ラブ・ダイアローグ・ナウ|レビュー|髙橋慧丞:また愛するために/ラブのフィギュール 20240818
髙橋慧丞 Keisuke Takahashi |
会社員。西暦2018年頃から観客として様々な劇場に足を運ぶようになる。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」基礎科・演習科第1期生。ことばの学校第1期生有志合同誌『tele-』vol.2・vol.3・vol.4・vol.5に寄稿。パフォーマーとして、吉祥寺ダンスLAB vol.6/小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』、バストリオ『新しい野良犬/ニューストリートドッグ』出演。 |
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西暦2024年8月18日日曜日。多くのサラリーマンにとってお盆休みの連休が終わるその日の夕方16時に私は三鷹駅に降り立っていた。暑さはいつまでも続いていて歩くだけで汗が出る。速乾機能があるはずのTシャツを着てきたのに、経年劣化なのか、全く乾かず汗染みが目立つ。気にしながらも向かっていたのはインディペンデント・スペースSCOOLだった。私個人としてはかなり馴染みのある場所で何も考えずに歩いても到着できる自信がある。私は今の私に蓄積している文化的知識のほとんどをそこで教わったような気がしたがそれは気のせいだ、SCOOLはただ開かれているスペースであるに過ぎなく、だが私はここ数年で何度もそこを訪れては多くの刺激を得てきた。三鷹駅から歩いて5分ほどに位置するビルの5階にあって、かつてそのビルは「おもちゃのふぢやビル」というかわいい名前だった(1階に「おもちゃのふぢや」というおもちゃ屋さんがあった)が私の記憶だと3年ほど前に廃業してオーナーが代わったということなのだろう、今は「三京ユニオンビル」というシュッとした名前になっている(1階はおしゃれなカフェになっている)。それで私がその日向かったのは『呼び水』というイベントを観るためだった。
『呼び水』の開催概要は下記の通りである。「8月のこの週末、SCOOL前の三鷹中央通りでは毎年恒例の阿波踊り大会が行われます。その開催時間帯に合わせて、5組出演のショーケースイベントを行います。阿波踊り大会の最中は、屋外からの音漏れも大きく、本来ならば公演等のイベントは避けるものですが、それを“呼び水”として、(このイベントを企画するに至った様に、)誰かの何かの新しいきっかけになるのか、試行したいと思います。ぜひご来場ください。」
なるほど。確かに向かうまでの道中では、見慣れているはずの道なりに出店の準備がされていたり、道路と歩道の間にバリゲードテープが貼られていたりした。それでその5組というのが、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、ジョンのサン、高嶋晋一、たくみちゃん、土屋光であり、この文章は小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『ラブ・ダイアローグ・ナウ』のために書かれ始めている。書かれ始めていることは確かだが、如何せん、そうした特殊なショーケースイベント内に置かれたひとつの上演であったことをまずは述べておかなければならないだろう。開演前、SCOOLの店主であり『呼び水』の出演者でもある土屋光から伝えられたのは、改めてのこのイベントの概要と、外で行われる予定の『第57回三鷹阿波おどり』は開演約30分後の17時頃より始まるということ、それから上演順が高嶋晋一、土屋光、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、たくみちゃん、ジョンのサン、となり各組の間に転換時間は設けるものの、そのうち前半3組はひとつながりのものとしてみてほしいということだった。ならば『ラブ・ダイアローグ・ナウ』に話を移す前に簡単にその流れに触れておく必要があるだろう。
SCOOL入口の正面の壁に向かってコの字型に客席が(全部で50席ほど?)設置されている。椅子に囲まれたその空間が『呼び水』の舞台となっているようだ。かなり狭い。イベントの始めとなる高嶋晋一のパフォーマンスは、開場時間中、舞台上で座り込む高嶋の状態を見せることからすでに始まっていた。というよりは、それは始まりをいかにして始めるのかということをあらゆる手段を使って表そうとするパフォーマンスだった。舞台上には天井から吊るされたジッパーが向かい合わせになっており、壁際に鉄の棒が立てかけられていたり、ホワイトボードが置かれていたりする。始まりの瞬間のことを高嶋は「開闢」と言い換え、さらにそれに近い状態として「開閉」があると宣言し、ジッパーを開いたり、両手に持った鉄の棒2本を突き合わせて左右に離したり、ホワイトボードに貼られたマスキングテープを勢いよく剥がしたりすることをいくつも重ねて行いながら「開闢」に繋がる「開閉」の感じを観客と分かち合おうとする。割り箸を連続で何本も割り続けるところは笑えたし、そうまで執拗にやられると段々と言わんとしていることがわかるような気にさせられる。「初めと終わりが同時になければ開闢じゃない」「すべてのところ、すべての時に開闢はある」と高嶋は言う。高嶋のパフォーマンスの途中で、『第57回三鷹阿波おどり』が予告通りに始まったようで、祭囃子の音は建物の中にいることが嘘かのような鮮明さで聞こえる。続く土屋光のパフォーマンスは、まさしく今、外で鳴り響いている阿波おどりの祭囃子を機材で取り込んで、舞台上に設置した別の機材を操作して様々に変調させながら出力し、演奏をするというものだった。私はあまりにも音楽に対する知識に乏しく、細かい技術についてあれこれと述べるのは難しいが、高嶋のパフォーマンスを受けて考えるなら、そこに生じていたのは確かに既に始まっているものに新たな始まりの形を与え半ば強制的にひとつの終わりに向かわせるような力だろう。阿波おどりのリズムは土屋の操作によって歪みをもたらされ、本来備えていないはずの音(土屋の操作による電子音)を差し挟まれながら、それ自体がひとつの、全く別の形態を与えられ、「演奏」として出力される。外で鳴り響いていたはずの祭囃子は会場内では土屋の奏でる音にかき消されてしまった。そしてそれは宣言と共に確かに終えられる。土屋の「演奏」後、スピーカーを通した大きな音を聴き続けていた私の耳は、高嶋のパフォーマンス中にその鮮明さに驚いたことを忘れてしまうほどに、建物の外から聞こえる阿波おどりの音が全く気にならなくなっていた。
さて、話はようやく小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『ラブ・ダイアローグ・ナウ』に至る。
『ラブ・ダイアローグ・ナウ』はいままで様々な環境下で上演が重ねられてきた(2017年:調布市せんがわ劇場、2018年:SCOOL・調布市せんがわ劇場、2020年:豊岡演劇祭・ストレンジシード静岡・鳥の演劇祭)。私はそのうちの2回、西暦2018年5月13日日曜日調布市せんがわ劇場、西暦2020年9月21日月曜日ストレンジシード静岡で上演を観たことがあり、私はこの作品の観劇を通して小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクを知ることになるし、もっといえばそれは私が演劇の観客を始めた大きなきっかけとなった。同じタイトルが冠されているがそれぞれの上演で使われているテキストは恐らくは全て異なっている。それらはその時々の出演者に伴って変化しているはずである。なぜなら、クリエーションに際して独自のテキスト生成システム「聞き取り」が使われているからである。「聞き取り」とは何か。西暦2023年11月23日から11月27日にかけて東京都目黒区駒場1丁目11−13にあった今はもう無いこまばアゴラ劇場で上演された『松井周と私たち』でも披露されたその独自のシステムについて、詳しくは既に公開されているレビューのいくつかをご一読いただくのがいいだろう。
参考①:松井周と私たち|レビュー|越智雄麿:「何」がそれを語らせているのか?
参考②:言葉とシェイクスピアの鳥|レビュー|佐々木敦:舞台芸術にとって「システム」とは何か?
ごく簡単に書けば、「聞き取り」とは、ある質問を投げかけられた出演者がその場で即興で答えを喋り、それを書き留めるものが目の前にいるという状況のことである。話が飛躍しても全くの嘘を語っても良いことが事前に共有されたその時間は質問者が終わりを宣言するまで続く。出演者が変われば自ずと内容も変わるはずであるし、もっといえばクリエーションを行う日の出演者のコンディションや時勢にも多分に影響を受けるシステムである(ちなみに筆者は『言葉とシェイクスピアの鳥』のクリエーションで実際に「聞き取り」を体験している)。以上のことから『ラブ・ダイアローグ・ナウ』のテキストに共通点があるのだとすれば、それは質問者の質問内容、ということになるが、私は過去の上演テキストを所持しておらず、あったとしても答えとなる台詞から逆算して導き出すのは恐らくかなり困難である。そうした方向でこの作品を考える時、どうしても事前に共有されている作品のステートメントに引き寄せられてしまいそうになる。今一度、作品が置かれた状況の方に重心を置いてみよう。
舞台上には、譜面台がふたつ並べられ、その脇にマイクスタンドがひとつ。小野彩加と中澤陽がマイクを通して簡単な自己紹介とこれから『ラブ・ダイアローグ・ナウ』という作品を上演することを述べて舞台上からいなくなる。ぞろぞろと6人の出演者=甲斐ひろな、加賀田玲、今野ゆうひ、杉田のぞみ、髙橋春香、中田ベル、が楽屋から出てくる。コの字型に並べられた客席に区切られた狭い舞台が直立した人たちで満たされる。始めから全員が舞台上に居続けることになるとは正直思っていなかったこともあって、そのぎっしりとした光景には異様な面白みがある。加賀田玲と杉田のぞみはヴァイオリンを抱えており、譜面台の前に立つ。弾くのかと思うが、弾かず、二人は目配せをしている。やがて加賀田玲がヴァイオリンを抱えたまま移動、全員の配置がやんわりと変わって横一列に並ぶ。スペースが足りず甲斐ひろなだけが杉田のぞみの後ろに隠れている。それぞれの服装は、記録映像が手元にあるわけではないので正確に記すことができないが、おそらく各個人の私服であり統一性はない。しばらく無言が続き、5人の視線がちらちらと加賀田玲に集中している。始まりを始めることを期待されているらしい加賀田玲はそれでもなかなか言葉を発さずに、気まずそうに舞台下手側に移動する。焦らされている、と感じる。小野彩加と中澤陽の宣言の後に始められているはずの舞台はもう始まっているはずなのに、何かの始まりのようなものを期待してしまっている感覚がある。やがて、この舞台のために用意された言葉の連なりは始まり、この舞台をひとつの終わりに導くまで、舞台上で常に誰かが喋っている状況が続く。少し長くなるが冒頭の箇所を引用する。
加賀田玲 人居ますか
髙橋春香 トイレかいいよ
加賀田玲 生まれて生まれる前はこうでなくてはいけないとかがその時はすごく嫌で病院で生まれただけで住んではないんですけどその時はすごいなんかぎらぎらしていたのでまあ今もしてるかもしんないすけど一度もサッカーをそれまでやったことがないってことだったんですけどしょっちゅうサッカーをやっていてここに居ないとそこに行って何かを見たいって思って部活とか音楽バンドとか軽音部みたいなをやってましたあの全然それに関して後悔とか劣等感は何ひとつなくてむしろすっきり清々しいところがバンドやっててバンドをやっててええやっています一番輝かしいこと唯一あるとすると先生が集合みたいに言って集まるんですけどすごいダッシュで集まったら前に当たっちゃっておでこが後頭部と当たってちょっと形が歪な感じになって先生とかと喧嘩みたいになって先生でやっていたのでなんかその感じでやっていますもっと深掘りしたいな髪が長かった最近髪を短くしておでこが音楽やってて久しぶり久しぶり忘れちゃったなあ久しぶり久しぶり髪の毛切ったラブ・ダイアローグ・ナウ人居ますか
髙橋春香 トイレか
杉田のぞみ うん
髙橋春香 いいよ
加賀田玲 止まって止まって
甲斐ひろな 久しぶり
加賀田玲 久しぶり
今野ゆうひ えーとえーとー
すれ違うような言葉たちだ。発言に応答するかのように思える発言があったとしても後には、またすぐに違う言葉が挟まれる。長いモノローグは、出演者それぞれに個別で用意されている。誰かが喋っている間、他の出演者はたまにそちらに顔を向けるが強い関心がある様子ではない。狭い舞台上をうろうろと歩き続けており、狭いのですぐに別の出演者と対峙して、互いに避け合うかまたは一方が立ち止まり全く避けるそぶりを見せずにもう片方が慎重に体を動かして、すれ違う動きをする。また、体の動きでいえば、髙橋春香がダンスのような動きをして、それを見ていた今野ゆうひが少し真似をして途中でやめるといった動作も記憶に残っている。そうした時間がしばらくの間続いて、杉田のぞみ、今野ゆうひ、甲斐ひろな、中田ベルが順に長いモノローグを終えると、冒頭で加賀田玲が喋り始めた舞台下手のあたりに全員が集合して内側を向いて円になり、短いセリフを加賀田玲、甲斐ひろな、中田ベルが次々に話すシーンとなる。やはりここでも発言は会話にはなりきらずいくつもの脱線を繰り返すが、最終的には「可愛い」と「あーーーーーー」が何度も復唱されて段々と声量も大きくなっていき、意味は全くわからないままだが現象としての高まりを見せる。このシーンでは出演者の顔が見えていないので、客席に座っている身としては発言者が誰であるか声からでしか判断ができず、しかし聞き分けられるほどに全員の声を記憶できているわけではないので、誰が言っているのかわからなかった。ただ分かるのは、舞台上に点在していた体がひとつの場所に円形になって集まっていることだけだ。やがて集団から抜け出した中田ベルが客席の方を見て「ラブ・ダイアローグ・ナウ」と言うと、ぞれぞれの出演者たちはまた舞台上に散らばって歩き対峙しすれ違う。
何かが始まって何かが終わっている。それが繰り返されている。その感覚がずっとある。意味がつながった気がしたと思えばすぐに話が違う方向に飛び、誰もそれを深堀してはくれない。舞台はその後、甲斐ひろな→杉田のぞみ→髙橋春香→加賀田玲→髙橋春香→加賀田玲の順で少し長めのモノローグが繰り返されて終わりとなる。
だからつまり『ラブ・ダイアローグ・ナウ』では何がおこなわれていたのだろうか。西暦2018年5月13日日曜日調布市せんがわ劇場で観たときにも(前述のとおり話されている内容に違いがあり、上演時間も違い、舞台空間も出演者も動き方ももちろん違うが)モノローグの連続という意味では同じ構成だった。西暦2020年9月21日月曜日ストレンジシード静岡にしたってそうだった。比較して検討するには、正確な記憶も記録も私にはない。引き続き、『呼び水』の中に配置されたこの上演だけを考えるとき、どこのタイミングで起きたことかは忘れたが、指摘しておきたいことが3つある。
① 加賀田玲と杉田のぞみは譜面台に置いた譜面をみながら冒頭にかかげていたヴァイオリンを演奏する。
② マイクスタンドに付けられていたマイクは途中髙橋春香と加賀田玲の発話の際に使用される。
③ 加賀田玲がどこかから白い紙を折って作られたハートマークを取り出し、心臓の鼓動を口で真似る。その後、また別のタイミングで今野ゆうひが心臓の鼓動を口で真似て、自らが被っていたキャップの中から少し小ぶりな同じく白い紙を折って作られたハートマークを取り出す。
これらに共通しているのは物体が物体として期待されている役割を果たすことだ。譜面台は譜面を置かれ、ヴァイオリンは弾かれ、マイクは拡声し、ハートマークは鼓動の音を立てる。全て容易に想像できる。例えば譜面台にご飯を並べて食事することもなければ、ハートマークが猫の鳴き声を放つこともない。極めてわかりやすい使われ方をしている。なぜこうも訳のわからないことばかりが起こるのにこれらは直球なのだろうか。いや、考え方が違うのかもしれない。本当は全て起こるべくして起こることしか起こっていない。ばらばらに散らばってぶつかりそうになりながらもすれ違い続ける体たちは遂に集合を果たしたように。予感は極めて周到に予感されるように構成されていて、その通りの形になる。終着点は極めて倫理的でまっとうなのだ。ただ構成がややこしいだけだ。全てがモノローグのまま終わることはなく、ダイアローグになることが予告されている。誰かのいる場で発話されたことは、それに対する反応がなくても、聞かれている。出演者たちのかつての今を背負った言葉たちは『ラブ・ダイアローグ・ナウ』の中に構成され、今それが発話される舞台という場所がある。それを聞き何かを思うこと、その中に何かを予感すること、無数に開かれるダイアローグの可能性。出会うべくして出会われる全てのものことの間に宿り得るもの。あるいはそれが愛?
この文章は小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『ラブ・ダイアローグ・ナウ』のために書かれ始めた。そしてもう時期終わるだろうことは私の横にあるこのページのスクロールバーが予告している。そう。終わるのだ。始まったのだから。終わり。必ず訪れるもの。そしてそこからまた始めるためにこそまた終わるのだと、昔ある人から教わった。そんなに昔ではない。でも今よりは昔だ。私はそこに形作られるものを信じよう。また何かを、誰かを、私をも含めた誰かが新たに受け止められるように願おう。それは一方通行ではない。それは始まりと終わりがひとときに出会って目を合わせる一瞬の無限とも思えるような時間に生起するもの。始まったその瞬間にやがて終わる未来が予告されている。未来が予告されるようなことなどないはずなのに。我々には今しかないはずなのに。でも永遠不変のものはないから。例えばそれは、それをうまく例えることはとても難しいが、例えばそれを西暦2024年8月18日日曜日、三鷹駅から徒歩5分ほどのところに位置するビルの5階、かつて「おもちゃのふぢやビル」と呼ばれていて今は「三京ユニオンビル」と呼ばれているそのビルの5階にあるインディペンデント・スペースSCOOLの中で、甲斐ひろな、今野ゆうひ、杉田のぞみ、髙橋春香、中田ベルと共にそこに立つ加賀田玲は、幾分か脱力した様子でこのように言っただろう。
加賀田玲 瞬間こうパンッとこっちの人ともう一人がもうぶつかってぶつかるとま当たり前ですけどすごい音が鳴ってもう中身が入れ替わるっていうのが当たり前なんですけどでもう一回来た方に戻っていくでも中は中身は違うっていうでその時にさっきのぶつかった時の音がまだ耳が耳がジーンとしてさっきの大きな音が鼓膜に響きが残ってる状態でまた元来た方向に別の方向に帰って出会ったこと出会った形跡は耳鳴りだけっていうそんなことがそういうことがあるといいなと思います瞬間こうパンッとこっちの人ともう一人がもうぶつかってぶつかるとま当たり前ですけどすごい音が鳴ってもう中身が入れ替わるっていうのが当たり前なんですけどでもう一回来た方に戻っていくでも中は中身は違うっていうでその時にさっきのぶつかった時の音がまだ耳が耳がジーンとしてさっきの大きな音が鼓膜に響きが残ってる状態でまた元来た方向に別の方向に帰って出会ったこと出会った形跡は耳鳴りだけっていうそんなことがそういうことがあるといいなと思います