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光の中のアリス|インタビュー|松原俊太郎

松原俊太郎 Shuntaro Matsubara
劇作家。1988年熊本生まれ、京都在住。2015年、戯曲『みちゆき』が第15回AAF戯曲賞大賞を受賞。2019年、戯曲『山山』が第63回岸田國士戯曲賞を受賞。主な戯曲に『光の中のアリス』『君の庭』、小説に『ほんとうのこといって』『イヌに捧ぐ』など。2024年度セゾン・フェローⅠ。
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聞き手:佐々木敦
話し手:松原俊太郎
場所:Zoom

佐々木敦(以下、佐々木) 本当は8月31日に京都で会うはずだったんですけど、台風で。ひどいタイミングで台風が来ちゃって。

松原俊太郎(以下、松原) ね。ご還暦おめでとうございます。

佐々木 あーいえいえ。

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクとの出会い

佐々木 まずはスペースノットブランクとの馴れ初めを伺った方がいいかな。

松原 馴れ初めは、京都芸術センターの企画で演劇計画っていう上演を前提としない戯曲を書く3ヵ年の企画があって。その企画の初稿を発表した時に、スペノ(「スペースノットブランク」の略称)がそれを読んで「この人に戯曲を書いてもらいたい」みたいなことを思ったらしくて。

佐々木 『カオラマ』ってやつですね。

松原 そうですね、『カオラマ』の初稿で。全く完成してない戯曲を読んでメールをくれたみたいな感じですね、ほんと突然でした。

佐々木 なんか “突然” 多いみたいですよね、スペノって。

松原 もうメール魔ですね、完全に。

佐々木 じゃあその時はスペノのこと全然知らなかったの?

松原 知らなかったです。新作の書き下ろしをお願いされて、その翌年の2019年くらいに『ささやかなさ』高松版の上演がありました。

佐々木 そういうきっかけで会ったとしたら、『カオラマ』を上演するっていうことになんでならなかったのかな。もっと早くってことだったんですかね。演劇計画の1年目に声掛けてきたってことだから、それを待ってるとプラス2年経っちゃうみたいなこともあるんですかね。

松原 たぶんそうですね。

佐々木 ほぼ未知の東京の若手アーティストから戯曲を書き下ろしてくれませんかっていう連絡があって、その時はスペノのこと知らなかったのに書きますよってことになったのはどうしてだったんですか。

松原 なんでですかね。その時は『山山』とかも描いてた時期だったので、文章が溢れ出てた時期だったんですよね。まぁだから書けるだろうなと思ったし、実際にスペノの2人がダンスをやられてるっていうのは知ってたんで、そういう2人組に対して書いてみて、もし何らか良いものが出てきたら良いみたいな期待があったんだと思います。2人芝居だったのもあってそんなに負荷がかかるようなこともなかったので、気楽に書いたみたいな感じです。

佐々木 実際に彼らの公演を直接的には見ないまま、『ささやかなさ』を書いたということなんですね。ご存知のように、スペースノットブランクは出演者にインタビューをしてそれを上演していくっていう、セミドキュメントのような非常に特殊な方法論で舞台作っているじゃないですか。僕はわりと前からスペノさんを見ててすごく面白いと思ってたんですけど、彼らが人の戯曲をやるっていうことがあんまり想像できなかったんです。それとは別に松原戯曲も見ていたから、「このクロスどういうこと?」みたいな気持ちもすごくあったんですよね。彼らにとっても松原さんにとっても挑戦だったと思うんですけども、意気込みとかはあったんですかね。

松原 初期段階では意気込みっていうものは特になくて自分の書けるものを書くみたいな感じだったんですけど、最初の『ささやかなさ』の高松公演を観て、これは凄いなと思った。聞き書きの時の身体と、戯曲をやる時の身体が全然違ってて、それに対応できるということ自体がすごかった。

佐々木 すごくコントラストがあるんですよね。

松原 全然違うものをスペノが作り出しているのを見て、それ以降はそういう身体を意識して書くようになったという感じですかね。

佐々木 松原さんが地点にずっと戯曲を書いてきて、他の機会にも書いていこうというタイミングの時に丁度スペノがやって来たってことですね。『ささやかなさ』は高松で上演したけれども、いわゆる本公演的なものがコロナでとんでしまって、その次に『光の中のアリス』がやってきたと。その次に『再生数』とか『ダンスダンスレボリューションズ』があって⋯⋯、気付いてみたら結構もうコラボレーションの数も多いですね。

『ヒカリス』の始まり

佐々木 今回の稽古初日に中澤さんが、「松原さんとはいくつも作ってきたけど『光の中のアリス』は結構演劇だと思う」と言ってました。いちばん演劇演劇していることもあって今回これが再演となったという話があったんですけど、これを書く過程はどうだったんですかね。

松原 ロームシアターのKIPPUという企画で、スペノから戯曲を書き下ろしてくれないかと言われて。その2、3ヶ月前くらいに『君の庭』が終わったところだったんですよ。コロナが始まった年でもあって、『君の庭』の次はどうする?汗汗みたいになってて、それまでにやってみたかったことを思い出すと、ルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』をモチーフに何か出来ないかということはずっと考えてたので、それを下敷きにしたら何かできるんだろうなっていう感じでしたね。その時に、高山宏さんが翻訳しているマーティン・ガードナーの『詳注アリス』(亜紀書房)っていうでっかい本を本棚の中で見つけたときに(これはいけるな)という感じでした。

佐々木 じゃあもう本当に結構入口としてもがっつりルイス・キャロルから出発しているんですね。『光の中のアリス』の初演は2020年の12月だったと思うので、後から考えたら本当にコロナの間隙をついて出来た公演でしたね。あれ自体も飛んでても不思議じゃなかったわけで。執筆時間もすごく短かったけれども、非常にノって書いたということだと思うんですね。さっき言ってた、前からアリスで何かやってみたかったということはどういうことだったんですか?

松原 ナンセンスに興味があったって感じですかね。言葉で何かしら異化するじゃないですけど、現実とされているものを言葉でどう改変していくかってことを考えた時に最初に出てくるのがルイス・キャロルだった。その時は歴史修正主義とかが台頭してきた時期でもあったので、その辺りのバランスを考えつつ何ができるかなという感じでした。

佐々木 演劇でアリスというと、別役実を思い出したりするんですけど、それは頭によぎったりはしてたんですか。

松原 まったくなかったですね。ただまぁあの、初演の後に野田秀樹の夢の遊眠社っぽいねって言われたことはあります。

佐々木 まあ言われると、なるほどと思うところも2割くらい無くはない(笑)

戯曲の書き方

佐々木 そもそもどうやって戯曲書いてるんですか? 僕は東京の映画美学校でことばの学校というものをやってて色んな人に来てもらうんですけど、「どうやって書き始めて、どうやって書き進めて、どうやって書き終えてるんですか」という具体的かつ身も蓋もない質問を毎回誰に対してもしてるんですよね。

松原 固定されないようにやってきたというか。戯曲を書くってなった時は、相手とどう作っていくかで考えることが結構多いですね。ここ最近の書き方だと『光の中のアリス』はルイス・キャロルで、『ミライハ』は高校生で、『再生数』は映画で、『ダンスダンスレボリューションズ』はダンスで。テーマとも少し違うものというか、メディアみたいなものを意識しつつ⋯⋯『光の中のアリス』はルイス・キャロルはもちろんのこと、メディア的なもので意識したのはアニメだったんですよね。アニメで可能になっている身体を、舞台でどう可能にさせるかを考えつつ書いたみたいなところがありますね。既存の舞台でこれまで前提とされてきた身体を、他のメディアの身体と組み合わせてどう新しい身体が作れるかみたいなことをこれまでずっと考えてきたんじゃないですかね。それは前提の形式としてあるんですけど、戯曲は結構こうやっぱり形式として結構強いというか。年々、名前とか邪魔だなって毎回思うんですよ。

佐々木 ははは。

松原 名前があって台詞がある、あの形式自体がちょっとだんだん嫌になってきてる。人物が話す会話として一行を独立させて書き連ねていく、みたいなことはいくらでも書こうと思えば書けるんですど、何かこれまでと違うものが出てくるかというとそうでもなくこういう駄々を乗り越えるためにも、とりあえず今はト書きを頑張ってますね。

佐々木 なるほど。実際、ト書きっていうのは上演で発されない言葉じゃないですか。むしろそこに可能性というか面白みを見出していっていると。

松原 『ダンスダンスレボリューションズ』では、演出の二人がト書きをセリフとして発するという前提にはなってるんですけど、あれはト書きをト書きとして読む前提のもと書いてたりとか。『山山』の時も、ト書きを排してセリフだけで進めていくみたいなことをやってて。ト書きとの関係で作っていくみたいなことはありますね。

佐々木 今の話は、これからの松原戯曲のあるいは松原作品の方向性の一つを示唆しているのかなという気もしますね。いわゆる戯曲じゃなくなっていくというか、ベケットとか分かりやすいですけど、実際そういう風になっていった劇作家の例も過去にある訳で。そもそも、前に悲劇喜劇で松原さんが岸田賞とった時に岡田利規さんと対談やったじゃないですか。色々今してるような話が出て、岡田さんが「僕は絶対に松原さんの戯曲を演出するんだ」みたいなこと言って未だに実現されてないみたいなことがあったりするんですけど(笑)
松原さんは地点に戯曲をいくつも書いてきたけれども、地点の三浦基さんの演出自体が役と台詞に拘束されない仕方が大前提なので、さっきの話とある意味で逆だけども、「誰それが何々と発する」と戯曲に書いてあってもそういう風にならない訳ですよね。「結局これ分散されちゃうんだよね」と分かりつつも戯曲を書いていたわけじゃないですか。そのことでいうと、『光の中のアリス』の場合は出演者がスペノ2人も含めて6人なんですけど、当て書きというか、出演者が何人で云々みたいなとこから逆算して書いてる部分はあったんですかね。

松原 もとから知ってたのが古賀友樹さんで、古賀さんだったらなんでも話せるだろうなとかは思いつつ、荒木知佳さんと矢野昌幸さんは当時は名前は知ってたけど自分のテキストで読んでもらったことはなく、佐々木美奈さんは初めましてだったので、ほんとにぼんやりとしたイメージしかなかった。うっすら、この人は悪い感じだろうとかこの人は主だったところところがいいだろうなーくらいですかね。当て書きっていう程でもなかった。

佐々木 最初に登場人物表とかは設定するんですか。

松原 あれは事後的に書いてます。登場人物の後に属性みたいなものが書いてると思うんですけど、それは書きつつ足していくみたいな感じなので、最初はやっぱりざっくりとしてますよね。

佐々木 そのざっくり書くがいかにして成されたのかっていうことがやっぱり知りたい訳なんだけども(笑)。なんていうのかな、小説とかの書き方と戯曲の書き方って違うといえば違うんだけど全然似てないわけでもないと思うんですよね。小説の場合は、設計図的なプロットと人物表がある方が楽な人もいると思うんです。要はどうやって書いてるんですかってことの肉付けの話なんですけど。

松原 やっぱり戯曲だと箱書きが代表的なんじゃないですかね。1、2、3と何場か作って。

佐々木 シーン設定ですか。

松原 そうですね。僕の場合は1、2、3、4、5と数字を振って、それに自分が興味の出そうな章題みたいなものをたてて、その中に人物を解き放って書いていくみたいな感じですかね。章題のざっくりしたイメージの中で、ざっくりとした人物たちがどう関係を作っていくのかみたいな。だからもう最初はバーッと書く。ただまあスペノの場合はノーカットで上演するので、エコノミーを気にしてテキストを結構削っていきますね。圧縮もするし、分かりやすさとか伝わりやすさも一応意識してどんどん書き直していくみたいな形ですね。

佐々木 じゃあ割と脚本はブワッと書くみたいな。

松原 最初はそうですね。ブワッと書いていけるとこまで行くみたいな。まあでも絶対に途中で止まるので、6場あるとしたら3場くらいで絶対止まっちゃうので。そこで、ひたすら3までを書き直しちゃうっていう状態に陥るんですよ。それで、書き直しているうちに4を思いついて5も思いつくみたいなことになる。ラストシーンとかは本当にもうめちゃくちゃ頑張って力技で捻り出しますね。

佐々木 あんまり逆算型ではないってことですね。

松原 そうですね(笑)

佐々木 書きながら収束するんじゃなくて発見していくみたいな。

松原 そうですね、やっぱりそこは保坂和志さんあたりからの影響が大きいので。書きつつ何が発見出来るかを楽しみに書くということをやってます。

佐々木 「飽きない」と言うと変だけど、書くことに倦まないで済む為には、自分自身が驚きながら書いていくっていうのはやっぱり必要ですよね。
セリフを書いていく時に、松原さんの頭の中で声が聞こえているとか言ってるみたいなことはあるんですかね。そもそも松原さんは、自分が演出家でもないし俳優でもないじゃないですか。ある意味すごく根本的に、どうしてこの人は劇作家になったんだろうっていうことは大きな謎としてあるんですけど。要するに、セリフは実際には音声として発話されるわけなんだけど、戯曲のセリフを書くときに松原俊太郎の頭の中ではどのようにそれがやって来てるんですかね。(セリフを)言ったりしてるの?

松原 言わない。でも書いてるうちにめちゃくちゃ声が鳴り止まなくなる時があって。さっきの一行一行書いていく話、保坂和志さん的に書いていくっていうのもまぁそうなんですけど、鳴っちゃう状態になった時に身体が大変。それを書いていくってなると収集がつかなくなっちゃうというか、その状態まで持っていくことをやりたがらなくなっちゃったんですよ。

佐々木 拡散しちゃうから?

松原 拡散しちゃうし、書き直さないといけないし、その後やらないといけないことが決まってるので。

佐々木 その後どうなるか分かってるから、そのモードに入ると警戒しちゃうってことですか。

松原 そうそう。戯曲のためにはそのモードになった方が絶対良いんですけど、ならない。そことの戦いみたいな感じ。

佐々木 鳴る方向性は別に良いことな訳だけど、鳴りきらないようにしてるんだ。不安な部分でずっと飛んでいく、っていうイメージみたいなことだと思うんですけど。

松原 そうですね。やっぱり声が鳴るという状態があるから戯曲になるんだと思いますね。あと自分の頭の中でも舞台みたいなところがあって、その中に人物達が配置されていて、そこで何かしらのおしゃべりがされている、アクションがなされているみたいなことがあるので、テキストに出力する時は戯曲に適した設定に慣れ親しんでる。舞台で発せられた声みたいなものを聞くことで、これまで自分の中で積み上げられてきたテキストが新しく蘇生されていくみたいな、組み変わっていくみたいな経験が一番最初にあったので、それを毎回更新したい意欲は自分の中にあるんだと思いますね。

編集を経由しない戯曲

佐々木 『光の中のアリス』の初演時は、時間がすごく短かったってことですけど、これまでの劇作家としての経験の中でどの程度の難易度だったんですか。スルッと書けた方とか、わりと難産だったとか。

松原 全てノーカットで上演されるというのが前提で6人に書いているので、結構大変だったはずなんですけど、ルイス・キャロルが前提にあったのが結構デカかったですね。

佐々木 そこから色々発想出来ることがあったということですか。

松原 そうですね。ルイス・キャロルが前提であればこそ大丈夫になる部分が多かった。あと、そんなにスペノのことも知らなかったので、知らない強みもあったのかな。

佐々木 考えてみたら、カットされずそのまま上演されることが新鮮な体験ということ自体が特殊だけどね(笑)。絶対おかしいじゃんってなる訳ですけど、松原さんの場合はプロセスとしてはそうだったということになるわけで。

松原 まあでも書いたものが全部が乗るって結構異常なことだと思いますけどね(笑)。だって普通に映画の脚本とかでも複数人で書き直したりするじゃないですか。

佐々木 まあ現場での判断もあるでしょうし。

松原 そう。戯曲って集団で色々編集されていくはずなんですよ。そっちの方が面白くなると思いますね、編集されていった方が。

佐々木 実際の上演っていうレベルではってことですよね。

松原 そうですね。『光の中のアリス』も、ラストシーンとか結構遅れて書き直したというか、稽古場の様子を聞きながら書き直していくみたいなことを恐らくやってた。その後のスペノの作品でもそういうことはやってます。『再生数』では特に顕著でしたけど、稽古の動画を見せてもらって書き直していくみたいな。

佐々木 でも最終的に『ダンスダンスレボリューションズ』で舞台上にいるっていう状態まで来たわけですよね。今回、『光の中のアリス』の再演にあたって、初演の戯曲はいじってるんですか?

松原 ほぼいじってない、ほぼまんまです。ただ、結構音楽を使っているので問題は著作権周りですね。ディズニーは結構大変だし。

佐々木 なんか曲を変えなきゃいけないんでしょ?

松原 あとセリフ量的にもめちゃくちゃ多いので、個人的にはカットしたいんですけど。

佐々木 じゃあ、そのままの戯曲でいきましょうというのはスペノ側からの要望というわけだ。

松原 そうですね、はい。

佐々木 さっきの話もそうですけど、スペースノットブランクは戯曲をやる場合に、基本的にはそのまんまやるんだってことは公言もしてると思うし、方法論の差異化みたいなのはかなりあって、戯曲自体に手を入れないことで自分たちを律している部分もあるんでしょうね。

松原 スペノは俳優に対する演出においても、その人がその人であることを重要視する。僕の場合は、松原が書いた戯曲であるっていうことを尊重するみたいな。そういうスタンスっていうのを大事にしてるってことなんでしょうね。

佐々木 ちょっとまた話が遡りますけど、『光の中のアリス』の初演を見た時、自分の戯曲がそのまんま発話されるってことで、上演を見た時にどういうふうに感じたとかありますか。

松原 僕は自作の戯曲が上演される時めちゃくちゃ緊張するんですよ。地点の時はそんなに緊張しないんですけどね、地点の時は、やっぱりどこか半分切り離されてるじゃないけど。

佐々木 上演で変わってる部分もすごく多いですしね。

松原 ただスペノの場合は全部そのまんまっていうので、一緒に観てる観客の反応とかめちゃくちゃ気になっちゃいますね。ただ、記録動画って基本的にあんまり面白くないと思うんですけど、『光の中のアリス』は記録動画を観てめちゃくちゃ面白かったので、これは良い作品なんだなってことをだいぶ遅れて認識しました。上演時は、シーンごとに個々の俳優の状態や発話にその都度感動するみたいなことは結構ありましたね。

フィクションからひらく「現実」への身振り

佐々木 アリスが出発点だっていうことと、執筆時が国粋主義的なものが盛り上がっているタイミングだったみたいな話がありましたよね。一方で非常にフィクショナルな設定がありながらも、もう一方ですごくアクチュアルというか、現実のまさに今ここみたいなものに対しての痛烈なコメントみたいなものがあると思うんですよ。アリスがどうしてヒカリスになったの? ってこともあるんですけど、アリスをある意味では媒体としてそこに考えていることを色々乗せていくわけじゃないですか。初演から数年経って外側の世界状況や社会も変わってるって中で、今度の上演に向けて劇作家としてはどういう風な思いがあるんですかね。

松原 この作品自体がどういう風に受容されてるのかっていうのは京都で上演しただけじゃ全然分からなかったんですよ。こっち側の意図じゃないですけど、その当時は、「現実」ってされてるものに対する向き合い方みたいなもののバリエーションみたいなものが結構少ないなって思ってました。少ないというか、「受け止め」だったり、「逃げ」だったり、それへの「抵抗」であったり、テンプレだけがたくさんあるなっていう気がしていて、現実においてそのバリエーションみたいなものがあんまりないなっていう実感があり。そこに荒唐無稽なフィクションを挟むことによって、現実への別の向き合い方を作り出せないかということはあった気がしますね。それこそ佐々木さんの『未知との遭遇』(筑摩書房)じゃないですけど、現実とどう絡んでいくかという問題はずっとあって、『ささやかなさ』もそういう問題を主軸に書いていたところはあったと思いますし。

佐々木 ルイス・キャロルのアリスの物語は不思議の国と鏡の国とあるわけですけど、あれはファンタジーであるけど、一方でドゥルーズとかみたいな哲学的な解析とかも出来るじゃないですか。高山さん等の一連のものもずっとある一方で、迷い込むというよりも、脱出するというのかな。現実に脱出するのか、現実から脱出するのか分からないけども、「現実」っていうものを捉え直すために現実じゃないものを設定するということが、フィクションの一つの方法論で向いているやり口の1つじゃないですか。そういう意味では、アリスという設定はそもそもすごく向いている題材な気もしていて、実際『光の中のアリス』も出られるにはどうしたらいいかという話になってるんだと思うんですよね。そこは何重にも隠喩になっているからストレートにメッセージとして伝わってくる訳ではないんだけども、じわじわ効いてくると。

松原 ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』もそうだけど、言葉遊びしかしない人物達の間に巻き込まれて、表層で悪夢を見るみたいな状態になった後に最終的には現実に戻ってきて、それが誰かの見た夢の中だったかもしれないというオチがつくわけですよね。結局、最終的には身体に戻ってくる。それまで舞台に立たされていた身体がどうなるかみたいな状態に落ち着くんですよね、絶対。そのあたりのルイス・キャロルの設定自体は舞台ともパラレルだし、最終的にその身体がどういうふうになって、どういうことを言うのか、を意識しつつ書いたなってことを今思い出しました、話をしていて。

佐々木 そうですね。それが最終的に身体に戻ってくるっていうのが、要は演劇の定義みたいなものですもんね。純粋にテクストとして独立して読むことも出来るんですけど、この間読み合わせ全部聞いてて、やっぱり声に発せられることによって孵化するというか孵化されるテクストだなあと改めてすごく思ったんですよね。今回キャストも一部変わっていて、かなり違った感じに見えるんじゃないのかなと思ったのでそれもすごく楽しみです。

佐々木 稽古を観に来たりしないんですか?

松原 稽古はたぶん行かないと思いますね。そんなにたぶん、言うこともないので。

佐々木 じゃあ、上演中に東京に来ることになるだろうという予定ですかね。その時にまたリアルで会えたら良いですね。

松原 そうですね、ぜひ。

編集:髙橋遥 土田高太朗

Photo by Arata Mino
佐々木敦 Atsushi Sasaki
思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学非常勤講師。立教大学兼任講師。芸術文化の複数の領域で執筆、教育、プロデュースなどを行なっている。著書多数。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』。近著として『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の喪失』『「教授」と呼ばれた男ー坂本龍一とその時代』などがある。
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