Spacenotblank

本人たち|長沼航:1でも2でも群れでいて

 スペースノットブランクで保存記録を務めている植村朔也さんが「水族館」の比喩を用いて同団体の諸作品の特徴を説明している[注1]。曰く、水槽のガラスを隔てて向こうにいる水族館の魚は独自の世界を有しており、こちら側にいる人間に頓着しない。それに似て、「スペースノットブランクの舞台が客席との間に設けている仕切りは、どちらかといえば水族館の壁寄りの「第四の壁」であ」[注2]り、俳優が観客の属している時空間とは独自の時空間においてパフォーマンスをしているように見受けられることを、スペースノットブランクの作品がもたらす特異な効果だと述べている。
 この指摘に言及するのは、僕が「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビューのオープンコール」の応募に際して課された簡易レビューおよび志望動機を、動物園での経験を手がかりに書いていたからだ。動物園で猿を見るのがちょっとしたマイブームで、けれどそれはマイブームと呼ぶには僕が舞台のことを考えるうえで重要な出来事でありすぎた。

 檻の中にはロープや鎖、柱や段差などが設けられていて、人間よりはるかに俊敏な猿はそれらを用いながら、縦横無尽に動き回ったり、はたまた端でうずくまったりしている。それぞれの個体は違う目的を持って行為しており、そこでは「異なる線がいろいろな方向へと引かれていくような時間と空間が広がっていて、私はそれを作品──つまり、主体の意図が介在した構成物──ではないが、まさしく舞台だと思う」。「個体の群れが集合と離散を繰り返していきながら、檻を運動で充していくあの様子。彼らにとってそれはただの生命維持行為の延長であり普通のことだ。しかし、見つめる私にとってはまなざされるべき舞台であった。人のつくった作品で、こんな充実を観ることはできないだろうか」[注3]。
 動物園の猿の檻のような舞台を観たい。しかし、私たちは猿ではない。植村さんも「スペースノットブランクは魚ではない」[注4]と念を押している。パフォーマンスをする俳優もパフォーマンスを観る観客も人間であり、人間は人間に見つめられるときもはや猿や魚のようではいられない。自分をどうやってプレゼンテーションするかをどこかで考えてしまう。無頓着ではいられないのだ(というか、魚のことは知らないが、猿だって他の猿の目は気にして行動するものだ)。
 また、舞台は多くの場合、劇場と呼ばれる場所で上演され観られる。動物園の猿がいる檻は彼らにとって生活の場だ。生活の場が同時に舞台のように見つめられうる。だがしかし、上記の理由から私たちは生活の場をそのまま舞台として他の人間に見せることはできない。生活に根差した普通のことが充ちているだけで面白いのに、人間はなかなかそれを舞台にはできない。そして、生活の場から離れた劇の場において、わざわざ何かしらの表現をこしらえている。
 僕の最近の関心は、生活の場から離れた劇(の)場において行われる表現は俳優/観客にとってどのように根拠づけられるのかという点にある。そして、『本人たち』は生活の場──言い換えれば、舞台に立つ人間がその人自身でありうる地点──と劇の場を独自の仕方で貫通させようとする探究を突き詰めたものでありそうで、これを観ることは僕の関心を深めるのに役立つのではないかと、応募時の僕は目論んでいた。

 だが正直に言えば、『本人たち』を観て、僕は困ってしまった。観ているときはそこまで困惑しない。決して理解不可能なことだけやっているわけではない。むしろこれまでのスペースノットブランクの上演に比べれば、コンセプトが作中で説明されてしまって非常に分かりやすい。
 けれど、思い出してそれについて考えるとか何かを書いたりする段階になると、途端にはっきりしなくなる。それぞれの部分が他の部分と関連しているのに、どういう関係にあるかを言い当てるのが非常に難しいのだ。
 例えば、ほとんど古賀友樹さんの一人芝居(ないし1.5人芝居)である第一部の『共有するビヘイビア』には「ガンバリズム」から始まる一連のシークエンスがある。ここでは「おやすミンミンゼミ」「おはヨーグルト」「ありがとうもろこし」「ありが10匹」など、二つの言葉を合成する言葉遊び的な言い回しについて真面目に「お休みの静かなイメージ から一気にうるさいイメージのミンミンゼミがくっつくことで ギャップの笑いが生じる」「これは多分ありがとうと言っている対象にたいしてトウモロコシをあげてる」[注5]などと説明される。確かにユーモラスで面白く、内容もよく覚えている。けれど、一体なんでこういう話になったのか、それからこのあとどういう話になったのかが全く思い出せない。
 さらに言えば、一群のセリフを抜き出しても、繋がりが判然としないものもある。第一部の終盤に出てくる「いわゆる簡単にちょっと対してっていう 簡単に自己自己紹介をしてもらう 説明してくれ として 自己紹介として 自分のことを ラストに行けないんです」[注6]というKの台詞は全体としてはラストに向けて自己紹介をお願いするものとして聞ける/読めるが、厳密にはよくわからない部分がとても多い。
 僕は上演のあいだに起きる物事を容易にやり過ごせてしまう。なんとなくでいられてしまう。それが観客という立場なのかもしれないが、同時にたくさんのことが無視される。でも、たくさんのことを無視してしまってもいいように、もしかしたらこの作品は作られているかもしれない。

 山本浩貴+hがプレビュー上演のレビューで触れているように、本作では俳優と観客の間にある伝達の構造に焦点が当たる[注7]。必然的に最も強調されるのはメタ的な伝達だ。(作中の例示を引っ張ってくれば)「疲れたよ」という言葉が「疲れたという底を示す」(体を示す)[注8]ものとして使われるように、作中の無数の言葉は全て「伝えてるよ」、すなわち「「伝えてるよ」を伝えてるよ」のパラフレーズとして捉えられる。例えば、第一部では、『本人たち』のこれまでの来歴、STスポットの歴史、顔の(部分的な)情報、「念力暗転」のやり方など様々な事柄が絶えず俳優から観客へと伝えられていく。ここでは、いま観ているもの、いまいる場所、いまかけられている技が説明されている。過去に収録・録音された音声をもとに作られたであろう部分でさえ、現在の上演を支えるクリエーションの時間の説明として機能する。そして、それらは説明の内容自体が目的であるというより、作中で説明されるような説明する「私」と説明される「あなた」の関係を構築するための手段として用いられている。
 だからこそ、第一部における古賀さんの口ぶりは完全に観客を志向している。観客に対して何かを伝えているし、何かを伝えていますよということも伝えるように身振りや視線や声の大きさなどが操作される。聞いている「あなた」に対して、古賀さんは絶えずさまざまな仕方で関わろうとする。しまいには、観客のうちの1人とジャンケンまでしてのけ、その勝敗によってシーンが分岐する。
 とすると、古賀さんは水族館や動物園的な独自の世界を作り上げているとは全くもって言えない。水族館の中で似た場所・時間を見つけるならイルカショーだろう。完全に他者から観られていることを意識した振る舞い、丁寧に習得された技をお客様に披露する時間、ときに水をかけたり鰭をふったりするインタラクティブ性。閉じられた水槽ではなく、開かれたショーの舞台として『本人たち』の第一部は捉えられる。飼育員兼イルカの古賀さんの「私はあなたにお見せしています」という態度で貫かれている第一部を観て、私はすっかりエンターテインされてしまう[注9]。
 しかし、ここで伝達とは何を指しているのか。そもそも「何かを説明するとき」に要請されるとされた言葉は、この上演においては前提である[注10]。つまり、戯曲があってパフォーマンスが行われるのであって、説明の意志が言葉を生んでいるわけではない。
 僕は上演を観て、戯曲を読んだ。画面ではほとんど隣接しているこの「観て」と「読んだ」の間には、実際には2週間ほどの時間的な隔たりがある。このように言葉は実際の時空間における構成とは異なる仕方で使えてしまうわけだが、『本人たち』の戯曲もこうした言葉の操作可能性に基づいて作られているように読める[注11]。
 上演において話される言葉は、どうやら過去の稽古場などで話されたものを採集し、文字起こしされたものであるようなのだが、それが元々はどこで語られていたかという文脈からは剥ぎ取られている[注12]。上演を観ていると、言葉の来歴などはそもそもどうでもよく、すでに記録されてしまった言葉を道具としていまここの劇(の)場において観客への伝達関係を作ろうとパフォーマンスが行われているように思える。説明するために言葉が生まれるのではなく、言葉が説明になるためにパフォーマンスが生まれる。そんな転倒が生じている。だからこそ、時に不可解なディテールをもっている説明そのものよりも、それがなんとなく説明になっていることの方に目が向いてしまう。

 と、これまであまり前置きなく『本人たち』の第一部についてのみ触れてきた。上述したことがそのまま妥当するのは第一部だけである。なぜ、第二部『また会いましょう』について口数が少なくなってしまうのか。それは第二部の多くの時間が渚まな美さんと西井裕美さんの2人の同時発話によって進行していき、第一部よりも処理すべき情報量が格段に増え、結果として意味的・理性的な認識よりも聴覚的・感性的な知覚の方に上演の効果がシフトしていくこと、それに伴い僕のうちに生じた感覚を書き落とすのが難しいことに由来している。しかし、このまま放っておくには第二部はあまりにも第一部と異なる。
 第二部で用いられるテキストは第一部に比べて、より由来のわかりやすいものになっている。意味が通っている部分と通っていない部分は依然あるものの、語られるトピックが生まれた場所や卒業論文のテーマ、就いていた仕事、美術館コンでの失敗、自分の名前などについてであること、元々この言葉を話していた人物の実際の個人的経験が反映されているであろうことが認識できる。また、様々な固有名詞(岡山、岸田國士、『かもめ』、横浜、草間彌生など)が出てくるのも特徴的で、話されていることが私たちの現実と地続きのものであると感じられる[注13]。第二部の言葉は、おそらくは実際に演じている2人のあいだでなされたか、もしくはそれぞれが演出家とした会話から作られているだろうと推測できるような内容と質、日常的な響きを多くの箇所で保っている。
 だが、直ちに付言したいのは、このようなトピックの理解しやすさ・とっつきやすさは見方を変えれば、内容としてはひたすら凡庸な話がずっと展開されるとも言えるということだ[注14]。もちろん、美術館コンには意外とアートに関心の薄い人ばかり集まるとか、岡山県民は相互不干渉な県民性を持っているとか、興味深いトピックがないとはいえない。ただ、第一部で古賀さんが言葉を使って僕らを楽しませようとするのに比べれば、渚さんと西井さんははるかにどうでもよく聞こえる内容を話している、もしくはどうでもよく聞こえるように話している。
 しかし、「念力暗転」と並んで上演のなかで最も鮮烈なシステム──2人の俳優が身振り・字幕とともに台詞を同時に発話する──によって、僕は舞台上で語られる言葉に単なる意味の把握とは異なる仕方で耳をそばだてる。似たようなトピックについて、異なる言葉の配置がなされた二つのテキストが同時に読まれる。言語的な意味を把握するよりも前に、会話の響きのようなものだけが耳を覆う。喫茶店の真ん中からいろんな席の会話を聞いているような音環境である。一方の発話に耳を集中させようとしても、同じくらいの声量で、同じようなトピックについて話している。すると、ついもう一方の俳優の声も聞いてしまう。そのなかで音が急に言語として飛び込んでくる瞬間があり、それに出くわすとついつい笑ってしまう(特に私が2回目に観た3/31の上演では何度もそういった時間があった)。「年齢キャンペーンその年にキャンペーンをそれとも念力を念力を年齢決定でも結構使ってるかもしれないですよね」[注15]と西井さんが言うとき、その傍らではつねに渚さんの声が聞こえている。ふと水面から姿を現す魚のように、急に「年齢決定」というよくわからない語が入ってきて、笑ってしまう。言葉が説明として使われる第一部と異なって、第二部では個人的な話題からなるテキストの同時発話がもたらす運動の推移を感覚的に味わうことになる。

 第一部と第二部を横断して言いたいのは次のこと──『本人たち』は全体を通して「群れ」を扱う上演だった。
 第二部の全編を通して、渚さんと西井さんはただ2人のあいだで(例外としてメタ出演の近藤千紘さんの声がありはするものの)言葉と身振りでの交感を行っているのみだ。ときおり観客に視線を送りもするが、だとしても観客とは独立したシステムのなかで言葉と身振りのダンスが行われ続ける。たった2人ではあるが捉えきれない情報量で横溢する舞台を観るしかない。そうした経験をもたらす第二部は動物園的ないし水族館的だといえる。
 思うのは偶然みたいだということ。猿を見ていて感動するのは、生じる複数の行為の交わりがどこまでいっても偶然的だから。そして、偶然だけれども同時に、メカニズムが明確だからだ。周囲のロープや段差や食べ物など環境との交わりによって、それぞれの個体の行為は誘発されている。それらが檻の中を充たすとき、群れとしての充実に感動してしまう。
 『本人たち』の第二部で起きる言葉と言葉のすれ違い/合流の運動は、おそらくかなりの程度意図的に操作されているだろう。だが、観る僕はそれらをほとんど偶然的な充実みたいに受け取る。上演の場で何が捕捉されるかはわからない。偶然捉えられた台詞を僕は聴き、偶然捉えられた身振りを僕は観る。僕のうちに起きる感性的な音や言葉や身振りとの出会いは、意図的な操作によって引き起こされる偶然だ。それに対して、第一部は僕においてぜんぜん偶然的にならない、と思った。
 でも、1人しか出演者のいない第一部もまた群れ的な性質を持ち合わせていたとも思う。それはテキストの作られ方と受け取られ方に関わっている。
 動物園で見る猿は、それぞれに名前がついていて、飼育員や足繁く通うファンたち──そういう人たちが本当にいるのだということを僕は黑田菜月さんの展示「写真で紡ぐ、思い出の中の動物園」で知った──には識別可能だが、一見の僕なんかは正直子供か大人かくらいしか見分けることができない。それは『本人たち』における言葉の記名性と類比できる。それぞれの言葉を話した人物の名前ないし時間や場所は、稽古場にいた当人や演出家にとってはそれぞれの要素のうちに明記されているかもしれないが、観客にはそれを読むことはできない。「これは誰の話なんだろう」と思って思考を巡らせても答えはわからない。言葉は原理的に弁別不可能な群れになっている。
 そして、『本人たち』においては、語られた言葉が常に誤った解釈に晒される可能性が機械文字起こし・機械翻訳によって、観客の解釈に先立って提示されてすらいる。すでに間違って認識されてしまっている個体がウヨウヨしている。ここで私たちはもはや名前を取り違え(られ)ていい[注16]。

 それぞれに由来を持ち記名されていた言葉や身振りは稽古場から戯曲/劇場に移しかえられるなかで、「本人たち」という匿名的な群れへと再編される。なんらかの由来の存在を暗示するものの、元々の姿とは別様に組み立てられてしまっている。その組み立てこそがフィクションとして有効に機能しうるのは僕も共感できる。けれど、僕はどこかで腑に落ちていない。僕にはもっと別のことを分かりたい欲望があったのだろう。
 『本人たち』に出てくる俳優は、編集された言葉の群れを観客への説明として聞かせるために労を費やしたり、自分の発話が自分の身振りや相手の発話とうまく並行するように自身の感覚を動員している。どちらにせよ舞台上での表現の起点はいまここの関係を成立させることにある。個人としては、上演環境が実際に群れの運動によって充たされる第二部の、音声と言語を行き来するような戯曲と上演の双方にまたがる操作に活路を見出したいけれど、使い古された雑巾をまだ使っちゃうみたいにしてたくさんの言葉を自分の身体において束ねている第一部の古賀さんの演技もすごいものではあるのだろう(自分は途中で心が折れてしまいそうでやれそうもないが、もしかしたら心なんてものを持ち出さずにできるようにパフォーマンスはプログラムされているのかもしれない)。でも、さらにいえば、総じてもっとその俳優が触れている世界のことがわかりたかった。いまここではない過去の蓄積として現前する「本人」の姿が見たかった。ナイーブな僕は、共有や伝達を志向しながらも転倒や屈折を高い強度で持ち込んでくるスペースノットブランクの意地の悪さに、打ちのめされ続けている。

─────

[注1]植村朔也(2022)「1. 舞台は水族館か? 2. 数えられてもダンスか? 3. 舞台はどこに行ったのか? 4. 見えないものがすべてなのか?:スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』評」
[注2]植村朔也、前掲記事。
[注3]以上は「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビューのオープンコール」応募時に筆者の書いた簡易レビューおよび志望動機より。
[注4]植村朔也、前掲記事。
[注5]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』戯曲 p.7。
[注6]同上、p.12。
[注7]hさんの「「伝える」ってなんだろう、と思って見てた」「いろんな箇所で「伝える」ことについて直接的に言及していた」などの発言を受け、山本さんは「話される個々の話題やその主体の個人的情報に重きが置かれるのではなく、それらが立ち上げうるところの「伝える」関係性こそが」上演において中心的に扱われていたと語っている。
 山本浩貴+h(2023)「伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演」
[注8]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.7。
[注9]ちなみに、終盤にはハーネスをつけた滝沢秀明やハリウッドで有名なジャスティンさんが来てくれる豪華なショーだ。
 同上、p.13。
[注10]「言葉が発生した瞬間のこと それがいつ というのはとても簡単なことでして 今です 今この瞬間 嘘です 何かを説明する時というのが言葉が必要なときです」(小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.3)。
[注11]これまでのいくつかの引用から気づけるかもしれないが、この戯曲では句読点が使われず、英語のようにスペースを用いた分かち書きがされている(それは英語のように一語単位でなされるわけではなく、また文節ごとに切られているわけでもなく、長さは一定でない)。スペースが使用されると個々の言葉の塊が、それぞれ紙面の上に等価なものとして配置されているように把握されうる。そうして、語-句-節-文-文章のヒエラルキーに基づく文章構成がゆるやかに解体される。この記載法は編集的なテキストの作り方に適したものであるように思えるし、句読点による分かち書きというアイデア自体、前から後ろへのリニアな筆記と読解のための工夫に感じられてくる。
[注12]どうやら2月15日に稽古場かどこかで収録された音声を基にしたテキストがあるようだということは、その日付や説明が含まれることから推測可能だ。
 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.3。
[注13]『かもめ』が出てくるところで語られているのはおそらくNTLiveのラインナップとして上映されていたものの感想であり、また草間彌生や(直接的に名前は出されないが)何でも「包む」作家として言及されるクリストとジャンヌ=クロードの「作家性」についての話は、僕が個人的に受けていた岸井大輔さんの創作の授業で語られるエピソードに酷似していた。こうした自分の私生活における知識や経験と語られる言葉の重なりによって、それがまた別の人間の私的な知識や経験と紐付いたものであると認識可能だ。
[注14]そして凡庸なのだけれど、どうやら第一部で語られる問題系に重なるような個人的エピソードが語られているように聞こえるのも、このテキストの特徴だ。山本さんもレビュー内で「この作品のなかで語られる内容も、形式も、ひとつひとつはぺらぺらなまま、それでいていずれもが喩的な意味合いを託されるようにうまく構成されてい」る、と凡庸だが相互に連関していないわけでもない絶妙な塩梅でなされるテキスト構成を端的に指摘している。
 山本浩貴+h、前掲記事。
[注15]小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.18。
 hさんも前掲のレビュー内で指摘している通り、会話の断片らしく聞こえる第二部の台詞は戯曲を読んでみると、意味不明な部分も多い。この箇所も何を言っているのかはよくわからない。同時発話の部分は、テキストの理解できる度合いが場所によって異なるが、こうして濃淡をつけることによって観客の聴覚的な把握を操作しているのかもしれない。
 ちなみに、同時発話ではなく会話のように話者交替が起き1人ずつ喋っている箇所でも、それぞれが別々の会話から採られた相互に関係ない内容を話していることが多い。
[注16]第一部でも第二部でも、終盤において名前がクローズアップされるのは、このような素材の記名性の観点からも重要であろう。「古賀」ではなく「ジャスティン」として名を置き換えられてしまう。もしくは、街コンで会った男に裕美(ひろみ)ではなく裕美(ゆみ)と呼ばれ続ける。もしくは、俳優活動のために「渚まな美」という芸名を新たに付与する。これらの小さなエピソードは自他にとって名前が恣意的なものでありえ、間違えられたり異なる名前を名乗ったりしても大きな問題がなくコミュニケーションが進んでいくことを示す。
 また、『本人たち』第一部には、おそらく意図的に一切人称代名詞が使われないシーンがあった。S(メタ出演の鈴鹿通義さんが想起される、上演では下手側に置かれたスピーカーから機械音声が出力されていた)が「ここに来る」までのあれこれについて話した後、K(出演の古賀友樹さんが想起される)が以下のセリフを言う。

 「男性です まず漢字を教えます ちょっと間違える可能性が高いのでここでは言わないでおきましょう 生誕しまして 今もその名を名乗って生きております 食べ物を食べる 最近食べたのはカレーじゃないですか カレーの大盛りを しかも激辛で食べました」(小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、前掲書、p.5)

 まだ続くがここらへんにしておこう。その前にあるSのセリフにも、実は一つも「私」や「僕」などの一人称代名詞は使われていないのだが、台詞を聞いているときにまごつくことはない。少なくともネイティブの日本語話者であれば、このセリフを聞けばそれが発話主体の行動を説明するものであることは理解できるはずだ。だが、Kのセリフのようにいくつかの記述を紐付ける対象が見つからないとき、私たちの頭は混乱する。誰が「男性」なのか、誰が誰に「漢字を教え」るのか、誰が何を「間違える可能性が高い」のか、何を「ここでは言わない」のか、「ここ」とはどこか。
 そしてこの「私たち」にはDeepLも含まれる。上演においては常に後方の壁面にDeepLを通して英語に翻訳された戯曲が表示されていた。英語と日本語の文法規則の違いにより、DeepLは日本語ではそれ抜きでも(文法的には)成立している人称代名詞を補わなければいけない。手元に字幕のデータはないため正確な引用はできないが、当該箇所においてはかなりでたらめにIだのheだのtheyだのがあてがわれていた記憶がある。機械によって名前の代わりに使われる代名詞も恣意的に与えるこの操作は、『本人たち』における名前の取り違えの挿話と類似した状況を実際の上演に持ち込むものだ。

長沼航 Naganuma Wataru WebTwitter
 俳優。1998年生まれ。
 横浜国立大学大学院都市イノベーション学府建築都市文化専攻Y-GSCポートフォリオコース修了。
 散策者とヌトミックの2つの劇団に所属しつつ、俳優の立場から演劇やダンスなど舞台芸術の創作・上演に幅広く関わっている。主に非物語的なパフォーマンス作品に出演することが多く、その演技においては自分自身の身体と他者の書いた言葉を並列的に扱うことを目指している。
 また、舞台上に立つ人間が自身の技術をどのように運用しているかを明らかにすることに関心を抱いており、俳優の技芸についての勉強会「俳優の兵法を学ぶ」や、パフォーマンスとトークを通じて即興について考える「即興と反復」を(とてもスローペースで)企画・開催しつつ、演劇/演技の創作過程についての論考やエッセイ、記事などの執筆を行っている。
 近ごろはひとがある仕方で生きていることを肯定するための諸々を制作することに関心を持ちながら、演劇活動と生活の結び目を探している。2023年はインタビューをたくさんしたい、小粒でもピリリと辛い文章が書きたい、お金がほしい。
 最近の演出作品に「タムロバ・シアター」(2023)、出演作品に、ヌトミック『SUPERHUMAN 2022』(2022)『ぼんやりブルース』(2021/22)があり、最近の文章に、「感覚の計量──小松海佑の漫談について」(『悲劇喜劇』2023年3月号)、「オンラインでしかあり得ない舞台芸術を目指して──Asian Performing Arts Campにおけるハイブリッド性と越時性」(東京芸術祭Webサイト)がある。

本人たち

レビュー
本人たち|山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
本人たち|東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
本人たち|鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
本人たち|稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
本人たち|神田茉莉乃:見ること、見られること
本人たち|高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
本人たち|長沼航:1でも2でも群れでいて
本人たち|中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

Back to Messages