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竹田真理:未だ見ぬ上演のモードを探して──小野彩加 中澤陽『バランス』評

 本作はKYOTO CHOREOGRAPHY AWARD 2020に選出された6作品のうちの一作で、去る3月11日、12日の二日にわたる公演の一日目に京都芸術センターで上演された。他の選出作品の多くが昨今のコンテンポラリーダンスに見とめられるささやかな傾向としてのナラティブへの回帰を示す中で、本作『バランス』はナラティブやドラマの再現を作品創作の動機としない点で異色だった。演出の小野彩加と中澤陽の関心は、ダンスで何を描き伝えるかではなく、ダンスをどこにどのように見出すかであり、動きの発見や構成の原理、及びその方法論を探求しているように見える。そのことは例えば上演空間を均質に照らす照明、床の隅々まで均等に使われるアクティングエリア、個性を消したダンサーの黒い服、音楽を用いず音響効果も入れない素の演出といった修辞を排した作品フレームの立て方にも見て取れる。こうしたミニマルな方向性は何よりダンスの動きそのものに顕著だった。日常的な動作を粗削りな振付に仕立て、二人のダンサーは途中二度ほどハケる以外、ほとんど休止を入れずにひたすらに動く。ダンサー二人のうち少なくとも一人はダンスを専門としない演劇畑の俳優(荒木知佳)で、もう一方の出演者(立山澄)ともども、全編を通じて一切のダンス・テクニックに拠らない振付を動いていく。
 二人は並んで舞台に入り中央に位置を取ると、一方は床に寝そべり、もう一人は傍らに立ったまま腕を盛んに動かして、何かの信号にも遊戯にも見える身振りを行う。そこからそれぞれ別個の振付をフロア全面を使って動いていく。「ダンス・テクニックに拠らない」とは端的にステップを踏まないことである。音楽的に分節されない時間の上を、わずかに腰を落としたナチュラルな姿勢を基本に、ラジオ体操程度の可動域で、およそ人の身体が営み得るあらゆる動作、しかし実際には行われることのない架空の動きを、洗練させずに粗削りのまま、ぞくぞくと繰り出してゆく。二人の関係は同調、反復、対比などのコードを回避しつつ、ときに接触したり交差したり、離れた場所で星座のように呼応していたり、後半にはフォルムを重ねて“景”を作る場面もある。そこに交わされているや否やのコミュニケーションを名付ける言葉はないが、同じ空間に同時にいることがモチベーションとなって進行を司っていることは確かである。

 作品のもつミニマルな方向性については、スペクタクルにノー、名人芸にノー、物語表現や虚構にノーを突きつけたアメリカのポストモダンダンスに引き寄せて理解できるだろう。ジャドソン教会派が牽引したこの方向性は当時のダンスへの批判であったが、舞踊史上のトピックであると同時に、いつの時代にもダンスの成り立ちを批評的に捉えようとする表現者が自ら降り立つ原点でもある。「舞台芸術に成る以前のダンスを考察する」を主題に掲げる小野と中澤は、舞踊史の外部に立って、ダンスを根本から思考しようとしているのだろう。
 しかし本作にはポストモダンダンスを参照項とするのみでは収まらない要素がある。ダンサー二人が舞台に入った瞬間から観客を圧倒するパフォーマンスの熱量がそうだ。ジャドソン教会派のよく知られた作品、イヴォンヌ・レイナーの『トリオA Trio A』やトリシャ・ブラウンの『ウォーター・モーター Water Moter』を映像で見ると、ミニマルで分析的な身体言語を、平素のピッチで調整された(つまり特別に調整されていない)身体が動いていく様子が分かる。日本のコンテンポラリーダンスの文脈でジャドソン的な思考を展開する山下残でも、身体のピッチは日常と地続きにあり、脱力した身体に力が漲ることはない。それが本作『バランス』では真逆を志向しているといえるのだ。二人のダンサーは尋常ではないレベルの集中を見せ、緊張感が舞台空間の全体に及んでいる。動きはまったく技巧的ではないが、荒木と立山は自らの筋力と瞬発力によりパフォーマンスに質量を与え、35分間、密度濃く、数多の動きをこなしていく。その質感は見る者に息をつかせぬほどソリッドで、そのこと自体が挑戦的であり、批判意識を体現している。

 後にトークで明らかにされるのだが、本作の動きは稽古場でのダンサー二人と小野・中澤との緊密なやり取りの中から採取している。特定の個人が振り付けているのではなく、創作を通した複数の人の関わりの中で動きが発見されているのである。冒頭、ダンサーの一人がホリゾントの壁前を横切るわずか数秒のシーンがあるが、演出ミスかと見紛うほどにただ普通に歩く姿は、上演の時間と現実を生きる身体との接続を示していたのだろうか。
 日常の動きにリソースを求め、素人をパフォーマーに起用することもあったポストモダンダンスは、ダンスを民主的に解放し、劇場の外へと出ていった。山下残では稽古場で生まれた動きを素材とした技巧性のない簡素な振付言語によって、普通の人々へ、日常へ、さらに政治性へとダンスを開いた。これに対して小野と中澤は、稽古の現場や人々の関係性に創作のリソースを得る点で共通するも、それを劇場芸術の枠の中に引き入れ、上演の形式のもとに扱おうとしていて、ダンスの外部との関係も対照的である。

 ナラティブを再現しない本作『バランス』の舞台言語は、ミニマルでありながら日常の経験世界に根差しているが、では生のままの現実であるかといえば、そこにフィクショナルな手の跡が見て取れて、一定の形状化、記号化が施されてあり、上演のフレームにおいて再構成されている──今回の舞台から観察されるのはどうやらこの辺りまでだが、例えば演技のソリッドな質感は、これら創作上の作業の過程で、上演のための調整のモードとして作り手が施したフィクションであり、創意の発露と言っていいのだろう。同時に、上演という形式が逃れようのない身体性を強く訴えかけてもいる。
 小野と中澤はこれまでにも数々の作品を発表しているが、いくつかは発語を中心とし、いくつかは身体の動きを扱い、直近では戯曲を用いた劇であるように、それぞれ形態が大きく異なる。おそらく小野と中澤は、作品ごとに異なるタスクを課すことで、それがどのような動きや言葉や身体のあり様、モードを生み出すか、そのモードが現実の経験的な世界や営まれる関係性を、どのようにアクティブに掬い取り舞台上に投影するのかを、実験を重ねるようにして試しているのではないだろうか。そうした個別のタスクの設定にこそ小野・中澤の創造性の契機があるように思われる。そうして映し出される我々の生とはどのような様相を呈し得るのか。今作のタスクは表題どおり「バランス」。関係性のミニマムである二つの身体のあり様を、未だ見ぬモード/様式をもって、しかし紛れもない現実の手応えとともに、映し出そうとする試みであったろう。

竹田真理 たけだ・まり
ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスを中心とした取材・執筆活動を行う。毎日新聞大阪本社版、国際演劇評論家協会関西支部批評紙「Act」ほか一般紙、舞台芸術専門誌、ウェブ等に寄稿している。

フィジカル・カタルシス|作品概要

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