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再生数|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや WebTwitter
舞台批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。影響学会広報委員。演劇最強論-ing「先月の1本」連載中。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』『えほん』がある。

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 ロームシアター京都を舞台に、スペースノットブランクと松原俊太郎さんの最新作『再生数』が上演されようとしています。ここではその導入として、この「再生数」という言葉が今日の日本の社会で持つ重要性について、整理しておきたいと思います。ただし、わたしはすでに松原さんの戯曲に目を通していますが、ここからの文章はその主題やメッセージといったものを見繕って図解するものではありません。その点ご承知おきください。

 アイドルとファンは、どちらも幼く、お互いに入れ替え可能な、似たり寄ったりな存在です。なぜでしょうか。
 アイドルにはふつう常に若さが求められます。よく知られるように、たとえばAKB48を先駆けとするグループアイドルの革新性は、卒業制度を設けてメンバーの交替を容易にすることで、パフォーマーの年齢を常に低水準に維持し続けることにありました。
 ところで、ユースカルチャーとは広告のことです。若いうちに観たものがその人をつくるというのは端的な事実です。鉄は熱いうちに打て。映画にせよ音楽にせよ何にせよ、そこでつくられるものには社会や人びとを、特定の方向に差し向けようとする、ある影響の力学が働いているのです。こうした力学が行政的、経済的、企業的な論理を離れて存在することは稀です。たとえば、およそすべてのアイドルは、素敵なのはこんな顔で、素敵なのは若さだという広告塔です。晴れ舞台に立つ限り、本人が何を考えていようと、必ずそうです。演劇にしたってたいてい広告です。ひどく不経済ではあれ。
 ユースカルチャーの消費者であり続けるのは、こうした広告に教え導いて行かれるプロセスへと、くりかえし身を投ずることに他なりません。しかも、今述べました通り、そこで宣伝されるのは若さをよしとするメッセージですから、誰もがこのカルチャーに浸りつづけようとするのは当然の成り行きで、ユースの範囲はどんどん広がっていくことになります。若い人びと、つまり影響を受けてくれやすい人びとが、年齢の別なくたくさん生み出されるのは、広告にとっても好都合です。老いた人びとにも、かわいい老人の魅力は盛んに喧伝され、いつでも今が一番若いという事実の確認が繰り返し迫られます。積み重ねられてきた年月に目を背けて、絶えず今だけをまなざすことは、若さ一般の特徴であると言えます。
 YouTubeやTikTokといったプラットフォームは、コンテンツを発信するアイドルになる可能性をすべての人に開きました。こうしたメディアは、休みなく流れてくるコンテンツにひとの目を釘付けにさせておく工夫に満ちていて、家の中にいて時間を持て余していることの多い若年層を、その受信者や発信者として狙い撃ちしています。YouTubeやTikTokといった場で振りまかれるアイドルの笑顔のフローが、次なるアイドルを虜にしていって、また今日も誰かがアイドルへと再生します。
 わたしたちは、何歳になっても多感で、影響を受けやすい、かわいい若者なのです。

 亀の甲より年の劫、ではなくなってきています。誰もが若くあろうとする社会では、年の数は重要ではないからです。このことを、別の角度からも考えてみましょう。
 中根千枝さんの『タテ社会の人間関係』によれば、人間集団は主に「場」か「資格」かのいずれかを軸に組織されるものだけれども、日本では場の論理が過剰に強いのだそうです。この場合、集団に対する帰属の根拠は、なんらかの資格に求めることはできないので、突き詰めてゆけばどこまでも空虚になります。そうであるがゆえに、わたしがこの場に居るのは、わたしが居るのはこの場だからだという、無敵の論理があちこちでまかり通ることになります。それが問題になるのは、たとえば、そこで行われるはずの排除を内外から批判する視点が閉ざされてしまう時です(「あなたは日本人ではない」と言われる時に、行われているのは何か?)。
 場によって組織された集団としては、家や会社に大学、娯楽産業では息の長いグループアイドルや球団の現場などが、その好例となるでしょう。こうした集団内での序列は、能力の多寡よりも場に帰属した時間の長さによって決定され、すなわち年功序列ということになります。帰属の行為自体がその帰属を正当化する集団では、集団内の階層もこの行為に準じて決定されるのが自然であり、そこで持ち出される尺度が帰属の年数だというわけです。
 となれば、誰もこの場から立ち去りたいとは思わなくなるでしょう。しかも、そこで与えられる権威は実質的には無根拠もいいところなので、逆に反抗する手がかりがありません。そうして生まれるのが、場の外側への繋がりや逃げ道が限りなく閉ざされたタテ社会です。
 ところが、いわゆる新自由主義政策は、個人を家や会社といったタテ社会の枠組みから切り離しました。正社員の減少は特に目立った現象と言えますが、企業という場から切り離されて、根無し草のように漂う人びとが増えれば、当然タテ組織は崩れ、年功序列も失効します。
 なぜそんなことになったのでしょうか? タテ組織の上意下達の論理によらなくても人々をコントロールできる、そういう仕組みが出来上がっていたからです。年功とは別の力の方が人びとをうまく支配できる、ならばそれでいこうとなったわけです。では、その力とは何だったでしょうか。

 広告の父と言われるエドワード・バーネイズさんの著作に、広告そのものの広告として書かれたPropagandaという本があります。バーネイズさんは売り込みます。わたしたち、すなわち西洋白人エリート男性は民主主義社会を選んでしまったのだから、正しい多数決のために、頭の良くない人のことはわたしたちが導いてあげなければいけませんよね。そこで広告という商品はいかがですか? 
 バーネイズさんは、広告の使命は賢い人がそうでない人を導くことにあると考えていました。だから、専門家と呼ばれる偉い人たちをこっそり傀儡にして、売り込みたいことをその口から語らせるという手口が、バーネイズさんにとって最もさえた広告のやり方だったのは、当然のことでした。すぐれた広告は広告の顔をしていません。あらかじめ定まった結果に向かって、御用学者の論文や言説が沢山ばらまかれます。すてきなイメージで大衆を魅了するよりも、専門家に喋らせる方が手っ取り早く効果的だと、広告は最初から訴えていました。
 ここにあるのは、偉いということになっている人が、偉くない人々を導き、そのおかげでさらに偉くなるという、循環的な過程です。そして、このループの元を突き詰めてたどっていった時、その偉さはなにを根拠に生じたのかと問われて、まともに答えられる人は実はあまりいなさそうです。
 ところが、今日、広告を取り巻く基準は一変しています。専門家はすでに必要とされていないのです。人びとに影響を与えるのには、発言に影響力のある人に声をかけるのが一番手っ取り早いという、より素早く効率的なループが発見され、専門的な知見に頼る必要はないことが明らかになったからです。ここでの影響力とは、もちろん再生数のことです。

 長い時間をかけて蓄積された、簡単には数値化できない経験や知識、そうした質的な次元こそが、かつては人を立派にするとされていました。しかし、今はとにかく再生数がものをいう時代です。言葉で遊ぶにしたって、とった年の数が多いより、再生数が多い方が、凄いに決まっています。キリストだって一回しか再生していないのですから。
 それはともかく、このような時代にあっては、成熟と喪失の問題系も大きくずらされることになります。幼さを乗り越えて成熟へという線的な成長観はもう崩壊しています。何回追従されたか(フォロワー数)、何回愛されたか(いいね数)、何回復唱されたか(リツイート数)、そして何より、何回生まれ変わったか(再生数)。これがすべてです。
 あなたに愛されるたびわたしは何度だって再生する。生まれ変われば生まれ変わるほど、新しくて素晴らしいピカピカのわたしになる。だから愛させ続けて魅せる。そういう影響のフィードバック・ループの磁場をうまく作った者勝ちの社会です。そのためにはできるだけ簡単に消費できるわたしになった方がいい。これでは成熟しなければならない理由などなさそうに思えてきます。

 家、という場において、若さへの幽閉は繰り返される傾向にあります。悪しき母性とかいったひどく退屈な勧善懲悪の物語を繰り返したいわけではありませんが、それゆえにこそ、家という場をめぐる抑圧的な構造について、ここで言及しておきます。
 特に日本では、教育の資金繰りを家庭任せにする政策がとられているので、人びとが家から経済的に自立することは難しいです。しかも、自立とは経済的に自立することを言うのだというふしぎな価値観が不断に広告されているから、自立の道を断念し、家のお世話になる子どもとして繰り返し自分を再定義しなければならない人びとが、たくさんいるはずです。
 親の愛を受けることができなかった子供はうまく大人になることができないという、不思議な神話も近年まことしやかにささやかれるようになって、家は家の外にもついてまわります。家からの自立を保証してくれるとされる、決して充足されきることのない愛がそれでも求められるようになり、再生数の出番が無限にやってくることになります。

 ひとつの場所に安らって功を重ねていくことは、もはや成熟とは呼ばれないでしょう。かといって、いくつもの場所を矢継ぎ早に渡り歩いていくといった戦略も、人びとをお互いに切り離し、なじみのある場所からも切り離して、広大な影響の磁場に絡めとって遠隔操作するポリティクスを助長する結果にもなりかねません。
 求められているのが旧来の意味での成熟や自立ではないことは、明らかです。教え導かれるidleなわたしへと、わたしを何度も生まれ変わらせている、いま・ここのこの力はなにか? どうしたらその磁場を逃れられるのか? そしてこの力に抗うことができるのか? わたしたちの知恵と経験と若さとを差し向けるべく問われているのは、そのことなのです。
 最後に、話を舞台に戻したいと思います。劇場が、Twitterという劇場にいくつも備え付けられた小ホールになり下がってから、それなりの月日がすでに過ぎました。生まれ変わった! という感動がものの数でもなくなるようないま、舞台には果たしてなにができるでしょうか。

参考になる文献:
小沢牧子『子どもの場所から』
坂倉昇平『AKB48とブラック企業』
中島梓『コミュニケーション不全症候群』
森真一『自己コントロールの檻』

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再生数

予告編
ティーザー予告編予告編

イントロダクション
植村朔也

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