、『ヒカリス』はいわばリベンジとしての新作だった。私は京都に赴いて上演を鑑賞し、「ヒカリスとは誰か?」と題した劇評をロームシアター京都のウェブサイトに寄稿した
 あれからおよそ4年、『ヒカリス』が帰ってくる。いや、新たなる装いで『ヒカリス』がやってくる、と言うほうが正確かもしれない。2024年度に新設されたばかりの「世田谷パブリックシアター フィーチャード・シアター」の一環としてのこのたびの公演は、東京初演である。京都ヴァージョンからの大きな変更は、キャストの3分の1が変更されていること。ミニー役の佐々木美奈が伊東沙保に、バニー役の矢野昌幸が東出昌大にそれぞれ替わっている。ヒカリ役の荒木知佳、騎士役の古賀友樹、Q役の小野、K役の中澤は初演と変わらずである。松原戯曲は多少ともアップデートされているのかもしれないが、細かい比較はまだ出来ていない。当然ながらスタッフにも異同がある。なにしろ4年が経っているのだ。ご承知の通り、京都初演のあともコロナ禍は延々と、まさに延々と続いた。道を歩いていて、電車に乗っていて、マスクをしていない人のほうが多いと感じるようになったのは、まだわりと最近のことである。コロナのことだけではなく、日本国内の社会状況も世界情勢もいろいろと、大きく変わった。微細な変化は無数にあるだろう。そもそも演劇の上演は一回ごとが新たなる回帰、相異なる反復だが、再演とはしばしば、いうなればn度目の初演である。それにもちろん、今回はじめて『ヒカリス』に、スペノの作品に出会う観客もたくさん居るはずだ(そう望んでいる)。
 私は今回、小野彩加と中澤陽から依頼を受けて、この公演の「ルポルタージュ」を受け持つことになった。稽古を何度か見学してレポートを書き、出演者たちにインタビューを行い、上演に向けてのイントロダクションを執筆し、私にとっては『ヒカリス』の2度目の劇評をしたためる。他にも何かするかもしれない。今書いているこのこれは、ミッションの最初の原稿である。
 劇評や批評の書き手としてのみならず、舞台芸術にさまざまなかたちでかかわるようになって久しいが、私は稽古見学や立ち会いを基本的にしない方針を採ってきた。多忙なせいもあるが、途中経過、ワークインプログレスを把握するよりも、いきなり上演を観たほうが新鮮だし、出会い頭にリアルタイムであれこれ考えるほうが自分の思考のタチに向いている。演劇/映画/音楽ライターの中には稽古や撮影やレコーディングを見学することを好む人もいると思うが、私はなんだか種明かしを先に見てしまうような気がして機会があっても遠慮してきた(ごく僅かな例外のひとつは、2010年初頭、岡田利規=チェルフィッチュの『私たちは無傷な別人であるのか?』の小規模な公開稽古を観に行って、そのあとで岡田君とトークしたことだが、あれは一度きりだし、今回とはかなり違う。ちなみにその時のことは『コンセプション』という本に採録されている)。自分がプロデュースした幾つかの舞台でさえ、私は稽古にはほとんど行かなかった。
 いや、やっぱり無駄に多忙であることが大きいのかもしれない。もしもしかるべき立場で稽古を観るのなら、最初から最後まで観なくてはならない、たかが一度や二度覗きに行ったからといって、何かがわかる/何かを言えるはずもない、という気持ちが、おそらくはあったのだと思う。これまでは。だが今回、私は「ルポルタージュ」を引き受けることにしたのである。いかなる心境の変化なのか。スペノは私が近年もっとも衝撃を受けた演劇作家のひとり(ふたりだが)であり、私はこれまで『ヒカリス』の他にも複数のスペノ作品について機会に応じてレビューを書き、もっと長い批評の中でも言及してきた(私は2020年に『これは小説ではない』と『それを小説と呼ぶ』という双子のような二冊の文芸批評の本を出したが、そのどちらにもスペノは出てくる)。私が主任講師を務めている映画美学校言語表現コース「ことばの学校」の第3期演習科の専任講師もお願いした。批評家として以外にも、とあるライヴに一緒に行こうと誘われたり(コロナ禍のせいで実現しなかった)、私の還暦祝いに日本酒を贈っていただいたり(ありがとうございました美味しくいただきました)、とはいえこれまで一度も個人的に食べたり呑んだりしたことはないのだが、人として(?)も好感を持っていることも大きいのかもしれない。
 だが、やはり一番の受諾理由は、スペノがどうやって演劇を作っていくのかを、この目で見てみたかったから、ということになるだろう。オリジナルの演劇/ダンス作品については先に触れた「ことばの学校」の講義などによってベーシックな方法論を知ることが出来たものの、では現代日本語演劇では今なお珍しい「純粋劇作家」であり、これは限りなく肯定的な意味で言うのだがめくるめく謎と多重底の秘密に満ち満ちた難解さをもって知られる松原俊太郎の戯曲を二人はいかにして「演出」しているのか? そもそもスペノにとって「演出」とは何か? そもそも「演劇」にとって「演出」とは何か? 「ルポルタージュ」をオファーされた時、私をこのような「???」が蠱惑的な表情で襲い、ついつい(という言い方も妙だが)いいですよと二つ返事で引き受けていたのだった。私はスペノの、『ヒカリス』の、仕掛けと仕組みと仕立てと仕上げに大変興味がある。そして、このような次第となったわけである。
 とはいうものの、やっぱり私には『ヒカリス』の創造過程を全部観るなんてことはどうしても出来ない(すみません)。これまでのところ私が稽古場に行けたのは二度きり、稽古初日と、その一週間後のそれぞれ数時間に過ぎない。以下に、とりあえず最初の「ルポ」をお送りする。

某月某日某所

 出演者が全員揃った稽古初日ということで、この日は午前中と午後に一度ずつ戯曲の読み合わせが行われた。参加者は小野、中澤、荒木、伊東、古賀、東出、演出補の髙橋遥と土田高太朗、リハーサル・ディレクターの山口静、制作の花井瑠奈、私は午後から見学した。最初に、おそらく午前の読み合わせを踏まえてスペノから主に戯曲の引用部分の発話(歌うところもある)に関するサジェスチョンがあったが、それは数分で終わり、すぐに最初から読み始める。実際の上演では読まれないト書きは中澤が、チャプターのタイトルは小野が担当していた。

Photo by Atsushi Sasaki

 私が注目していたのは、やはりまずは新たに参加した伊東と東出の二人だった。4年前の京都上演の記憶はもはや朧げ(以下)だが、新キャストが『ヒカリス』にいかなる化学変化を及ぼすのかに当然ながら強い関心があった。実は今回の座組の中で、私がもっとも古くから知っている俳優は伊東沙保である。チェルフィッチュの『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』が2009年にベルリンのHAU(Hebbel am Ufer)で世界初演された際、同作を含む日本文化の現在を紹介するフェスティバルにスピーカーとして私も招聘されていたのだが(オープニングパーティでDJしたのが懐かしい)、伊東はこの時のキャストのひとりだった(でも話したりはしてない)。それより前から舞台では観ていて、名前は覚えていた。虚構の登場人物の感情の表出を完璧な精度でコントロールする、「上手さ」を超えた上手過ぎる女優、というのが私のイメージ。東京デスロックや木ノ下歌舞伎など数々の名作での名演はもちろん、近年は映画でもたびたびその姿を見る。スペノへの出演は初だと思う。同じく初スペノ、というか今回の公演情報が発表された際、これはもう致し方なく大きな話題になったのが東出昌大である。私はテレビをまったく観ないのでドラマなどでの活躍は残念ながらよく知らないのだが、私にとって東出は何と言ってもまず第一に映画俳優である。特に黒沢清監督の何作かにおけるバイプレイヤーぶりや、斎藤久志監督の遺作となった佐藤泰志原作の『草の響き』の主演は強く印象に残っている。舞台では、2018年に三島由紀夫の『豊饒の海』がマックス・ウェブスターの演出で上演された時、主役の松枝清顕を演じていたのを観たことがある(2022年に東京夜光『悪魔と永遠』に主演しているが、残念ながら私は未見)。伊東、東出ともに初演の佐々木、矢野とはかなり違ったタイプの俳優である。そしてそれは読み合わせでもすでに現れていたと思う。私はその違いを「明度」と「笑い」の二項で述べてみたいと思ったりしているが、いくらなんでも時期尚早だろう。

Photo by Atsushi Sasaki

 周知のように荒木と古賀はともにスペノの過去作品に多数出演しており、看板俳優と呼んでもいい。読み合わせにおいても二人はかなりリラックスしているように感じられた。初演の記憶を軽くリマインドしつつウォーミングアップ的に芝居のリブートをはかりつつある、というような。スペノの二人が演じるQとKは劇の後半から登場する(それにこの二役は他の四人とは存在の位相が異なっている)ので、まずはヒカリ、騎士、ミニー、バニーのアンサンブルということになるが、午前の(最初の)読み合わせを観ていないのでなんとも言えないが、私には新参加の二人もすでにかなり戯曲を読み込んでおり、読み合わせもただ単に台詞を口に出してみるという段階をとうに超えているように思われた。細かい言い直しや調整はあったがおおむね引っかかる箇所もなく、スペノも特に流れを止めることはなく、ほぼぶっ通しで戯曲全編が発話された。傍らで聞いていてあらためて感じ入ったのは、松原戯曲のユニークさと面白さである。「光」の「中」の「アリス」というタイトルに込められた意味については京都公演の劇評でも少しばかり考察したが、読み解こうとすればするほどにわからなくなり、そのこと自体が演劇の快楽を発現させる松原の劇言語の異様さと、それとまったく矛盾しないチャーミングさが、俳優たちの「声」によって、始まりのこの時点ですでにして立ち上がりつつあるように私には思えた。
 戯曲をひと通り読み終えると、やはり演出からは多言はなく、あとは今後の予定のすり合わせなどでこの日の稽古は終了となった。稽古場のトイレで東出さんと隣り合わせになった。私もまあまあ大柄だが更に10センチくらいデカい。スペノの舞台上の彼を早く観たくなった。

某月某日某所

 稽古場に着くと小野さんがおずおずと「佐々木さんにお願いしたいことがあるのです」と言う。なんですか? と返すと、これからみんなでマーダーミステリーをやりませんか、と言われた。えええ? どゆこと? と思ったし、私はマーダーミステリーというものをやったことがなかったので戸惑い爆発だったが、ええと、いいですよ、と即答し、なんとこの日は、とあるマーダーミステリーをやっただけで稽古(?)は終わったのだった。ゲーム参加者は荒木、伊東、古賀、小野、山口、私、ゲームマスターは中澤君。東出さんと演出補の二人、制作花井さんは不在だった。やったゲームはプレイヤーが6人なので、ちょうど数が足りた。聞けばスペノの稽古ではマーダーミステリーなどのいわゆるパーティゲームを前からよくやっており、私同様マーダーミステリー初体験だった伊東さん以外は慣れたものだった。

Photo by Atsushi Sasaki

 この日にプレイしたマーダーミステリーはグループSNEの『因習村の極光』だった。私は基本的なルールも知らないので、見よう見まねで参加した。それに私はいちばん不利である。だってプレイヤーの中でただひとり演技経験が全然ないのだから。ネタバレにならぬようサラリと述べるに留めるが、私は「カメラマン」の役となり、ゲーム冒頭の「読み合わせ」では二言三言台詞もあって、その後も役になり切って(はないが)ゲームというか物語が進んでいった。マーダーミステリーには人狼の要素もあり(人狼だってやったことない)、他のプレイヤー(演技者にして競技者)が皆、私を騙そうとしているかのように見えてきて疑心暗鬼に陥りつつも、私も少しは騙してやらねばと内心ちょっと気張ったりしているうちに、やがてゲームは大団円を迎えた。開始から四時間近くが経過していた。戯曲の読み合わせより長いじゃないか!

(つづく)

ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」

インタビュー
松原俊太郎
荒木知佳
古賀友樹

Photo by Arata Mino
佐々木敦 Atsushi Sasaki
思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。芸術文化の複数の領域で執筆、教育、プロデュースなどを行なっている。著書多数。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』。近著として『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の喪失』『「教授」と呼ばれた男ー坂本龍一とその時代』などがある。
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