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光の中のアリス|松原俊太郎:インタビュー

スペースノットブランクと松原俊太郎さんの共作としては『ささやかなさ』に次ぐ2作目となる『光の中のアリス』。松原さんは『みちゆき』でAAF戯曲賞、『山山』で岸田戯曲賞を受賞し、京都を拠点とするカンパニー・地点と協働しつつ、戯曲に小説にとさまざまな傑作を作り上げて来られました。公演に先駆け、『光の中のアリス』はどのようにつくられなにを目指しているのか、地点とのクリエーションの違いはどこにあるかといったお話を、作品の保存記録を務める植村朔也がお聞きしました。

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松原俊太郎 まつばら・しゅんたろう
劇作家。1988年、熊本県生まれ。神戸大学経済学部卒。2015年、処女戯曲『みちゆき』で第15回AAF戯曲賞大賞受賞。2019年『山山』で第63回岸田國士戯曲賞を受賞。小説『ほんとうのこといって』を「群像」(講談社)2020年4月号に寄稿。主な作品に『忘れる日本人』『正面に気をつけろ』『ささやかなさ』等。2020年度セゾン文化財団セゾン・フェローⅠ。

稽古と並走して書くこと

植村 まず、どういった経緯でスペースノットブランクと仕事をすることになったのかをお聞きしたいです。早い段階での仲だったという風には伺っているんですが。

松原 京都芸術センターの「演劇計画Ⅱ」という企画があって、それに書き下ろした『カオラマ』という戯曲の第一稿をスペースノットブランクが読んで連絡をくれて。これは企画上、「上演を前提としない戯曲」で、特に初稿は手探りのなか書いたものだったので、どこが良かったんだろう……という感じはありました。だから、いまだにスペースノットブランクがなんで自分の戯曲に興味があるかはわかっていません。戯曲に関して上演以外にフィードバックをもらうということもないし。

植村 中澤さんは、松原さんの文章のリズム感や起伏、テンションの持っていき方がスペースノットブランクに近いと仰っていました。『光の中のアリス』(以下、ヒカリス)のチラシの宣伝文にも「ぜんぺん、クライマックス」とありましたが。

松原 そういう手癖みたいなのはあるかもしれないですね。スペノの起伏自体はあまりまだよくわかってないですけど、音楽の使い方とかは面白いですよね。
スペノが舞台で提示したいものは何となくわかるんです。テキスト自体をその時々のチームで作っていくというスペノの普段のやり方の中に、劇作家の書いた戯曲という異質なものをぶちこんで、これまでとは違うものを作っていきたいのかな、とはおぼろげに思っています。
地点の場合は書かれた戯曲を上演するという古典的なスタイルがあって、書く側としてはわかりやすい。書かれた言葉が声と身体に託されて観客に聞かれるというのは、とてもふつうのことだと思われている節があるけれども、すごいことだと思うんですよ。自分は、それにずっと感動しているはずなんです。そして、それはここ最近の演劇では見えないものになっている。
平田オリザ以降の現代口語演劇では、それまでは舞台にのってこなかったような日常的な言葉を、自然な演技態でそのまま演じることで、その微小な差異や日常性を異化・強調していて、ストレスなく見聞きできる。アングラみたいな異質な声はほぼ消えていて、ストレスなくそれこそ映画みたいに。でも、そういう戯曲は自分みたいなやくざものがわざわざ書かなくても、演出家を兼ねた作家の人たちが書くほうがいいと思う。

植村 お話をお聞きしていて、松原さんのような仕方で上演を想定する戯曲だからこそ、スペースノットブランクが戯曲を頼めるのだろうという気がしました。『ウエア』でゆうめいの池田亮さんと協働したときも、あくまで池田さんは原作者で、純粋な劇作家というスタイルは取っていないんですよね。
『ウエア』の場合、池田さんが書かれた言葉を編集して上演台本を作るというプロセスをたどっていたんですが、スペースノットブランクが松原さんの戯曲を上演する場合、少なくとも現状そういうコラージュをしていない。

松原 コラージュをしない、ということは、書かれた言葉のすべてが声として上演にかけられてしまう。これは書き手にはけっこう大変な事態です。今回は稽古動画を見ながら書き直すということをやっていて、いつもより上演に密接に関わりながら書いています。文学座に書き下ろした『メモリアル』も、できるならそうしたかったですね。ただ、このやり方は、すごい時間がかかるんです……

植村 今回の『ヒカリス』は難産だったという風に仰られていたと思うんですが、それはコラージュ的な上演でないことと、稽古を見ながら書き直すというプロセスが大きかったということですね。

松原 地点に書き下ろすときとは違って、完全分業の形はとらなかったということですね。地点は稽古の始まる段階で完全にパッケージ化されたものを渡すけれども、今回スペースノットブランクには途中のものを渡して書き足していくということをしていて。この形がよいのか悪いのかはまだわからないですね。
何度も再演されるということなら話は変わってくるけれど、基本的に上演は一回で終わってしまうので、その状況に向けて書かなくてはいけない。そうすると気になってくるのが、作者と演出家、俳優との関係で。書き直せちゃうわけじゃないですか。それって大丈夫なの? と思っちゃって。書き下ろしで劇作と演出を分けるというのは、相当綿密にヴィジョンを共有していかないとなかなか難しいという気がしていますね。でも、そちらの方が現状は可能性を感じる。

植村 それはまさにスペースノットブランクのクリエーションのあり方に関わる問題ですね。
中澤さんが、松原さんとスペースノットブランクは作品に近さがあるけれども、通過してきたものが全然違うから話がまるでかみ合わなくて面白いという風に仰ってました。

松原 そもそもかみ合ったことがあんまりない笑 スペースノットブランクと共有しているのは、個々のシーンがうまくいっているかどうかという強度かな。戯曲の作り方に関しては何も言ってこないし、戯曲の強度についてはこちら側で精査するしかない。

植村 地点の場合は戯曲の質について口出しがされる場合があるということですか?

松原 ありますよ。で、結構助かる。劇作ってすごい孤立して書いているので、外からの言葉って言うのはカチンとくることもあるけれどそれすらも重要で、影響もされる。
今回は読み合わせをして感想を言ってもらうということはありましたけれど、具体的に細かいところを指摘してくるということはなかったですね。

植村 それは小野さん中澤さんなりの、松原さんへの信頼のあり方なんでしょうね。

類型性の突破

松原 今回、小野さん中澤さんを除いても俳優が四人いるけれど、たとえば三人表に出して一人は裏方、みたいな書き方はできないんですよ。四人全員平等な形を目指す書き方でやっているから。

植村 それは、上演についての美学からそうなさっているんですか? それとも書く時に必然的にそうなるんでしょうか。

松原 書く時ですかね。チョイ役で存在感を出すみたいな書き方ももちろんあるはずなんですけど、あんまりそこに今のところ魅力を感じないというか。
戯曲の中の登場人物は、言葉を発していないと、存在することにならないんですよね。分量とかいう話じゃないかもしれないけど、これだけの言葉があってこそ役が存在するというイメージで書いています。
(『ヒカリス』の)イントロダクションにもありましたが、ぼくは戯曲では、固有名よりは類型化されたキャラを立てて書きます。その類型を最後には突破して、そこで個別具体的な固有名を獲得するまでの過程を描いているので、それなりの言葉が必要になってきます。
でも、台詞で類型を描写するというのがすごいめんどくさくて笑 『忘れる日本人』のころは類型をどう面白おかしくアイロニカルに表出するかを試行錯誤していたんですけれど、そうすると分量が嵩んでしまう。だから最近はどんどん短くしていってますね。

植村 そこであえて類型化のステップを積極的に踏むところも、スペースノットブランク的だと感じます。やりたいことは個別具体性の提示なんだけれど、あえてそのために一旦逆へ行くという手続きがある。たとえば俳優から言葉を拾っておきながら、誰が喋っているかわからない抽象的なテキストを用意する。
松原さんの戯曲も、どの登場人物の発話もある意味ではすべて松原さん一人の語りとも思われるような、わかりやすいキャラづけのないことが特徴だと思うんですよね。口癖だとかそういうわかりやすい手段でない仕方で、個別性に到達なさろうとしている。

松原 そういうギミックみたいなものも面白おかしく使えれば使っていきたいんですけど、まだその技術が全然ないですね。口癖みたいなものが、これまで自分の中に残ってこなかった。
映画だと言葉よりは顔や身振りの面白みがあるけれど、それを台詞だけで表現するというのはなかなか難しいですね。演出をしないので、最終的なイメージがあったとしても表現ができないから、どうしても台詞でそれをなんとか表現しなければいけない立場にある。

いま可能な「おとぎ話」へ

植村 『ヒカリス』はいつにもましてパロディが多いと思うんですが、それはどうしてなんでしょうか。

松原 新作をどうするか話し合っているときに、スペノ側が「明るい」ものや「ハピネス」という単語出してきたので、彼らの作風も鑑みて、「おとぎ話」みたいなのをやったらどうかと思ったんです。ふわふわした感じだけれど毒もあるような。
それで、今主流の「おとぎ話」と言えばジブリとかディズニーとかかなあと思って、それと合わせて、往年の歌謡曲とか、そういう懐かしさを醸すようなものを取り込んで、懐かしさそれ自体を主題化していきたいなと。

植村 わりとポジティブな動機からのことだったんですね。

松原 半々ですね笑 ジブリはいいですからね。なんの批判をするつもりもない。
ただ、懐かしさのなかにいるっていうのはどうなんだろう、とは思っています。今の若者の文化も8,90年代の反復のようなところがあるし、そういうノスタルジックなものを加工して気持ちいいものをつくっていくような、ヌルい快楽主義を今の風潮に感じてもいて。まあ、そういうのをネタにしつつなにか別のものを、いま可能な「おとぎ話」を創ろうというモチベーションですね。

植村 そうした非歴史化されたJ-POP的なセラピーが、広く『ヒカリス』では扱われていますよね。
ところで、イントロダクションでも指摘したんですが、松原さんは作品中で映像をよくモチーフとして使用されます。Zoomなどビデオ通話でのコミュニケーションが一般化したいま、映像に対する意識に変化はありましたでしょうか。

松原 今回は、それよりはアニメの身体を意識させられました。あの無理のある動きが、観る側にすごく自由を与える。CGだと嘘だなと思ってしまうけれど、アニメは嘘とかそういうレベルにない。それが生身の身体より簡単に受け入れられるというのはどういうことなんだろうと思ってます。
三次元は鬱陶しくて映像は楽。楽に観れる映像の中から、飛び出す絵本のように次元が変わっていくというようなことがしたいなと思ったんです。そうすると言葉のレベルも変わっていくだろうし、次元を変えていくことで書きやすくなる、書ける言葉も変わっていく。
当然かもしれないけど、映像の中の言葉って外の言葉と特に変わらないんですよね。何の新鮮味もないというか。そんななかでもゴダールだと、言葉が文脈から離れてモノとしてこちらに飛び込んでくる、アニメでは、たとえばポニョだと魚が半魚人になって人間になっていくっていう生成変化を扱いつつ言葉も変わっていく。舞台でもそうした変化をつけられないものかと試行錯誤しています。

地点と「かたまり」

植村 全体的な傾向として、近頃の松原さんの作品ではこれまでと比べて長いモノローグが減っていると思います。『ヒカリス』でも途中の稿ではモノローグがあったんですが、複数の台詞に分割されていました。

松原 上演を全く気にせずに書ければモノローグの使い方も多様化できると思うんですけど、上演に関わると、モノローグを託すというのが大変なんです。モノローグって作り方が結構特殊で、なんでもぶちこめるし、強度が作りやすいんですよ笑 書いてる方はすごく楽しいんですけど、それを舞台にのせるとき、俳優にものすごく負荷がかかるんです。
地点はコラージュ的な上演をするので台詞が短く切られるし、こちらもそういうやり方を知ったうえで書いている。けれどそのやり方でいくつか書いてきて、今はまた別のものが見てみたいなと思っているんです。

植村 先日地点の『正面に気をつけろ』をアンダースローで拝見しまして、松原さんもTwitterで褒めていらっしゃいましたけど、大変感動しました。

松原 こんなことがあるんだ!って思いましたね。2018年が初演で、去年の12月に書き換えたんですが、今年になってまたちょっと冒頭とか変わっていて。ほんのちょっとしたこと、微調整のたまものなんでしょうね、あとは全体のテンションが落ち着いていた。

植村 あれで落ち着いていたんですか? 僕は初めて観たので、かなり勢いに呑まれてしまいました。

松原 『正面』のモチーフになっている『ファッツァー』もあんな感じで間を詰めていて、台詞も早いしついていくのが大変なんです。

植村 僕はこれまで四度ほど地点をみてきた中で、今回が一番感動しました。アンダースローで観ること自体が初めてだったんですが、開演5分後から脈絡なく涙が止まらなくなっちゃって。

松原 早くない?笑 開演して5分って、空間現代の音が入ってきたくらいでしょう。

植村 そうですね。イメージの強度が凄すぎて、やられちゃったんでしょうね。言葉もイメージもすごく入ってきて、体が震えるのに近い感じで、これまでにないような観劇体験でした。

松原 ぼくも初めてのアンダースローで『ファッツァー』を見たときそんな感じでした。それが演劇の初体験で。『正面』よりもっとテンション高く始まるんですよ、『ファッツァー』って笑 いきなりドラムがバンバン叩き出して、台詞もバンバン入ってくる。演劇ってすごいなと思ってたら、それが他の劇団とは全然違うということに後で気付いた笑
今回の『正面』は三浦(基)さんも手ごたえを感じていたみたいですね。空間現代の力も大きくて、それに俳優も触発されながら一緒くたになって、理想的な関係にはなっていると思います。

植村 そうですね。忘我状態になってしまいました。アンダースローでの観劇自体したことがなかったんですが、初めて地点という劇団に出会ったような感覚がありました。

松原 台詞とかいうレベルじゃないですからね。「かたまり」でやってくる。
没入して観る方が俯瞰して見るより面白いとは思っているんですよ。でも、そうしているとやっぱり言葉が聞こえてこないし、なんのための台詞なのかもよくわからない。没入させようと思って書くのは難しいですね。

植村 忘我と言っても言葉自体はよく聞こえてきたんですが、批判的に観るというのが普段のレベルでは出来なかったんです。
でも、地点の舞台自体が理想的にはそういう鑑賞を要請している気がしますね。「事後的に」批判的になることを要求している気がします。舞台の現場では分節し得ない、(ポジティヴな意味で)空虚としか言いようのないものをぶつけてくるというか。松原さんはいま「かたまり」とおっしゃっていましたね。
昨日の『正面』は、時間の流れ方が違いました。僕は上演時間を知らないので、何分だったかいまもわかっていないんです。50分と言われても2時間半と言われても「そうなんだ」と思ってしまいそうですね。

松原 いいですね。70分くらいだったかな。理想的な時間ですよね。

植村 話は変わるんですが、昨日バスで京都を降りてしばらく歩いたときに、この町が松原さんの作品に与えている影響は大きいのではないかと思ったんです。僕は関東の郊外に住んでいるので、こんな多層的な歴史を思わせる街並みは散歩していてもないんですね。ロームシアターの近くにしても、平安神宮なんてものがあって、「日本」というものがハリボテ感も混みで強く感じられる。なんだか松原さんの戯曲について変に納得してしまったんです。

松原 住んでるんでそれなりに影響は受けてるでしょうけど、「京都」っていうものに何か感じるところがあるかというとそうでもないです。それにぼくも郊外に育ったので、感覚としてはそういう目線で観ています。
なんにもないほうがいいですよ。この辺はすごく整備されてしまっているし。京都でいいのは鴨川ですね。なんにもないから。郊外はなにもないでしょう。

植村 郊外のなんにもなさと、鴨川のそれは違いますよね。鴨川のよさは、僕がさきほど地点は空虚だと言ったことに近いんじゃないかという気がします、たぶん。飛躍しすぎですかね笑。

松原 笑。なにかあれば鴨川に行きますね。なにもなくても行くけど。

リーダビリティの問題

植村 『ヒカリス』は文章の抵抗量が比較的に少ないですよね。引っ掛かりが少ない。

松原 うん。すんなりしていると思う。稽古を観ながら書き直すことでなめらかになっていったと思います。その言葉の角ばった感じが面白みにつながっているかというとよくわからない。読みやすければ読みやすいほどそりゃいいだろうと思っちゃう。

植村 そうなんですか笑?

松原 笑。なんだろう、読みにくいってこれまでさんざん言われてきたから。リーダビリティねえ……

植村 僕は小説はリーダブルなものがすごく好きなんです。志賀直哉とか、武者小路実篤とか、なんでこんなに素直な物言いをするのかと思うと笑ってしまう。一周まわってシニカルだと思います。

松原 あそこまでいきたい、ほんとは。

植村 ただ、小説と戯曲とではリーダビリティの意味が全然変わってきますよね。戯曲のリーダビリティを上げることは松原さんにとってかなり大きな決断じゃないかと思うんです。作品の質が決定的に変わってしまう。

松原 小説のリーダビリティは上げたいけど、戯曲のリーダビリティはその要請自体がない。リーダビリティよりはリズム、声の印象を大事にしたい。

植村 なるほど。そうなるとやっぱり松原さんが意図してというよりは、稽古に応じてモノローグが減少していって、自然と読みやすい文章になったということになるんでしょうね。

松原 うん。演技の何がよくて何が悪いのかは、いまだに全然わかっていない。実際に舞台を見てみるまではわからない。書く時の必然性はむしろ必要なんですよ。モノローグはその必然性が作りやすい。でも、上演を強く意識すると難しくなる。

退屈に抗う────情動と笑い

松原 スペースノットブランクはこんなシーンの作り方には自分ではならないというのはすごいあるし、そこは楽しい。
ただ、ここ最近、演出の二人とメールでよく話しているんですけれど、テキストの中で強度を上げていったときに、そこで類型でも非人間的でもない情動が立ち上がるのを待ち望んで書き進めているところがあって、それがやってこない限り、終われないんですよ。終われないし、書いた意味がない。上演側がそれをテキストとは別のやり方で立ち上げなければいけないのは、相当難しいと思います。

植村 なにか主題やメッセージを完結させることよりも、そうした情動の生まれる瞬間があることが大事なんですね。

松原 逆にそういう主題に収まらない、これまで書いてきた物語の外から人物に立ち上がってくる言葉みたいなものを書けたらいいなと思って書いていて、書けたと思ったら終わるんです。

植村 松原さんはモチーフやテーマを作品を超えてかなり反復なさっていますが、それはそれらがクリシェ的になるよう意図的になさっているんでしょうか。

松原 そうだと思います。作家の固有性や固有のモチーフだとかいうのはまああるだろうなと思っていて、だってひとりで書いているわけだから笑 孤立して。
そのわりに、書く期間がすごく短いわけですよ。そのなかで戯曲を立ち上げるときに、取材して独自のテーマを構築していくのって難しいですよね。そういう風に作られたものはそれなりのものしかできないと思っています。それよりはもっと長いスパンで培ってきたものを使っていかないと、ということもあって似たようなモチーフを使いつつ、短期間でやってきた偶然のものをぶちこんでいって、別のところに迷走していくというのをやってるのかな。
でも、おおもとの自分の身体を変えていかないと、自分で自分に飽きてきちゃうというか。

植村 テーマでないところで新しいものを求めるというときに、スペースノットブランクは主に形式の面で毎回観たことのない物を追求していると思うんです。松原さんの場合、退屈せず新作をつくることのモチベーションはどういったところにあるんでしょうか。

松原 この前の『正面』は奇跡みたいなもので、自分たちの意図で出来上がるようなものではないんですよね。戯曲を書いたときに抱いたヴィジョンでは出来ていない。個人のそういうモチベーションとはまた別のところから毎回立ち上がってくる。
あと、笑いですかね。ここは絶対に笑えるというところが、毎回出て来るんですよ。まあ、それも飽きちゃうんですけどね。笑いはすぐに飽きる。古びない、飽きない笑いを作りたいですね。

植村 創作の核としての個別具体的な独自性が、松原さんが悲劇でなく喜劇を書かれることにも関係してくるということですね。

松原 そうですね。
最近は悲劇を書いてみたいなという気も徐々にしていますけど、ヴァリエーションが退屈なんですよね。ほんとうに自分にそういう経験がないと書けないものじゃないかという気はしています。

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植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

東京はるかに
東京はるかに|批評


光の中のアリス|作品概要
光の中のアリス|植村朔也:イントロダクション

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