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ウエア/ハワワ|額田大志:インタビュー


額田大志 ぬかた・まさし
作曲家、演出家。1992年東京都出身。8人組バンド〈東京塩麹〉、演劇カンパニー〈ヌトミック〉主宰。「上演とは何か」という問いをベースに、音楽のバックグラウンドを用いた脚本と演出で、パフォーミングアーツの枠組みを拡張していく作品を発表している。舞台音楽の作曲家としてQ、パスカル・ランベール、岩渕貞太、コンプソンズなどに参加。最近は、目的のない集まりを開催することに精を出している。

額田大志|公式ウェブサイト
東京塩麹
ヌトミック


植村朔也(以下、植村):2年前にお話をお聞きした時は、ヌトミックが以前の形式を踏まえつつ色々実験をしている段階とのことでした。俳優が発話をする時に、音楽のように「ここでこう発話することになってるからこういう音を出すんだ」というのとは違う、演劇的な根拠がないとうまく演技ができなくなってきたとおっしゃられていたわけです。そうした問題意識はこの2年の中でどういう風に展開されたのでしょうか。
 
額田大志(以下、額田):最初は台詞を音として扱うことから演劇的なパフォーマンスに興味を持ち、それをずっと実践してきました。音楽の場合、音楽自身が持っているタイムライン、つまり楽曲のテンポが基本的にあり、それがあるから、ある音を連続して弾いたときに一つのメロディとして聴こえるようになります。それを演劇の上演でやってみるという試みです。前後の繋がりはない台詞を一定のテンポの上で発することで、意味は通じずとも音楽のように聴こえてしまうことで、意味を超えた体験になる面白さに惹かれました。
ただそれは、演劇ではなくて「結局音楽なのではないか?」という疑念も常にあり、ここ数年、改めて「演劇」って何だろうなと考えたときに、演劇の持つ「キャラクター性」に目を向けるようになりました。

植村:キャラクター性を意識されたのはいつごろからでしょうか?

額田:2019年の『エネミー』のときに何となく意識し始めたというか、むしろ俳優側からそういう話も出てきていて。今年の4月にはいわゆる役名のある作品である『波のような人』を愛知県芸術劇場で作ってみたりしつつ、10月の『ぼんやりブルース』では役名はないのですが、台詞を元に「キャラクター性」を考えていく作業を、稽古場ではしていました。

植村:『ぼんやりブルース』の戯曲では登場人物がナンバリングしかされてないので、『エネミー』や『波のような人』など最近のクリエーションに比べるとキャラクター性はむしろ希薄に見えました。

額田:『ぼんやりブルース』は、上演をするための方法として「キャラクター性」を使えないかを考えた作品なんですかね。「キャラクター性」といっても、登場人物の年齢や職業などのバックグラウンドを決めるのとは違って、一つひとつの行動とか言葉を発するための理由付けに近いんですかね。

植村:なるほど、ひとりの全体性を持つ人格ではなくてということですね。

額田:場合によっては人格的な部分から引っ張られることもあるけれど、それもあくまで一要素という感じですね。

植村:額田さんが初期に書かれていた戯曲は『それからの街』にせよ『何事もチューン』にせよ、一応戯曲の体裁をとりつつ音楽のスコアのようなフォーマットを取ってるじゃないですか。登場人物ごとにテキストがいくつかの軸に分割されて、それぞれのタイムスケールのなかに言葉が配置されていくので、日本語で書かれた楽譜としてもそれを見ることができたと思うんです。
対して『ぼんやりブルース』では普通の戯曲のフォーマットをとっていて、これはきわめて重要な変化だと思うんですが。

額田:楽譜的な戯曲って凄く書きづらいんですよね、単純に実作業として時間がかかるので、これは効率が悪いなと思っていました(笑)。
『ぼんやりブルース』の戯曲ですが、植村さんがご覧いただいたのって『悲劇喜劇』のやつですよね? あれは掲載用に大きく変えたもので、いまも基本はエクセルを使用して書いています。『ぼんやりブルース』は雑誌に掲載されるとなったとき、エクセルの状態で見せるとどうしても解説が必要なので、読者に伝わりにくいんじゃないかと思い、いわゆる一般的な縦書きの形式に直したんです。
悲しい話ではありますけど、上演を観たお客さんが「あ、これ変わったフォーマットで書かれてるな」とか思わないじゃないですか(笑)。だから、劇作に当たりどういうフォーマットを使用するかはあくまで作る側の問題だと思っています。ただ、逆に作る側には結構影響がありまして。
『ぼんやりブルース』は戯曲を書く上で3つのフォーマットを使っています。エクセルの横軸で書き進めていたのが最初の方のシーンです。その後「横軸は、やっぱり入力の効率が悪いな」と思ってエクセルの縦軸で書くことにしました。エクセルの縦軸は商業演劇でもたまに使われているようです。ソフトウェア上の話ですが、ちょっと書きやすくなるんですね。これで、ほとんどのシーンを書きました。そして三つ目は、『悲劇喜劇』に掲載するためにワードに流しこんで、一般的な縦書きに直すという過程です。この段階に並行して最終的な手直しをしました。面白かったのは、使用するフォーマットに応じて書く内容が、なんとなく変わるんです。たとえばエクセルの横軸は、音楽のスコアと視覚的にほぼ同じなので、本当に作曲するように戯曲をかけます。一方、エクセルの縦軸だとコピペがしやすいので、自然と繰り返しが増えたり(笑)。で、当然ワードだったら普通の台詞が一番書きやすいですよね、当たり前なんですけど(笑)。

植村:テキストが楽譜としても戯曲としても受け取りうるということを受け手の側から考えてみると、基本的に楽譜の場合は書かれた記号に対してどんな音を出力すればいいのかは通常の音楽だとある程度一意に定まるじゃないですか。だから、台詞がどんな音で発されるかがわからないという不確定性がテキストを特徴づけることになります。
それに対して、テキストを戯曲として読む時にはタイムスケールが厳密に決定され過ぎていることが特異性となります。戯曲でもスコアでもないものとしてテキストを読むことは不自然なわけですが、そのどちらとして読むかでテキストの性格が分裂するわけです。
そのうちの楽譜として読むことの面白みが強く現れたのが今回の『ぼんやりブルース』じゃないかと僕は考えていまして。
その不確定性を導くのは俳優の身体で、音楽の場合とは違って「ここ、こういう音出して」と言ってもすぐにはばっと出してもらえないっていう、その抵抗の部分が恐らく興味深いポイントになってくると思うんですね。『ぼんやりブルース』のあのバラエティ豊かな六人の身体が、無理にそれを統合しようとせずに自然と置かれているのは、戯曲を読んだ時点だと全然イメージできない光景でした。
従来のヌトミックのテキストは、「何か言いたいし、実際言いたいことがあるかもしれないんだけれども全然言えない」という事態が状況として示されていて、というか、ほとんどそれしか言わないものでした。それは『ぼんやりブルース』についてもある程度共通するところです。
で、そうしたヌトミックのテキストに紐づけながら、何もリプレゼンテーションできない私、というか、私未満の私の現れとして、チェルフィッチュに連なる超口語演劇の系譜のなかで演技を説明されることがヌトミックは多かったと思うんです。けれども僕の理解では反対に、俳優の身体がそのテキストの意味内容さえ裏切ってしまうところにヌトミックの面白さがあったと思うんですね。
例えば『何事もチューン』では、発する声のタイミングや強弱、音程を手で調節することをその演技の基底とするラッパー的身体が演じられます。そこには「うまく話すことができない」というためらいとかもやもやとかがまるで感じられないわけです。テキストでは「何もうまく言えない」って言ってるのに、それを表象してるように見えない強靭なフィジカルが目の前にある。音楽に身体がノっちゃえば発話のペースが饒舌になるので、「何もうまく言えない」ということ自体はとても雄弁に語ることができる、そういう発明だったと思うんです。
ヌトミックの場合、「何も語れない」と語る身体の雄弁にドラマが生じていた。そして、語る行為と語られることに分裂がある以上、観客もまたその分裂に巻き込まれざるを得ず、パフォーマティブにそこからまた別の意味を生産していくことになる。
そういう形式が成立していたのがかつてのヌトミックだと思うんですけど、テキストの意味内容を置き去りにして身体が饒舌に自走できたのは発話を音楽性に振り切っていたためであるはずなんです。だから、発話の根拠を演劇的な次元に求める2019年以降ではテキストの内容も変わってくるはずですよね。だから、単に発話が演劇的だからテキストも演劇的にということではなく、ある種発話を減速させるための装置として登場人物やストーリー性が求められるようになったという見方もできると思います。
ただ、さらに感覚的な話になるのですが、『ぼんやりブルース』では「あ、この人、何も言えないとばかり言っているけれど、もう少しで何か言い出しそうだな」っていうぎりぎりのところまで来てる気がしたんですね。話が長くなりましたが、音楽性に振り切ることで強靭な饒舌さを手にした身体を一度手放して、むしろ言葉を発するときに身体に生じてくる自然な抵抗というか、不確定性それ自体を乗りこなそうとしていくことが主題化されたのが今回の舞台ではなかったかと。

額田:以前に試みていた「何も言えない状態」っていうのは、「もうそれ以上ない」っていうことなのかなと思っています。例に挙げていただいた『何事もチューン』がそうですが、「言えなさ」を言い切った時点でもうその「言えなさ」しか残らなくて、そこから先がない感覚がありました。いかにそのゼロを「最高のゼロにするか?」みたいな作業はあるかもしれないですけど。これからも創作活動を続けていく中で、あと6、70年何しようみたいになっちゃって、「言えない」だけじゃなくて「言う」と「言わない」の間を「言いたい、言おうかな」と行き来する方向を試しています。

植村:すぐに「言うぞ」という方に踏み切ってしまおうというわけでは、ないわけですよね。『ぼんやりブルース』は政治的な作品でもあったので、もしかしたらここからものすごくはっきりしたことを言い出すかもしれないし、次にどんなテキストの舞台になるだろうというのが観劇後にとても気になったんですね。もちろんその「言いたい」というのはパフォーマティブなもので、「言う」ことに対する未満的なものとして考える必要はないわけですが。

額田:そうですね。どこかでこう、「言い切ってしまう」と面白くなくなってしまうんじゃないかっていう疑念があります。同じ言語表現の中でも、例えば演説、あるいは論文などは一つの結論を通じて物事を伝えた方がよいと思いますが、自分の表現形態はそれだと作る理由を失ってしまう気がするんですよね。
それは、直接的に言ったことによって伝わらない人が増える、という感覚が割とあって。ときには曖昧な表現で伝えることの方が大事なのかなと思うんです。例えば選挙に行って欲しいとどれだけ言っても、みんなが行く訳ではなくて。でも「行かなくていい」とか、「行かなきゃダメ!」とかではない、その間の話をすることで、もうちょっと共通の話題ができるというか、広がりが出る気がします。それに近いことで、見る前に「自分とは関係ない作品だな」と思われたくないというのもあって。
身体については、植村さんのおっしゃったように、多様な身体があるという演出プランを最終的にとりました。理由の一つとして画一的な身体だけだと、この作品は矮小化するんじゃないかと思いました。『ぼんやりブルース』は、東日本大震災をモチーフにしていたので、身体が一つに固定されるとそこに存在した人の姿が見えなくなるというか。強い身体がある状況よりも、ばらばらな身体が並ぶ方が、戯曲としても意味のある内容だったとも思っています。稽古の最初は出演者のみんなが統一的な身体を目指していたんですが、徐々に自由度が高い状態に身を置いてみました。

植村:今日の東京の小劇場演劇の特徴の一つに、クリエーションにおける人間関係のあり方それ自体の主題化があると思うんですね。それは『ぼんやりブルース』や、『何事もチューン』を俳優主導で再演した先日の公演にも見られる意識かなと思うのですが、それぞれの俳優の身体をばらばらに呈示することと、そうした意識はつながってくるのでしょうか。

額田:うーん、あんまり意識はしていないですね……。みんなが能動的になれる現場にしたいとは思いますが、かといって俳優だから主体的に作品を作らなきゃいけないとかは全く思わないですし。前提として俳優もアーティストで、アーティストにも職業作家的に黙々とこなす人もいれば、自ら率先してプロジェクトを企画するような人もいたりと色々なので、その辺は単純に人によると思います。2021年12月に開催した「ヌトミックのひろば」は俳優が始めたんですが、僕から「やろうよ!」とかも特に言わずに自然発生的に立ち上がっていて、なんというか、うちのカンパニーはそういう感じですね。
『ぼんやりブルース』のクリエーションで面白かったのは、鈴木健太くんや朝倉千恵子さんが二人とも個人でアーティスト活動をしているので、稽古場でも普通に「何が面白いんですか?」みたいにキャッチボールできたのは新鮮でした。
頭で考えて分かることをやらないために、抽象的な表現をやってると個人的に思っています。ただ、理由みたいなことを考えたり言語化するっていうプロセスが特に『ぼんやりブルース』は多かったんです。集まったメンバーがほぼ全員が内容にも深くコミットしてくれるタイプで、それによって作品が良くなった部分も凄くあります。

植村:『ぼんやりブルース』は新型コロナウイルスや東日本大震災を題材にした作品ですが、そうしたテーマはあくまで抽象的に扱われていて、明示はされていませんでした。ですが、あのテキストは取材をもとにつくられたそうですよね。

額田:二つの出来事に共通して存在する、ぼんやりとした気持ち、もやっとした情動を、そのまま舞台上にあげることを目指していました。偶然2018年ぐらいから別の作品のために東日本大震災についての取材をしていたんですが、そのときに行なったインタビューの内容が新型コロナウイルスの東京の様子と繋がることがあって。語り方とか、それぞれが日常生活の中で抱えている不安とか、出来事は違うけれど、不安の質に近いものがあるというか。

植村:社会的な事象にフォーカスして、取材をしてテキストをつくる場合に、普通は他者を代弁するという構造になる訳ですよね。そのとき俳優には代理表象をするだけの、主体としての強さが前提されます。けれども『ぼんやりブルース』の人びとは言うことへのためらいに定位するので、他者の声を代弁するというよりは、他者が語るときの語れなさにこそ身を置いていく、それが特異だなという風に拝見しました。

額田:東日本大震災については東京も被災地であると規定されているんですよね。新型コロナウイルスはもちろん自分の話だし。だから、誰かの声を引き受けてやるっていうよりかは、自分の話として言うことになります。遠くの人を表象するっていう考えは、稽古場の初期段階で方向性として違うなと思いました。

植村:なるほど。ありがとうございます。ここからは、今回のスペースノットブランクの上演についてお話をお聞きしたく思います。『ウエア』は2020年の3月に新宿眼科画廊で上演されたものの再演ですが、その初演の印象はいかがでしたか?

額田:池田さんの書いた脚本を忠実に舞台で見せている感じが面白くて。『ウエア』の台本って池田さんが「ゆうめい」でやっている作品とは質が違うものだと思うんですけど、それがスペースノットブランクによってクリエーションの過程で再構成されても、最終的には池田さんの作品のままなのが面白かったです。あれが池田さんのやりたかったことなのかな? とか考えながら見ていました。

植村:『ウエア』を再演するにあたって音楽は新たにされるのでしょうか?

額田:何か新しい要素は入れたいなあと思っていますね。話が急に大きくなっちゃうんですけど、音楽ってまだまだ技術の進歩によってかなり変わっていく表現だと思っていて。たとえば演劇はジャンルやスタイルの変化のスピードが十年単位くらいで動いていくと思うんですけど、音楽は録音技術が誕生してからまだ日が浅いということもあり、数年単位でトレンドが変わっていきます。だから2年前の初演の音楽は少し古く感じたりもしていて、できるだけ手直ししたいなと考えています。
『ウエア』の初演は、最後までついていくのに必死でした。スペースノットブランクの舞台は演出の小野さんと中澤さんの2人には強い軸があるけれど、それが言語化され過ぎない印象があるんですね。それは個人的にいいと思っていて、分からないものをやるんだから別に言葉にしなくていいと思ってるんですけど、一方で関わる身としては初めてなのもあってかなり手探りでやる必要がありました。舞台音楽は演出家がやりたいイメージをできるだけそのまま音として変換してお客さんに伝えていくのが大事だと個人的には思うんですが、2人が何を大事にしてるのかを見つけるのは意外と時間がかかりました。

植村:演出家の持っているイメージをどのように掴まれたのか、もう少しお聞きしてみたいです。

額田:結構、実直だなと思いました。フィルターをあまりかまさないっていうか。ものをつくる時にどこまで王道ではない「裏」を行くかってみんなすごい考えると思うんですけど、スペースノットブランクの求めている音楽は案外直球なんじゃないかという感覚があって。「音楽を音楽そのものとして認識させる」ストレートさなんですかね。例えば、悲しい曲が流れているってことはきっとこの人は悲しいんだろうなみたいな、そういう想像力のフィルターみたいのがお客さんには挟まるじゃないですか。そうではなくて「音楽」と「お客さん」がフィルターを経由せずにダイレクトに結びつくような感覚があったんですよね。
演劇って、お客さんは音楽を聞きに来てるっていう感覚ではたぶんいないと思うんですよ。それは舞台を見てる中での音楽であって、あくまでシーンのためとか、何かを説明するために音楽が使われたりするケースが比較的多くて。
実際、ほとんどの舞台音楽は稽古を見ながらシーンに必要そうなものを作るわけですけど、『ウエア』ではとりあえずどうなるかも分からないまま作ったものが、そのまま舞台に乗せられてる。上演の中の音楽が、目の前の状況を異化するのでも、説明するのでもない、単純に「音楽を聞く時間」のようにも感じられたんですね。それこそ意味的な部分ではなくて、めちゃくちゃ感覚的に使われてるってことなんですかね。

植村:最初におっしゃられたスペースノットブランクのストレートさというのは、音楽それ自体に対して実直ということですか?

額田:音楽それ自体を、音楽のままお客さんに届けようとする感覚があったということかもしれません。

植村:なるほど。スペースノットブランクの音楽の使い方には額田さんのおっしゃる通り独特な質感があると感じていまして。たとえば今年上演された『ささやかなさ』では、その時に掛かっている曲が終わるまで話すのをやめ、次の曲がかかり始めたらまた喋り出すと言う風に、出演者の演技のテンションやストーリーの内容ではなく舞台音楽ありきで演技のきっかけをつくる方法が取られていました。舞台を駆動していく要素がストーリーや出演者の身体など色々ある中で、普通それらに従属して現れるところの音楽が、むしろそれらに肩を並べるような扱いを受けているなと。
それでは、『ハワワ』の原作を読んでの印象はいかがでしたか?

額田:本気で池田さん凄いと思いました。もちろん内容が面白いのは大前提として、『ウエア』と『ハワワ』を続けて読んでると、池田さんの作家としての底の知れなさを感じますね……。なんとか皆さんにも読んで欲しいですが……。

植村:スペースノットブランクの中澤さんは2018年にヌトミックに『ワナビーエンド』で出演し、額田さんは音楽でスペースノットブランクのクリエーションの現場に足を運ぶことがあったわけですけれど、おたがいの影響関係などを感じられる面はありますか?

額田:影響を何か与えたと思うことはないですね。一方で、思い切りのよさには影響を受けたなと思います。スペースノットブランクの二人は「この演出が、どこまで人に伝わるのか」と考えるときのバランス感覚が僕とは全然違くて、お客さんに伝わることを彼らも考えてはいるんですけど、出会った当初の感覚では「いや、それは流石にわかんないよな」というようなことが沢山ありました。ただ、それをつき通し続けていくことで、お客さんがついてくるというか、「いずれ伝わるようになる」という過程も大事だと思ったりしました。一回見ただけでは分かんなくても二回見たら分かる、みたいなこともあるから、自分のやりたいことをそれこそ実直に舞台に上げる強さに影響を受けましたね。


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