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本人たち|鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること

 スペースノットブランク(以下、スペノ)の作品が持つユニークなリアリズムについて、いつか長めに書きたいな、とぼんやり考えていた。僕は「批評」と名のついた文章を書いたことがないし、また今後もそのつもりはない。別に毛嫌いしている訳ではなく、「批評しない人」という立場を目下のところ貫いておきたいというのが率直な理由だ。そんな小説家が他人の芸術作品について意見を書くとなれば、必然的に「感想文」になり、発表するとなれば、専ら文芸誌のエッセイ欄となる訳である。エッセイの依頼があれば(そしてテーマの設定が自由であれば)、最近鑑賞した映画などの感想を書くことが多い。
 僕は何かを批評したい訳ではない。貶したい訳でも、褒めたい訳でもない。対象を自由に理解し、大いに誤解し、真意みたいなものをことごとく裏切り、それを味わう、という行為としての「執筆」がしたい。スペノについてもなんとなく、そうしたいなと思っていた。彼らの作品の概要を、観たことのない人に向かって的確に説明することが、仮に可能だとして、しかしそれがしたい訳ではない。僕が書きたいのは、レビューでも解説でも批評でもない。おそらくエッセイなのだろうけれど、「対象を自由に理解し、大いに誤解し、真意みたいなものをことごとく裏切りつつ、それを味わう」という作業内容に着目してみれば、むしろ小説が一番近い気がする。
 ただし本記事は、『本人たち』(なんていう最高なタイトルだ)と言う彼らの作品のレビューなので、そのように執筆される。

 乱暴にぶっちゃけてしまおう。失礼を承知であえて言うと、スペノを鑑賞して何に興奮するか、何に興味が湧くかと言えば、スペノの表現そのものもそうだが、しかしそれよりもむしろ、それを体験してしまった自分自身に対してなのだ。今後の自分には、どのような表現の可能性が広がっているのだろう、と言う自惚れた好奇心を抱く。作品の鑑賞により僕がこの感覚を抱く作家は、スペノ以外に実はいないのだ。それがいつの頃からかよく覚えていない。初めに彼らの舞台を観た時は、ノり方を掴むのに確かに苦労した。が、スペノ自身の意図みたいなものをこちらから探ろうとするのを断念してから、ある時スペノはとことん「ダンス」なんだと理解し、スッと腑に落ちた。楽しみ方がわかった。この楽しみ方で楽しむ上で、他の人の感想や考察は特に必要ない。スペノが自己言及したアナウンスでさえ、一観客たる僕の解釈と、その価値は相違なくなる。
 今回の観劇でもそのように感じた。スペノは言葉を「振動するもの」として扱っている。言葉だけではなく、舞台を構成するあらゆるものが「振動するもの」として扱われている。

 周知の通り、宇宙は振動するひもで出来上がっている可能性が高い。とても小さな振動する無数のひもが、それぞれその振動の周期などのバリエーションによって、様々な種類の素粒子に姿を変え、存在していると考えられている。我々と身の回りのものを構成する物質、電子も光子もクオークも、ほどいてしまえば全く同一のひもでしかない。
 舞台上に上げる言葉にしろ、身体にしろ、光にしろ、スペノは一旦それぞれの属性を「振動するもの」にまで解体して、彼らなりに配置し直す。彼らの作品の解釈の困難さは、ここに起因すると思われる。言葉にしろ、身体にしろ、光にしろ、舞台上(あるいは舞台外)ではまず、ただそこで、振動しているだけなのだ。振動、即ちスペノはとことん「ダンス」なのだと悟った所以だ。
 例えば登場人物(たち)のセリフ(があった場合)、彼らはしばしば饒舌で、しかし誰に向かって発話しているのかなかなかわからない。今回の『本人たち』も、第一部、第二部と併せて三人の人物にセリフが当てがわれていた。いや、本当にセリフは「当てがわれていた」のだろうか? まるで複数の人物のセリフをかき混ぜたようだ。本作の戯曲の表紙に記されている文言によると、彼らは「リアリズムを攪拌」することを「探究」してきたと言う。
 僕は小説家なので、小説のことを考える。小説は言葉を使って構築する芸術だ。従ってどうしたって言葉にいちいち付随する「意味」という派手な装飾が、作品に多量に散りばめられてしまう。小説に組み込まれた言葉はどれをピックアップしてみても、必ず作品の中で有機的に、もしくは御しがたく機能している。どんな形であれ、いつも図々しく意味を発生する。すると小説は、意味がうじゃうじゃ詰め込まれているから、解釈のクイズ大会の様相を呈し、存在そのものが慌ただしい。
 舞台もまた言葉を駆使する。そしてスペノはどうやら、言葉をナレーションではない、なんらかの舞台装置として利用しているらしいことが僕にはわかってきた。ある特定のポイントに、特定の言葉をはめ込むのだが、一旦意味を置き去りにし、登場人物や光や時間と同じレイヤー上で拾い上げている。
 ただしここで言葉は、意味を完全に失うわけではない。置き去りにされるのは言葉が持参している古い方の意味だ。実際のところ、スペノ達の勝手気ままに付与した意味が振り回される。スペノの作品を解釈する目的で、作品内から言葉を掬い取っても、結果失敗しがちなのは、掬い上げた代物自体が持つ(僕らが知っている)意味が、作品全体の中で振る舞っている機能を象徴してくれないからだ。
 それでもなんとなく全体を観られてしまうところが、スペノのセンスのすごいところでもある。もちろんそれはそうなのだけれど、舞台という形式の長所による「ズル」な部分もあるのではないだろうか。何しろ彼らは、音声を扱える。一次元情報の小説では太刀打ち出来ない「幅」があるのは間違いない。

 そうか。僕は自作を書く上で、言葉を「振動するもの」レベルまで解体したことがこれまで無かった。そこまでして小説を書きたいくらいの小説に対する興味が今の僕には無いだけなのかもしれないけれど、そのうち着手するのだろう。
 振動を楽しめ! その波長、周波数、エネルギーを味わえ!
 現実世界と呼ばれる僕らの生きる空間において、言葉はまず機能する以前に振動しているということだ。普段、目や耳に入ってくる情報のうち、ほとんどのものが個人には関係が無い。言葉こそまさにそうで、テキストが大量に生産され、聞く人、読む人のいない場所に垂れ流されている。大切なのはそこではなく、それらがまずはとにかく振動しているという事実だ。

 振動を楽しめ! その波長、周波数、エネルギーを味わえ!
 スペノの舞台はまるでそう主張しているかのようだ。なんでこんな根本的なことを僕は忘れていたのだろう、と彼らの舞台を観るたびに毎回思う。毎回思っているということは根本的に響いていないということなのかもしれないが。僕もいつか、言葉の持つ響き(振動)に勝手に意味をつけて、誰にも分からない話(振動)をいつか書いてみたい。それこそまさに、言葉をダンス(振動)させたい。

 ところで「念力暗転」だけがしかし、なぜか本作で文字通りの意味を主張していて怪しい。本作で登場する「謎の」単語だ。スペノはいつも、セリフのある作品においては、作品の軸となりうる印象深い(造語的な)単語を忍ばせる傾向がある気がする。
 舞台とは世界を装うものだと、門外漢の僕は考えている。舞台上を世界と見立て、演者を人間と見立て、時間を時間と見立てる。そのために、作り手はそれぞれの位置にそれっぽいものを配置する。宇宙の全てが振動するものだとしたら、舞台の作り手に可能な行為の究極は、舞台上の構成物の解体と再構築(即ちひも固有の振動パターンの自由自在な改変)となる。
 小説ももしかしたら、この手法で作れたりしないだろうか。可変振動小説。

鴻池留衣 Rui Kounoike Twitter
小説家。1987年生まれ。著書に『ナイス・エイジ』(新潮社)、『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』(新潮社)がある。

本人たち

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