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ウエア/ハワワ|池田亮:インタビュー


池田亮 いけだ・りょう
脚本家・演出家・美術家。1992年埼玉県出身。舞台・美術・映像を作る団体〈ゆうめい〉代表。PTA Inc.所属。遺伝や家族にまつわる実体験をベースとした舞台作品『姿』がTV Bros.ステージ・オブ・ザ・イヤー2019、テアトロ2019年舞台ベストワンに選出され、2021年芸劇eyes・東京芸術劇場にて再演。近年ではNHK Eテレ『天才てれびくん』ドラマパート脚本、TVアニメ『ウマ娘』脚本、バンド・ズーカラデル『ノエル』MV脚本、VTuber構成脚本とディレクションなどを手掛け、QJWebやpaperCにてコラムも執筆している。ノンジャンルでの活動を通して創作の多面性を解析しながら『ウエア』『ハワワ』の原作と美術を担う。

ゆうめい


植村朔也(以下、植村):『ハワワ』の原作、読ませていただきました。また凄い作品になっていますね。

池田亮(以下、池田):『ウエア』では一個の世界観というか、軸みたいなのができていたので、そこからまた他の世界に接続して作ろうと思ったらああいう形になりました。

植村:『ウエア』の続編を作るという話はいつごろから持ち上がったんですか?

池田:結構早い段階からだったと思います。もう『ウエア』を書いてる途中ぐらいから「これは続編をつくって三部作にしよう」って小野さんと中澤さんからお話をいただいて、早速タイトルを求められた時に浮かんだのが『ハワワ』って言うタイトルでしたね。

植村:その頃に構想されていた内容とは大きく変わった面もあるかとは思うのですが、作品の形が定まっていったのはいつ頃だったんでしょうか。

池田:『ウエア』を書き終えた辺りぐらいからだと思います。一昔前の職場のメーリングリストって、本人ではない人が書きこむことのできるような、LINEやSLACKとはまた違う匿名性があって、それが『ウエア』のテーマになっていたんですが、もう一段階上のひろがりというか、アナログな方へ行ってみようかなと思って。それで、データをファイルに入れて作品を作ることにしました。メーリスと違って第三者に発信できないというか、より閉じている感じがするのと、データはワードだったりエクセルだったり書き換えが可能だというのもあって、そういう状態のものを作品にできたらいいなと思って。

植村:『ハワワ』では池田さんという作者の姿が前面に出てきて、『ウエア』で色濃かった名前や匿名性というテーマの影が薄くなったのかなという印象を受けました。

池田:『ハワワ』には本当に色んな要素を詰め込みまして、生物学の話だったり、それから宗教的な話で言うと聖書やサグラダファミリアにまつわる33という数字を使ったりしています。33という数字は作中で染色体の数としても登場していて、『ウエア』は人間の話だったんですけど、『ハワワ』は生物の話になっています。
『ウエア』にもアメーバっていう存在が登場してくるんですけど、『ウエア』のVTuberに代わり『ハワワ』ではデータ間での生殖を想定しまして、そういうところからネットカジノの設定も出てきました。「アス」っていうオンラインゲームの中に架空の地球があって、その中に架空の生命がいてみたいな。それから『インターステラー』じゃないですけど、書いているうちに遺伝っていうものにアクセスしていったなと思います。
それからVTuberやアニメの仕事をすると、ユーザー間での相容れなさを感じることが多くて。仕事上名前は出せないのですが、たとえば性的に誇張された描かれ方を求める人がいるけど、かたや「え何? この気色悪いの」っていう人もいて。時としてメディアや街中など人の目につくコンテンツは分断を生むような存在であるっていう認識も当然広まっている気もして。依頼された仕事で対象とするユーザーを調べれば調べるほど病んでいく時期も個人的にあって。でも、分断してはいるけれども同じ生命でもあるっていうところも、『ハワワ』の軸になってるかなって思いますね。

植村:遺伝ということですと、ゆうめいでの新作『娘』のことが思い出されますね。『ハワワ』には池田さんの活動に対するメタ的な言及と思しき箇所もありました。セルフ・ドキュメンタリー的な作風については、過去に誰かが受けた暴力を舞台に載せ、しかもそれをエモーショナルな物語に昇華させてしまうという、言ってみれば二重の暴力性について批判を寄せられることもしばしばかと思います。そうした暴力性に対して、池田さんは俯瞰的というか、独特な距離をとっていらっしゃることが多いように思われます。しかし今回の『ハワワ』ではその方法自体がパロディ化されていて、距離をとって語る行為自体が異化されているようにも思えました。

池田:実話を基に創作するっていう暴力性は自分の根元にあるもので、そこにこう、警笛を鳴らすじゃないですけど、俯瞰しながら書いている節は結構ありますね。だからといって、フィクションなら許されるのか? っていう話にもなってきそうだなと思っているのが『ハワワ』にも現れていて。自分自身を否定しながら、なぜ否定するのかっていう理由も考えることがベースにあります。自分の作品のつくり方にはすごい問題があるぞとも勿論考えながらつくってるから、普段作ってる自分から、より分離してるんじゃないかなと思います。池田ってやつがこういう作品作ったんだけど、っていうことを、外側から見たらというのを想像して書いてもいます。

植村:なるほど。先ほど俯瞰という言葉を選んでしまったんですが、『ハワワ』ではその暴力性を加速させることによる、俯瞰の俯瞰みたいなことが起きている気もしていまして。

池田:書いていて加速も多分してました。物語じゃなくて自分で人と会ってリアルで体験すればいいんじゃないかみたいな攻めぎあいをやってるうちに、小野さんと中澤さんから「アドベンチャーをしよう」と言われたのもあって。『ハワワ』は『ウエア』に比べて自分の思想をあまり入れずに書いていて、一番フィクションを書いている気もするんですけど、でもどこかに内在してる自分がいるなとも思います。でも暴力性を強調する見方をされるだろうとは当然思っていまして。美菜っていう主人公の女性は完全に想像から作った存在でして、その父親も、道端で拾った官能小説に「お父様と呼べ!」みたいなやつがいて、それがモデルになっています。自分が小学生の時に、通学路に成年向け漫画が多分悪戯なのかぶち撒けられていて、集団下校する生徒が何人も見てしまって。何人か訳もわからず泣いてしまっている子がいるのが鮮明に記憶に残っていて。その時感じた恐怖を官能小説を拾った時に思い出したりして、これは分断の話にもどこか関係しているとも思って。

植村:2021年末にはゆうめいで『娘』という作品があり、また池田さんご自身に生まれてくる娘さんのことだったり、「娘」というテーマは池田さんの周りでいくつも形になっているかと思うんですね。たとえば『ハワワ』の作中に「電車にぎゅうぎゅうと押し込まれている人たちの足跡を音符に例えたら、それはとんでもない名曲が日々生まれているかもしれない。通過していく電車の線路が楽譜となり、駅を通り過ぎるたびにその曲は駅毎に新しく生まれていく」という文章があるわけですが、これはたしか別のインタビューで池田さんのお母さんの言葉として紹介されていたかと思います。

池田:2月に娘が生まれるっていうこともあって、それはもう本当偶然かぶっちゃったんですけど、それにあたり親って何だろう? ということで、『娘』は遺伝を受け継いでる自分のルーツを自分の両親だったり、妻の両親だったりと探った作品になっています。『娘』の方は過去三世代分ぐらいのお話なんですけど、それに比べると『ハワワ』はより未来の話をしてると思います。だから過去も書くのはゆうめいと似ているんですけど、『ウエア』と『ハワワ』はちょっと先のことを想定したり想像したりして書いています。

植村:2020年にインタビューさせて頂いた際は、ゆうめいでの次の新作は、一見フィクションに見えて全部本当のことを次は書くかもしれない、というようなことを仰っていたかと思います。これは突っ込みすぎた質問かもしれませんが笑、『娘』や『ハワワ』はその点どうなっていますでしょうか。

池田:『娘』はクリエーションの中でシーンを詰めれば詰めるほど実際の出来事へのアプローチが強くなっていったので、そういうクリエーションをやってるからこそ『ハワワ』のフィクション度が高くなったのかな。

植村:ゆうめいの『俺』のなかでも参照されていた『ストライクウィッチーズ』が『ハワワ』でも取り上げられているわけですが、さきほどもおっしゃられていたように、サブカルチャーが分断や暴力に結びつくものとして論じられるのが興味深く思います。『俺』でのサブカルチャーは、スクールカーストから逃げ込むアジールとしてあったと思うんですね。ほかに『ハワワ』で重要な位置を占めるネットカジノにせよドラッグにせよ、「いま・ここ」ではない場所へと離脱する手段であるという点では同じなわけですが、それが暴力の場でもあることの認識から出発していることが、『ハワワ』という作品の特徴であると理解しています。

池田:自分も友人の手伝いで売り子をしたことがあるのですが、コミックマーケットで成年向け作品を販売している方が存在しているということ、それに相容れない他者が絶対に存在している作品が生まれているということに興味がありまして。それらは単純に表現の規制という以上に、嫌悪感が迸るというか、生理的に受け付けなくなってしまう人もいて。「嫌なら見るな」とも言いますけど、その前に見たくなくても見せられてしまう現象を体験したりすると「嫌なのに見ちゃったんだけど」みたいな現象が多い気がしてます。

植村:そういえば、作中に出てくる『アースガールズ』ってアニメは『ケロロ軍曹』と『ストライクウィッチーズ』のキメラだと認識しているんですが、それらの放送年次と作中の2012年という数字がかみ合わないので、どこから来た数字なのかは気になりました。

池田:『ケロロ軍曹』は全く意識していないです笑。作品は2030年ごろのイメージで書いていたので、美菜の父親が『アースガールズ』の脚本を書いていたらこれくらいかなと思って決めました。あと2012っていうのは地球滅亡がうわさされていた年でもあって、ローランド・エメリッヒの映画にもなっていたと思います。その『2012』もたしか、主人公が作家だったような気がするんですよね。
予言なんて言うフィクションが何でこんなに残っているんだ、誰かが言ったでたらめになんでこんなに振り回されているんだとも疲れてる時に思っていたりしました。

植村:なるほど。地球の滅亡ということで言うと、『シン・エヴァンゲリオン』はどういう風にご覧になりましたか?

池田:「終わるんだ」ということにまずめちゃくちゃ感動してしまって。それから、最後シンジに色が無くなって線だけになる時にアニメーターの「お願いします!」って言葉が画面に出てきて、人がつくっているものを称えたいような気持になりました。作品を読み解こうという前に、まず監督っていう人がずっと生命として存在しているってことが感動しました。

植村:ありがとうございます。急に変な質問をしてしまってすいません笑、僕は最近何を観てもつい『エヴァ』に結びつけてしまいがちなんです。ただ、池田さんについては『シン・エヴァ』を散々パロディされてた『Uber Boyz』にも出演されていらっしゃいましたし、作風から言っても『シン・エヴァ』をどう受け止めているかは無視できないことかなと。

池田:自分では全然意識してないけど、側から見たら近いかもしれません。恐れ多いですが。『ストライクウィッチーズ』もネウロイっていう地球外生命体に置き換えられて、正体のつかめないまま人類と戦争になるということも物語としてはエヴァに近いかも。当時同居していた友人に勧められて見始めた時は素直に「これを見ていたら自分はダメになる」という感覚がして開始5分ぐらいで見るのを辞めたのですが、友人から設定やメッセージを聞けば聞くほど、作品に内包されている部分が気になっていきました。『ストライクウィッチーズ』のキャラクターは実在のパイロットから名前をもじって、パンツ一枚の美少女に転生させているんですが、視聴者は「ああこういうものなのね」って油断するんですけど、深く設定を掘っていくと『ストライクウィッチーズ』には人類の敵が出現することで人類間での戦争が無くなり各国が協力するようになるっていうメッセージがあるらしくて。パンツで闘って「あ、自分そんな深く考えてないです」みたいな風にユーザーを油断させたりするのは面白くて影響を受けてるかもって思います。

植村:ネットカジノというモチーフが鍵となっているのは、どうしてでしょうか。

池田:ネットの広告を押してしまったりするとネットカジノに飛んでしまうことがあるんですね。それで「あれなんだこれ」って思ってやり始めたのがきっかけです。リンクを踏んでその先行きつくところまで行くとどうなるんだろうというのは凄く気になってしまって。もちろん架空請求は怖いので慎重にではあるんですが、意外とちゃんとカジノをやっているんだなあというのも見えてきたりしました。
で、中国の方たちがいかがわしい写真を送り合ってアイテムをトレードするようなことが流行っていたのをチャットで知ったんです。でも、「じゃあ女装すればよくね」っていう書き込みをそこで見つけて、『ハワワ』では逆に女装している男性の方がアイテムを貰えるようにしよう!となってしまって。
架空の世界で架空のアイテムを手に入れるために現実世界のお金を使うというのは、現実と虚構の境目に存在したい人たちの行動だなと思って。ソシャゲも流行っていますけれど、金銭のトレードがあるのでネットカジノを選びました。
もともとは『ハワワ』を完全にギャンブルの話にしようと思っていたんですね。きりんちゃんっていう友達がいて、事故の起きる都道府県を想像して当てるかけ事をしていたらだんだん『ウエア』の世界に巻き込まれていく、というような話も考えてはいたんですけど、小野さんと中澤さんが『ウエア』よりももっとアドベンチャーにしようと提案してきたので、じゃあデスゲームだなと思って。

植村:なるほど、改めてスペースノットブランクとの相当の信頼関係があってこその舞台ですよね。

池田:めちゃくちゃ信頼はしてます。こっちも信頼されていると思う分、ちゃんと伝えなくちゃいけないというか、フィクションをつくることの希望を考えなければならないって思ったり。あと、本当に楽しんで見たことのないものを書こうってなった時に、小野さんと中澤さんになら相談ができるなと思って、動画を撮影したりとかスカイダイビングとかしてそれをもう全部ぶち込んでいったっていう感じですね。

植村:『ハワワ』原作最後のスカイダイビングの動画ですね。あれは、『ハワワ』のために飛び込まれたんですか?

池田:駅とか動物園の動画撮ってて、なんか物足りないなーと思って、その時に「スカイダイビング、かなあ」と。
『アースガールズ』じゃないけど、地球も一望できるし、地球があっての生き物というところにも関わってくるから、地球に飛び込んでいくというラストを半年前から思いつきまして。その時女性ボーカルで「心の旅」っていう曲が流れるんですけど、あれは実は美菜の足が線路を通過するときに流れていた曲なんですね。あとは、美菜がポリマで体験したのが心の旅だというのもあったり。きりんちゃんが父親と共に亡くなったのともリンクするかなと思います。夢から覚めるじゃないけど、また明日から日常が始まってしまう、みたいな。

植村:そういうことだったんですね笑 「心の旅」は実は僕のカラオケの十八番で、最後流れてきた時にテンションが上がったんですが、どうしてかかるのか不思議な箇所でもありました。
ドラッグのトリップにせよ、旅というのは日常へ帰ってくることを前提としているわけですが、『ウエア』『ハワワ』はそういう帰るべき不動の世界が存在していませんよね。
『ウエア』では、池田さんがメーリスのデータを全消去してしまって、小野さんと中澤さんに復元を頼まれる顛末があったかと思うんですが笑、そういうスクラップ&ビルド、一回的でカタストロフィックなテキストへの介入が『ウエア』の形式だったとして、『ハワワ』はデータという形で散漫な時間間隔のなかでの変更や消去を、送り先にあらかじめ委ねているのが特徴かなと思うんですが。

池田:データをひとつの生命と考えてつくりました。データが重いから、終わったら削除する人も多いかなと想像したり。『ハワワ』を殺す、途絶えさせるというか。ファイルのコピー&ペーストもアメーバというか、生物を思わせて。

植村:ステージナタリーで池田さんが今回の公演について書かれたコメントに、原作をたくさんの人に読んでほしいといった旨のことがあったかと思うんですが、僕は「本当かな?」と思ったんですね。というのも『ウエア』の原作はそれ単体で小説としても読めるので、たとえば書籍化なども見込めるものだったかと思うのですが、『ハワワ』はあのままの形ではたぶん、とても商品化はできないですよね。

池田:商品化は完全にできません笑。池田亮として出版するものではないだろうと思います。完全に池田亮じゃない人が書いている体で書きました。作者名を出して書くのができる人にはできるしできない人にはできない、でもできなくても書ける、というのが匿名で書いていた時のモチベーションでもあったので。でも自分は今実名で書いているんですが、その二つを合わせたときに、時には自分のことをまったく気にしていないような状態になるのもあって『ハワワ』はああいう形式になりました。

植村:『ハワワ』の一個目のファイルには「第三者への公開及び許可のないデータの受け渡しを硬く禁じます。直接渡された方のみに見てもらうことを心からお願い申し上げます。」とありました。

池田:書き始めたころから、身近な人に広げていこうとしました。作品として大勢に向けて書く場合のフィルターを取っ払うというのが、匿名で小説を書いて発表するという行為に近いのかもと自分が思っていたので。

猫:ニャー!

池田:なので、みんなに読んでもらいたいけど、読んでもらっても、なんだこいつってなるだろうなって。

植村:『ウエア』は原作が単体でも完成されていて、そのまま書籍として発信することもできると思うんですね。もちろん『ハワワ』の原作が完成していないというわけじゃないんですけれど、商品化というか、パブリックな公開を期待しない形式で書かれていることが『ウエア』からは一線を画していて、それが匿名性というキーワードの両作の扱いをも大きく左右しているように思います。
形式的にも内容的にもそうとう振り切って書かれているので、これを池田さんが実名で書くことを可能にしているのが、実は今回の「作」ではなく「原作」という立ち位置だったのではないでしょうか。だから、データが変更を受け付けているのとパラレルなものとして、原作をスペースノットブランクが上演可能なテキストに編集しなおす作業が重要性を帯びる。『ウエア』での上演形式を『ハワワ』の原作のそれが模倣していったとみることもできると思います。
たとえば松原俊太郎さんと地点だったら、地点は戯曲をコラージュして上演台本を起こすことで知られる劇団なので、作家もテキストが全部は読まれないことを前提に書いてきたわけです。でも、今回の『ハワワ』はそれとも違っています。松原さんのテキストは公開できるからです。
『ウエア』の場合は、戯曲として定義できないノンジャンルのテキストであるという以上には「原作」というクレジットの意義がまだ見えづらかったんです。『ハワワ』は、上演時間が無限に与えられても、おそらく上演はできないだろうと思うんですね。スペースノットブランクがあのテキストをどう引き受けて、パブリックに公開できるようなものとして「作品化」していくのかが問われる点で、舞台芸術の歴史のなかでもかなり独特の上演形式ではないでしょうか。

池田:戯曲を任されたら上演時間のなかに収めようと思って書くことにもなるし、原作だからこそ気にせず書けました。いろいろな仕事をしていると表現の縛りも当然あって、でもスペノの場合は団体の風に無理に合わせる必要はないなと思ったら、『ウエア』『ハワワ』が生まれました。作り終えた時、「自分だけにとっては傑作かもしれないけど、これを皆さんに見せるのは本当に申し訳ないし、恥ずかしいし、嫌われそうだ」みたいな気持ちでした。

植村:最後に、もしお客さんに一言あれば。

池田:意識と無意識がもし逆転したらどうなってしまうんだろうということを考えながら書いたので、自分の知らない部分も楽しんで帰ってくれたらなと思います。自分でも「こいつ何書いてんだ、こんなの人様に見せたら苦しむだけだぞ」って思うし、あれをキャストが声に出して読んでくれると思うと謝罪と感謝しかありませんが、皆さんと一緒に意識と無意識の心の旅をできれば幸いです。


ウエア|作品概要
ハワワ|作品概要

ウエア/ハワワ|小野彩加と中澤陽:メッセージ

ウエアが終わり、ハワワが始まります。

原作の池田亮さんが2018年5月から2020年1月にかけて創造した『ウエア』(2020年3月初演)と、2020年2月から2021年10月にかけて創造した『ハワワ』(2022年1月初演)。二つの作品の物語に明確なつながりはありませんが、どちらも池田さんが作るさまざまな何かのボツ、そこで生まれる鬱屈や嫌悪感が詰まっている点に於いて関連しています。それは池田さんが隠している裏側をただ曝け出してしまおうとしているのではなく、池田さんがそれこそ表側かもしれないと疑い訴える行為なのだと解釈しています。目に見える部分と、目に見えない部分。言葉にできる意味と、言葉にできない意味。

スペースノットブランクは信頼したいと考えています。しかしその信頼は想像させるという「センス」を強く求める行為でもあります。文化芸術には概ね想像が伴い、想像によって人生が豊かになっていくという側面もありますが、想像するという「センス」にそもそも興味がない人にとってそれは無意味になってしまうのでしょうか。「ポップコーンムービー」という言葉があります。ポップコーン片手に気楽に良い意味で特に何も考えずに適当に笑ったりよそ見したりしながら見ても楽しめる映画を指す言葉だと認識しています。悪い意味に聞こえてしまう方もいるかもしれませんが、想像せずに目の前の出来事をただ楽しむことも、時には大切な気がします。現に近年は文化芸術の中を思考するより、時空間を漂うだけなことが多いような気もします。そこに手を伸ばし、触れようとすることで、広がっている宇宙のようなスペースを発見してください。出演者たちは言葉と身体を転がし続け、音楽と照明が細かく大胆に存在し、美術により立ち上がる空間がこれまでのスペースノットブランクを超越してごちゃまぜになっています。こまばアゴラ劇場に集まり、上演時間が成立することに多大な感謝を。一つ潜ればどっとしたねばねばしたものを思い出す。ひょっとハイになるものもある。身を委ねてみてください。『ウエア』と『ハワワ』がポップコーンムービーだと言い切るわけではありません。想像しないと想像するのどちらもを選択可能にしてみました。原作でも「ボレロ」か「キャラヴァン」を選ぶことができるように、流れる「ボレロ」が「キャラヴァン」だと思ってもいいです。

漂う無意識と、集中する意識とは別にある余暇を、お楽しみください。

2022年1月15日(土)
小野彩加 中澤陽


ウエア|作品概要
ハワワ|作品概要

ウエア/ハワワ|奈良悠加:出演者インタビュー


『ハワワ』出演
奈良悠加 なら・ゆか
俳優。1996年6月20日生まれ。2015年9月から2019年3月まで〈早稲田大学演劇倶楽部〉に所属。2019年4月より〈青年団〉に所属。俳優として、ぬいぐるみハンター『愛はタンパク質で育ってる』、青年団・こまばアゴラ演劇学校 無隣館『革命日記』、青年団『ちっちゃい姫とハカルン博士』、スペースノットブランク『舞台らしきモニュメント』などの作品に参加している。

────クリエーションの中で印象に残っていること
池田さんが稽古場にいらっしゃった時です。
原作を読んでみて、嫌悪感を抱いてしまった部分を心から面白がって愛することが今回のなかなか高めのハードルかなと思っていました。でも池田さんのお話を聞いて、あ、これはこれで持っていて良くてその先のことなんだなと勝手に理解し、少し楽になりました。

────クリエーションの中でご自身が取り組んでいること
他の場所で戯曲と向き合うとなると静物画の解像度を上げていく作業をひたすらやっていくイメージなのですが、スペースノットブランクのクリエーションは印象派っぽい油絵を思うままに描いていってるような感覚があります。
頭に浮かんだ曖昧な、家で1人へらへら動いてたり適当にしゃべってたり、別に作品にはしてこなかったイメージを人前でやっちゃってたりしてます。あまり許される場所がない気がするので楽しいです。

────共演者について
大須さんの空気感にとても惹かれます。普段も舞台に出てる時もぶれない雰囲気がとっても魅力的です。古賀さんは本当に器用な方だなと思います。それもできるんですか! ってよく思います。鈴鹿さんの動きは観てるとわくわくします。あとみんなに沢山話しかけてくれます。嬉しいです。皆さん優しいです。各々自分のペースを守っているような感じがあります。もっと近づいたら面白いんじゃないか、逆に全然仲良くなれないんじゃないかな、とも思います。

────『ハワワ』とは
最初に文字を見た時はハワイっぽいって思いました。口にすると意外と言いにくい。拠り所がない感じ。ハワワ。あああ。

────上演について予想すること
全然予想できません。まだ予想出来なくてもいいんじゃないかとも思っています。でも無理矢理予想するなら舞台面の色は黒。きっとそう。

────上演をより楽しむためのコツ
私、観劇をしていて物語についていけなくなると知識も感受性も足りない自分が悪いんだと自己嫌悪に陥りがちなのですが、もし私と同じようなタイプの方がいらっしゃっるのだとしたら、どうか観えたままに気楽に観ていて頂けるとより楽しめるかなと思います。

────『舞台らしきモニュメント』への参加を経て、今回の上演に向けて
前回を経てわからないへ向き合うことが怖くなくなったなと思います。
本番をやってみて、ようやく小野さんと中澤さんと言ってたことを実感できたかも! みたいなこともあったので、より前向きに取り組めている気がします。いまのところ!

────観客の皆様に向けたメッセージ
観に来てくださってありがとうございます。本当に嬉しいです。頭をたくさん使って観て頂いても、頭を使わないで観て頂いてもかまいません。観えたままに観ていてください。2022年はお互い良い年になりますよ。きっと。


ウエア|作品概要
ハワワ|作品概要

ウエア/ハワワ|古賀友樹と鈴鹿通儀:出演者インタビュー


『ウエア』『ハワワ』出演
古賀友樹 こが・ゆうき
俳優。1993年9月30日生まれ。〈プリッシマ〉所属。俳優として、ゆうめい『みんな』『弟兄』『巛』、劇団献身『最悪な大人』『幕張の憶測』『死にたい夜の外伝』、シラカン『蜜をそ削ぐ』、劇団スポーツ『すごくうるさい山』『ルースター』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ネイティブ』『舞台らしき舞台されど舞台』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『すべては原子で満満ちている』『氷と冬』『本人たち』『フィジカル・カタルシス』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『光の中のアリス(作:松原俊太郎)』『救世主の劇場』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』『舞台らしきモニュメント』『クローズド・サークル』などの作品に参加している。

────クリエーションの中で印象に残っていること
印象に残っていることって、ある種のショックが伴うものだと思うんです。そういう意味では、今回まだ衝撃を受けておりません。大須さんと奈良さんは舞台らしきモニュメントで、鈴鹿さんはクローズド・サークルで、とても驚かせていただきました。あ、でも、これ勝手に共演者のことに絞って書いてたんですけど、共演者についてという項目が後にありますね。じゃあ、えっと、その分(その分ってなに?)、原作はドカンとなりました。うわああああって感じで、『ウエア』『ハワワ』原作二つ読むと(ハワワには映像も使われているのでプラス観る・聴くも含まれますね)、謎の喪失感がありました。カタルシスではなくて喪失感。歯の被せ物が取れちゃったみたいな。昔ブラックモンブランを食べてて、やたら固いチョコがあるなと思ったら自分の乳歯でした〜的なチクショー! 案件がありましたが、それかもです。

────クリエーションの中でご自身が取り組んでいること
実際は全くと言っていいほど何もないのですが、強いて言うなら、素直に物事に取り組むってことです、かね。

────共演者について
みなさん優しいです! おもしろいです! あと、それぞれがそれぞれでこだわりも強いと勝手に思ってます。期間が短いことに感けて、あまり共演者の方々に目を向けてないかもです、すみません。

────『ウエア』『ハワワ』とは
いいタイトルだと思います。覚えやすいし、想像を膨らませやすい。声に出して言いたい族の出身。

────上演について予想すること
冬だからまあ寒いと思うんですけど、舞台側は動きまくって暑い、客席側は動かないから寒い、じゃあどうする? というバトルが勃発すると思います。いや、上演について予想することっていうQ、ムズすぎません!? ぜんぜんわかりませんよ、お客さんが本当に来るかもわからなければ、僕が本当にその日に舞台に立ってるかほんっとうにわからないですからね? 意地悪すぎますこの質問。じゃああれか、はい、当日の演出でアゴラの天井飛んでってなくなりまーーーーす。YES YES YES!! 正解はこれか?

────上演をより楽しむためのコツ
いくら楽しみにしていてもお口に合わないことは多々ありますので、暗転(舞台全体が真っ暗になること)する回数を予め予想したり、役者さんが言った台詞で韻が踏めるワードを探したりとか、そういうのは各々でイケると強いですよね。

────『ウエア』と『ハワワ』、両作品に出演することについて
これはピンチではなくチャンスです。今のところピンチ続きですが、頑張ります。それしか言うことありません。あと、『ウエア』は新宿眼科画廊スペース地下での上演を観た人がもう一度観に来るかもしれないので、その記憶に負けないように頑張ります。とても良い、かっこいい作品だったので。『ハワワ』はみんなが初見状態なので、特にないですね。いつも通りでやるべきことをやります。橋渡しを〜的なコメントも考えられますが逆張り。ソフトよりもハードでしょ。

────観客の皆様に向けたメッセージ
新年あけましておめでとうございます。せっかくなので一所懸命頑張ろうと思います。新年にふさわしい、縁起の良い演技をお楽しみに。(これは不正解かもしれません)(でもいいんです)(こういうのは2021に置いていきますから)(#みたいな使い方しちゃってすみません)(#ハッシュタグ)



『ハワワ』出演
鈴鹿通儀 すずか・みちよし
俳優。1990年7月4日生まれ。〈中野成樹+フランケンズ〉への入退団を経て現在フリー。俳優として、中野成樹+フランケンズ『えんげきは今日もドラマをライブするvol.1』『カラカラ天気と五人の紳士(作:別役実)』『マザー・マザー・マザー(作:別役実)』『半七半八』、ままごと『あたらしい憲法のはなし』、劇団子供鉅人『幕末スープレックス』『マクベス』『夏の夜の夢』、ピンク・リバティ『人魚の足』『煙を抱く』、財団、江本純子『忘れていく、キャフェ』、松田正隆『シーサイドタウン』、スペースノットブランク『クローズド・サークル』などの作品に参加している。目下の趣味はバックギャモン。

────クリエーションの中で印象に残っていること
僕がこれまで加わってきた稽古の多くは飛行機の離陸の感が強かったのですが、スペースノットブランクの創作では、いま自分が本番に対してどの地点にいるのかわかりません。宇宙遊泳をしています。ありていに言えば常に本番状態です。この質問のワードでも”稽古(本番に対置されるもの)”ではなく”クリエーション”が使われているのが象徴的ですね。

────クリエーションの中でご自身が取り組んでいること
宇宙遊泳をするのは初めてなのですが、羽ばたくための助走はノーセンキューということだと理解しています。助走は用法をあやまると「いまこれは助走なので! トップスピードはもっと出るんです!」という言い訳の温床になりがちです。とにかく表現に対して意志を持って泳ぐ・浮かぶ・漂う。責任を取ろうとしています。

────共演者について
ポケモンにほのおタイプやくさタイプ・ゴーストタイプなどの属性があるように、俳優にもそれがあるとすれば四者四様、かなり違っているように思います。みずタイプとこおりタイプは複合したり覚える技の重なりがあったりするんですが、そのような近しさはあまりなく、かなり違っているように思います。

────『ハワワ』とは
宇宙のはなしです。

────上演について予想すること
銀河を漂う融通無碍・ニュー鈴鹿が誕生しているかもしれない。

────上演をより楽しむためのコツ
数回の観劇と前作への出演を経て確信しましたが、手に取れる形の筋書きを追ってもそんなものはないので、ウェルメイドな作劇←→観劇からここでは一緒に解脱しましょう。

────『クローズド・サークル』への参加を経て、今回の上演に向けて
小野氏と中澤氏からなるスペースノットブランクとの創作の日々、前回も今回もかなりスパイスが効いています。そうありたくないとは思いつつもどうしても固着する自身の演劇観がピンピン刺激されています。今回もがんばるぞの気持ち。

────観客の皆様に向けたメッセージ
最近盆栽がかなりホットなので、詳しい方がいらっしゃったらご連絡ください。


ウエア|作品概要
ハワワ|作品概要

ウエア/ハワワ|額田大志:インタビュー


額田大志 ぬかた・まさし
作曲家、演出家。1992年東京都出身。8人組バンド〈東京塩麹〉、演劇カンパニー〈ヌトミック〉主宰。「上演とは何か」という問いをベースに、音楽のバックグラウンドを用いた脚本と演出で、パフォーミングアーツの枠組みを拡張していく作品を発表している。舞台音楽の作曲家としてQ、パスカル・ランベール、岩渕貞太、コンプソンズなどに参加。最近は、目的のない集まりを開催することに精を出している。

額田大志|公式ウェブサイト
東京塩麹
ヌトミック


植村朔也(以下、植村):2年前にお話をお聞きした時は、ヌトミックが以前の形式を踏まえつつ色々実験をしている段階とのことでした。俳優が発話をする時に、音楽のように「ここでこう発話することになってるからこういう音を出すんだ」というのとは違う、演劇的な根拠がないとうまく演技ができなくなってきたとおっしゃられていたわけです。そうした問題意識はこの2年の中でどういう風に展開されたのでしょうか。
 
額田大志(以下、額田):最初は台詞を音として扱うことから演劇的なパフォーマンスに興味を持ち、それをずっと実践してきました。音楽の場合、音楽自身が持っているタイムライン、つまり楽曲のテンポが基本的にあり、それがあるから、ある音を連続して弾いたときに一つのメロディとして聴こえるようになります。それを演劇の上演でやってみるという試みです。前後の繋がりはない台詞を一定のテンポの上で発することで、意味は通じずとも音楽のように聴こえてしまうことで、意味を超えた体験になる面白さに惹かれました。
ただそれは、演劇ではなくて「結局音楽なのではないか?」という疑念も常にあり、ここ数年、改めて「演劇」って何だろうなと考えたときに、演劇の持つ「キャラクター性」に目を向けるようになりました。

植村:キャラクター性を意識されたのはいつごろからでしょうか?

額田:2019年の『エネミー』のときに何となく意識し始めたというか、むしろ俳優側からそういう話も出てきていて。今年の4月にはいわゆる役名のある作品である『波のような人』を愛知県芸術劇場で作ってみたりしつつ、10月の『ぼんやりブルース』では役名はないのですが、台詞を元に「キャラクター性」を考えていく作業を、稽古場ではしていました。

植村:『ぼんやりブルース』の戯曲では登場人物がナンバリングしかされてないので、『エネミー』や『波のような人』など最近のクリエーションに比べるとキャラクター性はむしろ希薄に見えました。

額田:『ぼんやりブルース』は、上演をするための方法として「キャラクター性」を使えないかを考えた作品なんですかね。「キャラクター性」といっても、登場人物の年齢や職業などのバックグラウンドを決めるのとは違って、一つひとつの行動とか言葉を発するための理由付けに近いんですかね。

植村:なるほど、ひとりの全体性を持つ人格ではなくてということですね。

額田:場合によっては人格的な部分から引っ張られることもあるけれど、それもあくまで一要素という感じですね。

植村:額田さんが初期に書かれていた戯曲は『それからの街』にせよ『何事もチューン』にせよ、一応戯曲の体裁をとりつつ音楽のスコアのようなフォーマットを取ってるじゃないですか。登場人物ごとにテキストがいくつかの軸に分割されて、それぞれのタイムスケールのなかに言葉が配置されていくので、日本語で書かれた楽譜としてもそれを見ることができたと思うんです。
対して『ぼんやりブルース』では普通の戯曲のフォーマットをとっていて、これはきわめて重要な変化だと思うんですが。

額田:楽譜的な戯曲って凄く書きづらいんですよね、単純に実作業として時間がかかるので、これは効率が悪いなと思っていました(笑)。
『ぼんやりブルース』の戯曲ですが、植村さんがご覧いただいたのって『悲劇喜劇』のやつですよね? あれは掲載用に大きく変えたもので、いまも基本はエクセルを使用して書いています。『ぼんやりブルース』は雑誌に掲載されるとなったとき、エクセルの状態で見せるとどうしても解説が必要なので、読者に伝わりにくいんじゃないかと思い、いわゆる一般的な縦書きの形式に直したんです。
悲しい話ではありますけど、上演を観たお客さんが「あ、これ変わったフォーマットで書かれてるな」とか思わないじゃないですか(笑)。だから、劇作に当たりどういうフォーマットを使用するかはあくまで作る側の問題だと思っています。ただ、逆に作る側には結構影響がありまして。
『ぼんやりブルース』は戯曲を書く上で3つのフォーマットを使っています。エクセルの横軸で書き進めていたのが最初の方のシーンです。その後「横軸は、やっぱり入力の効率が悪いな」と思ってエクセルの縦軸で書くことにしました。エクセルの縦軸は商業演劇でもたまに使われているようです。ソフトウェア上の話ですが、ちょっと書きやすくなるんですね。これで、ほとんどのシーンを書きました。そして三つ目は、『悲劇喜劇』に掲載するためにワードに流しこんで、一般的な縦書きに直すという過程です。この段階に並行して最終的な手直しをしました。面白かったのは、使用するフォーマットに応じて書く内容が、なんとなく変わるんです。たとえばエクセルの横軸は、音楽のスコアと視覚的にほぼ同じなので、本当に作曲するように戯曲をかけます。一方、エクセルの縦軸だとコピペがしやすいので、自然と繰り返しが増えたり(笑)。で、当然ワードだったら普通の台詞が一番書きやすいですよね、当たり前なんですけど(笑)。

植村:テキストが楽譜としても戯曲としても受け取りうるということを受け手の側から考えてみると、基本的に楽譜の場合は書かれた記号に対してどんな音を出力すればいいのかは通常の音楽だとある程度一意に定まるじゃないですか。だから、台詞がどんな音で発されるかがわからないという不確定性がテキストを特徴づけることになります。
それに対して、テキストを戯曲として読む時にはタイムスケールが厳密に決定され過ぎていることが特異性となります。戯曲でもスコアでもないものとしてテキストを読むことは不自然なわけですが、そのどちらとして読むかでテキストの性格が分裂するわけです。
そのうちの楽譜として読むことの面白みが強く現れたのが今回の『ぼんやりブルース』じゃないかと僕は考えていまして。
その不確定性を導くのは俳優の身体で、音楽の場合とは違って「ここ、こういう音出して」と言ってもすぐにはばっと出してもらえないっていう、その抵抗の部分が恐らく興味深いポイントになってくると思うんですね。『ぼんやりブルース』のあのバラエティ豊かな六人の身体が、無理にそれを統合しようとせずに自然と置かれているのは、戯曲を読んだ時点だと全然イメージできない光景でした。
従来のヌトミックのテキストは、「何か言いたいし、実際言いたいことがあるかもしれないんだけれども全然言えない」という事態が状況として示されていて、というか、ほとんどそれしか言わないものでした。それは『ぼんやりブルース』についてもある程度共通するところです。
で、そうしたヌトミックのテキストに紐づけながら、何もリプレゼンテーションできない私、というか、私未満の私の現れとして、チェルフィッチュに連なる超口語演劇の系譜のなかで演技を説明されることがヌトミックは多かったと思うんです。けれども僕の理解では反対に、俳優の身体がそのテキストの意味内容さえ裏切ってしまうところにヌトミックの面白さがあったと思うんですね。
例えば『何事もチューン』では、発する声のタイミングや強弱、音程を手で調節することをその演技の基底とするラッパー的身体が演じられます。そこには「うまく話すことができない」というためらいとかもやもやとかがまるで感じられないわけです。テキストでは「何もうまく言えない」って言ってるのに、それを表象してるように見えない強靭なフィジカルが目の前にある。音楽に身体がノっちゃえば発話のペースが饒舌になるので、「何もうまく言えない」ということ自体はとても雄弁に語ることができる、そういう発明だったと思うんです。
ヌトミックの場合、「何も語れない」と語る身体の雄弁にドラマが生じていた。そして、語る行為と語られることに分裂がある以上、観客もまたその分裂に巻き込まれざるを得ず、パフォーマティブにそこからまた別の意味を生産していくことになる。
そういう形式が成立していたのがかつてのヌトミックだと思うんですけど、テキストの意味内容を置き去りにして身体が饒舌に自走できたのは発話を音楽性に振り切っていたためであるはずなんです。だから、発話の根拠を演劇的な次元に求める2019年以降ではテキストの内容も変わってくるはずですよね。だから、単に発話が演劇的だからテキストも演劇的にということではなく、ある種発話を減速させるための装置として登場人物やストーリー性が求められるようになったという見方もできると思います。
ただ、さらに感覚的な話になるのですが、『ぼんやりブルース』では「あ、この人、何も言えないとばかり言っているけれど、もう少しで何か言い出しそうだな」っていうぎりぎりのところまで来てる気がしたんですね。話が長くなりましたが、音楽性に振り切ることで強靭な饒舌さを手にした身体を一度手放して、むしろ言葉を発するときに身体に生じてくる自然な抵抗というか、不確定性それ自体を乗りこなそうとしていくことが主題化されたのが今回の舞台ではなかったかと。

額田:以前に試みていた「何も言えない状態」っていうのは、「もうそれ以上ない」っていうことなのかなと思っています。例に挙げていただいた『何事もチューン』がそうですが、「言えなさ」を言い切った時点でもうその「言えなさ」しか残らなくて、そこから先がない感覚がありました。いかにそのゼロを「最高のゼロにするか?」みたいな作業はあるかもしれないですけど。これからも創作活動を続けていく中で、あと6、70年何しようみたいになっちゃって、「言えない」だけじゃなくて「言う」と「言わない」の間を「言いたい、言おうかな」と行き来する方向を試しています。

植村:すぐに「言うぞ」という方に踏み切ってしまおうというわけでは、ないわけですよね。『ぼんやりブルース』は政治的な作品でもあったので、もしかしたらここからものすごくはっきりしたことを言い出すかもしれないし、次にどんなテキストの舞台になるだろうというのが観劇後にとても気になったんですね。もちろんその「言いたい」というのはパフォーマティブなもので、「言う」ことに対する未満的なものとして考える必要はないわけですが。

額田:そうですね。どこかでこう、「言い切ってしまう」と面白くなくなってしまうんじゃないかっていう疑念があります。同じ言語表現の中でも、例えば演説、あるいは論文などは一つの結論を通じて物事を伝えた方がよいと思いますが、自分の表現形態はそれだと作る理由を失ってしまう気がするんですよね。
それは、直接的に言ったことによって伝わらない人が増える、という感覚が割とあって。ときには曖昧な表現で伝えることの方が大事なのかなと思うんです。例えば選挙に行って欲しいとどれだけ言っても、みんなが行く訳ではなくて。でも「行かなくていい」とか、「行かなきゃダメ!」とかではない、その間の話をすることで、もうちょっと共通の話題ができるというか、広がりが出る気がします。それに近いことで、見る前に「自分とは関係ない作品だな」と思われたくないというのもあって。
身体については、植村さんのおっしゃったように、多様な身体があるという演出プランを最終的にとりました。理由の一つとして画一的な身体だけだと、この作品は矮小化するんじゃないかと思いました。『ぼんやりブルース』は、東日本大震災をモチーフにしていたので、身体が一つに固定されるとそこに存在した人の姿が見えなくなるというか。強い身体がある状況よりも、ばらばらな身体が並ぶ方が、戯曲としても意味のある内容だったとも思っています。稽古の最初は出演者のみんなが統一的な身体を目指していたんですが、徐々に自由度が高い状態に身を置いてみました。

植村:今日の東京の小劇場演劇の特徴の一つに、クリエーションにおける人間関係のあり方それ自体の主題化があると思うんですね。それは『ぼんやりブルース』や、『何事もチューン』を俳優主導で再演した先日の公演にも見られる意識かなと思うのですが、それぞれの俳優の身体をばらばらに呈示することと、そうした意識はつながってくるのでしょうか。

額田:うーん、あんまり意識はしていないですね……。みんなが能動的になれる現場にしたいとは思いますが、かといって俳優だから主体的に作品を作らなきゃいけないとかは全く思わないですし。前提として俳優もアーティストで、アーティストにも職業作家的に黙々とこなす人もいれば、自ら率先してプロジェクトを企画するような人もいたりと色々なので、その辺は単純に人によると思います。2021年12月に開催した「ヌトミックのひろば」は俳優が始めたんですが、僕から「やろうよ!」とかも特に言わずに自然発生的に立ち上がっていて、なんというか、うちのカンパニーはそういう感じですね。
『ぼんやりブルース』のクリエーションで面白かったのは、鈴木健太くんや朝倉千恵子さんが二人とも個人でアーティスト活動をしているので、稽古場でも普通に「何が面白いんですか?」みたいにキャッチボールできたのは新鮮でした。
頭で考えて分かることをやらないために、抽象的な表現をやってると個人的に思っています。ただ、理由みたいなことを考えたり言語化するっていうプロセスが特に『ぼんやりブルース』は多かったんです。集まったメンバーがほぼ全員が内容にも深くコミットしてくれるタイプで、それによって作品が良くなった部分も凄くあります。

植村:『ぼんやりブルース』は新型コロナウイルスや東日本大震災を題材にした作品ですが、そうしたテーマはあくまで抽象的に扱われていて、明示はされていませんでした。ですが、あのテキストは取材をもとにつくられたそうですよね。

額田:二つの出来事に共通して存在する、ぼんやりとした気持ち、もやっとした情動を、そのまま舞台上にあげることを目指していました。偶然2018年ぐらいから別の作品のために東日本大震災についての取材をしていたんですが、そのときに行なったインタビューの内容が新型コロナウイルスの東京の様子と繋がることがあって。語り方とか、それぞれが日常生活の中で抱えている不安とか、出来事は違うけれど、不安の質に近いものがあるというか。

植村:社会的な事象にフォーカスして、取材をしてテキストをつくる場合に、普通は他者を代弁するという構造になる訳ですよね。そのとき俳優には代理表象をするだけの、主体としての強さが前提されます。けれども『ぼんやりブルース』の人びとは言うことへのためらいに定位するので、他者の声を代弁するというよりは、他者が語るときの語れなさにこそ身を置いていく、それが特異だなという風に拝見しました。

額田:東日本大震災については東京も被災地であると規定されているんですよね。新型コロナウイルスはもちろん自分の話だし。だから、誰かの声を引き受けてやるっていうよりかは、自分の話として言うことになります。遠くの人を表象するっていう考えは、稽古場の初期段階で方向性として違うなと思いました。

植村:なるほど。ありがとうございます。ここからは、今回のスペースノットブランクの上演についてお話をお聞きしたく思います。『ウエア』は2020年の3月に新宿眼科画廊で上演されたものの再演ですが、その初演の印象はいかがでしたか?

額田:池田さんの書いた脚本を忠実に舞台で見せている感じが面白くて。『ウエア』の台本って池田さんが「ゆうめい」でやっている作品とは質が違うものだと思うんですけど、それがスペースノットブランクによってクリエーションの過程で再構成されても、最終的には池田さんの作品のままなのが面白かったです。あれが池田さんのやりたかったことなのかな? とか考えながら見ていました。

植村:『ウエア』を再演するにあたって音楽は新たにされるのでしょうか?

額田:何か新しい要素は入れたいなあと思っていますね。話が急に大きくなっちゃうんですけど、音楽ってまだまだ技術の進歩によってかなり変わっていく表現だと思っていて。たとえば演劇はジャンルやスタイルの変化のスピードが十年単位くらいで動いていくと思うんですけど、音楽は録音技術が誕生してからまだ日が浅いということもあり、数年単位でトレンドが変わっていきます。だから2年前の初演の音楽は少し古く感じたりもしていて、できるだけ手直ししたいなと考えています。
『ウエア』の初演は、最後までついていくのに必死でした。スペースノットブランクの舞台は演出の小野さんと中澤さんの2人には強い軸があるけれど、それが言語化され過ぎない印象があるんですね。それは個人的にいいと思っていて、分からないものをやるんだから別に言葉にしなくていいと思ってるんですけど、一方で関わる身としては初めてなのもあってかなり手探りでやる必要がありました。舞台音楽は演出家がやりたいイメージをできるだけそのまま音として変換してお客さんに伝えていくのが大事だと個人的には思うんですが、2人が何を大事にしてるのかを見つけるのは意外と時間がかかりました。

植村:演出家の持っているイメージをどのように掴まれたのか、もう少しお聞きしてみたいです。

額田:結構、実直だなと思いました。フィルターをあまりかまさないっていうか。ものをつくる時にどこまで王道ではない「裏」を行くかってみんなすごい考えると思うんですけど、スペースノットブランクの求めている音楽は案外直球なんじゃないかという感覚があって。「音楽を音楽そのものとして認識させる」ストレートさなんですかね。例えば、悲しい曲が流れているってことはきっとこの人は悲しいんだろうなみたいな、そういう想像力のフィルターみたいのがお客さんには挟まるじゃないですか。そうではなくて「音楽」と「お客さん」がフィルターを経由せずにダイレクトに結びつくような感覚があったんですよね。
演劇って、お客さんは音楽を聞きに来てるっていう感覚ではたぶんいないと思うんですよ。それは舞台を見てる中での音楽であって、あくまでシーンのためとか、何かを説明するために音楽が使われたりするケースが比較的多くて。
実際、ほとんどの舞台音楽は稽古を見ながらシーンに必要そうなものを作るわけですけど、『ウエア』ではとりあえずどうなるかも分からないまま作ったものが、そのまま舞台に乗せられてる。上演の中の音楽が、目の前の状況を異化するのでも、説明するのでもない、単純に「音楽を聞く時間」のようにも感じられたんですね。それこそ意味的な部分ではなくて、めちゃくちゃ感覚的に使われてるってことなんですかね。

植村:最初におっしゃられたスペースノットブランクのストレートさというのは、音楽それ自体に対して実直ということですか?

額田:音楽それ自体を、音楽のままお客さんに届けようとする感覚があったということかもしれません。

植村:なるほど。スペースノットブランクの音楽の使い方には額田さんのおっしゃる通り独特な質感があると感じていまして。たとえば今年上演された『ささやかなさ』では、その時に掛かっている曲が終わるまで話すのをやめ、次の曲がかかり始めたらまた喋り出すと言う風に、出演者の演技のテンションやストーリーの内容ではなく舞台音楽ありきで演技のきっかけをつくる方法が取られていました。舞台を駆動していく要素がストーリーや出演者の身体など色々ある中で、普通それらに従属して現れるところの音楽が、むしろそれらに肩を並べるような扱いを受けているなと。
それでは、『ハワワ』の原作を読んでの印象はいかがでしたか?

額田:本気で池田さん凄いと思いました。もちろん内容が面白いのは大前提として、『ウエア』と『ハワワ』を続けて読んでると、池田さんの作家としての底の知れなさを感じますね……。なんとか皆さんにも読んで欲しいですが……。

植村:スペースノットブランクの中澤さんは2018年にヌトミックに『ワナビーエンド』で出演し、額田さんは音楽でスペースノットブランクのクリエーションの現場に足を運ぶことがあったわけですけれど、おたがいの影響関係などを感じられる面はありますか?

額田:影響を何か与えたと思うことはないですね。一方で、思い切りのよさには影響を受けたなと思います。スペースノットブランクの二人は「この演出が、どこまで人に伝わるのか」と考えるときのバランス感覚が僕とは全然違くて、お客さんに伝わることを彼らも考えてはいるんですけど、出会った当初の感覚では「いや、それは流石にわかんないよな」というようなことが沢山ありました。ただ、それをつき通し続けていくことで、お客さんがついてくるというか、「いずれ伝わるようになる」という過程も大事だと思ったりしました。一回見ただけでは分かんなくても二回見たら分かる、みたいなこともあるから、自分のやりたいことをそれこそ実直に舞台に上げる強さに影響を受けましたね。


ウエア|作品概要
ハワワ|作品概要

ウエア/ハワワ|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの「保存記録」を務める。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。


『ウエア』『ハワワ』というふたつの舞台はうまれてくるものへの倫理を主題のひとつとしています。でも、その物語については池田亮さんがたくさん語ってくださっているので、ここでさらに言葉を与える必要はないでしょう。
うまれてくるものには名前が与えられます。名前は、異なるときの異なる舞台が変わらないひとつの存在であるかのような錯覚というか幻影を、ときにもたらします。ひとはそれを作品と呼びます。名前はそういう魔術性というか、おそろしさをそなえています。
スペースノットブランクは全く異なって見えるいくつかの舞台に同じ名前をつけてしまうことがあります。それを再演という慣習とはまた離れたところで考えなおしてみます。

スペースノットブランクはしばしば「クリエーション」と「プロセス」というたがいに矛盾する言葉で自分たちの舞台を説明してきました。クリエーションとは創造であり、無から有を存在せしめることであって、それは特定の完成へと向かいます。対して「プロセス」は常に新しいものに開かれた場に自らを置きいれ続けることであり、途上でしかありえません。
私が特にふしぎを感じてきたのは「プロセス」という言葉の方です。なぜならスペースノットブランクの舞台が与えるのは、俳優の一挙手一投足どれもがこうでしかありえなかったろうという、無根拠な確信だからです。その確信は根の不在のゆえにいっそう強められます。「プロセス」を主張する他の芸術が持っている特徴を、その舞台は一見備えていません。もちろん例外も存在してはいますが、スペースノットブランクの舞台は偶然性や不確定性を積極的に導入してはおらず、自律的な感の強い表現へと高められています。にもかかわらず、その舞台は「プロセス」として自らを規定しているのです。

ところで建築と舞台とはひとつの問題を共有しています。いろんなひとがいろんなときを過ごす場をつくることである以上、それらは作家個人の望みをかなえる場ではありえないのです。しかも、ひとはいつもその場に遅れてやってきます。作家は彼らにその望みを聞き出すわけにはいきません。それに、いま目の前のひとや自分の望みでさえ、ときの流れのなかでうつりゆくにきまっているのです。
建築家の青木淳が『原っぱと遊園地』のなかで与えた答えは、既存の形式にもひとの望みにも根拠を置かないような空間の決定ルールを仮設し、それを徹底的に走らせてみて、もし歪みや困難が生じたらそれさえ包括する別のルールをふたたび発見する、そのような試行錯誤の方法でした。そうして作り手の意図をも超えて自走した空間は、いつのまにか元のねらいを満たしています。しかも、そのねらいに収束してしまうこともないのです。スペースノットブランクが取っているのもこの「シミュレーション」の方法です。
いろんなひとが集まります。それぞれのひとにそれぞれの身体が、記憶が、言葉が、表情が、くせが、抵抗があり、それらは「パラメーター」として場にたまっていきます。それに手を加えたり、組み合わせを試したりしてみると、誰も思いもつかなかったふしぎな世界が広がります。そのための「ルール」あるいは「アルゴリズム」を区別するための標識が、スペースノットブランクの与える名前です。
しかしこの「ルール」をわざとらしく観客に示す必要はどこにもありません。それが最終的に舞台にもたらす経験の質こそが重要だからです。それがスペースノットブランクのいわゆるむずかしさを生んでいます。
池田亮さんや松原俊太郎さんとの協働は、スペースノットブランクの物語への移行を示す以前に、ひとのテクストのうちに「ルール」を発見する方向への舵とりを意味しています。

さて、こうして自走しだした場の「シミュレーション」を演出家たちは驚きながら見つめています(批評家は、この眼にこそほんとうは焦点を当てなければなりません)。驚きのあとには退屈が来ます。だから新しい言葉と身体が追いかけてやってきます。演出家たちはまた驚くことになります。退屈しないようにする。完成の概念を持たない「シミュレーション」を遊ぶ時、それこそが遊び手に要請される最大の倫理です。
そうして、みんな時間いっぱいたくさん遊ぶことになります。しかし、本番までにはさすがに動きと言葉をある程度まとめておかなくてはなりません。舞台芸術はときを素材とします。絵画ならキャンバス、建築なら敷地という空間的なスケールをまず所与のものとして受け入れ、そのスケールをどのようなかたちに至らしめるか考えることが作家の仕事です。劇場という重たく融通のきかない空間の重要性は、稽古の開始から上演の期日までというときのスケールの限定を作家に強制する点にこそ存しています。
だから、そのかたちが定まってから本番が終わりきるまで、何度かの反復を退屈せずに見つめ続けられる、そんなふしぎなときがつくりだされなくてはなりません。そして、そんな未来はどういうことやらたいていたしかに訪れます。あとからやってきた観客はそれを完成や作品と錯覚して帰っていきます。
でも、それはあくまで「シミュレーション」のひとつの出力にすぎませんから、同じ名前の別の遊びがくりかえされるでしょう。そのとき、前に遊んだ公園や友達や遊具にわざわざこだわる必要は必ずしもありません。そうしているうちに遊びの「ルール」が変わってしまえば、名前も変わるかもしれません。
ところで、こうしてやってくる未来をフィクションと呼ばずして、なんとするのでしょう。現実とフィクションというのはいまやいつわりの対立で、あるのは未来への望みだけなのです。


ウエア|作品概要
ハワワ|作品概要

ウエア/ハワワ|荒木知佳と大須みづほ:出演者インタビュー


『ウエア』出演
荒木知佳 あらき・ちか
俳優。1995年7月18日生まれ。俳優として、FUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』、歌舞伎女子大学『新版歌祭文に関する考察』、毛皮族『Gardenでは目を閉じて』、theater apartment complex libido:『libido: 青い鳥(作:モーリス・メーテルリンク)』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『舞台らしき舞台されど舞台』『すべては原子で満満ちている』『ウエア(原作:池田亮)』『本人たち』『フィジカル・カタルシス』『光の中のアリス(作:松原俊太郎)』『バランス』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』などの舞台作品に参加する他、本日休演『天使の沈黙』MV、『春原さんのうた(監督:杉田協士)』などの映像、映画作品に参加している。2021年、KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD 2020にてベストダンサー賞受賞。同年、マルセイユ国際映画祭(FID)にて俳優賞受賞。

────クリエーションの中で印象に残っていること
みんなでケーキを食べたこと。稽古場の近くに美味しいケーキ屋さんがあって、そこのケーキを彩加さんと中澤さんが買ってきてくれて、みんなで食べました。美味しかった。三つも食べました。ピスタチオのケーキには金箔がのっていました。古賀くん、彩加さん、中澤さん、三年前から一緒にクリエーションをし続けているメンバーなので、稽古場に来ると帰ってきた気持ちになります。居心地のいい場所です。

────クリエーションの中でご自身が取り組んでいること
セリフと身体のあり方を探ること、自分の気持ちいい呼吸の仕方をみつけること、美味しいご飯を食べて、よく眠って、体力をつけること。あとは楽しむ。

────共演者について
古賀くん。パンケーキが好きらしい。毎日セブンのコーヒーを飲んでいるイメージ。ジャンプ力がすごい。髪の毛の色がコロコロ変わるのが面白い。ボードゲームマスター。

────『ウエア』とは
私、顎の手術をして、術後パンパンに腫れた自分の顔を見たとき、「あれ?え、誰?これ私!?」って思った時の感覚が忘れられなくて。自分の外と内が別々になるような感覚でした。『ウエア』はずっとその感覚があるなーと思います。

────上演について予想すること
演出の二人が、美術が増えるかもと言っていたので、前回の『ウエア』の無機質な地下のイメージとはまた違う印象になるのかなと思います。でも、ほんとうのことはまだわかりません。寒い時期なので、暖かい作品になるといいな。

────上演をより楽しむためのコツ
できるだけ近くで観るのが楽しいかもしれません。俳優の内側まで入り込むような気持ちで観てみてください。逆にとっても遠くから薄目で観るのもいいかもしれません。

────2020年3月の『ウエア』初演を経て、今回の上演に向けて
前回の『ウエア』に出ていたメンバーの存在も感じながら、また新たな『ウエア』を作っていけたらと思います。

────観客の皆様に向けたメッセージ
観客の皆様と一緒に『ウエア』『ハワワ』の世界をつくりあげていけたら嬉しいです。どんな作品になるのかは、始まるまでまだ分かりませんが、楽しんでいただけるようこれからのクリエーションも頑張っていきます! よろしくお願い致します。



『ハワワ』出演
大須みづほ おおす・みづほ
俳優。1992年2月7日生まれ。岐阜県出身。大学で遺伝子工学を学ぶ。俳優として、オフィス3○○『夜の影─優しい怪談─』、中野坂上デーモンズの憂鬱『三月の家族。』、東京にこにこちゃん『さよならbye-bye、バイプレイヤー』、スペースノットブランク『舞台らしきモニュメント』などの舞台作品に参加する他、鬼龍院翔『Love Days』MV、『私とわたし(監督:佃尚能)』、『恋愛依存症の女(監督:木村聡志)』、『1人のダンス(監督:安楽涼)』、『宮田バスターズ(株)(監督:坂田敦哉)』、『春原さんのうた(監督:杉田協士)』などの映像、映画作品に参加している。

────クリエーションの中で印象に残っていること
演出のお二人の雰囲気がだいぶ分かってきました。中澤陽さんが早口でよく喋って、小野彩加さんが、たまにドスンと発言します。私はたぶん短気なので、自分は〇〇してるつもりなのに、演出の方に〇〇してくださいと言われると、ムッとしてしまう時がありますが、それでもお構いなく色々言ってくれます。あはは。俳優独特のプライド? というか負けん気? に、無頓着なのかなぁと勝手に想像。わたしだって好きでこんなプライド持ってるわけじゃないですけどね! プン! もっと謙虚になりたいやぁ。うーん? いやぁ〜! うれしいんですとっても。出会ったことないタイプのお二人ですので。お二人の内面は、まだまだ分からなくて研究中、挑戦中です。なかなか一対一で話す機会もないのでみんなミステリアス。

────クリエーションの中でご自身が取り組んでいること
自分が納得できる可能な動きを常に探しています。なかなか見つかりません。でも、それ良い! と言われたら自分でもちょっとずつ納得できるような感じです。

────共演者について
みんな普通であり、でも少しだけスパイスが効いてる感じで素敵です。古賀友樹さん。白い若竹。なんか発光してる。時にステンレスの塔。一年に一度はお会いしたいですね。鈴鹿通儀さん。目の奥が、ずっと続いてそう。鈴鹿さんの目を通って別の世界へ行けそう。小動物のような繊細な心。奈良悠加さん。半分動物…? 目がお尻についてそう。なぜそんなにも純粋に動けるのだろう。夢の世界の住人なのか…。

────『ハワワ』とは
初めてタイトルを見た時の想像とはぜんぜん違う内容の原作でした。かっこよくハワワというつもりだったけど、それだけでは済まなそうだ…! 恥ずかしさも、辛さも、苦しさも必要そうだ…!

────上演について予想すること
奈良さんは、汗をかいている。古賀さんは、沢山話している。鈴鹿さんは、立ち尽くす。私は、座るまたは寝転ぶ。と予想します!! テキトーです。予想と逆になってもそれはそれで良い!!

────上演をより楽しむためのコツ
ご自身で面白さを探してみてほしい〜! です! 例えばわたしは、今までみたスペースノットブランクは、どれも内容とかは言葉にできない、というかほとんど分からない…のだけど、ある出演者の汗、とか。ある出演者の顔、とか。ある出演者のある動き。をみてるだけで楽しかったり興奮したりしました。あ、でもこれ自分で言っちゃうと自分をみたら面白いみたいな感じになっちゃいますが、そうじゃないです!笑 お気に入りの部分を見つけるのは楽しいですよね! って話しです。具体的にはなんかむずかしいなぁ〜。私自身ドキドキですよ。

────『舞台らしきモニュメント』への参加を経て、今回の上演に向けて
YouTubeに上がっている『舞台らしきモニュメント』の映像をみて、ほっと一安心。みんな最高でしたわ。そこにしかない匂いの透明な微風が吹いている空間生まれてましたね。大丈夫だ。舞台らしき舞台で舞台の謎を教えてもらった気がします。それにしても、いやぁ〜スペノと映像の相性が想像以上に良いですね! びっくり。また映像撮って欲しいです。わわわ。日景明夫さんの撮影すばらしいです。古賀さん奈良さん、今回もよろしくお願いします。鈴鹿さん、どうぞよろしくお願いします。

────観客の皆様に向けたメッセージ
こんにちは! 劇場に来て頂き本当にありがとうございます。面白い・つまらないって何だろー!! 見てくれたお客様に、「わかんなかったわ〜」「難解だったわ〜」って言われたとき、どう答え、どう受け取るのがナイスなのか未だによく分かりません。面白いって言われたら嬉しいから、面白さを目指したいんですけど、面白いって、内容を理解できてこそ! ってのと、ぜんぶ理解できなくても面白い! ってのとなんかありますよね。ストーリーが分からなくても面白いときの理解をなんて伝えていいのかわからない。逆にストーリーが分かりやすいときの面白さってどう説明したらいいのかな? 謎解きができた感覚? 納得感? 満足感? あ! ストーリーが分かりやすいと先を想像しながら進んでいって、その想像が裏切られて面白い展開なことになったら面白いのか! ストーリーが分からないと、先を想像すらできないから予想を裏切るとかがなくて、面白くないというか何だこれみたいなことになっちゃうことがあるのか! と今書きながら思った。じゃあやっぱストーリー分かんないとダメじゃん! えー、どうしよう。いや、ちがうんだー! 誰かスペノの面白さを伝えて…! なぜ私がスペースノットブランクに惹かれているのか教えて…!


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