ウエア|植村朔也:イントロダクション
植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。
写真が登場したころの絵画がそうであったように、斜陽にさしかかったメディアは自身の表現特性を主題化します。生きる意味が感じられなくなって、自分のアイデンティティの輪郭を掴もうと苦悩する青年のように。そして演劇はその純粋な形式性を守るに際し、自然とドラマを放棄することになるのです。映画や小説もドラマを表現しうるのですから、もはや物語は演劇の表現特性とは言えません。この、東京におけるポスト・ドラマ的な動向を恐ろしい勢いで加速させたのがスペースノットブランクです。
絵画について言えば、写真だって現実や空想を表象することが出来るのですから、対象を描き出す機能よりは、絵具やキャンバスというメディウムがその表現特性だということになるはずです。キャンバスを青一色で塗りたくるような現代美術は、絵画の形式性それ自体を現前させようとする傾向の帰結だというわけです。では、演劇の形式、演劇のメディウムとはいったい何でしょう。
俳優。テクスト。劇場空間。などなど様々な答えがあると思うのですが、僕は「舞台」という概念それ自体をいったん答えとして措定してみたいです。俳優、観客、戯曲、演出、音響、照明、舞台美術、劇場空間、制作、広報などなど、その場の生成に携わった種々の自律的な仕事の綜合としての舞台。それらが錯綜し、醸成されて成立する場としての「舞台」を、演劇というメディアの形式と考えたいのです。俳優やテクストを演劇の核心的メディウムとすることは、舞台に現れる他の存在を無視して、嘘をついているようですから。
この「舞台」それ自体を主題化する試みを様々に行ってきたのがスペースノットブランクなのだ、というのが僕の理解です。たとえば、俳優は特定の役を演じるのではなくて、俳優その人自身として舞台に立ちます。俳優その人の姿を、舞台芸術のメディウムとして表出させているわけです。またそのテクストも、各々の発話をに虚実を交えて構成したもので、ドラマ性よりも、共有された時間それ自体を扱うことに注意を向けたものでした。
スペースノットブランクはもともと身体表現を主とする領野で活動していた二人が展開するコレクティヴです。身体表現をはじめとするダンスなどは一般に、なにかの物語やメッセージを伝えることよりも、その身体自体の魅惑的な現前に心血を注いだものでしょう。
ドラマを離れ、舞台芸術のありようを突き詰めていく真剣さに、スペースノットブランクの魅力を見て取ることができます。
けれども、彼らが「舞台三部作」と総称する作品群、特に昨年の夏に上演されたその三作目、『すべては原子で満満ちている』という傑作により、その試みは一定の達成を迎えます。これを踏まえて、スペースノットブランクは新たな方向へ舵を切ろうとしているようです。
彼らは、「舞台」というメディウムのありようを追求した上で、より強いドラマを改めてそこに立ち上げていく道へと進みます。
昨年の秋に高松で上演された『ささやかなさ』では、テクストにコレクティヴ外の他者(松原俊太郎さん)によって書かれた戯曲を採用しました。松原さんの戯曲は豊かなドラマを含んでいました。それに、普通物語を上演するに際しては、俳優は登場人物を演じる「役者」にならざるを得ず、そこでは俳優という存在は「役」の陰に隠れてしまいます。スペースノットブランクにとってこれはあらゆる意味で冒険的な試みだったわけですが、彼らはここに代弁の構造を持ち込みました。すなわち、俳優はあくまで「役者」ではなく「出演者」として、『ささやかなさ』の物語をその声や身体を記号として伝達するメディウムとして、そこに立ったのでした。(詳細は東京はるかにでの拙稿をご覧ください。)
東京はるかに|テクストの宙を漂え──スペースノットブランク『ささやかなさ』評
さて、新作の『ウエア』です。ゆうめいの池田亮さんが執筆なさった原作を素材として新たにテクストを準備し、上演します。音楽はヌトミックの額田大志さんが担当なさいます。同世代の話題の作家陣の共作という点でも、注目の舞台と言えます。また出演者も、これまでスペースノットブランク作品に複数参加してきた荒木知佳さん、瀧腰教寛さんに、初出演となる櫻井麻樹さん、深澤しほさんを加えたフレッシュな構成です。僕もスペースノットブランクの一ファンとして、それぞれの個性がそれぞれに溶け合う空間としての「舞台」が新宿眼科画廊に立ち上がる瞬間が楽しみでなりません。
『ウエア』。近頃、服を脱ぎ着するような気楽さで役を演じ変えてゆく舞台作品が目立ちます。そんなの昔からそうじゃないか、との声もあるでしょう。けれど、やはり現在の小劇場演劇シーンでの主体の流動性には目を見張るものがあります。俳優は登場人物のスイッチを明示せず、シームレスに別の状態へと移行していくのです。
ですが、現実の社会に照らしてみれば、おそらくこれはそう目新しい事象ではありません。コミュニティによってキャラを自然に使い分ける人々。はまだ自身の身体性には嘘をついていないけれども、匿名掲示板やオンラインゲームで年齢や性別を詐称する人々、話題になったツイートをコピー&ペーストして自分もまた注目を集めようとパクツイする人々については、完全に主体の輪郭が溶け出してしまっています。
『ウエア』もまた、こうした移行を描き出します。
原作は、池田さんが実際に使われなくなったメーリスへ送信したメールの集積から成ります。それを舞台に載せるわけで、『ウエア』にはメール演劇としての側面があるわけです。しかもそのメールは、様々なメディアや嘘を含んで複雑に重層化しています。これまで映像の利用を意識的に避けてきたスペースノットブランクが今回初めて映像を作品に用いるのも、おそらくは原作のマルチメディア的な性格がその背景にあるはずです。加えてメールに書かれたシナリオも、岡正樹、須田学という二人の登場人物の、冗談交じりの嘘ばかりのメールのやり取りを主軸として展開するため、現実と虚構と虚構の中の虚構とが輻輳し、主体も輻輳しています。
岡と須田は、須田がディレクターを担当する映像配信企画のメンバー同士としてその仲を深めたのですが、その企画が終わってしばらくたった後、須田のもとに岡から奇妙なメールが届きます。須田も最初はあまり真剣にとってはなかったのですが、岡の奔放な語りに引き込まれてゆきます。そして、やがて二人は物語に現れる、ある存在に呑み込まれてゆくのです。物語は多分にユーモアを交えながら、なにが真実かわからない入り組んだ現実において、匿名的なキャラクターの存在へと個人の輪郭が溶け出してゆくことを描いています。
では、そこで俳優はどのように存在するのでしょうか。あくまで登場人物には同化せずに俳優その人自身として立つのでしょうか。それともその顔は作中に描かれるキャラの陰に後退してゆくのでしょうか。この俳優の身体の拮抗状態において為されるドラマティックな冒険を、ぜひ共有しに向かいましょう。
イントロダクション
植村朔也
メッセージ
小野彩加と中澤陽