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知覚の限定と振付の生成:佐々木敦


 『ストリート リプレイ ミュージック バランス(SRMB)』は、スペースノットブランクが継続的に試行=思考してきた/いるダンス探究プロジェクト「フィジカル・カタルシス(FC)」の論理的展開としてプリペアされクリエイトされパフォームされたものである。FCは非常に広い意味での、同時にそれと矛盾しないかたちで極めて限定された意味での「振付」の創造と集積を目的としており(それだけではないが)、SRMBを構成する四つのワードは、これまでにストックされた九つの振付のアイデア(スペノはそれを「フェーズ=段階」と呼ぶ)から四つを選び、一連のFCのように個別に提示するのではなく、何らかの仕方でそれらを縫合したり織り重ねたりすることで(スペノはそれを「クラス=層」と呼ぶ)作品を産出し上演を成立させることを意味している。
 さて、とはいえ、私のこのテクストに求められているのは、作品の前提の確認でもダンスにまつわる多少の教養や蘊蓄でもないだろう。また、四つのフェーズがどのようにしてクラスたり得ているかの分析や考察でもないだろう。
 私はもっと非常に広い意味での、同時にそれと矛盾しないかたちで極めて限定された意味での感想を述べてみたいと思う。
 スペノは「演劇」と「ダンス/パフォーマンス」の二つの領域およびそれらの交叉点を作品にしてきたが、いずれも原理的な問い(「演劇」とは何か? 「ダンス」とは何か?)と具体的な実践の両面(およびそれらの交叉点)への強い志向性を有している。「演劇」であれば、身体性と個体性を持った俳優(たち)が観客(たち)の前に存在するという最もプリミティヴな大前提から始まり、その時その場で、フィクションが、劇的なるものが生起するためには、如何なる可能性がいまだ残されているのかという方法的な野心のようなものが窺える。ドキュメンタリー的な手法の大胆な導入による作劇はその方策のひとつである。「ダンス」の場合、「演劇」の「戯曲(台本)」が「振付」に変換される(逆もまた真である)。つまり、ダンサーがそこ/ここにいる。観客も同じ時と場にいる。そこに「舞」と呼べる状態が訪れるには、何が必要十分条件なのか、そしていまだ認識されていない条件があるとしたら、それは何か?
 FCのフェーズはだから、単なる振付メソッドとは違う。それはむしろ、何かが立ち上がるための条件設定のようなものである。SRMBにおいては、それは「路上」「再生」「音楽」「均衡」という四種の要諦の接続と重合で表現されている。そしてここで重要に思われるのは、それらが何かを生まれさせるということだけではなく、ある意味ではそれ以上に、それらが何を「現在」から区切り取ることになるのか、言い換えるなら何を制限し限定することになるのか、という点である。
 どういうことか。たとえば、会場のカフェムリウイはスペノが何度も上演の場に選んできた場所だが、そこはビルの屋上に設えられた小さなスペースであり、店の奥に客席が置かれ、屋内のアクティングエリアの後方には窓と入口扉があり、その外は店内とほぼ同じか少し広いくらいの屋上空間である。スペノはこれまでも、この内と外の二つの空間にまたがって上演を行なってきた。一度でも観客としてその場に居たことある者ならわかると思うが、そうすると自分が座った場所によって、屋外でのパフォーマンスの見え具合が非常に異なるのである。窓と扉のあいだに壁があることもあって、演者の位置や移動によって不可避的に見切れが生じてしまう。もちろんこれはプロセニアム以外の上演ではしばしば生じることではあるが、スペノの場合は明らかにそれが作品のありようと強く結びついている。
 私は当日、時間を間違えて開場時間より30分も早く着いてしまった。カフェムリウイの中には女性がひとりいてスマホを眺めており、あ、すみませんまだなんです、と言われて自分の間違いに気づいたのだが、つまりその時あの空間には彼女だけしかいなかった。彼女もいなければそこは無人だった。そこにはいろいろなものが在るが居はしなかった。誰かがそこに来て、そこに居ること、居合わせることによって、はじめて何かの行為や現象のようなものが立ち上がる。そこにからだがあれば、その分だけ空間は占拠されるし、そこに視線があれば、そのからだは見られたりするし、からだの向こう側は視線には見えず、からだが移動するとからだを見ていればからだは見えたまま見えない空間も移動していく。
 スペノの二人とこれまでもFCに参加してきた山口静は、内と外を何度も行き来しながら、今回の上演のために組み上げたクラスを披露した。私にはそれらは、何かをやってみせる、何かを見せるのと同時に、何を見せないか、何が見えなくなるか、ということでもあると感じた。実際、私の席からは、屋外で行われているらしい何ごとかは、想像は出来るが見えないこともあった。あるいは想像さえ出来ない行為もあったかもしれない。そしてそれらの全部が、私にとっての鑑賞という体験なのだった。だからたとえばダンスが目の前の俳優のからだと動きを見ることだというのは間違いではないが精確ではない。見えない、見ない、見えるものがあることを知らない、といったことを含めて、その時その場を経験するということなのだ。このことにスペノははっきりと意識的だと思う。
 この点にかかわって、あくまで私の印象ではあるが、最初と最後を除くと、SRMBでは「観客席に相対する正面性」が解除されていると思った。通常、パフォーマーは観客の視線の正面に──絶えず移動するとしても──基本的に定位している。また、同様に背景に対してもそれが背景を成しているという意識が働いている。つまり空間のフレームへの配慮が必然的に生じるのだが、SRMBの三人のダンサーは、すごく乱暴に言ってしまうと、観客の目の前で何かをやってみせるという感じがかなり希薄で、さまざまな角度や向きで、ただそれをやっている、という感じに見えたのである。そうすることと内と外の視線の限定性があいまって、上演のひとつの条件である「見る/見られる」という関係性が消去されはしないまでもスリリングに変容し、もっと言うなら上演と鑑賞の交錯によって編み出される空間がポジティヴに崩壊するような感覚さえ覚えたのだ。
 例外は、最初の中澤の前口上を含むパートと、その後と最後にある小野発案の「念力暗転」である。後者はいわば本作のプロローグとエピローグなのだが、それが観客に自ら「暗転」させる、すなわち瞼を下ろして視界を遮ることによって眼前の出来事を見えなくさせるという意味で、ここで述べたことの本質にかかわるアイデアであることは明白だろう。小野は、その時ばかりは客席の正面に立ち、私たちに向かって語りかけた。彼女の言うがままに目を閉じると、彼女の姿は消え、他の何もかもも消えた。暗転。指の鳴る音をきっかけに、ゆっくりと目を開ける。見えなくなっていたものが再び見えるようになる。この仕組みこそ、今回の上演の本質だと私には感じられた。
 このテクストを書くために、上演の映像記録を送って貰った観た/見た。私が行った回ではなかったが、最初と最後の「念力暗転」のあいだの、すなわち私たちには──指示にちゃんと従っていれば──見えていなかった光景がそこに記録されていた。ラストの「暗転」はやや長く感じられたのだが、そこでなされていたことを事後的にこうして映像ではじめて見るのはしごく奇妙な、だが魅惑的な体験だった。そして私はそれを見ることによって、自分の感想がそれほど間違ってはいなかったことを確認出来たのだった。
 それでこれが書けた。

佐々木敦 Twitter
思考家。作家。HEADZ。SCOOL。その他。著書多数。広義の舞台芸術にかんする著作として、『即興の解体/懐胎』『小さな演劇の大きさについて』など。近刊として、児玉美月との共著『反=恋愛映画論』、三年ぶりの映画論集『映画よさようなら』など。

ストリート リプレイ ミュージック バランス

レビュー
ずっと気持ちがいい、それはどのような?──スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』:松本奈々子 西本健吾 / チーム・チープロ
知覚の限定と振付の生成:佐々木敦

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