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フィジカル・カタルシス|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。


  「カタルシス」という言葉はアリストテレスがその著作『詩学』で悲劇の本質として掲げたものですが、この概念の意味するところについては実はあまりはっきりとしていないようです。悲劇の扱う「憐れみ」や「畏れ」を「浄化」するものであるという理解が一般的なようですが、その解釈もどうやら問題含みであるらしく、そんな難解な語を今日誰もがカジュアルに用いているのはなんだか奇妙なものです。
 この芸術論がわれわれを驚かせるのは、感性を重んずる近代以降の美学の伝統に反して、そこで追求される「美しいもの」がまったく理知的に理解されていることです。悲劇において最も本質的であるのはストーリーであって、場合によってはそれを上演する必要すらないのだとアリストテレスは主張するのです。カオティックで陰惨な状況をロジカルに線型的なドラマへと収斂させていく認知のプロセスこそが重要とされ、視覚効果や音楽、俳優の演技から受ける感動はまったく副次的な産物であるとしてほとんど顧慮されません。
 すると悲劇の本質たる「カタルシス」は、この「「ダンス」と「身体」そして「動き」についての舞台作品」にあてがわれる言葉としてはなおのこと不釣り合いであるように思われます。

 フィジカル・カタルシスはスペースノットブランクが昨年から始動した作品で、1年の内に4度にわたり上演されました。私は1月のd-倉庫、12月の穂の国とよはし芸術劇場PLATには惜しくも足を運ぶことはできませんでしたが、3月の青山スパイラルホール、それからシアター・バビロンの流れのほとりにて、という奇妙な名前の小劇場での5月の上演には立ち会っています。毎公演ごとに内容は一から作り直されるため、一度として同じ内容の公演はありません。
 もう何度か今回の稽古場に足を運ばせていただきましたが、基本的なコンセプトはこれまでの公演から大きく外れてはいないようです。5つのフェーズから成り、展開される動きは出演者が自ら振り付ける。演出の小野さん・中澤さんは、出演者が動きを考える元となる簡単なタスク(中澤さんの言葉で言えば、試練)を設定して、そこから生まれてきた動きを編集することに専心しています。
 演出家が振り付けを行わないのは奇妙なようですが、このような編集モデルはすでに一定の潮流を形成したものです。伝統的なダンスの作家主義を解体し、素材として用意された既成の動きを遊戯的に構成する新たな作家像がそこでは打ち出されています。ピナ・バウシュやウィリアム・フォーサイス、ジェローム・ベルといった作家からの影響については演出家が自ら認めるところでもあります。
 もっとも、振り付けも身体相互の種々の関係性から生成されたもので、出演者の自律性・主体性を盲目的に前提するものではありません。集合的で透明な構造と固有の身体との多重化を観るところにフィジカル・カタルシスの経験が成立します。

 先に「カタルシス」概念のダンスとの不和について述べました。ごく乱暴に言って、演劇を観る者は記号の充溢に対する認知に、ダンスを観るものは力動的なエネルギーの布置や現前する身体への感覚に、主に意識を向けるはずです。その意味で、フィジカル・カタルシスは演劇の知覚のモードをも積極的に許容します。動きは出演者らの間で反復され、共有され、攪乱され、綜合され、物理的な実在を超えたある種の象形文字として浮かび上がるようでもあり、こうして主体相互の関係性が舞台に立ち上がるような身体の「対話」を「認知」するプロセスが本作の根幹を成してもいるのです。
 また稽古で目立つのは、課された「試練」に耐えて息切れする出演者の姿です。パフォーマーに強い重圧や負荷がかかっているというわけではありませんが、それでもそこにあるのは優雅さへの洗練を欠いて、ささやかに「悲劇的」な受苦の身体です。とはいえ、この「試練」は快を伴う出演者自らの自発的な選択の連続によって達成されます。その身体の振る舞いはどこか朗らかで、ゲーム的です。そこでは、息切れする形而下的肉体とヴァーチャルなゲーム的身体とが二重化しているのです。
 ですが、ダンスでもありながら演劇でもある、タンツテアター的な作風の内にこの作品を数えることはできないでしょう。あくまで知覚のモードが演劇に接近するだけのことであって、舞台には「ドラマ」の断片さえも漂うことはない(はずである)からです。
 昨年5月のフィジカル・カタルシスは私がスペースノットブランクに本格的に夢中になるきっかけとなった作品でもあります。私はスペースノットブランクの特徴を脱色する還元的な前衛精神に見ています。昨年だけでも11作品という、生き急ぐかのような制作ペースで原初へ向かう後方への前進の精神です。
 越境という言葉は相互の領域とその境界のスタティックな関係性を含意しています。しかし本質的な越境は両者を揺るがさずにはおきません。出演者は必ずしもダンスの経験を持ってはいませんから、その身体から生ずるモーションは、長年かけて組織されたダンスのコードを離れて、「踊り」よりは「動き」と呼ぶのにふさわしいものです。ですからフィジカル・カタルシスがダンス・演劇という両者の性格を共に備えているとするのは誤りであって、作品が目指すのは両者を還元した先にある、より開けた「舞台」であるわけです。
 このゼロに向かう還元的な速度は終点を先取します。昨年5月のバージョンは首吊りによる自死を思わせるイメージで終幕しました。作品が論理的な関係構造への記号的な還元を含む限り、知覚のモードは身体とその動きを捨象する方向に傾きます。それでいて身体の多様の展開もまた、加速されれば熱力学的な死に向かいかねません。過度の飽和は無と同義です。フィジカル→語る→死す。
 昨年の私が惹かれたのもやはり彼らのこの遠心的な速度であったわけですが、否定性から成る「白」、この何でもない色は、たしかにこの世に受肉される限り澱みを含んで、まったく純粋な無色ではあり得ないと言います。しかし、空白でない空間(スペースノットブランク)――彼らのシニカルな眼は、すでにその終点の先、速度の先をも、捉え切ってしまっているかのようなのです。
 身体ある限り、還元と多様との往還、主知的な形而上的理念(カタルシス)と、形而下の感性的次元(フィジカル)との「越境」はどうやら止むことはないようです。前衛の果ての停止を超えて、スペースノットブランクが常に立ち止まることが無いのは、この生と死にあふれる夏が二度とは訪れないからです。


出演者インタビュー
花井瑠奈と古賀友樹
山口静と荒木知佳

イントロダクション
植村朔也


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