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再生数|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや WebTwitter
舞台批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。影響学会広報委員。演劇最強論-ing「先月の1本」連載中。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』『えほん』がある。

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 ロームシアター京都を舞台に、スペースノットブランクと松原俊太郎さんの最新作『再生数』が上演されようとしています。ここではその導入として、この「再生数」という言葉が今日の日本の社会で持つ重要性について、整理しておきたいと思います。ただし、わたしはすでに松原さんの戯曲に目を通していますが、ここからの文章はその主題やメッセージといったものを見繕って図解するものではありません。その点ご承知おきください。

 アイドルとファンは、どちらも幼く、お互いに入れ替え可能な、似たり寄ったりな存在です。なぜでしょうか。
 アイドルにはふつう常に若さが求められます。よく知られるように、たとえばAKB48を先駆けとするグループアイドルの革新性は、卒業制度を設けてメンバーの交替を容易にすることで、パフォーマーの年齢を常に低水準に維持し続けることにありました。
 ところで、ユースカルチャーとは広告のことです。若いうちに観たものがその人をつくるというのは端的な事実です。鉄は熱いうちに打て。映画にせよ音楽にせよ何にせよ、そこでつくられるものには社会や人びとを、特定の方向に差し向けようとする、ある影響の力学が働いているのです。こうした力学が行政的、経済的、企業的な論理を離れて存在することは稀です。たとえば、およそすべてのアイドルは、素敵なのはこんな顔で、素敵なのは若さだという広告塔です。晴れ舞台に立つ限り、本人が何を考えていようと、必ずそうです。演劇にしたってたいてい広告です。ひどく不経済ではあれ。
 ユースカルチャーの消費者であり続けるのは、こうした広告に教え導いて行かれるプロセスへと、くりかえし身を投ずることに他なりません。しかも、今述べました通り、そこで宣伝されるのは若さをよしとするメッセージですから、誰もがこのカルチャーに浸りつづけようとするのは当然の成り行きで、ユースの範囲はどんどん広がっていくことになります。若い人びと、つまり影響を受けてくれやすい人びとが、年齢の別なくたくさん生み出されるのは、広告にとっても好都合です。老いた人びとにも、かわいい老人の魅力は盛んに喧伝され、いつでも今が一番若いという事実の確認が繰り返し迫られます。積み重ねられてきた年月に目を背けて、絶えず今だけをまなざすことは、若さ一般の特徴であると言えます。
 YouTubeやTikTokといったプラットフォームは、コンテンツを発信するアイドルになる可能性をすべての人に開きました。こうしたメディアは、休みなく流れてくるコンテンツにひとの目を釘付けにさせておく工夫に満ちていて、家の中にいて時間を持て余していることの多い若年層を、その受信者や発信者として狙い撃ちしています。YouTubeやTikTokといった場で振りまかれるアイドルの笑顔のフローが、次なるアイドルを虜にしていって、また今日も誰かがアイドルへと再生します。
 わたしたちは、何歳になっても多感で、影響を受けやすい、かわいい若者なのです。

 亀の甲より年の劫、ではなくなってきています。誰もが若くあろうとする社会では、年の数は重要ではないからです。このことを、別の角度からも考えてみましょう。
 中根千枝さんの『タテ社会の人間関係』によれば、人間集団は主に「場」か「資格」かのいずれかを軸に組織されるものだけれども、日本では場の論理が過剰に強いのだそうです。この場合、集団に対する帰属の根拠は、なんらかの資格に求めることはできないので、突き詰めてゆけばどこまでも空虚になります。そうであるがゆえに、わたしがこの場に居るのは、わたしが居るのはこの場だからだという、無敵の論理があちこちでまかり通ることになります。それが問題になるのは、たとえば、そこで行われるはずの排除を内外から批判する視点が閉ざされてしまう時です(「あなたは日本人ではない」と言われる時に、行われているのは何か?)。
 場によって組織された集団としては、家や会社に大学、娯楽産業では息の長いグループアイドルや球団の現場などが、その好例となるでしょう。こうした集団内での序列は、能力の多寡よりも場に帰属した時間の長さによって決定され、すなわち年功序列ということになります。帰属の行為自体がその帰属を正当化する集団では、集団内の階層もこの行為に準じて決定されるのが自然であり、そこで持ち出される尺度が帰属の年数だというわけです。
 となれば、誰もこの場から立ち去りたいとは思わなくなるでしょう。しかも、そこで与えられる権威は実質的には無根拠もいいところなので、逆に反抗する手がかりがありません。そうして生まれるのが、場の外側への繋がりや逃げ道が限りなく閉ざされたタテ社会です。
 ところが、いわゆる新自由主義政策は、個人を家や会社といったタテ社会の枠組みから切り離しました。正社員の減少は特に目立った現象と言えますが、企業という場から切り離されて、根無し草のように漂う人びとが増えれば、当然タテ組織は崩れ、年功序列も失効します。
 なぜそんなことになったのでしょうか? タテ組織の上意下達の論理によらなくても人々をコントロールできる、そういう仕組みが出来上がっていたからです。年功とは別の力の方が人びとをうまく支配できる、ならばそれでいこうとなったわけです。では、その力とは何だったでしょうか。

 広告の父と言われるエドワード・バーネイズさんの著作に、広告そのものの広告として書かれたPropagandaという本があります。バーネイズさんは売り込みます。わたしたち、すなわち西洋白人エリート男性は民主主義社会を選んでしまったのだから、正しい多数決のために、頭の良くない人のことはわたしたちが導いてあげなければいけませんよね。そこで広告という商品はいかがですか? 
 バーネイズさんは、広告の使命は賢い人がそうでない人を導くことにあると考えていました。だから、専門家と呼ばれる偉い人たちをこっそり傀儡にして、売り込みたいことをその口から語らせるという手口が、バーネイズさんにとって最もさえた広告のやり方だったのは、当然のことでした。すぐれた広告は広告の顔をしていません。あらかじめ定まった結果に向かって、御用学者の論文や言説が沢山ばらまかれます。すてきなイメージで大衆を魅了するよりも、専門家に喋らせる方が手っ取り早く効果的だと、広告は最初から訴えていました。
 ここにあるのは、偉いということになっている人が、偉くない人々を導き、そのおかげでさらに偉くなるという、循環的な過程です。そして、このループの元を突き詰めてたどっていった時、その偉さはなにを根拠に生じたのかと問われて、まともに答えられる人は実はあまりいなさそうです。
 ところが、今日、広告を取り巻く基準は一変しています。専門家はすでに必要とされていないのです。人びとに影響を与えるのには、発言に影響力のある人に声をかけるのが一番手っ取り早いという、より素早く効率的なループが発見され、専門的な知見に頼る必要はないことが明らかになったからです。ここでの影響力とは、もちろん再生数のことです。

 長い時間をかけて蓄積された、簡単には数値化できない経験や知識、そうした質的な次元こそが、かつては人を立派にするとされていました。しかし、今はとにかく再生数がものをいう時代です。言葉で遊ぶにしたって、とった年の数が多いより、再生数が多い方が、凄いに決まっています。キリストだって一回しか再生していないのですから。
 それはともかく、このような時代にあっては、成熟と喪失の問題系も大きくずらされることになります。幼さを乗り越えて成熟へという線的な成長観はもう崩壊しています。何回追従されたか(フォロワー数)、何回愛されたか(いいね数)、何回復唱されたか(リツイート数)、そして何より、何回生まれ変わったか(再生数)。これがすべてです。
 あなたに愛されるたびわたしは何度だって再生する。生まれ変われば生まれ変わるほど、新しくて素晴らしいピカピカのわたしになる。だから愛させ続けて魅せる。そういう影響のフィードバック・ループの磁場をうまく作った者勝ちの社会です。そのためにはできるだけ簡単に消費できるわたしになった方がいい。これでは成熟しなければならない理由などなさそうに思えてきます。

 家、という場において、若さへの幽閉は繰り返される傾向にあります。悪しき母性とかいったひどく退屈な勧善懲悪の物語を繰り返したいわけではありませんが、それゆえにこそ、家という場をめぐる抑圧的な構造について、ここで言及しておきます。
 特に日本では、教育の資金繰りを家庭任せにする政策がとられているので、人びとが家から経済的に自立することは難しいです。しかも、自立とは経済的に自立することを言うのだというふしぎな価値観が不断に広告されているから、自立の道を断念し、家のお世話になる子どもとして繰り返し自分を再定義しなければならない人びとが、たくさんいるはずです。
 親の愛を受けることができなかった子供はうまく大人になることができないという、不思議な神話も近年まことしやかにささやかれるようになって、家は家の外にもついてまわります。家からの自立を保証してくれるとされる、決して充足されきることのない愛がそれでも求められるようになり、再生数の出番が無限にやってくることになります。

 ひとつの場所に安らって功を重ねていくことは、もはや成熟とは呼ばれないでしょう。かといって、いくつもの場所を矢継ぎ早に渡り歩いていくといった戦略も、人びとをお互いに切り離し、なじみのある場所からも切り離して、広大な影響の磁場に絡めとって遠隔操作するポリティクスを助長する結果にもなりかねません。
 求められているのが旧来の意味での成熟や自立ではないことは、明らかです。教え導かれるidleなわたしへと、わたしを何度も生まれ変わらせている、いま・ここのこの力はなにか? どうしたらその磁場を逃れられるのか? そしてこの力に抗うことができるのか? わたしたちの知恵と経験と若さとを差し向けるべく問われているのは、そのことなのです。
 最後に、話を舞台に戻したいと思います。劇場が、Twitterという劇場にいくつも備え付けられた小ホールになり下がってから、それなりの月日がすでに過ぎました。生まれ変わった! という感動がものの数でもなくなるようないま、舞台には果たしてなにができるでしょうか。

参考になる文献:
小沢牧子『子どもの場所から』
坂倉昇平『AKB48とブラック企業』
中島梓『コミュニケーション不全症候群』
森真一『自己コントロールの檻』

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再生数

予告編
ティーザー予告編予告編

イントロダクション
植村朔也

プレビュー記事
映像の終わりに寄せて:植村朔也

メッセージ
回を重ねる:小野彩加と中澤陽

出演者インタビュー
鶴田理紗と奈良悠加
荒木知佳と油井文寧
古賀友樹と鈴鹿通儀

インタビュー
松原俊太郎

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再生数|松原俊太郎:インタビュー

松原俊太郎 まつばら・しゅんたろう WebTwitterInstagram
劇作家。1988年、熊本生まれ、京都在住。神戸大学経済学部卒。処女戯曲『みちゆき』(2015年)が第15回AAF戯曲賞大賞を受賞。戯曲『山山』(2018年)が第63回岸田國士戯曲賞を受賞。小説『ほんとうのこといって』を「群像」(講談社)2020年4月号に寄稿。主な作品として『正面に気をつけろ』、『光の中のアリス』、『イヌに捧ぐ』など。2022年度セゾン・フェローⅠ。

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植村朔也(以下、植村):スペースノットブランクについてよく言われるのは、意味はわからないけど面白い、ついてはいけないけれど観てしまうといったことです。これは一面では、身体の強度を重んずる舞台が90年代以降減少していって、スペースノットブランクが逆に希少な存在になった結果ではないかと僕は理解しています。松原さんの戯曲の言葉も生半可なものではなく、それをしっかりと声に出すためにはやはり強度が必要とされるように思われます。
つまり、スペースノットブランクと松原さんの共作を語るうえで強度という言葉は外せないわけです。もちろん、その場合今度はこの強度というマジックワードの内実が問われなくてはいけません。たとえば松原さんと縁の深い劇団である地点などと比べた場合に、スペースノットブランクの身体性をあらためて松原さんの視点から言葉にするとしたら、どのようなものになるのでしょうか。

松原俊太郎(以下、松原):地点だと、戯曲の役に沿った新劇的な身体とは全然違って、演出の三浦さんが戯曲から直感で引っ張ってきたワードを基に即興して、劇団員全員で演技のルールを決めてつくるので、最初の段階から身体とテクストに距離ができる。その、テクストに寄りかからない身体を自律させ、戯曲の言葉と対峙させるためにルールづくりをやっているんじゃないかと思っています。
スペノ(注:スペースノットブランクの略称)は俳優自身がもっている身体というものをすごく尊重しているというイメージがありますね。筋や構成をいじったりしない分、地点よりは戯曲の意味に沿った作り方をしていると思います。
身体の強度といったときに、スペノに顕著なのは、始まるときに必ずかなりゆっくりやるんですよね。観客への身体の提示・導入ということももちろんあるかもしれないけれど、あれはスペノ独特という気がします。
そうした間の取り方でいうと、最近だとジョーダン・ピール監督の『NOPE』はスペノそっくりでした。一見すると謎の間だけど、見ていくと何かしらの必然があるという。心理間やアートフィルムのそれとは違いますね。

植村:僕は、本人性ということで言えば地点の方にも感じられるように思うのですが、そこのところはいかがでしょうか。もちろん本人性といったときの意味合いが変わってくるのでしょうが。

松原:地点の場合はほぼ同じメンバーでやるし、演出の三浦さんが俳優たちをよく知っているので、そういう意味の本人性はあると思います。配役や台詞を割り振るときに、俳優のキャラクターを意識することはあると思うんですが、とりたててそれを強調して演出するということはないかと。基本的には、俳優が出してきたものに応答して演出をしていくという形のはずです。

植村:となると、逆にスペースノットブランクの場合は、劇団ではないのが演技の方向性を規定しているとも言えるわけですね。

松原:それはとても重要だと思います。毎回出ている古賀君は例外なんだけど。古賀君のような存在がいて、スペノのやり方が他の出演者と共有されていく。
スペノに関して全く色がないということはないと思う。劇団ではないけれど方法はやはりあって、それが身体にかなり寄っているというか。出演するそのひとがこれまでどういう身体を持ち、どういう演技をしてきたかということはスペノにおいてとても重要だと思うけれど、逆に齟齬をきたす場合もあるはずで、そこで古賀君がいることは助けになってるんじゃないですかね。他の劇団で経験を積まれてきた方たちは、それを活かせることももちろんあれば、蓄積した方法をデコードしなければいけない部分も少なからずあるのかなと思います。

植村:さっきのお話にあった、スペノは地点に比べて戯曲の言葉の意味に寄り添っているというのは、必ずしも明らかではないと思います。言葉と全く無関係に見える動きをしていることが多いので。

松原:書いた身からすると、無関係な動きにはあんまり見えないんですよね。もちろん予想のつかない意外な動きではあるけど、納得はさせられる。だから、振付なんじゃないですか? 
でも、その振付がどういう仕組みで為されているのかはいまだにわかっておらず、たぶん、俳優から何か出てきたものに対して、演出側がなにか提案するという形なのかなとは想像しています。
意味からあの特殊な動きを作ってはいないと思うんですよ。でもその動きが言葉と全く無縁ということではなくて、この戯曲を使ってこのクリエーションをする、というあり方を最大限に大事にしているということだと思います。その中で生まれたものでしかなくて、その時々の俳優とのやり取りであったりとか、戯曲を読んで話し合った結果だったりとか、それら全部がもち込まれた結果あの動きが生まれたという感じで、こういう意味だからこの動きをつけようという風には絶対やっていないと思う。
スペノは演出がかなり特殊で、一般的な演出は戯曲を読んで一つの解釈や態度を呈示するわけだけれど、松原戯曲とスペノの場合にはそうでもないなという感じがするんですよね。戯曲に対峙するというよりは、戯曲を使って表現すると言えばいいのかな。

植村:戯曲をそれ自体完結した作品として解釈するのではなく、戯曲を使って表現するということでは、地点の場合も同様ではないかと思うのですが、それでも言葉と身体の関係性の強さには違いがあるわけですよね。
お聞きしていて思ったのは、スペノの特徴はシーンごとにそれぞれなぜか発生している、独立した納得感にあるのではないかということです。

松原:単純に、地点はテクストをバラすんですよね。地点はバラしたならバラしたなりに、戯曲に対する一つの態度を呈示しなければならないという強迫的な意識はあるんじゃないかなって気がしますね。地点の場合、それを支えるためにあの身体があるという気がします。ただ最近はどうなんでしょう、変化はあるでしょうね。
だからスペノと地点とでは最終的な方向性が全然違いますよね。スペノ特有のシーンごとの独立した納得感も、戯曲が個々のシーンをある程度独立させつつ書いている部分に呼応しているのかなと。全篇クライマックスと謳っていた『光の中のアリス』ではそれが特に顕著でした。

植村:前回のインタビューでは、戯曲から改編を行って上演テクストをつくりなおす劇団地点の場合とは違って、スペースノットブランクでは全ての台詞が読まれるから、稽古の進展に即して戯曲を書き直すようになったということをお話しされていました。
書かれる言葉の性質も変化してきています。言葉が持つ抵抗力のようなものが加減されて、声に出しやすくなっているのです。結果として、上演する側が戯曲とは別のところに強度の根拠を求める必要に迫られるともお話しされていました。
しかしその場合、戯曲はたんなるリーダビリティのものにとどまらない大きな変化を蒙るはずです。たとえば、単純に考えたら、上演する側で強度を用意してくれるなら、戯曲の側は強度を放棄してゆくことにもなりかねない気がするんですが……。

松原:「上演する側が戯曲とは別のところに強度の根拠を」というのは『光の中のアリス』の上演前のインタビューで言っていたんですよね。そのときどういうつもりで言ったのか定かではないですが、今はそうは考えてません。仰る通り、戯曲に強度いらなくない? となっちゃうので。
ただ、強度に関して言うと、今書いている戯曲が『忘れる日本人』『正面に気をつけろ』『山山』を書いていたときとは違うものになっているのは間違いなくて、それはスペノと組んだ際には戯曲の順序通りに上演されるぶん、書く際に上演を強く意識する必要があることが大きいです。「戯曲1」「戯曲2」ってくらい、別のものを書いているという認識です。
日本の演劇を見たときに、戯曲がないな、台本しかないなと『山山』の時までは強く思っていたんですね。舞台で発せられる言葉としてそれだとどうなんだろうという問題意識が強くあり、戯曲だけで自律して成立するものを書こうとしていました。
でもそれは上演を意識しないことで可能になっていた部分が多分にありました。そこでスペノと組んだときに、別のやり方でどう戯曲を自律させられるのかと考えた結果できたのが『光の中のアリス』でした。あれはとてもうまくいったと思います。全国で再演してほしい。

植村:直近の『ささやかなさ』や『ミライハ』での手応えはいかがでしたでしょうか。

松原:『ささやかなさ』については『光の中のアリス』の前に一度高松で上演していて、『悲劇喜劇』掲載用にリライトした後、さらに再演のために書き直したかなり特殊な戯曲になっていたので、その流れのなかに置くのは難しいですね。(マスクを外して喋るシーンの)荒木(知佳)さんが凄かったな。あのシーンだけ抜き出してでも、みんなに見てほしい。

植村:『ミライハ』で出演者全員が高校生となったときも、強度を諦めようとはならなかったわけですよね。

松原:もちろん。ただ、戯曲を自律させるにあたっては、最後のト書きでなんとかギリギリだったなという感じ(参考:植村による『ミライハ』評)で、上演に任せすぎたなと反省しています。
もっと高校生がストレートに発せられる言葉を書くべきだったかなと。やっぱり古賀君みたいには高校生は発声しないし、高校の演劇部に所属している子が多かったから、そこで学んだことを出そうとすると感情がこもるんですよね。それは悪いことではないんですが、ただ自分の書いたテクストにおいては往々にして大変なことになるので。だったら、初めから感情を込めてもいいテクストに挑戦するべきだったなと思ってます。

植村:「戯曲3」ですね笑

松原:そう。そんなテクストがあっていいのかという問題もあるけど、それ含めて考えたほうがいい。もう一回やりたい。

植村:「戯曲1」はもう書かれないんですか?

松原:「戯曲1」は書きたいけど要請されないんですよね。そのまま上演したら3時間超えになるし、上演を度外視して書いてというひとも基本的にはいないので。スペノも「『山山』は無理かもしれないです」みたいに言っていたし。来年2月に演出家不在でつくる予定の『草』という集まりでは、自分と俳優たちだけでつくるので、それこそ上演を意識しないわけにはいかないけど、ここで「戯曲3」の形が作れればとは思ってます。

植村:なるほど。松原さんは9月1日のツイートで、戯曲のスタイルは繰り返し発明される必要があると仰られていました。『再生数』で、こうした「戯曲2」的な書き方に新しい変化はなにか生じていたでしょうか。何か新しいスタイルが発明されるということは今回ありましたか

松原:植村君も今回は稽古場に長くいるということで分かったと思うんですけど、まあ書けませんでした。完成が一カ月押して、稽古の初日で渡すのが10数ページという、考えられないような事態が発生していました。
僕とスペノが共有しているのはこの、スタイルの発明というところで、とにかく前と同じことはできない。『光の中のアリス』が良かろうとその二番煎じはできない。ということで、今回は映像を使って、出演者も6人でいこうと決まって、松原がドラマを書いて映画を作ろうという話になりました。
でも、まずスペノが映像で何かをつくるというのが想像できなくて。映画の身体って、まあ普通じゃないですか。だから、今回の出演者の身体がどう動くのか、イメージがつかなかった。

植村:今回初めから強度のお話をお聞きしたのは、まさにその問題があったからなんです。台詞自体の強度はともかくとして、今回の『再生数』では身体がもつ強度というものの取り扱いが変わらざるを得ないはずですから。

松原:書くうえではひとまずそれは気にしないようにしていましたが、すぐに身体は問題になりました。今回は戯曲に脚本をもち込んだんですが、これも大きくて。
『山山』ではト書きも台詞にして、身体はとりあえず文字だけで作って、それに俳優が身体をあてがうという形をとりました。『光の中のアリス』でも台詞に近い形でト書きを置いて、上演する身体とは距離がある点で同様でした。
ところが脚本を書くとなると、ト書きと台詞がパッキリ分離されているのでそのぶんより強く身体が前提に立ちます。この身体が上演の意識とべったりくっついてなかなか分離できなくて、書くこと自体と演出が切り離せなかった。
出演者がどの程度の身体でいるのか想像できないまま机上には動かない身体だけがあり、テクストをどのレベルで渡していいものか判断がつかず、まあ地獄でした。
これを分離させる一手となったのが、スペノが送ってくれる稽古動画でした。

植村:なるほど。脚本的な書き方というのは、スペースノットブランクから送られてくる稽古場の音声や映像を確認して、俳優の演技体にあわせて書くということだと理解しています。だからこそ、それは松原さんにとってはほとんど演出の仕事でもある。今回、方法としてはその書き方は最後まで貫かれたんですか?

松原:はい、昨日(2022年9月11日)最後の修正稿を送って、ようやく手ごたえがありました。自律したと思います。戯曲に脚本を持ち込むことと、入れ子を完遂することで。

植村:今回、一足先に戯曲を拝読しまして、パズルのようだと思いました。それは、単なる冗談にとどまらない、主題ともかかわる言葉遊びが散りばめられていたからです。しかも一部は普通観客には呈示されないはずの、ト書きのなかにそういう言葉遊びがあるので、演出サイドへのさりげない指示書のようにも読めました。
しかしそうなると、実は松原戯曲はパズル的な、ある種の論理的な構造物として書かれてきたのだろうかと思わされて、驚いてしまったんですね。

松原:そういう言葉遊びは少なからずしていますけれど、さりげない指示書にする意識は全くないです笑 偶然ですね。
でも基本は抽象からしか始まらないので。「死」であったり「わたし」であったりを素材に、そのときどきでこしらえた抽象から始まって、途中から構造が見えてきます。その抽象に強度を与えるための時間がこの二か月でした。抽象にそうした構造が先行しているということはないです。ただ、ネタとしてでもそうした構造があったほうがいいのは確かで、でも苦手なのでそこはもう誰かと組みたいですね。話しているうちにいつのまにかできてくるというのもありますし、話すだけでもいいので。

植村:脚本的に書くといったときの、プロセス自体についても具体的にお聞きしたいです。出演者のキャラクターを掴んだりする単なるあて書とは違った作業が行われているのだろうと推察するのですが、そうだとして、送られてきたデータから何を受けとられているのでしょうか。

松原:基本、声ですね。存在、みたいなことなのかなあ。
送られてくるのが動画というのが今回は重要でした。生身の身体を稽古場で見ていたら書けなかったんじゃないかな。

植村:それは、生身の人間ではなく映像を見るという、今回の公演本番の経験に似ているからでしょうか。

松原:いや、戯曲内の脚本の中で動いている人物としてイメージできるからですね。頭の中でやれよという話ですが、自分が頭の中でやると好んでカオスに向かってしまうので、動画でうまく外部化されてよかったです。
今回の戯曲では、外があって、撮影班がいて、彼らが撮っている部屋があって、それを観ている人たちがいるという設定があって。だから撮影現場を見ている感じで書くことが重要でした。ややこしいなこれ笑

植村:整理になるかわからないですが、松原さんはこれまでの戯曲でも作中劇というか、戯曲の内側で客席と舞台が組まれて、あるいは観る側と観られる側がそれぞれ居て、上演が行われているというようなメタ構造を持つ舞台をいくつか書かれていて、その構造の中から登場人物が外に出ることができたときに、テクストが戯曲として自律するという、逆説的なつくりになっていたと思うんですよ。
しかもそのメタ的な構造の構築であるとか、そこからの解放ということが、単なる論理的な操作ではなくて、いくつもの言葉を連ねてきた結果であるということが重要ですが。ですから先ほどの、メタ構造があることで『再生数』が自律したというのも、やはり単なる論理的な操作とは一線を画することとして理解しています。
松原さんが京都にいて、スペースノットブランクは東京で稽古をするがゆえに、その様子を共有するにはメディアを介さざるを得ず、そのことがかえって作品の強度を底上げしたというのは、大変興味深い話だと思います。稽古場に作家が不在のまま完成に至るジェローム・ベルのダンス作品なども想起させられますしね。遠く離れたままでの、オンラインでの創作ということもコロナ以降多くなったわけですが、そのポジティヴな可能性を示すきわめて特殊な事例じゃないかなと。

松原:そう思います。今回かなり待たせてしまったのは申し訳なかったけれど、動画を送ってもらいながら書くという方法をとれたのはよかったと思います。構造上の必然があったとはいえ、そうでないとあれだけ書けないんだという事実には凹みましたけど、このつくり方は発見でした。ベタにあて書になりそうなところだけどならなかったし。
一人で書いて上演してもらうという形態を取るんだったら「戯曲1」みたいなストロングなスタイルでいけばいいけど、「戯曲2」では上演される身体のイメージと、実際の声が必要なのが、今回はっきりとわかりました。『草』にも関わる話ですが、上演を意識して書くんだったら徹底的にそっちに行きたくて、ただこの徹底は自分ひとりではなかなかできないのが難しい。何にせよその都度何かを徹底させないと書けないのもよくわかりました。

植村:またTwitterの話になりますが、先ほどあった、スタイルの発明ということについて、それは集団で行うべきだと松原さんはおっしゃっていました。それは書き方をみんなで考えるというよりは、出演者が身体を共有するとか、そういった作業を指すことになるのでしょうか。

松原:そうですね。現状は出演者に事前にインタビューを行う、くらいでしかできていませんが、今回の動画のやりとりのようにどんどん見つけていきたいと思っています

植村:来年発表予定の『草』では、演出家は設けないとのことですが、松原さんがご自身で演出をされるわけではないのですよね。

松原:演出とは何かを考えはすると思いますね、もちろん。
荒木さんにせよ敷地君にせよ、予定している座組の中に演出家はいないし、そこで何が必要になるのかというところから始めていくことになると思います。OKの判断を下すのは自分がやることになるだろうけど、合意もそのつど取っていくことになるでしょうね。

植村:演出家不在というのを字義通りに受け取れば、演出は設けず上演を作るのは全部俳優任せということとも理解できるのですが、おそらく、そこでは少し別のことが意識されているのではないかと推察されます。
松原さんやゆうめいの池田亮さんのテクストを用いない場合、スペースノットブランクの舞台には劇作家のポジションが存在しません。テクストの生成にはたしかに演出の2人が関わっているのですが、これは演出家が劇作家を兼ねるということとは区別されます。テクストは稽古場での俳優との共同作業において、しかも演出と不可分な仕方で書かれるからです。集団全体を劇作家とする方法とも呼べますが、劇作家と演出家という伝統的な二項対立を脱構築しにかかる態度とも評価できそうです。
こうしたスペースノットブランクのあり方がいわば逆流して、松原さんの創作への意識をも今回変えつつあるというのが僕の見立てですが、いかがでしょうか。実際、ここまでのお話しから伺える演出観は、いわゆる通常の演出というものの枠組みを少し超えているようにも思われます。
ただ、たとえば演出家が俳優と一緒にテクストを作ったときに、それを劇作と呼ばないのはなんとなく理解できるのですが、その逆ということが果たして本当にあり得るのかは難しい問題だと思います。

松原:判断をした時点で普通は演出になるということですよね。
演出家なしでどうつくられるかについては、それこそその場に誰がいるかに依るんじゃないですかね。それぞれができることを持ち寄って、もしかしたら振付がされるかもしれないし。
いずれにせよ、劇作家と演出家という区分はそう簡単には崩れないだろうなという気がしますね。

植村:となると、演出家不在の第一の意味は、誰が何をするかを決定しない状況を意識的に作りだすことにあるわけですかね。

松原:そうですね。
もともとは、先ほど脚本を書くことを演出と呼んだように、劇作家が戯曲の叩き台を持ってきて、稽古場で俳優が役を負いつつ動いたり発話したりして、そのフィードバックを受けてまた書いて、そのプロセス自体を演出としようと考えていました。俳優は役のキャラクターや出演者、演出家となり、戯曲の完成と同時に上演ができあがる、というような。
でも、今回は無理でした笑 このやり方をとるために2,3ヶ月ごとに4,5日ほど集まって、というような飛び飛びのスケジュールを組んでいたんですが、諸々の都合でそれが崩れたので、話し合いつつあらかじめこちらがまとめて書くということになりそうです。

植村:なるほど。ふたたび『再生数』についてお聞きできればと思いますが、今回は出演者が6人ということで、登場人物も6人書かれました。これまでスペースノットブランクのための戯曲に書かれた人数としては最多のはずですが、いかがでしたか。

松原:6人というと『山山』と同じですからね。6人で自律させようとすると、本当は『山山』と同じ分量が必要なんですよ。ただ今回は「戯曲2」なので、分量とは別なところで大変でした。次からは3人は書くのであとの3人は別の世界から連れてきてほしいと言います。

植村:改めて整理しますと、映像で、6人で、ドラマ、というのが今回のオーダーだったわけですよね。

松原:はい。自分の場合、ドラマなり既存の制度なり諸々の見せかけを援用しつつぶっ飛ばしては笑ったり泣いたり、というふうに書いてきたんですが、今回の映像+ドラマは抑圧として存分に機能しかけていて恐かったです。ドラマは恐ろしいのでやっぱりぶっ飛ばすなり、服従するなり徹底させたほうがよいということを学びました。あとは単純に自分の欲する声の強度として必要なものがよくわかりました。
まあでも一番大きかったのは、前述のとおり書くことに上演と、上演の形式が密接に絡んでることでしたね。普通のことなんだろうけど。とにかくおしゃべりと分離が大事です。

植村:松原さんの戯曲の中に映像が出てくることはこれまでも何度かありましたが、それは明らかに上演でそのまま映像を流すと失敗するように書かれていたことが多かったので、今回そのまま文字通り映像を使うというのはやはり興味深い挑戦だなと思いましたけれどね。
ただ、松原さんは西日本新聞に連載されたエッセイで、荒木さんや敷地理さんの演技は、演技をやめていて素晴らしいということを書かれていましたが、映像だと演技をやめる演技というのはできないのじゃないかと思います。そこで言われていたのは、目の前にいくつもの観客の視線がある中で、それを無視するのでなく、ただ演技をやめることで、客席との関係性を一変させてしまうような演技のことだったと思いますが、映像だと俳優と観客は空間を共有しないわけですから。

松原:いや、できると思いますよ。カメラ目線ってあるじゃないですか。ただ普通に演技をしている体でカメラを見るだけだと特に何とも思わないけど、演技をやめた状態で見たら、「あ、わたし覗き見てた!」という風に観客は驚くんじゃないかな。
カメラ・アイに観客が同化しているのを断ち切られたら、驚かされたり、恥ずかしくなったり何らかの反応が現れるはずです。
映像での演技ということについて言うと、映画ならナチュラルに演じた方が聞こえるんだろうけど、スペノはどうするんでしょうね。

植村:印象として、他の作品に比して「日本」というモチーフの重要性が低下していることが気にかかりました。これは意図してのことなのでしょうか、それとも今回結果的にそうなったということなのでしょうか。思い返せば、近作では次第に「日本」ということが強調されなくなってきていて、今回それが特に極まったなという風に感じています。

松原:政治的な作品ということで言えば、『君の庭』で自身は手応えがあったけれど、特になんにもなかったんですよね。
単純に日本らしさのようなものをネタにするなり使用するなり抵抗するなりして言葉を紡いでいくのは、簡単と言えば簡単だし、日本にいる限りどんな語り口でも具体的に受け取られる。ネタがネタにならないというか。日本なるものや社会的なテーマのネタばかりが言及されて、自分が本当にやりたい抽象がそれに食われるのは残念というか敗北しか感じないので、単純に変える必要は感じていました。ただ、これは書かれたテクストと、舞台で発せられた声と半々の問題だと思います。

植村:近作の小説「いえいえ」では、沈黙が家父長制的な威圧感と結び付けられていました。また、これは沈黙というより無音というべきですが、松原さんは時々音という音がまったく聞こえなくなることがあると、西日本新聞のエッセイで書かれていました。
興味深いのは、劇作家でもある松原さんが沈黙というとき、舞台、特に国内で90年代以降に顕著になったような静かな劇を彷彿とさせることです。実際、舞台が静かだと少しの物音を立てるだけで他の観客の邪魔になるので、窮屈さを感じることもしばしばです。あるいは、松原作品の時は音楽が用いられることが多いですが、スペースノットブランクの舞台もやはり音の数が少なくて、空間を静寂が引き締めているようなところがあります。もちろん沈黙といえばケージのサイレンスの例もあるし、いろいろですが、舞台における静けさを松原さんがどうお考えなのか、最後にお聞かせ願えますか。

松原:静寂で舞台となると、いわゆる静かな劇というよりは、太田省吾が浮かんできますね。極北だと思う。無言劇になるというのは、その必然が凄くわかるというか。ただ、発語と沈黙というのはそんなに対立的にはとらえられないですよね。
演劇はどうしたって発語しなくてはいけないので、沈黙するんだったらもう沈黙劇になってしまうし、沈黙劇でもないというなら、劇をやる必然性というものは単純になくなりますよね。沈黙で終われる劇というものがあるといいですけれどね。
ケージもそうだし、自分の音が聞こえなくなるというのもそうだけれど、それがなにかのデコードになって立ち上がる意識というものはあるなと思っています。それを何かしらに使うのはやってみたいな。「戯曲3」で。

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映像の終わりに寄せて:植村朔也

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鶴田理紗と奈良悠加
荒木知佳と油井文寧
古賀友樹と鈴鹿通儀

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松原俊太郎

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再生数|古賀友樹と鈴鹿通儀:出演者インタビュー

保存記録の植村朔也がいくつかの質問を考えて個別に出演者たちに送信し、返答を受信したものを、ここに掲載する。

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古賀友樹 こが・ゆうき WebTwitterInstagram
俳優。1993年9月30日生まれ。プリッシマ所属。俳優として、ゆうめい『みんな』『弟兄』『巛』『あかあか』、劇団献身『幕張の憶測』『死にたい夜の外伝』『最悪な大人』、シラカン『蜜をそ削ぐ』、劇団スポーツ『すごくうるさい山』『ルースター』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ネイティブ』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『すべては原子で満満ちている』『氷と冬』『フィジカル・カタルシス』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『光の中のアリス(作:松原俊太郎)』『救世主の劇場』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』『舞台らしきモニュメント』『クローズド・サークル』『ウエア(原作:池田亮)』『ハワワ(原作:池田亮)』などの作品に参加する他、演出補として、穂の国とよはし芸術劇場PLAT 高校生と創る演劇『ミライハ(作:松原俊太郎、演出:スペースノットブランク)』に参加している。
撮影:高良真剣

─────松原さんの戯曲には、どのような感覚をお持ちですか?

距離が近いと思います。
距離感のことです。ほぼ全ての言葉たちが自分ごとに思えてきます。ぐさぐさと刺さる、パンチラインだらけです。
わかる、わかるわー

─────『再生数』というタイトルについてはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

理系のイメージですね。
生数って高校のどこかの記憶で見た覚えがあります。普通に読んだら再生の数なんですけど、どーんと三文字並べられると、神々しいですよね。(多分これは「数」と「教」が似てるから!)

─────スペースノットブランクの舞台では、戯曲中の登場人物の人格や思考の解釈が直接的に反映されているという印象が希薄で、むしろ出演者の本人性が強調されます。こうした演技を行う上で、どのようなことを考えておいででしょうか。

もともと自分は「この人物になりきろう!」という気持ちがあまりないので、性に合ってます。でも自分を出そうとも思ってないので、なんというか、自分の出来る範囲のことをやっている感覚ですね。だから時々自分でも「変な言い回しだなーふざけてるなー」とか思いながらやってますよ。やってる側は別になんでもいいのでね。それが表現としてどう受け取る余地があるか、が大事なので。

─────声や身体について日頃どのようなことを考えていらっしゃいますか。

特に何も考えてないです!
いつも筋トレ頑張ろうと思っても頑張れないし、ストレッチ毎日ちゃんと決まった時間やったら身体柔らかくなるかな? と思って10年が経ちました。覚悟がないのです。そんな時は自分に言い聞かせます。まだその時じゃない。

─────今回演技を行う上で、特に自信やこだわりをお持ちになっていることがあればお教えください。

ちっともそんなこと思ってないですが、場面が切り替わった時にあまり違う人にならないようにしたいです。

─────スペースノットブランクにご自身がこれまで求められてきた身体性のあり方を言葉で説明するとしたら、どのようなものになるでしょうか?

あまりそういうのを求められた記憶がないのですが、強さはひとつのキーワードだと思います。僕はしなやかな強さが好きです。

─────近年スペースノットブランクは京都での公演を重ねてきました。京都の観客の皆さんにお伝えしたいことがあればお教えください。

ハロー
2年ぶりの京都です お邪魔します
(ほんとうは1年と10ヶ月くらいです)

─────「男性性」は松原さんの作品の継続的なテーマの一つだと思われます。この言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

くしゃくしゃにしてゴミ箱に捨てちゃえ🚮
おジャ魔女のオープニングみたいになってしまいましたが、気持ちは、そうですね。
いつかの『再生数』にはマッチョという単語がありました。今その単語は別のものに変わっていますが、僕はマッチョイズムが嫌いです。
「男性性」とは少し使う用途が異なりますが、僕が育ってきた環境ではそいつが当たり前の顔をして踏ん反り返っていました。そういうのは二次元のファンタジーだけでいいです。まじでいらないです。

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鈴鹿通儀 すずか・みちよし Twitter
俳優。1990年7月4日生まれ。中野成樹+フランケンズへの入退団を経て現在フリー。俳優として、中野成樹+フランケンズ『えんげきは今日もドラマをライブするvol.1』『カラカラ天気と五人の紳士(作:別役実)』『マザー・マザー・マザー(作:別役実)』『半七半八』、ままごと『あたらしい憲法のはなし』、劇団子供鉅人『幕末スープレックス』『マクベス』『夏の夜の夢』、ピンク・リバティ『人魚の足』『煙を抱く』、財団、江本純子『忘れていく、キャフェ』、松田正隆『シーサイドタウン』、スペースノットブランク『クローズド・サークル』『サイクル(ワークインプログレス)』『ハワワ(原作:池田亮)』などの舞台作品に参加する他、松井周の標本室「標本空間vol.2 遊び場的ワークショップ集」にて『元プロ野球私設応援団員と考える応援』ワークショップ講師を務める。
撮影:高良真剣 写真提供:トーキョーアーツアンドスペース

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─────松原さんの戯曲には、どのような感覚をお持ちですか?

キーワード(というものがあるとしたら)だけでなく、魅力的なワンワードがごろごろしてます。声に出したい。『山山』も社員のせりふをほぼ全てひとりでボイスメモに録ったりしました。

─────『再生数』というタイトルについてはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

“再生”には機器的機械的イメージと生命的イメージが五分五分で並走してるけど、”数”がつくことによって前者が強く表立つ感じです。でもその裏には後者もしっかりいるヨ、的な。

─────スペースノットブランクの舞台では、戯曲中の登場人物の人格や思考の解釈が直接的に反映されているという印象が希薄で、むしろ出演者の本人性が強調されます。こうした演技を行う上で、どのようなことを考えておいででしょうか。

これまで自分を助けもしてくれた「こうしなければならない」とか「こうあるべきだ」というような教条主義の上着は脱ぎ捨て、つとめてフラットに真摯にあろうとしています。が、ジッパーが噛んじゃってなかなか脱げない…。

─────声や身体について日頃どのようなことを考えていらっしゃいますか。

声はニ゛ャの音が強いので取り扱いに気をつけること、身体は猫背との付き合い方を思っています。

─────今回演技を行う上で、特に自信やこだわりをお持ちになっていることがあればお教えください。

日頃は決め球を自信満々にコースに投げ込むタイプなんですが、手指の感覚に若干のズレが生じてます。ここまでの4人のインタビューを読んで鶴田さんからは「試行」、奈良さんからは「シンプル」、荒木さんは「呼吸」、油井さんは「誠実」というワードを掬い上げました(稽古では共演者の書き言葉にふれることがあまりないのでうれしいです)(古賀さんは同じタイミングでこの文が出るからわからないけど「意志」)。これらと、出演以外の座組みみんなも自分に流して、基本に立ち返り最強のスローカーブをお見せします。

─────スペースノットブランクにご自身がこれまで求められてきた身体性のあり方を言葉で説明するとしたら、どのようなものになるでしょうか?

確信をもった様式(フォーム)が備える強度。その過剰さ、あるいは過疎さ。

─────2022年1月には、池田亮さん原作『ハワワ』にも出演されています。同じスペースノットブランク作品ですが、両作品を比較して見えてくるそれぞれのテキストの特徴はありますか?

『ハワワ』は原作池田さんが紡いだ種々様々の膨大なデータから生まれたものなので、箱の中にレゴもあればクレヨンやミニカーもあって「これは…紐…?」というようなものもある、あったな、という感じ。
『再生数』はしっかりレゴのフォーマットなんだけど、どのピースも松原印で、攻めた色やキレッキレな形が入ってる、という感じ。

─────「男性性」は松原さんの作品の継続的なテーマの一つだと思われます。この言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

自分の中にも深く埋め込まれているなと感じます。今回の作品でも父権と母性、大人と子ども、映画と演劇などあらゆる二項対立(に一見みえるもの)が描かれますが、単純なぶつかり合いのその先へ辿り着くことを目指します。

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保存記録の植村朔也がいくつかの質問を考えて個別に出演者たちに送信し、返答を受信したものを、ここに掲載する。

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荒木知佳 あらき・ちか TwitterInstagram
俳優。1995年7月18日生まれ。俳優として、FUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』、毛皮族『Gardenでは目を閉じて』、theater apartment complex libido:『libido: 青い鳥(作:モーリス・メーテルリンク)』、彩の国さいたま芸術劇場『導かれるように間違う(作:松井周、演出:近藤良平)』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『舞台らしき舞台されど舞台』『すべては原子で満満ちている』『フィジカル・カタルシス』『光の中のアリス(作:松原俊太郎)』『バランス』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』『ウエア(原作:池田亮)』などの舞台作品に参加する他、本日休演『天使の沈黙』MV、『春原さんのうた(監督:杉田協士)』などの映像、映画作品に参加している。2021年、KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD 2020にてベストダンサー賞受賞。同年、マルセイユ国際映画祭(FID)にて俳優賞受賞。
撮影:高良真剣

─────松原さんの戯曲には、どのような感覚をお持ちですか?

「音」がたいせつなイメージです。たいせつに話したいし、たいせつに聞きたいなと思います。

─────『再生数』というタイトルについてはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

細胞やDNA、を連想します。

─────スペースノットブランクの舞台では、戯曲中の登場人物の人格や思考の解釈が直接的に反映されているという印象が希薄で、むしろ出演者の本人性が強調されます。こうした演技を行う上で、どのようなことを考えておいででしょうか。

今日の自分の体調や気分や呼吸を認識して、周りのみんなの空気を感じた上で、その時の言葉を話すようにしている気がします。登場人物として舞台に立つのではなく、登場人物を担った私としてそこに居ます。

─────スペースノットブランクにご自身がこれまで求められてきた身体性のあり方を言葉で説明するとしたら、どのようなものになるでしょうか?

これは自分にしか出来ない、と自信を持って提示できる身体のあり方を模索することです。常に呼吸を意識して動くことを心がけています。

─────「家族」は松原さんの作品の継続的なテーマの一つだと思われます。この言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

家族ってなんだろう。どういうこと、もの、を家族っていうんだろう。松原さんの作品に触れる毎に思うことです。

─────声や身体について日頃どのようなことを考えていらっしゃいますか。

場所や人によって自分の発する声の性質が変わることを面白いなと感じます。静かな場所では静かに声を出そうって頭で考えてから声を出すのではなく、気づいたらコソコソした声が出ています。
身体の方は、常に痩せたいって考えているのですが、思うように痩せられません。

─────近年スペースノットブランクは京都での公演を重ねてきました。京都の観客の皆さんにお伝えしたいことがあればお教えください。

また京都で公演ができることとても嬉しく思います。私は鴨川でぼーっとする時間が大好きなので、鴨川に行くのも楽しみのひとつです。
今回の作品は、京都のロームシアターという場所そのものが主役になる舞台なのではないかと思います。この場でしか起こらない、その時しかない時間を共にできたら幸いです。お会いできることを楽しみにしております。

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油井文寧 ゆい・あやね
俳優。1994年7月29日生まれ。静岡県出身。児童指導員をしながらときどき演劇に関わっている。俳優として、範宙遊泳『もうはなしたくない』『#禁じられたた遊び』『うまれてないからまだしねない』『フィッシャーマンとマーメイド』、ロロ『はなればなれたち』『BGM』、エンニュイ『きく』、ワワフラミンゴ『タヌキから電話がかかってくる』、Dr. Holiday Laboratory『うららかとルポルタージュ(作:山本浩貴/いぬのせなか座)』、穂の国とよはし芸術劇場PLAT 市民と創造する演劇『階層(作・演出:岡田利規)』などの作品に参加している。

─────松原さんの戯曲には、どのような感覚をお持ちですか?

お茶目な方なんだろうな! っという感じです!

─────『再生数』というタイトルについてはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

私を生きる!!!! うおおおおお!!!!

─────スペースノットブランクの舞台では、戯曲中の登場人物の人格や思考の解釈が直接的に反映されているという印象が希薄で、むしろ出演者の本人性が強調されます。こうした演技を行う上で、どのようなことを考えておいででしょうか。

説得力があればどんな形の演技でも良いと思います。その強度を常にMAXで行くんだ!
なのかなと受け取っています。。私にそれができているかは。。今のところ毎日頭を抱えて頑張っています。

─────声や身体について日頃どのようなことを考えていらっしゃいますか。

その時自分の身体がどう動きたいか、どう喋りたいかに委ねています。無視しない。かっこいい感じで言ってるけど、決め打ちでこれ! と考えてやることがとっても下手なんです。ただ、0か100すぎてどんなに違うことをしても絶対的にクオリティを下げないことが私の課題です。。

─────今回演技を行う上で、特に自信やこだわりをお持ちになっていることがあればお教えください。

演技での自信はありません。毎日落ち込んでいます。
ただ、みんな大好き! という気持ちを持って取り組んでいることには自信があります。
「みんな」というのは、今の座組みはもちろん今まで出会ってきた人たち。
私の場合はそれがパフォーマンスの強度に繋がっている気がします。
みんなを想ってとにかく諦めず誠実にやることのみです。

─────スペースノットブランクの舞台に出演されるのはこれが初めてですが、クリエーションに新鮮な点はおありでしたか。また、以前出演された諸作品と今回の舞台の間に、ご自身の中で連続性を感じる点はおありですか。

真剣に遊ぶことなのかなと思っています。
小野さんや中澤さんスペースノットブランクのレジェンド荒木さん古賀さんを見ているととてもそう思います。中澤さんは誰よりも楽しそうです。
出演者のみんなから出てくるものは本当に素敵で毎日リスペクトの気持ちで稽古ができます。ファンになりました。植村さん、花井さん、山口さん、みんなをリスペクトできる環境で嬉しいです。参加できて嬉しい。。。

─────「家族」は松原さんの作品の継続的なテーマの一つだと思われます。この言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

以前は素敵なものとしか思ってなかったけど、今は他人を「家族」という距離で囲んで起こる危険性を考えるようになりました。でも、私は、暇さえあれば帰るくらい「家族」大好きです。
早く会いたいです。

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植村朔也

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映像の終わりに寄せて:植村朔也

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回を重ねる:小野彩加と中澤陽

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鶴田理紗と奈良悠加
荒木知佳と油井文寧
古賀友樹と鈴鹿通儀

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松原俊太郎

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再生数|鶴田理紗と奈良悠加:出演者インタビュー

保存記録の植村朔也がいくつかの質問を考えて個別に出演者たちに送信し、返答を受信したものを、ここに掲載する。

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鶴田理紗 つるた・りさ Web
俳優。1993年3月3日生まれ。白昼夢、プリッシマ所属。2015年から2017年まで、青年団・こまばアゴラ演劇学校 無隣館に在籍。俳優として、白昼夢『麒麟大天覧』、お布団『想像を絶する』、福井裕孝『デスクトップ・シアター』、オフィスマウンテン『体操させ、られ。してやられ』、劇団あはひ『流れる』、円盤に乗る派『仮想的な失調』などの舞台作品に参加する他、『愛をたむけるよ(監督:団塚唯我)』などの映画作品に参加している。自身が主宰するユニット 私は少し静かにしてるね では、映像作品『無垢』の制作や、写真作家・杉浦修治との二人展『17月3日』などの企画を行なっている。
撮影:松本和幸

─────『再生数』というタイトルについてはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

タイトルを知った時、日常的によく見かける言葉のはずなのに、初めて出会ったかのような不思議な感覚になりました。ゲシュタルト崩壊みたいな。あとはビデオテープのイメージがあります。小さい頃に延々見ていたピングーのビデオは、一体何回再生されたのだろうか、あのテープはどれくらい擦り切れているんだろうか、など。

─────松原さんの戯曲には、どのような感覚をお持ちですか?

言葉のリズムがすごく好きです。歌うように読んでみたい。

─────スペースノットブランクの舞台では、戯曲中の登場人物の人格や思考の解釈が直接的に反映されているという印象が希薄で、むしろ出演者の本人性が強調されます。こうした演技を行なう上で、どのようなことを考えておいででしょうか。

すみません、現在絶賛模索中です…が、テキストとして書かれた言葉と、ふだん自分が話している言葉との距離を測ったり、この音で言葉を出したい時は、身体はどんな状態だったらいいのかな、など試行錯誤しています。

─────『再生数』の前には円盤に乗る派の舞台に出演されています。特に円盤に乗る派の演技体と比較したとき、スペースノットブランクの演技はどう映るでしょうか?

円盤に乗る派『仮想的な失調』では、クリエーションの中で話したり試したりしながら、目指すべき共通の演技体を定めていき、各々のやり方でその演技体を目指しました。今やっていることとはプロセスはちがうのですが、円盤に乗る派で取り組んでいた演技体も、自分の身体から生まれたものです。なので表面に出てくる演技は、意外とそんなに変わらないのかなと思います。

─────声や身体について日頃どのようなことを考えていらっしゃいますか。

最近は触覚に興味があります。ときどき自分の身体の輪郭がぼやけたり、自分の身体なのに自分のものではないみたいな感覚になると、身の回りのものに触れてみています。外にいる時だったら、ブロック塀やポール、植物などに触ってみると、接触面からじわじわと身体の輪郭がはっきりしてきます。

─────「時間」は松原さんの作品の継続的なテーマの一つだと思われます。この言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

天使でもあり悪魔でもある。つらい出来事があっても、時間が過ぎることで、感情が和らいだり出来事を俯瞰して見れるようになったりする。逆もあって、忘れたくないのに、時間が過ぎることで、大切なことがぽんぽん抜けて曖昧になり、最後はとうとう思い出せず、出来事はなかったことになってしまう。

─────スペースノットブランクの舞台に出演されるのはこれが初めてですが、クリエーションになにか新鮮な点はおありでしたか。

クリエーション初日から今日まで、本当にいろんなことを、いろんな角度から、たくさんやりました。今もやっています。そのおかげで共演者の皆さんが何を面白がっているのかとか、この人のここがステキだなとか、こんなことができるんだ、すごいな、みたいな瞬間を早いうちからたくさん目撃することができました。
あとは、リハーサル・ディレクターの山口さんの存在も大きいです。安心感があります。保存記録の植村さんや制作の花井さんも稽古場にいて、演出の小野さん、中澤さんだけではない、たくさんの視線が常にある。見られている緊張感と安心感があります。

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奈良悠加 なら・ゆか Instagram
俳優。1996年6月20日生まれ。青年団所属。俳優として、ぬいぐるみハンター『愛はタンパク質で育ってる』、青年団・こまばアゴラ演劇学校 無隣館『革命日記』、青年団『ちっちゃい姫とハカルン博士』『銀河鉄道の夜』、スペースノットブランク『舞台らしきモニュメント』『ハワワ(原作:池田亮)』などの作品に参加している。
撮影:高良真剣

─────松原さんの戯曲には、どのような感覚をお持ちですか?

発話していて心地良い言葉選びだなと感じます。馴染みやすくて覚えやすいです。
一見わかりにくそうだけど、きちんと伝わるし、チャーミングで好きです。

─────『再生数』というタイトルについてはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

この数年でよく目にするようになった言葉だなと思います。現代的なイメージです。
よくよく漢字を見てみると再び生きるってすごい言葉ですよね。この言葉を作った人すごいなと思います。

─────スペースノットブランクの舞台では、戯曲中の登場人物の人格や思考の解釈が直接的に反映されているという印象が希薄で、むしろ出演者の本人性が強調されます。こうした演技を行なう上で、どのようなことを考えておいででしょうか。

もはや役になろうとしないようにしています。
シンプルでいいんだなというのが過去2回出演してなんとなくわかってきたので、まずはできることをやろうと思っています。

─────声や身体について日頃どのようなことを考えていらっしゃいますか。

声については、きちんと言葉を届けられる声でありたいと考えています。
油断するとすぐにブレてしまうので、もっとどっしりと確実なものにしていきたいです。

─────今回演技を行う上で、特に自信やこだわりをお持ちになっていることがあればお教えください。

まだ作っている途中なのでなんとも言えないのですが、ご一緒している皆さんは全員素敵だなと思います。

─────スペースノットブランクにご自身がこれまで求められてきた身体性のあり方を言葉で説明するとしたら、どのようなものになるでしょうか?

うまく言えないことが多いのですが言葉にできるのは、今起こっていることを嘘にしないこと、です。

─────「時間」は松原さんの作品の継続的なテーマの一つだと思われます。この言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

時間とか、宇宙とか、果てしないもののことを考え始めると怖くて気持ち悪くなってしまいます。どうにもできない大きなものから取り残されてしまうようなイメージです。

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再生数

予告編
ティーザー予告編予告編

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植村朔也

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知覚の限定と振付の生成:佐々木敦


 『ストリート リプレイ ミュージック バランス(SRMB)』は、スペースノットブランクが継続的に試行=思考してきた/いるダンス探究プロジェクト「フィジカル・カタルシス(FC)」の論理的展開としてプリペアされクリエイトされパフォームされたものである。FCは非常に広い意味での、同時にそれと矛盾しないかたちで極めて限定された意味での「振付」の創造と集積を目的としており(それだけではないが)、SRMBを構成する四つのワードは、これまでにストックされた九つの振付のアイデア(スペノはそれを「フェーズ=段階」と呼ぶ)から四つを選び、一連のFCのように個別に提示するのではなく、何らかの仕方でそれらを縫合したり織り重ねたりすることで(スペノはそれを「クラス=層」と呼ぶ)作品を産出し上演を成立させることを意味している。
 さて、とはいえ、私のこのテクストに求められているのは、作品の前提の確認でもダンスにまつわる多少の教養や蘊蓄でもないだろう。また、四つのフェーズがどのようにしてクラスたり得ているかの分析や考察でもないだろう。
 私はもっと非常に広い意味での、同時にそれと矛盾しないかたちで極めて限定された意味での感想を述べてみたいと思う。
 スペノは「演劇」と「ダンス/パフォーマンス」の二つの領域およびそれらの交叉点を作品にしてきたが、いずれも原理的な問い(「演劇」とは何か? 「ダンス」とは何か?)と具体的な実践の両面(およびそれらの交叉点)への強い志向性を有している。「演劇」であれば、身体性と個体性を持った俳優(たち)が観客(たち)の前に存在するという最もプリミティヴな大前提から始まり、その時その場で、フィクションが、劇的なるものが生起するためには、如何なる可能性がいまだ残されているのかという方法的な野心のようなものが窺える。ドキュメンタリー的な手法の大胆な導入による作劇はその方策のひとつである。「ダンス」の場合、「演劇」の「戯曲(台本)」が「振付」に変換される(逆もまた真である)。つまり、ダンサーがそこ/ここにいる。観客も同じ時と場にいる。そこに「舞」と呼べる状態が訪れるには、何が必要十分条件なのか、そしていまだ認識されていない条件があるとしたら、それは何か?
 FCのフェーズはだから、単なる振付メソッドとは違う。それはむしろ、何かが立ち上がるための条件設定のようなものである。SRMBにおいては、それは「路上」「再生」「音楽」「均衡」という四種の要諦の接続と重合で表現されている。そしてここで重要に思われるのは、それらが何かを生まれさせるということだけではなく、ある意味ではそれ以上に、それらが何を「現在」から区切り取ることになるのか、言い換えるなら何を制限し限定することになるのか、という点である。
 どういうことか。たとえば、会場のカフェムリウイはスペノが何度も上演の場に選んできた場所だが、そこはビルの屋上に設えられた小さなスペースであり、店の奥に客席が置かれ、屋内のアクティングエリアの後方には窓と入口扉があり、その外は店内とほぼ同じか少し広いくらいの屋上空間である。スペノはこれまでも、この内と外の二つの空間にまたがって上演を行なってきた。一度でも観客としてその場に居たことある者ならわかると思うが、そうすると自分が座った場所によって、屋外でのパフォーマンスの見え具合が非常に異なるのである。窓と扉のあいだに壁があることもあって、演者の位置や移動によって不可避的に見切れが生じてしまう。もちろんこれはプロセニアム以外の上演ではしばしば生じることではあるが、スペノの場合は明らかにそれが作品のありようと強く結びついている。
 私は当日、時間を間違えて開場時間より30分も早く着いてしまった。カフェムリウイの中には女性がひとりいてスマホを眺めており、あ、すみませんまだなんです、と言われて自分の間違いに気づいたのだが、つまりその時あの空間には彼女だけしかいなかった。彼女もいなければそこは無人だった。そこにはいろいろなものが在るが居はしなかった。誰かがそこに来て、そこに居ること、居合わせることによって、はじめて何かの行為や現象のようなものが立ち上がる。そこにからだがあれば、その分だけ空間は占拠されるし、そこに視線があれば、そのからだは見られたりするし、からだの向こう側は視線には見えず、からだが移動するとからだを見ていればからだは見えたまま見えない空間も移動していく。
 スペノの二人とこれまでもFCに参加してきた山口静は、内と外を何度も行き来しながら、今回の上演のために組み上げたクラスを披露した。私にはそれらは、何かをやってみせる、何かを見せるのと同時に、何を見せないか、何が見えなくなるか、ということでもあると感じた。実際、私の席からは、屋外で行われているらしい何ごとかは、想像は出来るが見えないこともあった。あるいは想像さえ出来ない行為もあったかもしれない。そしてそれらの全部が、私にとっての鑑賞という体験なのだった。だからたとえばダンスが目の前の俳優のからだと動きを見ることだというのは間違いではないが精確ではない。見えない、見ない、見えるものがあることを知らない、といったことを含めて、その時その場を経験するということなのだ。このことにスペノははっきりと意識的だと思う。
 この点にかかわって、あくまで私の印象ではあるが、最初と最後を除くと、SRMBでは「観客席に相対する正面性」が解除されていると思った。通常、パフォーマーは観客の視線の正面に──絶えず移動するとしても──基本的に定位している。また、同様に背景に対してもそれが背景を成しているという意識が働いている。つまり空間のフレームへの配慮が必然的に生じるのだが、SRMBの三人のダンサーは、すごく乱暴に言ってしまうと、観客の目の前で何かをやってみせるという感じがかなり希薄で、さまざまな角度や向きで、ただそれをやっている、という感じに見えたのである。そうすることと内と外の視線の限定性があいまって、上演のひとつの条件である「見る/見られる」という関係性が消去されはしないまでもスリリングに変容し、もっと言うなら上演と鑑賞の交錯によって編み出される空間がポジティヴに崩壊するような感覚さえ覚えたのだ。
 例外は、最初の中澤の前口上を含むパートと、その後と最後にある小野発案の「念力暗転」である。後者はいわば本作のプロローグとエピローグなのだが、それが観客に自ら「暗転」させる、すなわち瞼を下ろして視界を遮ることによって眼前の出来事を見えなくさせるという意味で、ここで述べたことの本質にかかわるアイデアであることは明白だろう。小野は、その時ばかりは客席の正面に立ち、私たちに向かって語りかけた。彼女の言うがままに目を閉じると、彼女の姿は消え、他の何もかもも消えた。暗転。指の鳴る音をきっかけに、ゆっくりと目を開ける。見えなくなっていたものが再び見えるようになる。この仕組みこそ、今回の上演の本質だと私には感じられた。
 このテクストを書くために、上演の映像記録を送って貰った観た/見た。私が行った回ではなかったが、最初と最後の「念力暗転」のあいだの、すなわち私たちには──指示にちゃんと従っていれば──見えていなかった光景がそこに記録されていた。ラストの「暗転」はやや長く感じられたのだが、そこでなされていたことを事後的にこうして映像ではじめて見るのはしごく奇妙な、だが魅惑的な体験だった。そして私はそれを見ることによって、自分の感想がそれほど間違ってはいなかったことを確認出来たのだった。
 それでこれが書けた。

佐々木敦 Twitter
思考家。作家。HEADZ。SCOOL。その他。著書多数。広義の舞台芸術にかんする著作として、『即興の解体/懐胎』『小さな演劇の大きさについて』など。近刊として、児玉美月との共著『反=恋愛映画論』、三年ぶりの映画論集『映画よさようなら』など。

ストリート リプレイ ミュージック バランス

レビュー
ずっと気持ちがいい、それはどのような?──スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』:松本奈々子 西本健吾 / チーム・チープロ
知覚の限定と振付の生成:佐々木敦

ずっと気持ちがいい、それはどのような?──スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』:松本奈々子 西本健吾 / チーム・チープロ

 このレビューは、チーム・チープロというパフォーマンスユニットの松本奈々子と西本健吾がふたりで執筆している※1。

 いま、上演を思い出そうとするといくつかの印象的な動きが浮かびあがる。それらの動きはずっしりとした密度を有している。たとえば、中澤陽が身体をかがめて両手を膝の前でくるくるとまわす動き。その動きを思い出そうとすると、いままた別の動きが思い出され、他のふたりの出演者(小野彩加、山口静)の「くるくる」も混じり合い、動きの連鎖に自分自身も芋蔓式に巻き込まれていく。その連鎖はとても気持ちがいい。鑑賞中も同様だ。スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』の1時間弱の上演はずっと気持ちがいい。
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 黒いマスク、黒い全身ボディスーツに黒いスニーカーに身を包んだ出演者が3人、かわるがわる登場し、1時間弱動き続ける。3人が繰り出す動きは日常の身振りと地続きの親しみやすいものもあれば、明らかに舞踊の言語を用いた動きもある。それらの動きそれぞれが固有の質を有しており、動き同士はコラージュのように接続されることでやがて奇妙なリズムを成し、新たな質感を生成してゆく※2。この上演はいくつかのシーンで構成されているが、そこにはわかりやすいクライマックスはなく、物語性も排除されている。また、何かここにないものを想像・連想させることはあまり多くない。それゆえにか、わたしたちは「動き」そのものに目を向けていた。もっと言えば、動きの「表面」に現れる質感に目を奪われた。表面において目まぐるしく切り替わり、重なり合い、分裂し、飛び跳ねる面や線の運動に集中する。それは身体にピタリと密着した黒い衣装によって引き立てられてもいる(ただし、3人の出演者の身体の特徴や身体に刻まれた癖や技はむしろ強調されてさえいる)。
 上演は客席の目の前の「カフェムリウイ」の室内空間に加え、カフェの窓とドアによって切り取られるかたちで見える屋上の空間、屋上の奥の階段をおりた先にあるであろう空間を3人の出演者が行き来しながら進められる。面や線の運動は、遠のいたり近づいたり見えなくなったりする3人の身体の表面でなされ、運動は眼前の空間をかき混ぜる。そしてふと、それらの運動は夜の暗闇の中に溶けていく※3。屋上のタープは風をうけて上下する。
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 繰り出される動きはあらかじめ厳密に定められたもののようであり、また、出演者がその都度ごとにさまざまにありうる動きの中から一つを選び取っているようでもあった。
 気になって共有いただいた記録映像を見返しながら実際に真似をしてみた。まず、動きと動きの繋げかたが不自然だなと思った。わたしたちは普段習慣的に身体を動かしている。習慣的な動作では、ある動きは次につながる動きの予兆のようなものを含んでいる。たとえば、コップを手に取るという動きは、それを口元に持っていくという動きを予兆させる。それはダンスを観る/踊るときにも同様である。ある身振りはその次につながる身振りをなんとなく予兆させるし、「自然」と踊っているとなんとなく「無理」のない動きを癖のように繋げたりする。しかし、この上演で目撃した動きの連なりと重なりはそうした予兆から逃れるような動きを展開していく。
 たとえば小野がドアの入り口から足のステップ──右の爪先で地面を刺してねじり、左足の膝下だけを動かしてキックする──を繰り返しながら前進する動きがある。まずは一定のリズムを地面に響かせ近づいてくる力づよい足の動きにじっと注目する。その時間の中でその動きの質感に浸る。そのリズムと質感に馴染みつつあるタイミングで、小野はキックした足のエネルギーを食い止めるようにして運動を一瞬停止し、そのまま足を投げ出して一気に水平方向に寝転び、両手の甲を小さくクロスさせる動きを繰り出す。ふとバレエで空中に身体を浮遊させて足を細かく交差させるパ、 “アントルシャ” を思いだす。小野が動かしているのは腕で身体は地面に横たわっているのだけれど。そう思い出して間も無くその腕は大きく弧を描き、小野の身体はその場から消えていく。予想だにしない動きの連続。
「無理」のある「不自然」な動きの連鎖は次々と新たな質感を提示してくる。「自然」な動きが「不自然」によって解放されたときの驚きととまどいとともに、そこにあるリズムとその余韻に引き込まれていく。
 ある動きのあとにどのような動きへとつなげていくのかについて、今作の上演ではそこに出演者の意志が強く発露しているようには見えない。周囲の環境との具体的な関わりによって、導き出されてきた動きの連鎖があったように見える。床のひび割れ、着地したときの振動、ドアの横幅、入り口のマット、観客やほかのパフォーマーの目、流れる音楽や音、他の出演者の息遣い、踊りの記憶…。そこにある環境を受け取って出演者の身体はしずかにとびこむ。いま目の前にあるその動きの連なりを見るほか、なにかを・どこかを想像するひまはなく、忙しく、しかし冷静に、目撃し続ける。わたしたちの目はそういうふうに巻き込まれていた。それが、気持ちいい。
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 ところで、この上演を観て評者のふたりはそれぞれアンリ・マティスとジョルジュ・ブラックの絵画を思い出していた。正確にはそれらの絵画を鑑賞したときの感覚を想起していた。
 絵画をみている感覚を抱いたのは、そもそも窓やドアによって区切られた向こう側の景色を含む上演空間そのものが絵画的であったからかもしれない。しかし、それだけではない。上演空間の奥にみえていたものを前景化させたり、手前にあったものを後景に退かせたりする。動きを遮る壁を透明にして、その向こうにある動きを想像する。そうやって要素と要素を目で関係させながらその舞台の空間(のリズム)をわたしたち自身で再構成するという感覚がそれらの絵画を鑑賞するときの感覚に近しいと感じさせたのだと思う。
 わたしたちはただ受け身で動きの連鎖を受け取るわけではない。舞台上の要素の繋がり方を、自ら選び取っていく。しかし、その選択は完全に観客に委ねられているというわけでもない。観客の目は、あるいは身体は、そこで起きている出来事に巻き込まれる仕方で何を観るかを選ばされてもいる。
 また、全てのシーンが冷静かつ自由にわたしたち自身によって再構成できるわけではない。何を観るかを選ばされることとも関わるが、横一列になりドアの入り口に引っかかった3人が屋上から屋内に飛びいり、間近に迫る空間で同時に動きだしたシーンは、こちらが好きなように空間を目で捉え構成することの困難な時間だった。3人を同時に観たいけれど観ることはできず、ただ圧倒されていた感覚を鮮明に思い出すことができる。能動と受動が入り混じる感覚は、自らの動きを選びつつも、環境によって導かれているように見えた出演者の三人の状態と重なり合うものもあるのかもしれない、とも思う。
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 スペースノットブランクが2019年から連続してリサーチと上演を重ねてきた「フィジカル・カタルシス」には9つ段階(フェーズ)が存在し、『ストリート リプレイ ミュージック バランス』は、そのうちの4つの段階を層状に重ねてみたものである、と当日配布された「ごあいさつ」には書かれている(この4つがどのように組み合わされているのかは判然としないが、それは鑑賞においてほとんど問題にはならない)。
 スペースノットブランクのウェブサイトに記載されている「フィジカル・カタルシス」の説明によれば、「フィジカル・カタルシス」とは身体のための「新しい動きのメソッド」である。このレビューで書いてきたことを踏まえて考えるならば、出演者の多様な動きの(不自然な)選択の方法、その選択においてなされている周囲の環境と出演者の関わり方は、ひとつのメソッドとして、出演者が身体化していたのだろう。本作では、作品の演出・出演として山口を含む3人がクレジットされており、上演においても3人それぞれの身体がメソッドを納得して実践していることを実感した。この上演の密度の高さは、メソッドのたしかな共有とその納得づくの身体化に裏付けられているのだろう。
 ここで、本上演にあたって書かれた「作品について」という文章の中に登場する、以下のセンテンスの意味が少し了解されたような気がする。

 スペースノットブランクが2019年よりリサーチと上演を連続して行なってきた、ダンスと作品、そして作品とメソッド、それらのどちらともつかない性質を保有する『フィジカル・カタルシス』。※4

 この上演の構成や演出が細かく練られていることは間違いない。しかし、この上演は舞台芸術として、あるいは作品として出来事をパッケージし提示するだけでなく、そこで生じている動き(それはダンスだったりダンスの予兆だったりする)を、そしてそれを成立させるメソッドそのものを観客の前で体現していた※5。
 この作品でもありメソッドの提示でもある上演は、慣習と習慣によって規定された身体から抜け出す方法を示しているようにも受け取れた。しかし、完全な脱却ではない。この上演はそういった解放の夢を提示しない。また、もちろん暴力的な仕方で身体のあり方を変えてしまおうともしない。そうではなく、出演者による動きの連鎖は、その都度ごとに日常的な「いくつかの」──つまり「全ての」ではない──身体感覚に変化を加え続けていく。そのような(あえて踏み込んだ言い方をすれば)倫理的な態度に評者のふたりは強く共感する。
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 最後に。「カタルシス」という語の用いられ方はさまざまだが、通常、物語への感情的な同一化を通じた解放や浄化の作用が意識される。しかし、この上演にはそういった解放の作用はない。だが、ずっと気持ちがいい。出演者はひとつひとつの動きの連なりの内に、自らの身体が腑に落ちるところを探っているようであり、その最中に巻き込まれるわたしたちの身体も気持ちよくなっていく。その気持ちよさは、ひとつの意味に回収されることのない変化のリズムに同伴することで、思ってもみなかった、そしてときに見知らぬ質感と出会うことの気持ちよさだ。この上演にはそのような出会いを生み出すためのスリルと多様な質感に満ちた空間(スペース)が広がっていた。

※1 レビュー執筆の依頼があったときに、最初から連名が想定されていたことが面白く、かつその想定そのものがスペースノットブランクというコレクティブの性格を反映しているようにも感じられた。
※2 中澤が上演の冒頭で口にしていた「層状」ということばを思い出す。質的に異なる動きが「層」として重なっていく、と言ってもいいかもしれない。
※3 評者のふたりは2022年7月29日の19:30の回を鑑賞した。すでに空は暗く、黒い衣装に身を包んだ3人の出演者は時折暗さに溶け込んでいく。「カフェムリウイ」のウェブサイトにも記載されているように、カフェはビルの屋上にあり、周囲に高い建物がないため空の暗さが際立っていた。
※4 以下URL参照。https://spacenotblank.com/performance/physicalcatharsis
※5 当日配布された「ごあいさつ」は、「これが振付であって欲しいと希っています」という言葉で締め括られる。「これ」、つまり「『フィジカル・カタルシス』を通じて個別に考えてきたものを解体するまでのリプレゼンテーションとしての上演」が振付であるとはどういうことか、その意味もまた、評者のわたしたちは完全に理解することはできない。ただ、『フィジカル・カタルシス』を通じて継続的に関わってきているメンバーと共有し、醸成してきたメソッドの身体化を振付と呼ぶならば(「ごあいさつ」には「振付メソッド」という言葉も登場する)、確かに眼前には振付が現れていると感じた。加えて、それを「気持ち良い」と感じながら観ていた観客であるわたしたちふたりの身体のための振付でもあった、とも言えるのだろうか。

松本奈々子 西本健吾 / チーム・チープロ WebTwitter
松本奈々子と西本健吾によるパフォーマンス・ユニット。身体と身振りの批評性をテーマに活動を続けてきた。近年は既存のステップや身振りを介して、場所の歴史やパフォーマーの記憶・身体感覚に触れ、それらをダンス作品として編み直すことをこころみている。主な作品に『20世紀プロジェクト』(2017-2018)、『皇居ランニングマン』(2019-2020)、『京都イマジナリー・ワルツ』(2021) など。2022年秋には新作『女人四股ダンス』をKYOTO EXPERIMENT 2022にて発表予定。

ストリート リプレイ ミュージック バランス

レビュー
ずっと気持ちがいい、それはどのような?──スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』:松本奈々子 西本健吾 / チーム・チープロ
知覚の限定と振付の生成:佐々木敦

ウエア/ハワワ|池田亮:インタビュー


池田亮 いけだ・りょう
脚本家・演出家・美術家。1992年埼玉県出身。舞台・美術・映像を作る団体〈ゆうめい〉代表。PTA Inc.所属。遺伝や家族にまつわる実体験をベースとした舞台作品『姿』がTV Bros.ステージ・オブ・ザ・イヤー2019、テアトロ2019年舞台ベストワンに選出され、2021年芸劇eyes・東京芸術劇場にて再演。近年ではNHK Eテレ『天才てれびくん』ドラマパート脚本、TVアニメ『ウマ娘』脚本、バンド・ズーカラデル『ノエル』MV脚本、VTuber構成脚本とディレクションなどを手掛け、QJWebやpaperCにてコラムも執筆している。ノンジャンルでの活動を通して創作の多面性を解析しながら『ウエア』『ハワワ』の原作と美術を担う。

ゆうめい


植村朔也(以下、植村):『ハワワ』の原作、読ませていただきました。また凄い作品になっていますね。

池田亮(以下、池田):『ウエア』では一個の世界観というか、軸みたいなのができていたので、そこからまた他の世界に接続して作ろうと思ったらああいう形になりました。

植村:『ウエア』の続編を作るという話はいつごろから持ち上がったんですか?

池田:結構早い段階からだったと思います。もう『ウエア』を書いてる途中ぐらいから「これは続編をつくって三部作にしよう」って小野さんと中澤さんからお話をいただいて、早速タイトルを求められた時に浮かんだのが『ハワワ』って言うタイトルでしたね。

植村:その頃に構想されていた内容とは大きく変わった面もあるかとは思うのですが、作品の形が定まっていったのはいつ頃だったんでしょうか。

池田:『ウエア』を書き終えた辺りぐらいからだと思います。一昔前の職場のメーリングリストって、本人ではない人が書きこむことのできるような、LINEやSLACKとはまた違う匿名性があって、それが『ウエア』のテーマになっていたんですが、もう一段階上のひろがりというか、アナログな方へ行ってみようかなと思って。それで、データをファイルに入れて作品を作ることにしました。メーリスと違って第三者に発信できないというか、より閉じている感じがするのと、データはワードだったりエクセルだったり書き換えが可能だというのもあって、そういう状態のものを作品にできたらいいなと思って。

植村:『ハワワ』では池田さんという作者の姿が前面に出てきて、『ウエア』で色濃かった名前や匿名性というテーマの影が薄くなったのかなという印象を受けました。

池田:『ハワワ』には本当に色んな要素を詰め込みまして、生物学の話だったり、それから宗教的な話で言うと聖書やサグラダファミリアにまつわる33という数字を使ったりしています。33という数字は作中で染色体の数としても登場していて、『ウエア』は人間の話だったんですけど、『ハワワ』は生物の話になっています。
『ウエア』にもアメーバっていう存在が登場してくるんですけど、『ウエア』のVTuberに代わり『ハワワ』ではデータ間での生殖を想定しまして、そういうところからネットカジノの設定も出てきました。「アス」っていうオンラインゲームの中に架空の地球があって、その中に架空の生命がいてみたいな。それから『インターステラー』じゃないですけど、書いているうちに遺伝っていうものにアクセスしていったなと思います。
それからVTuberやアニメの仕事をすると、ユーザー間での相容れなさを感じることが多くて。仕事上名前は出せないのですが、たとえば性的に誇張された描かれ方を求める人がいるけど、かたや「え何? この気色悪いの」っていう人もいて。時としてメディアや街中など人の目につくコンテンツは分断を生むような存在であるっていう認識も当然広まっている気もして。依頼された仕事で対象とするユーザーを調べれば調べるほど病んでいく時期も個人的にあって。でも、分断してはいるけれども同じ生命でもあるっていうところも、『ハワワ』の軸になってるかなって思いますね。

植村:遺伝ということですと、ゆうめいでの新作『娘』のことが思い出されますね。『ハワワ』には池田さんの活動に対するメタ的な言及と思しき箇所もありました。セルフ・ドキュメンタリー的な作風については、過去に誰かが受けた暴力を舞台に載せ、しかもそれをエモーショナルな物語に昇華させてしまうという、言ってみれば二重の暴力性について批判を寄せられることもしばしばかと思います。そうした暴力性に対して、池田さんは俯瞰的というか、独特な距離をとっていらっしゃることが多いように思われます。しかし今回の『ハワワ』ではその方法自体がパロディ化されていて、距離をとって語る行為自体が異化されているようにも思えました。

池田:実話を基に創作するっていう暴力性は自分の根元にあるもので、そこにこう、警笛を鳴らすじゃないですけど、俯瞰しながら書いている節は結構ありますね。だからといって、フィクションなら許されるのか? っていう話にもなってきそうだなと思っているのが『ハワワ』にも現れていて。自分自身を否定しながら、なぜ否定するのかっていう理由も考えることがベースにあります。自分の作品のつくり方にはすごい問題があるぞとも勿論考えながらつくってるから、普段作ってる自分から、より分離してるんじゃないかなと思います。池田ってやつがこういう作品作ったんだけど、っていうことを、外側から見たらというのを想像して書いてもいます。

植村:なるほど。先ほど俯瞰という言葉を選んでしまったんですが、『ハワワ』ではその暴力性を加速させることによる、俯瞰の俯瞰みたいなことが起きている気もしていまして。

池田:書いていて加速も多分してました。物語じゃなくて自分で人と会ってリアルで体験すればいいんじゃないかみたいな攻めぎあいをやってるうちに、小野さんと中澤さんから「アドベンチャーをしよう」と言われたのもあって。『ハワワ』は『ウエア』に比べて自分の思想をあまり入れずに書いていて、一番フィクションを書いている気もするんですけど、でもどこかに内在してる自分がいるなとも思います。でも暴力性を強調する見方をされるだろうとは当然思っていまして。美菜っていう主人公の女性は完全に想像から作った存在でして、その父親も、道端で拾った官能小説に「お父様と呼べ!」みたいなやつがいて、それがモデルになっています。自分が小学生の時に、通学路に成年向け漫画が多分悪戯なのかぶち撒けられていて、集団下校する生徒が何人も見てしまって。何人か訳もわからず泣いてしまっている子がいるのが鮮明に記憶に残っていて。その時感じた恐怖を官能小説を拾った時に思い出したりして、これは分断の話にもどこか関係しているとも思って。

植村:2021年末にはゆうめいで『娘』という作品があり、また池田さんご自身に生まれてくる娘さんのことだったり、「娘」というテーマは池田さんの周りでいくつも形になっているかと思うんですね。たとえば『ハワワ』の作中に「電車にぎゅうぎゅうと押し込まれている人たちの足跡を音符に例えたら、それはとんでもない名曲が日々生まれているかもしれない。通過していく電車の線路が楽譜となり、駅を通り過ぎるたびにその曲は駅毎に新しく生まれていく」という文章があるわけですが、これはたしか別のインタビューで池田さんのお母さんの言葉として紹介されていたかと思います。

池田:2月に娘が生まれるっていうこともあって、それはもう本当偶然かぶっちゃったんですけど、それにあたり親って何だろう? ということで、『娘』は遺伝を受け継いでる自分のルーツを自分の両親だったり、妻の両親だったりと探った作品になっています。『娘』の方は過去三世代分ぐらいのお話なんですけど、それに比べると『ハワワ』はより未来の話をしてると思います。だから過去も書くのはゆうめいと似ているんですけど、『ウエア』と『ハワワ』はちょっと先のことを想定したり想像したりして書いています。

植村:2020年にインタビューさせて頂いた際は、ゆうめいでの次の新作は、一見フィクションに見えて全部本当のことを次は書くかもしれない、というようなことを仰っていたかと思います。これは突っ込みすぎた質問かもしれませんが笑、『娘』や『ハワワ』はその点どうなっていますでしょうか。

池田:『娘』はクリエーションの中でシーンを詰めれば詰めるほど実際の出来事へのアプローチが強くなっていったので、そういうクリエーションをやってるからこそ『ハワワ』のフィクション度が高くなったのかな。

植村:ゆうめいの『俺』のなかでも参照されていた『ストライクウィッチーズ』が『ハワワ』でも取り上げられているわけですが、さきほどもおっしゃられていたように、サブカルチャーが分断や暴力に結びつくものとして論じられるのが興味深く思います。『俺』でのサブカルチャーは、スクールカーストから逃げ込むアジールとしてあったと思うんですね。ほかに『ハワワ』で重要な位置を占めるネットカジノにせよドラッグにせよ、「いま・ここ」ではない場所へと離脱する手段であるという点では同じなわけですが、それが暴力の場でもあることの認識から出発していることが、『ハワワ』という作品の特徴であると理解しています。

池田:自分も友人の手伝いで売り子をしたことがあるのですが、コミックマーケットで成年向け作品を販売している方が存在しているということ、それに相容れない他者が絶対に存在している作品が生まれているということに興味がありまして。それらは単純に表現の規制という以上に、嫌悪感が迸るというか、生理的に受け付けなくなってしまう人もいて。「嫌なら見るな」とも言いますけど、その前に見たくなくても見せられてしまう現象を体験したりすると「嫌なのに見ちゃったんだけど」みたいな現象が多い気がしてます。

植村:そういえば、作中に出てくる『アースガールズ』ってアニメは『ケロロ軍曹』と『ストライクウィッチーズ』のキメラだと認識しているんですが、それらの放送年次と作中の2012年という数字がかみ合わないので、どこから来た数字なのかは気になりました。

池田:『ケロロ軍曹』は全く意識していないです笑。作品は2030年ごろのイメージで書いていたので、美菜の父親が『アースガールズ』の脚本を書いていたらこれくらいかなと思って決めました。あと2012っていうのは地球滅亡がうわさされていた年でもあって、ローランド・エメリッヒの映画にもなっていたと思います。その『2012』もたしか、主人公が作家だったような気がするんですよね。
予言なんて言うフィクションが何でこんなに残っているんだ、誰かが言ったでたらめになんでこんなに振り回されているんだとも疲れてる時に思っていたりしました。

植村:なるほど。地球の滅亡ということで言うと、『シン・エヴァンゲリオン』はどういう風にご覧になりましたか?

池田:「終わるんだ」ということにまずめちゃくちゃ感動してしまって。それから、最後シンジに色が無くなって線だけになる時にアニメーターの「お願いします!」って言葉が画面に出てきて、人がつくっているものを称えたいような気持になりました。作品を読み解こうという前に、まず監督っていう人がずっと生命として存在しているってことが感動しました。

植村:ありがとうございます。急に変な質問をしてしまってすいません笑、僕は最近何を観てもつい『エヴァ』に結びつけてしまいがちなんです。ただ、池田さんについては『シン・エヴァ』を散々パロディされてた『Uber Boyz』にも出演されていらっしゃいましたし、作風から言っても『シン・エヴァ』をどう受け止めているかは無視できないことかなと。

池田:自分では全然意識してないけど、側から見たら近いかもしれません。恐れ多いですが。『ストライクウィッチーズ』もネウロイっていう地球外生命体に置き換えられて、正体のつかめないまま人類と戦争になるということも物語としてはエヴァに近いかも。当時同居していた友人に勧められて見始めた時は素直に「これを見ていたら自分はダメになる」という感覚がして開始5分ぐらいで見るのを辞めたのですが、友人から設定やメッセージを聞けば聞くほど、作品に内包されている部分が気になっていきました。『ストライクウィッチーズ』のキャラクターは実在のパイロットから名前をもじって、パンツ一枚の美少女に転生させているんですが、視聴者は「ああこういうものなのね」って油断するんですけど、深く設定を掘っていくと『ストライクウィッチーズ』には人類の敵が出現することで人類間での戦争が無くなり各国が協力するようになるっていうメッセージがあるらしくて。パンツで闘って「あ、自分そんな深く考えてないです」みたいな風にユーザーを油断させたりするのは面白くて影響を受けてるかもって思います。

植村:ネットカジノというモチーフが鍵となっているのは、どうしてでしょうか。

池田:ネットの広告を押してしまったりするとネットカジノに飛んでしまうことがあるんですね。それで「あれなんだこれ」って思ってやり始めたのがきっかけです。リンクを踏んでその先行きつくところまで行くとどうなるんだろうというのは凄く気になってしまって。もちろん架空請求は怖いので慎重にではあるんですが、意外とちゃんとカジノをやっているんだなあというのも見えてきたりしました。
で、中国の方たちがいかがわしい写真を送り合ってアイテムをトレードするようなことが流行っていたのをチャットで知ったんです。でも、「じゃあ女装すればよくね」っていう書き込みをそこで見つけて、『ハワワ』では逆に女装している男性の方がアイテムを貰えるようにしよう!となってしまって。
架空の世界で架空のアイテムを手に入れるために現実世界のお金を使うというのは、現実と虚構の境目に存在したい人たちの行動だなと思って。ソシャゲも流行っていますけれど、金銭のトレードがあるのでネットカジノを選びました。
もともとは『ハワワ』を完全にギャンブルの話にしようと思っていたんですね。きりんちゃんっていう友達がいて、事故の起きる都道府県を想像して当てるかけ事をしていたらだんだん『ウエア』の世界に巻き込まれていく、というような話も考えてはいたんですけど、小野さんと中澤さんが『ウエア』よりももっとアドベンチャーにしようと提案してきたので、じゃあデスゲームだなと思って。

植村:なるほど、改めてスペースノットブランクとの相当の信頼関係があってこその舞台ですよね。

池田:めちゃくちゃ信頼はしてます。こっちも信頼されていると思う分、ちゃんと伝えなくちゃいけないというか、フィクションをつくることの希望を考えなければならないって思ったり。あと、本当に楽しんで見たことのないものを書こうってなった時に、小野さんと中澤さんになら相談ができるなと思って、動画を撮影したりとかスカイダイビングとかしてそれをもう全部ぶち込んでいったっていう感じですね。

植村:『ハワワ』原作最後のスカイダイビングの動画ですね。あれは、『ハワワ』のために飛び込まれたんですか?

池田:駅とか動物園の動画撮ってて、なんか物足りないなーと思って、その時に「スカイダイビング、かなあ」と。
『アースガールズ』じゃないけど、地球も一望できるし、地球があっての生き物というところにも関わってくるから、地球に飛び込んでいくというラストを半年前から思いつきまして。その時女性ボーカルで「心の旅」っていう曲が流れるんですけど、あれは実は美菜の足が線路を通過するときに流れていた曲なんですね。あとは、美菜がポリマで体験したのが心の旅だというのもあったり。きりんちゃんが父親と共に亡くなったのともリンクするかなと思います。夢から覚めるじゃないけど、また明日から日常が始まってしまう、みたいな。

植村:そういうことだったんですね笑 「心の旅」は実は僕のカラオケの十八番で、最後流れてきた時にテンションが上がったんですが、どうしてかかるのか不思議な箇所でもありました。
ドラッグのトリップにせよ、旅というのは日常へ帰ってくることを前提としているわけですが、『ウエア』『ハワワ』はそういう帰るべき不動の世界が存在していませんよね。
『ウエア』では、池田さんがメーリスのデータを全消去してしまって、小野さんと中澤さんに復元を頼まれる顛末があったかと思うんですが笑、そういうスクラップ&ビルド、一回的でカタストロフィックなテキストへの介入が『ウエア』の形式だったとして、『ハワワ』はデータという形で散漫な時間間隔のなかでの変更や消去を、送り先にあらかじめ委ねているのが特徴かなと思うんですが。

池田:データをひとつの生命と考えてつくりました。データが重いから、終わったら削除する人も多いかなと想像したり。『ハワワ』を殺す、途絶えさせるというか。ファイルのコピー&ペーストもアメーバというか、生物を思わせて。

植村:ステージナタリーで池田さんが今回の公演について書かれたコメントに、原作をたくさんの人に読んでほしいといった旨のことがあったかと思うんですが、僕は「本当かな?」と思ったんですね。というのも『ウエア』の原作はそれ単体で小説としても読めるので、たとえば書籍化なども見込めるものだったかと思うのですが、『ハワワ』はあのままの形ではたぶん、とても商品化はできないですよね。

池田:商品化は完全にできません笑。池田亮として出版するものではないだろうと思います。完全に池田亮じゃない人が書いている体で書きました。作者名を出して書くのができる人にはできるしできない人にはできない、でもできなくても書ける、というのが匿名で書いていた時のモチベーションでもあったので。でも自分は今実名で書いているんですが、その二つを合わせたときに、時には自分のことをまったく気にしていないような状態になるのもあって『ハワワ』はああいう形式になりました。

植村:『ハワワ』の一個目のファイルには「第三者への公開及び許可のないデータの受け渡しを硬く禁じます。直接渡された方のみに見てもらうことを心からお願い申し上げます。」とありました。

池田:書き始めたころから、身近な人に広げていこうとしました。作品として大勢に向けて書く場合のフィルターを取っ払うというのが、匿名で小説を書いて発表するという行為に近いのかもと自分が思っていたので。

猫:ニャー!

池田:なので、みんなに読んでもらいたいけど、読んでもらっても、なんだこいつってなるだろうなって。

植村:『ウエア』は原作が単体でも完成されていて、そのまま書籍として発信することもできると思うんですね。もちろん『ハワワ』の原作が完成していないというわけじゃないんですけれど、商品化というか、パブリックな公開を期待しない形式で書かれていることが『ウエア』からは一線を画していて、それが匿名性というキーワードの両作の扱いをも大きく左右しているように思います。
形式的にも内容的にもそうとう振り切って書かれているので、これを池田さんが実名で書くことを可能にしているのが、実は今回の「作」ではなく「原作」という立ち位置だったのではないでしょうか。だから、データが変更を受け付けているのとパラレルなものとして、原作をスペースノットブランクが上演可能なテキストに編集しなおす作業が重要性を帯びる。『ウエア』での上演形式を『ハワワ』の原作のそれが模倣していったとみることもできると思います。
たとえば松原俊太郎さんと地点だったら、地点は戯曲をコラージュして上演台本を起こすことで知られる劇団なので、作家もテキストが全部は読まれないことを前提に書いてきたわけです。でも、今回の『ハワワ』はそれとも違っています。松原さんのテキストは公開できるからです。
『ウエア』の場合は、戯曲として定義できないノンジャンルのテキストであるという以上には「原作」というクレジットの意義がまだ見えづらかったんです。『ハワワ』は、上演時間が無限に与えられても、おそらく上演はできないだろうと思うんですね。スペースノットブランクがあのテキストをどう引き受けて、パブリックに公開できるようなものとして「作品化」していくのかが問われる点で、舞台芸術の歴史のなかでもかなり独特の上演形式ではないでしょうか。

池田:戯曲を任されたら上演時間のなかに収めようと思って書くことにもなるし、原作だからこそ気にせず書けました。いろいろな仕事をしていると表現の縛りも当然あって、でもスペノの場合は団体の風に無理に合わせる必要はないなと思ったら、『ウエア』『ハワワ』が生まれました。作り終えた時、「自分だけにとっては傑作かもしれないけど、これを皆さんに見せるのは本当に申し訳ないし、恥ずかしいし、嫌われそうだ」みたいな気持ちでした。

植村:最後に、もしお客さんに一言あれば。

池田:意識と無意識がもし逆転したらどうなってしまうんだろうということを考えながら書いたので、自分の知らない部分も楽しんで帰ってくれたらなと思います。自分でも「こいつ何書いてんだ、こんなの人様に見せたら苦しむだけだぞ」って思うし、あれをキャストが声に出して読んでくれると思うと謝罪と感謝しかありませんが、皆さんと一緒に意識と無意識の心の旅をできれば幸いです。


ウエア|作品概要
ハワワ|作品概要

ウエア/ハワワ|小野彩加と中澤陽:メッセージ

ウエアが終わり、ハワワが始まります。

原作の池田亮さんが2018年5月から2020年1月にかけて創造した『ウエア』(2020年3月初演)と、2020年2月から2021年10月にかけて創造した『ハワワ』(2022年1月初演)。二つの作品の物語に明確なつながりはありませんが、どちらも池田さんが作るさまざまな何かのボツ、そこで生まれる鬱屈や嫌悪感が詰まっている点に於いて関連しています。それは池田さんが隠している裏側をただ曝け出してしまおうとしているのではなく、池田さんがそれこそ表側かもしれないと疑い訴える行為なのだと解釈しています。目に見える部分と、目に見えない部分。言葉にできる意味と、言葉にできない意味。

スペースノットブランクは信頼したいと考えています。しかしその信頼は想像させるという「センス」を強く求める行為でもあります。文化芸術には概ね想像が伴い、想像によって人生が豊かになっていくという側面もありますが、想像するという「センス」にそもそも興味がない人にとってそれは無意味になってしまうのでしょうか。「ポップコーンムービー」という言葉があります。ポップコーン片手に気楽に良い意味で特に何も考えずに適当に笑ったりよそ見したりしながら見ても楽しめる映画を指す言葉だと認識しています。悪い意味に聞こえてしまう方もいるかもしれませんが、想像せずに目の前の出来事をただ楽しむことも、時には大切な気がします。現に近年は文化芸術の中を思考するより、時空間を漂うだけなことが多いような気もします。そこに手を伸ばし、触れようとすることで、広がっている宇宙のようなスペースを発見してください。出演者たちは言葉と身体を転がし続け、音楽と照明が細かく大胆に存在し、美術により立ち上がる空間がこれまでのスペースノットブランクを超越してごちゃまぜになっています。こまばアゴラ劇場に集まり、上演時間が成立することに多大な感謝を。一つ潜ればどっとしたねばねばしたものを思い出す。ひょっとハイになるものもある。身を委ねてみてください。『ウエア』と『ハワワ』がポップコーンムービーだと言い切るわけではありません。想像しないと想像するのどちらもを選択可能にしてみました。原作でも「ボレロ」か「キャラヴァン」を選ぶことができるように、流れる「ボレロ」が「キャラヴァン」だと思ってもいいです。

漂う無意識と、集中する意識とは別にある余暇を、お楽しみください。

2022年1月15日(土)
小野彩加 中澤陽


ウエア|作品概要
ハワワ|作品概要

ウエア/ハワワ|奈良悠加:出演者インタビュー


『ハワワ』出演
奈良悠加 なら・ゆか
俳優。1996年6月20日生まれ。2015年9月から2019年3月まで〈早稲田大学演劇倶楽部〉に所属。2019年4月より〈青年団〉に所属。俳優として、ぬいぐるみハンター『愛はタンパク質で育ってる』、青年団・こまばアゴラ演劇学校 無隣館『革命日記』、青年団『ちっちゃい姫とハカルン博士』、スペースノットブランク『舞台らしきモニュメント』などの作品に参加している。

────クリエーションの中で印象に残っていること
池田さんが稽古場にいらっしゃった時です。
原作を読んでみて、嫌悪感を抱いてしまった部分を心から面白がって愛することが今回のなかなか高めのハードルかなと思っていました。でも池田さんのお話を聞いて、あ、これはこれで持っていて良くてその先のことなんだなと勝手に理解し、少し楽になりました。

────クリエーションの中でご自身が取り組んでいること
他の場所で戯曲と向き合うとなると静物画の解像度を上げていく作業をひたすらやっていくイメージなのですが、スペースノットブランクのクリエーションは印象派っぽい油絵を思うままに描いていってるような感覚があります。
頭に浮かんだ曖昧な、家で1人へらへら動いてたり適当にしゃべってたり、別に作品にはしてこなかったイメージを人前でやっちゃってたりしてます。あまり許される場所がない気がするので楽しいです。

────共演者について
大須さんの空気感にとても惹かれます。普段も舞台に出てる時もぶれない雰囲気がとっても魅力的です。古賀さんは本当に器用な方だなと思います。それもできるんですか! ってよく思います。鈴鹿さんの動きは観てるとわくわくします。あとみんなに沢山話しかけてくれます。嬉しいです。皆さん優しいです。各々自分のペースを守っているような感じがあります。もっと近づいたら面白いんじゃないか、逆に全然仲良くなれないんじゃないかな、とも思います。

────『ハワワ』とは
最初に文字を見た時はハワイっぽいって思いました。口にすると意外と言いにくい。拠り所がない感じ。ハワワ。あああ。

────上演について予想すること
全然予想できません。まだ予想出来なくてもいいんじゃないかとも思っています。でも無理矢理予想するなら舞台面の色は黒。きっとそう。

────上演をより楽しむためのコツ
私、観劇をしていて物語についていけなくなると知識も感受性も足りない自分が悪いんだと自己嫌悪に陥りがちなのですが、もし私と同じようなタイプの方がいらっしゃっるのだとしたら、どうか観えたままに気楽に観ていて頂けるとより楽しめるかなと思います。

────『舞台らしきモニュメント』への参加を経て、今回の上演に向けて
前回を経てわからないへ向き合うことが怖くなくなったなと思います。
本番をやってみて、ようやく小野さんと中澤さんと言ってたことを実感できたかも! みたいなこともあったので、より前向きに取り組めている気がします。いまのところ!

────観客の皆様に向けたメッセージ
観に来てくださってありがとうございます。本当に嬉しいです。頭をたくさん使って観て頂いても、頭を使わないで観て頂いてもかまいません。観えたままに観ていてください。2022年はお互い良い年になりますよ。きっと。


ウエア|作品概要
ハワワ|作品概要

ウエア/ハワワ|古賀友樹と鈴鹿通儀:出演者インタビュー


『ウエア』『ハワワ』出演
古賀友樹 こが・ゆうき
俳優。1993年9月30日生まれ。〈プリッシマ〉所属。俳優として、ゆうめい『みんな』『弟兄』『巛』、劇団献身『最悪な大人』『幕張の憶測』『死にたい夜の外伝』、シラカン『蜜をそ削ぐ』、劇団スポーツ『すごくうるさい山』『ルースター』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ネイティブ』『舞台らしき舞台されど舞台』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『すべては原子で満満ちている』『氷と冬』『本人たち』『フィジカル・カタルシス』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『光の中のアリス(作:松原俊太郎)』『救世主の劇場』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』『舞台らしきモニュメント』『クローズド・サークル』などの作品に参加している。

────クリエーションの中で印象に残っていること
印象に残っていることって、ある種のショックが伴うものだと思うんです。そういう意味では、今回まだ衝撃を受けておりません。大須さんと奈良さんは舞台らしきモニュメントで、鈴鹿さんはクローズド・サークルで、とても驚かせていただきました。あ、でも、これ勝手に共演者のことに絞って書いてたんですけど、共演者についてという項目が後にありますね。じゃあ、えっと、その分(その分ってなに?)、原作はドカンとなりました。うわああああって感じで、『ウエア』『ハワワ』原作二つ読むと(ハワワには映像も使われているのでプラス観る・聴くも含まれますね)、謎の喪失感がありました。カタルシスではなくて喪失感。歯の被せ物が取れちゃったみたいな。昔ブラックモンブランを食べてて、やたら固いチョコがあるなと思ったら自分の乳歯でした〜的なチクショー! 案件がありましたが、それかもです。

────クリエーションの中でご自身が取り組んでいること
実際は全くと言っていいほど何もないのですが、強いて言うなら、素直に物事に取り組むってことです、かね。

────共演者について
みなさん優しいです! おもしろいです! あと、それぞれがそれぞれでこだわりも強いと勝手に思ってます。期間が短いことに感けて、あまり共演者の方々に目を向けてないかもです、すみません。

────『ウエア』『ハワワ』とは
いいタイトルだと思います。覚えやすいし、想像を膨らませやすい。声に出して言いたい族の出身。

────上演について予想すること
冬だからまあ寒いと思うんですけど、舞台側は動きまくって暑い、客席側は動かないから寒い、じゃあどうする? というバトルが勃発すると思います。いや、上演について予想することっていうQ、ムズすぎません!? ぜんぜんわかりませんよ、お客さんが本当に来るかもわからなければ、僕が本当にその日に舞台に立ってるかほんっとうにわからないですからね? 意地悪すぎますこの質問。じゃああれか、はい、当日の演出でアゴラの天井飛んでってなくなりまーーーーす。YES YES YES!! 正解はこれか?

────上演をより楽しむためのコツ
いくら楽しみにしていてもお口に合わないことは多々ありますので、暗転(舞台全体が真っ暗になること)する回数を予め予想したり、役者さんが言った台詞で韻が踏めるワードを探したりとか、そういうのは各々でイケると強いですよね。

────『ウエア』と『ハワワ』、両作品に出演することについて
これはピンチではなくチャンスです。今のところピンチ続きですが、頑張ります。それしか言うことありません。あと、『ウエア』は新宿眼科画廊スペース地下での上演を観た人がもう一度観に来るかもしれないので、その記憶に負けないように頑張ります。とても良い、かっこいい作品だったので。『ハワワ』はみんなが初見状態なので、特にないですね。いつも通りでやるべきことをやります。橋渡しを〜的なコメントも考えられますが逆張り。ソフトよりもハードでしょ。

────観客の皆様に向けたメッセージ
新年あけましておめでとうございます。せっかくなので一所懸命頑張ろうと思います。新年にふさわしい、縁起の良い演技をお楽しみに。(これは不正解かもしれません)(でもいいんです)(こういうのは2021に置いていきますから)(#みたいな使い方しちゃってすみません)(#ハッシュタグ)



『ハワワ』出演
鈴鹿通儀 すずか・みちよし
俳優。1990年7月4日生まれ。〈中野成樹+フランケンズ〉への入退団を経て現在フリー。俳優として、中野成樹+フランケンズ『えんげきは今日もドラマをライブするvol.1』『カラカラ天気と五人の紳士(作:別役実)』『マザー・マザー・マザー(作:別役実)』『半七半八』、ままごと『あたらしい憲法のはなし』、劇団子供鉅人『幕末スープレックス』『マクベス』『夏の夜の夢』、ピンク・リバティ『人魚の足』『煙を抱く』、財団、江本純子『忘れていく、キャフェ』、松田正隆『シーサイドタウン』、スペースノットブランク『クローズド・サークル』などの作品に参加している。目下の趣味はバックギャモン。

────クリエーションの中で印象に残っていること
僕がこれまで加わってきた稽古の多くは飛行機の離陸の感が強かったのですが、スペースノットブランクの創作では、いま自分が本番に対してどの地点にいるのかわかりません。宇宙遊泳をしています。ありていに言えば常に本番状態です。この質問のワードでも”稽古(本番に対置されるもの)”ではなく”クリエーション”が使われているのが象徴的ですね。

────クリエーションの中でご自身が取り組んでいること
宇宙遊泳をするのは初めてなのですが、羽ばたくための助走はノーセンキューということだと理解しています。助走は用法をあやまると「いまこれは助走なので! トップスピードはもっと出るんです!」という言い訳の温床になりがちです。とにかく表現に対して意志を持って泳ぐ・浮かぶ・漂う。責任を取ろうとしています。

────共演者について
ポケモンにほのおタイプやくさタイプ・ゴーストタイプなどの属性があるように、俳優にもそれがあるとすれば四者四様、かなり違っているように思います。みずタイプとこおりタイプは複合したり覚える技の重なりがあったりするんですが、そのような近しさはあまりなく、かなり違っているように思います。

────『ハワワ』とは
宇宙のはなしです。

────上演について予想すること
銀河を漂う融通無碍・ニュー鈴鹿が誕生しているかもしれない。

────上演をより楽しむためのコツ
数回の観劇と前作への出演を経て確信しましたが、手に取れる形の筋書きを追ってもそんなものはないので、ウェルメイドな作劇←→観劇からここでは一緒に解脱しましょう。

────『クローズド・サークル』への参加を経て、今回の上演に向けて
小野氏と中澤氏からなるスペースノットブランクとの創作の日々、前回も今回もかなりスパイスが効いています。そうありたくないとは思いつつもどうしても固着する自身の演劇観がピンピン刺激されています。今回もがんばるぞの気持ち。

────観客の皆様に向けたメッセージ
最近盆栽がかなりホットなので、詳しい方がいらっしゃったらご連絡ください。


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ウエア/ハワワ|額田大志:インタビュー


額田大志 ぬかた・まさし
作曲家、演出家。1992年東京都出身。8人組バンド〈東京塩麹〉、演劇カンパニー〈ヌトミック〉主宰。「上演とは何か」という問いをベースに、音楽のバックグラウンドを用いた脚本と演出で、パフォーミングアーツの枠組みを拡張していく作品を発表している。舞台音楽の作曲家としてQ、パスカル・ランベール、岩渕貞太、コンプソンズなどに参加。最近は、目的のない集まりを開催することに精を出している。

額田大志|公式ウェブサイト
東京塩麹
ヌトミック


植村朔也(以下、植村):2年前にお話をお聞きした時は、ヌトミックが以前の形式を踏まえつつ色々実験をしている段階とのことでした。俳優が発話をする時に、音楽のように「ここでこう発話することになってるからこういう音を出すんだ」というのとは違う、演劇的な根拠がないとうまく演技ができなくなってきたとおっしゃられていたわけです。そうした問題意識はこの2年の中でどういう風に展開されたのでしょうか。
 
額田大志(以下、額田):最初は台詞を音として扱うことから演劇的なパフォーマンスに興味を持ち、それをずっと実践してきました。音楽の場合、音楽自身が持っているタイムライン、つまり楽曲のテンポが基本的にあり、それがあるから、ある音を連続して弾いたときに一つのメロディとして聴こえるようになります。それを演劇の上演でやってみるという試みです。前後の繋がりはない台詞を一定のテンポの上で発することで、意味は通じずとも音楽のように聴こえてしまうことで、意味を超えた体験になる面白さに惹かれました。
ただそれは、演劇ではなくて「結局音楽なのではないか?」という疑念も常にあり、ここ数年、改めて「演劇」って何だろうなと考えたときに、演劇の持つ「キャラクター性」に目を向けるようになりました。

植村:キャラクター性を意識されたのはいつごろからでしょうか?

額田:2019年の『エネミー』のときに何となく意識し始めたというか、むしろ俳優側からそういう話も出てきていて。今年の4月にはいわゆる役名のある作品である『波のような人』を愛知県芸術劇場で作ってみたりしつつ、10月の『ぼんやりブルース』では役名はないのですが、台詞を元に「キャラクター性」を考えていく作業を、稽古場ではしていました。

植村:『ぼんやりブルース』の戯曲では登場人物がナンバリングしかされてないので、『エネミー』や『波のような人』など最近のクリエーションに比べるとキャラクター性はむしろ希薄に見えました。

額田:『ぼんやりブルース』は、上演をするための方法として「キャラクター性」を使えないかを考えた作品なんですかね。「キャラクター性」といっても、登場人物の年齢や職業などのバックグラウンドを決めるのとは違って、一つひとつの行動とか言葉を発するための理由付けに近いんですかね。

植村:なるほど、ひとりの全体性を持つ人格ではなくてということですね。

額田:場合によっては人格的な部分から引っ張られることもあるけれど、それもあくまで一要素という感じですね。

植村:額田さんが初期に書かれていた戯曲は『それからの街』にせよ『何事もチューン』にせよ、一応戯曲の体裁をとりつつ音楽のスコアのようなフォーマットを取ってるじゃないですか。登場人物ごとにテキストがいくつかの軸に分割されて、それぞれのタイムスケールのなかに言葉が配置されていくので、日本語で書かれた楽譜としてもそれを見ることができたと思うんです。
対して『ぼんやりブルース』では普通の戯曲のフォーマットをとっていて、これはきわめて重要な変化だと思うんですが。

額田:楽譜的な戯曲って凄く書きづらいんですよね、単純に実作業として時間がかかるので、これは効率が悪いなと思っていました(笑)。
『ぼんやりブルース』の戯曲ですが、植村さんがご覧いただいたのって『悲劇喜劇』のやつですよね? あれは掲載用に大きく変えたもので、いまも基本はエクセルを使用して書いています。『ぼんやりブルース』は雑誌に掲載されるとなったとき、エクセルの状態で見せるとどうしても解説が必要なので、読者に伝わりにくいんじゃないかと思い、いわゆる一般的な縦書きの形式に直したんです。
悲しい話ではありますけど、上演を観たお客さんが「あ、これ変わったフォーマットで書かれてるな」とか思わないじゃないですか(笑)。だから、劇作に当たりどういうフォーマットを使用するかはあくまで作る側の問題だと思っています。ただ、逆に作る側には結構影響がありまして。
『ぼんやりブルース』は戯曲を書く上で3つのフォーマットを使っています。エクセルの横軸で書き進めていたのが最初の方のシーンです。その後「横軸は、やっぱり入力の効率が悪いな」と思ってエクセルの縦軸で書くことにしました。エクセルの縦軸は商業演劇でもたまに使われているようです。ソフトウェア上の話ですが、ちょっと書きやすくなるんですね。これで、ほとんどのシーンを書きました。そして三つ目は、『悲劇喜劇』に掲載するためにワードに流しこんで、一般的な縦書きに直すという過程です。この段階に並行して最終的な手直しをしました。面白かったのは、使用するフォーマットに応じて書く内容が、なんとなく変わるんです。たとえばエクセルの横軸は、音楽のスコアと視覚的にほぼ同じなので、本当に作曲するように戯曲をかけます。一方、エクセルの縦軸だとコピペがしやすいので、自然と繰り返しが増えたり(笑)。で、当然ワードだったら普通の台詞が一番書きやすいですよね、当たり前なんですけど(笑)。

植村:テキストが楽譜としても戯曲としても受け取りうるということを受け手の側から考えてみると、基本的に楽譜の場合は書かれた記号に対してどんな音を出力すればいいのかは通常の音楽だとある程度一意に定まるじゃないですか。だから、台詞がどんな音で発されるかがわからないという不確定性がテキストを特徴づけることになります。
それに対して、テキストを戯曲として読む時にはタイムスケールが厳密に決定され過ぎていることが特異性となります。戯曲でもスコアでもないものとしてテキストを読むことは不自然なわけですが、そのどちらとして読むかでテキストの性格が分裂するわけです。
そのうちの楽譜として読むことの面白みが強く現れたのが今回の『ぼんやりブルース』じゃないかと僕は考えていまして。
その不確定性を導くのは俳優の身体で、音楽の場合とは違って「ここ、こういう音出して」と言ってもすぐにはばっと出してもらえないっていう、その抵抗の部分が恐らく興味深いポイントになってくると思うんですね。『ぼんやりブルース』のあのバラエティ豊かな六人の身体が、無理にそれを統合しようとせずに自然と置かれているのは、戯曲を読んだ時点だと全然イメージできない光景でした。
従来のヌトミックのテキストは、「何か言いたいし、実際言いたいことがあるかもしれないんだけれども全然言えない」という事態が状況として示されていて、というか、ほとんどそれしか言わないものでした。それは『ぼんやりブルース』についてもある程度共通するところです。
で、そうしたヌトミックのテキストに紐づけながら、何もリプレゼンテーションできない私、というか、私未満の私の現れとして、チェルフィッチュに連なる超口語演劇の系譜のなかで演技を説明されることがヌトミックは多かったと思うんです。けれども僕の理解では反対に、俳優の身体がそのテキストの意味内容さえ裏切ってしまうところにヌトミックの面白さがあったと思うんですね。
例えば『何事もチューン』では、発する声のタイミングや強弱、音程を手で調節することをその演技の基底とするラッパー的身体が演じられます。そこには「うまく話すことができない」というためらいとかもやもやとかがまるで感じられないわけです。テキストでは「何もうまく言えない」って言ってるのに、それを表象してるように見えない強靭なフィジカルが目の前にある。音楽に身体がノっちゃえば発話のペースが饒舌になるので、「何もうまく言えない」ということ自体はとても雄弁に語ることができる、そういう発明だったと思うんです。
ヌトミックの場合、「何も語れない」と語る身体の雄弁にドラマが生じていた。そして、語る行為と語られることに分裂がある以上、観客もまたその分裂に巻き込まれざるを得ず、パフォーマティブにそこからまた別の意味を生産していくことになる。
そういう形式が成立していたのがかつてのヌトミックだと思うんですけど、テキストの意味内容を置き去りにして身体が饒舌に自走できたのは発話を音楽性に振り切っていたためであるはずなんです。だから、発話の根拠を演劇的な次元に求める2019年以降ではテキストの内容も変わってくるはずですよね。だから、単に発話が演劇的だからテキストも演劇的にということではなく、ある種発話を減速させるための装置として登場人物やストーリー性が求められるようになったという見方もできると思います。
ただ、さらに感覚的な話になるのですが、『ぼんやりブルース』では「あ、この人、何も言えないとばかり言っているけれど、もう少しで何か言い出しそうだな」っていうぎりぎりのところまで来てる気がしたんですね。話が長くなりましたが、音楽性に振り切ることで強靭な饒舌さを手にした身体を一度手放して、むしろ言葉を発するときに身体に生じてくる自然な抵抗というか、不確定性それ自体を乗りこなそうとしていくことが主題化されたのが今回の舞台ではなかったかと。

額田:以前に試みていた「何も言えない状態」っていうのは、「もうそれ以上ない」っていうことなのかなと思っています。例に挙げていただいた『何事もチューン』がそうですが、「言えなさ」を言い切った時点でもうその「言えなさ」しか残らなくて、そこから先がない感覚がありました。いかにそのゼロを「最高のゼロにするか?」みたいな作業はあるかもしれないですけど。これからも創作活動を続けていく中で、あと6、70年何しようみたいになっちゃって、「言えない」だけじゃなくて「言う」と「言わない」の間を「言いたい、言おうかな」と行き来する方向を試しています。

植村:すぐに「言うぞ」という方に踏み切ってしまおうというわけでは、ないわけですよね。『ぼんやりブルース』は政治的な作品でもあったので、もしかしたらここからものすごくはっきりしたことを言い出すかもしれないし、次にどんなテキストの舞台になるだろうというのが観劇後にとても気になったんですね。もちろんその「言いたい」というのはパフォーマティブなもので、「言う」ことに対する未満的なものとして考える必要はないわけですが。

額田:そうですね。どこかでこう、「言い切ってしまう」と面白くなくなってしまうんじゃないかっていう疑念があります。同じ言語表現の中でも、例えば演説、あるいは論文などは一つの結論を通じて物事を伝えた方がよいと思いますが、自分の表現形態はそれだと作る理由を失ってしまう気がするんですよね。
それは、直接的に言ったことによって伝わらない人が増える、という感覚が割とあって。ときには曖昧な表現で伝えることの方が大事なのかなと思うんです。例えば選挙に行って欲しいとどれだけ言っても、みんなが行く訳ではなくて。でも「行かなくていい」とか、「行かなきゃダメ!」とかではない、その間の話をすることで、もうちょっと共通の話題ができるというか、広がりが出る気がします。それに近いことで、見る前に「自分とは関係ない作品だな」と思われたくないというのもあって。
身体については、植村さんのおっしゃったように、多様な身体があるという演出プランを最終的にとりました。理由の一つとして画一的な身体だけだと、この作品は矮小化するんじゃないかと思いました。『ぼんやりブルース』は、東日本大震災をモチーフにしていたので、身体が一つに固定されるとそこに存在した人の姿が見えなくなるというか。強い身体がある状況よりも、ばらばらな身体が並ぶ方が、戯曲としても意味のある内容だったとも思っています。稽古の最初は出演者のみんなが統一的な身体を目指していたんですが、徐々に自由度が高い状態に身を置いてみました。

植村:今日の東京の小劇場演劇の特徴の一つに、クリエーションにおける人間関係のあり方それ自体の主題化があると思うんですね。それは『ぼんやりブルース』や、『何事もチューン』を俳優主導で再演した先日の公演にも見られる意識かなと思うのですが、それぞれの俳優の身体をばらばらに呈示することと、そうした意識はつながってくるのでしょうか。

額田:うーん、あんまり意識はしていないですね……。みんなが能動的になれる現場にしたいとは思いますが、かといって俳優だから主体的に作品を作らなきゃいけないとかは全く思わないですし。前提として俳優もアーティストで、アーティストにも職業作家的に黙々とこなす人もいれば、自ら率先してプロジェクトを企画するような人もいたりと色々なので、その辺は単純に人によると思います。2021年12月に開催した「ヌトミックのひろば」は俳優が始めたんですが、僕から「やろうよ!」とかも特に言わずに自然発生的に立ち上がっていて、なんというか、うちのカンパニーはそういう感じですね。
『ぼんやりブルース』のクリエーションで面白かったのは、鈴木健太くんや朝倉千恵子さんが二人とも個人でアーティスト活動をしているので、稽古場でも普通に「何が面白いんですか?」みたいにキャッチボールできたのは新鮮でした。
頭で考えて分かることをやらないために、抽象的な表現をやってると個人的に思っています。ただ、理由みたいなことを考えたり言語化するっていうプロセスが特に『ぼんやりブルース』は多かったんです。集まったメンバーがほぼ全員が内容にも深くコミットしてくれるタイプで、それによって作品が良くなった部分も凄くあります。

植村:『ぼんやりブルース』は新型コロナウイルスや東日本大震災を題材にした作品ですが、そうしたテーマはあくまで抽象的に扱われていて、明示はされていませんでした。ですが、あのテキストは取材をもとにつくられたそうですよね。

額田:二つの出来事に共通して存在する、ぼんやりとした気持ち、もやっとした情動を、そのまま舞台上にあげることを目指していました。偶然2018年ぐらいから別の作品のために東日本大震災についての取材をしていたんですが、そのときに行なったインタビューの内容が新型コロナウイルスの東京の様子と繋がることがあって。語り方とか、それぞれが日常生活の中で抱えている不安とか、出来事は違うけれど、不安の質に近いものがあるというか。

植村:社会的な事象にフォーカスして、取材をしてテキストをつくる場合に、普通は他者を代弁するという構造になる訳ですよね。そのとき俳優には代理表象をするだけの、主体としての強さが前提されます。けれども『ぼんやりブルース』の人びとは言うことへのためらいに定位するので、他者の声を代弁するというよりは、他者が語るときの語れなさにこそ身を置いていく、それが特異だなという風に拝見しました。

額田:東日本大震災については東京も被災地であると規定されているんですよね。新型コロナウイルスはもちろん自分の話だし。だから、誰かの声を引き受けてやるっていうよりかは、自分の話として言うことになります。遠くの人を表象するっていう考えは、稽古場の初期段階で方向性として違うなと思いました。

植村:なるほど。ありがとうございます。ここからは、今回のスペースノットブランクの上演についてお話をお聞きしたく思います。『ウエア』は2020年の3月に新宿眼科画廊で上演されたものの再演ですが、その初演の印象はいかがでしたか?

額田:池田さんの書いた脚本を忠実に舞台で見せている感じが面白くて。『ウエア』の台本って池田さんが「ゆうめい」でやっている作品とは質が違うものだと思うんですけど、それがスペースノットブランクによってクリエーションの過程で再構成されても、最終的には池田さんの作品のままなのが面白かったです。あれが池田さんのやりたかったことなのかな? とか考えながら見ていました。

植村:『ウエア』を再演するにあたって音楽は新たにされるのでしょうか?

額田:何か新しい要素は入れたいなあと思っていますね。話が急に大きくなっちゃうんですけど、音楽ってまだまだ技術の進歩によってかなり変わっていく表現だと思っていて。たとえば演劇はジャンルやスタイルの変化のスピードが十年単位くらいで動いていくと思うんですけど、音楽は録音技術が誕生してからまだ日が浅いということもあり、数年単位でトレンドが変わっていきます。だから2年前の初演の音楽は少し古く感じたりもしていて、できるだけ手直ししたいなと考えています。
『ウエア』の初演は、最後までついていくのに必死でした。スペースノットブランクの舞台は演出の小野さんと中澤さんの2人には強い軸があるけれど、それが言語化され過ぎない印象があるんですね。それは個人的にいいと思っていて、分からないものをやるんだから別に言葉にしなくていいと思ってるんですけど、一方で関わる身としては初めてなのもあってかなり手探りでやる必要がありました。舞台音楽は演出家がやりたいイメージをできるだけそのまま音として変換してお客さんに伝えていくのが大事だと個人的には思うんですが、2人が何を大事にしてるのかを見つけるのは意外と時間がかかりました。

植村:演出家の持っているイメージをどのように掴まれたのか、もう少しお聞きしてみたいです。

額田:結構、実直だなと思いました。フィルターをあまりかまさないっていうか。ものをつくる時にどこまで王道ではない「裏」を行くかってみんなすごい考えると思うんですけど、スペースノットブランクの求めている音楽は案外直球なんじゃないかという感覚があって。「音楽を音楽そのものとして認識させる」ストレートさなんですかね。例えば、悲しい曲が流れているってことはきっとこの人は悲しいんだろうなみたいな、そういう想像力のフィルターみたいのがお客さんには挟まるじゃないですか。そうではなくて「音楽」と「お客さん」がフィルターを経由せずにダイレクトに結びつくような感覚があったんですよね。
演劇って、お客さんは音楽を聞きに来てるっていう感覚ではたぶんいないと思うんですよ。それは舞台を見てる中での音楽であって、あくまでシーンのためとか、何かを説明するために音楽が使われたりするケースが比較的多くて。
実際、ほとんどの舞台音楽は稽古を見ながらシーンに必要そうなものを作るわけですけど、『ウエア』ではとりあえずどうなるかも分からないまま作ったものが、そのまま舞台に乗せられてる。上演の中の音楽が、目の前の状況を異化するのでも、説明するのでもない、単純に「音楽を聞く時間」のようにも感じられたんですね。それこそ意味的な部分ではなくて、めちゃくちゃ感覚的に使われてるってことなんですかね。

植村:最初におっしゃられたスペースノットブランクのストレートさというのは、音楽それ自体に対して実直ということですか?

額田:音楽それ自体を、音楽のままお客さんに届けようとする感覚があったということかもしれません。

植村:なるほど。スペースノットブランクの音楽の使い方には額田さんのおっしゃる通り独特な質感があると感じていまして。たとえば今年上演された『ささやかなさ』では、その時に掛かっている曲が終わるまで話すのをやめ、次の曲がかかり始めたらまた喋り出すと言う風に、出演者の演技のテンションやストーリーの内容ではなく舞台音楽ありきで演技のきっかけをつくる方法が取られていました。舞台を駆動していく要素がストーリーや出演者の身体など色々ある中で、普通それらに従属して現れるところの音楽が、むしろそれらに肩を並べるような扱いを受けているなと。
それでは、『ハワワ』の原作を読んでの印象はいかがでしたか?

額田:本気で池田さん凄いと思いました。もちろん内容が面白いのは大前提として、『ウエア』と『ハワワ』を続けて読んでると、池田さんの作家としての底の知れなさを感じますね……。なんとか皆さんにも読んで欲しいですが……。

植村:スペースノットブランクの中澤さんは2018年にヌトミックに『ワナビーエンド』で出演し、額田さんは音楽でスペースノットブランクのクリエーションの現場に足を運ぶことがあったわけですけれど、おたがいの影響関係などを感じられる面はありますか?

額田:影響を何か与えたと思うことはないですね。一方で、思い切りのよさには影響を受けたなと思います。スペースノットブランクの二人は「この演出が、どこまで人に伝わるのか」と考えるときのバランス感覚が僕とは全然違くて、お客さんに伝わることを彼らも考えてはいるんですけど、出会った当初の感覚では「いや、それは流石にわかんないよな」というようなことが沢山ありました。ただ、それをつき通し続けていくことで、お客さんがついてくるというか、「いずれ伝わるようになる」という過程も大事だと思ったりしました。一回見ただけでは分かんなくても二回見たら分かる、みたいなこともあるから、自分のやりたいことをそれこそ実直に舞台に上げる強さに影響を受けましたね。


ウエア|作品概要
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ウエア/ハワワ|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの「保存記録」を務める。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。


『ウエア』『ハワワ』というふたつの舞台はうまれてくるものへの倫理を主題のひとつとしています。でも、その物語については池田亮さんがたくさん語ってくださっているので、ここでさらに言葉を与える必要はないでしょう。
うまれてくるものには名前が与えられます。名前は、異なるときの異なる舞台が変わらないひとつの存在であるかのような錯覚というか幻影を、ときにもたらします。ひとはそれを作品と呼びます。名前はそういう魔術性というか、おそろしさをそなえています。
スペースノットブランクは全く異なって見えるいくつかの舞台に同じ名前をつけてしまうことがあります。それを再演という慣習とはまた離れたところで考えなおしてみます。

スペースノットブランクはしばしば「クリエーション」と「プロセス」というたがいに矛盾する言葉で自分たちの舞台を説明してきました。クリエーションとは創造であり、無から有を存在せしめることであって、それは特定の完成へと向かいます。対して「プロセス」は常に新しいものに開かれた場に自らを置きいれ続けることであり、途上でしかありえません。
私が特にふしぎを感じてきたのは「プロセス」という言葉の方です。なぜならスペースノットブランクの舞台が与えるのは、俳優の一挙手一投足どれもがこうでしかありえなかったろうという、無根拠な確信だからです。その確信は根の不在のゆえにいっそう強められます。「プロセス」を主張する他の芸術が持っている特徴を、その舞台は一見備えていません。もちろん例外も存在してはいますが、スペースノットブランクの舞台は偶然性や不確定性を積極的に導入してはおらず、自律的な感の強い表現へと高められています。にもかかわらず、その舞台は「プロセス」として自らを規定しているのです。

ところで建築と舞台とはひとつの問題を共有しています。いろんなひとがいろんなときを過ごす場をつくることである以上、それらは作家個人の望みをかなえる場ではありえないのです。しかも、ひとはいつもその場に遅れてやってきます。作家は彼らにその望みを聞き出すわけにはいきません。それに、いま目の前のひとや自分の望みでさえ、ときの流れのなかでうつりゆくにきまっているのです。
建築家の青木淳が『原っぱと遊園地』のなかで与えた答えは、既存の形式にもひとの望みにも根拠を置かないような空間の決定ルールを仮設し、それを徹底的に走らせてみて、もし歪みや困難が生じたらそれさえ包括する別のルールをふたたび発見する、そのような試行錯誤の方法でした。そうして作り手の意図をも超えて自走した空間は、いつのまにか元のねらいを満たしています。しかも、そのねらいに収束してしまうこともないのです。スペースノットブランクが取っているのもこの「シミュレーション」の方法です。
いろんなひとが集まります。それぞれのひとにそれぞれの身体が、記憶が、言葉が、表情が、くせが、抵抗があり、それらは「パラメーター」として場にたまっていきます。それに手を加えたり、組み合わせを試したりしてみると、誰も思いもつかなかったふしぎな世界が広がります。そのための「ルール」あるいは「アルゴリズム」を区別するための標識が、スペースノットブランクの与える名前です。
しかしこの「ルール」をわざとらしく観客に示す必要はどこにもありません。それが最終的に舞台にもたらす経験の質こそが重要だからです。それがスペースノットブランクのいわゆるむずかしさを生んでいます。
池田亮さんや松原俊太郎さんとの協働は、スペースノットブランクの物語への移行を示す以前に、ひとのテクストのうちに「ルール」を発見する方向への舵とりを意味しています。

さて、こうして自走しだした場の「シミュレーション」を演出家たちは驚きながら見つめています(批評家は、この眼にこそほんとうは焦点を当てなければなりません)。驚きのあとには退屈が来ます。だから新しい言葉と身体が追いかけてやってきます。演出家たちはまた驚くことになります。退屈しないようにする。完成の概念を持たない「シミュレーション」を遊ぶ時、それこそが遊び手に要請される最大の倫理です。
そうして、みんな時間いっぱいたくさん遊ぶことになります。しかし、本番までにはさすがに動きと言葉をある程度まとめておかなくてはなりません。舞台芸術はときを素材とします。絵画ならキャンバス、建築なら敷地という空間的なスケールをまず所与のものとして受け入れ、そのスケールをどのようなかたちに至らしめるか考えることが作家の仕事です。劇場という重たく融通のきかない空間の重要性は、稽古の開始から上演の期日までというときのスケールの限定を作家に強制する点にこそ存しています。
だから、そのかたちが定まってから本番が終わりきるまで、何度かの反復を退屈せずに見つめ続けられる、そんなふしぎなときがつくりだされなくてはなりません。そして、そんな未来はどういうことやらたいていたしかに訪れます。あとからやってきた観客はそれを完成や作品と錯覚して帰っていきます。
でも、それはあくまで「シミュレーション」のひとつの出力にすぎませんから、同じ名前の別の遊びがくりかえされるでしょう。そのとき、前に遊んだ公園や友達や遊具にわざわざこだわる必要は必ずしもありません。そうしているうちに遊びの「ルール」が変わってしまえば、名前も変わるかもしれません。
ところで、こうしてやってくる未来をフィクションと呼ばずして、なんとするのでしょう。現実とフィクションというのはいまやいつわりの対立で、あるのは未来への望みだけなのです。


ウエア|作品概要
ハワワ|作品概要

ウエア/ハワワ|荒木知佳と大須みづほ:出演者インタビュー


『ウエア』出演
荒木知佳 あらき・ちか
俳優。1995年7月18日生まれ。俳優として、FUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』、歌舞伎女子大学『新版歌祭文に関する考察』、毛皮族『Gardenでは目を閉じて』、theater apartment complex libido:『libido: 青い鳥(作:モーリス・メーテルリンク)』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『舞台らしき舞台されど舞台』『すべては原子で満満ちている』『ウエア(原作:池田亮)』『本人たち』『フィジカル・カタルシス』『光の中のアリス(作:松原俊太郎)』『バランス』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』などの舞台作品に参加する他、本日休演『天使の沈黙』MV、『春原さんのうた(監督:杉田協士)』などの映像、映画作品に参加している。2021年、KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD 2020にてベストダンサー賞受賞。同年、マルセイユ国際映画祭(FID)にて俳優賞受賞。

────クリエーションの中で印象に残っていること
みんなでケーキを食べたこと。稽古場の近くに美味しいケーキ屋さんがあって、そこのケーキを彩加さんと中澤さんが買ってきてくれて、みんなで食べました。美味しかった。三つも食べました。ピスタチオのケーキには金箔がのっていました。古賀くん、彩加さん、中澤さん、三年前から一緒にクリエーションをし続けているメンバーなので、稽古場に来ると帰ってきた気持ちになります。居心地のいい場所です。

────クリエーションの中でご自身が取り組んでいること
セリフと身体のあり方を探ること、自分の気持ちいい呼吸の仕方をみつけること、美味しいご飯を食べて、よく眠って、体力をつけること。あとは楽しむ。

────共演者について
古賀くん。パンケーキが好きらしい。毎日セブンのコーヒーを飲んでいるイメージ。ジャンプ力がすごい。髪の毛の色がコロコロ変わるのが面白い。ボードゲームマスター。

────『ウエア』とは
私、顎の手術をして、術後パンパンに腫れた自分の顔を見たとき、「あれ?え、誰?これ私!?」って思った時の感覚が忘れられなくて。自分の外と内が別々になるような感覚でした。『ウエア』はずっとその感覚があるなーと思います。

────上演について予想すること
演出の二人が、美術が増えるかもと言っていたので、前回の『ウエア』の無機質な地下のイメージとはまた違う印象になるのかなと思います。でも、ほんとうのことはまだわかりません。寒い時期なので、暖かい作品になるといいな。

────上演をより楽しむためのコツ
できるだけ近くで観るのが楽しいかもしれません。俳優の内側まで入り込むような気持ちで観てみてください。逆にとっても遠くから薄目で観るのもいいかもしれません。

────2020年3月の『ウエア』初演を経て、今回の上演に向けて
前回の『ウエア』に出ていたメンバーの存在も感じながら、また新たな『ウエア』を作っていけたらと思います。

────観客の皆様に向けたメッセージ
観客の皆様と一緒に『ウエア』『ハワワ』の世界をつくりあげていけたら嬉しいです。どんな作品になるのかは、始まるまでまだ分かりませんが、楽しんでいただけるようこれからのクリエーションも頑張っていきます! よろしくお願い致します。



『ハワワ』出演
大須みづほ おおす・みづほ
俳優。1992年2月7日生まれ。岐阜県出身。大学で遺伝子工学を学ぶ。俳優として、オフィス3○○『夜の影─優しい怪談─』、中野坂上デーモンズの憂鬱『三月の家族。』、東京にこにこちゃん『さよならbye-bye、バイプレイヤー』、スペースノットブランク『舞台らしきモニュメント』などの舞台作品に参加する他、鬼龍院翔『Love Days』MV、『私とわたし(監督:佃尚能)』、『恋愛依存症の女(監督:木村聡志)』、『1人のダンス(監督:安楽涼)』、『宮田バスターズ(株)(監督:坂田敦哉)』、『春原さんのうた(監督:杉田協士)』などの映像、映画作品に参加している。

────クリエーションの中で印象に残っていること
演出のお二人の雰囲気がだいぶ分かってきました。中澤陽さんが早口でよく喋って、小野彩加さんが、たまにドスンと発言します。私はたぶん短気なので、自分は〇〇してるつもりなのに、演出の方に〇〇してくださいと言われると、ムッとしてしまう時がありますが、それでもお構いなく色々言ってくれます。あはは。俳優独特のプライド? というか負けん気? に、無頓着なのかなぁと勝手に想像。わたしだって好きでこんなプライド持ってるわけじゃないですけどね! プン! もっと謙虚になりたいやぁ。うーん? いやぁ〜! うれしいんですとっても。出会ったことないタイプのお二人ですので。お二人の内面は、まだまだ分からなくて研究中、挑戦中です。なかなか一対一で話す機会もないのでみんなミステリアス。

────クリエーションの中でご自身が取り組んでいること
自分が納得できる可能な動きを常に探しています。なかなか見つかりません。でも、それ良い! と言われたら自分でもちょっとずつ納得できるような感じです。

────共演者について
みんな普通であり、でも少しだけスパイスが効いてる感じで素敵です。古賀友樹さん。白い若竹。なんか発光してる。時にステンレスの塔。一年に一度はお会いしたいですね。鈴鹿通儀さん。目の奥が、ずっと続いてそう。鈴鹿さんの目を通って別の世界へ行けそう。小動物のような繊細な心。奈良悠加さん。半分動物…? 目がお尻についてそう。なぜそんなにも純粋に動けるのだろう。夢の世界の住人なのか…。

────『ハワワ』とは
初めてタイトルを見た時の想像とはぜんぜん違う内容の原作でした。かっこよくハワワというつもりだったけど、それだけでは済まなそうだ…! 恥ずかしさも、辛さも、苦しさも必要そうだ…!

────上演について予想すること
奈良さんは、汗をかいている。古賀さんは、沢山話している。鈴鹿さんは、立ち尽くす。私は、座るまたは寝転ぶ。と予想します!! テキトーです。予想と逆になってもそれはそれで良い!!

────上演をより楽しむためのコツ
ご自身で面白さを探してみてほしい〜! です! 例えばわたしは、今までみたスペースノットブランクは、どれも内容とかは言葉にできない、というかほとんど分からない…のだけど、ある出演者の汗、とか。ある出演者の顔、とか。ある出演者のある動き。をみてるだけで楽しかったり興奮したりしました。あ、でもこれ自分で言っちゃうと自分をみたら面白いみたいな感じになっちゃいますが、そうじゃないです!笑 お気に入りの部分を見つけるのは楽しいですよね! って話しです。具体的にはなんかむずかしいなぁ〜。私自身ドキドキですよ。

────『舞台らしきモニュメント』への参加を経て、今回の上演に向けて
YouTubeに上がっている『舞台らしきモニュメント』の映像をみて、ほっと一安心。みんな最高でしたわ。そこにしかない匂いの透明な微風が吹いている空間生まれてましたね。大丈夫だ。舞台らしき舞台で舞台の謎を教えてもらった気がします。それにしても、いやぁ〜スペノと映像の相性が想像以上に良いですね! びっくり。また映像撮って欲しいです。わわわ。日景明夫さんの撮影すばらしいです。古賀さん奈良さん、今回もよろしくお願いします。鈴鹿さん、どうぞよろしくお願いします。

────観客の皆様に向けたメッセージ
こんにちは! 劇場に来て頂き本当にありがとうございます。面白い・つまらないって何だろー!! 見てくれたお客様に、「わかんなかったわ〜」「難解だったわ〜」って言われたとき、どう答え、どう受け取るのがナイスなのか未だによく分かりません。面白いって言われたら嬉しいから、面白さを目指したいんですけど、面白いって、内容を理解できてこそ! ってのと、ぜんぶ理解できなくても面白い! ってのとなんかありますよね。ストーリーが分からなくても面白いときの理解をなんて伝えていいのかわからない。逆にストーリーが分かりやすいときの面白さってどう説明したらいいのかな? 謎解きができた感覚? 納得感? 満足感? あ! ストーリーが分かりやすいと先を想像しながら進んでいって、その想像が裏切られて面白い展開なことになったら面白いのか! ストーリーが分からないと、先を想像すらできないから予想を裏切るとかがなくて、面白くないというか何だこれみたいなことになっちゃうことがあるのか! と今書きながら思った。じゃあやっぱストーリー分かんないとダメじゃん! えー、どうしよう。いや、ちがうんだー! 誰かスペノの面白さを伝えて…! なぜ私がスペースノットブランクに惹かれているのか教えて…!


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