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ささやかなさ|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの「保存記録」、小田尚稔の演劇の「広報」を務める。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。


 『ささやかなさ』に幾度もあらわれる「ボバディ」という単語に、それはおそらくは身体のことを言っているのだとひとまず考えてよいでしょうが、わたしは二つの小説の冒頭を想起します。ひとつは『ボヴァリー夫人』です。

──ぼくたちは教室にいた(Nous étions à l’étude)──

 思い出したのは、「ボバディ」と「ボヴァリー」は音が似ているし、『ささやかなさ』は教室を舞台にするからですが、それだけではありません。三人称を中心として進行するこの小説には以降「ぼくたち」、いやそれどころか「ぼく」自身がほとんど登場しません。この不思議を蓮實重彦は『反=日本語論』というエッセイ集の「「あなた」を読む」という文章で、読者と語りの行為の間で共犯関係を築くための操作だという従来の有力説をあっさり退けた上で、こんな風に説明しています。

──フランス語の「ぼくたち」Nous とは、「ぼく」の数倍化されたものではなく、この「ぼく」と「ぼく」ならざる他の人称の集合からなりたっていて、その構成要素相互のあいだには「排他的関係」が成立しているのだ。〔…〕「ぼくたち」が生きているのは、共犯関係ではいささかもなく、「排斥関係」なのだ。この集合的複数性を構成する生徒たちの中で、誰とも名ざされてはいない「ぼく」Je が残りの連中、すなわち「彼ら」Eux からひそかに身を引きはなし、その無名の「ぼく」が、「話者」としての優位を確立するのである。かくして『ボヴァリー夫人』にあっては、語る行為が、語られる事件(=物語)に先行するという特殊な形態が読者の前に提示されることになる。そして、『ボヴァリー夫人』が「現代小説の祖」であるとしたら、語る行為と物語の離婚が、何ら前衛的な畸形性を誇示することなく、誰もが口にしうるごくありきたりな人称代名詞の中に実現されているからにほかならない。読めそうにみえて読めない言葉とは、そうしたものなのである。──

わたしはここまでフローベールと蓮實に仮託してずいぶん楽に『ささやかなさ』のイントロダクションを済ませてきてしまいましたが、急いで話を2021年の日本の舞台に戻せば、『ボヴァリー夫人』同様の発話主体の曖昧化と語りの前景化の操作はこの演劇界をいまだ席巻しています。一人の俳優が複数の登場人物を演じあるいは俳優同士で登場人物を交換することはもはやクリシェ的表現と化していますが、表層の現れは類似していてもその核には違いが当然見出されるでしょう。たとえば自他の境界なき前─個我的な同質性へと向かう「日本的」心性の発露としてそれを捉える語りが多くの舞台には妥当するように思われますが、『ささやかなさ』の表現はむしろその対極にあります。そこに働いているのは「排除」と「選別」の論理です。そもそも同質的全体主義は松原戯曲において常に最大級の敵意を向けられるところのものです。しかし一方で松原さんの作品にある種の抽象性や匿名性が強く働いていることも確かです。そもそも「ボバディ」の「バディ」とは何なのでしょうか。bodyかbuddyかでニュアンスが大きく変わってきます。いずれにしても単一の存在のうちに複数の身体の現れを観る思想がわずか四字のうちに凝縮されているわけですが、前者の場合そこにはボディ(body)とバディ(body)が同一の場所をめぐり争う排除と選別の論理が強く働くでしょう。後者の場合その複数の身体は友人同士の連帯感のうちに「幸福に」安らうでしょう(ちなみに、buddyは英語圏で特に男性の友人や仲間同士を意味します)。それら二つの顔が相互に反転しながら「ボバディ」を構成しています。

──彼はそこにいるのだが、われわれの目には見えない、それはたんなる情報の起点、ひとつの境界、ひとつの記憶のようなものであり、自分の正体は決して明かさずに、ある時点で見たこと、知ったことだけを報告する。彼の正体が曖昧なのは、自分がどんな人物かという点について彼が口をつぐんでいるからだが、それだけではなく、彼が複数の人称で語っているせいもあるだろう。〔…〕語り手と語られたこととのあいだにまったく距離のないこのような空間的視点のおかげで、小説は開幕の時点から、読者と物語のあいだにきわめて親密な関係をつくり出す。──

いま引用したのは同じ『ボヴァリー夫人』についてのバルガス=リョサの解説です。彼は『ボヴァリー夫人』からその形式の着想を得たとしか思われない一つの中編小説、「小犬たち」を書いています。

──その年はまだ、みんな半ズボンをはいていて、ぼくたちはタバコも吸わず、サッカーが何より好きで、波乗りの練習も始めたばかり、やっと〈テラサス・クラブ〉の飛込み台の二番目の板から飛び込めるようになり、腕白で、つるつるした肌をし、好奇心が強くて、ひどくすばしっこく、がつがつしていた。クエリャルはその年、シャンパニャ校に入学したのだった。──

「ぼくたち」はチョート、チンゴロ、マニューコ、ラロという四人の男から成っているのですが、そのうちの特定の誰かの語りが名指しで前景化してくることはありません。彼らはすでに老年を迎えていて、幼き学校時代のクエリャルとの思い出を回想しています。物語は少年クエリャルが犬に男性器を食いちぎられて《ちんこ》というあだ名をつけられやがて社会から疎外され死に至るまでを描いたものです。「ぼくたち」はクエリャルとつるんでいたのだけれど、クエリャルを「ぼくたち」に引き入れることは決してなく、むしろ彼をとりまく社会的な制度の暴力を具現して(これは彼らが個々の存在を透明化して語りの権能として機能することとパラレルなわけですが)、クエリャルを迫害した犬に同化します。そして彼らの個我は「ぼくたち」という全体性へと犬同然に溶解していくのです。語りは犬たちの存在のありふれた卑小さへの自省に閉じられていきます。

──その頃にはみんなすっかり一人前の大人になっていて女房も車もあり、子供たちはシャンパニャ校やインマクラーダ学院、サンタ・マリア学院などに通っており、アンコンやサンタ・ローサ、スールの海岸などに別荘を建築中で、ようやく太り始め、白髪もちらほら、腹もせり出して、筋肉はたるみ、字を読むときには眼鏡を使い、食べたり飲んだりした後はどうも気分が悪く、肌にはそばかすや小皺も目につくようになっていた。──

しかし、犬とイヌとでは話が全然違ってしまいます。松原さんの作品に幾度も登場する「イヌ」という登場人物(?)、その重要な存在性格は「居ぬ」であると同時に物語にその座を占めて「居る」、不在の在の体現です。『ささやかなさ』とは一つには「ささやかな差」による偶然的で理不尽な排除への抵抗の物語です。つまりは死者の引き受けをめぐる物語です。「小犬たち」と違って、ここでは迫害され、死の憂き目に遭うのはイヌ自身です。2019年に香川県高松市のMOTIFで上演された『ささやかなさ』を、わたしは「あなた」という二人称に着目しながら、自閉する世界での死者の汎神化の物語として論じました。しかし、いまでは『ささやかなさ』をNous をめぐる物語として捉え返す必要を感じています。死者にメディアとしての仮想的身体を与えることがイメージの基本的機能だとすれば、この「引き受け」は表象=上演 représentation の行為とほとんど同義です。演技とは、俳優という椅子をめぐる亡霊たちのフルーツバスケットに他なりません。そのゲームでは当然あの排除と選別の論理が再度顔を覗かせてしまうわけですが、上演という営みがそんなくそったれな世界への有意味な抵抗となりうるかどうかは、すべてそこに紡がれるイメージのありようにかかっています。


ささやかなさ|作品概要

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