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本人たち|神田茉莉乃:見ること、見られること

人と対面で会った時、いつも思いっきり面食らった気持ちになってしまう。
今から出会うと知ってその場に行く。でも、実際に対面するとそれらは夢の中、現実ではない場所、想像の中で行われていた質の抜けたものだったことに気づく。駅で手を振りながら近づく時、遠くから相手を認識した時、声をかけられて振り向いた時、相手を見て、夢から急激に浮き上がってようやく現実に立ち戻る。会いたくなかった訳ではないけれど、ただ驚く。現実は思ったよりもずっとちゃんとした形をしている。
上演が始まった時、私は本当に居心地が良くないな、と思っていた。
話しかけられている? 自分ではない、他の客に。いや、やっぱり自分に話かけられている…。
上演を見ることは人と対面することに似ていると思った。ある程度こうだろうとかそう予想しているせいかもしれないし、モニター越しに見るのとは違い、状況に自分が巻き込まれているかのような近さや現実感があるから、かもしれない。
それにしてもこの上演の最初は真に居心地が悪かった。なぜならこの舞台の内側に気づいたら入れられていたからだ。

第1部、舞台上には男性の演者が1人。ディズニーランドでキャストが説明する時のように、はつらつといかにも楽しげな態度で話はじめる。「嘘です」「バベルの塔ってどこにできたんですか」「地球の真ん中に」「STスポットスポット」「穴を掘ってちょうどその上に」「本当にあるんです あれ」大きくはっきり分かりやすく、わざとらしく無機質。詐欺師に訳のわからない商品を薦められているようだった。ひとつの文章がその場で直接的に意味を発生させているとは言えず、架空と実在も混在している。話題もするすると逃げて変わる。言葉だけが点滅してチカチカする。アニメ『エヴァンゲリオン』のタイトル様式のように、黒い背景に白字太字の明朝体、次々現れては端から消えていく。礫が降り注ぐような状況に混乱する。意味を置き去りにし、別の意味を見せようとしているのだろうか。そもそもモールス信号のように全く別の部分から伝えようとしているのか。言葉を追いかけるのに必死でその場に意味があるのか、わからなかった。
人が何かを喋る様はこんな感じなのだろうと思った。正しい文章の形式を書き出すわけでもなく、考えて喋るのはむずかしい。けれど、日常で行われる他愛もない話にしっかりした文体は必要ない。英語が喋れない人が単語のみを喋るみたいにいっそ話していたりする。言葉を理解するならその程度でもわかる、でも伝えることはできない。いつも言葉だけが浮き上がる。そういう状況では言葉だけが意味を補ってしまう。質を置き去りに、おざなりにして、ひとつのものを勝手に築き上げる。それを思うと、この人と対面し一方的に話されているこの場にはそういう空虚が浮かんでいるように思えた。
話しかけられているような、でもやはり話しかけられていないし、演者は役をやっている。でも、この舞台の外側にいるんだとそう思うには、対面をしているという強い状況から離れることができない。この関係性をどう捉えていいのか、全然わからない。介入されそうな怖さと力強くこじ開けられる時の気持ちよさ、諸刃の剣を握れと言われている。

「念力暗転って知ってますか」と問いかけられる。知らない。粘膜暗転? 奇妙な話のはずなのに普通のことのように話してくる。
演者は超能力者のように手のひらを徐々に下げていく。空中で何か重いものを下に押し下げようとする動作で、ぐっと力をこめながら手を下げていく。私たちは、客はそれに合わせて目を閉じる。最後は演者が指パッチンをして、目を開けるというルールだ。
そうすると、ここがどんな場所だろうと暗闇に、そして別の場所のことを目の裏で考えればどこにだって行ける、どんな場所にもできるということらしい。念力暗転が成功すると今度は指示的に話が始まって、瞼の裏を見ながら演者の喋るストーリーに身を沈めていく。操られている、ともいう。
「駅のホームでした」「年老いた「自分」と出会いました」「割とライトめな会話をメインで話してた」
自分が知っている記憶から場所を想像して、状況を埋めていって、感情を浸していく。自分という人間で補いながら念力暗転をする。本当だったら舞台からは隔離されていたはずだった私は今どこにいるのだろうか。この場所、空間や状況や感情、次元は演者が喋るこの言葉と私の中身とで作られていく。指示されて瞼を閉じることに、ものすごい抵抗を感じた。私に言ってない、私は舞台上の人じゃないからだ。私ではない。でも瞼を閉じておくと、誰に言っていようが、言ってなかろうがどうでも良くなった。このストーリーの中では自由に動けない。感情も操作されてる。これは私の話ではない。誰か別の人の話だった。

第2部は女性が2人。
「念力暗転 知ってますか」
それを口火にして、それぞれが別の方向へ話をはじめる。
「知ってるのは 舞台上に1人」「さっき ねんりきって」「同じですかね」「この眼球にまぶたのところ」「世代じゃないかもしれないけど かめはめ波」「最初は後者だと思ってたんですね」つらつらと二重合唱。
「ね」「そう」「そうですそうです」気の無い相槌が間に挟まっていて成り立っている風だ。全然成り立ってはいないけれど。ある時、急に会話が噛み合い知り合いかのような状態に戻るが、どこかですれ違ってまた離れていってしまう。2人はジリジリとお互いを注意深く避けながら間を行き来し、目配せをする。舞台上にある客側から完全に背を向けたモニターを3人目の人のように扱って、相手と交互に目配せをしたりしている。ただ噛み合ってないのか、単純にすごく険悪な関係なのか、全然違うグループの井戸端会議がごく近い場所で行われていたのか、そういう状態が交差して雰囲気が少しずつ変化していく。相手に目配せをしては無視して自分の話をし続ける。もし友人だったとしたら一方的すぎるコミュニケーションだ。2人の間に見えない人間が挟まっていて、話題をどこかで捻じ曲げたり切ったりまた繋げたりしている役を担っているようだった。

「立って 音楽をこの部屋に流してほしい」
感情的なものからは遠いと言っていいのか、演者がやっている役が誰なのか、それは見ている側からは知る由もないのだけれど、ここにくるまでずっと、コミュニケーションは対外的で説明する話す歩くというそういう動作がメインだった。その中で大きく声を張り上げる。だから他と異なる状態が気になった。白けた悲しげなアコーディオンの音がヒョロヒョロと部屋全体に鳴った。
「違う ちょっと違う ちょっとたぶん違う」
音楽が終わると落胆し魂が抜けたように後退り座り込んでしまう。
そんな相手を気遣いながら、隣に腰を下ろす。様子を伺い、なるべく明るくしようと努めるように声をかける。
「だけで大丈夫です」

大抵の言葉には共通する認識とか意識とか、見えない共通項とか、規則とかそういう複雑で余分なものが混ぜ込まれている。話そのものの意味を見えなくするほどに。嘘ではない、けれど本当でもない。だから違うものが前に出始めて、言葉を仕舞い込んでほしいと思う。仕舞ってしまってから、違うところから出したいと思う。喋る話は嘘、表現するための借り物、その際に犠牲になったものを炙り出してあげたかった。より良い表現をと饒舌に、言えることがなくなってしまい黙り込む、嘘を平気で表現する、悲劇めいて。対話も対面も意味がない。あるとしたら、もっと別の場所にある。その場所を力一杯開けようとしている。自分自身のも、人のも。これを握っていると血が滲んで痛い。けれど手に食い込むと初めて握っているものの形がわかるようなそんなものだった。

見るということは見られているということ。見る側も見られる側も対等で、境界があろうが、何者であろうが、公平だ。
本人たちという演劇は、次元のことを言っているようにも、ごく繊細な会話の、言葉のことを言っているようにも、舞台とは、上演とはと言っているようにも思えた。
客側から背を向けられたモニターも、壁に張り付いた2つの穴をつなげている演者のみが通ることのできる通路も、客席との間に横たわる細長い花道のような舞台も、全部見ている側からは次元の違う存在だ。夢から覚めたように現実を見る。でも現実を見るまではいつまでも自分という次元に仕舞われたままのものだ。眼前に晒された本物、現実は思ったよりもずっとちゃんとした形をしている。自分自身が把握できる訳がなかった、手に負えないのだとようやく気づく。それを無理やり決めてしまうことも、決めずに置いておくことも選ぶ権利は公平にある。
何かを発芽させようとしている。
見ている側も、このまま進めばこの舞台と客席とその間に必ず出現するはずの何かを目を凝らして見ようと焦がれているように思えた。
そこで上演は終わった。最後の部分は自分で決めないといけないようだ。

神田茉莉乃 Marino Kanda Instagram
1995年横浜生まれ
2015年上矢部高校 美術陶芸コース 卒業
2018年武蔵野美術大学 建築学科 卒業
2023年東京藝術大学 美術研究科 彫刻コース 卒業
アーティスト。
粘土による造形からはじめ、建築、彫刻を学ぶ。距離や時間や視覚などを内包する空間に対しての自身の思想を作品にする。主に塑像、映像、図面などを使用したインスタレーションの制作をする。

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