光の中のアリス|レビュー|後藤護:アリスは土星人サン・ラーに出会いそうで出会わない──『光の中のアリス』評
後藤護 Goth-O Mamoru |
暗黒綺想家。『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社)で第1回音楽本大賞「個人賞」を受賞。その他の著書に『悪魔のいる漫画史』(blueprint)、『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン)。『博覧狂気の怪物誌』(晶文社)、『日本戦後黒眼鏡サブカルチャー史』(国書刊行会)を現在準備中。 |
X / note / Web連載:綺想とエロスの漫画史 |
小野彩加・中澤陽によるコレクティヴ「スペースノットブランク」の名前を見て、手強い相手だなと直観した。「スペース」や「ブランク」という「何もない空間 empty space」をやや響かせる語を選択するだけでもけっこう厄介なのに、そこにnot という意味反転のアクロバティックな一語が入っているのだから。notで意味をめまぐるしくturn!turn!turn!(反転!反転!反転! byバーズ)させる土星人サン・ラーのような重力と反重力の使い手か、と思っていたら松原俊太郎作の『光の中のアリス』には「虚無」や「真空」や「重力」といった語彙がわんさか出てくる。登場人物たちは最初から死んでいる、といって始まる。さあ曲者だ。
ズブの演劇素人であるぼくに、『光の中のアリス』劇評の依頼が、佐々木敦氏を経由して舞い込んできたのは一体なぜか。光テーマに対して「暗黒がすなわちわれわれのパースペクティヴなのだ」(澁澤龍彥)と言わんばかりに「暗黒綺想家」を名のるぼくに、〈光〉と〈闇〉の凄絶かつ血みどろのゴシック明暗対比を演じてみせよ、というサジェストか。おそらくそうではない。作者・松原俊太郎氏が「光の中のアリス」を書く上でマーティン・ガードナー『詳注アリス』(亜紀書房)を参考にお書きになったとのことで、何を隠そうこれ、わが恩師・高山宏の翻訳というのもあり、そこから白羽の矢が立ったと幻覚する。
というわけで11/9(土)に観劇した。ヒカリ(荒木知佳)がplay、play、play……と連呼してたらいつのまにかrape、rape、rape……にひっくり返るなど、ブラックなものふくめ言語遊戯はやはり大量だったが、そこにウィアードな身ぶり手ぶりが(最後に述べるが足ぶりも!)くっつくとこんなにもワクワクするものかと感じ入った。ナイト(古賀友樹)が関根勤のカマキリ拳法のような構えを取り、さらに跳躍と身体のねじりをくわえて「はらわたが雑巾絞りされてて、肺が引き金で引かれて、背中をナメクジが這って、脳みそがミキサーで撹拌されてる」と叫ぶゴアな痛覚表現のパフォーマンス。あるいは身体をバッチバッチ平手打ちしながら「おばかさーん」というヒカリに対して、謎にピーーンと背倒立して「目が覚めちゃうだろー」とナイトが叫ぶスラップスティックなパフォーマンスには、理解を絶した「さかさまの世界」のワンダーがあった。パッション屋良と江頭2:50の漫才のようだった(いや冗談ではなく、真ん中にマイクスタンドを立てたお笑いコンビのような漫才形式が時折採用されるのだ)
戯曲の(もともとヘンテコな)言葉もさらに奇妙に引き延ばされたり、捻じ曲げられたり変形されたりしていて音響的実験の様相を呈する。スクリーンにはタテにヨコにと次々と字幕テクストが表示され、そこにノイズ混じりでドリーミーなアンビエントミュージックや、ナレーションや役者のセリフも重なるものだから、ゴダール『映画史』のように焦点が定まらず撹乱される。観客は一つのパースペクティブ(遠近法)に安住することが許されず、二重三重に分裂していくアナモルフォーズ(畸形遠近法)に眩暈を感じるだろう。視覚的にも聴覚的にも、認識論的にも。
「グラシアンが機知(インヘニオ)と呼んだものはわたしには不快です。なにしろそれは言葉遊びで、その言葉遊びは単に言葉だけのもの、つまり慣習の中だけのものでしたから」と言ったのは机上の空論城に住まうインドア怪獣ボルヘスであったが、表層だけが上滑りしていく言語遊戯の悪夢を描きつつも、『光の中のアリス』はそこに「重力」なり「身体」なりをくわえてレジストしている印象を受けた──きわめて面白真面目(セリオ・ルーデレ)なやりかたで。葛藤してるようで遊んでる、遊んでるようで葛藤してる、そのあいだのスペースを漂いながらふと訪れるウィズダムにぼくなどは感服した。
「あったことをなかったことにし、なかったことをあったことにするの」とはバニー(東出昌大)のパワーワードだが、この劇は歴史修正主義に対するクエスチョンマークがちらちら見える。「比喩が重なりすぎてよく分からない」(ヒカリ)というセリフもあったが、歴史修正主義ならぬ歴史修〈辞〉主義もクエスチョンマークなのか。すると、歴史は「ファクト」の客観的記述などではなく、歴史家それぞれの「修辞」によって編まれた「フィクション」にすぎないと喝破し、一部からアウシュヴィッツをなかったことにする歴史修正主義を看過する危険思想と叩かれたヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』に対して、この劇はやや懐疑的なスタンスをとることになる。
この劇は、フィクションに重心が偏り過ぎてやや楽観的なホワイト史観ではなく、現実と虚構のあいだのスペースに浮かぶ(いや、引き裂かれる)ことで得られる、一義性に凝固しない相対思考のウィズダムのほうに寄っている。それゆえ「結論」めいたものを出す愚は、ラストの「つづけ」というエンドレスな一言によって否定される(あるいは「つづけ」の一言ではじまる帷子耀.のノンセンス・ポリティカル詩「カリクロ」に緩やかに接続される)。「みんなが黙示録の実現を夢みているこんなご時世、なんだったら人間にできる最大の抵抗は、お話を終わらせないってことだろう」というナイトの記憶に残る名台詞は、加速主義への蛇足主義(?)によるカウンターと勝手に受け取った。
「人が激突する現実はミルフィーユ爆弾。何層にも折りたたまれているんだ」とか「ヒトが直面する現実は双子の特攻隊、二重にやってくるんだ」とか、現実を二重三重、十重二十重に折り重なった比喩の襞としてみる見方がバニーによって何度か表明される。ドゥルーズのバロック哲学のコンセプト「襞(ル・プリ)」のようである。ところで、公演時期がちょうどアメリカ大統領選に重なった。トランプが勝った。リベラルと融合した北米型ピューリタニズムの一枚岩思考(違反したあの者の首を切るのじゃ!)はますます強くなるだろう。そんなときにパラドックスや相対思考が救済力になると考えれば、バニーの言葉は叡智として響く。「みんなして自分らにだけ都合のいいお気に入りの現実に加担した2010年代の悲惨さを忘れずに、ね…」というバニーの言葉におもわずドキッとした。作り手の意図に反していたら恐縮だが、ぼくはバニーが賢者に思えた。
第2幕「おもひでしんくうかん」のタイトルは象徴的だ。本作はさながら松岡正剛スタイルで「鬱」と「うつろ」の言語遊戯にウツツを抜かしながら今日ムー(虚無)を呼び寄せ、真空たる「おもひで」というインナースペース(内宇宙)に突っ込んでいく。同じく言語遊戯派の黒人音楽家サン・ラーであるが、この土星人は対照的にアウタースペース(外宇宙)に向かった。「私が扱っているのはアウタースペースです。というのも、人はどういうわけかインナースペースの避難所(ヘイヴン)や楽園(ヘヴン)に向かって役割を演じることに囚われているのですが、私はそこにはいないからです」という、サン・ラーのハードドライなアウタースペース志向のSF思想よりかは、「光の中のアリス」は地上の人間心理にあえてふみとどまっている。「歴史」から「神話」への移行をサン・ラーは訴え、リアリティにまつわる葛藤を退けることでアフロ・フューチャリズムの始祖になった。在米黒人の思い出したくもない負の歴史をメタヒストリカルに「書き換えた」偉人だと。とはいえ、「おもひで」の重荷のリアリティから逃れると単なる外宇宙「フィクション」になってしまうと危惧したのか、この劇は重力で地上にひっぱられ、サン・ラーと袂を分かつかのようだ。
第5幕「かうんとふるねす」(ちなみにサン・ラーは「カウントゼロ」がフェチ語だった!)でふわっふわっな光の世界に飛び立つのだが、演劇は「結局、最終的には身体に戻ってくる」とは松原の発言だ(佐々木敦インタビューによる)。身体となると、やけに印象に残る細部があった。ヒカリだけ裸足だったことだ。小学二年生の無垢なまなこ(黒眼鏡かけてたが)でぼくはガン見してしまった。ワンルームのなかで展開されている設定だからリラックスして裸足なのだと簡単に片付けることもできるが、残りの役者がみな靴を履いているので嫌でも対照が際立つ。山口昌男の「足の文化人類学」をここで思い出した。頭や手に対して足がコミュニケーションにおいて重要な役割をあたえられず、いつも上半身の奴隷であったとし、むしろ四股を踏んで天と地をつなぐ力士のようにその足にこそ象徴人類学的に重大な意味があると「さかさまさかさ」(ピーター・ニューエル)な階級闘争をした名文だ。頭でっかちなノンセンスを転倒させるものとして、頭から一番離れた場所であるヒカリの足の生々しいリアリティが終始あった。ミニー(伊東沙保)がローラースケート(?)で舞台上をあっちゃこっちゃ光GENJI(古語)のように滑るときの、地上から遊離したふわっふわっ感覚は生足にはない。
伝説的なルイス・キャロル研究者エリザベス・シューエルが述べたように、結局のところふわっふわっのノンセンスは常に身体の重さと昏さ——彼女は「オルフェウス的暗黒」と呼んだ——の問題に回帰する。というか回帰しなきゃヤバい。「生き始めるには、動かなければならない」とは開幕早々にスクリーンに流れた言葉だった。「世界喪失の技術」(ハイデガー)である無重力なノンセンス言語遊戯は、逆説的に重力のリアリティを欲するのだと改めて思った。
レビュー
佐々木敦:アリス、光の中の
artscape|山川陸:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『光の中のアリス』
後藤護:アリスは土星人サン・ラーに出会いそうで出会わない──『光の中のアリス』評
白尾芽:可能性の物語
徳永京子:これはスペノ版『百億の昼と千億の夜』
山本浩貴(いぬのせなか座):顔をあつめる
ルポルタージュ:佐々木敦
その1「読み合わせとマーダーミステリー」
その2「戸惑いと疑い」
その3「トーンとグルーヴ/上演に向けて」