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松井周と私たち|レビュー|中島梓織:いやいや踊ってるじゃん/わたしも踊ってたじゃん

中島梓織 Shiori Nakajima WebXInstagram
劇作家・演出家・俳優・ワークショップファシリテーター。いいへんじ主宰。個人的な感覚や感情を問いの出発点とし言語化にこだわり続ける劇作と、くよくよ考えすぎてしまう人々の可笑しさと愛らしさを引き出す演出が特徴。創作過程における対話に重きを置いて活動している。代表作に、『夏眠/過眠』(第7回せんだい短編戯曲賞最終候補)、『薬をもらいにいく薬』(第67回岸田國士戯曲賞最終候補)などがある。

 今回の小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク(以下、小野さん・中澤さん・スペノ)の作品は「ノンダンス作品」だと伺っていた。上演時間のほとんどが「対話」を中心に進んでいくという。「対話」の相手は松井周(以下、松井さん)。お互いが、それぞれの芸術的実践について、現代日本の演劇界について、舞台芸術界全体について、問いを共有して実践する。タイトルはずばり『松井周と私たち』。素直に、おもしろくないわけがない、と思った。
私自身、普段は主に会話劇を創作しており、正直ダンスには明るくない。果たしてわたしがスペノの作品を語ることができるのか、という不安もあったが、「対話」で進んでいく作品のことならば、少しはお役に立てるのではないか、と思い、今回のレビューの依頼をお引き受けすることにした。

実際に上演を拝見して、いやいや踊ってるじゃん、と思った。
舞台上で起こっているのは、三人が向かい合うように座った状態で、質問をして回答をする、という言葉のやりとり。一見すればインタビューやトークショーなのだが、お互いの問いに呼応する三人の身体は、常に踊っているように見えた。
小野さんのゆっくりとした頷き、中澤さんの椅子に座り直す動き、松井さんの「ん?」と困った顔で首を傾げる動き、挙げればキリがないけれど、踊ってるじゃん、と思ってしまってからは、いたって日常的な動作もそうとしか見えなくなってしまった。

少し脱線するが、私が演出を務める作品の稽古場に来てくれた方に、こう言われたことを思い出した。「俳優さんの声に合わせて、踊っているように見えた」と。
指摘されるまでまったく自覚がなかったのだが、たしかに、俳優が発している声に合わせて、手を動かしたり、横に揺れたり、のけぞったり、前のめりになったり、しているかも…テンポのいい台詞のやりとりが続くとノリノリになるし、予想外の抑揚がついていたりするとワクワクする。そうやって自然に身体が動いているのだろう。
そう考えると、私たちは普段から、踊ろうと思わなくても踊っているのかもしれない。ダンスではないと思っているものもダンスなのかもしれない。

作品に話を戻す。上演の途中には、相手が創作の場で行っているワークをお互いに「やってみる時間」がある。
客席に居た私は、ひとりの劇作家・演出家・俳優として、興味深く三人の「やってみる時間」を眺めながら、これが「作られたもの」であり「繰り返されるもの」であることにときどきハッとしてゾッとした。見られることが前提となっている。作家としてのこの三人の「対話」は、おもしろ~い、と思われる「対象」であることがセットなのだ。
そう考えると、先ほど言及した、踊ってるじゃん、という感覚も、目の前にある現象をそのまま受けてのものというよりも、もっとメタ的な捉え方によるものだったのかもしれない。彼らはこれを「作品」として上演しているから、踊っているように見えた。私が見ているから、彼らは踊っていた。

再び少し脱線するが、私自身、幼い頃から現在に至るまで、中島梓織という人間を演じている、という感覚が強くある。そして、そのことに対して、どちらかというとネガティブな感情を抱くことが多かった。みんなが見ているのは所詮ペルソナであり、実際はそんなにできた人間ではないのだ…(できた人間だと思われていると思っているのか? という自意識にまで言及してしまうとキリがないのでここでとどめておく。)
しかし、この「演じている」という言葉を「踊っている」という言葉に置き換えてみるのはどうだろうか。
本当の自分を偽っていると感じてしまう振る舞いも、もしかしたらある人にはダンスに見えるかもしれない。実際に「踊っているように見えた」人が一人は存在している。個人的に見られる「対象」であることを苦しく感じることが多いのだが、もしかしたらそれを逆手に取ることができるかもしれない。
これから、中島梓織を演じているだけだ…と卑屈になりそうになったときには、中島梓織を踊っているだけだ…と言い換えてみようかな、と思っている。ちょっと滑稽で、ちょっと救われる。

再び作品に話を戻す。最後に、今後の展望として中澤さんが語ったのは、スペースノットブランクというコレクティブが代替可能なものになること。これも目から鱗だった。この人たちはどんだけ見られることを逆手に取れるんだ。
スペノにはスペノにしかつくれない作品があり、松井さんには松井さんにしかつくれない作品があり、私には私にしかつくれない作品がある。多くの作り手や多くの受け取り手がそのように考えているだろう。そうではない、と言われることには、驚きと寂しさがあるけれど、一方で、作り手の一人としては肩の荷が降りたような気持ちにもなる。
ラストシーンで、松井さんが小野さんの椅子に座ったとき、一番シンプルな形で「代替可能である」ことが示され、それを見た私は救われた気持ちになった。私が私を演じられなくなったとしても、誰かが代わりに私を踊ってくれるだろう。

いやいや踊ってるじゃん/わたしも踊ってたじゃん/踊ろう(演じよう)と思わなくても踊って(演じて)いる/わたしはわたしを演じている/見よう(対象化しよう)と思わなくても見て(対象化して)いる/代替可能である(ということの寂しさ/ということの救い)/…
たくさんの要素が重なって繋がって響き合って、少し時間が経ったいまでも、この作品についてぐるぐると考えていて、うまくまとまらないままである。ここまで揺さぶられたのは、やはりこの三人の「対話」だったからこそのものでは? とも思ってしまう。本当に代替可能なのか?
うまくまとまらないままだが、人間としての自分にとっても、作家としての自分にとっても、とにかく刺激的な体験だったことは間違いない。そして、このように誰かに見られる場所でレビューを書くことで、私も三人と少しだけ「対話」ができたような気がしている。
これからも中島梓織を踊っていきます。

松井周と私たち

イントロダクション
植村朔也:質問の陥穽 あるいは、透明性の時代
越智雄磨:『松井周と私たち』のために

レビュー
中島梓織:いやいや踊ってるじゃん/わたしも踊ってたじゃん
越智雄磨:「何」がそれを語らせているのか?:『松井周と私たち』レビュー

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