光の中のアリス(2020年)|推薦・応援コメント(敬称略)
映画の予告編ってあるじゃないですか。あれって、観客の「本編を観たい」という欲求を掻き立てるよう工夫して作られていますよね。で、実際に映画本編を観てみると、そこから受けた“感じ”と、予告編から受けた“感じ”に、隔たりがあったりします。時として全く別の作品みたいです。もちろん、予告編と本編は別のフィルムなのだけれど、じゃあ、本編と矛盾したことで今や“嘘”となってしまった、予告編だけが持っていたあの“感じ”は、観客を欺くためのフェイクに過ぎなかったのか。物語にまで達しないけれど、しかし本編よりも深刻に僕を魅了し、本編から逸脱する妄想や快楽を僕にもたらしたあの“感じ”。ラディカルでスタイリッシュな、あの何かです。それは僕にとって、予告編というプロモーションの副産物ではありません。ある種の“本編”そのものなんです。誰も言葉にしないから夢みたいに儚いその代物を、見事に捕まえた人たちがいます。スペースノットブランクです。これは、あなたがあの時探していた何かです。あるいは、あなたがこれから発見する“感じ”です。どうぞお楽しみください。
鴻池留衣(小説家)
初めてスペースノットブランクを見たのは表参道のスパイラルで、身体と言語がミックスされた特異な空間だったのを覚えている。スペースノットブランクというその名前の様に、空間は決して空白ではなく、常に時間は流れ続けていてつまり重力は掛かり続けて、次の空間へと全てが動き続けている。何もない空間に思えるスペースに形のない言葉と何も残らない運動が通り過ぎた後に残るのは消して空白ではなく、伸び縮みした時間つまり一瞬の揺らいだ重力の痕跡が残っているのを感じられるはずである。今回の上演もその独特な時間がロームシアターの空間を埋めるのを楽しみにしています。
敷地理(振付家・演出家・ダンサー)
スペースノットブランクを見ていると、あぁ、自分は一体何を体験しているのだろうと、困惑する瞬間が何度もある。
しかし、その上演で見た景色は、翌日、翌々日、一週間後、半年後、一年後になっても、まだ脳裏で蠢いている。忘れたいのに、忘れさせてくれない!
私の歴史に、否応なくスペースノットブランクが刻まれてしまった。舞台芸術の歴史に刻まれる日も、そう遠くないと思う。
額田大志(東京塩麹/ヌトミック)
わたしはこれまで、スペースノットブランクの作品として1作品、昨年の利賀村のコンクールで、お二人連名の作品として1作品観たことがあります。
どちらも、「舞台の上で何事かを表象する」ことの困難と希望を感じさせてもらったことを覚えています。
なにかにつけ制約の大きい舞台の上で、言葉と身体をかけてどう自由に飛躍するのか、そして、再び着地するのか、舞台作品の原点ともいえる部分へのこだわりとヴィジョンこそスペースノットブランクの面白さなんだと思っています。
ロームシアターでの上演、いち観客として、とても楽しみにしています。
野村眞人(劇団速度/演出家)
演劇を見ていてよくわからないものやことを目の当たりにすると、一旦俳優の靴を見るという習慣が最近ついている。意識の重心を下げて、解像度の高いよくわかるものを視界に入れることで、よくわからないものやことを特定のなにかに帰属させることなく、宙に漂わせたまま関わることができる。靴は舞台上にあるものの中で一番よくわかる。ナイキであればあるほどよくわかる。どれだけ身体や言葉が信用できなくても、俳優の履いている靴そのもの、身体の押す力と地面の押し返す力が重なるこの境界面は信用できる。
だから、今度はスペースノットブランクの靴とノースホールの床に注目して観てみたい。別に冷やかしているつもりもミスリードをしているつもりもない。スペースノットブランクの舞台は「立つ」ことの上に成り立っていると思う。スペースノットブランクの俳優は他でもなく「立つ」ために立っているし、強い意志を持って靴を履いたり履いてなかったりしているように見える。床のレベルから表現を立ち上げる人たちは信用できる。
福井裕孝(演出家)
こう書くこと自体、すでに何度目かだが、スペースノットブランクとの出会いは私にとって衝撃的なものだった。
過去十年以上、私は膨大な数の舞台芸術を鑑賞し、多くの新しい才能を見知ってきたが、スペノは間違いなくその中でも際立って非凡な作品世界を鮮やかに示していた。
最初の印象は「これはいったい何なのか?」「どうやったらこんなことがやれるのか?」というものだった。
それから私は可能な限り、スペノの上演に立ち会ってきた。驚くべきことに、彼らはその独自のスタイルを果敢に、大胆不敵に押し進めていった。持続と変化を併せ持った、目線の異様に高い終わりなきワークインプログレス。
いま現在、私がスペノに抱いている思いは「いったいどこまで行くつもりなのか?」「この先に何があるのか?」というものだ。
天才松原俊太郎との二作目のタッグの初演が、またもや東京じゃないなんて、京都でだなんて、なんてことだ!
佐々木敦
小野さんと中澤さんと初めてお会いしたのは、本多劇場主催の若手支援企画「下北ウェーブ2018」でした。翌年には、「ラフトボール2019」というショーケース公演にもお誘いいただき、再びご一緒させていただきました。いつもとても近いところで刺激をもらっていて、いつもとても贅沢なポジションだなと感じております。
わたしにとって、スペースノットブランクの作品は、知らない世界の扉をぱーん!と開け放たれる体験です。そこに嫌な感じや不安な感じはなく、むしろ新しい風や光が入ってきて気持ちがいい。出不精な人間なので、そのような作品に出会えることの有難さを、毎回劇場で噛みしめております。
京都での新作もとても楽しみです。応援しております!
中島梓織(いいへんじ 主宰/劇作家・演出家・俳優)
スペースノットブランクは正体不明だなぁ。何が出自かわからないけど、多くの人が決まっていると思っている演劇のルールを変えていくことを愉快そうにやっている。
演出2人いるってどういうこと?戯曲賞に6人連名ってなんなんだ。愉快だ。東京でしか観れないかと思いきや、豊岡、静岡、鳥取でも観れる機会をつくった愉快だ。
京都には社会状況のせいで来れなくなっていたけど、ついに来るんですね。どっかが拠点じゃないとダメだなんてルールは変えてくれる愉快さを期待して観に行きます。
若旦那家康(コトリ会議/ROPEMAN(42))
スペースノットブランクとはいろんな事業やコンペで名前が並ぶことも多く、かながわ短編演劇アワード2020で出会ったときには互いに「お噂はかねがね」と言い合った……ような気もするし、演出家も2人体制で共通項が多い。作品は未見ながら不思議な縁を感じていた。
KAATで初めて『氷と冬』を観劇し、ほとんど反射で良いとは思わなかった。が、それはiPhoneが登場した時、ガラケーの撤退を予期できなかったような感覚に似ていて、とにかく「作品をどうやって作っているのか」がまったくわからなかった。
『舞台芸術の既成概念に捉われず新しい表現思考や制作手法を開発しながら舞台芸術の在り方と価値を探究している』だけは、あるな、と思った。
あれは紛れもなく「新しかった」し、そもそも「新しいもの」には良いも悪いもない、から「新しい」のであって、「新しいこと」それ自体にもう価値がある、とも思った。舞台芸術を更新しかける、というのは並大抵なことではない。
スペースノットブランクはたぶんそういうことをやっていたんだと思う。
その探究が、どれほど難しい旅かも想像に難くない。
だからめちゃくちゃ応援したい。
岡本昌也(安住の地/演劇作家・映像作家)
もしかしたらご本人達は、別の意味やもっとすっきりした表現を用意しているかもしれないけれど、スペースノットブランクという名称を私は勝手に「空いているんじゃありません、空けてるんです」と解釈している。だから最初は、これはちょっと理屈っぽい人達なのかなと身構えたりもしたが、創作のスピードも作品のクオリティも、理屈で済む小ささではなかった。1作ごとに変化するし、似た例がないから「こういう作風で」と説明するのは難しいが、毎回、脳と体を使い尽くしているのはよくわかる。確かにコンセプチュアルだけれど、あえて“空けてある”場所に彼らが最後に入れるのは生きている身体だ。客席で脳をかき回されたあと、そこにいつも打たれている。
徳永京子(演劇ジャーナリスト)
小野さん、中澤さんの暮らし方の中からも醸される創作上の原資が感ぜられます。
河井朗さんが演出なされた、お二人が出演するパフォーマンスを一度拝見しましたが、モーションや時間の流れ方が希有に思いました。機動性ということにおいても、特別なものを感じます。
私たちが運営するTHEATRE E9 KYOTOにて、本年8月に上演を実現できなかったことが、申し訳なくまた悔やまれます。
12月のロームシアター京都での公演では、気鋭の劇作家松原俊太郎と共作とのこと。
新しい時代の舞台芸術が切り開かれるのだろうと、楽しみにしています。
あごうさとし(THEATRE E9 KYOTO・芸術監督)
客席からスペースノットブランクを観るたびに思い出すことがあります。
周りは熱狂しているけど自分は冷めに冷めきってて、なのに忖度なのか保身なのか冷え切った自分を内に内に押し込み同調しなければならない、いやむしろ本当に熱狂してんだと思いこみ過ごした生活や仕事での後悔の数々です。
「媚売りめ、言いたいことを言う度胸もないのか」と言われてないのに言われてるような気がして劇場から家へ帰ります。
ベッドで目を閉じ、よく分かんないけどなんか焼きついちゃってるシーンを思い出します。この夢虚な時、ようやく押し込めた自分が出てきて、過去もスペノもいろんなことも褒めたり貶したり。
スペノを観た日は特に「真剣な人や不真面目な人を嘲笑っても尊敬しても、古いなと、新しいと、なんでも思ってもいいよ、むしろいろいろ思えよ」となんだか正直にさせてくれて、それは自分にとって結構必要なことで。
今年の3月に上演した『ウエア』の原作もスペノだから思うがままに書けました。楽しかった。そしてスペノによって立体化された舞台は恐ろしいほどの再現度とパッパラパーかよと思うほど再現してない度で浮き上がっていて。笑いました。どっちにも答える。確実に彩加と陽はそういない優れた演出家、パフォーマー。
スペースノットブランクは自分にとって、新品しか置いてないリサイクルショップみたいな場所。
それは初めて観た時からずっと変わってません。
池田亮(ゆうめい・代表/脚本家・演出家)
スペースノットブランクの作品は、どれも得体がしれない。掴みづらく、言葉にしづらい。それでいて、毎回なぜか見入ってしまうし、また次も見たい、と思わせてくれる。
そんなスペノが今度、松原俊太郎の言葉を演出するという。松原俊太郎の言葉も、だいぶ得体がしれない。この異色かつ挑発的な組み合わせは、まったく見知らぬところに私たちを連れて行ってくれるはずだ。大いに期待したい。
相馬千秋(アートプロデューサー)
僕は彼らと4年間共に制作をしてきて、常々思っていたのですが、スペースノットブランクの作品が本当に面白過ぎて、どうにかして京都の地で上演してもらえないか、京都の演劇シーンと呼ばれているものを、破茶滅茶の滅茶苦茶にかき乱してくれないかと切に願い、画策していました。それは東京から新しい演劇文化を招き入れることによる化学変化とかそういう話ではなくて、彼らの作品は常に形態を変容させ、いま現在演劇と呼ばれるものがどのようにして形成されていったかを垣間見る機会となり得るからです。
しかしそんな僕の画策虚しく、彼らは迷い込んだのか、光を探しに来たのか、ロームシアター京都にやってきました。
京都の皆さんこれはチャンスです。これから世界中のありとあらゆる空白を空間に変えるスペースノットブランクと劇作家松原俊太郎との最新作。観て損はなし。なぜなら今回の上演は皆さんも無関係ではないのです。彼らはこんなご時世と言われ生まれた空白の時間を光で埋め尽くしてくれるのですから。
河井朗(ルサンチカ・主宰/演出家)
京都の劇団安住の地の中村と申します。
まだまだ若輩者なので言葉を寄せることは僭越なのですが、初の京都公演ということで、微力でもお力添えになれば幸いです。
スペースノットブランクさんをはじめて拝見したのは、今年3月の「かながわ短編演劇アワード」でした。広い空間を“役者4人とマイクスタンド”という簡潔な舞台で使っていて、その舞台美術から作り手側のある種の「覚悟」が見えて気持ちよいなあと思った記憶があります。
ところで、わたしは疑いをもっている人が好きです。疑うというのは「物事を信じない」ということではなく「ほんとうにこれでよいか、もっとなにかあるのではないか」というポジティブな探求心という意に近いです。それでいうと、かながわの作品の時に「疑いをもってらっしゃる」という印象を受けました。
ごくごく個人的な見解ですが、京都演劇まわりは「疑いを持つ体力がある」人が多い気がします。
スペースノットブランクさんが京都で上演をされること、なにか面白い相乗効果が起きる可能性をもっているなとワクワクします。
まだまだ色んな対策を要される状況ですが、京都での公演がよりよいものとなりますよう心から応援いたします。
中村彩乃(安住の地・代表/俳優)
アルフレッド・ヒッチコックの映画以外で初めてこんなに人と人が顔を近づけながら話す作品を見ていると思いました。相手の息をそのまま吸っているような距離。しかもそれは映画ではなくて舞台でした。スペースノットブランクの『ウエア』。それは作品の冒頭で、この二人のやりとりが最後までずっとつづいてもいいと思いながら見ていました。作品には終わりがあるから寂しいです。寂しいからその二人に自分が作る映画に出演してもらいました。その一人の荒木知佳さんは『光の中のアリス』にも出演しています。スペースノットブランクのおかげで私の映画もあります。いつか京都でも上映するはずですが、知らずに見たら同じ人とはきっと気づけないと思います。スペースノットブランクの舞台に立つ人たちは人間という装いを脱ぎ始めた生き物のようで、出会うとびっくりします。
杉田協士(映画監督)
イントロダクション
植村朔也
インタビュー
松原俊太郎
推薦・応援コメント(敬称略)
鴻池留衣 敷地理 額田大志 野村眞人 福井裕孝 佐々木敦 中島梓織 若旦那家康 岡本昌也 徳永京子 あごうさとし 池田亮 相馬千秋 河井朗 中村彩乃 杉田協士