光の中のアリス(2020年)|イントロダクション|植村朔也
植村朔也 Sakuya Uemura Web / X
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。
松原俊太郎さんの作品にはしばしば映像が登場します。登場人物たちは知らず知らずのうちにこの映像のうちに取り込まれているのです。戯曲の場合、台詞の大半がこの映像のうちで発話されていることも珍しくありませんから、上演にあたっては事前に映像を撮りおろして素直に舞台上で上映する、というわけにはまったくいきません。それでは、(おそらく)上映を期待されていない映像というメディアは、なぜ戯曲の筋に深く組み込まれなければならないのでしょうか。
アウラの議論で知られるヴァルター・ベンヤミン「技術的複製可能性の時代の芸術作品」では、映画という当時の新メディアの特性が演劇との対比において語られています。そこでは「映画俳優は自分自身で自分の演技を観客に示すわけではないため、演技のあいだ観客にあわせて演技をおこなうという、舞台俳優にはまだ残されている可能性を失ってしまう」という事態が生じます。映画俳優は撮影機器の前で演技を断片的に展開するわけですが、それがやがて自分の知らないところで編集され、モンタージュされて観客に供されることを知っている。俳優は購買者たる観客からの視線を、彼らの顔を知ることなく一身に浴びる不安の中で仕事をせねばならない。「それは、ある工場で生産される商品が市場を把握することがないのと同じことである」。
こうした俳優の「商品化」の過程と並行して、観客は「俳優とのいかなる個人的接触によっても邪魔をされることのない審査官の立場」で「テストするという立場をとる」ことになります。ここでの映画についての記述を詳しく取り上げ、この「テスト」という語の含意を詳しく展開してみせたのがジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』第二部です。
このテストにおいては「熟慮や瞑想は不可能」で、細分化された刺激的な知覚において、観客はよいか悪いかという「瞬間的な反応――最大限に短絡された反応」を返すことしかできません。しかしボードリヤールによれば、「あなたが選択をおこなうと同時にあなた自身がメディアによって選択され、テストされている」のだといいます。映像は現実を「単純な要素に分解した後で決められた筋書き通りに再構成する」のですが、そこでは単純化されたあらかじめ「答えの決まっている問いしか現実に提示」されないのだと言うのです。そうした単純さに短絡的な反応を繰り返すうちに、わたしたちは社会システムが用意する類型的なパターンに振り分けられてしまいます。
今日のメディア社会に生きる私たちにとって、そのようなコントロールは映画館の外でも日々一般的に行われています。映像がもたらした、Yes/Noの二分法に截然と整理された単純な認識を通じて管理・支配される人々、世界。
心地よいか悪いかが全てであるようなセラピーが現代社会にはいたるところに浸透しています。ASMR、J-POP、甘いお菓子、シナモロール、わたしも大好きです。そんな単純さに飽きてしまう時があるとしても、そんな甘くてかわいい現実に飼い殺されて、わたしたちの革命衝動は奪い去られてしまいます。
個人の欲望をコントロールするこの管理社会では、個人のアイデンティティも単純な要素に分解されます。松原さんの戯曲の登場人物は、しばしば匿名化され、単純なアイデンティティの集合として記述されます。
娘 子、相続人、象徴、モデル(『君の庭』より)。
固有名詞が彼らにあてがわれることもありますが、それらは作品を超えて共有されることもしばしばの、抽象的なものに過ぎません。
こうした個の全体性への溶脱は、主題の上でも諸作品を通じてしばしば反復されています。支配/従属の関係性が、時に相互に交換可能なものとして、様々に変奏されるのです。個人と国家。日本とアメリカ。労働者と雇用者。男性と女性。イヌと主人。
このように平坦に均された退屈な現実で、希薄化した時間はたださらさらと無常に流れるばかりなのでしょうか。
松原さんは戯曲を詩と小説の中間に位置づけます。論考「戯曲の読み書きについて」から、詩について書かれた一節を引用しましょう。
詩は動かすことのできない一語一語、一行一行が身体を持っており、そのあいだの余白に身体の変化があり、この余白こそが身体を支えている。余白にある変化は常に潜在していて、読みは多重化される。
この余白(スペースノットブランク)にこそ、散文的に線型化された社会システムを穿つ「革命」の機縁があるのではないでしょうか。驚くべきことに、松原さんの作品が備える内容や形式と、これまでスペースノットブランクが通過してきた作風とは、あまりにも多くの点で相性の良さを示しているのです。ここでその全てを取り上げることを諦めねばならないほどに。
これまでの松原さんの戯曲の特徴に、尋常の発話ではない長大なモノローグがあります。誰に対して向けられているのかさえ曖昧なそれは、簡単な理解への抵抗を含んで、読みの多重化を誘います。読みが多重化されるということはそこに観客との「対話」が生じているのですが、このことは秋に上演された『ラブ・ダイアローグ・ナウ』のイントロダクションでわたしが紹介した、ハンス=ティース・レーマンによる「モノロギー」の概念に寄せて理解されるべきです。
ブレヒトが没して半世紀以上が経過した今日においてなお、舞台から切り離されて俳優を外から受動的に眺める映像消費者のような観客が客席の過半を占めていると思われます。『ラブ・ダイアローグ・ナウ』の批評では、作品がこうした消費社会のモードに対して抵抗するものであったことを、その手段として商品化のコードを拒む本人性の強調や、ボードリヤールの詩的言語論を取り上げながら紹介しました。
ボードリヤールの詩的言語論に関連して、なによりも強く指摘しておきたいのは、松原さんとスペースノットブランクが、ともに「死者」の問題をしきりに扱っていることです。
ボードリヤールは「死者」が管理不能なものとして現代社会から駆逐されていることを指摘したうえで、システムにとってまったく異質なこの外部化された「他者」の招来にシステムを変革する希望を見出し、それを詩的言語の実践に重ね合わせています。松原さんの作品もまた、この「システムから外部化された他者」をしきりに取り上げるものです。『正面に気をつけろ』では戦没した死者たちが描かれます。『山山』の描く被災者や『君の庭』の皇族たちもまた、管理に組み込まれながら「外部」化された両義的な位置に身を置いています。
また一方で松原さんの作品は、死んだように生きているとかいう時の、退屈な管理に飼い殺された状態をも、「死」という言葉で捉えているように思われます。個人が過度に抽象化されてしまうこと、あるいは関係性やアイデンティティの飽和を通じて希釈されることの「死」をわたしはスペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』の批評で論じましたが、それは松原作品における「死」をも貫通するものとして読めそうです。
物理的な死、精神的な死、その他もろもろの死を経たのだろう、死にながら発話するゾンビのような人物たち。松原さんの作品を読むとわたしはしばしば『ゾンビランドサガ』というアニメを思い出すのですが、舞台に呼び起こされた「死者」は何度でも「死ぬ」ことができる。それがゾンビの最大の強みであり弱みなのです。
外部化された「死者」と管理に飼い殺された「死者」が交錯する場としての舞台。それは、俳優によって立ち上がる言葉と観客との間の、終わりのない対話の場でもあります。
スペースノットブランクは『光の中のアリス』を含め、2020年に8作品を上演しています(ここでは『ラブ・ダイアローグ・ナウ』は2作品分とカウントすることにします)。COVID-19により上演が困難となった時勢を鑑みればそれだけでも十分特筆に値しますが、それよりも驚くべきことは、そのいずれもがまったく新しい景色を展開していることです。終点を先取したようなクールな達観を備えながらも、スペースノットブランクはどこまでも加速をゆるめません。
演出家ピーター・ブルックは退屈な演劇を<退廃演劇>と総称した上で、「<退廃演劇>の問題は、つきあって死ぬほど退屈な男の問題と似ている」と言います。彼に向けられる「溜息とは、彼が自分の可能性の絶頂ではなく、どん底に位置しているのを惜しめばこその溜息」です。そうだとすれば、不断に自らの可能性を問い、観客との関係をも模索し続け、「対話」を通じた新たな世界の可能性を絶えず形にしてゆく彼らの舞台は、「死ぬほど面白い」ということになるのではないでしょうか。
参考文献:
ヴァルター・ベンヤミン(山口裕之編訳)「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・アンソロジー』河出書房新社, 2011.
ジャン・ボードリヤール(今村仁司・塚原史訳)『象徴交換と死』筑摩書房, 1992.
ピーター・ブルック(高橋康也・喜志哲雄訳)『なにもない空間』晶文社, 1971.
松原俊太郎「戯曲の読み書きについて」『山山』白水社, 2019.
イントロダクション
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インタビュー
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