本人たち|高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
〈ちょっと離れたところに住んでる人の周りにはすごい美味しい草があるみたいな シェアするために言葉が生まれたみたいなことなのかなと思って〉
〈それから最初は遊びだと思い こういう感じなんですか 難しいな でもこれはこうですっていうことだとは思う そういう感じでいきますか〉
まずもって言葉が発せられていく。まずあるのはその感想。第一部では古賀友樹のからだを通して、第二部では渚まな美と西井裕美のからだを通して、あるいは舞台下手に置かれたモニターを通して鈴鹿通儀と近藤千紘の人工音声が流れて、言葉が発せられる。目線を上げれば、正面の壁にはDeepLで翻訳された英語字幕が投影されている。言葉ばかりだ。そうした無数の言葉が敷き詰められた『本人たち』にはいくつもの分岐がある。それはひとつの作品でありながら、しかしその上演ごとに複数に、巧妙に、観劇体験が枝分かれするように構成されている。この文章を綴る〈本人〉は演劇についてのまとまった文章を書いて公開するのも初であるし、ここに展開するのが批評と呼ばれるに耐えるものなのかも不明だが、そのことについてできるだけ言葉を尽くしていきたいと思う。
当たり前のことだが、通常「演劇」の「舞台」はその場その時の今この瞬間何かが行われていくわけだから、全く同じものが寸分の狂いもなく再演されるということは、その表現の性質上あり得ない。ではここでいう観劇体験が枝分かれするとはどういうことか。それを観客の側に返して、例えば入場して前の方の席に座るか、後ろの方の席に座るかといった単純な問題を言いたいのではない。言いたいのではないが、そんな単純でくだらない問題をも『本人たち』は問題化してしまう。入場して席に座ろうとすると、入場のタイミングによっては既に、開演前の舞台上で古賀友樹が喋っている。〈どうぞお好きな席に 前の席の方がよりスリリングな体験が 後ろの席の方はゆったりと でもお尻は痛いかも 全席〉そのように言葉が敷かれた空間で座席を選択する行為はそれぞれの観客に、その言葉の規定を受容したことを、その選択を選択したことを意識させる。そしてもしも前の席に座るならば後ろの席のゆったりさを思うのかもしれない。
こうした言葉による操作は、もっとわかりやすい形で繰り返される。例えば、古賀友樹はじゃんけんの勝敗で自らのマスクの着脱を決めると言い、実際に任意の観客とじゃんけんをする。勝敗は決まり、マスクの着脱が決まり、マスクを外した古賀/マスクを外せなかった古賀に分岐することが、どちらかの結果になったことが、どちらをも選ぶことは叶わなかったことが、観客に意識されあるいは他方を想像させる。ここに「念力暗転」を例示してもいい。丁寧に説明されたルールに則って観客が目を瞑る/瞑らないはそれぞれの観客に左右されるが、促された以上どちらかの結果には確実に至ってしまうわけだ。第一部『共有するビヘイビア』はその戯曲内容を説明するように言葉を使用し、物語的に単一に結ばれることのないいくつもの断片を、時にそれは露骨な嘘話も交えながら、観客に向けて猛列な勢いで投げかけて、その言葉の意味内容を観客に強く意識させ、想像させていた。想像のために言葉が用意されている。そしてこの規則は『本人たち』全体に敷衍する。そうした時、第二部『また会いましょう』はその実践の意味を強くする。
渚まな美と西井裕美は、時に、同時に発話し、言葉はリズミカルにもつれあい心地よく耳に響くが、観客にはその全ての意味内容を聞き取ることは不可能である。戯曲を見ると「分岐α」「分岐β」「分岐γ」「分岐δ」と全部で4つのセクションにおいてその同時発話が行われる。戯曲には「合流」のセクションも記載されており、そこで二人は通常の対話のように言葉を互いに交わすが、内容が一致し話が噛み合う瞬間はほとんどない。つまり戯曲上の「分岐」が指し示すのは、彼女たち自身が分岐しているために別の世界線で別の話をしてしまっている、というような意味のことではない。そういった意味では彼女たちは既に分岐している。そこで分岐するのはむしろ観客の体験である。観客は同時発音の中で自らが聞き取れた単語を、話の筋を、部分的に聞き取り想像を働かせる。ここで重要なのは単一な一筋の物語がないことの方ではなく、複数の聞き取れた/聞き取れなかった物語がそこに生起し続け均一に並置されることである。そうして暗示されていたのはその可変的な舞台空間、観客の選択によって、どの言葉に注意を向けるかという他ならぬその観客自身の選択によって、言葉自体の意味内容が同一の進行のもと過剰なまでに枝分かれしていくということではなかっただろうか。「演劇」は「ここにないものをあることにする」ある種のゲーム的な側面を持つが、ここに分岐が生まれ、単一の舞台が無数に存在することになる。
ステートメントによれば〈二人は同一人物として扱われる〉らしい。ならば、二人の口から語られる個人史のようなものはある一人の女性を示すことになるが、上演の進行と共に言葉によって仮想される姿形は造形されると同時に部分的な欠落を生じさせてしまう。しかしながらそのまま個人史のようなものは重ねられ、言葉による共有の部分的な失敗はその層を厚くして上演は引き伸ばされる。とある人物のことが語られていながらその人物のことをうまく想像できないような事態に陥る。ステートメントに書かれる〈未然の上演〉とはこの状態のことを指すのではないか。女性の結婚の話や、街コンの話が、ある特定の個人の話という意味合いを超えて、そうした未来を志向する女性一般の言葉へとすり変わる。個人的な話でありながらどこまでも実体のない個人の話が同時に響くその場で、連続性のない想像はその言葉の社会的な要素を拠り所とし始めて、また新たな像を思い描く。
こうして『本人たち』は、いくつもの分岐、いくつもの言葉を残して静かに終わった。終演のアナウンスは行われず、舞台上には向かいあって目を瞑るN1とN2が残されている。〈本人〉は見事に攪拌され、複数化し、それぞれの言葉を抱えて去っていく。そうしてその1つの、いや、いくつかの記憶を使ってその1つの側面を書いてみた、と言おうか。
高橋慧丞 Keisuke Takahashi Twitter |
映画美学校言語表現コース ことばの学校 第一期生。スペースノットブランク「クリエーションを前提としたクリエーションを実践しないチーム」のメンバーであることとは全く関係なく勝手に今回のオープンコールに書類を送りつけ執筆の機会をいただきました。 |
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