松井周と私たち|イントロダクション|越智雄磨:『松井周と私たち』のために
越智雄磨 Yuma Ochi |
東京都立大学人文社会学部准教授。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員。博士(文学)。専門はフランスを中心としたコンテンポラリー・ダンス研究。早稲田大学演劇博物館においてコンテンポラリー・ダンスに関する展示「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」(2015-2016)のキュレーションを担当。著書に『コンテンポラリー・ダンスの現在─ノン・ダンス以後の地平』(2020)がある。 |
1.
突然だが、私はピチェ・クランチェンのFacebookページをフォローしている。小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク(以下スペースノットブランクと略記)がジェローム・ベルの『ピチェ・クランチェンと私』を原案とした作品を作ると聞き、ふとそのことを思い出した。10年ほど前、ジェローム・ベルとモンフェルメイユの街角を歩いていた時のことだったと思う。細かな経緯は覚えていないが、なぜかピチェ・クランチェンの話になった。「きわめて重要なアーティストだから絶対Facebookをフォローしておいたほうがいい」とジェローム・ベルに強く勧められたのだ。ベルの言葉には、ジャンルも活動する場所も異なれど、同じ時代を生きるピチェ・クランチェンというアーティストに対する深い敬意が込められていたように思う。
2.
スペースノットブランクが今作の原案とする『ピチェ・クランチェンと私』は2004年にバンコクで初演された作品である。上演記録を見ると、その後ヨーロッパでは2005年にベルギーのクンステンフェスティヴァル・デザールを皮切りに、欧米やアジア圏の諸国で上演を重ねてきた。日本でも横浜と京都で3回上演されている。本作の誕生は、当時バンコク・フリンジ・フェスティヴァルのキュレーターだったタン・フ・クエンがベルに創作を委嘱したことに遡る。当時タイの文化やダンスについてほぼ何も知らなかったベルは長く躊躇した末、タイの伝統舞踊のダンサーと共同で制作することを条件にこの依頼を受けることにした。そして紹介されたのがタイの宮廷舞踊コーンの踊り手であるピチェ・クランチェンだった。当初のアイディアは、ベルがクランチェンと共に一つのダンス作品を作ることにあったようである。
しかし、当初の想定を逸れて、彼らの共同作業はいわゆる普通のダンス作品に結実しなかった。代わりに、互いのダンスをめぐる相違、彼らの活動が置かれている異なる歴史や文脈、異なる様式や美学を確かめていく2人のデモンストレーションを交えた会話がそのまま舞台に上げられることになったのだ。
たとえば、「死」をどのように表象するのか? という話題に際して、ベルは自作『The show must go on』(2001)の「Killing me softly with his song」をかけながらゆっくりと床に倒れ込み、目を閉じて死んで行く場面を再現する。一方クランチェンはコーンにおける死の表現方法を見せる。それは以下のような手順で示される。殺された人物が舞台からはける。死者の家族が喪に服するためにゆっくりと歩く。その家族は泣くために椅子に座るが、涙を隠すために顔を背けるといった具合である。
あるいは、互いの国のダンスの歴史が話題になった時には、クランチェンは200年以上前のタイのラーマ2世の治世下にコーンが始まったことや、ラーマ4世が優れたダンサーであったこと、しかし、革命後の新政府はコーンを禁じ、現在では観光客向けのダンスになった経緯を語る。一方ベルは、自身のダンスにおける民主主義的な理念について200年以上前のフランス革命での王や王族の処刑、王政の廃止にまで遡って説明する。それは、ダンスについてメタ視点で語るレクチャー・パフォーマンスであり、ドキュメンタリー演劇でもある。
3.
ベルは2005年に書いたこの作品のステートメントに次のような言葉を残している。
ヨーロッパ中心主義、インターカルチュラリズム、文化のグローバリゼーションといった問題含みの概念が、この作品のなかで争点として明らかになる。扱う上でデリケートであるが、これらの概念を脇に置いたままにはできない。現在という歴史的瞬間が、これらの争点を無視することを許さないのだ。
2008年にベルとクランチェンはこの作品によって、オランダの「文化的多様性のためのルート・プリンセス・マルグレート賞」を受賞した。ちなみに、同年にこの賞を受賞したもう1人の人物は、カルチュラル・スタディーズの代表的研究者であるスチュアート・ホールだった。
かつてエドワード・サイードが指摘したように、ヨーロッパにおいて「東洋」は周縁化された存在として捉えられてきた。18世紀、19世紀に創作された多くのオペラもまた「東洋」についてその当事者や歴史について無知のままに都合よく解釈し、それを繰り返し表象してきた。パリ・オペラ座は2021年になって『パリ・オペラ座における多様性についてのレポート』を刊行し、植民地的視点で作られた差別的表現が残る作品を上演してきたことを反省し、プログラムの編成や出演者の人種的構成に配慮するという課題を明文化した。こうした昨今の流れと比較すると、ベルとクランチェンの「多様性」に関する取り組みは、ヨーロッパの芸術の文脈の中で極めて早期の傑出した成果だったことが理解される。
4.
当初の想定からは外れたかもしれないが、フ・クエンの狙いは、従来のダンスの概念を逸脱したダンス作品を作ることに最初からあったのだろう。委嘱当時の2004年のヨーロッパのダンスシーンにおいて、ベルは実験的なダンス作品を創作する最も尖った振付家として既にその名を馳せていたからだ。ル・モンド紙のダンス批評家ドミニク・フレタールがベルの作品を既存のダンスの慣習やコードを拒絶する「ノン・ダンス」と評し、この言葉と共にヨーロッパ内外でベルはその知名度を高めていた。念のため断っておくと、ベル本人はこの言葉で称されることを強く拒絶しているが、ひとまずそれは脇に置く。フレタールは、ジェローム・ベルが『ジェローム・ベル』を発表した1995年前後を一つの境としてフランスのダンス界に新しい動きが出現したとみているが、それは確かだと思われる。当時のダンスの新しい傾向を「ノン・ダンス」と呼ぶ者もいれば、「コンセプチュアル・ダンス」と呼ぶ者もおり、「ヌーヴェル・フォルム」と呼ぶ者もいれば「パフォーマンス的ダンス」と呼ぶ者もいた。それぞれの論者が採用した呼称は、微妙にフォーカスに違いはあるものの、従来のダンスの概念では捉えられない新しく出現したダンスの傾向を捉えようとして考えられたものである。そして、常に筆頭に挙げられる人物が、ジェローム・ベルだった。
キュレーターとしてのフ・クエンの仕事の意義は、ジェローム・ベルの意識を初めてアジアに向けさせ、クランチェンというダンサーと出会わせて、この作品を世に出したことにある。これまでにない、奇妙な文化的ハイブリッドの産物が出来上がったのだ。その狙いは達成されたと言えるだろう。
5.
さて、「ノン・ダンス」とは結局何だったのか? 私なりにまとめると、それはダンスという概念を支える中心的要素のシフトである。ダンスの中心的要素は長らく「動くこと(moving)」にあると考えられてきた。ダンスの語源には、「身体をのばす」という意味が含まれており、坪内逍遥はdanceを日本語に訳す上で、水平運動を示す「舞」と垂直運動を示す「踊」を組み合わせた「舞踊」と言う言葉を採用した。現在でも動くことはダンスの変わらない基本的な原理である。テレビ番組などで扱われるダンスなどを見てもそのほとんどは、長い修練を通して身につけたであろう高度な技術によって、目を魅了する豊かな動きで空間を満たしている。
しかし、「ノン・ダンス」などと呼ばれたダンサーや振付家が重視したのは「動くこと」ではない。彼ら・彼女らのダンスは「動き」を差し引き、時に身体が全く動かないことさえある。そして、動きの代わりに前面に現れるのは、ダンサーの身体そのものである。もちろん、それまでのダンスにおいても動きと身体は同時に存在していたし、不可分のものである。観客もまた常に動きと身体を同時に見ている。ただし、フォーカスが違うのだ。「ノン・ダンス」と呼ばれる傾向が引き起こしたことは「図」と「地」の関係を成してきた「動き」と「身体」の関係の反転である。「図」としての動きが最大限に捨象される結果、「地」であった身体が必然的に浮き立つ。これはかつて、ロラン・バルトが「演劇性」について「演劇から戯曲を差し引いたもの」と定義したことにも似ている。バルトの大胆さは、それまで演劇の中心的要素と考えられてきた戯曲を、最も抜けてはならないと考えられてきた要素を差し引くことで演劇を新たに定義しなおしたことにある。さらにこの見方は、演劇という概念をアップデートしたハンス・ティース・レーマンの「ポストドラマ演劇」にも通じる。ドラマを演劇の中心的要素とみなす習慣を捨てたレーマンに倣うならば、ノン・ダンスを「ポスト・(ムーヴメント)ダンス」ということも可能だろう。このダンスにおけるパラダイムシフトを「動くこと(moving)」から「存在すること(being)」へのフォーカスの移行と言い換えることもできる。
6.
では、ダンスの中心的要素を身体に据えて、あるいは「存在する」ということに力点を置いて、ジェローム・ベルが行おうとしたことは何だったのだろうか? それは、出演者の「生(英語:life、仏語:vie)」そのものを素材とすることである。その人物はどのような存在なのか? その人物はどのような経験を通じてその身体を獲得したのか? そのような問いかけがベルの作品には共通して見出せる。ダンスの基底材としての身体の内側に目を向ける作品は必然的に、視覚性に訴える外面的に壮麗なスペクタクルではなくなっていく。ジェローム・ベルの作品が「反スペクタクル的」と称されることもあるのはそのためである。また、そこには芸術的ダンスが無批判に文化産業化し、経済的消費サイクルに飲み込まれてしまう危険性に対する自戒と批判意識も見出せる。1980年代のフランスの文化政策の功罪として、ダンスの「プロダクション主義」やマンネリズム、メディアを意識した「スペクタクル化」が生じたことも背景にある。振付家のディレクター・シップや創造性に依存するのではなく、出演するダンサーの身体そのものにダンス作品の拠り所を見出す流れが生まれたのだ。
ジェローム・ベルは多くの作品タイトルに出演者の名前を採用しているが、それは、まさに出演者の生、人生、生活が問題とされているからである。自身の名を冠した『ジェローム・ベル』(1995)にはじまり、『グザヴィエ・ル・ロワ』(2000)、『ヴェロニク・ドワノー』(2004)、そして『ピチェ・クランチェンと私』(2004)を発表した。その後にも『イザベル・トレス』、『ルッツ・フォルスター』(2009)、『セドリック・アンドリュー』(2009)などを発表しており、出演者であるダンサーや振付家の名前をタイトルにそのまま採用した作品を現在も作り続けている。これらの作品群を便宜的に「ダンサー・シリーズ」と呼ぶことにする。それらは出演者の身体そのものから分泌される意味を味わうような作品である。
7.
ジェローム・ベルは読書家としても知られる。ベルが創作を行う際には、様々な思想や哲学が参照されるが、ここでは特にミシェル・フーコーがベルに与えた影響について触れておきたい。フーコーは膨大な歴史的資料を綿密に調査することで、特有の時代と文化における「人間」という存在の形成や変化を詳らかにした思想家として知られる。その研究によれば、近代において我々の身体=生は、社会、政治、経済など様々なレベルでの「生-政治」と呼ばれるシステムの中で管理され、規範化され、形成されている。ベルの作業はある意味、それを逆に辿り直すような作業である。つまり、今ここにある身体から、その身体の振る舞いや言葉を可能ならしめた「歴史」を明らかにしていく。私たちの身体は、膨大な歴史の蓄積によって成り立っていることを示すのだ。たとえば、『ジェローム・ベル』では、出演者は全員裸で登場し、その背景には、氏名、年齢、身長、体重、電話番号、銀行口座残高などが書かれている。またその身体そのものにも、それぞれの出演者にとって意味があると思われる年月日が書き込まれていく。『ヴェロニク・ドワノー』では、出演者ドワノーの身体の様々な位相が露わになる。2人の子供の母親としてのドワノーの身体は、ルイ14世時代にまで起源を遡ることができるパリ・オペラ座バレエ団の特有の階級の中に位置づけられた身体でもあり、バレエという身体運用のシステムの中で秩序化された身体でもある、そしてその秩序への抵抗を示す身体としても現れる。
フーコーは、私たちの存在が巨大な超−個人的な「生-政治」というシステムの中で規定されている世界の有り様を描き出したが、「生−政治」に対するカウンターとなる「生存の美学」という思想も晩年に用意していた。この思想に含まれる「自身の生を一つの作品にする」という考えをベルは敷衍しつつ実践しているように見える(ちなみに、この思想を積極的に取り入れた日本人アーティストはダムタイプの古橋悌二だった)。
つまり、ベルの「ダンサー・シリーズ」は、人間が「システム」や「歴史」の外に立つことの困難を示すと同時に、それらに抵抗し、その外部へと出て自身の生を作り替えようとする人間の力も示しているように思われる。従って、身体は諸力が拮抗するバトル・フィールドになる。規範化する力と、規範から脱しようとする力の両方が作用する場として、身体が立ち現れてくる。
8.
ベルの「ダンサー・シリーズ」の中でも、『ピチェ・クランチェンと私』は異色の作品と言えるかもしれない。ベル自身が出演者の対話者として出演している唯一の作品だからである。そして、それまでのダンサー・シリーズが扱っていたのが欧米圏のダンサーだったのに対して、アジア圏のダンサーを扱う初めての作品でもあった。この作品に対する評価は様々にあるが、多くの研究や批評が、ベルとクランチェンの間の「権力関係」を論点としている。
否定的な論は、西洋の前衛的アーティストと東洋の伝統舞踊のアーティストという対比構造に着目する。暗に西洋のアーティストの東洋に対する優位性が仄めかされているとみなし、植民地主義的な構造が再生産されているとみる。タイトルにみられる「myself(私)」という言葉がベルの主観的立場を示しており、客体として観察するような構造が読み取られた時に、ベルの視線がニュートラルではなく「上から目線」に見えるということが起こるのだと思われる。たしかに、植民地主義やオリエンタリズムの歴史的経緯を踏まえた時に、この両者の関係はニュートラルではありえないのかもしれない。その点を強調する批判に応えるとすれば、『ジェローム・ベルと私』といったタイトルの作品を誰かが作って、ベルの存在を相対化し、「権力」のバランスを調整する他に手段はないのかもしれない。
肯定的な論は、この作品が、エキゾティシズムや植民地主義的関係を回避しながら、民俗学的な観点から2つの異なる文化圏の芸術的実践の文化的特異性についての探求することに成功していると考える。
論者の立場によって、この作品の見え方はこれら肯定的なものと否定的なものの2極の間を揺れ動くのではないだろうか。私自身は、冒頭で述べたように、ベルがクランチェンに対して敬意を抱いていることを経験的に、感覚的に知り得たこともあって、この作品に対して否定的ではない。そして、これまでの「ダンサー・シリーズ」とは異なり、ジェローム・ベルは自らが姿を表し、発言することで、自身の態度や言葉が批判にさらされるリスクを取っているという点は評価すべきだと考えている。その行為は、実際に多くの論者の考察対象となっており、この作品に対する批判や考察をより多様に引き起こす論争上の豊かな可能性をもたらしていると感じる。またゲラルト・ジークムントが言うように、この作品が生まれたグローバリゼーションの時代には中心と終焉という二項対立的な世界の捉え方は既に廃れていると考えた方が良いかもしれない。この作品はそれぞれにとっての「他者」とのコンタクト・ゾーンを発生させ、そこで互いの文化的枠組みによって違いを理解しようとする試みだと評価できる。たとえば、クランチェンが、ベルのじっと立っている様子を仏教的なフレームで理解する一方、ベルはコーンの歴史にバレエにおける君主制の歴史に似たものを見出すように。
9.
さて、今回スペースノットブランクが取り組もうとしているのは、この『ピチェ・クランチェンと私』に基づいた松井周との対話である。よくぞこの作品を再現(リエンナクト)しようと思ったものだ。そのためにベルのカンパニーR.B Jérômeの正式な許可も得たというから驚きだ。なんと突飛な行動だとも思ったが、しかし考えてみれば、ジェローム・ベルも若かりし頃、当時の常識からすれば突飛な実験ばかり行なっていたのだ。かつてベルは、ピナ・バウシュの振付を自身の作品の中で完全にコピーして使用するために手紙を書いたこともあった。バウシュには断られたそうだが、ドイツ表現主義の流れを汲む大御所スザンヌ・リンケから『Wandlung』のコピーの許可を得て、伝説的とも言える『最後のスペクタクル』という作品を生み出した。ちなみにこの作品は、「本来コピーできないはずのダンスをコピーすると何が起こるのか?」という問いに端を発して創作されたが、ニューヨークの前衛集団ウースターグループによってさらにコピーされ、『I am Jérôme Bel』という作品も生まれた。ベルにもウースターグループにも共通してみられるのは類稀なる遊び心である。両者の作品は、ギャグの様相すら呈するが、遊び心とギャグこそが新境地を開くことは往々にしてある。スペースノットブランクの今回の試みも彼らに続くものになるのかもしれない。ぜひ、そうなってほしい。
10.
『松井周と私たち』は、『ピチェ・クランチェンと私』を原案としながらもズレを生じさせるはずである。同じ日本の舞台芸術のアーティスト同士の対話になることから、原作に見られたヨーロッパとアジアという対比的構造は消え、それに伴いポスト・コロニアリズム的観点は消えるだろう。しかし、それに代わって、世代の異なる日本人アーティストたちが対話する中で現代の日本特有の何かが浮かび上がってくるはずだと予感している。スペースノットブランクと松井周の関係性について私はほとんど何も知らないが、対話の中で、見えてくるであろう舞台芸術をめぐる双方の立場や見解、環境の差異や世代間格差などに注目してみたい。そして、現代の日本社会の中での、それぞれのアーティストの身体と生の有り様が露わになってくることを期待している。そして原作同様に、対話の過程で生じるであろうその両者間の力のバランス、その揺れ動きも見どころなのではないかと思っている。
再びミシェル・フーコーを持ち出すが、フーコーはあらゆる人間関係には権力関係が生じると考えていた。そして、その権力関係や優劣関係は、差し向けられる言葉の選択、振る舞いなど様々な要因によって絶えず変動する。権力関係などというと物々しい感じもするが、それは、私たちが普通にコミュニケーションを行う時にも刻一刻と変化している双方の力の関係の揺れを思い起こせばよい。このパフォーマンスの中で、スペースノットブランクと松井周の間には、どのような関係が生じるのだろうか? 敬意があるからこそぎりぎり許容される無礼講が現れるのか、それとも年長者を前にした遠慮や忖度が現れるのか? 全く通じ合わない異質性の衝突が現れるのか? それとも共感や共通性が現れるのか? なんらかの継承が現れるのか、それとも断絶が現れるのか?
できることなら、このパフォーマンスを観られる方すべてに、観賞後どう思ったか聞いてみたい。みなさんは、どうのように思われるだろうか?
イントロダクション
植村朔也:質問の陥穽 あるいは、透明性の時代
越智雄磨:『松井周と私たち』のために
レビュー
中島梓織:いやいや踊ってるじゃん/わたしも踊ってたじゃん
越智雄磨:「何」がそれを語らせているのか?:『松井周と私たち』レビュー