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再生|レビュー|白尾芽:疲れるのは誰?

白尾芽 May Shirao
東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学コース(伊藤亜紗研究室)修了。修士論文を元にした論文に「ポストモダンダンスにおける観客性と「身体的共感」──イヴォンヌ・レイナーの作品を中心に」『Commons Vol.3』(未来の人類研究センター、2024年)がある。ウェブ版「美術手帖」等での編集・執筆を経て、現在出版社勤務。
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ワークショップ=歓待

開演の約2時間前、会場に足を運ぶと、すでに舞台上には出演者と参加者が集まって各自ストレッチをしたり、話をしたりしている。そのまま舞台の床で自分もなんとなくストレッチらしき動きをしていると、ワークショップが始まる。宮悠介が主導するウォームアップをしながら、参加者はそれぞれ名乗り、中澤陽はこれから「30分の物語」をどのような段取りで再生するのかを説明する。『再生』は説明文にある通り「30分の物語を3回繰り返す」構造を持つ舞台作品であり、「30分の物語」はほぼ途切れなく続く全8曲にあわせて切り替わる8つの場面から構成されている。どの曲にあわせて何をやるかはすべて決まっていて、一度聞いただけでは覚えられないのだが、都度指示をするのでそれについてきてください、と言われる。
じゃあやってみましょう、ということになる。まずは参加者全員で横1列に並び、出演者の瀧腰教寛による『街は水族館』の弾き語りを聞いた後、UA『太陽手に月は心の両手に』にあわせて舞台の後ろから前に向かって動きをつけながら進み、最前まで行ったら戻って、また進むことを繰り返す。最初の数回は出演者の動きに従い、次にやりたい人が好きな動きで先導する。曲がaiko『ストロー』に切り替わると、今度の指示は「前の場面の動きをできるだけ思い出して同じ順番で繰り返す」というものだが、当然途中からすべてがあやふやになり、参加者は思い思いに、列の半分ずつで違う動きを繰り出したりもする。こうして動きは自然と出演者から参加者へと受け渡され、その後も乗りやすいポップソングの効果や、何人かのダンスや演劇の訓練を受けているであろう参加者(と出演者)のスキルが相まって、わたしたちは集団として、言われるがままにそれぞれの場面をある程度遂行できてしまう。そして、なんというか、とても親切なのだ。紛れもなく参加者は歓待されていて、各場面は誰でも参加できるようにアレンジされ、優秀なファシリテーションがあり、迷ったり考えたりする必要がない。確実に自分が何をするべきかはわかる(武術っぽくエイ、エイ、と拳を突き出したり、両手を上げてクラップしながら飛び跳ねたり)が、それが一体なんなのかがまったくわからない、そういう状況は、心地よく楽しいと同時に、怖い。

観客の教育

この1時間の経験を経て、公演を見ることになった。ダンサーたちは横1列でそれぞれ台のようなものに腰掛け、瀧腰の『街は水族館』を聞く。歌い終わった瀧腰がギターを下ろして指を鳴らすと、『太陽手に月は心の両手に』が始まる。イントロのギターにあわせて誇張した反復横跳びのような動きをする瀧腰に、宮と斉藤綾子が合流し、ボーカルが入ると同時に、3人が前進しながら激しく踊りだす。1人が腕を前に突き出すときほかの誰かがしゃがみ込む、足を振り上げるエネルギーが誰かのジャンプを生み出す、カニのような動きが伝染する(ように見える)。3人が舞台の最前まで到達すると、小野彩加、山口静、ゴーティエ・アセンシが並んで同じように前進しながら踊りだす。ほぼ同時に古賀友樹が立ち上がり、瀧腰・宮・斉藤も歩いて後方に戻りつつ途中からまた踊りを始める。もうダンサーたちの組み合わせはバラバラになり、たまたま近接する者たちがそれぞれを振り付け合うような瞬間が生まれては消えていく。中澤の印象的なソロを挟んで楽曲の後半では、舞台上を縦横無尽にすれ違いながら踊るダンサーたちの、動きの受け渡し合いがより複雑化する。
曲が終わりに近づくと、ダンサーたちはまた横1列に並び、瀧腰がふたたび指を鳴らすと『ストロー』が始まる。ここでは、直前の場面とまったく同じ動きが正面を90度回転して行われる。唯一異なるのは、後半部分の途中からダンサーが1人ずつ台に戻っていくということだ。それを除けば観客は、同じ動きのシークエンスを、3回の〈再生〉のなかで計6回見ることになる。ある動きに対してテンポもムードも違う曲を与えることで行われる反復は、教育的にも感じられる。反復の教育的な効果のひとつは言うまでもなく、個々のダンサーの際立ったジェスチャーだけでなく、前述のような動きの受け渡し合いがより大きな単位で見えてくることだろう。しかし本作でそれよりも強く感じられたのは、タイミングの感覚である。たとえば、寝転んだ古賀と小野が作る凹凸のような体勢のペア、中澤がソロに入る合図のように行われる小野の大きな投げキッス(のような腕の動き)、アセンシ・古賀の両手指差し、互いに離れた場所にいた宮・瀧腰・山口が一瞬合流して合わせる拳。こうしたある種の気持ちいい(satisfying)タイミングは、動きの流れを把握するポイントにもなり得る。観客は〈再生〉という反復構造の中でもっと「よく見るように」教育され、まるで自分がその場をオペレーションしているような視点を得ながら、さらに熱心に舞台上を見つめることになる。
ちなみに『ストロー』の後半部分でダンサーが1人ずつ捌けた後、アウトロにあわせて舞台の対角線上に沿って行われるのは瀧腰のソロである。ちょこちょこと何かを触っているような手足、垂直のジャンプにあわせて太腿を叩く音、伸びやかに振り回される腕と独特な膝の硬直──すでに2回は繰り返し見た動きに、観客はもう一度集中することになる。前の2回と異なるのは、舞台の端まで進んでから、最後のフェイントのような中腰のポーズでゆっくりと時間を取り、体を起こしてから一瞬、顔を残して後ろに戻っていくことである。縦、横、対角線のバリエーションにおいて、唯一対角線だけ、その顔の先に観客がいない。しかし、瀧腰は何かをじっと見つめ、それと目を合わせて立ち去る。それは〈再生〉という閉じた構造そのものに対して唯一外側から向けられた視線として、観客もすでにその中に取り込まれていることを確認するジェスチャーのように機能する。

タスクとしての振付

本作の原案は、多田淳之介が主宰する東京デスロックが2006年に発表した同名の演劇作品である。集団自殺をテーマに、畳敷きの部屋で鍋と酒を囲んだ最後の宴会に興じ、人々が「何かひとつ幸せに死んでいく」(*1)までを描いたものだ。スペースノットブランクは、同じことを3回繰り返すという構造は厳密に継承しつつ、セリフは最小限とし、ダンスをメインに据えて翻案した。元の『再生』が、飲み食いし、騒ぎ、動くことの繰り返しで疲弊していく体のグロテスクさによって、死に向かう集団の幸せな狂気というスペクタクルを立ち上げるものであったとすれば、本作はどこまでもクリーンで禁欲的だ。缶や瓶のままの酒や鍋といった美術もなく、出演者の服装も黒1色で、舞台上ではダンサーたちの体が際立つ。いずれも繰り返しの構造が演者を疲れさせることは間違いないが、本作ではその疲労に演出が入り込むことを周到に避け(*2)、ダンサーたちが与えられたタスクを遂行すること自体を全面に押し出し、むしろ疲労を覆い隠しているようにも思われた。たとえば、原案の『乾杯』の場面における薬と酒は、個包装の小さなドーナツに置き換えられている。神妙な音楽にあわせた静かなドーナツの乾杯は、原案の「死」というテーマを限りなく脱色した純粋なタスクとして印象づけられる(*3)。そしてその後に続くのは、ダンサーたちがそれぞれの1日のルーティーンをマイム的に圧縮して踊る場面だ。ここでも、ダンサーたちが日々うんざりするほど繰り返しているタスク=ルーティーンが、舞台上でのタスクとして課され、また繰り返される。
本作においてダンサーたちは、いま課せられているタスクがどのような全体に寄与するのかを知らないかのように踊る(*4)。観客は、回を追うごとに「ここでこれをする」というタスクと、それを実行した結果が同じ(または微妙に異なる)であることを、毎回確認する。つまりダンサーと観客は、「何をするべきかはわかるがそれがなんなのかはわからない」という状態を、3回の〈再生〉を通して共有することになる。そしてそこで前景化するのが、ある瞬間の、ある動きと動きが呼応する一瞬のタイミングの感覚である。観客はここで奇妙な欲望を抱きもするだろう。すなわち、3回がすべて同じように、知っていることが知っているタイミングで起きることと同時に、どこかで誰かが間違えるのを少しだけ期待するのである。
ダンサーたちは、記憶をなくしたように、望まれれば何回でも繰り返せるというふうに、ちっとも疲れてなどいない様子で毎回舞台に登場する。それはもはや繰り返しというより、生まれ直しというほうが近いかもしれない。彼らのタスクの積み重ねは、それ自体としては一向に像を結ばない。経験を蓄積し、疲労し、間違いを期待し、そこになんらかの全体像のようなものを見出すのは、観客のほうなのである。どれだけ見ても、どんな像も生まれてこない可能性もある。それでもこの〈再生〉の構造は、よく見ることへと観客を手招きする。最後の『街は水族館』を聞きながら思ったのは、そういう歓待は心地よく楽しいと同時に、怖い、ということである。

*1──「東京デスロック・多田淳之介インタビュー」(エンタメ特化型情報メディア スパイス、2022年7月21日)
*2──たとえば2006年の東京デスロック『再生』初演時には、3回目の最後の場面に俳優全員が血を吐くという演出がなされている。高木登による初演のレビュー「身体によって発想された身体による物語」(ワンダーランド、2006年11月17日)にも該当の場面への言及がある。
*3──ここでは、中澤が作中でたびたび見せた眼鏡を指で上げる動作が、ドーナツを掲げて乾杯するタイミングの合図になっていたと思う。個人の癖のようなものがタスクになり、繰り返され、それが観客にタイミングの感覚を生み出す。
*4──このことは、スペースノットブランクが独自に生み出した「フィジカル・カタルシス」という振付の手法にも関係するだろう。「フィジカル・カタルシス」においては、他者と交感しながら動きを次々と生み出し、そこから他者との関係を捨象して、自分の動きだけを繋ぐことでフレーズを作る、という方法が中心になっているという(筆者によるスペースノットブランクへのメールインタビュー、2024年12月25日)。振付は生み出された時点ではいかなる全体も志向していない即興のようなものであり、それを舞台上に配置するときにタスク的な性質を帯びると言えるかもしれない。偶然生まれた動きを舞台に上げるにはそれを「再現」しなければならない、というジレンマは、ダンスやパフォーマンスにおいて普遍的なものであるだろう。

レビュー
白尾芽:疲れるのは誰?
多田淳之介:新生『再生』

再生

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