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小松菜々子:オブザーバーとしての身体

芝生の上に気持ち良さそうに寝転ぶ身体をまじまじと観ていたら、パッと目が開いてじろりと見つめ返される。
目線には遠隔的に何かを刺すような鋭さがある。
広い公園でパフォーマーを追って横断する時、私は誰が観客で誰が通常の公園利用者なのかは把握していなかった。しかし気がつくと意識は鳥のような目線で、誰がこのパフォーマンスを追って歩いている者なのか判断することができた。観客の公園を横断する身体の向きと離れていても行き先を見失って迷子にならないようにとパフォーマーの位置を確認する目線は日常の公園利用者の身体とは明らかに異なっていたからである。

中之島公園の先端で受付を済ませ、私は近くの手すりに腰掛けて開始を待っていた。集合の合図と共に周辺で待っていた観客がぞろぞろと近寄ってくる。景色の一部として場に馴染んでいた、所謂、注意を払っていなかった人に輪郭がついた。同様に私の輪郭も誰かに縁取られたことに気がつく。
秋の落ち着いた空気の中にまだ夏の太陽の暖かさが残る日だった。
公園とはある程度のことならその場所の景色として回収されてしまうような人の行為を吸収する磁力のある場所だと思う。だから私たちは目的もなく立ち止まることができるし、木陰のベンチでお弁当を食べたり、シートを広げて空を見上げることができる。あの日の違和は私を含めた観客は共通した目的を持っていた、そこにあるのだろうか。私たちを日常的な身体と切り離し輪郭づけるもの、あの違和感は一体何か。
本レビューでは、スペースノットブランク『ストリート』の鑑賞体験からパフォーマンスと観客と日常の目線を通した身体性に着目できればと思う。本作品の意図とはズレたところにある可能性はあるが、一人の観客としての視座をここに残す。

公園や日常の中で私たちは輪郭を景色に溶け込ませている。電車の中でも遊歩道の中でもたくさんの人がそれぞれの人生を持ち寄って、束の間の出会いと別れを繰り返しているのに大抵の場合は交差する事も無く通り過ぎていく。私にとってそれは、日常の中で情報量の多さに飲み込まれてしまわないように、多くのことを背景へと押し込めて自分自身も誰かの背景であることに安堵するためな気がする。
何かが気になって堪らなくなり見つめ過ぎてしまわないように。または誰かに見つめられてしまわないように。

では劇場における客席の身体はどうだろうか。
客席の身体も日常の身体同様、何かを主張する訳ではない。自分の身体を背景化させる、もしくは舞台の性質として客席そのものが無いものとして闇の中に身を置く感覚は日常の身体とそう変わらない。しかしそこには「見つめる」行為が特権的に存在する。基本的には客席にいる限り誰かから見つめ返される事も、客席の身体が輪郭を持って作品の中で主張する事も無い。一方的に見つめるのである。

そう、あの集合の合図で輪郭を見せたのは客席の身体だった。15時の噴水の吹き出しの合図で3人のパフォーマーが踊り出すのと同時に私たちも「見る」身体に移り変わった。
パフォーマンスは外部の景色を取り込み、影響されて遂行されていく。道の上で踊りだし、芝生に寝る人の横で寝転がり、走り出しては鳩が一斉に飛び去る。すれ違いざまに振り返り見返す目線。橋の上から立ち止まって成り行きを見守る目線。何か異変を感じるがまたすぐに携帯に落とされる目線。誰かの目線がパフォーマーに注がれる度に自分がそんなにも繊細に誰かの目線の機微を受け取っていたことに気がつく。そしてまさにその時、自分の目線こそが日常のものとは違うままに日常を見つめていた。

あの時、空間にはレイヤーが存在した。パフォーマーと日常、その間に観客なる私たちが立っていた。
パフォーマーが広いコンクリートの広場でフォーメーションを作りながら踊り始めた時、観客がその周りを綺麗に取り囲んだ。上からみるときっと綺麗な二重の円になる。あの時、観客の身体は作品の一部だったと言える。あの瞬間を目の当たりにした人は、きっと観客も含めてパフォーマーだと思ったに違いない。そのくらい観客の目線がパフォーマンスの強度に結びつく。「見る」身体も見られていたのだ。

偶然的でアンコントロールな世界に作品を立ち上げるとき、作家は観客の目線を信じられるか問われる。パフォーマーが外部に影響されるように、観客もパフォーマーと何か偶然的なものを勝手に結合させている。私がパフォーマンスと観客の目線を結びつけたように、誰かの目線はもっと違うものと結びついていたはず。作品が一人一人の観客の目線の中で更に育まれ広がりを見せる。
ベビーカーを押した母親が立ち止まり、踊る身体を見つめる中、ベビーカーの赤ん坊は彼女の側で揺れる花を見つめていた。細い小道にパフォーマーが入ろうとした時、通行人が来て道を譲る。ふと二人の会釈がユニゾンする。観客の一人が道の途中で自動販売機のジュースを買うのが横目に入る。

終盤に差し掛かり、パフォーマンスの隣を綺麗な蛍光緑の服を着た年配の清掃員の男性がゆっくりと台車を引いて歩いていた。彼がパフォーマーを少し通り過ぎたところで私たちは作品の終わりの合図を告げられる。丁寧な挨拶と3回のお辞儀と共にそのまま解散をした。パフォーマーはさっと歩き出し、私は何と無く反対側へ踵を返して駅へと向かった。あのままパフォーマーと清掃員の結合を見つめていたかったと思いながらも、自分が観客の身体から日常の身体に引き戻されていくのが分かる。パフォーマンスは終わったのだ。
あんなにもくっきりと輪郭を持っていた観客の身体も散り散りに日常に溶け込んでいく。再び街中で出会うことがあったとしてもお互い気づくことはできないだろう。それでもあのパフォーマンスの中で私たちが同じ観客同士だと判断できるほどに私たちは身体の居方を変えさせられていたのである。いつから。前日に集合場所のメールが届いたときかもしれないし、家を出たときかもしれないし、集合場所に着いて目印であるオレンジ色の作業着のパフォーマーを探している時からかもしれない。いや、やっぱりあの噴水の前で突拍子もなく踊る身体を見た瞬間が一番のスイッチだった。
駅に向かいながら、先ほどの蛍光緑の服を見た気がしたがそっと目線を逸らした。自分の輪郭をそっと背景に馴染ませる。

小松菜々子 TwitterInstagram
自分自身を宇宙の地学的混合物の表出の一つと捉え、自分の身体と天体的構造の交換可能性をパフォーマンスする。心が動かされることや思考が振付られることをダンスと捉え、身体感覚の拡張をモチーフに作品を制作。
ダンサー/振付家
2022年度DANCE BOXアソシエイト・アーティスト、2023年2月4日、5日に単独公演予定。
今までに余越保子、山田うん、垣尾優、井手茂太、梅田宏明、森山未來の作品にダンサーとして参加。
自身の振付作品に『モザイク』ArtTheater dB (Kobe, 2022)、『Border』Spiral Hall (Tokyo, 2019)など。

ストリート

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