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松本奈々子 西本健吾 / チーム・チープロ:ずっと気持ちがいい、それはどのような?──スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』

 このレビューは、チーム・チープロというパフォーマンスユニットの松本奈々子と西本健吾がふたりで執筆している※1。

 いま、上演を思い出そうとするといくつかの印象的な動きが浮かびあがる。それらの動きはずっしりとした密度を有している。たとえば、中澤陽が身体をかがめて両手を膝の前でくるくるとまわす動き。その動きを思い出そうとすると、いままた別の動きが思い出され、他のふたりの出演者(小野彩加、山口静)の「くるくる」も混じり合い、動きの連鎖に自分自身も芋蔓式に巻き込まれていく。その連鎖はとても気持ちがいい。鑑賞中も同様だ。スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』の1時間弱の上演はずっと気持ちがいい。
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 黒いマスク、黒い全身ボディスーツに黒いスニーカーに身を包んだ出演者が3人、かわるがわる登場し、1時間弱動き続ける。3人が繰り出す動きは日常の身振りと地続きの親しみやすいものもあれば、明らかに舞踊の言語を用いた動きもある。それらの動きそれぞれが固有の質を有しており、動き同士はコラージュのように接続されることでやがて奇妙なリズムを成し、新たな質感を生成してゆく※2。この上演はいくつかのシーンで構成されているが、そこにはわかりやすいクライマックスはなく、物語性も排除されている。また、何かここにないものを想像・連想させることはあまり多くない。それゆえにか、わたしたちは「動き」そのものに目を向けていた。もっと言えば、動きの「表面」に現れる質感に目を奪われた。表面において目まぐるしく切り替わり、重なり合い、分裂し、飛び跳ねる面や線の運動に集中する。それは身体にピタリと密着した黒い衣装によって引き立てられてもいる(ただし、3人の出演者の身体の特徴や身体に刻まれた癖や技はむしろ強調されてさえいる)。
 上演は客席の目の前の「カフェムリウイ」の室内空間に加え、カフェの窓とドアによって切り取られるかたちで見える屋上の空間、屋上の奥の階段をおりた先にあるであろう空間を3人の出演者が行き来しながら進められる。面や線の運動は、遠のいたり近づいたり見えなくなったりする3人の身体の表面でなされ、運動は眼前の空間をかき混ぜる。そしてふと、それらの運動は夜の暗闇の中に溶けていく※3。屋上のタープは風をうけて上下する。
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 繰り出される動きはあらかじめ厳密に定められたもののようであり、また、出演者がその都度ごとにさまざまにありうる動きの中から一つを選び取っているようでもあった。
 気になって共有いただいた記録映像を見返しながら実際に真似をしてみた。まず、動きと動きの繋げかたが不自然だなと思った。わたしたちは普段習慣的に身体を動かしている。習慣的な動作では、ある動きは次につながる動きの予兆のようなものを含んでいる。たとえば、コップを手に取るという動きは、それを口元に持っていくという動きを予兆させる。それはダンスを観る/踊るときにも同様である。ある身振りはその次につながる身振りをなんとなく予兆させるし、「自然」と踊っているとなんとなく「無理」のない動きを癖のように繋げたりする。しかし、この上演で目撃した動きの連なりと重なりはそうした予兆から逃れるような動きを展開していく。
 たとえば小野がドアの入り口から足のステップ──右の爪先で地面を刺してねじり、左足の膝下だけを動かしてキックする──を繰り返しながら前進する動きがある。まずは一定のリズムを地面に響かせ近づいてくる力づよい足の動きにじっと注目する。その時間の中でその動きの質感に浸る。そのリズムと質感に馴染みつつあるタイミングで、小野はキックした足のエネルギーを食い止めるようにして運動を一瞬停止し、そのまま足を投げ出して一気に水平方向に寝転び、両手の甲を小さくクロスさせる動きを繰り出す。ふとバレエで空中に身体を浮遊させて足を細かく交差させるパ、 “アントルシャ” を思いだす。小野が動かしているのは腕で身体は地面に横たわっているのだけれど。そう思い出して間も無くその腕は大きく弧を描き、小野の身体はその場から消えていく。予想だにしない動きの連続。
「無理」のある「不自然」な動きの連鎖は次々と新たな質感を提示してくる。「自然」な動きが「不自然」によって解放されたときの驚きととまどいとともに、そこにあるリズムとその余韻に引き込まれていく。
 ある動きのあとにどのような動きへとつなげていくのかについて、今作の上演ではそこに出演者の意志が強く発露しているようには見えない。周囲の環境との具体的な関わりによって、導き出されてきた動きの連鎖があったように見える。床のひび割れ、着地したときの振動、ドアの横幅、入り口のマット、観客やほかのパフォーマーの目、流れる音楽や音、他の出演者の息遣い、踊りの記憶…。そこにある環境を受け取って出演者の身体はしずかにとびこむ。いま目の前にあるその動きの連なりを見るほか、なにかを・どこかを想像するひまはなく、忙しく、しかし冷静に、目撃し続ける。わたしたちの目はそういうふうに巻き込まれていた。それが、気持ちいい。
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 ところで、この上演を観て評者のふたりはそれぞれアンリ・マティスとジョルジュ・ブラックの絵画を思い出していた。正確にはそれらの絵画を鑑賞したときの感覚を想起していた。
 絵画をみている感覚を抱いたのは、そもそも窓やドアによって区切られた向こう側の景色を含む上演空間そのものが絵画的であったからかもしれない。しかし、それだけではない。上演空間の奥にみえていたものを前景化させたり、手前にあったものを後景に退かせたりする。動きを遮る壁を透明にして、その向こうにある動きを想像する。そうやって要素と要素を目で関係させながらその舞台の空間(のリズム)をわたしたち自身で再構成するという感覚がそれらの絵画を鑑賞するときの感覚に近しいと感じさせたのだと思う。
 わたしたちはただ受け身で動きの連鎖を受け取るわけではない。舞台上の要素の繋がり方を、自ら選び取っていく。しかし、その選択は完全に観客に委ねられているというわけでもない。観客の目は、あるいは身体は、そこで起きている出来事に巻き込まれる仕方で何を観るかを選ばされてもいる。
 また、全てのシーンが冷静かつ自由にわたしたち自身によって再構成できるわけではない。何を観るかを選ばされることとも関わるが、横一列になりドアの入り口に引っかかった3人が屋上から屋内に飛びいり、間近に迫る空間で同時に動きだしたシーンは、こちらが好きなように空間を目で捉え構成することの困難な時間だった。3人を同時に観たいけれど観ることはできず、ただ圧倒されていた感覚を鮮明に思い出すことができる。能動と受動が入り混じる感覚は、自らの動きを選びつつも、環境によって導かれているように見えた出演者の三人の状態と重なり合うものもあるのかもしれない、とも思う。
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 スペースノットブランクが2019年から連続してリサーチと上演を重ねてきた「フィジカル・カタルシス」には9つ段階(フェーズ)が存在し、『ストリート リプレイ ミュージック バランス』は、そのうちの4つの段階を層状に重ねてみたものである、と当日配布された「ごあいさつ」には書かれている(この4つがどのように組み合わされているのかは判然としないが、それは鑑賞においてほとんど問題にはならない)。
 スペースノットブランクのウェブサイトに記載されている「フィジカル・カタルシス」の説明によれば、「フィジカル・カタルシス」とは身体のための「新しい動きのメソッド」である。このレビューで書いてきたことを踏まえて考えるならば、出演者の多様な動きの(不自然な)選択の方法、その選択においてなされている周囲の環境と出演者の関わり方は、ひとつのメソッドとして、出演者が身体化していたのだろう。本作では、作品の演出・出演として山口を含む3人がクレジットされており、上演においても3人それぞれの身体がメソッドを納得して実践していることを実感した。この上演の密度の高さは、メソッドのたしかな共有とその納得づくの身体化に裏付けられているのだろう。
 ここで、本上演にあたって書かれた「作品について」という文章の中に登場する、以下のセンテンスの意味が少し了解されたような気がする。

 スペースノットブランクが2019年よりリサーチと上演を連続して行なってきた、ダンスと作品、そして作品とメソッド、それらのどちらともつかない性質を保有する『フィジカル・カタルシス』。※4

 この上演の構成や演出が細かく練られていることは間違いない。しかし、この上演は舞台芸術として、あるいは作品として出来事をパッケージし提示するだけでなく、そこで生じている動き(それはダンスだったりダンスの予兆だったりする)を、そしてそれを成立させるメソッドそのものを観客の前で体現していた※5。
 この作品でもありメソッドの提示でもある上演は、慣習と習慣によって規定された身体から抜け出す方法を示しているようにも受け取れた。しかし、完全な脱却ではない。この上演はそういった解放の夢を提示しない。また、もちろん暴力的な仕方で身体のあり方を変えてしまおうともしない。そうではなく、出演者による動きの連鎖は、その都度ごとに日常的な「いくつかの」──つまり「全ての」ではない──身体感覚に変化を加え続けていく。そのような(あえて踏み込んだ言い方をすれば)倫理的な態度に評者のふたりは強く共感する。
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 最後に。「カタルシス」という語の用いられ方はさまざまだが、通常、物語への感情的な同一化を通じた解放や浄化の作用が意識される。しかし、この上演にはそういった解放の作用はない。だが、ずっと気持ちがいい。出演者はひとつひとつの動きの連なりの内に、自らの身体が腑に落ちるところを探っているようであり、その最中に巻き込まれるわたしたちの身体も気持ちよくなっていく。その気持ちよさは、ひとつの意味に回収されることのない変化のリズムに同伴することで、思ってもみなかった、そしてときに見知らぬ質感と出会うことの気持ちよさだ。この上演にはそのような出会いを生み出すためのスリルと多様な質感に満ちた空間(スペース)が広がっていた。

※1 レビュー執筆の依頼があったときに、最初から連名が想定されていたことが面白く、かつその想定そのものがスペースノットブランクというコレクティブの性格を反映しているようにも感じられた。
※2 中澤が上演の冒頭で口にしていた「層状」ということばを思い出す。質的に異なる動きが「層」として重なっていく、と言ってもいいかもしれない。
※3 評者のふたりは2022年7月29日の19:30の回を鑑賞した。すでに空は暗く、黒い衣装に身を包んだ3人の出演者は時折暗さに溶け込んでいく。「カフェムリウイ」のウェブサイトにも記載されているように、カフェはビルの屋上にあり、周囲に高い建物がないため空の暗さが際立っていた。
※4 以下URL参照。https://spacenotblank.com/performance/physicalcatharsis
※5 当日配布された「ごあいさつ」は、「これが振付であって欲しいと希っています」という言葉で締め括られる。「これ」、つまり「『フィジカル・カタルシス』を通じて個別に考えてきたものを解体するまでのリプレゼンテーションとしての上演」が振付であるとはどういうことか、その意味もまた、評者のわたしたちは完全に理解することはできない。ただ、『フィジカル・カタルシス』を通じて継続的に関わってきているメンバーと共有し、醸成してきたメソッドの身体化を振付と呼ぶならば(「ごあいさつ」には「振付メソッド」という言葉も登場する)、確かに眼前には振付が現れていると感じた。加えて、それを「気持ち良い」と感じながら観ていた観客であるわたしたちふたりの身体のための振付でもあった、とも言えるのだろうか。

松本奈々子 西本健吾 / チーム・チープロ WebTwitter
松本奈々子と西本健吾によるパフォーマンス・ユニット。身体と身振りの批評性をテーマに活動を続けてきた。近年は既存のステップや身振りを介して、場所の歴史やパフォーマーの記憶・身体感覚に触れ、それらをダンス作品として編み直すことをこころみている。主な作品に『20世紀プロジェクト』(2017-2018)、『皇居ランニングマン』(2019-2020)、『京都イマジナリー・ワルツ』(2021) など。2022年秋には新作『女人四股ダンス』をKYOTO EXPERIMENT 2022にて発表予定。

ストリート リプレイ ミュージック バランス

レビュー
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