舞台の外で考える|第3回「喪失について」
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「舞台の外で考える」は、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクがこれまでの活動を軸に、上演の枠を超えた視点から思索を展開する連載である。連載は、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクとDance Base Yokohamaの共同で実施され、各回ごとに両Webサイトを交互に往来しながら進行する。実験的かつ内省的に、舞台芸術に関わる多様な側面を探究し、アーティストと創造環境の新しい関係性を浮き彫りにする。
舞台の外で考える|第1回「演出捕について」
舞台の外で考える|第2回「滞在制作について」|Dance Base Yokohama
舞台の外で考える|第3回「喪失について」
舞台の外で考える|第4回「企画について」|Dance Base Yokohama
の喪失
これは非常に内省的で、抽象的で、誰のためにもならないような内容になってしまうかもしれない。と思って書き始めている。私たちが喪失を嘆いているようにしか読めないかもしれない。けれども私たちだって何かを思いついて途中でやめたことはあるし、それによって迷惑をかけてしまった人たち、喪失感を与えてしまった人たちがいないわけではない。これは戒めとして書くのかもしれないし、私たちの無価値な吐露として、読んでも読まなくてもいいものになってしまっているかもしれないが、どうか、そういう疑いに蓋をして、単に事実を綴り、共有することが今は重要だと思っているのだと思い込んでもらえれば幸いである。
大抵の「やりたいこと」は「やれないまま」終わる。それは失敗などではなく、そもそも「本来的にやりたいことではなかったのだ」と腑に落ちる場合がほとんどである。例えば、KYOTO EXPERIMENT 2022のメインプログラムに招聘いただき、私たちは劇作家の松原俊太郎とともに、その時点における最新作『再生数』を提案した。それは、舞台を創りながら同時に映画を創るというような舞台で、予算の掛け方も積極的だった。実際にやってみると映画というよりもテレビの生放送を創った感じに近かったが、勘定してみると、それまでに創ってきた舞台の倍以上のお金が掛かるものであることがわかった。予算案をKYOTO EXPERIMENT側に提出した際も、「思ったより高かった」というリアクションを受けた記憶がある。そして、「ああ、きっとこれは本来的にやりたいことではなかったのだ」と強く思い込み暗示をかけることで、「やらない」選択を一度は取ろうとした。しかし、オンラインミーティングで「内容を変更しようと思っている」ことを相談すると、contact Gonzoの塚原悠也さんが「やりたいことを全部やってみたらいい」と言ってくださった。この連載では、さまざまな私たちと関わりのある人々を登場させていきたいが、エピソードとして登場する方にはビッグ・リスペクトを前提の上で、掲載にあたりできる限り事前の確認もしているので、安心して読み進めてほしい。「やりたいことを全部やってみたらいい」、その言葉に強く背中を押されて「やるぞ」と意気込んだは良いものの、実際にやってみるとお金が掛かり過ぎて本当に引退するしかないかと思った。「やりたい」ことを「やる」ことは、もう「何もやれなくなる」可能性を秘めている。しかし今となっては「やってよかった」と言える。だから、塚原悠也さんには感謝している。その翌年の『ダンスダンスレボリューションズ』のクラウドファンディングの際、応援コメントとして「まじで期待しています!! 思いつくこと全部やってほしい。」と言っていただいたのも、contact Gonzoの塚原悠也さんだった。ここにこういうことを書けるのは、私たちと塚原悠也さんの関係性がある程度出来上がっているから、と思われるかもしれないが、たぶんそこまで塚原悠也さんと私たちは親密ではない。それはさておき、「やりたい」ことを「やらない」選択をできるのは私たち自身であり、やってどうなるかわからずとも「やる」選択をできるのも私たち自身である。ということを学んだ、と言いたい。「喪失」とは、「私たちが誰かに機会を奪われてしまう」ことではない。「私たちが機会を取捨選択すること」である。あってほしい。
再生数|KYOTO EXPERIMENT 2022 2022年10月 ロームシアター京都 ノースホール 提供:KYOTO EXPERIMENT 撮影:中谷利明![]() |
次項の前置き
ここから、私たちが受け持っていたPARAのクラス「上演デザイン論」が無くなった話をする。これはPARAに対して問題提起をするものではない。私たちが、現代の日本において芸術活動をしている中で起きた出来事を紹介するという目的で書かれるものである。「上演デザイン論」を受けようと思っていただいた皆様。そして、「上演デザイン論」を実施する機会をくださった皆様に、心から感謝している。「こういうことがあった」と忘れないためのモニュメントのようなものであり、それは私たちのためのものである。いつかこれを読むかもしれない未来のアーティストのためであるかどうかは、その時に本人たちが判断してくれたらいい。
PARAの喪失
PARAとは何か。残っているWebサイトから飛べるLinktreeには、「東京・神保町にあるアートスクール併設のオルタナティブスペース。演劇、ダンス、現代美術、人文、哲学など、ジャンルを越境したプログラムを展開しています。」との記載がある。私たちはそこで「上演デザイン論」というクラスを持っていた。その前には、インタビューシリーズ「公演を立ち上げるときに創り手(たち)のしていること」という企画にゲストとして参加したことがあった。その後、クラスを持つことになった。
「残っている」というのは、PARAがすでに終了しているからだ。PARAのWebサイトに残されているのは、「誠に申し訳ありませんが、2024年11月25日をもって、PARAの全事業を停止することを決定しました。」という言葉だ。上演デザイン論の全貌は以下の通り。
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PARA
上演デザイン論
概要
この度、PARAにて、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクによる、「上演デザイン論」クラスを開講いたします。私たちが舞台作家として上演をつくる際に行なっている、「上演デザイン」と考え得ることのできるディレクションとクリエーションの在り方について、知識と経験を共有します。全8回のカリキュラムでは、「上演デザイン」の実践と講評を往還しながら、本クラスのために集まるひとびと独自の判例を積み上げます。あらゆる制約との付き合い方や、「演出」という職能の価値についてなどをディスカッションしながら、参加者の皆様それぞれの「上演デザイン論」を構築していくことを目指します。集中制作期間では、参加者の皆様それぞれの論を前提としながら具体的な「判断」を実践するために、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクによる「上演デザイン」を実際に体験いただき、全体でひとつの上演のクリエーションを行ないます。皆様の役割は総合的に「演出(ディレクション)」と呼ぶことになる予定ですが、上演が安全にデザインされるための細部の調整は私たちが責任をもってつとめますので、安心してご参加ください。本クラスのさいごには「成果公演」としての「上演」を行ないます。よろしくお願いいたします。
全8回
2024年8月4日(日)10:30 – 12:00
2024年9月8日(日)10:30 – 12:00
2024年10月20日(日)10:30 – 12:00
2024年11月17日(日)10:30 – 12:00
2024年11月24日(日)10:30 – 12:00
2024年12月8日(日)10:30 – 12:00
2024年12月22日(日)10:30 – 12:00
2025年1月5日(日)10:30 – 12:00
集中制作期間+成果公演
2025年2月20日(木)- 3月2日(日)
PARA
〒101-0051 東京都千代田区神田神保町2-20-12 第二富士ビル4F
申込受付期間:2024年6月1日(土)12:00 – 30日(日)24:00
選抜方法:面談(2024年7月以降に、オンラインにて実施予定)
開講形式:対面
欠席者向けの録画:なし
価格:80,000円
学生:50,000円
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクより、募集にあたってのメッセージ
2024年8月より、PARAで、私たちの「上演デザイン論」を開講いたします。2025年3月まで、と8ヶ月にわたり、理論と実践とさらにその他の何らかを交錯させて、成果公演を目指します。「上演」とは主に舞台芸術に適用される状況ですが、舞台芸術に関連する経験の有無は特に問いません。「上演デザイン」とは、舞台芸術制作における「演出」という役割の人間が、主体的に検討しなければならない、舞台芸術制作において発生する工程のことを指しますが、「演出」とは決して「演出者」だけが行なっているものではないと考えているため、例えば「出演者」を担う「俳優」の方でも、「ダンサー」の方でも、さらにそれ以外の役割の方でも、興味があれば、参加いただくことが可能です。内容については、あくまでも、私たちが通過してきた舞台芸術制作の道程を再び辿り直しながら、私たちの「上演デザイン論」を起点として、皆様と「上演のデザインの論」を語り尽くして、そしてそれを用いて「上演をデザイン」することは、果たして、できるのか、を考えます。小野彩加と中澤陽は、その実験台として、主体と主体が、主体と客体が、客体と客体が、客体と主体が、絡み合うようにして構築されるプレイモード可変自由の「上演」という遊びのためにたくさん動きます。順序立てて、基礎から応用まで発展していくことができるであろうカリキュラムを、できる限りベストを尽くして検討いたします。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げます。
2024年6月1日(土)
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
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実際に行なわれた講義は、全8回を予定していたうちの最初の3回のみである。その後、PARAの全事業が停止したため、すべてが無くなってしまった。
2024年6月に受講者の募集を行ない、7月は私たちがフランスに滞在していたため、応募者それぞれとオンラインにて面談を実施した。面談は、私たちがこの「上演デザイン論」でやろうとしていることを説明し、応募者それぞれが「何を求めているのか」を聞くための時間であり、定員を超過していたわけでもなかったため、そこから篩に掛けることはなかった。
クラスは、全8回の講義を経て、2025年2月20日(木)- 3月2日(日)の集中制作期間でクリエーションを、成果公演で上演を実施する予定だった。私たちはこの頃から、創造作業を「委譲」することに興味があり、このクラスにおいて、全8回の講義で私たちの「論」を共有し、その上で受講者それぞれが新たな「論」を展開し、集中制作期間においては私たちが受講者たちの「論」に従ってともに創作を行ない、成果公演として上演することを想像していた。
第1回のクラスでは「企画について」、第2回は「空間について」、第3回は「構成について」の話をした。ワークショップとしての実践も交えつつ、それぞれが毎回「何かしらの上演を創る」ことを試みていた。受講者それぞれの何かを「創りたい」という想いの一助になればいいと思っていたし、私たちの「創る」とはつまり「メカニズムの開発」とも近しいことなので、ここから受講者たちが生み出すかもしれない「新しいメカニズム」に強く期待をしていた。
だからか、これが「無くなってしまうかもしれない」と聞いた2024年10月頃、私たちが「絶望」のフェーズに突入するのは容易いことだった。「やりたい」と思っていたこと、そしてすでに「やっていた」こと。私たちだけの問題ではない。多くの受講者たちが、安いとは言えないお金を支払って「やりたい」と思っていたことが、無くなってしまうのだ。私たちはちょうど『光の中のアリス』を創っている頃だった。日々のリハーサルでたくさんの思考を働かせていたが、「上演デザイン論」が無くなってしまうかもしれない、ということがずっと頭の片隅にあった。そしてそれは現実になった。
受講者たちへ受講料は返金されるのだろうか。がっかりしていないだろうか。そういった考えが巡り続け、ただただ私たちの精神を「絶望」が包み込み、私たちは独力で代わりとなる何かを「やろう」と再起することすらできなかった。この喪失は、私たちの心を引き摺り続けている。3回だけ行なった講義の委託料は支払われていない。しかしそんなことを考えるのも嫌になるくらいに私たちの心が擦り減り、私たちはここから何かを生み出さなければいけないと思いながらも、それが何なのか、できるのか、わからなくなってしまっていた。
第4回「企画について」では、私たちが「喪失=私たちが機会を取捨選択すること」から何を獲得し、そしてどのようにして新しい「企画」として立ち上げるのかを語りたい。そう思っていた。だが、「上演デザイン論」で「やりたい」と考えていたことと同じことは、もう「できない」。つまり、「やる」という選択肢を選ぶことが「できない」のである。私たちは、「やりたい」ことと「やりたくない」ことを常に取捨選択している。しかし、私たちの力だけでは「やれない」、取捨選択するための選択肢にならないことだってたくさんある。そしてそれを「本来的にやりたいことではなかったのだ」と言い切れない時もあるだろう。そんな時は、「できない」と言ってしまっていいと思う。だから私たちはこれからも、他者と創り、他者と選ぶ。新しい選択肢を生み出すために、必要なのは他者の存在である。
「上演デザイン論」は、間違いなく「場」ありきのプロジェクトだった。もしも、私たちに「上演デザイン論」を再び「やってほしい」と思ってくれる、そして「やらせてくれる」という「場」があれば、そんな「場」を持っている人がいれば、ぜひ spacenotblank@gmail.com まで連絡してほしい。ただ、そこにPARAの「上演デザイン論」と同じ受講生たちが、同じように再び集まることはもうないだろう。それだけが悲しい。
ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー『練習曲』第2部の喪失
私たちはDance Base Yokohama(以下、DaBYとする)のレジデントアーティストとして、2025年1月にDaBYで『ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー「練習曲」(以下、ダンス作品第1番とする)第1部』を制作し、ワークインプログレスとして上演した。ワークインプログレスと呼んだのは、クロード・ドビュッシー『練習曲』が全12曲からなるもので、今回はその第1部と呼ばれる前半6曲のみを上演する予定だったからである。実際の上演では、『ダンス作品第1番』の「第1部」としてある程度の完成形態を示すことを目指し、音響と照明の櫻内憧海が「これがワークインプログレス?」と思えてしまうぐらいの空間を創ってくれた。その上で、私たちは舞踊家の藤村港平さん、そして再び登場するcontact Gonzoの塚原悠也さんとアーティスト・トークと題してそれぞれ対談を行ない、私たちの実践を客観的に見てどう思ったか、を共有いただいた。そこで共有いただいたものをもとにさらなるリサーチを経て、私たちは第2部を創り、『ダンス作品第1番』を完成させる予定だった。
『ダンス作品第1番』の制作は、DaBYの新企画「Wings」のプロジェクトのひとつとして行なわれており、将来的に日本国外での上演を目指すものだった。私たちが「Wings」に参加するにあたり、何を創るかを検討する必要があり、「Wings」とは別ですでに決定していた『ダンス作品第1番』に加えて、『ダンス作品第2番』『ダンス作品第3番』『ダンス作品第4番』『ダンス作品第5番』をDaBYに提案した。そこから最終的に『ダンス作品第1番』と『ダンス作品第3番』を制作することを選択したのだが、結果として、この『ダンス作品第1番』の「第1部」を制作する最中、「Wings」での制作は1作品に絞られることとなり、事実上『ダンス作品第1番』の「第2部」は「Wings」では制作しないことになってしまったのである。誤解を生みたくないので明言するが、この結果はただのよくある予算の都合が招いたもので、私たちとDaBY双方の合意によって選択したものである。日本で舞台芸術を続けていく上では、きっとこういうことがこれからもよくあるだろうと思う。だからこそ、この「喪失について」を書いておくべきだと思った。
「第1部」までの時点でも、DaBYからはすでに甚大なサポートをいただいた。結果としてひとつの最高と言えるワークインプログレス上演ができたと思う。アーティスト・トークでいただいた言葉も、観客の皆様に見ていただいたことも、私たちの『ダンス作品第1番』の「次」を方向付ける大きな起点となっている。
だから、私たちは、絶対に、何があっても「第2部」を「やりたい」と思っている。「第1部」をともに創造した、ゴーティエ・アセンシ、宮悠介、そして山口静に負担を強いない形態が構築できるように、検討を進めている。観客の皆様には、決して強制することではないが、震えて待て、と言っておきたい。ぞくぞくしちゃうぜー! とかでも構わない。
ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー『練習曲』第1部|ワークインプログレス 2025年1月 Dance Base Yokohama 提供:Dance Base Yokohama 撮影:神村結花![]() |
第4回「企画について」では、『ダンス作品第1番』の「第2部」について、具体的にどのようなことを「やろう」としているのか。そしてこの連載「舞台の外で考える」を「やろう」としたきっかけ。さらに、2024年11月にシアタートラムで上演した『光の中のアリス』と、これから創る『ダンス作品第3番』の企画の考え方について、説明したい。
2025年3月20日(木)
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク Ayaka Ono Akira Nakazawa Spacenotblank
二人組の舞台作家・小野彩加と中澤陽が舞台芸術作品の創作を行なうコレクティブとして2012年に設立。舞台芸術の既成概念と、独自に研究開発する新しいメカニズムを統合して用いることで、現代における舞台芸術の在り方を探究し、多様な価値創造を試み続けている。固有の環境と関係から生じるコミュニケーションを創造の根源として、クリエーションメンバーとの継続的な協働と、異なるアーティストとのコラボレーションのどちらにも積極的に取り組んでいる。2023年度より、Dance Base Yokohama レジデントアーティストとして、これまでに企画「継承する身体」の滞在制作、『訓練されていない素人のための振付コンセプト001/重さと動きについての習作(原作:contact Gonzo)』のショーイング、『ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー「練習曲」』第1部の滞在制作と上演を Dance Base Yokohama にて実施。世界に羽ばたく次世代クリエイターのための Dance Base Yokohama 国際ダンスプロジェクト “Wings” にて、新作『ダンス作品第3番』を創作、上演予定。
舞台の外で考える|第1回「演出捕について」
舞台の外で考える|第2回「滞在制作について」|Dance Base Yokohama
舞台の外で考える|第3回「喪失について」
舞台の外で考える|第4回「企画について」|Dance Base Yokohama
舞台の外で考える|第1回「演出補について」
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「舞台の外で考える」は、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクがこれまでの活動を軸に、上演の枠を超えた視点から思索を展開する連載である。連載は、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクとDance Base Yokohamaの共同で実施され、各回ごとに両Webサイトを交互に往来しながら進行する。実験的かつ内省的に、舞台芸術に関わる多様な側面を探究し、アーティストと創造環境の新しい関係性を浮き彫りにする。
舞台の外で考える|第1回「演出捕について」
舞台の外で考える|第2回「滞在制作について」|Dance Base Yokohama
舞台の外で考える|第3回「喪失について」
舞台の外で考える|第4回「企画について」|Dance Base Yokohama
舞台の外で考える
考えるべきことがあまりに多すぎるので、まずは連載を全4回で区切り、「演出補について」「滞在制作について」「喪失について」「企画について」をそれぞれの主題に据えることにする。3つ目の「喪失について」とは、つまり「企画頓挫について」であり、それを経て4つ目「企画について」でそこからの立ち直りを思索したい。今思ったこと、現状の現実味を書き連ねる。それが私たちの現在地であり、完全ではないことを前提とする。私たちはいつまでもメインストリームの心構えで外角低めに邁進し、コントロールすればするほど打ちにくい変化球を発明してしまう。
私たちは二人組の舞台作家である。2人でプロジェクトを立ち上げ、プロデュースし、ディレクションする。ただ、プロデュースに関しては、ずっと別の誰かに任せたいと思っている。本当は作品づくり以外のことはやりたくないし、考えたくない。だから、私たちの活動に興味があり、ともに隆盛を極めようという意欲のある方がいれば、ぜひ spacenotblank@gmail.com までメールしてほしい。私たちはどこまでいっても芸術家であり、プロデュース能力はあくまで付帯的なものにすぎない。日本ではそれでもやらざるを得ない現実があるが、本音を言えば、作品づくりに専念したい。一緒に動いてくれる、考えてくれる人を心から必要としている。劇場のアソシエイト・アーティストだって、二つ返事で引き受ける。
光の中のアリス 2024年11月 シアタートラム 撮影:日景明夫![]() |
2024年11月、シアタートラムで上演した『光の中のアリス』。作は、これまでに『ささやかなさ』『光の中のアリス』『ミライハ』『再生数』『ダンスダンスレボリューションズ』の5作品を協働してきた松原俊太郎。この上演にあたり、演出補をチームに迎えようと考えたが、頼める人がすぐに思い当たらず、オープンコールを実施することにした。「2024年の2つのオープンコール(異なる舞台の出演者と演出補)」と銘打って募集をかけたところ、予想を遥かに超える応募が集まった。応募してくださった皆様に心から感謝している。選考は書類審査とオンライン面談で行ない、面談は私たちではなく、リハーサル・ディレクターの山口静に任せた。一般的な権力勾配は避けがたく残るにしても、演出者のみの判断で演出補を選んだという事実が、その後のクリエーションにおける上下関係を強めるのではないかという懸念があったからだ。山口静からオンライン面談での応募者たちの印象を伺い、最終的に髙橋遥と土田高太朗の2人に演出補を依頼した。当初、募集要項には「演出補1名」と記載し、1人だけを選ぶつもりだったが、検討を重ねた結果1人に絞りきれず、演出補同士でも対話を深められる可能性があることを考慮して、2人にお願いすることにした。
『光の中のアリス』には、私たちが出演することがあらかじめ決まっていた。演出補を招きたいと思った最初のきっかけは、「自分たちが出演するシーンで客観的な意見がほしい」というシンプルな思いだった。だが、実際のクリエーションでは「ここを見てほしい」といった具体的な指示はほとんど出さず、リハーサル全体を通じて意見を交わしながら進めた。私たちの4つの目に演出補の4つの目が加わり、合計8つの目で演出を構築する空間が生まれたと感じている。そうした緊張感があった。具体的な判断は私たちが行なうという前提に加えて、髙橋遥と土田高太朗の存在がリハーサルに刺激を与え、「見る」「見られる」「見せる」「見させる」という関係が複雑に反射し合っていたと確信している。
上演では、荒木知佳の瞬間移動トリックを実現するため、髙橋遥がスタントダブルのような役割で迫りの上に立ち、下から上に両腕だけを荒木知佳のものとして突き出して出演した。全編英語字幕付き上演だったため、土田高太朗は映像の加藤菜々子と組み、字幕の細かい調整を最後まで担った。どちらもが多様な役割を果たしながら、上演を支える欠かせない存在として機能していた。
光の中のアリス 2024年11月 シアタートラム 撮影:日景明夫![]() |
演出補とは何か
私たちが初めて演出補を迎えたのは、2019年3月に北沢タウンホールで上演した『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』だった。演出補を務めた山下恵実は、「ひとごと。」を主宰する演出家、振付家である。この時点ではまだ「ひとごと。」としての作品発表はしておらず、制作者からの紹介で協働に至った。この舞台は一般参加型の企画で、出演者が10人を超える規模の作品を私たちが初めて手がけたものだった。そのため、私たちとは異なる視点でクリエーションに参加する存在が必要だと感じ、山下恵実をチームに招いた。
リハーサルごと、場面ごとに意見を交わしながら進め、山下恵実には私たちと異なる視点から率直な意見をチーム全体に述べてもらった。私たちから細かく「これをしてほしい」と指示するよりも、そこに居て感じたことを伝えてもらうことが主な役割だった。当時、チームにはリハーサル・ディレクターという役職がなく、ウォーミングアップの進行やチーム全体の調子を管理する役割を担ってもらうこともあった。この時点で、私たちにとって演出補は、舞台創造に新しい視点やアイデアを吹き込むために極めて重要な存在だと実感していた。
特に印象的だったのは、演出補という立場を活かして、山下恵実が私たち以上に率直な意見をメンバーと気兼ねなく共有していた点である。私たちが印象を述べると、それはディレクションとして機能し、メンバーの表現の方針に直接影響を与えるリスクがあった。対して、演出補の意見はそうした意向とは一線を画す客観的な視点として、上演の「今」を浮かび上がらせてくれたように感じた。チーム全体がクリエーションの現在地を都度確認し続ける状況が、そこには生まれていた。
言葉だけでは満ちたりぬ舞台 2019年3月 北沢タウンホール 撮影:三野新![]() |
次に私たちの演出補を務めたのは、2021年11月に穂の国とよはし芸術劇場PLATのアートスペースで上演した『ミライハ』での古賀友樹だった。『ミライハ』は、穂の国とよはし芸術劇場PLATが継続的に実施する「高校生と創る演劇」の一環として制作され、『光の中のアリス』と同じく松原俊太郎が作を務めた。古賀友樹は、私たちの舞台にたびたび出演する俳優で、演出を専門にはしていない。それでも演出補を依頼したのは、松原俊太郎との協働に私たちとともに継続的に関わっていたことと、高校演劇の経験があったからである。高校生が演劇に取り組むとはどういうことかを理解し、松原俊太郎の戯曲と高校生たちが経験してきた演劇における戯曲との差異を、実感として高校生たちと共有し続けられるのではないかと考えた。実際、その通りだった。
古賀友樹の役割は、印象を伝えるだけに留まらず、高校生たちと対話することに終始していた。具体的に何を話していたかはわからないが、松原俊太郎の戯曲を読むこと、演じること、演劇をすること、さらには受験や学校のこと、そして『ミライハ』に照らした未来のことなど、さまざまな話を交わしていたのだろうと想像する。俳優ならではの視点で、「こうやってみよう」と単純な見本を提示できた瞬間もあったはずだ。上演時には明確な出演者ではない形で高校生たちと舞台に上がり、上演を進行する役割を担った。高校生たちにとって、古賀友樹がともに舞台に居ることが支えとなり、字義通り上演の成立を補う存在として機能していた。
私たちにとって演出補とは、細かなディレクションを超えた次元で、創造環境全体に新しい視点やアイデアを吹き込み、客観的な意見と、個々の意志の両方で上演を支える存在だと捉えている。クリエーションにおける問題に対して、具体的にどう対策すべきなのかを指し示す知の占有はせず、ただ「今何が起こっているのか」を客観的に共有し、チーム全体が現在地を確認し続ける。その実践がクオリティを創出し、上演でもそれを再現するための下支えとなる。そこに、私たちだけの目では見えない何かが創造される余地がある。
さらに、演出補は明確な分業を担保する存在でもあることを明記しておきたい。私たちは二人組ゆえに、別々の場面を同時進行することもあるが、演出補が居ればさらに役割を分担できる。これから組み立てる場面の練習を事前に進めたり、すでに組み立てた場面の反復練習をともに行なったりする。そうした動きがそれぞれの空間で同時進行し、自動化され、それぞれが知らない間に舞台が完成に近づいていくのは、私たちのクリエーションでよく見られる光景だ。演出補の存在が出演者に自ら動く意欲を与え、それぞれが創造環境に自分なりのやり方で臨むきっかけを生み出しているのである。
ミライハ 作:松原俊太郎 2021年11月 穂の国とよはし芸術劇場PLAT 撮影:伊藤華織![]() |
第2回「滞在制作について」では、継続的な「場所」との協働について考える。私たちが「場所」に根を張り、短期集中的な創造作業を実施することで何を発見したのか、2025年1月のDance Base Yokohamaにおける『ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー「練習曲」』の滞在制作を例に、問いながら掘り下げたい。
2025年3月6日(木)
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク Ayaka Ono Akira Nakazawa Spacenotblank
二人組の舞台作家・小野彩加と中澤陽が舞台芸術作品の創作を行なうコレクティブとして2012年に設立。舞台芸術の既成概念と、独自に研究開発する新しいメカニズムを統合して用いることで、現代における舞台芸術の在り方を探究し、多様な価値創造を試み続けている。固有の環境と関係から生じるコミュニケーションを創造の根源として、クリエーションメンバーとの継続的な協働と、異なるアーティストとのコラボレーションのどちらにも積極的に取り組んでいる。2023年度より、Dance Base Yokohama レジデントアーティストとして、これまでに企画「継承する身体」の滞在制作、『訓練されていない素人のための振付コンセプト001/重さと動きについての習作(原作:contact Gonzo)』のショーイング、『ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー「練習曲」』第1部の滞在制作と上演を Dance Base Yokohama にて実施。世界に羽ばたく次世代クリエイターのための Dance Base Yokohama 国際ダンスプロジェクト “Wings” にて、新作『ダンス作品第3番』を創作、上演予定。
舞台の外で考える|第1回「演出捕について」
舞台の外で考える|第2回「滞在制作について」|Dance Base Yokohama
舞台の外で考える|第3回「喪失について」
舞台の外で考える|第4回「企画について」|Dance Base Yokohama
再生|レビュー|多田淳之介:新生『再生』
多田淳之介 Junnosuke Tada |
演出家。東京デスロック主宰。古典から現代戯曲、ダンス、パフォーマンス作品まで幅広く手がけ、現代社会に於ける当事者性をアクチュアルに問い続ける。創作活動のほか公共劇場の芸術監督や自治体のアートディレクター、国際舞台芸術フェスティバルのディレクターなどを歴任し、国際・教育・地域を活動の軸に海外公演や国際コラボレーション、人材育成、教育機関や地域でのアートを活用したプログラムなど数多く手掛ける。2013年日韓合作『가모메 カルメギ』にて韓国の第50回東亜演劇賞演出賞を外国人演出家として初受賞。四国学院大学、女子美術大学非常勤講師。近年の演出作はSPAC『伊豆の踊子』、KAAT+東京デスロック+第12言語演劇スタジオ『外地の三人姉妹』など。 |
スペースノットブランクによる『再生』の上演をスタジオHIKARIで観た。『再生』は私が主宰する東京デスロックが2006年に初演した作品であり、これまでにも私自身の演出では2011年に中野成樹+フランケンズ、渡辺源四郎商店、KAIKA劇団会華*開可、韓国の第12言語演劇スタジオなど他劇団の俳優との上演や、2017年、2022年には東京デスロックでも再演をしてきた。岩井秀人氏の演出で2015年(FAIFAI公演)、2023年(ハイバイ公演)にも上演されている。しかしこの作品には戯曲と呼べるものは存在しない。私以外の演出家が演出する場合も、30分のパフォーマンスを3回繰り返すという構造のみによって『再生』という名の作品として上演されている。近年では東京芸術劇場道場のワークインプログレス、日大芸術学部の学生による上演などでは30分に限らずさらに短い時間の繰り返しでの上演も行われている。今回のスペースノットブランクによる『再生』は、これまでのどの『再生』とも違った上演でもあり、全ての『再生』と同じく『再生』の上演だった。
原案者として原作の内容、構造、コンセプトなどについて触れておくと、東京デスロックという劇団は2001年の設立当初は劇団名にもある通り「死」にまつわる物語を上演していた。人が死ぬ悲しい話というよりも、「死」という不条理にどう我々の「生」は対峙していくのかということを演劇作品として上演してきた。『再生』初演もそういった劇団の作風もあり当時社会問題となっていた「集団自殺」をテーマに選び、「死」に対して音楽や踊りや食事という「生の喜び」を用いて表現することを試みた。そして30分の死に至る喜びの饗宴を繰り返してみせることで、決して繰り返せない一回性の「生」と「死」を強調していく作品となった。ただ『再生』を他のカンパニーやアーティストに上演してもらう場合、特に私からの上演に対しての注文は無い。集団自殺でなくても構わないし、30分を繰り返さなくても構わない。『再生』というタイトルで上演することだけが上演許可の条件であり、何を許可しているのかすらわからないが、『再生』を上演したいというのであればそれぞれが考える『再生』を私も見てみたい。今回も私のその欲求は十二分に満たされた。原案者としてはこんなに嬉しいことはない。
スペースノットブランク版の『再生』が原作やこれまでの上演と大きく違った部分は、身体性の提示、身体と時間(繰り返し)による表現方法であったと思う。東京デスロック版や他の上演では、繰り返すごとに身体の有限性、つまり身体の消耗が見える構造になっている。といっても演劇作品の上演であるので少なくとも私が演出する場合は俳優はいかに疲れて見えるか、という演技(もちろん実際の疲弊を利用してはいるだろうが)をしている。これも当然のことだが本当に疲れてしまうと、かなり緻密な振り付けがなされているので実践できなくなってしまう。デスロック版『再生』は、俳優が疲れて動けなくなってしまうほどの、と評されることもある(むしろ演出意図通りではあるが)が、疲れて動けないのではなく、疲れて見えるように実は休んでいる。演出、演技のテクニックとして、終始動き続けるよりも一度止まってから動き出した方が、疲れているように見える。そして繰り返すごとに生身の身体による「生」の表現が強まっていくのが東京デスロック版『再生』の特徴だと言えるだろう。一方スペースノットブランク版では、当然繰り返していくごとにパフォーマーの身体の疲弊は多少は見て取れるものの、それを「生」の表現としては取り入れていないことは確信できる。彼らの表現方法は演劇やダンスというジャンルではカテゴライズされない、まさにコンテンポラリーな舞台芸術作品である。『再生』もダンスかもしれないし演劇かもしれない。あえて振り付けという言葉を使えば、彼らが繰り返しの中でその表現を強めていったのはその「振り付け」であったと感じた。それは彼らの手法のおそらく根本にある、その時の身体とその動き、繰り返しや蓄積した時間による身体の、その時、による、その動き、がその瞬間の表現として、つまり一回性の生命の表現として強度を極めていく上演だったと感じた。パフォーマーたちのいわゆる「振り付け」は少なくとも3回同じように繰り返されている、と同時に一度も同じ表現にはなっていない。1回目、2回目、3回目と「振り付け」は同じだとしても強度や表現としては違うものになっていた。それはなぜだろうか。
私の『再生』にはその派生として『再/生』という別の作品があり、さらに『再/生』をダンサーたちとリクリエーションした『RE/PLAY DANCE Edit.』という作品もある。この『再生』から派生した2つの作品は30分を繰り返す構造ではないが、繰り返すことでの表現の変化を取り込んだ作品である。特にダンサーたちとの作品では、同じ振り付けを何度も踊ることでダンス上演や観客との関係への問いを強めていく構造になっている。スペースノットブランクの『再生』を観客との関係で考えてみると、東京デスロック版『再生』に比べると明らかに観客との関係を意識した構造になっていた。おそらく『RE/PLAY DANCE Edit.』と共通する部分もあるのではないかと推測するが、自分の身体から生まれる表現を観客に対してどう届けるのか、「生む」という作業と「届ける」という作業をどう意識するか。動きを「生む」ことでそれは「届く」ものであるという考え方ももちろんあるが、ただ「届ける、届く」ことを意識した身体はまた別の強度を生むのではないかと私自身は考えている。具体的に彼らがどういったクリエーションを行っていたのかは知らないのだが、彼らの『再生』の強度には観客との対峙という要素が含まれていたと思う。それは観客側からも生み出されるもので、観客側からの、もう一回見る、さらにもう一回見るというバイブスに身体を呼応させることで同じ振り付けでありながら違った表現、強度が生まれていたのだと思う。常に生きている(呼応し、変化し、留まれない)ことへの意識があることは手法は違っても全ての『再生』の上演に共通している部分だ。
さらに『再生』の構成要素として大きなウエイトを占めるのが音楽の存在であり、録音された音源は繰り返しを担保する大きな要素の一つでもある。東京デスロック版では、30分の中で5〜6曲の楽曲を使用し、俳優たちはその曲に合わせ歌い踊り、そして音量は繰り返すたびに大きくなっていく。30分の芝居の繰り返しとは別の90分のタイムラインで音楽の音量と照明の光量は増していき、聞こえるものと見えるものが変化していく構造になっている。スペースノットブランク版でも90分のタイムラインでの音響、照明の変化はあったとは思うが、印象的だったのは生演奏によるギターの弾き語りがあったことだ。音楽の存在をどう位置付けるか、録音された音源を再生することを含め、その瞬間のライブの事象として音楽の存在を位置付ける表明のようにも受け取れ、非常に彼ららしい『再生』研究の成果だと感じた。今回の『再生』の上演しかり、スペースノットブランクの活動として自分たちより世代が上の作家や作品とのコミュニケーションは非常に特徴的だ。2006年の東京で表現されていたものを2024年の日本でいかに再生するのか、それは再生でもあり新生でもある作業だったと思う。
『再生』は台本もなく音源の指定もない。劇中のセリフ(あったとすれば)の指定もない。その分上演するその時代の孤独感や集団性にコミットした上演が可能であることも特徴だろう。スペースノットブランクの『再生』は上演の形態、構造、手法においてはこれまでのどの上演にもなかった要素の進化、深化があり、まさに現代に新生された『再生』であったと思う。原案者としてはもちろんさらにまた違った『再生』も見てみたい。スペースノットブランクによる『再生』も別会場ではまた全く違った上演(出演者が一人であったり)になると聞いている。今回然り、今後の上演も現在を生きる「生」の瞬きが見られるのだと確信している。もちろん今後『再生』を上演したいというアーティストや団体が増えてくれたら嬉しい。スペースノットブランクの上演を見てそう思ってもらえたらなお嬉しい。
レビュー
白尾芽:疲れるのは誰?
多田淳之介:新生『再生』
再生|レビュー|白尾芽:疲れるのは誰?
白尾芽 May Shirao |
東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学コース(伊藤亜紗研究室)修了。修士論文を元にした論文に「ポストモダンダンスにおける観客性と「身体的共感」──イヴォンヌ・レイナーの作品を中心に」『Commons Vol.3』(未来の人類研究センター、2024年)がある。ウェブ版「美術手帖」等での編集・執筆を経て、現在出版社勤務。 |
Web |
ワークショップ=歓待
開演の約2時間前、会場に足を運ぶと、すでに舞台上には出演者と参加者が集まって各自ストレッチをしたり、話をしたりしている。そのまま舞台の床で自分もなんとなくストレッチらしき動きをしていると、ワークショップが始まる。宮悠介が主導するウォームアップをしながら、参加者はそれぞれ名乗り、中澤陽はこれから「30分の物語」をどのような段取りで再生するのかを説明する。『再生』は説明文にある通り「30分の物語を3回繰り返す」構造を持つ舞台作品であり、「30分の物語」はほぼ途切れなく続く全8曲にあわせて切り替わる8つの場面から構成されている。どの曲にあわせて何をやるかはすべて決まっていて、一度聞いただけでは覚えられないのだが、都度指示をするのでそれについてきてください、と言われる。
じゃあやってみましょう、ということになる。まずは参加者全員で横1列に並び、出演者の瀧腰教寛による『街は水族館』の弾き語りを聞いた後、UA『太陽手に月は心の両手に』にあわせて舞台の後ろから前に向かって動きをつけながら進み、最前まで行ったら戻って、また進むことを繰り返す。最初の数回は出演者の動きに従い、次にやりたい人が好きな動きで先導する。曲がaiko『ストロー』に切り替わると、今度の指示は「前の場面の動きをできるだけ思い出して同じ順番で繰り返す」というものだが、当然途中からすべてがあやふやになり、参加者は思い思いに、列の半分ずつで違う動きを繰り出したりもする。こうして動きは自然と出演者から参加者へと受け渡され、その後も乗りやすいポップソングの効果や、何人かのダンスや演劇の訓練を受けているであろう参加者(と出演者)のスキルが相まって、わたしたちは集団として、言われるがままにそれぞれの場面をある程度遂行できてしまう。そして、なんというか、とても親切なのだ。紛れもなく参加者は歓待されていて、各場面は誰でも参加できるようにアレンジされ、優秀なファシリテーションがあり、迷ったり考えたりする必要がない。確実に自分が何をするべきかはわかる(武術っぽくエイ、エイ、と拳を突き出したり、両手を上げてクラップしながら飛び跳ねたり)が、それが一体なんなのかがまったくわからない、そういう状況は、心地よく楽しいと同時に、怖い。
観客の教育
この1時間の経験を経て、公演を見ることになった。ダンサーたちは横1列でそれぞれ台のようなものに腰掛け、瀧腰の『街は水族館』を聞く。歌い終わった瀧腰がギターを下ろして指を鳴らすと、『太陽手に月は心の両手に』が始まる。イントロのギターにあわせて誇張した反復横跳びのような動きをする瀧腰に、宮と斉藤綾子が合流し、ボーカルが入ると同時に、3人が前進しながら激しく踊りだす。1人が腕を前に突き出すときほかの誰かがしゃがみ込む、足を振り上げるエネルギーが誰かのジャンプを生み出す、カニのような動きが伝染する(ように見える)。3人が舞台の最前まで到達すると、小野彩加、山口静、ゴーティエ・アセンシが並んで同じように前進しながら踊りだす。ほぼ同時に古賀友樹が立ち上がり、瀧腰・宮・斉藤も歩いて後方に戻りつつ途中からまた踊りを始める。もうダンサーたちの組み合わせはバラバラになり、たまたま近接する者たちがそれぞれを振り付け合うような瞬間が生まれては消えていく。中澤の印象的なソロを挟んで楽曲の後半では、舞台上を縦横無尽にすれ違いながら踊るダンサーたちの、動きの受け渡し合いがより複雑化する。
曲が終わりに近づくと、ダンサーたちはまた横1列に並び、瀧腰がふたたび指を鳴らすと『ストロー』が始まる。ここでは、直前の場面とまったく同じ動きが正面を90度回転して行われる。唯一異なるのは、後半部分の途中からダンサーが1人ずつ台に戻っていくということだ。それを除けば観客は、同じ動きのシークエンスを、3回の〈再生〉のなかで計6回見ることになる。ある動きに対してテンポもムードも違う曲を与えることで行われる反復は、教育的にも感じられる。反復の教育的な効果のひとつは言うまでもなく、個々のダンサーの際立ったジェスチャーだけでなく、前述のような動きの受け渡し合いがより大きな単位で見えてくることだろう。しかし本作でそれよりも強く感じられたのは、タイミングの感覚である。たとえば、寝転んだ古賀と小野が作る凹凸のような体勢のペア、中澤がソロに入る合図のように行われる小野の大きな投げキッス(のような腕の動き)、アセンシ・古賀の両手指差し、互いに離れた場所にいた宮・瀧腰・山口が一瞬合流して合わせる拳。こうしたある種の気持ちいい(satisfying)タイミングは、動きの流れを把握するポイントにもなり得る。観客は〈再生〉という反復構造の中でもっと「よく見るように」教育され、まるで自分がその場をオペレーションしているような視点を得ながら、さらに熱心に舞台上を見つめることになる。
ちなみに『ストロー』の後半部分でダンサーが1人ずつ捌けた後、アウトロにあわせて舞台の対角線上に沿って行われるのは瀧腰のソロである。ちょこちょこと何かを触っているような手足、垂直のジャンプにあわせて太腿を叩く音、伸びやかに振り回される腕と独特な膝の硬直──すでに2回は繰り返し見た動きに、観客はもう一度集中することになる。前の2回と異なるのは、舞台の端まで進んでから、最後のフェイントのような中腰のポーズでゆっくりと時間を取り、体を起こしてから一瞬、顔を残して後ろに戻っていくことである。縦、横、対角線のバリエーションにおいて、唯一対角線だけ、その顔の先に観客がいない。しかし、瀧腰は何かをじっと見つめ、それと目を合わせて立ち去る。それは〈再生〉という閉じた構造そのものに対して唯一外側から向けられた視線として、観客もすでにその中に取り込まれていることを確認するジェスチャーのように機能する。
タスクとしての振付
本作の原案は、多田淳之介が主宰する東京デスロックが2006年に発表した同名の演劇作品である。集団自殺をテーマに、畳敷きの部屋で鍋と酒を囲んだ最後の宴会に興じ、人々が「何かひとつ幸せに死んでいく」(*1)までを描いたものだ。スペースノットブランクは、同じことを3回繰り返すという構造は厳密に継承しつつ、セリフは最小限とし、ダンスをメインに据えて翻案した。元の『再生』が、飲み食いし、騒ぎ、動くことの繰り返しで疲弊していく体のグロテスクさによって、死に向かう集団の幸せな狂気というスペクタクルを立ち上げるものであったとすれば、本作はどこまでもクリーンで禁欲的だ。缶や瓶のままの酒や鍋といった美術もなく、出演者の服装も黒1色で、舞台上ではダンサーたちの体が際立つ。いずれも繰り返しの構造が演者を疲れさせることは間違いないが、本作ではその疲労に演出が入り込むことを周到に避け(*2)、ダンサーたちが与えられたタスクを遂行すること自体を全面に押し出し、むしろ疲労を覆い隠しているようにも思われた。たとえば、原案の『乾杯』の場面における薬と酒は、個包装の小さなドーナツに置き換えられている。神妙な音楽にあわせた静かなドーナツの乾杯は、原案の「死」というテーマを限りなく脱色した純粋なタスクとして印象づけられる(*3)。そしてその後に続くのは、ダンサーたちがそれぞれの1日のルーティーンをマイム的に圧縮して踊る場面だ。ここでも、ダンサーたちが日々うんざりするほど繰り返しているタスク=ルーティーンが、舞台上でのタスクとして課され、また繰り返される。
本作においてダンサーたちは、いま課せられているタスクがどのような全体に寄与するのかを知らないかのように踊る(*4)。観客は、回を追うごとに「ここでこれをする」というタスクと、それを実行した結果が同じ(または微妙に異なる)であることを、毎回確認する。つまりダンサーと観客は、「何をするべきかはわかるがそれがなんなのかはわからない」という状態を、3回の〈再生〉を通して共有することになる。そしてそこで前景化するのが、ある瞬間の、ある動きと動きが呼応する一瞬のタイミングの感覚である。観客はここで奇妙な欲望を抱きもするだろう。すなわち、3回がすべて同じように、知っていることが知っているタイミングで起きることと同時に、どこかで誰かが間違えるのを少しだけ期待するのである。
ダンサーたちは、記憶をなくしたように、望まれれば何回でも繰り返せるというふうに、ちっとも疲れてなどいない様子で毎回舞台に登場する。それはもはや繰り返しというより、生まれ直しというほうが近いかもしれない。彼らのタスクの積み重ねは、それ自体としては一向に像を結ばない。経験を蓄積し、疲労し、間違いを期待し、そこになんらかの全体像のようなものを見出すのは、観客のほうなのである。どれだけ見ても、どんな像も生まれてこない可能性もある。それでもこの〈再生〉の構造は、よく見ることへと観客を手招きする。最後の『街は水族館』を聞きながら思ったのは、そういう歓待は心地よく楽しいと同時に、怖い、ということである。
*1──「東京デスロック・多田淳之介インタビュー」(エンタメ特化型情報メディア スパイス、2022年7月21日)
*2──たとえば2006年の東京デスロック『再生』初演時には、3回目の最後の場面に俳優全員が血を吐くという演出がなされている。高木登による初演のレビュー「身体によって発想された身体による物語」(ワンダーランド、2006年11月17日)にも該当の場面への言及がある。
*3──ここでは、中澤が作中でたびたび見せた眼鏡を指で上げる動作が、ドーナツを掲げて乾杯するタイミングの合図になっていたと思う。個人の癖のようなものがタスクになり、繰り返され、それが観客にタイミングの感覚を生み出す。
*4──このことは、スペースノットブランクが独自に生み出した「フィジカル・カタルシス」という振付の手法にも関係するだろう。「フィジカル・カタルシス」においては、他者と交感しながら動きを次々と生み出し、そこから他者との関係を捨象して、自分の動きだけを繋ぐことでフレーズを作る、という方法が中心になっているという(筆者によるスペースノットブランクへのメールインタビュー、2024年12月25日)。振付は生み出された時点ではいかなる全体も志向していない即興のようなものであり、それを舞台上に配置するときにタスク的な性質を帯びると言えるかもしれない。偶然生まれた動きを舞台に上げるにはそれを「再現」しなければならない、というジレンマは、ダンスやパフォーマンスにおいて普遍的なものであるだろう。
レビュー
白尾芽:疲れるのは誰?
多田淳之介:新生『再生』