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光の中のアリス|松原俊太郎:インタビュー

スペースノットブランクと松原俊太郎さんの共作としては『ささやかなさ』に次ぐ2作目となる『光の中のアリス』。松原さんは『みちゆき』でAAF戯曲賞、『山山』で岸田戯曲賞を受賞し、京都を拠点とするカンパニー・地点と協働しつつ、戯曲に小説にとさまざまな傑作を作り上げて来られました。公演に先駆け、『光の中のアリス』はどのようにつくられなにを目指しているのか、地点とのクリエーションの違いはどこにあるかといったお話を、作品の保存記録を務める植村朔也がお聞きしました。

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松原俊太郎 まつばら・しゅんたろう
劇作家。1988年、熊本県生まれ。神戸大学経済学部卒。2015年、処女戯曲『みちゆき』で第15回AAF戯曲賞大賞受賞。2019年『山山』で第63回岸田國士戯曲賞を受賞。小説『ほんとうのこといって』を「群像」(講談社)2020年4月号に寄稿。主な作品に『忘れる日本人』『正面に気をつけろ』『ささやかなさ』等。2020年度セゾン文化財団セゾン・フェローⅠ。

稽古と並走して書くこと

植村 まず、どういった経緯でスペースノットブランクと仕事をすることになったのかをお聞きしたいです。早い段階での仲だったという風には伺っているんですが。

松原 京都芸術センターの「演劇計画Ⅱ」という企画があって、それに書き下ろした『カオラマ』という戯曲の第一稿をスペースノットブランクが読んで連絡をくれて。これは企画上、「上演を前提としない戯曲」で、特に初稿は手探りのなか書いたものだったので、どこが良かったんだろう……という感じはありました。だから、いまだにスペースノットブランクがなんで自分の戯曲に興味があるかはわかっていません。戯曲に関して上演以外にフィードバックをもらうということもないし。

植村 中澤さんは、松原さんの文章のリズム感や起伏、テンションの持っていき方がスペースノットブランクに近いと仰っていました。『光の中のアリス』(以下、ヒカリス)のチラシの宣伝文にも「ぜんぺん、クライマックス」とありましたが。

松原 そういう手癖みたいなのはあるかもしれないですね。スペノの起伏自体はあまりまだよくわかってないですけど、音楽の使い方とかは面白いですよね。
スペノが舞台で提示したいものは何となくわかるんです。テキスト自体をその時々のチームで作っていくというスペノの普段のやり方の中に、劇作家の書いた戯曲という異質なものをぶちこんで、これまでとは違うものを作っていきたいのかな、とはおぼろげに思っています。
地点の場合は書かれた戯曲を上演するという古典的なスタイルがあって、書く側としてはわかりやすい。書かれた言葉が声と身体に託されて観客に聞かれるというのは、とてもふつうのことだと思われている節があるけれども、すごいことだと思うんですよ。自分は、それにずっと感動しているはずなんです。そして、それはここ最近の演劇では見えないものになっている。
平田オリザ以降の現代口語演劇では、それまでは舞台にのってこなかったような日常的な言葉を、自然な演技態でそのまま演じることで、その微小な差異や日常性を異化・強調していて、ストレスなく見聞きできる。アングラみたいな異質な声はほぼ消えていて、ストレスなくそれこそ映画みたいに。でも、そういう戯曲は自分みたいなやくざものがわざわざ書かなくても、演出家を兼ねた作家の人たちが書くほうがいいと思う。

植村 お話をお聞きしていて、松原さんのような仕方で上演を想定する戯曲だからこそ、スペースノットブランクが戯曲を頼めるのだろうという気がしました。『ウエア』でゆうめいの池田亮さんと協働したときも、あくまで池田さんは原作者で、純粋な劇作家というスタイルは取っていないんですよね。
『ウエア』の場合、池田さんが書かれた言葉を編集して上演台本を作るというプロセスをたどっていたんですが、スペースノットブランクが松原さんの戯曲を上演する場合、少なくとも現状そういうコラージュをしていない。

松原 コラージュをしない、ということは、書かれた言葉のすべてが声として上演にかけられてしまう。これは書き手にはけっこう大変な事態です。今回は稽古動画を見ながら書き直すということをやっていて、いつもより上演に密接に関わりながら書いています。文学座に書き下ろした『メモリアル』も、できるならそうしたかったですね。ただ、このやり方は、すごい時間がかかるんです……

植村 今回の『ヒカリス』は難産だったという風に仰られていたと思うんですが、それはコラージュ的な上演でないことと、稽古を見ながら書き直すというプロセスが大きかったということですね。

松原 地点に書き下ろすときとは違って、完全分業の形はとらなかったということですね。地点は稽古の始まる段階で完全にパッケージ化されたものを渡すけれども、今回スペースノットブランクには途中のものを渡して書き足していくということをしていて。この形がよいのか悪いのかはまだわからないですね。
何度も再演されるということなら話は変わってくるけれど、基本的に上演は一回で終わってしまうので、その状況に向けて書かなくてはいけない。そうすると気になってくるのが、作者と演出家、俳優との関係で。書き直せちゃうわけじゃないですか。それって大丈夫なの? と思っちゃって。書き下ろしで劇作と演出を分けるというのは、相当綿密にヴィジョンを共有していかないとなかなか難しいという気がしていますね。でも、そちらの方が現状は可能性を感じる。

植村 それはまさにスペースノットブランクのクリエーションのあり方に関わる問題ですね。
中澤さんが、松原さんとスペースノットブランクは作品に近さがあるけれども、通過してきたものが全然違うから話がまるでかみ合わなくて面白いという風に仰ってました。

松原 そもそもかみ合ったことがあんまりない笑 スペースノットブランクと共有しているのは、個々のシーンがうまくいっているかどうかという強度かな。戯曲の作り方に関しては何も言ってこないし、戯曲の強度についてはこちら側で精査するしかない。

植村 地点の場合は戯曲の質について口出しがされる場合があるということですか?

松原 ありますよ。で、結構助かる。劇作ってすごい孤立して書いているので、外からの言葉って言うのはカチンとくることもあるけれどそれすらも重要で、影響もされる。
今回は読み合わせをして感想を言ってもらうということはありましたけれど、具体的に細かいところを指摘してくるということはなかったですね。

植村 それは小野さん中澤さんなりの、松原さんへの信頼のあり方なんでしょうね。

類型性の突破

松原 今回、小野さん中澤さんを除いても俳優が四人いるけれど、たとえば三人表に出して一人は裏方、みたいな書き方はできないんですよ。四人全員平等な形を目指す書き方でやっているから。

植村 それは、上演についての美学からそうなさっているんですか? それとも書く時に必然的にそうなるんでしょうか。

松原 書く時ですかね。チョイ役で存在感を出すみたいな書き方ももちろんあるはずなんですけど、あんまりそこに今のところ魅力を感じないというか。
戯曲の中の登場人物は、言葉を発していないと、存在することにならないんですよね。分量とかいう話じゃないかもしれないけど、これだけの言葉があってこそ役が存在するというイメージで書いています。
(『ヒカリス』の)イントロダクションにもありましたが、ぼくは戯曲では、固有名よりは類型化されたキャラを立てて書きます。その類型を最後には突破して、そこで個別具体的な固有名を獲得するまでの過程を描いているので、それなりの言葉が必要になってきます。
でも、台詞で類型を描写するというのがすごいめんどくさくて笑 『忘れる日本人』のころは類型をどう面白おかしくアイロニカルに表出するかを試行錯誤していたんですけれど、そうすると分量が嵩んでしまう。だから最近はどんどん短くしていってますね。

植村 そこであえて類型化のステップを積極的に踏むところも、スペースノットブランク的だと感じます。やりたいことは個別具体性の提示なんだけれど、あえてそのために一旦逆へ行くという手続きがある。たとえば俳優から言葉を拾っておきながら、誰が喋っているかわからない抽象的なテキストを用意する。
松原さんの戯曲も、どの登場人物の発話もある意味ではすべて松原さん一人の語りとも思われるような、わかりやすいキャラづけのないことが特徴だと思うんですよね。口癖だとかそういうわかりやすい手段でない仕方で、個別性に到達なさろうとしている。

松原 そういうギミックみたいなものも面白おかしく使えれば使っていきたいんですけど、まだその技術が全然ないですね。口癖みたいなものが、これまで自分の中に残ってこなかった。
映画だと言葉よりは顔や身振りの面白みがあるけれど、それを台詞だけで表現するというのはなかなか難しいですね。演出をしないので、最終的なイメージがあったとしても表現ができないから、どうしても台詞でそれをなんとか表現しなければいけない立場にある。

いま可能な「おとぎ話」へ

植村 『ヒカリス』はいつにもましてパロディが多いと思うんですが、それはどうしてなんでしょうか。

松原 新作をどうするか話し合っているときに、スペノ側が「明るい」ものや「ハピネス」という単語出してきたので、彼らの作風も鑑みて、「おとぎ話」みたいなのをやったらどうかと思ったんです。ふわふわした感じだけれど毒もあるような。
それで、今主流の「おとぎ話」と言えばジブリとかディズニーとかかなあと思って、それと合わせて、往年の歌謡曲とか、そういう懐かしさを醸すようなものを取り込んで、懐かしさそれ自体を主題化していきたいなと。

植村 わりとポジティブな動機からのことだったんですね。

松原 半々ですね笑 ジブリはいいですからね。なんの批判をするつもりもない。
ただ、懐かしさのなかにいるっていうのはどうなんだろう、とは思っています。今の若者の文化も8,90年代の反復のようなところがあるし、そういうノスタルジックなものを加工して気持ちいいものをつくっていくような、ヌルい快楽主義を今の風潮に感じてもいて。まあ、そういうのをネタにしつつなにか別のものを、いま可能な「おとぎ話」を創ろうというモチベーションですね。

植村 そうした非歴史化されたJ-POP的なセラピーが、広く『ヒカリス』では扱われていますよね。
ところで、イントロダクションでも指摘したんですが、松原さんは作品中で映像をよくモチーフとして使用されます。Zoomなどビデオ通話でのコミュニケーションが一般化したいま、映像に対する意識に変化はありましたでしょうか。

松原 今回は、それよりはアニメの身体を意識させられました。あの無理のある動きが、観る側にすごく自由を与える。CGだと嘘だなと思ってしまうけれど、アニメは嘘とかそういうレベルにない。それが生身の身体より簡単に受け入れられるというのはどういうことなんだろうと思ってます。
三次元は鬱陶しくて映像は楽。楽に観れる映像の中から、飛び出す絵本のように次元が変わっていくというようなことがしたいなと思ったんです。そうすると言葉のレベルも変わっていくだろうし、次元を変えていくことで書きやすくなる、書ける言葉も変わっていく。
当然かもしれないけど、映像の中の言葉って外の言葉と特に変わらないんですよね。何の新鮮味もないというか。そんななかでもゴダールだと、言葉が文脈から離れてモノとしてこちらに飛び込んでくる、アニメでは、たとえばポニョだと魚が半魚人になって人間になっていくっていう生成変化を扱いつつ言葉も変わっていく。舞台でもそうした変化をつけられないものかと試行錯誤しています。

地点と「かたまり」

植村 全体的な傾向として、近頃の松原さんの作品ではこれまでと比べて長いモノローグが減っていると思います。『ヒカリス』でも途中の稿ではモノローグがあったんですが、複数の台詞に分割されていました。

松原 上演を全く気にせずに書ければモノローグの使い方も多様化できると思うんですけど、上演に関わると、モノローグを託すというのが大変なんです。モノローグって作り方が結構特殊で、なんでもぶちこめるし、強度が作りやすいんですよ笑 書いてる方はすごく楽しいんですけど、それを舞台にのせるとき、俳優にものすごく負荷がかかるんです。
地点はコラージュ的な上演をするので台詞が短く切られるし、こちらもそういうやり方を知ったうえで書いている。けれどそのやり方でいくつか書いてきて、今はまた別のものが見てみたいなと思っているんです。

植村 先日地点の『正面に気をつけろ』をアンダースローで拝見しまして、松原さんもTwitterで褒めていらっしゃいましたけど、大変感動しました。

松原 こんなことがあるんだ!って思いましたね。2018年が初演で、去年の12月に書き換えたんですが、今年になってまたちょっと冒頭とか変わっていて。ほんのちょっとしたこと、微調整のたまものなんでしょうね、あとは全体のテンションが落ち着いていた。

植村 あれで落ち着いていたんですか? 僕は初めて観たので、かなり勢いに呑まれてしまいました。

松原 『正面』のモチーフになっている『ファッツァー』もあんな感じで間を詰めていて、台詞も早いしついていくのが大変なんです。

植村 僕はこれまで四度ほど地点をみてきた中で、今回が一番感動しました。アンダースローで観ること自体が初めてだったんですが、開演5分後から脈絡なく涙が止まらなくなっちゃって。

松原 早くない?笑 開演して5分って、空間現代の音が入ってきたくらいでしょう。

植村 そうですね。イメージの強度が凄すぎて、やられちゃったんでしょうね。言葉もイメージもすごく入ってきて、体が震えるのに近い感じで、これまでにないような観劇体験でした。

松原 ぼくも初めてのアンダースローで『ファッツァー』を見たときそんな感じでした。それが演劇の初体験で。『正面』よりもっとテンション高く始まるんですよ、『ファッツァー』って笑 いきなりドラムがバンバン叩き出して、台詞もバンバン入ってくる。演劇ってすごいなと思ってたら、それが他の劇団とは全然違うということに後で気付いた笑
今回の『正面』は三浦(基)さんも手ごたえを感じていたみたいですね。空間現代の力も大きくて、それに俳優も触発されながら一緒くたになって、理想的な関係にはなっていると思います。

植村 そうですね。忘我状態になってしまいました。アンダースローでの観劇自体したことがなかったんですが、初めて地点という劇団に出会ったような感覚がありました。

松原 台詞とかいうレベルじゃないですからね。「かたまり」でやってくる。
没入して観る方が俯瞰して見るより面白いとは思っているんですよ。でも、そうしているとやっぱり言葉が聞こえてこないし、なんのための台詞なのかもよくわからない。没入させようと思って書くのは難しいですね。

植村 忘我と言っても言葉自体はよく聞こえてきたんですが、批判的に観るというのが普段のレベルでは出来なかったんです。
でも、地点の舞台自体が理想的にはそういう鑑賞を要請している気がしますね。「事後的に」批判的になることを要求している気がします。舞台の現場では分節し得ない、(ポジティヴな意味で)空虚としか言いようのないものをぶつけてくるというか。松原さんはいま「かたまり」とおっしゃっていましたね。
昨日の『正面』は、時間の流れ方が違いました。僕は上演時間を知らないので、何分だったかいまもわかっていないんです。50分と言われても2時間半と言われても「そうなんだ」と思ってしまいそうですね。

松原 いいですね。70分くらいだったかな。理想的な時間ですよね。

植村 話は変わるんですが、昨日バスで京都を降りてしばらく歩いたときに、この町が松原さんの作品に与えている影響は大きいのではないかと思ったんです。僕は関東の郊外に住んでいるので、こんな多層的な歴史を思わせる街並みは散歩していてもないんですね。ロームシアターの近くにしても、平安神宮なんてものがあって、「日本」というものがハリボテ感も混みで強く感じられる。なんだか松原さんの戯曲について変に納得してしまったんです。

松原 住んでるんでそれなりに影響は受けてるでしょうけど、「京都」っていうものに何か感じるところがあるかというとそうでもないです。それにぼくも郊外に育ったので、感覚としてはそういう目線で観ています。
なんにもないほうがいいですよ。この辺はすごく整備されてしまっているし。京都でいいのは鴨川ですね。なんにもないから。郊外はなにもないでしょう。

植村 郊外のなんにもなさと、鴨川のそれは違いますよね。鴨川のよさは、僕がさきほど地点は空虚だと言ったことに近いんじゃないかという気がします、たぶん。飛躍しすぎですかね笑。

松原 笑。なにかあれば鴨川に行きますね。なにもなくても行くけど。

リーダビリティの問題

植村 『ヒカリス』は文章の抵抗量が比較的に少ないですよね。引っ掛かりが少ない。

松原 うん。すんなりしていると思う。稽古を観ながら書き直すことでなめらかになっていったと思います。その言葉の角ばった感じが面白みにつながっているかというとよくわからない。読みやすければ読みやすいほどそりゃいいだろうと思っちゃう。

植村 そうなんですか笑?

松原 笑。なんだろう、読みにくいってこれまでさんざん言われてきたから。リーダビリティねえ……

植村 僕は小説はリーダブルなものがすごく好きなんです。志賀直哉とか、武者小路実篤とか、なんでこんなに素直な物言いをするのかと思うと笑ってしまう。一周まわってシニカルだと思います。

松原 あそこまでいきたい、ほんとは。

植村 ただ、小説と戯曲とではリーダビリティの意味が全然変わってきますよね。戯曲のリーダビリティを上げることは松原さんにとってかなり大きな決断じゃないかと思うんです。作品の質が決定的に変わってしまう。

松原 小説のリーダビリティは上げたいけど、戯曲のリーダビリティはその要請自体がない。リーダビリティよりはリズム、声の印象を大事にしたい。

植村 なるほど。そうなるとやっぱり松原さんが意図してというよりは、稽古に応じてモノローグが減少していって、自然と読みやすい文章になったということになるんでしょうね。

松原 うん。演技の何がよくて何が悪いのかは、いまだに全然わかっていない。実際に舞台を見てみるまではわからない。書く時の必然性はむしろ必要なんですよ。モノローグはその必然性が作りやすい。でも、上演を強く意識すると難しくなる。

退屈に抗う────情動と笑い

松原 スペースノットブランクはこんなシーンの作り方には自分ではならないというのはすごいあるし、そこは楽しい。
ただ、ここ最近、演出の二人とメールでよく話しているんですけれど、テキストの中で強度を上げていったときに、そこで類型でも非人間的でもない情動が立ち上がるのを待ち望んで書き進めているところがあって、それがやってこない限り、終われないんですよ。終われないし、書いた意味がない。上演側がそれをテキストとは別のやり方で立ち上げなければいけないのは、相当難しいと思います。

植村 なにか主題やメッセージを完結させることよりも、そうした情動の生まれる瞬間があることが大事なんですね。

松原 逆にそういう主題に収まらない、これまで書いてきた物語の外から人物に立ち上がってくる言葉みたいなものを書けたらいいなと思って書いていて、書けたと思ったら終わるんです。

植村 松原さんはモチーフやテーマを作品を超えてかなり反復なさっていますが、それはそれらがクリシェ的になるよう意図的になさっているんでしょうか。

松原 そうだと思います。作家の固有性や固有のモチーフだとかいうのはまああるだろうなと思っていて、だってひとりで書いているわけだから笑 孤立して。
そのわりに、書く期間がすごく短いわけですよ。そのなかで戯曲を立ち上げるときに、取材して独自のテーマを構築していくのって難しいですよね。そういう風に作られたものはそれなりのものしかできないと思っています。それよりはもっと長いスパンで培ってきたものを使っていかないと、ということもあって似たようなモチーフを使いつつ、短期間でやってきた偶然のものをぶちこんでいって、別のところに迷走していくというのをやってるのかな。
でも、おおもとの自分の身体を変えていかないと、自分で自分に飽きてきちゃうというか。

植村 テーマでないところで新しいものを求めるというときに、スペースノットブランクは主に形式の面で毎回観たことのない物を追求していると思うんです。松原さんの場合、退屈せず新作をつくることのモチベーションはどういったところにあるんでしょうか。

松原 この前の『正面』は奇跡みたいなもので、自分たちの意図で出来上がるようなものではないんですよね。戯曲を書いたときに抱いたヴィジョンでは出来ていない。個人のそういうモチベーションとはまた別のところから毎回立ち上がってくる。
あと、笑いですかね。ここは絶対に笑えるというところが、毎回出て来るんですよ。まあ、それも飽きちゃうんですけどね。笑いはすぐに飽きる。古びない、飽きない笑いを作りたいですね。

植村 創作の核としての個別具体的な独自性が、松原さんが悲劇でなく喜劇を書かれることにも関係してくるということですね。

松原 そうですね。
最近は悲劇を書いてみたいなという気も徐々にしていますけど、ヴァリエーションが退屈なんですよね。ほんとうに自分にそういう経験がないと書けないものじゃないかという気はしています。

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植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

東京はるかに
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光の中のアリス|作品概要
光の中のアリス|植村朔也:イントロダクション

光の中のアリス|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。


 松原俊太郎さんの作品にはしばしば映像が登場します。登場人物たちは知らず知らずのうちにこの映像のうちに取り込まれているのです。戯曲の場合、台詞の大半がこの映像のうちで発話されていることも珍しくありませんから、上演にあたっては事前に映像を撮りおろして素直に舞台上で上映する、というわけにはまったくいきません。それでは、(おそらく)上映を期待されていない映像というメディアは、なぜ戯曲の筋に深く組み込まれなければならないのでしょうか。
 アウラの議論で知られるヴァルター・ベンヤミン「技術的複製可能性の時代の芸術作品」では、映画という当時の新メディアの特性が演劇との対比において語られています。そこでは「映画俳優は自分自身で自分の演技を観客に示すわけではないため、演技のあいだ観客にあわせて演技をおこなうという、舞台俳優にはまだ残されている可能性を失ってしまう」という事態が生じます。映画俳優は撮影機器の前で演技を断片的に展開するわけですが、それがやがて自分の知らないところで編集され、モンタージュされて観客に供されることを知っている。俳優は購買者たる観客からの視線を、彼らの顔を知ることなく一身に浴びる不安の中で仕事をせねばならない。「それは、ある工場で生産される商品が市場を把握することがないのと同じことである」。
 こうした俳優の「商品化」の過程と並行して、観客は「俳優とのいかなる個人的接触によっても邪魔をされることのない審査官の立場」で「テストするという立場をとる」ことになります。ここでの映画についての記述を詳しく取り上げ、この「テスト」という語の含意を詳しく展開してみせたのがジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』第二部です。
 このテストにおいては「熟慮や瞑想は不可能」で、細分化された刺激的な知覚において、観客はよいか悪いかという「瞬間的な反応――最大限に短絡された反応」を返すことしかできません。しかしボードリヤールによれば、「あなたが選択をおこなうと同時にあなた自身がメディアによって選択され、テストされている」のだといいます。映像は現実を「単純な要素に分解した後で決められた筋書き通りに再構成する」のですが、そこでは単純化されたあらかじめ「答えの決まっている問いしか現実に提示」されないのだと言うのです。そうした単純さに短絡的な反応を繰り返すうちに、わたしたちは社会システムが用意する類型的なパターンに振り分けられてしまいます。
 今日のメディア社会に生きる私たちにとって、そのようなコントロールは映画館の外でも日々一般的に行われています。映像がもたらした、Yes/Noの二分法に截然と整理された単純な認識を通じて管理・支配される人々、世界。
 心地よいか悪いかが全てであるようなセラピーが現代社会にはいたるところに浸透しています。ASMR、J-POP、甘いお菓子、シナモロール、わたしも大好きです。そんな単純さに飽きてしまう時があるとしても、そんな甘くてかわいい現実に飼い殺されて、わたしたちの革命衝動は奪い去られてしまいます。
 個人の欲望をコントロールするこの管理社会では、個人のアイデンティティも単純な要素に分解されます。松原さんの戯曲の登場人物は、しばしば匿名化され、単純なアイデンティティの集合として記述されます。
娘   子、相続人、象徴、モデル(『君の庭』より)。
 固有名詞が彼らにあてがわれることもありますが、それらは作品を超えて共有されることもしばしばの、抽象的なものに過ぎません。
 こうした個の全体性への溶脱は、主題の上でも諸作品を通じてしばしば反復されています。支配/従属の関係性が、時に相互に交換可能なものとして、様々に変奏されるのです。個人と国家。日本とアメリカ。労働者と雇用者。男性と女性。イヌと主人。

 このように平坦に均された退屈な現実で、希薄化した時間はたださらさらと無常に流れるばかりなのでしょうか。
 松原さんは戯曲を詩と小説の中間に位置づけます。論考「戯曲の読み書きについて」から、詩について書かれた一節を引用しましょう。

 詩は動かすことのできない一語一語、一行一行が身体を持っており、そのあいだの余白に身体の変化があり、この余白こそが身体を支えている。余白にある変化は常に潜在していて、読みは多重化される。

 この余白(スペースノットブランク)にこそ、散文的に線型化された社会システムを穿つ「革命」の機縁があるのではないでしょうか。驚くべきことに、松原さんの作品が備える内容や形式と、これまでスペースノットブランクが通過してきた作風とは、あまりにも多くの点で相性の良さを示しているのです。ここでその全てを取り上げることを諦めねばならないほどに。
 これまでの松原さんの戯曲の特徴に、尋常の発話ではない長大なモノローグがあります。誰に対して向けられているのかさえ曖昧なそれは、簡単な理解への抵抗を含んで、読みの多重化を誘います。読みが多重化されるということはそこに観客との「対話」が生じているのですが、このことは秋に上演された『ラブ・ダイアローグ・ナウ』のイントロダクションでわたしが紹介した、ハンス=ティース・レーマンによる「モノロギー」の概念に寄せて理解されるべきです。
 ブレヒトが没して半世紀以上が経過した今日においてなお、舞台から切り離されて俳優を外から受動的に眺める映像消費者のような観客が客席の過半を占めていると思われます。『ラブ・ダイアローグ・ナウ』の批評では、作品がこうした消費社会のモードに対して抵抗するものであったことを、その手段として商品化のコードを拒む本人性の強調や、ボードリヤールの詩的言語論を取り上げながら紹介しました。
 ボードリヤールの詩的言語論に関連して、なによりも強く指摘しておきたいのは、松原さんとスペースノットブランクが、ともに「死者」の問題をしきりに扱っていることです。
 ボードリヤールは「死者」が管理不能なものとして現代社会から駆逐されていることを指摘したうえで、システムにとってまったく異質なこの外部化された「他者」の招来にシステムを変革する希望を見出し、それを詩的言語の実践に重ね合わせています。松原さんの作品もまた、この「システムから外部化された他者」をしきりに取り上げるものです。『正面に気をつけろ』では戦没した死者たちが描かれます。『山山』の描く被災者や『君の庭』の皇族たちもまた、管理に組み込まれながら「外部」化された両義的な位置に身を置いています。
 また一方で松原さんの作品は、死んだように生きているとかいう時の、退屈な管理に飼い殺された状態をも、「死」という言葉で捉えているように思われます。個人が過度に抽象化されてしまうこと、あるいは関係性やアイデンティティの飽和を通じて希釈されることの「死」をわたしはスペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』の批評で論じましたが、それは松原作品における「死」をも貫通するものとして読めそうです。
 物理的な死、精神的な死、その他もろもろの死を経たのだろう、死にながら発話するゾンビのような人物たち。松原さんの作品を読むとわたしはしばしば『ゾンビランドサガ』というアニメを思い出すのですが、舞台に呼び起こされた「死者」は何度でも「死ぬ」ことができる。それがゾンビの最大の強みであり弱みなのです。
 外部化された「死者」と管理に飼い殺された「死者」が交錯する場としての舞台。それは、俳優によって立ち上がる言葉と観客との間の、終わりのない対話の場でもあります。
 スペースノットブランクは『光の中のアリス』を含め、2020年に8作品を上演しています(ここでは『ラブ・ダイアローグ・ナウ』は2作品分とカウントすることにします)。COVID-19により上演が困難となった時勢を鑑みればそれだけでも十分特筆に値しますが、それよりも驚くべきことは、そのいずれもがまったく新しい景色を展開していることです。終点を先取したようなクールな達観を備えながらも、スペースノットブランクはどこまでも加速をゆるめません。
 演出家ピーター・ブルックは退屈な演劇を<退廃演劇>と総称した上で、「<退廃演劇>の問題は、つきあって死ぬほど退屈な男の問題と似ている」と言います。彼に向けられる「溜息とは、彼が自分の可能性の絶頂ではなく、どん底に位置しているのを惜しめばこその溜息」です。そうだとすれば、不断に自らの可能性を問い、観客との関係をも模索し続け、「対話」を通じた新たな世界の可能性を絶えず形にしてゆく彼らの舞台は、「死ぬほど面白い」ということになるのではないでしょうか。

参考文献:
ヴァルター・ベンヤミン(山口裕之編訳)「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・アンソロジー』河出書房新社, 2011.
ジャン・ボードリヤール(今村仁司・塚原史訳)『象徴交換と死』筑摩書房, 1992.
ピーター・ブルック(高橋康也・喜志哲雄訳)『なにもない空間』晶文社, 1971.
松原俊太郎「戯曲の読み書きについて」『山山』白水社, 2019.


光の中のアリス|作品概要
光の中のアリス|松原俊太郎:インタビュー

光の中のアリス|推薦・応援コメント

映画の予告編ってあるじゃないですか。あれって、観客の「本編を観たい」という欲求を掻き立てるよう工夫して作られていますよね。で、実際に映画本編を観てみると、そこから受けた“感じ”と、予告編から受けた“感じ”に、隔たりがあったりします。時として全く別の作品みたいです。もちろん、予告編と本編は別のフィルムなのだけれど、じゃあ、本編と矛盾したことで今や“嘘”となってしまった、予告編だけが持っていたあの“感じ”は、観客を欺くためのフェイクに過ぎなかったのか。物語にまで達しないけれど、しかし本編よりも深刻に僕を魅了し、本編から逸脱する妄想や快楽を僕にもたらしたあの“感じ”。ラディカルでスタイリッシュな、あの何かです。それは僕にとって、予告編というプロモーションの副産物ではありません。ある種の“本編”そのものなんです。誰も言葉にしないから夢みたいに儚いその代物を、見事に捕まえた人たちがいます。スペースノットブランクです。これは、あなたがあの時探していた何かです。あるいは、あなたがこれから発見する“感じ”です。どうぞお楽しみください。

鴻池留衣氏[小説家]


初めてスペースノットブランクを見たのは表参道のスパイラルで、身体と言語がミックスされた特異な空間だったのを覚えている。スペースノットブランクというその名前の様に、空間は決して空白ではなく、常に時間は流れ続けていてつまり重力は掛かり続けて、次の空間へと全てが動き続けている。何もない空間に思えるスペースに形のない言葉と何も残らない運動が通り過ぎた後に残るのは消して空白ではなく、伸び縮みした時間つまり一瞬の揺らいだ重力の痕跡が残っているのを感じられるはずである。今回の上演もその独特な時間がロームシアターの空間を埋めるのを楽しみにしています。

敷地理氏[振付家・演出家・ダンサー]


スペースノットブランクを見ていると、あぁ、自分は一体何を体験しているのだろうと、困惑する瞬間が何度もある。

しかし、その上演で見た景色は、翌日、翌々日、一週間後、半年後、一年後になっても、まだ脳裏で蠢いている。忘れたいのに、忘れさせてくれない!

私の歴史に、否応なくスペースノットブランクが刻まれてしまった。舞台芸術の歴史に刻まれる日も、そう遠くないと思う。

額田大志氏[東京塩麹/ヌトミック]


わたしはこれまで、スペースノットブランクの作品として1作品、昨年の利賀村のコンクールで、お二人連名の作品として1作品観たことがあります。
どちらも、「舞台の上で何事かを表象する」ことの困難と希望を感じさせてもらったことを覚えています。
なにかにつけ制約の大きい舞台の上で、言葉と身体をかけてどう自由に飛躍するのか、そして、再び着地するのか、舞台作品の原点ともいえる部分へのこだわりとヴィジョンこそスペースノットブランクの面白さなんだと思っています。
ロームシアターでの上演、いち観客として、とても楽しみにしています。

野村眞人氏[劇団速度/演出家]


演劇を見ていてよくわからないものやことを目の当たりにすると、一旦俳優の靴を見るという習慣が最近ついている。意識の重心を下げて、解像度の高いよくわかるものを視界に入れることで、よくわからないものやことを特定のなにかに帰属させることなく、宙に漂わせたまま関わることができる。靴は舞台上にあるものの中で一番よくわかる。ナイキであればあるほどよくわかる。どれだけ身体や言葉が信用できなくても、俳優の履いている靴そのもの、身体の押す力と地面の押し返す力が重なるこの境界面は信用できる。

だから、今度はスペースノットブランクの靴とノースホールの床に注目して観てみたい。別に冷やかしているつもりもミスリードをしているつもりもない。スペースノットブランクの舞台は「立つ」ことの上に成り立っていると思う。スペースノットブランクの俳優は他でもなく「立つ」ために立っているし、強い意志を持って靴を履いたり履いてなかったりしているように見える。床のレベルから表現を立ち上げる人たちは信用できる。

福井裕孝氏[演出家]


こう書くこと自体、すでに何度目かだが、スペースノットブランクとの出会いは私にとって衝撃的なものだった。
過去十年以上、私は膨大な数の舞台芸術を鑑賞し、多くの新しい才能を見知ってきたが、スペノは間違いなくその中でも際立って非凡な作品世界を鮮やかに示していた。
最初の印象は「これはいったい何なのか?」「どうやったらこんなことがやれるのか?」というものだった。
それから私は可能な限り、スペノの上演に立ち会ってきた。驚くべきことに、彼らはその独自のスタイルを果敢に、大胆不敵に押し進めていった。持続と変化を併せ持った、目線の異様に高い終わりなきワークインプログレス。
いま現在、私がスペノに抱いている思いは「いったいどこまで行くつもりなのか?」「この先に何があるのか?」というものだ。
天才松原俊太郎との二作目のタッグの初演が、またもや東京じゃないなんて、京都でだなんて、なんてことだ!

佐々木敦氏


小野さんと中澤さんと初めてお会いしたのは、本多劇場主催の若手支援企画「下北ウェーブ2018」でした。翌年には、「ラフトボール2019」というショーケース公演にもお誘いいただき、再びご一緒させていただきました。いつもとても近いところで刺激をもらっていて、いつもとても贅沢なポジションだなと感じております。

わたしにとって、スペースノットブランクの作品は、知らない世界の扉をぱーん!と開け放たれる体験です。そこに嫌な感じや不安な感じはなく、むしろ新しい風や光が入ってきて気持ちがいい。出不精な人間なので、そのような作品に出会えることの有難さを、毎回劇場で噛みしめております。

京都での新作もとても楽しみです。応援しております!

中島梓織氏[いいへんじ 主宰/劇作家・演出家・俳優]


スペースノットブランクは正体不明だなぁ。何が出自かわからないけど、多くの人が決まっていると思っている演劇のルールを変えていくことを愉快そうにやっている。
演出2人いるってどういうこと?戯曲賞に6人連名ってなんなんだ。愉快だ。東京でしか観れないかと思いきや、豊岡、静岡、鳥取でも観れる機会をつくった愉快だ。
京都には社会状況のせいで来れなくなっていたけど、ついに来るんですね。どっかが拠点じゃないとダメだなんてルールは変えてくれる愉快さを期待して観に行きます。

若旦那家康氏[コトリ会議/ROPEMAN(42)]


スペースノットブランクとはいろんな事業やコンペで名前が並ぶことも多く、かながわ短編演劇アワード2020で出会ったときには互いに「お噂はかねがね」と言い合った……ような気もするし、演出家も2人体制で共通項が多い。作品は未見ながら不思議な縁を感じていた。
KAATで初めて『氷と冬』を観劇し、ほとんど反射で良いとは思わなかった。が、それはiPhoneが登場した時、ガラケーの撤退を予期できなかったような感覚に似ていて、とにかく「作品をどうやって作っているのか」がまったくわからなかった。
『舞台芸術の既成概念に捉われず新しい表現思考や制作手法を開発しながら舞台芸術の在り方と価値を探究している』だけは、あるな、と思った。
あれは紛れもなく「新しかった」し、そもそも「新しいもの」には良いも悪いもない、から「新しい」のであって、「新しいこと」それ自体にもう価値がある、とも思った。舞台芸術を更新しかける、というのは並大抵なことではない。
スペースノットブランクはたぶんそういうことをやっていたんだと思う。

その探究が、どれほど難しい旅かも想像に難くない。
だからめちゃくちゃ応援したい。

岡本昌也氏[安住の地/演劇作家・映像作家]


もしかしたらご本人達は、別の意味やもっとすっきりした表現を用意しているかもしれないけれど、スペースノットブランクという名称を私は勝手に「空いているんじゃありません、空けてるんです」と解釈している。だから最初は、これはちょっと理屈っぽい人達なのかなと身構えたりもしたが、創作のスピードも作品のクオリティも、理屈で済む小ささではなかった。1作ごとに変化するし、似た例がないから「こういう作風で」と説明するのは難しいが、毎回、脳と体を使い尽くしているのはよくわかる。確かにコンセプチュアルだけれど、あえて“空けてある”場所に彼らが最後に入れるのは生きている身体だ。客席で脳をかき回されたあと、そこにいつも打たれている。

徳永京子氏[演劇ジャーナリスト]


小野さん、中澤さんの暮らし方の中からも醸される創作上の原資が感ぜられます。
河井朗さんが演出なされた、お二人が出演するパフォーマンスを一度拝見しましたが、モーションや時間の流れ方が希有に思いました。機動性ということにおいても、特別なものを感じます。
私たちが運営するTHEATRE E9 KYOTOにて、本年8月に上演を実現できなかったことが、申し訳なくまた悔やまれます。
12月のロームシアター京都での公演では、気鋭の劇作家松原俊太郎氏と共作とのこと。
新しい時代の舞台芸術が切り開かれるのだろうと、楽しみにしています。

あごうさとし氏[THEATRE E9 KYOTO 芸術監督]


客席からスペースノットブランクを観るたびに思い出すことがあります。
周りは熱狂しているけど自分は冷めに冷めきってて、なのに忖度なのか保身なのか冷え切った自分を内に内に押し込み同調しなければならない、いやむしろ本当に熱狂してんだと思いこみ過ごした生活や仕事での後悔の数々です。
「媚売りめ、言いたいことを言う度胸もないのか」と言われてないのに言われてるような気がして劇場から家へ帰ります。
ベッドで目を閉じ、よく分かんないけどなんか焼きついちゃってるシーンを思い出します。この夢虚な時、ようやく押し込めた自分が出てきて、過去もスペノもいろんなことも褒めたり貶したり。
スペノを観た日は特に「真剣な人や不真面目な人を嘲笑っても尊敬しても、古いなと、新しいと、なんでも思ってもいいよ、むしろいろいろ思えよ」となんだか正直にさせてくれて、それは自分にとって結構必要なことで。
今年の3月に上演した『ウエア』の原作もスペノだから思うがままに書けました。楽しかった。そしてスペノによって立体化された舞台は恐ろしいほどの再現度とパッパラパーかよと思うほど再現してない度で浮き上がっていて。笑いました。どっちにも答える。確実に彩加と陽はそういない優れた演出家、パフォーマー。
スペースノットブランクは自分にとって、新品しか置いてないリサイクルショップみたいな場所。
それは初めて観た時からずっと変わってません。

池田亮氏[ゆうめい 代表/脚本家・演出家]


スペースノットブランクの作品は、どれも得体がしれない。掴みづらく、言葉にしづらい。それでいて、毎回なぜか見入ってしまうし、また次も見たい、と思わせてくれる。
そんなスペノが今度、松原俊太郎の言葉を演出するという。松原俊太郎の言葉も、だいぶ得体がしれない。この異色かつ挑発的な組み合わせは、まったく見知らぬところに私たちを連れて行ってくれるはずだ。大いに期待したい。

相馬千秋氏[アートプロデューサー]


僕は彼らと4年間共に制作をしてきて、常々思っていたのですが、スペースノットブランクの作品が本当に面白過ぎて、どうにかして京都の地で上演してもらえないか、京都の演劇シーンと呼ばれているものを、破茶滅茶の滅茶苦茶にかき乱してくれないかと切に願い、画策していました。それは東京から新しい演劇文化を招き入れることによる化学変化とかそういう話ではなくて、彼らの作品は常に形態を変容させ、いま現在演劇と呼ばれるものがどのようにして形成されていったかを垣間見る機会となり得るからです。
しかしそんな僕の画策虚しく、彼らは迷い込んだのか、光を探しに来たのか、ロームシアター京都にやってきました。
京都の皆さんこれはチャンスです。これから世界中のありとあらゆる空白を空間に変えるスペースノットブランクと劇作家松原俊太郎氏との最新作。観て損はなし。なぜなら今回の上演は皆さんも無関係ではないのです。彼らはこんなご時世と言われ生まれた空白の時間を光で埋め尽くしてくれるのですから。

河井朗氏[ルサンチカ 主宰/演出家]


京都の劇団安住の地の中村と申します。
まだまだ若輩者なので言葉を寄せることは僭越なのですが、初の京都公演ということで、微力でもお力添えになれば幸いです。
スペースノットブランクさんをはじめて拝見したのは、今年3月の「かながわ短編演劇アワード」でした。広い空間を“役者4人とマイクスタンド”という簡潔な舞台で使っていて、その舞台美術から作り手側のある種の「覚悟」が見えて気持ちよいなあと思った記憶があります。
ところで、わたしは疑いをもっている人が好きです。疑うというのは「物事を信じない」ということではなく「ほんとうにこれでよいか、もっとなにかあるのではないか」というポジティブな探求心という意に近いです。それでいうと、かながわの作品の時に「疑いをもってらっしゃる」という印象を受けました。
ごくごく個人的な見解ですが、京都演劇まわりは「疑いを持つ体力がある」人が多い気がします。
スペースノットブランクさんが京都で上演をされること、なにか面白い相乗効果が起きる可能性をもっているなとワクワクします。
まだまだ色んな対策を要される状況ですが、京都での公演がよりよいものとなりますよう心から応援いたします。

中村彩乃氏[安住の地 代表/俳優]


アルフレッド・ヒッチコックの映画以外で初めてこんなに人と人が顔を近づけながら話す作品を見ていると思いました。相手の息をそのまま吸っているような距離。しかもそれは映画ではなくて舞台でした。スペースノットブランクの『ウエア』。それは作品の冒頭で、この二人のやりとりが最後までずっとつづいてもいいと思いながら見ていました。作品には終わりがあるから寂しいです。寂しいからその二人に自分が作る映画に出演してもらいました。その一人の荒木知佳さんは『光の中のアリス』にも出演しています。スペースノットブランクのおかげで私の映画もあります。いつか京都でも上映するはずですが、知らずに見たら同じ人とはきっと気づけないと思います。スペースノットブランクの舞台に立つ人たちは人間という装いを脱ぎ始めた生き物のようで、出会うとびっくりします。

杉田協士氏[映画監督]


光の中のアリス|作品概要

ラブ・ダイアローグ・ナウ|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。


 スペースノットブランクは小野彩加さんと中澤陽さんが舞台を制作するためのひとつの場のようなものですが、そこから生まれてくる実験的な表現はあまりに多岐にわたっています。2020年3月に上演中俳優が全くその場を動かない『氷と冬』を上演したかと思えば、その次の作品として2020年8月に発表された『フィジカル・カタルシス』はほとんどダンスに近い舞台でした。ここでは、その舞台のドキュメンタリー演劇的側面を特に論じることにします。
 ドキュメンタリー演劇は、もともとは虚構性を薄めて客観性を高めた政治劇を指して用いられた言葉でした。けれどもドキュメンタリーの概念や社会状況がうつろうにつれ、その意味は大きな広がりを見せます。フィクションをドキュメンタリーの形式で表現する(モキュメンタリー)ことにより、現代社会での現実と虚構の境界の複雑さそれ自体を扱うことができるようになったのです。このような舞台では、俳優は自分のことを観客に向かって伝達します。それはしばしば、政治や社会から隔絶されているかのようにごく私的で個人的な、ささやかな日常の風景を掬い取るような形をとります。ドラマ性やリアリティの大小は作品によって大きく異なりますが、観客からしてみれば、そこで発された言葉の真偽を確かめることはできません。
 スペースノットブランクは、出演者と演出家が共同してテクストを構築する独自のプロセスが創作の要となっています。それは、俳優の生活雑感から、その場で紡ぐフィクションまで種々様々です。それにしても、このようにごく個人的な記憶から舞台がつくられていくのは、なぜなのでしょうか?

 ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』は、20世紀の演劇の展開を虚構(フィクション)から状況(シチュエーション)への移行として概括したうえで、場面外対話としての独白(モノローグ)を今日の演劇の特色の一つとして掲げています。もう少しかみ砕いて説明しましょう。
 通常舞台にはふた通りのコミュニケーションが存在しています。ひとつは、物語内で俳優が演じる登場人物たちの間で交わされる対話。そしてもうひとつが、俳優と観客同士の間で交わされる対話です。上演行為が戯曲──テクストの単なる再現表象を離れるにつれ、前者の場面内対話よりも後者の場面外対話のほうが前景化します。
 普通は上演中に観客が口を開くことはありませんから、後者のコミュニケーションを想定することは一見不自然なようですが、実際には視線、集中の気配、表情、そうしたものを受け取りながら俳優は日々演技をしているものです。これは、俳優がより良い演技を提供すればするほど、基本的に観客も集中や反応の程度を高め、それが俳優の演じやすさに作用するような循環的な過程です。もちろん、その逆も然りです。舞台と客席の間のこのような複雑で相互的なやりとりのありようを、ここでは広い意味で「対話」と呼ぶことにしましょう。
 現代演劇におけるモノローグは、登場人物同士のやりとりから身を引き離すことで、観客との相互的な場を生成させる企てといえます(レーマンはこうしたモノローグを、通常の独白から特に区別する意味で「モノロギー」と名づけています)。現代演劇は物語がもたらす感動ばかりでなく、双方向的な参与を通じた場の豊かさそれ自体、すなわちイヴェント性や出来事性をも志向しているのです。

 『ラブ・ダイアローグ・ナウ』はダイアローグ(対話)という言葉をタイトルに冠しながらもそのほとんどがモノローグによって構成されています。しかしそれがモノロギーであるとすれば、モノローグが同時にダイアローグでもあるような、この作品の特異な構造がわかりやすくなるかと思います。
 ところで、独白とはきわめて内省的な形式の言葉です。紡がれる言葉はまずもって俳優独自の身体から発された固有の言語です。そうした語りが、ほとんど匿名的な抽象性の中に溶解してゆくのがスペースノットブランクのクリエーションです。
 スペースノットブランクの舞台では、ある人の言葉が別の誰かに受け渡されます。今回、豊岡、静岡では古賀友樹さんと札内茜梨さんが出演なさいますが、鳥取では演出の小野さんと中澤さんが出演します。そのときは古賀さんと札内さんが演じていた言葉を、小野さんと中澤さんが口にすることになります。それから、ラブ・ダイアローグ・ナウはすでに三度形を変えて上演されています。今回のテクストは過去のどの公演とも異なる内容ではありますが、いくつかの言葉は今回にも引き継がれています。ですからいずれにせよ出演者は、自分のものでない言葉をしゃべることになるわけですが、これは役を演じるといういわゆる「演技」とはまた違ったレベルで、手渡された他者の言葉に出会うことだと言えます。
 そして、フィクションを交えた語りは、自分の言葉でありながら自分の言葉でない、別様でありえた可能性としての自分の言葉です。さらに、そうしてつくられた独り語りは巧みに編集されて、時に相手の言葉と響き合い、時に相手の言葉と分け持たれ、時に相手の言葉に奪い去られてゆきます。
 このように、俳優から見ればいくつもの「他人」と──観客と、他の俳優と、そしていつかのどこかの知らない自分と──「自分」の言葉が「出会う」ところに成立しているのが、『ラブ・ダイアローグ・ナウ』なのです。

 稽古場での言葉が上演されるということは、以前の公演も含め、作品のたどってきた過去の記憶が、上演の一時間に凝縮されるということでもあります。もっとも、これは実は舞台芸術一般の性格でもあります。舞台に載せられる言葉は、幾日もの稽古での反復によって研鑽され、そうした時間の重みを抱えながら、しかし観客にまなざされて舞台の今を生きる、不思議な言葉なのです。
 そして、様々な人々の様々な記憶をコラージュして作られるスペースノットブランクの舞台は、多様な解釈を許容するものです。作り手の伝えたい「正解」のメッセージがなにかあるわけではありません。それぞれの人が、それぞれの仕方で舞台を経験するのです。
 そうして持ち帰られた舞台の言葉やイメージは、時に新しい記憶や解釈と結びついてゆくはずです。わたくし自身、彼らの過去の舞台と終演後に新鮮な「出会い」を果たすことがしばしばです。
 こうしてさまざまな記憶や時間がひとつところに折り重ねられながらうつろいゆくのがスペースノットブランクの舞台です。豊岡、静岡、鳥取といういくつもの場所を旅する『ラブ・ダイアローグ・ナウ』では、遠い広がりを持つこれまでとこれからが、他の姿でありえる(た)可能性を大いに秘めながら、それぞれの場所と、それぞれのあなたと、それぞれの現在で「対話」することでしょう。モノロギーたちが「出会う」のは、このような「出来事」の地平なのです。


ラブ・ダイアローグ・ナウ|作品概要

フィジカル・カタルシス|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。


  「カタルシス」という言葉はアリストテレスがその著作『詩学』で悲劇の本質として掲げたものですが、この概念の意味するところについては実はあまりはっきりとしていないようです。悲劇の扱う「憐れみ」や「畏れ」を「浄化」するものであるという理解が一般的なようですが、その解釈もどうやら問題含みであるらしく、そんな難解な語を今日誰もがカジュアルに用いているのはなんだか奇妙なものです。
 この芸術論がわれわれを驚かせるのは、感性を重んずる近代以降の美学の伝統に反して、そこで追求される「美しいもの」がまったく理知的に理解されていることです。悲劇において最も本質的であるのはストーリーであって、場合によってはそれを上演する必要すらないのだとアリストテレスは主張するのです。カオティックで陰惨な状況をロジカルに線型的なドラマへと収斂させていく認知のプロセスこそが重要とされ、視覚効果や音楽、俳優の演技から受ける感動はまったく副次的な産物であるとしてほとんど顧慮されません。
 すると悲劇の本質たる「カタルシス」は、この「「ダンス」と「身体」そして「動き」についての舞台作品」にあてがわれる言葉としてはなおのこと不釣り合いであるように思われます。

 フィジカル・カタルシスはスペースノットブランクが昨年から始動した作品で、1年の内に4度にわたり上演されました。私は1月のd-倉庫、12月の穂の国とよはし芸術劇場PLATには惜しくも足を運ぶことはできませんでしたが、3月の青山スパイラルホール、それからシアター・バビロンの流れのほとりにて、という奇妙な名前の小劇場での5月の上演には立ち会っています。毎公演ごとに内容は一から作り直されるため、一度として同じ内容の公演はありません。
 もう何度か今回の稽古場に足を運ばせていただきましたが、基本的なコンセプトはこれまでの公演から大きく外れてはいないようです。5つのフェーズから成り、展開される動きは出演者が自ら振り付ける。演出の小野さん・中澤さんは、出演者が動きを考える元となる簡単なタスク(中澤さんの言葉で言えば、試練)を設定して、そこから生まれてきた動きを編集することに専心しています。
 演出家が振り付けを行わないのは奇妙なようですが、このような編集モデルはすでに一定の潮流を形成したものです。伝統的なダンスの作家主義を解体し、素材として用意された既成の動きを遊戯的に構成する新たな作家像がそこでは打ち出されています。ピナ・バウシュやウィリアム・フォーサイス、ジェローム・ベルといった作家からの影響については演出家が自ら認めるところでもあります。
 もっとも、振り付けも身体相互の種々の関係性から生成されたもので、出演者の自律性・主体性を盲目的に前提するものではありません。集合的で透明な構造と固有の身体との多重化を観るところにフィジカル・カタルシスの経験が成立します。

 先に「カタルシス」概念のダンスとの不和について述べました。ごく乱暴に言って、演劇を観る者は記号の充溢に対する認知に、ダンスを観るものは力動的なエネルギーの布置や現前する身体への感覚に、主に意識を向けるはずです。その意味で、フィジカル・カタルシスは演劇の知覚のモードをも積極的に許容します。動きは出演者らの間で反復され、共有され、攪乱され、綜合され、物理的な実在を超えたある種の象形文字として浮かび上がるようでもあり、こうして主体相互の関係性が舞台に立ち上がるような身体の「対話」を「認知」するプロセスが本作の根幹を成してもいるのです。
 また稽古で目立つのは、課された「試練」に耐えて息切れする出演者の姿です。パフォーマーに強い重圧や負荷がかかっているというわけではありませんが、それでもそこにあるのは優雅さへの洗練を欠いて、ささやかに「悲劇的」な受苦の身体です。とはいえ、この「試練」は快を伴う出演者自らの自発的な選択の連続によって達成されます。その身体の振る舞いはどこか朗らかで、ゲーム的です。そこでは、息切れする形而下的肉体とヴァーチャルなゲーム的身体とが二重化しているのです。
 ですが、ダンスでもありながら演劇でもある、タンツテアター的な作風の内にこの作品を数えることはできないでしょう。あくまで知覚のモードが演劇に接近するだけのことであって、舞台には「ドラマ」の断片さえも漂うことはない(はずである)からです。
 昨年5月のフィジカル・カタルシスは私がスペースノットブランクに本格的に夢中になるきっかけとなった作品でもあります。私はスペースノットブランクの特徴を脱色する還元的な前衛精神に見ています。昨年だけでも11作品という、生き急ぐかのような制作ペースで原初へ向かう後方への前進の精神です。
 越境という言葉は相互の領域とその境界のスタティックな関係性を含意しています。しかし本質的な越境は両者を揺るがさずにはおきません。出演者は必ずしもダンスの経験を持ってはいませんから、その身体から生ずるモーションは、長年かけて組織されたダンスのコードを離れて、「踊り」よりは「動き」と呼ぶのにふさわしいものです。ですからフィジカル・カタルシスがダンス・演劇という両者の性格を共に備えているとするのは誤りであって、作品が目指すのは両者を還元した先にある、より開けた「舞台」であるわけです。
 このゼロに向かう還元的な速度は終点を先取します。昨年5月のバージョンは首吊りによる自死を思わせるイメージで終幕しました。作品が論理的な関係構造への記号的な還元を含む限り、知覚のモードは身体とその動きを捨象する方向に傾きます。それでいて身体の多様の展開もまた、加速されれば熱力学的な死に向かいかねません。過度の飽和は無と同義です。フィジカル→語る→死す。
 昨年の私が惹かれたのもやはり彼らのこの遠心的な速度であったわけですが、否定性から成る「白」、この何でもない色は、たしかにこの世に受肉される限り澱みを含んで、まったく純粋な無色ではあり得ないと言います。しかし、空白でない空間(スペースノットブランク)――彼らのシニカルな眼は、すでにその終点の先、速度の先をも、捉え切ってしまっているかのようなのです。
 身体ある限り、還元と多様との往還、主知的な形而上的理念(カタルシス)と、形而下の感性的次元(フィジカル)との「越境」はどうやら止むことはないようです。前衛の果ての停止を超えて、スペースノットブランクが常に立ち止まることが無いのは、この生と死にあふれる夏が二度とは訪れないからです。


出演者インタビュー
花井瑠奈と古賀友樹
山口静と荒木知佳

イントロダクション
植村朔也


フィジカル・カタルシス|作品概要
フィジカル・カタルシス|ステートメント

フィジカル・カタルシス|山口静と荒木知佳:出演者インタビュー


山口静 やまぐち・しずか
ダンサー、振付家、ダンス講師。1990年4月12日生まれ。企画者として、自らダンサー、俳優、作家を集い作品を上演する『アトリエタキグチにて』などの公演を企画。ダンサー、振付家として、茶番主義!『白い馬の上で踊れ』、スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』などの作品や、中島トキコが手掛ける《POTTENBURN TOHKII》の展示イベントに参加している。

─────上演に向けて
コロナの話になっちゃうんですけど、コロナで学校が休校になった時に(それは春だったけど)、私仕事柄公園に行くことがよくあって、で子供が外でやることないからバスケとかをしてるんですよ。それもなんか小学生とかじゃなくて、高校生の同級生みたいな、女の子も男の子も混ざって、もしかしたら同じ部活なのかもしれないけど、公園のバスケのゴールに向かってみんながこう、わちゃわちゃしているのを見て「なんて健全なんだろう」って思ったんです。暖かい春に外でバスケなんて。でもそれって、本来の姿というか、どうしても、こう、教育とかもそうだけど、頭でっかちだな、と思って。知識を得るっていうことと、身体を動かすっていうことと、心を満たしていくっていくっていうことは、多分、三つの、全部、バランスを取っていかないといけないと思うんだけど、でも、知識を入れることとかがやっぱり優先されるし、そういうことの方が目に見える成果があると思ってて、身体を動かすっていうことがいつも後回しになっちゃう。コロナの間もこんなに時間があったのに、じゃあ実際身体を動かしてる人ってそんないない。意識しないと、生活から身体を動かすってことはどうしても離れちゃうから、そういうことを、本来人は動くことが身体に適しているんじゃないか、って気持ちをこの稽古にいると思い出す。だから『フィジカル・カタルシス』のダンスって言われるものは、私の中ではダンサーのためのダンシングではないと思っていて、それこそ、あの、働く動作みたいなものを織り交ぜているぐらいの自然な動きの組み合わせだと思っていて、その中にダンスの楽しさを再認識できる。から、そういう身体とか、そう思っている人たちの身体を劇場で見てもらえたらいいな、って思ってます。

─────ステートメントについて
・それは多様な選択ができるものとする。
強要されていない、っていう感覚はすごくある。求められていることに自分から寄っていく必要もないというか、自分の役割がこうなんじゃないかってゆうことが自分の選択よりも先行してしまうと、身体のリアリティがないと思っていて、だからこの身体が動きを出すっていう過程に於いて、他者からの干渉がないっていうのは、とっても強いというか、本来のその人の身体とか、アイデンティティの純度がもろに出てくるな、と思います。

・それは躰の内在と外在から構築される
難しい。自分がこう動きたいって思う衝動と、自分の目が実際に見てる景色。あとは、こう動いているだろう、って想像する力。がクリエーションの中に存在すると思ってて、動きを作る過程、多分、どれもある。こう見えてるんだろうなっていう自分の身体のフォームと、あとは、こうしたいっていう衝動から生まれたその外から見える姿を想像してない動きの組み合わせとか、ちぐはぐ感がこの創作の過程には点在してるかなっていう気がします。

・それは作家のためだけのものではない。
そこに足を運ぶ理由が自分の中にあるかどうかなのかなと思って。ひとりでやってるとちょっと離れちゃうかもしれないけど、自分が手を伸ばせる範囲で選択をしてしまうけど、だけど、ディレクターがいることで、自分が普段手を伸ばさないところ、得ようと思わないことに躊躇なく手を伸ばせる感覚があって、それは作家のためだけじゃなくて、多分演者にとっても必要なことだと思う。

─────ダンスについて
私は、ダンスが特別になることの方が嫌なんです。どれだけの時間をかけたかとか、どれだけの技術を得られたかとか、どれだけキャリアがあるかっていうことと、そのダンスの良し悪しって違うと思っているから、結局は心に触れるかどうかだと思うんです。そう。だから、ダンサーが自分から身体とか動きを楽しめなくなったりとか、探さなくなったら、終わりかな、って思っていて、いかに自発的に、能動的に身体と動きに向き合う意識を持ち続けられるか、なのかな、って思うんだけど、そういうことを教えてくれた人はいなかった気がする。良い意味でも悪い意味でも整いすぎてると思っていて、顔が綺麗な人とか、身体が綺麗な人とか、技術がちゃんとある人みたいなので構成されるグループの「薄さ」というか、そのコントラストのなさっていうかな、「薄さ」というのにすごく悔しい想いをする時がある。もっとマッチョの人がいたりとか、痩せっぽちな人がいたりとか、その身体の強さとかダンスの強さって、技術のあるなしとか経験のあるなしじゃなくて、その人間性とか意思の強さとかだと思うから、そういうなんか寄せ集めのサーカスみたいなごちゃごちゃしたダンスカンパニーとかダンス作品があったら、もう少しダンスを楽しめたかもしれない。

─────作品の中での自身の行為、役割、意識について
無責任かもしれないんですけど、前回(2019年)からメンバーとしては同じ作品を繋げているというか、継続して参加しているけど、あんまりこう自分の役割は意識していないし、前の作品をそんなに引きずってはいない、けど、確実に前回得た身体みたいなものがあって、それを別に再現するつもりはないけど、あ、これフィジカタの身体だみたいなのはあります。なんかその自分が見つけた身体が、現在もその感覚を持ってるってことがたぶん自分の役割な気がする。もし与えるなら。

─────


荒木知佳 あらき・ちか
俳優。1995年7月18日生まれ。俳優として、FUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』、歌舞伎女子大学『新版歌祭文に関する考察』、libido:『青い鳥』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『舞台らしき舞台されど舞台』『すべては原子で満満ちている』『ウエア(原作:池田亮)』などの作品に参加している。

─────上演に向けて
もうちょっと引き締めたい。稽古をしてて、すごくバスケ部の時の感覚に戻ることがよくあって、身体が、体重がほぼ小学校五年生くらいの時と同じ体重になってて、その頃の軽さとか疲れ具合がちょっと似てて今が。でも、小学校六年生が自分の最高に動ける身体だった気がするの。今、まだね、五年生なの。もうちょっと行ったら、六年生の最高の自分になれる気がするから、8月の本番までには、そこに行きたい。でもやっぱり実家だったし、毎日ご飯も出てくるし、朝ごはん、白いご飯に大好きないくらの醤油漬けとかかけて食べたり、美味しい、って。食に関して悩むことがなかったけど、今そこが自分ひとりだからどういう食生活で、その小六のベスト身体になれるか、がちょっとね、考え中。朝がね、食べれないのさ。バナナ一本とかになっちゃう。起きるのも遅いし。それをね、おにぎりとかにして、エネルギーをつけて稽古場に向かうってゆうことをしたい。あとね、バスケ部の身体になる、戻る、と、バスケ部の時の試合会場とかが急に思い出したりするの。はっ、て。ここで練習試合やったな、とか。みんなで差し入れのカロリーメイトめっちゃ食べてたな、とか。本当に会場が思い出されるの。見えるし、目に浮かぶぐらい。普通に過ごしててそういう現象がないから、稽古で汗かいて、ちょっと試合終わりじゃないけど、はぁ、ってなった時に、見える。試合会場。それがすごいから、本番も見たい。バスケ部のなんかの瞬間とかを思い出したりするんじゃないかなって思う。でも全部自分の身体でやってるし、動きたい動きをしてるから、嘘がないというか、ありのままの私を見てもらえるかなと思うし、四人のメンバーも良いんだよね。今日思ったのは、ゲーム、じゃないけど、四人、なんていうの、ゲームのキャラが居て、自分はどのキャラを選択して戦おうかな、っていう風に見れるな、って思って。お客さんが、AボタンBボタンを押して「あ、このキャラはこういう攻撃ができるんだ。」っていうのを、前半の方で確認します。そしたらだんだん「あ、このキャラで行こ。このキャラならボスを倒せる。」ってわかってくると思うので、そしたら、あなたがそのキャラになりきって、最後までゲームをしましょう。そしたら、終わります。この作品。きっと。まだね、最後までどうなるかはよくわかってないんだけど、きっとみんなでひとつのゲーム作品を作るんだと思う。動かしてるのは、あなたです。私でもあり、あなたでもあります。

─────ステートメントについて
・それは多様な選択ができるものとする。
私的には、「選択」は、見るものかな、って思います。身体の一部を見る、でもいいし、全体を見る、でもいいし、目薄めて見る、でもいいし、自分がその動いている人の足許から見たら、どういう気持ちになるかなとか、自分が見る視点が選べるな、って思う。私がみんなの動きを見てて、よく思うこと。

・それは躰の内在と外在から構築される。
なんか、自分で振りを作ったりする時に、こう動きたいなって思うけど、動きたいなと思ってやってみたら、やっぱ手の形はこうがいいな、とか「内側から出てきたイメージ」と、「動いてみての形」みたいなのの一番自分の気持ちいいバランスを探してるような感じがして、こう見られたいからこういう動き、っていうよりかは、内面と外側の良いバランスでできてるな、って思う。

・それは作家のためだけのものではない。
作家ってなんだろうね。作家ってなんだろう。もし私が作家だったら。ああ、作家って言えないんじゃないかな。わかんないけど。作家ってなんだろ。他の影響から生まれるものもあるし、それを考えたら、共同制作かもしれないし、みんなで作ってるかもしれないし、ちょっと作家、は誰なんだろう。

─────ダンスについて
私は、ノアダンススタジオに通ってたことがありました。大学一年生の頃に、友達とヒップホップ、「知佳ヒップホップやったら強そう。」って言われて、「あ、ちょっとやって見たいかも。」って思って、「二人でノアダンススタジオに通おう。」って言って、ヒップホップとか、そこで、すっごいたくさんのダンスのジャンルがあって、レッスンのコマを見たら、ジャズダンスとか、ヒップホップ、ロックダンス、で、ヨガも入ってて、バレエも入ってた。なんとなくそこに書いてあるレッスン内容は全部ダンスだと思ってる。ヨガもダンスだと思ってる。で、一番やって楽しかったのが、ヨガだったの。それは、呼吸が好きで、私書道もやってんだけど、書道とすごくね、似てるな、って思って。呼吸が大事だし、その日の自分の体調によって変わっていくとか。だから、「呼吸」が「ダンス」。だから、「生きてる人」はみんな「ダンス」。だと思う。なんでも。「ダンス」じゃないのは、ない。「書道」も「ダンス」。

─────作品の中での自身の行為、役割、意識について
「反復キャラクター」みたいな。自分がね、好きなのかな、繰り返すこと。繰り返すからできるようになることもあるしね。反復するとね、汗が出てくる。絶対。身体は変わってるけど、やってることは、同じことを繰り返す。見えてた景色が歪んで見えてくるのが楽しいの。花井瑠奈さんは、基本上にいる。細くて、浮いてるか、溶けてるか。で、山口静さんは、強い気。地面の土の栄養を全部吸って、葉っぱを咲かせてる。緑のような。植物がただ呼吸してる「自然キャラ」。古賀友樹くんは、カメレオンタイプ。カメレオンキャラ。ちょっと何しでかすかわかんない。ワープとかできそうだよね。何にでもなれるしね。良いメンバーが集まって、良いと思う。ひとつの村のような作品です。


出演者インタビュー
花井瑠奈と古賀友樹
山口静と荒木知佳

イントロダクション
植村朔也


フィジカル・カタルシス|作品概要
フィジカル・カタルシス|ステートメント

フィジカル・カタルシス|花井瑠奈と古賀友樹:出演者インタビュー


花井瑠奈 はない・るな
パフォーマー。1991年8月26日生まれ。2014年から2019年までテーマパークにてさまざまなプログラムに出演。パフォーマーとして、中村蓉『桜ノ森ノ満開ノ下デ』、サカサマナコ『静かな欠片』、新聞家『失恋』『遺影』『フードコート』、鳥公園『終わりにする、一人と一人が丘』、ひび『ひびの、A to Z』『ひびの、A to Z ~夜汽車のゆくえ!ver.』、ルサンチカ『鞄(作:安部公房)』、スペースノットブランク『ネイティブ』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『フィジカル・カタルシス』などの作品に参加している。

────上演に向けて
こんな時期ですが、もし見てもらえたら嬉しいなと思います。2019年に『フィジカル・カタルシス』をやっておりまして、3月と5月と、ちょっとだけ12月の『フィジカル・カタルシス』を経て、2020年の8月の『フィジカル・カタルシス』が生まれつつあるのが、今楽しいです。去年と人が違うので、それが最大の違いで、自分の取り組む内容だったり、方針だったりみたいなことはすごく大きく変わってはないような感じがするんですけど、一緒に居る人が違うっていうのが、かなり影響の強いこととして制作の中身に関わっていると思うので。あと去年とは社会の状況とかが大きく違ったりっていうこともありつつ、上演で起きることが定まっていくんだろうな、と思います。作品の中身についても言いたいこと色々あるけど、見る方がいいので、言うのやめます。このリハーサルが始まるまで、あんまり恒常的に外出していなかったので、なんか『フィジカル・カタルシス』が自分の中でのコロナ前と後の境目の線みたいな感じになっていて、だからなんだっていうわけじゃないんですけど、でも身体のことを扱っている作品でもあるし、なんか健康だったり、健康に生活することとか、健康な日々を重ねていくみたいなことがもしかしたら2020年版の自分の裏テーマみたいな物かな、と思います。リハーサルが始まって、リハーサル内のことじゃないんですけど、すごく印象的なことがあって、それは何かが起きたっていうわけじゃないんだけど、あと多分その自分の体調の周期みたいなこととかも関係がある内容です。内容は、あの、リハーサルの帰り道に、ときどき元気だったり、天気が良かったりすると、歩く場所を多くして帰るんですね。例えば、公園を歩いて別の駅から電車に乗ったりとか、家までの道でいつもより多く歩く道をチョイスする、みたいにしているんですけど、ある時すごく天気が良くて、風とかもいい感じの時に、視界に入ってくる緑色がめちゃめちゃ綺麗な時があって、でもそれは天候だけじゃなくて、絶対に緑色が鮮やかに見える身体の状態だったと思うんですよ。そういう「できあがった」みたいな状態を体感したのがすごく久しぶりに思って、すごいいい気分でした。これは、リハーサル二日目頃です。

────ステートメントについて
・それは多様な選択ができるものとする。
自分のやることとか、自分以外もか、なんでも選べる。ルールがないようで結構あるけど、でもそのルールはきっかけとしてあって、実際にどのぐらい何のルールに則るのか、とかも選ぶ必要がある。

・それは躰の内在と外在から構築される。
たぶん去年と同じこと言っちゃうかもしれない。もしかしたら。自分の中から、自分の考えとか身体の性質とかに則って出てくる要素と、人がいることとか、物があることとかに影響を受けたり、何か反応せざるを得なくなったりして、出てくる要素。

・それは作家のためだけのものではない。
まず、作る人々が居て、それで見る人々が居ることが想定されて、作られているわけなんですけど。さらにそれよりも外側に人々が居て、人以外も居て、とかまで含めると、自分一人がひとつの作品の中で身体を動かしていることはかなり些細なことに思えるんですが、でもそのことがさっき言ったような外の外の人とか、人以外とかに、どこかしらで共通点を持って繋がっていること。

────ダンスについて
私は、自分がダンスをしている人ではないと言い張ってここまできたんですけど、もしかしたら一般的な意味でダンスをしてきた気がしてきました。なんでかはちょっとわかんなくて、多分思うに、ひとつには、去年は仕事をやめたばかりで、仕事をしてる時は周りの人がある程度はダンスをしてきたみたいな人ばかりの環境に居て、なので去年は多分、私はダンスをしてる人ではありませんみたいな感じで話したんじゃないかな、と思うんですけど、今考えると、今はもっとたくさんの人と関わる機会が増えて、私はダンスしてたな、って気がしてきたっていうことと、もうひとつは、この作品について考えると、今回荒木知佳さんとか、古賀友樹くんとは、初めて一緒に『フィジカル・カタルシス』を作っているんですけど、その中で二人の身体は、かなり見たことのない動き方とかをする。っていうことを思って。多分それも一因として、私は自分が思っているよりも、ダンスについて見聞きしてきたし、ダンスをしたことがあって(ダンスの言葉の意味については一旦置いておくんですけど、本当は誰でもできるし、技術だけが必要なものじゃないから一旦置いておくんですけど、置いといて)、いわゆるダンス的なものに触れてきていたんだなっていうことがわかってきた。

────作品の中での自身の行為、役割、意識について
今回は、前回までの『フィジカル・カタルシス』で自分が行なっていたような行為とか、意識とは明確に違う要素があります。でも、内容に触れたくないので言えません。



古賀友樹 こが・ゆうき
俳優。1993年9月30日生まれ。《プリッシマ》所属。俳優として、ゆうめい『みんな』『弟兄』『巛』、劇団献身『最悪な大人』『幕張の憶測』『死にたい夜の外伝』、シラカン『蜜をそ削ぐ』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ネイティブ』『舞台らしき舞台されど舞台』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『すべては原子で満満ちている』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』『氷と冬』などの作品に参加している。

────上演に向けて
とにかく、今回の作品に限らず、すべては通過点であるということ。通過点であり、到達点である。それは作品としてもだし、僕ら一個人としてそれぞれが持ち寄れるその日の到達点。だから、もしかしたら次の日になれば全く違うものができあがってる可能性がある。言い過ぎかもしれないけどその余りの部分が、必ず存在する作り方をしていると思う。多分上演ではその部分には気付けないと思うけど、なんとなく、「メニューにそういうのもあるんだな」ぐらいに覚えておいてくれたら。裏メニューもある、ってことで。さらに僕としては、より日常をベースにしたいと考えていて、それは、歩くように、自転車を漕ぐように、バスに乗るように、それくらい日常に近付けることができたら、より理想の形。でも、ひとつフィルターをかけると、そうは見えない。けどそんなもんは大体なんでもそうだから、そこは諦めて、「僕はそういう考え方でやってます」って言う。もしかしたら他の出演する人々とか、関わってる人たちは、今までにない自分を見せようっていう人がいるかもしれなくて、それはそれですごく良くて、一番大事なのは「調和」ですから。「ハーモニー」ですか。調和が取れていると美しいんですよ。僕は、バキバキに動けるわけではない。そこそこ動けるくらいの人なので、バキバキは、バキバキに任せて、そこそこは、そこそこ見せればいいんですよ。悪い風に捉えないでください。バランスがね、取れていれば万事オッケー。料理と一緒ですよ。誰かが、作品を料理に例えるっていうのがある、みたいなことを言ってた気がします。今回の作品は、料理に例えると、そうですね。「ポタージュ」かな。いっぱい具材が煮込まれて、ほぼ具が見えなくなった「ポタージュ」。今現在はね。もしかしたら明日には「北京ダック」になってるかもしれないけど、今日の感じは「ポタージュ」。

────ステートメントについて
・それは多様な選択ができるものとする。
日々生きていると、色んな出来事を色んなバリエーションで解決するっていうことがあると思うんですね。僕はよくあるんですけど。道でよろよろ歩いているおじさんが居て、注視して歩く、とか。何か考え事をしているフリをして歩く、とか。無視して歩く、とか。戦いを挑む、とか。そういう選択肢が実はあって、常に何かを選択し続けていて、僕はよく、車道に飛び込むんじゃないか、って自分で思いますよ。『GANTZ』の見過ぎですかね。でも、本当思うんですよ。だからきっとこの言葉は僕らにも当てはまるし、お客さんにも当てはまる。もし途中で「外の空気を吸いたい」って、「もうやだ」って思ったら、外に、全然出てもらっていいと思います。僕も「もうやだ」って思ったら、全然外行くんで。一個一個は結構色んなことの「奇跡」が積み重なってるんで、その「奇跡」が、可能であれば、ずっと続けばいいかな、って思いますよ。

・それは躰の内在と外在から構築される。
まず「それ」って何なのかっていう話なんですけど、身体の内在と外在にあるもの。今パッと思いつくのは「魂」ですね。僕は、魂がどこに行くのかということを一ヶ月に一回くらい考えるんですけど、あの、小学校の時に「質量保存の法則」っていうのがあったんですよ。今もバリバリ現役ですけど。生き物が死ぬと少しだけ軽くなる、って話ありますよね。ね、あれ、魂じゃないか、って何かで見たか読んだか聞いたんですよ。で、その時に結構しっくりきたんですね、自分の中で。だから、その何グラムか、は魂で、本当にどこかに抜け出て行ってしまう。科学的に検証できないものだけど、そういう、なんだろう、この、チャクラか。気の力はあるんじゃないかって薄々、小さい頃から気付いてたんですけど、そのことをこれは言ってるんですよ。間違いありません。

・それは作家のためだけのものではない。
これは、その通りですよ。ただ、「作家」とは誰のことを指すか、っていう。これ、ミスリードなんですけど、これはスペースノットブランクのことでもあり、パフォーマンスをしている人たちのことでもあり、実は見ているあなたたちも、「作家」なんですよ、っていう話がありまして。夢を見る。「スリープ」の時ですね。あれを作っているのは誰か、っていう話を今思い付いたんで、自分の記憶を整理するために夢を見るってどこかで聞いたんですけど、あまりにもしっかりした物語の時があって、多分皆さんにもあると思うんですけど、あれって、ひとつの短いお話を見た感覚になりませんか。起きた時に。むしろ、感情が、わあ、ってなって、泣いたりとか、声出ちゃう時とかもあったりして、でもその夢を見るのに向き不向きというか、得意不得意があって、それはなんというか、才能もありますし、作る力だと思うんですね。構成力というか、自分の中でピースとピースを繋ぎ合わせる人が、夢を見る才能がある、と思っていて、で、夢は一旦ここで終わり。何かを見た時に物語性を感じたりとか、何か頭の中で音楽が流れてきましたとか、色が出たとか、文字が出たとか、それはまた違う脳の作りの話にもなってきますけど、要は「作家」なんですよ。今生きている皆さんは。伝わってるのかな。私「作家」。あなた「作家」。だから、ここに隔たりを作ろうとすれば、簡単に隔たりを作れるし、僕とあなたが、ちゃんとピースを繋げば、簡単に繋がることができる。それを舞台上で再現できたらなあ、と思いますけど、とにかく、僕たちだけではなく、あなたは作家であり、ちゃんと自分の作ったものに誇りを持った方がいいっていうことを言いたかった。

────ダンスについて
ダンスは音楽が必ずあるものと、なんとなく思っていた。というのも学校とかで教えられる○○ダンスとか、ソーラン節とかは必ず音楽がかかっていて、ここのメロディでこれをやる、この形、っていうのが強くあって、めちゃくちゃ嫌いでした。でもその印象が変わってきたのは、高校とか大学とか、それこそ物事はもっと僕の知らない領域よりもいっぱいあるんだっていう。ダンスのことを詳しく勉強したわけではないんですけど、音楽にもロックがあって、テクノがあって、ニューウェーブがあるように、ダンスにも外で流れてる音楽に合わせて踊るのもあれば、内側で流れてる音楽に合わせてるのもある。結局、音楽とは切り離せなかったですけど、僕の中では。でも、何かBGMがかかってないにしろ、自分の呼吸とか、自分のリズムっていうのがそれぞれにはあって、それにしたがって動いてる人を見ると、心地いい気分になるな、って感じます。

────作品の中での自身の行為、役割、意識について
『フィジカル・カタルシス』と言いますが、『フィジカル・カタルシス』は僕のことです。いや、マジな話で、僕を見てれば大丈夫です。不安な人は、僕を見ておけば大丈夫です。っていうくらいに、今回一応出演者として四人の名前が載っていまして、その中のひとりが僕なんですけども、僕だけを見て、他三人見なくても『フィジカル・カタルシス』は楽しめます。でも、これは逆もそうで、僕を見なくても、他三人だけを見る、でもいいし、その中のひとりだけ見て、他の人を見ない、でもいけると思います。根拠はないけど、そんな気持ちするんですけど、いや、絶対他の人もそう思ってるはずだな。いやこれインタビューでしょ。絶対他の人同じこと言うよ。楽しみだな読むの。もうちょっと喋りますよ。何か特別なことはしないので、そんなハードルを上げないでください。刺激はあると思います。「発見をする人」より、「育てる人」の方が偉いと僕は思っていて、だからね、教育者ってのは偉いなって。これは脱線しましたけど、教育者ってのは、資格があれば教育者ってわけじゃなくて、一本筋がないと、成立しないと思うんですよ。言ってしまえば僕も教育者。僕を見てれば、生徒になれる。いやこれはマジでそう思っていて、そう言っても、おかしくないですよ。信憑性ないかな。届かねえなあ。よし、終わりにします。


出演者インタビュー
花井瑠奈と古賀友樹
山口静と荒木知佳

イントロダクション
植村朔也


フィジカル・カタルシス|作品概要
フィジカル・カタルシス|ステートメント

6月28日

手で 触って 触れた 感じってやっぱ身に付けるものって特に重要だから、それはどう頑張っても無理だから、だからすごく惹かれる 可愛いな 欲しいな とか思うけど、触れるものは触れてから選びたい。

ワンルームだから、ツールームぐらいあったらいいのにな、とは思うけど。欲しい物は全部アマゾンが届けてくれる。プライムだからすぐ届いちゃう。近い距離に感じる、プライムになると、これをクリックすると、一日経つと、ドアの前に置かれてる。置いたらわかる。

古着屋さんを見て、ショーウィンドウの写真が載ってて、薄ピンク色の刺繍が入った可愛いブラウスと、ブルー系の涼しそうなロングスカートを飾ってるショーウィンドウ。自転車でも行けるから行ってもいいな、って思ったけど 値段が書かれてないからたぶんそんなに安くはないから買えるかわからない。行ってもいいかなあ って迷ってる。

それは今にはじまったことじゃなくて、ずっと。

RPGとかも、魔王を倒す とか、世界を平和にする っていうのが推進力になってる。物事を進めていく。だから 憑依する 感情移入する。だから要はごっこ遊びなわけで。ウイルスになるとしたら、地球の ウイルスである人間を壊滅させて よっしゃあ ってなる。感情移入して、やられてしまったら やられた 死にたくない 悲しい。ちょっと現実に置き換えると、感情移入する 点 を作ってあげないと人間ていうのは まるで他人事に考えてしまう。亡くなってから、本当に人って死ぬんだって思いました みたいな。

今の価値観で言ったら、死んでます。でも 細胞が一部分でも生きてたら、人間なんですよ。活動しているから。

たぶん生きてると思う、生きれてんのさ。でも大変なことになってる 子供が生まれなくなって 子供は生まれないけど 寿命を伸ばす努力をして だから 全然みんな歩けてます 歩ける。すごいね。若返りも当たり前になります。週一でホルモン入れますヒアルロン、歩く のは、脳と連動する機械を付けて、右行きたいな と思ったら体が勝手に右行ったりして。で、どこでもドア みたいなのも、できるから どっか行きたいな って思ったらすぐ飛んで行ける。世界 になってます。

この小指 小指の第一関節と 第二関節の 間 だけ、機械 とか。身体を機械化するのが流行ってる。オシャレ感覚で機械を入れちゃう。まだ全員チップは入り切ってない。首の後ろのチップを入れる技術はありますけど、それをやっているのは半分以下。

神様の視点というか、誰でもないけど、わんさかわんさかいて みたいな。

朝はだいたい 八時半から九時のあいだに起きます。八時半に絶対目覚ましをかけます。一回止めます。絶対に寝ます もう一回

普段しないような手間をかけるレベルでの料理をしたり とか、身体を動かして鍛えたり とか、書類を書くことがすごく多くて。イレギュラーなことをレギュラー化して生活してた。すごく元気 めちゃくちゃ健康 身体も大きくなった 厚みがね。あんまりわかんない。厚みね。

四十五分にもセットしてあります。四十五分なります。止めます。そこで ああ四十五分かあ って言って、カーテンを開けます。

やってることは全部 本能で やってることになって これ以外選べない ってなってるんじゃないかな、って思ったら もう まあ 運命 運命 っていうか決まってるある意味。もう こうならざるを得ない。だからこうなってる

例えば本を読むとか、明日やりたいこととか、いくつかあって、それをやるっていうことを選択していく、っていうことにしていこう、っていうのを決めました。後回しにしてたこと やるぞ、っていうことを決めました。トイレは毎日掃除していいな、って思って。物、出しっぱなしにしないようにしよう。食べたらすぐ洗い物しよう。料理を手間をかけて作る。疲れてるからやめとこうかな、って思わず、三分でいいからやろう、って思って。やったらやれたりするからしていきたい、と思ってる。

真面目さを出してしまうと不条理ネタがウケなくなるから、だから極力 人間味 というかそういうものを出さない。出してる人もいるけど、そういう人よりも、その人たちは、常人ではない。ばけもの なわけです。要は根を張ってるわけですね。だから、点数をより高く出したいわけですよ。発信して、人に認められたい、自己承認欲求を、少なからず満たしてるわけですよ。していいし、するべきだし、したくなかったらしなくていいし、ご飯と同じですよね。ご飯と一緒にしていいですよね。今日何食べました。とか。

ジャスティスを、ジャスティスを振りかざしてる。物悲しい、虚しい、やるせない、怒りを覚える。なんでだろうなあ

なんで お金とか あるんですか なんで こんなに元気 なのか なんで 豊か なのか なんか 不条理だ。

川と仲良くなる お友達になったら怖くなくなるかな、川の氾濫とかも。川を知った方がいい、ずっと思ってたの。思ってた の。川がずっと近くにあって、大きい川 だから、川遊びするような川じゃないんだけど、その川で遊んだりとか、川の堤防行ったりとか、川の科学館っていうのがあって、川の水流を調べられたりとか、氾濫したらこうなるよとか。川の科学館で遊ぼう。すごく思い入れが深いのは、川 と 川 だから、とりあえず友達は、川 と 川 だなと、

わかるようになってきた

ニュースの内容はなんでもいいのかも 村が沈もうが、焼かれようが。結局 なんのために 見てるんだろうな。

一時期ちょっと悲しくなった時もあって、出会える機能が 欲しい。

悲しい気持ちになるために かもしれないですね。悲しい気持ちになるために かもしれないですね。

自分のもの という意識が強く、これ は自分のもの ここ は自分のエリア ここ は私の居場所。ひとり、ひとり、が強くなり、我ら、俺ら、仲間だぜ みたいなヤンキーとか いなくなり、そういう集団性はなくなりました。だから、戦争は消え、戦争は、戦争も、なくなり、みんな ひとり で生きていける。能力を持つことができる。

悲しいことに、あの、死ぬ のはね。死ぬ ことが、難しくなっちゃうの。だから、もういいや って思ったら 脳味噌のボタンを押して、脳の機能を停止させたら 死ぬ ことができます。みんな機械 みんな、機械になっちゃう

ゆっくりメイクをはじめて、メイクが完成したら、お昼ご飯何作ろうかな お昼ご飯 の材料買ってきます。そして大体ちょっと疲れちゃうから 十時前とかかな、ベッドで一眠りして、家にある材料と作るものを決めて、よし この 材料を買おう、って決めてから服を着て、マスクをして いってきまーす。

左肩から先だけで働ける職場っていうのがあって、働きに行くわけじゃないですけど 左腕だけが働いている。

死んでます。でも 細胞が一部分でも生きてたら、人間なんですよ。活動しているから。報酬が家族に振り込まれる。全オンライン化した三菱UFJ銀行に振り込まれる。残念ながら脳は死んじゃったら使い物にならないので、リサイクルするしかないです。

左足が動いている 左手だけが動いている 半人間として人権が認められるようになるとか、ならないとか。左手にも人権を。右足にも人権を。腰から下だけの人。プラカードを骨盤に挿して歩いているのを見て ああ、時代だな って、娘が思う。手だけでも、顔は無くたって生きてるようには見えます。そういうのやってきたでしょ アニメーションの世界 は

居場所を作れるようにならないと、本当に 終わる ちょっと、念頭に置いてもらえたら な

タイミングがいまかいまかと見計らってる のがちょうど今、で あの あの感じに近いです。あの あのかかと落としで 対戦相手の耳を削ぎ落とした人 耳を削ぎ落とした時 みたいな感じで もう。じゃあ、違う、ええ バイオハザード。映画の方です。で、デストラップにかかってしまった兵士が、網目状に ピュン、ってなっちゃうじゃないですか。覚えてるかどうか微妙なラインですけど。ちょっと 力加えてみます。こわいなー どうしよ どうしよ いけてる いけてる これが 十グラムの バターケースでございます。それが今ですね

本人たち

6月21日

シンプル に続けることしかないっていう感じ。だし、やめないで、生き延びる ってこと。それだけな感じ。だから気持ちを強く 持って 持たなくてもいい、けど、それなりに気持ちを持って って感じかな。

なんで 髪切ったの

走ってた 走ったっていうか、半分歩いて 十七キロ。公園まで。走る 距離が、成果がわかる。距離が、伸びてくる っていうのが具体的にわかる。っていうのが達成感があるからおもしろい。外に、出ちゃえばいい。

具体的には決めてない。決めてないっていうのが結論ではある。結論の手前で、日々 ちょっと ずつ、これから 少し ずつ、達成していきたい。

アマゾンが燃えたり、異常気象が起きていたり、野生動物たちが 住む場所が、どんどんなくなって、人が住んでる場所に近くなって、関わりがなかった動物との関わりが近くなって、接触する。今まではコミュニティで止まってたけどグローバルになってしまってる 世界に。結局は人間とか虫とか生きてるもの。とにかく生きてるもの。一緒だけど、全部、一緒だけど、生きるために。生きる場所を探している。生きる場所を見つけている。生きる場所を奪っているから。因果応報なんですわ。

アンリミテッド。もう聴きまくり。

ちょっと血が止まっちゃう、みたいな感じ。

手元に置くなら、すごく気に入ったもの。やっぱりそれなりにお金もかけたもの の方がいいな、ってやっぱ思う。のね。最近特に。がんばって色々ちょこちょこ生活、し易かったり、気に入ったものを揃えてるけど、限界がある。狭いから。最近すごい素敵なお家の写真みたいなの、みたいなのを見て。URっていうのかなUR。広い家に住みたい。緑 が外にちゃんと見えるような。リビング 小さいテーブルが置けて。できたら バス トイレ 別。で、なんか気に入った 電球 つけて。人を呼んでもOKな お部屋 に。ここじゃあちょっと無理だ。ひとりでね、住むにはOKだけど。人は呼んでもいいけど。だからもうここには物を増やさない。もうこれ以上は。うん そうね そう だから アマゾン では買わない。

十七キロがこれくらいだってわかってると、漠然としてた距離が具体的に感じられる。川が多い。家の周りには、川 と 川 と 川 もう 川を制する、三本の川を走った。来年はマラソン走るぞ。

歩いて三分ぐらいのところに川がある。川まで出たら、ずっと川に沿って走っていく。と

すごいリスペクトしてるランナーのお姉さんにランニング以外にも使える素晴らしい商品を教えていただき。通気性はいいし、柔らかいし、それを履いて。上はなんでもいい。キャップをかぶって、サンガードにメガネして、見た目犯罪者なんだけど、家を出ます。

家を出て、川までまず向かいます。靴を履いて行く。川に途中の近所に高級老人ホームがデカくて綺麗。大きなお家が多くて高級いい感じの閑静な住宅街を通って川までまず。軽く 走って 歩き 走り の 間のジョギング。そう、その、まあ、一番しんどくないペースで。走り出して走るのに重要なのは速く走ることではなくてゆっくりでいいから長く走ることが重要なんだ。っていうこと。例えなら うさぎとかめ の物語。うさぎさんすごい速いんだけど、結局ゼーハーゼーハー、ゆっくりのかめさんに追い抜かれる。これは人生も同じだと思うんだけど。しんどくないペースで走る。走り続けられるペースっていうのを見つけることが大切。ペースを少し速くしてしまうと長く走れない。長く ゆっくり 長く 走る 人生を たまに

何してるんだろう

新居の、住み心地 どう

負けないで、もう少し。とか、そういうこと 最後まで、うん。走り抜けて、どんなに離れてても、心は

帰ることにしました。公園をゆっくり一周して、なるべくメートルに気をつけながら。歩いてる人は割と居て、ベンチとか遊具にはロープが張ってある。池に、溜まってる花びらがすごい綺麗で 写真を 撮りました。しばらく歩いて行くと、公園の、川の、端っこに出ます。駅を、坂を登るような道を 逸れて、進むと、公園の入口の反対側に。一瞬ここが公園なのかわからない感じで、だだっ広い 広場 みたいなところを通るんだけど、ちょっと川沿いはもう走れなくて、歩いて公園にも行けるから、そっちの道もすごくいい。とても可愛らしいランチのお店を発見して、そこにも行きたい。駅から川に戻って、川沿いをまっすぐ走って行くと、駅前に着きます。そこそこ栄えてて、スーパーがあったり、で、ちょうど 同じ 距離だから、あと少しっていう感覚で、駅にもお気に入りのベーグル屋さんが、あります。ベーグル買って川沿いで食べてみた、みたいなこともやったりしました。しばらく行くと、駅前に着く。また川に戻って、そのまままっすぐ、川沿いに走って、集合住宅の一階に、川沿いに、コーヒー屋さんがあって、そこはずっと開いてて、入らなかったけど 入ってみたい。そろそろ行ってみようかな、って思って。また川に戻って、ゆっくり走って行く。川沿いに、走って行く。と、まず駅前に出て、向かって左側に、川から左側 に逸れて、少し行った集合住宅の一階に、パン屋さんがすごく可愛くてお気に入り。バイト募集してたから電話したけど、バイトはできない。お気に入りの店だからよかったかな、って思って。駅に本屋さんがあって、お気に入りの本屋さんなんで、走ってそこまで行って、すごく本の並び方が見易かったり、小さいお店なんだけど。本 買った こともあります。

経緯

物資は送る けど どんどんもう住めない場所が増えて 技術はすごい発達してるんだけど もう住めない場所がすごい多くて そう その 少ない土地に住んでる人たち、外に住んでる人たち、っていうので分かれて、場所 とか関係 なく、

で、そこからまた川沿いをスタートする。信号。で、渡って、突き当たると大きい道路があって、駅まで、で、半分の距離。駅のすぐそばに素敵な八百屋さんがあって、そこは すごい いつもお気に入りで、いちご が二百五十円とかで売ってて、いちご を買って、あ、その前に、白い巨塔が見えるの。白い でっかい 巨塔が見えて、駅の近くにあるたぶんゴミ処理施設の塔。塔が見えなくなる瞬間があるのね、走ってて、一瞬、木々で、その、見えなくなってしばらくして、そうすると 突然 目の前にその白い巨塔が現れる。と、もうそこは駅。に着いている。走り易い町だ。公園もすごく大きくて、公園も近くにあるんだけど、お気に入りなのは、古墳。古墳じゃないか。昔そこに、縄文時代みたいな時から人が住んでた遺跡みたいなのがあるのね、そう、住んでた住居みたいなのが復元してあるんだけど、ちょっと小高い山みたいになってて、そこに行って、ありがとー、って木々たちにするんだけど、前は、前は、全然人がいなかったんだけど、最近はすごい子供とかが増えて人気が出てきてしまった。池みたいなのもあって、遊具もちょこっとあって、でもどちらかというと公園の方がだだっ広いから人気で、いつ行っても人がいなくて、行き場をなくした家族たちとか子供たちがそこに行くようになって、すごく人気が出てよかったね、って思いながら、横をまた走って行く。すごい綺麗なの、川って

アマゾンもいいけど、やっぱ、直接 見たい よね。

本人たち

6月14日

引越し たんですよ 三月末に。で、いまこちらがワンルーム なんですね。前と違うのは、隣人の存在 を感じないこと。隣人 というのは文字通り 隣人、お隣 さん 前はルームシェアを 形だけしてたわけ なんですね

この部屋にやってきた。

導入は とても静か で、なんだかちゃんとしているのか、していないのか、さっぱりわからない。まま、どんどんどんどん事態は深刻になっていって、それはもっと広い単位で。でもやっぱり 至るところ の 見てみると、人間らしい。っていうと、すごく聞こえがいいので 人間らしい って言うことにします。人間 らしい

ドアを、部屋のドアを 開いて 閉じて 中に入ると、一切横の音聞こえないんですよ。広々とした気持ちになる。部屋は狭いですけどね。ただ 縦には弱い。ああ 縦 じゃないな。2Dです。2D。見取り図です。どこを北にするかって問題もあります。とりあえず玄関のところの壁が薄い というよりは 音がよく聞こえる。よく 缶チューハイを開ける音がする。

直接的な関わりは断とうとしてるのに 犬を介してのコミュニケーションていうのが ここ にはありまして。発生する条件としましては 犬 と 犬 の散歩が かち合う。ことです。犬同士の 触れ合い が 飼い主同士の 触れ合い になって、さらに条件が整うと発動する、商店街の近くであるという こと。最後の条件。近くの店のおばちゃんがやってくる。そうすると、犬の数よりも人の数の方が多くなる。下で ちっちゃい ちっちゃい 犬 でかい犬いないですよ ほんと チワワみたいな ちっちゃい 犬 ちょこちょこちょこちょこ、ね。服着てますよもちろん、服着た チワワが わわわん て ちっちゃくじゃれあってる。犬たちの頭上で 飛び交ってる。そもそも商店街というものに対してマイナスイメージを持ってる人間でございまして。商店街は温床なんです。

入り口に空き缶入れがある。業者さんが持っていく用の黄色と青。の、黄色の方に ストロングチューハイ がめちゃくちゃ入ってる。毎回毎回パンパンになるまで ストロングチューハイ が入ってて、朝 六時、七時くらいになると プシュ、って音がする。窓際から プシュ、って音がする。

話すことに集中したいと思っている。だけど正直 バターのことが気がかりで、このバターを切る器具はめちゃくちゃ便利で 十グラム ずつにカットしてくれる。でも難しいのが ちょっと柔らかくないと 切れない。で、固すぎると 刃が折れてしまう。

アマゾン ていうくらいだから、とんでもない在庫量があるんでしょうね。だから一個一個の価格が安い商品とかいっぱいあるんです。洗顔料 シャンプー リンス とかの消耗品。最近買ったのは プロテイン。キッチンペーパー あと胃薬 バファリン。薬局の知恵よりもアマゾンの広大な土地が優っている。少し複雑というか、それはそれで便利だし 家のほとんどのものがアマゾン。ランプ 珪藻土 水を吸い取るマット タップ 三口の電源タップ 二箇所 突っ張り棒 全部アマゾン 半分以上アマゾン だからアマゾン由来のものがいっぱいあるんで、すごく便利な世の中になった。住み心地、今という時代の住み心地的には嫌なことも多いけど すっげえ楽。マジで。

ちょうどパソコンがありますんで、こちらを使っていきましょう。お待ちください。

パソコンがちょっと不調なもんで 検索します。

目線 誰

えーと レントゲンの記事と ブラジャーの記事しか出てこないです

国 誰

平均 ていうのが検索欄に出てきたんで ちょっと そちらも、

火を絶やさないように する。

おえっ ていうのが正しい カタカナで オ エ ちいさい ツ きもーい、とかでも おろろろろ、でもなく オエッ ちょっと話変わるんですけど 聞いてもらっていいですか

何年か前 おっきい地震がありまして そこまで うちは被害なかったんですけど、近くの家で完全に一軒まるごと潰れてたところがありました。教室に ある日 等身大バルーンみたいなのが届いた。

横並びというか、縦社会というか、縦の糸、横の糸 みたいな。そういうのが 苦手で すごく苦手で 流行は好きなんですけど、流行をつけたら恥ずかしいというか 大した話じゃないんですけど ね うーん なんか いいこと言いたいな。スパッ、と。切れ味鋭い。ここは時間を使っていいでしょう。今 認可が下りました。

元気ばい 変なキャラクター、元気ばい。ぶん殴ると こう なる感じ 元に 戻る感じのバルーン 変なバルーンあるなって思って、数日経ったら 校庭に集まって、みんなで写真撮影みたいなのがあって。後々知ったんですけど、それは、外の人に向けての 元気でやってます。元気ばいキャンペーン っていうキャンペーンの一環 の広報のものだったんですね。代弁されたんですよ。子供たちの声が 元気ばい って。まず ばい って使わないので その地域はそこまで。そこがすごく嫌だった。代弁されたこと 写したいところだけ写してるっていうところ じゃなくて、ばい って、言わないからっていうところ。元気ですよ 大丈夫ですよ っていう気持ちはないわけじゃない。でも勝手に大きい声で言われちゃうと、うっ、て思うわけですよ うっ、じゃなくて オエッ か。

前は二階に住んでて、今は一階だし、自転車のバッテリーも買ったし、豊か だから。心も 豊か だから。準備ができている状態。レディ って感じ RE、ね。マリオカートで あの雲のやつが吊るしてる。二番目まで点灯してる。感じ。ちょうど、ボタンを押すタイミングですよ

気持ち悪い

本人たち

6月7日

ベッドの位置を変えよう。部屋を綺麗にしなきゃダメだ。片付け してました。

物を 物を 出し、出す、整理して、まず置きたい位置に置きました。

新しい家に引越してきた みたいな気持ちになりました。すっごい便利なこのメイクケースとかも買っちゃったし、メイクケースとか これは、便利なの、もう。でね、メイク道具は綺麗に保たないと と思って、収納して。あと は あの 収納ボックスみたいなのをふたつぐらい買って、捨てるか、捨てないか、迷ってる、なんか昔。むかしの物。懐かしい物。むかしの写真とか、持ってきてて、この 部屋 に

似合う服とか あんまり見た目のこととか気にしなかったけど、合う服は なんなんだろう、とか 合う化粧は なんなんだろう、とか。考えないことを考えるようになりました。なんだろう、ね。見た目、とか。考えなかったことをすごい考えてる気、がする。服は 一緒に買い物行った時しか買わなかったんだけど

冬 冬、冬じゃない部屋着、部屋着もちょっと いつもだったら着ない物を着てみよう かな、とか。

ガーリーがいいよ。

オーバーサイズというか、ちょっとダボっとしてる感じが多くて、それが逆に太って見えるような感じにもなってんのかなと思って フィットな服も着てみたいな、とか、だからめっちゃお気に入りだった一番オーバーサイズな服を 売りました メルカリで 売れた 八千円で売れた 新しい服を買いたい

ガーリーだ ガーリーな服 ガーリーなメイク 研究して ガーリー なんだろう これがガーリーな服かな と思って一回着てみたんですよ。思う ガーリー なの、をね、絶対着ないようなやつを、で、そしたら鏡 試着して鏡 見たら ゲボ吐くと思って 気持ち悪くて気持ち悪いと思って やだー

どうしていったらいいのかは まだちょっとよくわかってないけど 媒体 できてしまった というか、ある から。でもまだそれが好きじゃなくて、あんまり好きになれてないというか疲れちゃうし でもそういう 媒体 のことをもうちょっと知らなきゃダメなのかな とも思ってきた 見たり。媒体 が増えていきそう。

髪の毛どうしよう どうしたらいいですか ね。この ロング、とショート、どっちがいいですか ね。

一番テンションの上がる髪で

顎が見えるから、ショートがいいんじゃない

なるほど ガーリーじゃないんだな テンション上がる服が着たいな、いいな って思う服。でもガーリーじゃないんだな

まず人件費削減のために 店長とバイト のひとりずつみたいになっちゃって、みんな削られて、学生も、みんな削られて。フリーターが優先されるんです でもみんな思うように入れなくなっちゃって、どうしようかな ってみんな悩んでたら、もしよかったらみんなで働かない って、そこにいるスタッフに みんなに宣伝をして、紹介カードというものを配って、毎日利用してる 三十秒ちょっとぐらいで着ける店舗と、二分ぐらいで着ける店舗のふたつあって、毎日行ってたし で すごい大変そうなの 品出しが間に合ってなくて いつも豆乳買うんだけど 豆乳が品出しされてなかったりして、この箱から取っていいですか、って言って箱から取る日々を送ってた

いらっしゃいませー、いらっしゃいませー すごいでっかい声で。

ひとまず千円、二千円、二千円と、あとの、三百五十円でございます。はい。

ひとまず千円、二千円、二千円と、あとの、三百五十円でございます。今日何時までですか。五時までです。って言われて 五時までか。ってなって。いらっしゃいませー 独特なんですよねイントネーション いらっしゃいませー ありがとーございます ありがとーございます。なんかねー かしこまりました ありがとーございます 当局からの厳しい指導を受けております。

当局ってなんですか

警察です。絶対 二回見なきゃいけない。二度 確認しないと絶対 ダメです 恐れ入ります、当局からの厳しい指導を受けております。

当局はなんですか、って訊かれたら

警察です、って答えます

五時に終わりました。頬骨の骨格を出すと小顔に見えるらしくって、だからロングでここを隠すよりも、ここを出してた方がいいんだって。で、ショートの方が気分があがるの。だから ショートがいいです。ショートがいいかも。ショートの方が、いいと思う。あ、毎日筋トレをしていました。昨日もやりました。そのおかげで、すごい痩せてて、外に出ると太っちゃう。

朝 ベッドが、枕が 窓に接するようにしたんです。だから朝起きてカーテン シャー、って開けたら ばー、って日差しが入ってくるの。だからそのおかげですごい毎日気持ちのいい目覚め。でも雨の日はどんよりしちゃうね。あれ 朝なのかな 起きれないね 雨だと

雨だとちょっと頭 ぼー、っとするな ず、っと眠いな 今日は

わかるようになってきた

本人たち

5月31日

5月31日

※ご視聴の際は、イヤホン及びヘッドホンのご利用を推奨いたします。
※テキストを基に字幕を設定しております。

本人たち

ささやかなさ|公演中止にあたって

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大により世界が「異常」に直面している今、舞台芸術の上演は目に見えない「ただしさ」にさらされている。わたしたち───スペースノットブランク───は未来に待っている(ことを願いたい)新しいまだ見ぬ「平常」のため、芸術という行為を画し、準備を進めたい。わたしたちがすでに過ごしてきた「平常」と、新しい「平常」とのあいだにある『ささやかなさ』をも、舞台に表したい。

しかし「異常」の後に「平常」はやってこない。
それは「平常」の中に「異常」があり、そして「異常」の中に「平常」がありつづけるようだ。

2020年5月2日(土)
小野彩加 中澤陽


ささやかなさ|公演中止のお知らせ

ささやかなさ、が書かれるに至った誰かのささやき

Powers of Ten っていう映像作品を見てると、10の2乗メートル宙に浮かんだぐらいのところでもうヒトやモノの差異がわからなくなる。青、緑、整理された区画、なんやわからんでっかい建物、そのなかにヒトやモノがうぞむぞいるんだろうなって感じ。システムが想定するヒトもそんな感じ。ケンブリッジ・アナリティカに好き放題いじくられてるのに、わたしなんにも感じない。目の前にいるヒトをそーゆーふーな無感情で見ることもできる。って、油断してると、足もとからでっかい鯨が白い飛沫をあげながら現れて、大口開いてわたしを飲み込んでしまった。
世界ってなんて素晴らしいの。
言葉がわたしとあの人を区別する。わたしが持ってる性質やブツを具体的に並べてってもそれがわたし固有のものであるとは言えなくて、わたしとまわりにあるものとを取り結ぶささやかな関係こそわたし固有のもの。だから何だ、って言われたら、まあ知らんけど、だから何だって言ってくるひととだって関係は結ばれてしまう。たまにはSNSやめてここに来てわたしの目じっと見つめてみたら? たぶん感動するよ? って思うけど、めんどくさいよね。ってな感じのなれなれしいことば使いで、わたしは誰かと誰かを区別する。その区別が誰かを傷つける。ほんまはそんな杜撰な区別で傷つく必要ないねんってわかってても、ささやかなさで凶器になってしまう言葉とそのひとの区別の手つきに傷ついてしまう。そこにはイヤがオーにも関係がすでにできあがってるし。即消去しなきゃならないものだらけで、日々がめんどくさい。わたしが社会に国に何を負ってるっちゅうねん、海で叫ぼうが街で喚こうが関係はどこまでもついてきよるし、あーいややいやや、やっぱりモノは凹んだ犬みたいな顔しないし便利、やけど、たまに会うレジのおばちゃんとのささやかな関係にだって救われることあるし? 漆黒の部屋んなかで鬱々とカップラーメン啜ってても外の空気に触れた途端……みたいにどっかでポジティヴに転じる瞬間があるし? あー世界ってなんて素晴らしいのって何回も何回も言いたい、一日一日のささやかなさ、よさをさ、保存したいだけなのよ、それこそシェアすべきものなんじゃないの? 死んで灰になるまで、キミとボクのささやかなさ、くらし系をさ、これから一緒に作っていこうよってキムタクには言われたくないけどたまたま現れた誰かには言われたいし言ってみたい……から、重い腰回しだそー


ささやかなさ|作品概要

ウエア|小野彩加 中澤陽:メッセージ

ご来場の皆様、ならびに出演者、スタッフの健康と安全を十全に考慮し、公演を実施いたします。

新型コロナウイルス感染症への対応、対策については、以下をご覧ください。
新型コロナウイルス感染症への対応、対策について(2020年3月1日時点)


『ウエア』がはじまります。

保存記録の 植村朔也さん が物語の内側と外側を繋ぎ、ご来場の皆様の想像による次の物語を生み出します。上演前の簡単なイントロダクションも行なっていただきます。

今回の公演から参加いただいている制作の 花井瑠奈さん がレセプショニストとして観客の皆様を物語へご案内します。

舞台監督の 河井朗さん と、音響と照明の 櫻内憧海さん により空間の全体像が構築され、物語の土台になります。

stackpictures の皆様には「舞台映像サポートプロジェクト」として物語をサポートいただいており、「長いオープニング」と「読むためだけの言葉」を制作いただいています。

額田大志さん の音楽が空間を切り貼りして、物語のイメージを助長します。

荒木知佳さん 櫻井麻樹さん 瀧腰教寛さん 深澤しほさん は、物語の原初であるアメーバとして、舞台を徘徊しながら物語を生み出し、実演します。

『ウエア』がはじまります。

2018年の6月から、原作の 池田亮さん と協働する構想を話し合い、原作の制作を進めてきました。『ウエア』というタイトルも2018年の6月からありました。舞台のための戯曲ではなく、物語のための小説のような形で書くことを決めて、じっくり時間をかけて書いていただいた結果、誰もいないメーリスに送り続けたメールが原作になりました。2018年の6月から、2020年の1月まで書き、送り続けて、メールに書かれた物語を池田亮さんの一部として受け取り、物語からイメージを抽出しました。物語は断片として、メーリスに送り続けたメールのように、言葉の集合体のように、なっているかもしれません。

池田亮さんは、自身が主宰する演劇ユニット「ゆうめい」にて、自身の実話を基にした物語を多く書いています。人にはそれぞれの生活があり、過去があり、それらはそれぞれに興味深く、人はそれらを共有することでわかり合おうとするわけですが、池田亮さんはそれらを物語として表現し、観客と共有しています。そしてその物語として表現する力量は、はかりしれません。

だから、池田亮さんが書くより純粋な物語を知りたいと思いました。
そしてできあがった『ウエア』は、池田亮さんが書いた現代の「神話」となりました。

物語の断片であり、メーリスに送り続けたメールであり、言葉の集合体であり、それらのイメージによって「私が私である」ことを自覚させられる池田亮さんの「神話」をスペースノットブランクとCHAOTICなコレクティブにより舞台にしました。DRAMATICなアドベンチャー、かどうかはわかりませんが物語を舞台に並べて待っています。未だ眠っている私たちの目覚ましを鳴らされようとする皆様のご来場お待ちしております。

今日も良い一日をお過ごしください。

2020年3月11日(水)
小野彩加 中澤陽


インタビュー
池田亮
額田大志

出演者インタビュー
荒木知佳と櫻井麻樹
瀧腰教寛と深澤しほ

イントロダクション
植村朔也

メッセージ
小野彩加と中澤陽


ウエア|作品概要

ウエア|池田亮:インタビュー

東京はるかにの植村です。

スペースノットブランクの新作『ウエア』上演に際し、保存記録を務めますわたくしが、原作を書いた池田亮さんに直接お話しをお伺いし、インタビューとしてまとめさせていただきました。

2万字を超えるインタビューとなりました。
また、インタビュー内容に作品のネタバレを含みますので、ご観劇をお考えの方は、観劇前に読むか、観劇後に読むか、ご自身の判断でお読みいただければ幸いです。

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池田亮 いけだ・りょう
舞台、美術、映像を作る団体〈ゆうめい〉代表。1992年8月31日生まれ。脚本、演出から俳優、彫刻から模型、小道具から大道具、映像まで手掛ける。2019年にMITAKA“Next”Selection 20thにて『姿』を上演。近年ではアニメ『ウマ娘』『チャレンジ1ねんせい』『けだまのゴンじろー』やYouTubeチャンネル企画の脚本を担う。

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植村朔也(以下、植村) 池田さんはご自身の記憶に取材して作品を書かれる印象が強いですが、『ウエア』はそうした予想を裏切るものでした。

池田亮(以下、池田) そうですね笑。僕はもともと彫刻とかをやってて、彫刻だと一人でものを作れるっていう意識があったから、だいぶイメージで作れたりするんですね。ただ、舞台となった場合はみんなで作るっていうことをやりたいと自分は思っていて。ゆうめいはいろんな人が関わる中で最初の共通を探そうみたいなところがあって、それで実体験や、取材してきた現実の根強い部分から立ち上げてくるっていうことを意識しているんです。三月にやる『ゆうめいの座標軸』ってやつもほぼほぼ自分の実体験とかからかなり引っ張ってきて作られてるんですけど、実際僕が自分一人の時って、イメージとかフィクションの方でだいぶ作っちゃったりとかして。フィクションは現実がスタートとしてあるけど、そこからどんどんずれてくみたいな、現実からどんどん離れてしまうみたいなのを自分一人だと作ってしまうので、ゆうめいの作る作品と『ウエア』はスタートの意識からだいぶ違うって感じですね。

植村 今後の具体的な展望はおありですか?

池田 今回池田亮っていう名前出して原作やったのが初めてな気がしてて。今までは全く名前は出さずに、誰もいないところのメーリスに勝手に送りまくったりとか、匿名を使って『電車男』みたいなことをひたすらやってきたので。嘘ついて、まったく嘘なのに、ほんとリアルに匿名な人からあっちも嘘かもとかわからないけどこっちにレスポンスしてくるっていう感じ。それでなんとなくな虚構を作ってるみたいな。それが例えばまとめサイトだったりにまとめられると、嘘からスタートしてるのにすごいリアルな返答をしてくれる人だったり、嘘だってわかってるかわかってないかわかんないけど冗談めいた返答をしてくるみたいな、なんかそういうある種すごい『ウエア』の世界に近いようなことばっかりやってきたので、そういう意味では今回自分の名前出すっていうのは初めてだなって思います。IPがばれたじゃないですけど笑。

植村 『ウエア』のLINEグループで「最高傑作です」と自信ありげにおっしゃっていたのが印象的でした。

池田 今までずっと匿名で作ることを僕は沢山してきて。2ちゃんねるでいうところの「名無しさん」みたいな、名前のない状態から自分の表現をしていくっていうのが今の自分にとっての結構なストライクゾーンみたいな。名前があるものって結局作者は誰ってところにだいぶ持ってかれちゃうと思うんですよ。自分だけの自分だけしか知らないものを作りたいって野望は凄くあったりしますね。これを書いたのは池田だと分からない作品を作りたいっていう。

植村 普通は自分一人で作る時の方が個性を出したいものだと思うのですが、池田さんは一人の方が匿名的な方向に向かわれるわけですか。

池田 たぶんそんな感じはありますね。『ウエア』も自分の名前を出さずにどう書くかっていう意味で、メーリングリストにずっと名前を変えた実在していないアカウントからメールを送り続けて「これ一体だれが送ってるんだろう」っていう。そこに作者の名前が出ないってことを凄い意識しながら作ってて。スペースノットブランクの二人が話してたのが、原作で名前を出すっていうこととか、いろんな周りの人と一緒に作るっていうことをあまり意識しないで、一人だけのものを作ればいいっていう。なんでまあ一応名前は出るけどそこはもう抜きにしてやろうって思って作った。なんで個性が出るっちゃ出てるんじゃないかなあと思う。

植村 確かにそうですね。けれど個性を出しながらも匿名性を志向なさるわけで、その原動力はなんなのでしょう。

池田 好みなんですけど、自分がなんかの作品を観た時に、作者の名前が出ていたらちょっと若干懐疑してしまうっていうか。作られたものっていうか、作者の方まで探りたくなっちゃうんですけど、それだと意図だったり発想だったり、作品とは別のところに行くなっていう感じがあるんですけど、逆に名前がなくていったいこれどういう人が書いたんだろうっていうと、いろんなことが想像できる。知名度だったり価値だったり助成金が取れるか取れないかみたいなそういうこととか、そういうところ抜きにしてやってるものに僕はすごい価値があるなみたいなことを。純粋に出てるなって感じがすごいするんですよね。

植村 池田さんは東京藝術大学のご出身でしたね。

池田 でも全然通ってなかったです。多分五回くらいしか。院の三年間で五回ですかね。一年留年しちゃって、城崎のアートセンターってところで卒業制作をしてた。一年から二年の進級の時は今まで大学外でやってた活動をプレゼンして「卒業制作こんなことやろうと思ってます」って言ったら特別に進級させてもらって、で、卒業制作はほんともうテキト―に作っちゃって笑、コンセプトも嘘ででっち上げて、そしたら信じてくれて申し訳ないなってほんとに。他の人達は一年二年くらいじっくりかけて作ってたのに自分は三時間くらいでもうホームセンターで勝手にテキト―な感じで作っちゃったやつで、コンセプトはその場ででっちあげたのに、そしたら教授的には「なるほどね」って言ってくれたんで。

植村 コンセプトって本当に嘘で作れるものですもんね。

池田 本当に嘘で作れるなと思いました。びっくりしました本当に。三時間で作ったやつは木で本当にテキト―な箱を作って、一輪車を乗っけて、で、テキト―に端材をくっつけたやつなんですけど、でっち上げたコンセプトは「親戚に子供がいて、子供が描いた絵を子供と描いた時間でこっちも立体として成立させる」っていう。

植村 もっと観念的な理屈の上でのでっちあげかと思ってましたけど、それは本当にただの嘘ですね笑。

池田 それで子供の教育とかにくっつけたんですけど。出来るものと、自分が何年間生きてきた上でのそれを立体として、で子供が遊具を描いたから僕も遊べる遊具を作りましたみたいな。

植村 子供はそもそも存在しないわけですよね笑。

池田 そうですね普通にいないです。で子供がこういう風に遊びましたとか嘘ついて、そしたら「なるほど、それは面白いねー」って笑。そしたら教授が信じちゃって面白い面白いって言って単位くれて。芸術ってマジ嘘っぱちだなーって思いましたほんとに。他の人とかもほんと一年間くらいかけてすごいでっかい大理石とか使って五メートルくらいのめっちゃでかい立派なやつとか作ってるんですけど、そういうの作ってる人に、自分のこと褒めてくれた教授が「ちょっとこれ見たことあるんだけどなぁ」みたいな事を言ってるときは本当にもう。ほんとテキト―な世界だなあって。有り難いなあと思いつつちょっと申し訳ないなあ、基本でっちあげなんだなあと思いました。

植村 『ウエア』は匿名性はありながらも、文章の書き手はどれも池田さん以外の誰でもないという解釈にも開かれたテキストですよね。そこが魅力的と感じました。

池田 確かにそれ(その解釈)含まれていい気がしますね。ゆうめいと全然違うってことがある種の匿名性になるのかなとか思って。原作と自分どっちが本当なのかわからないけど、どっちが本当なのか、それともまた別の人がいて別の人が書いているのかじゃないですけど、ちょっとこう自分を分散させたいなみたいな意味がすごいあったような気がしますね。自分をすごい分散させて、読んでる人が「書いた人が池田亮だから全部池田亮が書いたんだな」って思ってもらってもいいと同時に、でも自分のこと知ってる人ってやっぱ大抵ゆうめいの作品を知ってたりとかしてるんで、別のこういうものも作れるんだじゃないけど、全然自分の思ってたイメージと違うなみたいな、そういうところからなんか変わってくのかなあとか思ってたりはしてます。

─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 以下、ネタバレを含みます

植村 終盤の「あなたはきっと私に名前を付けるでしょう」という一連の台詞に気迫を感じました。これだけ匿名性をベースにした作品だと名付けに積極的な意義を与えるのが自然な道かと思うんですが、そうではなくて名付けが孤独に結びつくという……。

池田 そこはもう自分の思うところだなあというか。この物語のベースっていうか趣旨ですよね。

植村 名前についてどうお考えなんでしょう。

池田 個性を際立たせるっていうのがあると思うんです。世界に一つだけの花じゃないけど。僕はあんまりそうは思わなくて、みんなクローンだったらいいなあと思ったりする瞬間も結構あったりするんですよ。こんだけ人がたくさんいて、優劣も、異なってることもあって。異なってることがいい方向に働くこともあれば、悪いってことも相当あると思って。そうなった時に上下に縛られるっていうのじゃない別の次元に行きたいなって思って。個性とは別の場所ってなるともう自分は誰かわからなくなるし、自分ってものに名前も付けなくてもいいし。

植村 『ウエア』というタイトルはどのタイミングで思いつかれたのでしょう。

池田 一番最初に、舞台とか気にせず好きなものを書いてもらいたいって言われた時に、一番強く感じてたのは名前を付けるっていう。『ウエア』っていう名前も名前がぼやける名前にしたかった。母音だけの表現にして変化できそうな、色んな文字に変化できそうな、スタートとしての名前かなっていう感じで。一応皆さんはお金払って観に来てくれてて、じゃあ何に対してお金を払うっていう目印として『ウエア』っていう名前を付けたわけです。『ウエア』っていう名前から離れて名前を付けられるか付けられないか、っていうベースがあるって感じ。

植村 そのコンセプトで最初に作られた名前が「ニコンロ(※1)」と「ナミ(※2)」なわけですよね笑。
※1 『ウエア』の登場人物のひとり。
※2 『ウエア』の登場人物のひとり。

池田 なんででしょうね笑。僕にもさっぱりわからないです。何で出てきたのかなあ。名前もなんとなくそいつらがそういう名前を呼ばれてるんだなっていう次元からきてて、自然なイメージで。他の人にこう付けられたんだなっていう。で岡(※3)も最初に名前は正樹で「私は正じゃない方がいい」みたいなこと言ってるのも付けられた名前ってことで。ニコンロとかナミとかっていう人も誰かこういう経緯をもって名前を付けた人がいるっていう想像から生まれたっていう感じですかね。
※3 『ウエア』の登場人物のひとり。

植村 「メグハギ(※4)」という名前は自然に音の印象から選ばれましたか?
※4 『ウエア』の登場人物のひとり。

池田 最初は「恵まれる」とか「剥がれる」っていうそういう名前を考えてたんですけど、あまりしっくりこなくて、全然考えてなかったら勝手にふと「メグハギ」って名前がなんか浮かんできて。

植村 『ウエア(UEA)』というタイトルを意識すると「岡(OKA)」という名前は意味深な感じがします。そこに子音が混じることに意味はあるのでしょうか。

池田 たぶん『ウエア』っていう名前を付けてから「岡」っていう名前が出来てきたと思います。意味があると思います。正樹っていうのも岡的に本当は「止」っていう字が好きなのに上に一本加えられるっていうこととか、自分の好きなものになにか加えられるっていうことで、そこにフラストレーションが溜まって色んなことをやりだすみたいな人も多いなって思ってて。母音だけで成ってるものになにか加えられることによって変化が起きたっていう感じかなあ。

植村 池田さんは岡に自分を投射されていますか? それともどちらでもないのでしょうか。

池田 いや、どちらでもないと思います。誰にも感情移入してないです笑。誰にも感情移入は出来ないですね……。寧ろマジ何やってんだろっていうか。これあったらやだわあと思って書いてますね。

植村 岡が子音を剥ぐ話としては読めるわけですね。

池田 確かに。そう捉えられても全然いいですね。

─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

植村 池田さんにとってこの感覚の方がリアルなのかなっていう感じはすごくあって。テキストが小説とかというよりかはWEBを読む経験に近いですよね。複数の情報が、重要度を比較できない状態で並列しているじゃないですか。PC的な知覚をだいぶ意識されているのかなあと。

池田 かなり意識して書いたと思います。

植村 僕は『動物化するポストモダン』を連想しました。

池田 笑。

植村 色々な情報が平面的に置かれているなというか、あらゆることが互いに交換可能な場所に置かれている感じがあります。

池田 たしかにある気がしますね。自分が今何を信じて何を信じてないのかって、ネットにもあるしいろんなところにもあるしみたいな。で、嘘をつく楽しさだったりついつい言っちゃう冗談の中に本音があるみたいな、いろんな人に共通してる部分があるんだなあとか思いながら作ってましたね。全部を信じるっていうことがそんなに僕はできないので、例えばこのコンセプトがあってこのために作りましたっていうのをどうしても信じられなかったりする。すべてのものを均等に見せる表現をしましたって言われてもピンと来なかったりする場合が自分にはあったりして。なんか作品作るにしてもコンセプトっていうのがどうも腑に落ちないまま……。そういった意味で、それをディスるわけじゃないけど笑。自分で書いたのも言ったのも嘘だな、ほんとにそんなこと思ってるのかなみたいなことをずーっと思いながら書いてたって感じでした。

植村 中澤さんがこの前の稽古の時に、原作中に出てくる宮沢賢治を太宰治と間違っていらっしゃいましたね。太宰は初期の『晩年』なんか嘘に嘘を塗り重ねる作風なので、僕はほんとに太宰の名前があったんじゃないかって気がして。

池田 そうですね、間違えてましたね笑。ああいうの別に僕大丈夫だな。僕も「太宰治あったっけなあ」って。それくらいふわっとしてたってのがある。

植村 池田さんはどんな作品がお好きなんですか?

池田 彫刻家の船越桂さんの作品が好きですかね。彫刻をやりたいなって思ったのは彼の作品を観てプラス墓石とか見て作ったんで。あと映画とかだと『スタンド・バイ・ミー』とかすごい好きですね。それも墓繋がりで見たような気がします。

植村 お墓がお好きなんですか?

池田 墓参りとか毎年行ってて。そこから色んな好きなイメージが湧いてくるので。死んじゃったものが彫刻物として見えるみたいな。お水は上からあげたりっていうのもある種の作品として見えたりするなっていう。船越桂さんの作品もそういうのがイメージとしてあったんです。

植村 たしかに船越さんの人体表現には不定形なものにむりやり形を与えているような不思議な所がありますね。

池田 なんかこう顔だけ残ってるみたいな、置物として存在してるみたいな、なにか生命的だけど同時に動いていない物的なものっていうのが、面白いなって思った。そう見ると色んなものも生物的にも見えるし逆の静物にも見えるっていうか、その境目がなくなるなっていう、そういう視点が生まれたなっていうのがありました。

植村 静物画って、死せる自然ということですもんね。

池田 そうですね。そういう色んなものがフラットに見える瞬間って面白いなっていう。

植村 それはゆうめいでの活動にも通底する発想としてありますか?

池田 あると思いますね。さっき『スタンド・バイ・ミー』って言ったんですけど、たぶん『スタンド・バイ・ミー』がゆうめいの方なのかなって。死体を探しに行くっていう物語に惹かれて。生と死の境目がわからないっていう状態でエモーショナルで物語性があってっていうところに行くところの表現は面白いなって。ゆうめいっていう存在はだいぶそこから引っ張って出来てきたんじゃないかなあと。

植村 全てがフラットになるというのは『ウエア』でもすごく顕著ですよね。特に生と死がフラットになる感覚については、『ウエア』ではどの程度強いんでしょう?

池田 『ウエア』では生と死はそんなに出てきてなくて。生と死のことをあまり描こうって感じにはならなかったですね。

植村 これだけ虚実の境が見えないつくりで死の匂いが希薄なのは不思議な気がします。

池田 それは自然にそうなっていましたね。

─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

植村 これは勝手な推測かもしれませんが、ゆうめいの作風から離れた『ウエア』という作品に原作としてかかわる一方、なかばこれまでの総括的な『ゆうめいの座標軸』を発表されるわけですよね。それはゆうめいの活動に区切りがついた感覚があってのことでしょうか。

池田 確かに何となく、ポートフォリオじゃないですけど、ここまでやってきたことってのを見せてもらう企画でいいかなあって思ってたりしますね。ちょっとした区切りは確かについてるかもしれないですね、自分の中で。なんか新しい分岐点みたいなこともあるような気がしてますね。

植村 新しい分岐点。

池田 そうですね笑。でももともと『ウエア』は自分がずっと書いてきたものにすごい近くて、逆に言うとゆうめいがわりかし特殊な気がしますね。

植村 『ゆうめいの座標軸』についてコメントなどあれば。「座標軸」という言葉は随分示唆的ですよね。

池田 『弟兄』って作品があるんですけど、わりかし前作の『姿』に一番近いと思っていて、それはかなり実名を出したりとかして、現実がどうなったかっていうのを発表するっていうのに近い作品になってるんで、それが今のゆうめいのベースなのかなっていう。『俺』っていう作品は旗揚げの時にやったんですけど、一応現実から引っ張ってはいるけど、名前とかは全部創作だったり、創作の部分を加えたりとかして、もう終わっちゃった出来事とかあった出来事を経ての創作みたいな感じなんです。『弟兄』は現実でこういうことがありましたっていう発表なんですけど『俺』の場合はこういうことが現実にありました、それをもとに色々な目線で創作してみましたみたいな、その創作の中にはフィクションだったりが盛り込まれているっていう。一番旗揚げ公演がそういう感じだったんですね。旗揚げがだいぶ実話とフィクションが混ざってるっていう感じですかね。過去的な、過去に対しての創作物みたいな。

植村 『弟兄』の方は、過去の記憶を扱いながらも現在的な表現だったということですか?

池田 『弟兄』の方は現在形のものが入ってるなっていう感じですね。そうですね。

植村 それは今なお現在形のものですか?

池田 今なお現在形っていう感じが強いですね。だいぶリアルタイムを交えてる気がしますね。

植村 ゆうめいで作品を書くことの暴力性についてお聞きしたいです。書くことによって抑圧的な記憶に対しての復讐を果たしている側面があったのではないかと思うのですが、以前稽古で撮影された動画ではご自身の加害性について告白なさっていましたよね。それはこの復讐に一つケリがついたということなのかなと感じたんですが。

池田 だいぶケリはついてますね。『弟兄』もだいぶ自分の加害性にケリをつけた上での創作になるなっていうか。再演と言いつつ『弟兄』もちょっと変わってたりとか、自分の加害性とかいろんなものも盛ってったりとかしてだいぶ俯瞰して見るようになったなとは思いますね。

植村 それは『姿』という作品が大きいですか?

池田 だいぶ大きかったと思います。俯瞰する視線になっていますね。研ぎ澄まされたって言うのに近いのかなあと思います。『弟兄』の初演と再演はなんだかんだ言って自分の欲求みたいなのを結構ダイレクトに出してたなあとか思ってたりしてそれが暴力性に繋がってたんですけど、暴力性も顧みた上での再再演はそういった意味の自分をさらに俯瞰してるって意味での現在の発表みたいな感じになるなと思います。

植村 俯瞰というのは『ウエア』にも通じるところがありますよね。それだけ現在の心境がそちらによっているということでしょうか。

池田 元がそうだったのかなあと。匿名っていうものに対しても俯瞰できたからやってたんですけど、ゆうめいでいざ自分の名前を出すってことになった時に、実名を出すことへの視点がそこまで定まってなかったんじゃないかなあっていう部分があったりとかして、それが多分暴力的に見える場合もあるなっていうのは感じますね。暴力的に見えていいとは思うんですけど。

植村 距離を取って暴力をふるおうという?

池田 っていう感じなのか、でもやっぱりすごい不思議なことに、現実がそうはさせないというか。暴力をしている人に対して、なにか暴力は良くないっていうことだったりが実際起こったっていうものが、最近あったために、『弟兄』は結構暴力性が削がれているものになったなと。初演と再演は自分に暴力を振るってきた人に実名を出して糾弾するみたいなことやってたんですけど、その人から連絡が来ちゃって、で、「もう名前出さないでもらいたい」って、で、こっちも「名前出さないようにする」っていう。ある種暴力が暴力を押さえつけられたっていうことだと思うんですよ。向こうも暴力やってたけど、こっちも暴力したら、向こうもやめてもらいたいっていう、その。じゃあ一応抑えますけどっていう、そういうなんかあーやっぱ暴力性って出せば抑えてくる人はいるんだなっていうのがすごい強く感じて。

植村 一度実名を出されたことに対してはどう向き合ってゆかれるのでしょう。

池田 向こうは「公演では出さないで」って言ってるけど、でも別に個人で出しちゃダメとは言ってないから、公演が終わった後に気になる人は聞いてくださいっていうそういう感じですかね笑。電話してきた人たちも「これ以上」って言ってたから、今まで出しちゃったことに対してはもう容認してるのかなって自分の中では思ったから、じゃあこれから先はそういう関係の変化も現在進行形で表れるなっていうか。その関係の変化ってこっちが実名出すって暴力を削がれたものだし、向こう側から来たアプローチで関係が変わったって形になる。

植村 そういうことですと、これまでのバージョンをご覧になった方でも楽しみ甲斐はありそうですね。

池田 楽しみ甲斐はすごいあると思います笑。あーあいつだれだったっけなあみたいな。頭文字だけ言おうっていう演出を今してて。たとえば今から言うのも仮名なんですけど、「佐藤 洋平」さんみたいな人がいたら「さささ ささささ」みたいなそういう言い方をするみたいな。「さささ」役を演じる人も「あ、俺さささ、さささ。覚えてる?」みたいな。一種、初演再演を観た人にとっても「あれ、規制がかかってる」っていう面白さだったり。

植村 図らずしてゆうめいの方でも匿名性が増しているわけですね笑。

池田 そうですね、コンセプトとか全く別でやってたのに。こっちは現実を意識してて向こうはフィクションを意識してきたんですけど、図らずとして現実で現実的なことが起こったから匿名性に寄せられるみたいなことはありました。

植村 それはハプニング的なことではあるでしょうけれども、その匿名化になんらかの意味を感じたりはしますか。

池田 現実を意識してきたのにフィクション性が増すっていうのは面白いなっていうか。またそれが別の時空じゃないですけどこういうことが起きるんだっていうのは不思議に思いましたね。初めて再再演から観た人にとっては本当なのか嘘なのかわからなくなるんじゃないのかなっていうのは。

植村 今後ゆうめいで池田さんが発表される作品がどのようなスタイルのものになるのか見通しは立っていらっしゃいますか?

池田 一応なんとなく予想してるのが、たとえば『姿』ってやつは現実の諸事情によって、本当は現実を全部描きたいけど現実を全部描いたら問題が起きるっていうのが、それは法的なものとか、実際にその、被害を蒙る人とかも出てくるから、ところどころフィクションを入れてますってことだったんですけど、で、それで成り立ってたんですけど、次ゆうめいでやろうとしてるのは「全部フィクションですよ」って言いながら全部本当のことをやろうかなっていう風に考えてますね。

植村 その手つきは今ここで晒しちゃって大丈夫なんですか笑。

池田 たぶんまあ、そうですね。気付く人は気付くしみたいなことになるし。フィクションと言いつつ現実にかなりアプローチしたものになりそうだなと思ってますね。

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植村 池田さんとスペースノットブランクのお二方との信頼関係は厚いなと感じます。お二方は他の方の舞台芸術作品についてあまり言及しない印象があるんですが、池田さんの作品についてはよく話していたので。

池田 そうですね。中澤さんに関しては以前二度ゆうめいに出てくれて、一番最初に出たやつはかなりフィクション性の高い舞台で今のゆうめいとはまた全然違う、それこそ自分のやりたいものとか、詳細とか緻密に作っていくものじゃないものを作ってたので、そこに出演してもらって、その次にいまのゆうめい的な、蓄積しながら実話の軸は変わらないものを作ってきて、その二作品、フィクション性の高いものと、ノンフィクション性の高いものに出てもらった時に「フィクション性が高いものの方がおもしろい。で、そっちの方を書くべきだ」とずっと言ってきてたから笑。僕一人が作るものっていうものにすごい興味を持ってくれたんだなあと思います。ノンフィクションだと取材してそこのつながりで作ってるってことだから、ベースがノンフィクションにあるから、それだと複数色んな人に関わって来るから、ってなるんですけど、僕一人だけのところからスタートして物語作ってた方がおもしろいって言ってたんで。

植村 フィクションから出発した方が池田さん的だと。

池田 そうですね。

植村 『ウエア』全体の中で何割くらいが池田さんの実体験から引き出されているんでしょうか。

池田 たぶん一割にも行ってないくらいだと思います。間に入って来るアニメとかのやつは自分の経験をもとにしてフォーマットを作ってますけど、自分の経験だったり、噂話からもってきたりすることとかあったり。自分の実家の近くに実際その、鳩小屋があって、そういう薬物とかやってる人がいてみたいなことは知ってるけど、そこは実際はそんなに踏み込んでないしみたいな。何かそういう場があったなっていう。実際本当にそういう場があったのかっていうのも自分に疑問を持っているところがあったりして。

植村 実際に「ヨクジョー浴場」があったことはお聞きしました。

池田 あー実際そういう場所はあったりは。名前は変わってたり、風俗ルポみたいなシーンも大分嘘とか盛ったりしてて。

植村 ゆうめいの場合は嘘を混ぜ込むことは少ないですか?

池田 結構少ないと思います。見せ方は変えてるけど芯の部分は変えてないなっていう。芯の部分をベースとして、変換して表現してるっていうのがゆうめいなんですけど、こっちの場合は芯の部分ごと変換してるから。

植村 形式にご自身の経験は生かされているけど、中身にはあまり使わないし、使っても嘘を入れるし、ということですね。その中で池田さんの記憶を用いた箇所には、特別な意味があったりしますか? お聞きしていて、あえて記憶の中でもあやふやなものから立ち上げているのかなという気がしました。

池田 そうですね。そこもありますね。あやふやで、あやふやだけどこっちが勝手に想像してイメージつけて肉付けてるみたいな部分とかあったり、あとは自分の体験から引っ張ってきてる部分とかって後々読み返せばわかるんですけど、その時書いてるときは全く別の時空で書いてるみたいなのがあったんで。

植村 書き終えて後でその意味に気付かれた箇所があるということですね?

池田 プール教室のシーンでジャグジー潜るっていうところあったじゃないですか。あそこ僕ジャグジー自体一回も潜ったことなくて。ジャグジー潜るの恐いんですよね。

植村 じゃあ「ヨクジョー浴場」のシーンも嘘なんですか?

池田 嘘ですね。一回も潜ったことないです。ジャグジーって僕トラウマがあって。月曜日のコナンとかが終わった後にやってた世界まる見え!何とか特捜部ってやつで、ふざけて温泉に潜っちゃった海外の女性が排水溝かなんかに引っかかっちゃって窒息しそうになってそれをレスキュー隊が救うみたいなVTRをちっちゃいときに見たんですね。そん時に怖えなって思って。ジャグジーとか水がぐーって出てるああいうところになんかの拍子に引っかかっちゃったら、髪の毛が引っかかったりして出れなくなったらどうしようって思ったりして、かつジャグジーだから泡ばっかりでどこにひっかかりがあるのかわからないっていう、それが凄い怖くて、ジャグジーは絶対潜らないって決めてたんですね。それを思い出しました。ジャグジーって絶対自分は潜らないって考えてたし潜ったら怖いってなるけど、勝手に潜った時の風景とか想像してできたから、それで後で読み返して、なんでジャグジーのシーン書いたんだろうなって、あーそこかーみたいな。自分の潜んなかった場所とかをすごい考えてたりしますね。

植村 ない記憶だけどトラウマに出発している。そこでも嘘と現実が混じり合っていますね。

池田 そういえばジャグジー嫌いだったなみたいな思い出されたりして。書いてるときは全然そんなこと思ってなかったんですけど、どっか想像で書いてる場所は自分で体験しえなかった場所を描いてたんだなあみたいな、そういうことは思いましたね。

植村 この前の稽古で話されていたカーペットのエピソードも印象深かったです。

池田 ああ、人形がどっか行っちゃう話。あれも多分あそこの場で話すのが初めてで、それ以外で話したことなかったんですよ。『ウエア』っていう作品を初めてやる時に勝手に自分の中でイメージで岡ってやつがメーリスに送るとかってなってるときに、なんかすっげー汚い部屋で、ゴミとかすっげー散らばってる中でゴミを勝手にいじくってゴミに書かれてる文字とかどういうゴミが落ちてるのかとか端からずっとチェックし始めるみたいなイメージがなんか勝手に浮かんだんですね。最終的にカーペットが残ってて、それでカーペットの裏をめくってくみたいなそういうシーンが最初に頭に浮かんだから。

植村 それはヴィジュアルから先にイメージされたんですか?

池田 かなりヴィジュアルからでしたね。自分じゃ絶対そんなことしないし、したくもないし。

植村 ジャグジーにしてもカーペットにしてもトラウマ的なもの……?

池田 そういう意味だと僕はカーペットとか好きじゃなくて。ゴミとかたまっちゃうし、フローリングのままでいいなと思ってて。うち猫飼ってるんですけど、カーペット毛だらけになっちゃって掃除も大変だから、あとルンバが動きやすいからカーペットとか敷いてないですけど、なんかそういえばそうだったなあみたいなのが後になって気づくことがたくさんありますね。やっぱ自分の記憶から引っ張られてるのかなとか。カーペットってイメージが先から自分の経験に根付いてるっていうのはあったなーと思ったりとか。勝手にそうリンク付けてるのかもしれないですけど、自分の中で。カーペットの下にそういえばいなくなっちゃったなみたいな。

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植村 『ウエア』は岡という人間がメグハギを作った経緯を遡る仕方で書かれています。その時間の流れの意識はなぜこの作品の中心に据えられたのでしょう。

池田 これを書き始めた当時にやってたバーチャルYouTuberという仕事で見つけた発想からきてたりしてて。設定ではAIってなってて、自分一人でやってるってなってるけど、世間ではそう言ってるけど実際は中にはたくさんディレクターとか僕みたいな脚本家の人がたくさんいるんですよ50人くらい。で声優さんもいて、勝手にモーションキャプチャーとかもつけて、で、それで「AIですよー」とか言って、AIじゃないことは視聴者も勿論わかってるんですけど、でも「ポンコツAIだな」みたいな発言をするっていう。そこの仕組みは面白いなって思ってて。みんななんでこの構造を知ろうとしないんだろうなあみたいな。たぶん構造はわかっているけど、構造をあえて知ろうとせずに楽しむっていう。初音ミクと結婚するみたいなニュースが前にあったんですけど笑、そういう風に創作物とかありえないものを本物に思うって人の自由なんだなって。僕の場合メグハギっていう存在信じていいし、メグハギの裏側はどうなってるのかっていう方向もやりたいなって思った。AIが勝手に書いた物語になってもいいし、同時にただ岡とか須田(※5)っていう実際の人間によって書かれたやつになってもいいし。いろんな肯定が出来るように書いたって感じはありますね。
※5 『ウエア』の登場人物のひとり。

植村 メグハギのルーツをたどるという構造がそもそも必要だったということですね。

池田 中身が知りたいって人は勿論いると思って。最終的にメグハギがAIなの? みたいな。じゃあメグハギはメグハギとして単体として存在してるものなのかなみたいな。

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植村 池田さんにとって自分が一番やりたいことをやる場所はどこになってゆくのでしょう。

池田 もともと最終的にこうなればいいなと思ってるのが、結構でかいアトリエを建てたいなみたいな、そういうことを考えてたりしてて。例えばアトリエと美術館が一緒になってるみたいな空間が建てられればいいなと思ってて。那須塩原に藤城清治美術館というところがあって、そこは藤城清治って人がひたすら今まで描いた作品を展示してるんですけど、彼は主に切り絵を作ってる方なんですけど、自然と一緒に混じりあってるみたいなそういう建物を造って、そういう場が池田亮美術館じゃないけど、池田亮じゃなくて他のいろんな作品が混じりあう場になればいいなと思ってるんですよね。藤城清治さんがまだご存命で90なん歳まで生きてるんですけど、リアルタイムで進んでる感じがあるので。基本美術館とかって完成品をもってくって感じなんですけど、完成品じゃないものを展示していいなあみたいなこととかを思ってて。アトリエと美術館と劇場ですかね、そういうのがミックスされた状態の場を作れたら面白そうだなと思っていて。そういう感じがある種目標ではあるのかなあ。自分が作るものが一つの色にとどまらないように意識はしていますね。

植村 藤城清治美術館、ネットに全然情報が出てないから行くの躊躇してました笑。

池田 一回足を運んでみないとちょっとわからないですけど、良くて。藤城清治の美術館、受付の人がすごい藤城清治ファンで、「回ろうと思えば一日じゃ回れないですよ」みたいなすごい熱弁してくれるんですよ。受付の人が一番ファンみたいな。僕も基本やっぱいろんな作品を見るのがすごい好きなんですね、どんなものでも結構好きで。作りたいっていうのと同時に、見たいっていうのが両方あって。鑑賞者にもなりたいし作る側にもなりたいっていうのがすごい強いので。藤城清治美術館行ったときに、自分も作って置けるし同時に見れもする場が欲しいなって思ったのが正直なところですね。

植村 『ウエア』に原作としてかかわるという行為もそれに近いかもしれませんね。

池田 そうですね、近いと思います。それこそスペースノットブランクは俳優から言葉を持ってきたりとか、どっかから影響を受けて作っていて。自分は原作ってなってるけど、原作ってよりか自分の場? みんなが何か出してくれる場を提供してるのかなあとか思いながら。皆さんが結構自由に出してくれるのを僕は観賞するみたいな、そういうありがたい場ではあるなあと笑。

植村 一貫して場を作りたいという欲望がおありですね。

池田 それは強いと思いますね。場を作りたいってのは僕の匿名性とかっていうのに繋がってきそうな気がしてて。

植村 お話をお聞きしていて、やはりこれまでのゆうめいの作風からは今後離れてゆく感じがあります。演劇って作家を中心に観る傾向があって、ゆうめいは特にそう感じられますので。

池田 そうだと思います。作演はだいぶ根強くあるなと思いますゆうめいは。

植村 『ウエア』では仮フライヤーやポスターに制作者の名前が50音順でフラットに置かれましたが、それは池田さんのお考えに響きあうところがありそうですね。

池田 ある気がしますね。

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植村 信頼っていうことが一つのテーマとしてありますよね。冗談を通じた信頼。それは自分という存在が希薄になる場所を作りたいという欲求に対応するものとしてあるのかなという気がします。

池田 そうですね。既読無視するってのが信頼につながるってこともあると思ってて。二人の関係的に須田は別にメールとかチェックしてなくていいし、岡も向こうはチェックしてるかわかんないけどとりあえず須田なら送っていいみたいな状態になってるみたいな。そこはある種の信頼関係だなって思って。お互いの秘密は言わないみたいな。ただ多分須田が「岡からこんなメール送られてきました」って言って岡がそういう噂を聞きつけたら岡も須田のこと沢山言うと思うんですよ。送ってきたラインだったり、須田が今まで考えてきたこととか。お互い半ば冷戦みたいな状態になってるっていうか。二人の冷戦ってある種信頼関係でもあるんじゃないかなって気がしてて。そしたらこっちもこうするぞっていう。

植村 スペースノットブランクが並行して制作している『氷と冬』もまさに個人間の冷戦のような題材を舞台へ如何に立ち上げるかという作品なので、そのお話はお聞きして驚きました。

池田 凄いですね、そうだったんだ。たぶん近いんじゃないですかねえ。だいぶ面白いですね。同じ時間を生きてはいて、ただお互いのことを他の人にはばらさないようにしてる。親密な冷戦だと思います。本当に一人だけに向かって無茶苦茶わけのわからない表現を送っている、しかも壮大な時間をかけてよくわからない脚本とか新聞だったりそういうのを送ってるわけだから相当力は使ってるんだなっていうそこはある気がします。

植村 稽古で、二人のやり取りは中澤さんとのLINEに似ているかもしれないという話が上がっていましたね。

池田 改めて言われるとそこまで似ていない気もしますけどね笑。こっちの方が結構力加わってる方だなって思ったりはします。あでもこれも『ウエア』書いて送ってるから結局同様のパワーはあるのかなとか思ったりします。

植村 岡が独りでメーリスに送っては自分で消してっていう親密さから、須田を導入したことで岡と須田という二人の間の親密さになった。そのことの意味は大きいかもしれませんね。

池田 たしかにデカいと思いますね。

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植村 苦労を経て今の形の『ウエア』を完成させたとお聞きしました。具体的にその変遷をお聞きしてみたいです。

池田 最初は自分がメーリスに送ってた文章を全部書き起こしてて、グーグルの曜日とか書いてたんですよ。全部コピー&ペーストをこの文章の中に起こしてたんですけど、実際メーリスが消えるみたいなシーンをメーリスの中で本当に僕消してたりとかしてたから笑。

植村 面白いですね笑。それは残ってないんですか?

池田 残さずに送って、「残ってないの?」って言われても「いや実際消しちゃったから、消すってシーン実際消しちゃったから残ってない」ってことに笑。

植村 あれ、消しちゃった事実って本文中には含まれていますか?

池田 ここ(完成稿)には含まれてないです。消しちゃった奴もここには一応残すようにしたんですけど、初稿は消すんだったらほんとに消してたので、グーグルのサーバーたどれば残ってるかもしれないですけど、そういう見せるものとしては残ってないっていうか。僕しか知らないみたいなそういう意味で作ってて。それもある種の完成形だと思ったんですよね。実際書いたものを飛ばしちゃってるし。メーリスを消しましたみたいなそういうコメントがあったりとかするっていう意味での、そこのメーリスにリアルタイムで見てた人の時間でしかわからないものを作ってた笑。

植村 パブリックとプライベート、個性と匿名性の関係性が本当に複雑ですね。誰にも見えなくなることが個人的な形としてあるし、けれど文章が匿名化していくことが親密な個性の発露としてもある……。他には、目立った変更点などはあったのでしょうか。

池田 最初にメーリスで書いてることによって物語として成立してたんですけど、実際消し終わった状態で、自分だけ物語体験した状態で、そのなれの果てみたいな状態を送ったから笑、たどり着いちゃったものをお送りしてるから、それは物語が共有できないなっていう話になって、だったらもう途中に物語を入れ込むようにしていったって感じでした。だから間のその関係性とかをなかば説明っぽい感じで、点線とかで入ってる途中の須田的なやつとか追加されてったり、消しちゃったメーリスとかも追加してったりしたんで。

植村 物語を共有する必要が強くあり、なれの果て状態からそれを復元するためのガイドとして作られたのが須田だったということですよね。一回なれの果てにしちゃった動機はなんだったんですか?

池田 自分が一番楽しいと思っちゃったせいだったんですよね。到達したなって思って自分は消しちゃったし、たぶん本当にガッと書いて、なれの果てになったのがたぶん五分の一くらいしか残ってなかったんですよ。それに至るまでに「先ほどのメーリスを消しました世界は消滅します」みたいな事を言って笑、「じきにこのメーリスも消えます」みたいなことを送っといて実際に消してるから、そこはもうほんとに自分だけしか楽しんでないみたいな状態だったと思うんですよ笑。

植村 池田さんが前にしきりに「他の人が読んで面白いのかわからない」というようなことをおっしゃっていまして、これだけ面白く書けても不安になるものなんだなあと僕なんかは感じたんですが、たしかにその作り方だと何もわからなくなるかもしれませんね笑。

池田 ほんとうになれの果てに辿り着いちゃった所のを提示しちゃってたから。最初の「好きなように書いてください!」っていうところに、自分なりに応えすぎてたし、ところどころ「これ消しちゃたぶん彼ら求めてるのと違うな」と思うけど、多分今までで一番自分優先しちゃったんで。

植村 それは、より物語性をという形でスペースノットブランク側からブレーキがかかったということですよね。

池田 初稿でなれの果て出した時にもうちょっとそこに至るまでの経緯があってこその物語だなってことをおっしゃられてたので、確かにそれもそうだなっていう、自分の中で完結しちゃってたものを提示しちゃってたからなあっていう。これはもう好きなように書いていいっていうものの、葛藤みたいなものは凄いあったような気がしますね。書いたものを消したいし、消すことによって成立するし、とか自分の中で思ってたから。

植村 それは本当に大きな変化ですね。

池田 はい。でも消しちゃったものから改めて物語を立ち上げていくっていう意味では、またそこから別のものに変化していったなっていうのはありますよね。復元にはなっていなかったかもしれない。追加しましたね。

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植村 そういえばこれが舞台作品の原作として書かれたことに意味があると思っていまして。起点や終点をどこに置いてもよい作りが採用されていますよね。

池田 舞台になることを想定しなくていいって言われてて、で、じゃあ舞台じゃないものを考えていいんだって時に、最初に思いついたのがメーリスだったんでそこからいずれ舞台になるってことはあんまり想定せずに書いてたかもしれないです。そこの自由さがフレキシブルな感じで逆に行ったのかなあと思いますね。逆に舞台にしようってなると色んな意図とかが加わって逆に読んじゃった人が「ああこここういう意図か」って思っちゃうけどそういう意図とか全くなしにメーリスっていう媒体で自分のやりたいものを書いたんで。

植村 その意味でもWEB的かもしれませんね。WEBを巡る経験って始まりも終わりもないので。

池田 そうですね。

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植村 いま池田さんにとって中心的な表現媒体は演劇だとお考えですか?

池田 いや、それだけじゃないような気がしますね。もともとそんな意識があまりなくて、媒体っていうものはあまり考えたことがなかったかもしれないです。舞台とかだと一応お客さんが増えたりするから、よりそこに繋がりやすいツールではあるなと思ってて、でもそれ以外もやりたいものに応じて媒体は変わってくるなあとは思ってますね。舞台が確かに結構いま主になってるとは思いますけど。

植村 作品中で複数のメディアの表現が出てきます。映画のポスター画像でしたり、アニメの脚本でしたりとか。その理由をお聞きしたいです。

池田 極端な話いうと、メールでやりとりしてるとどうしてもなんか入れたくなっちゃったっていうのがまず一つにあって笑、同時に……例えばライトノベルってあると思うんですけど、途中に絵が挟まってるみたいな。僕初めてライトノベル見たときに「ちゃっちいな」って思って。ほんとだったら文字しか描かれてないものに途中挿絵があるっていう感じが、なんで入ってんだよみたいな。いきなりイメージを促進するようなことしてきたなとか思ったりしてて。でもどの小説にも表紙ってあるんですよね。本来だったら文字だけで想像させるってものだけど、確かに今まで読んできたものって挿絵もあるし、文学といいつつ視覚的なデザインだったりがあるなあと思ったので、そのデザイン的なことも考えて入れてったかもしれないですね。途中のイメージの共有みたいなのを敢えてさせようみたいな。読んでる人にとってもちょっと暴力的かもしれないけどここは共有させておこうみたいなのが強かった気がします。

植村 「ちゃっちいな」って感覚についてもっとお聞きしたいです。

池田 携帯とかいじってると広告とか入ってくるじゃないですか、あれすごい面白いなあと思って。TikTokとかインスタとかでもどうしても入ってくる。実際僕もそういう仕事をしてて、ソーシャルメディアをどう売り込むかみたいな。Youtuberの作家をやってるんですけどそれも途中で広告を入れなくちゃいけない。広告を入れるっていう作為的な行動が自分もやってみたいな、文章の中でっていう。

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植村 『ウエア』の原作をそのままの形で公表することは考えていらっしゃいますか?

池田 あー、出来たらいいなとは思ってますね。その文章はこういうデザインで作っちゃったから、もし縦書きで作られるならデザインを変えたりとかするのかなとか思いました。

植村 それはいいんですか?

池田 どうなんですかね、まあそうなったらそれに変えるように書けるなって。いくらでも完成する方法はあるなって。

植村 縦書きか横書きかでPC的な視覚かスマホ的な視覚かっていう大きな違いが出るじゃないですか。さしでがましくて恐縮ですが、そこは慎重に考えた方が良いのではないかなと思います。

池田 確かに笑、そうですね。書籍化ってしっくり自分もきてなくて。電子書籍でも読めるし、電子書籍の場合って本のフォーマットには則ってない変換された文字でもデータとして配布されてるから、そういう配布のされ方でいいんじゃないかなとか思ったりとかしてて。データ化される際と書籍化される際にはまた違うデザインになりそう。

植村 PCは複数のウィンドウを平面的に並列できますが、スマートフォンではそれがあまりできないじゃないですか。それって大きな違いですよね。僕はこの形はあまり崩してほしくない気持ちがあります。

池田 そうですね、崩したくないですね。また書籍用にすると物語自体変わっちゃうから。

植村 PC的な横書きを捨てると、また別の作品になるはずですよね。表現はPC的ですが、扱われる表現媒体はスマートフォンを連想させるものが多いのが不思議です。というよりは、なぜ現代にこれだけPC的なものが作られたのでしょう。

池田 メーリスもパソコンで書いて送ってて。パソコンで書いたやつをスマホでチェックした時もあったんですね。で、最初に送ったのも、スマホでメーリスを送る場合とパソコンでメーリスを送る場合で異なってたと思ってて。最初にベースにパソコン的なのがあったっていうのはだいぶそうですね。途中で過去に戻ったりする時に、僕が最初に文字とか書いたのがパソコンだったっていうのがあるかもしれないですけど、最初にWindows95のイメージで書いてたんです。実際僕送ってたのは普通にiMacのグーグルのやつなんですけど、最初これを打ってた時は初期のパソコンから送ってるイメージがあって。過去のパソコンから今の状態を送ってるみたいなのを成り立たせたかったなみたいな。このパソコンは縦書きにしかできないパソコンですみたいなことを終盤位にヤニクってところで通信して。縦書きって偏見かもしれないですけど若干前時代的な事だなあと思ってて。前時代的な過去にこだわりながら横書きのメグハギがあって。そういうイメージがありましたね。

植村 二重の意味でマルチメディア的な表現ですよね。アプリケーションのレベルとデバイスのレベルと。読む側はその分ついていくのが難しいかもしれません。

池田 物語を信じている人が読むとわけがわからないっていうものになるんじゃないかなあとは思いますね。ゆうめいだとわけがわからないっていう感覚で終わらせないようにはしてるんで逆だなあとは思います。

植村 たぶんスペースノットブランクはわかるようには加工してくれないでしょうしね笑。

池田 そうですね。だからまあそれもどのみちそうなるのかなあって風には思ってるから。ただまあそこはわかんない人は聞いてくださいっていう感じですね。解説もしますし自分が一番よくわかってるのでっていう感じで。そういうルーツになればいいなあと。

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植村 「メグハギを書く際に意識していること」って文章が作中に登場します。そこに感情移入しやすさを心がけると書いてあったと思うんですけど、その意図に反するかのように、読み手がメグハギや須田や岡に没入するのをどんどん拒んでいく構造をこの物語は持っているじゃないですか笑。没入しやすく書くという手つきをさらしながらその逆を行くんですが、読んでいる僕としては、意識は散らされながらも感情移入と違うレベルで没入して読む感覚はあって、それが奇妙で面白いというか。

池田 そこの書いた文章は自分の中で意識して書かなくちゃいけないなみたいなのもあったりしてて笑、そういう意味で自分で書いたってのと同時に、没入すると言いつつ、メグハギの世界ってどういうものなのかとか、どういう人が読んでるのかっていうのがわからないので、とりあえず視聴者っていうか観る人にとって観る人が主人公みたいなことを書いたと思うんですけど、そういう意味でのリンクなのかなと思います。目の前でわけわかんないこと起こってるけど、一応読んでるのあなたですよみたいな。そこの目線は僕と読んでる人とある種共通してる部分かなあと思います。僕もわかんない世界を描いてるし、向こうもわからない笑。たぶんちょっとわかってるシーンとかある、わかってはいるんですけど、ただ、どうしてこの世界でこれはこうなるのかっていうのは自分でもわからない部分が結構あったりとかしてて、それが気まぐれなのかと言われればあんま気まぐれじゃなかったりとかいう感じがあったりとかして。

植村 僕はゲームの感覚なのかなって。たとえば『LIVE A LIVE』って主人公コロコロ変わるけど没入しないわけじゃないですよね。プレイヤーは常に自分だから視点は保たれていてみたいな。

池田 だいぶゲームの感覚、そうですね。アプリゲームの開発者の言葉からいろいろインスパイアされてたんで、そこのルーツから引っ張ってこられてる。ゲーム的な感覚にすごい近い。

植村 架空のキャラクターであるメグハギについての語りですけど、ゲーム的な感覚もかなり含まれているわけですね。

池田 そうですね。

植村 「主人公(とヒロイン)を明確にする」って、爆笑ポイントですよね笑。

池田 そうそう笑、全然明確にはなってないですもんね。そういう意味でもメールを送ってる人なりのギャグなのかなとか思ってたりはしてて。こんなこと書きながら逆のこと言ってんじゃねえかよっていうツッコミ待ちの状態みたいな、そういう遊びみたいな感じになってるんじゃないかなって。

植村 この前の稽古でマルチメディア的な表現の理由をお聞きしたときに、それぞれの表現によって、自分が今いる世界を確認しているというお話がありましたが、それは先ほどの「自分でも何を書いているかわからない」ってところに対応してくる気がします。

池田 書いてるといろんな場所に行くなあと思っていて。時折その場所を定めたりしてるのが画像だったりしてるんですけど。写実的な表現だったりすると、軸があって明細に描いていくことで物語が蓄積してくって感じなんですけど、時折僕はそこからワープしたくなる。ゆうめいとかいろんな人が関わっているとなるとそれはワープせずに行くと思うんですよね。細かいところから蓄積した物語を作りたいってなるのは、いろんな人が関わっててそれを丁寧にしたい、積んでいきたいみたいなイメージがあって。分散されるものは自分一人だったらできるなって感じがしてて。ただ自分一人で書いてるといろんなところに自分は行きたくなっちゃうんですよね。自分一人しかいないからどうしてもその、ワープしたくなるっていうか。

植村 そのとっちらかりはどの程度ご自身で計算されてるんですか?

池田 家帰ってユーチューブとかツイッターとかいろんなところチェックしようっていうその行動原理があると思うんですよね。帰ってきて、スマートフォン見て今までチェックしてたニュースだったりツイッターだったりユーチューブだったりを情報を得る為に動こうって思うみたいな、そこら辺を起点にしながら書いてたりしてるところがあって。じゃあなんで情報を仕入れたいのかっていうとなにか自分が発したいとか何か得たいって欲求だと思うんですよ。何かを学びたい何かを知りたいっていうその欲求って何だろうっていうことを考えながらいろんな場所にワープしてくっていうか。だからここにいても得られるものが無かったりもうちょっと知りたいものがあるなっていうんで、ワープさせようみたいな、場所を変えようみたいなのがあって。欲求の話が序盤とかに結構あったと思うんですけど。

植村 欲求の話は伺いたく思っていました。なぜ作中では、社会的な欲望でなく、一貫して動物的な欲求が描かれるのでしょう? そういう意味では個人的なものに出発して書かれているのでしょうか?

池田 知りたいって思う欲求だったり、何かを追求したい、どこに行きたいみたいなそこをわりかし主軸においてるような気がしてて。自分が書いてる上で、じゃあこれ書いてどうなりたいのかっていうのが、自分の場合はどんどんどんどん違う世界に行くけど、同時に今生きてるところも開拓していきたいみたいな、両方。現実もだし、外の想像の世界も開拓していきたいみたいな。その欲求って何なんだろうなと思うと、知りたいもそうだけどなんでこんな求めてるんだろうなみたいな、そこの根源的なものが凄い気になってきたっていうのがベースにあるような気がしますね。

植村 欲求にフォーカスするというのは池田さんの他の作風からは外れていますか?

池田 たぶん突出してるような気がしますね。ゆうめいとかだと自分の名前出して自分が作演で。他の人の目線とかもかなり気にしてて、池田がこういうことをやってるってことに対して誰かが欲求を満たしてくれるようなものを作りたいっていうのはあって。なのでゆうめいでやるのは表現っていうんじゃなくて発表っていう意識がすごいあって。今までこういうことがあって、こうなってこうなりましたっていうことを発表することによって他の人の欲求を引き出すみたいな。

植村 対して、『ウエア』ではご自身の欲求が強く出されている?

池田 そうですね。自分の欲求とプラス皆が感じてる欲求っていうのをたぶん結構同列に考えて作ってるなっていうのを思ったりしてます。他の人も気になるし、でも僕も気になってることがありますよっていう。でも他の人が気になってることは別に『ウエア』の中に入ってないけど、同じようなベクトルとか同じような欲求を書いてるっていう意味ですごい同じところにいると思うんですよね。他の人はこれは気になってるけど、でも僕もこれ気になってるっていう。そういう広いところの中で書いたっていう感覚は凄いあります。

植村 個人名を出しながら同時に匿名的な書き方がやはり採用されているわけですね。

池田 そうですね。匿名的になりましたねなんか。

植村 最初に書き出されたのはニコンロとナミのシーン?

池田 あ、そうですね。一番最初に思いついてたのはそこでしたね。

植村 その時点で『ウエア』全体の構想は念頭に置かれていましたか?

池田 最初は何となくあったっちゃあった。最初の構成として、そのニコンロとナミって奴とそこに通ってた奴って三人の関係性が頭の中にあったんですけど、そこの関係性が、自分が物語にした際に何かまた別の物語にある存在だなって思って。物語の中の物語みたいな。のがあって、じゃあ何の物語がベースになってるのかっていうのはメーリスだなっていうのはなんとなくイメージがあった。根っこの部分としてはそうでしたね。ドラッグだったりそういうのをやるのが、なんかそういう次元に飛ばされるんじゃないかなみたいな。

植村 じゃあワープ的なものを書きたいという意識から出発してドラッグのエピソードを選ばれたんですかね。

池田 そうですね。

植村 自律訓練法は実際なさってたんですか?

池田 実際やってましたね、実際やってました。実際やってたけどうまくいく人とうまくいかない人がいて、僕全くうまくいかなかったので。

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植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

東京はるかに
東京はるかに|批評


インタビュー
池田亮
額田大志

出演者インタビュー
荒木知佳と櫻井麻樹
瀧腰教寛と深澤しほ

イントロダクション
植村朔也

メッセージ
小野彩加と中澤陽


ウエア|作品概要

ウエア|額田大志:インタビュー

東京はるかにの植村です。

スペースノットブランクの新作『ウエア』上演に際し、保存記録を務めますわたくしが、音楽を担当なさる額田大志さんに直接お話しをお伺いし、インタビューとしてまとめさせていただきました。

ご自身が主宰なさるヌトミックについてもお話してくださり、7000字を超えるインタビューとなりました。2019年のヌトミック、そしてこれからのヌトミックについて。ヌトミックにのみ関心のある方にも是非読んでいただきたい内容となっております。

また、ヌトミックの直近の公演についての拙稿を掲載しておきます。
東京はるかに|シニカルな没入③ ヌトミック『それからの街』『アワー・ユア・タワーズ』

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額田大志 ぬかた・まさし
作曲家、演出家。1992年東京都出身。8人組バンド〈東京塩麹〉、および演劇カンパニー〈ヌトミック〉を主宰。その他、JR東海『そうだ 京都、行こう。』を始めとする広告音楽や、市原佐都子『バッコスの信女-ホルスタインの雌』(あいちトリエンナーレ2019)などの舞台音楽も数多く手掛ける。第16回AAF戯曲賞大賞、こまばアゴラ演出家コンクール2018最優秀演出家賞を受賞。2019年度アーツコミッション・ヨコハマ クリエイティブ・チルドレン・フェローシップ。

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植村朔也(以下、植村) まず、どういう経緯で『ウエア』という作品に関わることをお決めになったのでしょうか。

額田大志(以下、額田) 特に中澤さんは年齢も一緒だったりとか、業界の中でも近いところで作品を作っていて、僕とも一昨年に作品を一緒に作ったこともあって、中澤さんの主宰しているスペースノットブランクが新作を作るということで、「音楽をお願いします」ということで参加してるような。

植村 なるほど。特にこの『ウエア』っていう作品だからこそ額田さんにお願いしようということはあったんですかね。

額田 今までのスペースノットブランクは基本的に音響の櫻内さんと相談しながら音楽を決めてたみたいなんですけど、「今回は新しいチャレンジをしたい」と小野さん中澤さんから伺い、受けようかなと思いました。

植村 スペースノットブランクとしても新しい試みに出るタイミングだったからこそということですね。池田さんの原作にはどういう印象を持たれましたか?

額田 池田さんは戯曲を書くのがすごい上手くて、読んでいて、自分には書けないものだなっていうのもあるし、スペースノットブランクとしても新しいものになるんじゃないかという感じがして。また池田さん、なんか活き活きと書いてるなと思いました。筆が進んでるんだなみたいな。本当にどうでもよさそうなシーンをちゃんと掘り下げて、でもしっかり繋がってる。うまいなと。あー、うまいなと思いながら読んでましたね。あとスペースノットブランクがやるならこういうテキストだよね、というのもしっくりきました。あんまり変にどうなるだろうって言うよりかは、確かにこれをやるんだろうなって。

植村 その、これをやるんだろうなっていうのは具体的にどういう?

額田 これをおそらくスペースノットブランクがいつもの感じで、っていっていいのかよくわからないんですけど、彼らはスタイルが強くあるなと思っていて。前提とする方法論がほかの作家と違うと思っています。違いすぎて、正直まだわかんないんですけど笑

植村 額田さんとしてはどういうふうに理解されてるんですか?

額田 まだわかんないんですよね、よく。なんとなく面白そうなことをやっているなという感じがしてるんですけど、観に行っても毎回ちょっと分かんないな、とか。どうすればいいのか全然わかんないけど、そういうのをポジティブに考えて参加してみようみたいな。

植村 ここまで稽古をご覧になってどういう印象を持たれましたか?

額田 同じ答えになっちゃいますけど、分からないっていうのが一番大きいですかね、何でこんなことやってるんだろって思う瞬間も結構あって。はたしてどう作品に合致するのかとか、どうしてこれが面白くなるかみたいなことは全然わからなくて。なんでやってるんだろうなって思いながら。

植村 笑。具体的に何をしていましたか?

額田 何か他己紹介みたいなことをやっている印象があって。植村さんが話した話を自分のことのように話す、植村さんが今何か自己紹介をしたら僕が自分は植村さんだと思って話す、みたいなことをやっていました。どうなっていくのか楽しみながら参加しています。興味深く見てるみたいな感じでしょうか。普段の仕事と違って音楽のイメージも、なかなか浮かばなくて。どうしようかなみたいな感じです。

植村 現状も?

額田 あ、現状それは何とかブレイクスルーしたんですけど。小野さんと中澤さんの中に明確に鳴らして欲しい音があったので、一回それにならって作ったあとに、少し自分なりのクオリティを上げていく作業に移っていこうかなと思いました。とりあえず求められたものを作った後に自分らしさを加えていくみたいな感じでやってます。

植村 じゃあ、こういうイメージでっていう提案があったわけですね。

額田 ありました。でも、映像音楽だったり、自分のバンドの曲作ったりとか、色々な仕事がある中で、舞台音楽は一番大変で。理由としては、特に使うシーンが決まっていないこともあったり、漠然とした要求が比較的多かったり、舞台は本番直前に尺もどんどん変わっていくので、そういう難しさがあるんですけど。でも小野さんと中澤さんは、共有も素早いなというか「こういう音で」というのが明確にあったので、そういう風にまず作っていきました。やり取りとして大きかったのは、原作を読んでそのイメージを一回曲にしてくださいみたいなことがあって。なんだろう、ほんと、絵を見て曲を作るみたいなイメージですかね。比較的自由に作っていきました。

植村 自由っていうのは、縛りが緩かったということでしょうか? 原作の作り自体がだいぶ自由じゃないですか。だから、型にはまらない音楽をつくろうっていう意味で自由だったのかとも思うのですが、どちらなのでしょう。

額田 たぶん両方あると思って。スペースノットブランクってコレクティブ的な作り方をしてるなと思って。例えばテキストを俳優自身が決めたりもしているのかなあ。俳優が言ったことをそのまま舞台に使うみたいな。劇作家と演出家みたいな感じじゃなくて、わりとみんなで作っていくみたいなところがあって。多分その流れなのかわからないんですけど、僕もだからあんまり細かいことをどうっていうよりかは、自分で考えて、原作の複雑な構造をモチーフにすることにしました。原作は池田さんらしさがあるなと思っていて、人の弱さ、でも青春みたいな、青くさい感じが。そういうものも、取り入れた形です。あとは登場人物から想起したり。アニメっぽいキャラクターが出てくるので、安直ですけどアニメっぽい曲をちょっと使おうかなとか。そういう原作を読んだときに感じた構造だったりとかキャラクターだったりとか、池田さんの持っているテキストの良さかな、じめじめした感じも含めて曲に変換していくみたいなことをやってました。

植村 今回の場合は原作と上演台本が異なりますよね。稽古場とかで立ち上がっていくものと原作のどちらからイメージをつくるかっていうのが難しい気がするんですが、今回は割と原作ベースで作られたということですかね。

額田 そうですね。何となく進行を見てると、スペースノットブランクは色々な素材を集めていって、最終的になんとか「えい」ってやるタイプかな? 最後二週間ぐらいでなんとかグッて仕上げる感じなのかな? って思ってたので、頼まれてもない曲も作ったりしました。勝手に作って送るみたいなこともして、素材をこう、投げ続けておくみたいな感じです。

植村 チャットアプリの効果音も作っていらっしゃるとのことでしたが、それはどのようなイメージで?

額田 スペースノットブランクのお二人と相談したのは「その場で鳴った時にそう感じられる」ことが大事なのかなと。たとえば雷の音も作るんですけど、別に雷の音を流したい訳じゃなくて、とりあえず大きい音が鳴ったら雷の音だと錯覚するみたいな。結果的にそう作用を起こす音を作って欲しいというオーダーがありました。

植村 じゃあ、メッセージの音も、チャットアプリという文脈がなければそうは聞こえないような音で作られたわけですね。

額田 はい、そうです。

植村 では、ここからは額田さんの主宰するヌトミックについてお話をお聞きしたいと思います。僕はヌトミックの作品を最初に見たのが去年の1月の『ネバーマインド』で、ちょっと遅いんですよね。それ以降はひととおり拝見させていただいたんですけれども、2019年のヌトミックっていうのが、わりあい実験というか挑戦の年だったんじゃないかなということを感じまして。元々はミニマル・ミュージックでの経験を活かして、音楽と演劇の境界をまたぐような仕方で作品が作られていたと思うんですね。でも、そういう実験が『ネバーマインド』辺りでだいぶ尖鋭化したことで、一旦もっと素直に芝居を作る方向に去年、『エネミー』『お気に召すまま』のところで向かわれたんじゃないかと思うんですよ。『エネミー』は驚くほど素直で丁寧な一人芝居でしたし、『お気に召すまま』もシェークスピアに対して相当誠実に向き合って作っていらっしゃるなという気がして。で、それを踏まえて『祝祭の境界をめぐるパフォーム』という風に、きっぱりした名前の集大成的な実験をやって『アワー・ユア・タワーズ』で一通りの完結をみた後で、デビュー作の『それからの街』のリクリエーションや、柳美里さんとの新作へと向かっていくわけです。ここに一つの流れみたいなものを見て取ることはできるなと。

額田 おっしゃる通りだと思います。やっぱり作品を作る回数が比較的多いカンパニーだと思うので、どういう方向性で今年やっていくのかとか、来年以降どうやっていくのかみたいなことを基本考えています。直近のテーマは「演劇を作る」でした。音楽側から演劇業界に入ったので、長い間演劇の作法が分からなかった訳ですね、今もあんまりわからない時もあるんですけど。例えばなんだろう、俳優さんに何かセリフをいってもらう時に、例えば理由なく「あの」って台詞を20回言ってもらうようなことって難しいんです。ミュージシャンはとりあえず音を出すみたいなことができたりするんです。楽譜があったらそれをどう演奏するとか。俳優さんはなかなかそうはいかないというのがあり。俳優の中でも何か整理を付けないと言葉が出ない、パフォーマンスができないみたいなことが、カンパニーの問題として起き始めていたので、一回ちゃんと演劇を、俳優が立てるやり方、つまり演劇的な成立を目指していこうっていうのがこの時期(『エネミー』、『お気に召すまま』)ぐらいから強くありました。時期と言っても三か月とかですけどね。で、それから演劇としての成立をしながらも、何かより少しその先に行けるよう、せっかく音楽をやってきたけど、演劇的になりすぎた気がして、今はその先を今年から来年にかけて探りたいなと思っているところです。カンパニーメンバーも増えて方法論みたいなものが、ものを作る土台みたいなものができていて。土台っていうのは自分がどういう風に話したら伝わるのか、俳優さんがどうやったら立てるのかっていうことがカンパニー内では比較的共有できているので、それをベースにしたカンパニー内の上演の方法論を更新していきたいと思っています。

植村 じゃあ『エネミー』と『お気に召すまま』の2作品を通して、ひとまず俳優があてもなく台詞をいう状態ではなくて、何かしらの整理をつける段階には進めた?

額田 いや、まだまだです。今も考えながら進めてます。恐らくは、理由をつけるみたいなことだと思うんです。例えば「あの」をお客さんに向かっていうことで、お客さんと会話しているみたいな感じにしたいとか、全部違う方向を向いて、色んな人がいると思って言うとか。何でもいいって言ったら怒られますけど、一旦何か舞台に立てる理由を考えて、それをハッタリでもいいのでやっていくみたいなことを続けてきたんです。でも、それがハッタリだと良くないなと思っていて、ハッタリじゃなくても成立するのが演劇としてうまくいっている状態なのかなと。

植村 他の舞台芸術と違い、俳優は演技をすることもあって、なんらかのコンテクストを必要とするから、それがヌトミックが演劇を考える時に重要になってきたと。

額田 そうですね、どう舞台に立つのかとか、何で俳優がやるのかとか。

植村 何で俳優がやるのか、っていうことにはある程度の答えは見つかっていらっしゃるんですか?

額田 ないですね。まだないです。

植村 けれど額田さんはあえて音楽から演劇の方を志向なさったわけですよね。

額田 演劇っていうことにあまりこだわってはいないんですけれど。いつのまにか演劇になっているみたいな危機? を感じてます。

植村 演劇として作ってるつもりがないっていうのは、キャリアの最初の方からですか?

額田 そうですね、でも昨年に一度しっかり演劇を作ろうと。

植村 なるほど、『ネバーマインド』ぐらいからお芝居やるか、ってなって……。

額田 そうですね。でもこれも去年1年の話なのですごい短いですけど。

植村 そうですね。でもその1年の間でも結構ダイナミックな動きが特に目立った劇団だったとは思います。『ネバーマインド』という作品は「これは演劇ではない」という企画の一つとして発表されたわけですけど、そこから演劇を意識しだしたのはなんだか面白く感じます。

額田 でも逆に言えばこれが一番芝居っぽいなと思ってて。なんで芝居なのか、どうやったら芝居になるんだみたいな話を考える訳なんですよ。この時の作業は、基本的には芝居としては受け入れられないものが、どうやったら芝居になるのか、というのを皆で考えて、逆に一番演劇をやっていた気持があります。

植村 柳美里さんが戯曲を書き下ろす『JR常磐線上り列車』(仮)以降、今年、ヌトミックはあまり目立った新作を創るつもりがおありでないとお聞きしたんですが。

額田 今年ですか。はい。いや、やるつもりがないって言うか、時期が合わない、みんなのスケジュールが埋まってるってだけなんですけど。

植村 今後のヌトミックがどういう方向に向かっていくのかっていうビジョンというのはおありですか?

額田 柳さんの戯曲以降、カンパニーとしての舵を大きく切るタイミングかと思っています。現状は俳優さんが所属していますけど、もう少し広くパフォーミングアーツをやる団体として、再始動したい。演劇と名乗ることによる難しさもあるんですよね、当たり前ですけどお客さんも演劇を見るモードになるので。2021年に企画してる上演は、より音楽の分野に足を踏み込んだ作品になると思います。

植村 演劇っていう枠にとらわれないで活動するという時に、やっぱりこう何かしらの界隈というか業界は前提する訳じゃないですか。ぱっと思い付くのはコンテンポラリーダンスとかあるいは音楽とかなんですけど、どういう場所を目指していくかという見取り図はあるんですか?

額田 今あるのは、これまで続けてきた演劇のスタイルの中に、日本であまり知られていない音楽のスタイルを取り入れることができないかと思っています。例えば、メレディス・モンクの発声で俳優が発話したり。これまでのヌトミックは領域横断と評されたりもしてきましたが、そんなに横断できてなかったと思うんですよ、実際のところは。

植村 そうですか? 受け手というか、僕からするとそれは意外です。

額田 でも演劇のお客さんが今はまだ大半だったり、上演も劇場を使用することも多いので。もう少し捉われずに上演を実施できないかと思っています。

植村 じゃあ、内容というよりは受容のされ方が演劇としてのみ捉えられてるから、横断的ではないと。

額田 うーん、そうですね。もう少し演劇のフィールドとの付き合い方を変えていきたいところです。作品は作るけど、それをどんなお客さんの前で上演するかは考えていきたい。

植村 なるほど。やっぱりお芝居を上演なさることは、額田さんは凄い好きなんだろうなっていう感じがやっぱりお話をお聞きしていてあるので、作品を作っている上での手応えみたいなものはあったんですか? 

額田 あでも、一応毎回何かしらはあります。失敗と成功が半々ぐらいで常にあるみたいな状態です。

植村 その成功と失敗の内容を具体的にお聞きしてみたいです。『アワー・ユア・タワーズ』ではどうだったのでしょうか。

額田 成功はフォーマットをちょっと特殊なことをやってみたので、自分たちの目指す劇空間みたいなことに対して強くフォーカスを置いたので、それは自分でも設計はかなりうまくいったなと思って。上演の時の見方みたいな。僕がっていうよりはこれ、舞台監督の河村竜也さん(青年団)や、ヌトミックのメンバーからのアイデアが多いんですけど。何か様々な行動をするとか、こういう風に動いたらうまくいくとか、空間も含めた設計をこう全員できたことが一つの成功としてあるし、フォーマットとしてこれ多分使えるなみたいな。空間を観客が移動する体験として、成功と言えるんじゃないか。反省点は、今思えば、軽くし過ぎたかもと思ったり。その軽さがよかったと思いながら、流石にもう少し強いテキストを使うべきだったかなみたいなことも後で思ったりはしたりします。

植村 客席を固定せずに場所を抽象的に扱うようなフォーマットは、次回の柳さんとの作品にも受け継がれていくんでしょうか。

額田 どこまで可能になるかはちょっと分からないんですけど。似てると思います。

植村 なるほど、楽しみですね。最後に改めて額田さんが『ウエア』に感じているところをお聞きしたいです。

額田 思い入れみたいなことですか? あ、でも分かりやすい思い入れとしては、池田さんも同い年なんですよ。92年生まれで、27歳で、なんかそういうのはいいなと思いました。あとそれぞれどこか共通するところがあって、池田さんは彫刻、小野さんはダンス、中澤さんは映像をやっていたり、それぞれが他のスタイルを経由して演劇にたどり着いたことだと思います。作風も違うので、お互いがお互いの作品をたまに観に行くぐらいの距離感で、コラボレーションは初ですけど、「わかんない」っていうことをしっかりと受け入れながら作るのは風通しがよいなと思ってます。

─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

東京はるかに
東京はるかに|批評


インタビュー
池田亮
額田大志

出演者インタビュー
荒木知佳と櫻井麻樹
瀧腰教寛と深澤しほ

イントロダクション
植村朔也

メッセージ
小野彩加と中澤陽


ウエア|作品概要

ウエア|瀧腰教寛と深澤しほ:出演者インタビュー

東京はるかにの植村です。

スペースノットブランクの新作『ウエア』上演に際し、保存記録を務めますわたくしが、出演者のみなさまにLINE上でいくつか質問をお送りし、簡易的なインタビューとしてまとめさせていただきました。



瀧腰教寛 たきごし・たかひろ
俳優。1985年2月23日生まれ。石川県七尾市出身。2007年から2018年まで〈重力/Note〉に参加。俳優として、新聞家『失恋』『フードコート』、山本伊等『配置された落下』、スペースノットブランク『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『フィジカル・カタルシス』『すべては原子で満満ちている』などの作品に参加している。

瀧腰教寛さんは、スペースノットブランクの公演にこれまでも度々参加しました。初参加の『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』での熱演はいまも鮮やかに思い出せます。わたくしは瀧腰さんに、いくつかの質問をお送りし、そのうち答えたいものにだけ回答していただくことをお願いいたしました。

────稽古場で楽しかった瞬間はありましたか?

けっこう、あります。 舞台の捉え方や生活と表現との距離のとり方などがそれまで関わってきた人たちと違い、
初めて関わった昨年3月の北沢タウンホールでの公演(ことみち※『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』の略称)は稽古場から驚くほど楽しかったです。
今回は初期の質問の時間が楽しかったです。

────お客さんにはどのようなポイントに注目してもらいたいですか?

気兼ねなく自由な気持ちで見に来てもらえたらと思います。
見に来てくれるかたもまた、観劇中、後の選択は自由だと思うので。

────『ウエア』の物語に何を感じますか?

一見 、怖いのですが、人と人の幸福な繋がり方かもと最近思いはじめてきました。
いや、やっぱ違うかな



深澤しほ ふかさわ・しほ
俳優。1990年生まれ。映画美学校アクターズ・コース第5期修了。2018年より額田大志主宰の〈ヌトミック〉に所属し、以降のすべての作品に出演。俳優として、ゆうめい『巛』、玉田企画『かえるバード』、ニカサン『うまく落ちる練習』、ひとり多ずもう『蒼く戦ぐ』(演出:福名理穂、監修:松井周)などの作品に参加する他、心理学実験の現場(中村航洋ほか『形態測定学的アプローチによる表情表出の時空間的パターン解析』)で俳優の視点からアドバイザーとしても活動している。

深澤しほさんは、所属なさるヌトミックのほかにも、幅広い公演に出演なさっていますが、スペースノットブランクの公演に参加されるのは今回が初めてです。わたくしは深澤さんに、いくつかの質問をお送りし、そのうち答えたいものにだけ回答していただくことをお願いいたしました。

────直近のご自身の参加された公演から『ウエア』にも反映された要素はありますか?

共演者とリズムを作っていくことやグルーヴしていく感覚を共有することはヌトミックでやっていることを引き継いでいる気がします。稽古を重ねていく中でこれからもっと高めていける気がしています。楽しみです。

────シンプルに辛かったことはありましたか?

脳も身体も筋肉を使うので毎回非常に疲れます。ただこの経験は糧になるものと信じていますのでやりがいはあります。

────稽古場でご自身の個性を実感した場面はありましたか?

台詞とは別に振り付けがあるのですが、そのとき無意識に日常の自分の身体が反映されます。自分で意識できる丁寧さは最後まで保ちつつ、自分の身体はそのままに作品の中で活かせればいいなと思います。自分の可動域を認識していく作業はおもしろいです。


植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

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ウエア|作品概要

ウエア|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

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東京はるかに|批評


写真が登場したころの絵画がそうであったように、斜陽にさしかかったメディアは自身の表現特性を主題化します。生きる意味が感じられなくなって、自分のアイデンティティの輪郭を掴もうと苦悩する青年のように。そして演劇はその純粋な形式性を守るに際し、自然とドラマを放棄することになるのです。映画や小説もドラマを表現しうるのですから、もはや物語は演劇の表現特性とは言えません。この、東京におけるポスト・ドラマ的な動向を恐ろしい勢いで加速させたのがスペースノットブランクです。
絵画について言えば、写真だって現実や空想を表象することが出来るのですから、対象を描き出す機能よりは、絵具やキャンバスというメディウムがその表現特性だということになるはずです。キャンバスを青一色で塗りたくるような現代美術は、絵画の形式性それ自体を現前させようとする傾向の帰結だというわけです。では、演劇の形式、演劇のメディウムとはいったい何でしょう。
俳優。テクスト。劇場空間。などなど様々な答えがあると思うのですが、僕は「舞台」という概念それ自体をいったん答えとして措定してみたいです。俳優、観客、戯曲、演出、音響、照明、舞台美術、劇場空間、制作、広報などなど、その場の生成に携わった種々の自律的な仕事の綜合としての舞台。それらが錯綜し、醸成されて成立する場としての「舞台」を、演劇というメディアの形式と考えたいのです。俳優やテクストを演劇の核心的メディウムとすることは、舞台に現れる他の存在を無視して、嘘をついているようですから。
この「舞台」それ自体を主題化する試みを様々に行ってきたのがスペースノットブランクなのだ、というのが僕の理解です。たとえば、俳優は特定の役を演じるのではなくて、俳優その人自身として舞台に立ちます。俳優その人の姿を、舞台芸術のメディウムとして表出させているわけです。またそのテクストも、各々の発話をに虚実を交えて構成したもので、ドラマ性よりも、共有された時間それ自体を扱うことに注意を向けたものでした。
スペースノットブランクはもともと身体表現を主とする領野で活動していた二人が展開するコレクティヴです。身体表現をはじめとするダンスなどは一般に、なにかの物語やメッセージを伝えることよりも、その身体自体の魅惑的な現前に心血を注いだものでしょう。
ドラマを離れ、舞台芸術のありようを突き詰めていく真剣さに、スペースノットブランクの魅力を見て取ることができます。

けれども、彼らが「舞台三部作」と総称する作品群、特に昨年の夏に上演されたその三作目、『すべては原子で満満ちている』という傑作により、その試みは一定の達成を迎えます。これを踏まえて、スペースノットブランクは新たな方向へ舵を切ろうとしているようです。
彼らは、「舞台」というメディウムのありようを追求した上で、より強いドラマを改めてそこに立ち上げていく道へと進みます。
昨年の秋に高松で上演された『ささやかなさ』では、テクストにコレクティヴ外の他者(松原俊太郎さん)によって書かれた戯曲を採用しました。松原さんの戯曲は豊かなドラマを含んでいました。それに、普通物語を上演するに際しては、俳優は登場人物を演じる「役者」にならざるを得ず、そこでは俳優という存在は「役」の陰に隠れてしまいます。スペースノットブランクにとってこれはあらゆる意味で冒険的な試みだったわけですが、彼らはここに代弁の構造を持ち込みました。すなわち、俳優はあくまで「役者」ではなく「出演者」として、『ささやかなさ』の物語をその声や身体を記号として伝達するメディウムとして、そこに立ったのでした。(詳細は東京はるかにでの拙稿をご覧ください。)
東京はるかに|テクストの宙を漂え──スペースノットブランク『ささやかなさ』評

さて、新作の『ウエア』です。ゆうめいの池田亮さんが執筆なさった原作を素材として新たにテクストを準備し、上演します。音楽はヌトミックの額田大志さんが担当なさいます。同世代の話題の作家陣の共作という点でも、注目の舞台と言えます。また出演者も、これまでスペースノットブランク作品に複数参加してきた荒木知佳さん、瀧腰教寛さんに、初出演となる櫻井麻樹さん、深澤しほさんを加えたフレッシュな構成です。僕もスペースノットブランクの一ファンとして、それぞれの個性がそれぞれに溶け合う空間としての「舞台」が新宿眼科画廊に立ち上がる瞬間が楽しみでなりません。
『ウエア』。近頃、服を脱ぎ着するような気楽さで役を演じ変えてゆく舞台作品が目立ちます。そんなの昔からそうじゃないか、との声もあるでしょう。けれど、やはり現在の小劇場演劇シーンでの主体の流動性には目を見張るものがあります。俳優は登場人物のスイッチを明示せず、シームレスに別の状態へと移行していくのです。
ですが、現実の社会に照らしてみれば、おそらくこれはそう目新しい事象ではありません。コミュニティによってキャラを自然に使い分ける人々。はまだ自身の身体性には嘘をついていないけれども、匿名掲示板やオンラインゲームで年齢や性別を詐称する人々、話題になったツイートをコピー&ペーストして自分もまた注目を集めようとパクツイする人々については、完全に主体の輪郭が溶け出してしまっています。
『ウエア』もまた、こうした移行を描き出します。
原作は、池田さんが実際に使われなくなったメーリスへ送信したメールの集積から成ります。それを舞台に載せるわけで、『ウエア』にはメール演劇としての側面があるわけです。しかもそのメールは、様々なメディアや嘘を含んで複雑に重層化しています。これまで映像の利用を意識的に避けてきたスペースノットブランクが今回初めて映像を作品に用いるのも、おそらくは原作のマルチメディア的な性格がその背景にあるはずです。加えてメールに書かれたシナリオも、岡正樹、須田学という二人の登場人物の、冗談交じりの嘘ばかりのメールのやり取りを主軸として展開するため、現実と虚構と虚構の中の虚構とが輻輳し、主体も輻輳しています。
岡と須田は、須田がディレクターを担当する映像配信企画のメンバー同士としてその仲を深めたのですが、その企画が終わってしばらくたった後、須田のもとに岡から奇妙なメールが届きます。須田も最初はあまり真剣にとってはなかったのですが、岡の奔放な語りに引き込まれてゆきます。そして、やがて二人は物語に現れる、ある存在に呑み込まれてゆくのです。物語は多分にユーモアを交えながら、なにが真実かわからない入り組んだ現実において、匿名的なキャラクターの存在へと個人の輪郭が溶け出してゆくことを描いています。
では、そこで俳優はどのように存在するのでしょうか。あくまで登場人物には同化せずに俳優その人自身として立つのでしょうか。それともその顔は作中に描かれるキャラの陰に後退してゆくのでしょうか。この俳優の身体の拮抗状態において為されるドラマティックな冒険を、ぜひ共有しに向かいましょう。


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ウエア|作品概要

ウエア|荒木知佳と櫻井麻樹:出演者インタビュー

東京はるかにの植村です。

スペースノットブランクの新作『ウエア』上演に際し、保存記録を務めますわたくしが、出演者のみなさまにLINE上でいくつか質問をお送りし、簡易的なインタビューとしてまとめさせていただきました。



荒木知佳 あらき・ちか
俳優。1995年7月18日生まれ。俳優として、FUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』、歌舞伎女子大学『新版歌祭文に関する考察』、theater apartment complex libido:『青い鳥』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『舞台らしき舞台されど舞台』『すべては原子で満満ちている』などの作品に参加している。

荒木知佳さんは、スペースノットブランクの公演にこれまでも度々参加しました。『すべては原子で満満ちている』での演技は特に印象深かったです。わたくしは荒木さんに、いくつかの質問をお送りし、そのうち答えたいものにだけ回答していただくことをお願いいたしました。

────稽古場で楽しかった瞬間はありましたか?

櫻井さんが、瀧腰さんを肩車して、パフォーマンスをしてくださった時、2人が似ているのでめちゃくちゃ面白かったです。
植村さんが稽古に参加してくれた時も楽しかったです。

────新作について、これまで参加されたスペースノットブランクの作品との違いを感じることはありましたか?

原作が作品として完成していて、そこからつくるというのは初めてなので、新鮮な気持ちです。
最初に原作をみんなで読むところからはじめるというのは、いつもと違いました。今でもどういう作品になるのかわからない状態で、楽しみです。

────稽古場でなにか辛かったことはありましたか?

深澤さんと顔があってしまうとツボに入って、2人で笑ってしまうことです。パフォーマンス中なのに笑ってしまって、笑いすぎてお腹が辛かったです。深澤さん楽しいです。

────お客さんにはどのようなポイントに注目してもらいたいですか?

瀧腰さんと、櫻井さんが似ているところ

────直近のご自身の参加された公演から新作にも反映された要素はありますか?

チルチルミチル

────『ウエア』の物語に何を感じますか?

こわいです。とっても。
いつか、顔からマスクが剥がれて、違う顔になるんじゃないかと思います。
それか、顔から顔がなくなるんじゃないかと思う。



櫻井麻樹 さくらい・まき
俳優、演出家、パフォーマー。1979年1月11日生まれ。俳優、パフォーマーとして、燐光群『カウラの班長会議 side A』、ダヴィデ・ドーロ『The Secret Story』、ジュリー・アン・スタンザック『思いを馳せる月』、プマシ国際演劇舞台芸術フェスティバル『Come, Hold My Hand』、小池博史ブリッジプロジェクト『Fools on the Hill』など国内外の作品に参加する他、NHK『龍馬伝』『つばさ』、EX『臨場』などの映像作品にも参加している。

櫻井麻樹さんは、小池博史ブリッジプロジェクトなど数々のカンパニーの作品に出演なさっていますが、スペースノットブランクの公演に参加されるのは今回が初めてです。わたくしは櫻井さんに、いくつかの質問をお送りし、そのうち答えたいものにだけ回答していただくことをお願いいたしました。

────スペースノットブランク特有の演技し難さを感じることはありますか?

感じますね。
身体の状態というのを本当に繊細にみているというのがまず第一の印象で、僕の感覚でしかないのですが普段はストーリーがあってキャラクターや場所があってとか色々な所から集めて重ねて作っていくのですが、ここでは生身の自分をためされるというかそこにある生の空間や他者と自分の身体、そこから生まれる素直な感覚を重視するというそんなイメージがあります。

────稽古場で楽しかった瞬間はありましたか?

楽しさと苦しさは紙一重ではありますがこんなやり方で作品を作る団体があったんだ! と自分の感覚とは違う新感覚な体験をしたとき。(純粋に次に何が出てくるかわからないわくわく感です)

────シンプルにつらかったことはありましたか?

今までの自分の経験や思考があるがゆえにそれが時に邪魔をして身体と心がノッキングを起こす事ですかね

────『ウエア』の物語に何を感じますか?

色々な物が含まれているとは思いますが
最初に感じたのは、自分が自分であるということを見失う怖さです


植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

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インタビュー
池田亮
額田大志

出演者インタビュー
荒木知佳と櫻井麻樹
瀧腰教寛と深澤しほ

イントロダクション
植村朔也

メッセージ
小野彩加と中澤陽


ウエア|作品概要

2020年のごあいさつ

2019年はいくつかの場所でいくつかの作品を上演しました。

人が動くと場所は遠ざかり、また動くと場所は近づき、距離を味わう2019年でした。

なによりも作品を一緒に作ることを選んでいただいた皆様に大きな感謝を。
そして作品を見ようと動き、場所から場所へ訪ねていただいた皆様に大きな感謝を。

2020年もいくつかの場所でいくつかの作品を上演します。

時間を注ぎ、舞台芸術のユーザーエクスペリエンスを検討して制作と上演を重ねます。
あらゆるスケールであらゆる実験を行ない、成功と呼ばれる失敗もその反対も恐れずに、革新と日常を生み出すための研究を重ねます。

まずは3月の新作『ウエア』からはじめます。
新宿眼科画廊のスペース地下にて粛粛と上演する予定です。

どこかの場所でまた会いましょう。

2020年もよろしくお願いします。

2020年1月1日 水曜日
小野彩加 中澤陽


ウエア|作品概要