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本人たち|中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

11月19日
世界は 私たちがここで言うことをほとんど気に留めず 長く記憶することもないでしょう しかし 彼らがここで行ったことは決して忘れることはできません ここで戦った彼らがこれまで立派に進めてきた未完の仕事に ここで捧げるのは むしろ生きている私たちなのです むしろ ここにいる私たちが 私たちの前に残された大きな仕事に専念するために この名誉ある死者たちから 彼らがその全力を尽くした大義への献身を高めることです 最後の全力投球を 私たちは この砲弾の死者が無駄死にすることのないよう 強く決意することを聞くことです 神の下にあるこの国が自由の新生を遂げ 人民の人民による人民のための政治が地上から滅びることがないように

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4月13日
いっぽう、わたしが求められているのは「本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー」です。本人たちを見た、本人たちによる、本人たちのレビュー。「見(られ)た」対象(らしきもの)の名は二重鉤カッコで括られていなくて──スペースノットブランクは公式ウェブサイト上の公演名の表記を二重鉤カッコで統一しています──、「レビュー」(=「による」もの)の制作主体(らしきもの)が「本人たち」と呼ばれています。これらのことによって、「レビュー」を修飾する──つまり、このテキストの内実を規定する──「本人たちの」という文節は謎めいてきます。あわてんぼうなスペースノットブランクの担当者さんが、カッコをつけわすれてしまったのでしょうか。いやいや、募集されていたのは、やはり「『本人たち』を見た「本人たち」による『本人たち』のレビュー」ではない何かなのです(とはいえ仮にそうだったとしても真ん中の「「本人たち」」は不可解ですが)。第一部に出演した古賀友樹さんも次のように喋っていました。

〈本人たち本人たち本人たち 本人たち「私」も本人たち 前に本人たち 今のこの体形とは違う本人たちもあり 本人たちは無数に存在してる でも それ以外の説明のしようがなくて だから思ってることしか言えない 本人たち決してそのイコール本人ではない 本人って言ってるけど 本人ですかって言われたら本人じゃないです本人たちです みたいな 怖い 怖い だから 概念です 本人たち 誰かのプライバシー それは決して本人じゃない〉

さて困りました。『本人たち』のレビューをそのまま書いてしまったら、いけないのかもしれません。せっかく無料で二回も上演を見せてもらい、販売されている戯曲の冊子までもらい受け、記録映像まで送ってもらったのに、要件を満たしていないじゃないかと違約金をせまられてしまうかもしれません。辛いです。しかもそのことに気がついてしまったのは、さらに一週間後のことでした。

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6月25日
お昼到着です

ありがとうございます でしょ 魚いる持ってくるだけの人 新私agさん ねえ なんなんだよもう一気に持ってこい なあ 細かく何度も持ってくんのお昼は なんでなんだよもうたらふく食ったよ いいってサイレントヒルはう 引いて連投あもう を切るも良い夜になるぞ e翌春ランチは これ 最悪、1/100でもヒール選んジャズが 百合って隅っこから 全部に消化純子さんがいなかったのを 言いてランチはもう

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4月18日
スペースノットブランクで「保存記録」を務める植村朔也さんのイントロダクションに即して考えてみましょう。

「ステートメントと照らし合わせても毎度不可解なスペースノットブランクの上演[…]は、しかし特定の名によって束ねられて他から区別されるに足る相応の共通因子を時に有しているはずであって、そしてわたしの見立てでは、それがそれらの上演に固有の問題構制を示している。[…]制作の主体概念を問いに付してきたスペースノットブランクの舞台について、単におのおのの観客のうちに生じた効果を記述するのにとどまることなく、なんらかの共有可能な言説を打ち立てようとするのであれば、まずはここから始めるほかないからだ。問いは名とともに繰り返される。」

もちろん、制作メンバーにクレジットされている方の言葉を留保なく例証にりようすることは、権利上難しく思います。とはいえ、「上演に固有の問題構制」が、複数のレビュアーを招いた「オープンコール」企画に対する命名行為においてもその顔をのぞかせていることだけは間違いありません。

然るべき名が貼りつけられることで、〈無数〉なものの語りえなさはなんとか手なずけられます。鑑賞者の多様な位置づけからしてみれば到底数えきれない「ぺら」「ぺら」な諸要素は、ひとたびそれらを補綴する名を与えられると、多くのことが思われ・語られうるオブジェクトへと実体化していきます。それは(リテラルかつフェノメナルに)余白だらけでもいっこうに問題ありません。ホチキスを使わない「無線綴じ」で簡素に製本された戯曲のように。

内野儀さんは2022年にスペースノットブランクが上演した『再生数』を、一見したところ「わけがわからない」としながらも、次のように評しました。同作は中継映像に媒介された「親密さ」も手伝って、観客各人に、「通俗的な」生活履歴との呼応とは位相を異にする「真正なものとしか呼べない情動・感覚・思考」(傍点省略)をもたらす、と。してみると、一連の経験は「再生数」という名のもとで=その代理として(in the name of)はじめて可能になったものだとはいえないでしょうか。このとき、目の当たりにされた上演の瞬間瞬間でいかなる相互関係が成立・破断していたか、ということをめぐっての細微な価値判断は、宙吊りにされます(急ぎ足ながら、スペースノットブランクとも協働することの多い松原俊太郎さんの言葉を引いて、事態を概観するたすけとしましょう──「戯曲の登場人物には登場人物を見ている観客が含まれる。[…]観客は沈黙し、何ら反応を返さなくても、現にただそこにいて、見て、聞いている。観客は対話に含まれている。これを無視するわけにはいかない。登場人物同様、対話に身を曝している観客の身体は一瞬一瞬で変化している」(「聞こえる声のための対話のエチュード」))。経験の支持体となるある状況に指をさし名をつけることができたら、わたしたちの共通の足場(プラットフォーム)はひとまず確保される。このことが重要なのです。

(たとえば、ポーカーテーブルの上での「コール」を、局面が不確定な状態で──嬉々としてか、嫌々なのかはわからないまま──勝負に乗り続けるための手続きであるといい換えてみましょう。そうであれば、オープンコールによって開かれたままのわたしたちのプレイ(上演=戯曲)にも、まだ決着はついていないはずです。)

さて、『再生数』の「再生数」に対する関係がそうであるように、『本人たち』は「本人たち」へと無限に近づいていくことが、ぼんやり見えてきました。

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4月14日4月21日
どうやって 捨てよう どうやって 届けよう ジャガイモは 秋じゃない かもしれない

どうだろう 春 夏 秋 冬 今

かもしれない

季節は 共通認識している

かもしれない

春だなあ

冬 寒い

今 窓を閉めました

ひとり かもしれない

どうだろう

送らないで おきましょう もう 満足 尊敬してなかった まったく尊敬してなかったけど すごい尊敬した 大人に対して 守られている時に 上の 守られていない 経験している それを考えると すごいなあ 思います 花火みたい

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4月22日/7月25日/12月1日
「私の散らばりと折りたたみを練習しながら、その散らばりと折りたたみの性質自体を考える、そういう公園そのものを作る公園での遊びこそが、楽しい遊び。そういう遊びを、無理にでも肉体に強いていく必要がある。」(鈴木一平+なまけ+山本浩貴+h「座談会1 2015/05/17→2015/05/31」)

八年前に山本浩貴の発した言葉が、第一部「共有するビヘイビア」での古賀友樹のパフォーマンスと共振している。客入れ中の場内の雰囲気を否応なく張り詰めさせる前説や、劇場空間をめぐってなされる虚実入り乱れたエクフラシスといった、遊び心のあるふるまいについてだけいっているのではない。遊び場をつくる遊び──すなわち、稽古場を含む非-劇場で遂行された制作プロセスが発話内容や身振りの上でも構造の上でも反復されながらの上演は、〈もっとでたらめになっていく〉。〈でたらめになっていって 混沌の中に生まれてそれが上演だから〉。

幾度かの名義変更を被り、その都度〈マイナーチェンジ〉が施されてきたという『共有するビヘイビア(或いはクローズド・サークル)』について、同名のウェブページに掲載されているインフォメーション(作品概要)にはこうある。

「『共有するビヘイビア』は、私たちの恒常的な舞台のつくり方を観客と共有し、生み出される舞台を世界へと共有する。行為としてのクリエーションを分解し、パフォーマンスが組み立てられる過程を展開することで、観客が私たちの舞台を追体験しながらそこに実在する上演の時空間の部分を想像力によって担い続けることとなる。」

「舞台のつくり方を観客と共有し、生み出される舞台を世界へと共有する」営みの〈根底に共通するのは何かを伝えるということ しかもそれは矢印としては伝えるというベクトルが向いているということが全てで共通している〉。〈上演っていう言葉を使って説明を行っています 中身は別になんだっていいんです〉。制作/伝達過程へと再帰する制作/伝達行為として自己表明する舞台は、そのうえ十分に笑えるものであるからには、ほかでもなく「公園そのものを作る公園での」「楽しい遊び」である。それは、さんざん指摘されているとおり、大小ないまぜのコンポーネントが幾重にも「散らばり」「折りたた」まれたすえに出来している。(タイポだらけの奔放なテキストをことごとく読みこなしていく古賀の演技体(おもに発話)は、強度の「強い」られ感をまといつつ、〈言葉の集大成〉としての〈言葉〉たる説得力を発揮してもいる。)

また、精妙なステージングを志向するとき、予測と制御を逸脱しうる観客の鑑賞態度の放埒さは忌むべきものと考えられてしまいそうだが、そういうわけでもない。第二部「また会いましょう」で、渚まな美と西井裕美は出会いの被膜を行ったり来たりしながら調整の限りを尽くされた掛け合いに興じる。ダイアローグは同期したと思ったらすぐさま非同期に転じてしまう。リプレイされる当たり障りのない会話(に聞こえるもの)は、アクターとキャラクターとナレーターの分節化をまったく自明でなくする。そこには婚活や家庭をめぐる誰かの実際的な生の息遣いが感じられ、地名や人名、実在しそうな対象のイメージがちりばめられていることもあいまって、あいまいな景色の共同想起がなされる。このとき動員される観客の「想像力」は、まぎれもなくわたしたち自身のものである、のだが……、

「たえず自己にまつわる記憶を喚起し、それを想像力に結びつけて、存在の感覚を確認すること──これこそが、[チェーザレ・]パヴェーゼのような日記作家の、自分の日記を再読し新たな記述を追加するさいの、一見したところ苦渋にみちてはいるが、それでも他の何ものにも換えがたい楽しみであったにちがいない。」(富永茂樹「自己保存装置としての日記」)

社会学者は、書き手によって繰り返し読まれ、いつでも加筆修正されうる、自己目的化した日記が、実利や自己規律のために用立てられることなく「保存という行為の本質を何にもまして純粋に守」るさまに、逆説的な「自由ないし解放」の契機を見た。たしかに、第二部では、十一の場それぞれの見出しに日付が掲げられていて、カンパニーのウェブサイト上で公開されている日付つきの第三期「本人たち」のテキストと合致する発話もあった。そういえば、昨日参加した日記をめぐるトークイベントでは、日記を日記たらしめるのは何かと聴衆の一人に問われた小説家の滝口悠生が「最初に日付が書いてあること」だと答えていたが、そうであるなら「また会いましょう」もまた日記である、と強弁できなくもない。しかし、わたしたちが直面したものと日記とはやはり多少の異同がある。つまり、「喚起」される「記憶」はいささかも「わたし」のものではない。それどころか、「喚起」される「記憶」はそこにいるアクターのものである保証も、彼女らの傍らで演出に従事していたほかのだれかのものである保証もない(もちろん日記は実在する人物による偽らざる生の記述である必要などみじんもないが、少なくとも、読解を通じて(日記の書き手としての地位を引き受けうる)統合された執筆主体が仮設されるテキストでなければならないだろう)。帰属先をもたない光景が空間に満ち満ちていくばかりなのだ。

ところで、起源なき言葉たちの周りをうろつく「本人たち」の『本人たち』は、いわゆる「アーカイヴ」と呼ばれるものに似た仕方で作動しているようなところがある。そこで、アーカイヴの再構築やデータベーススキーマの再設計などに携わるアーカイヴの理論家・上崎千のレクチャーを手がかりにしてみよう。適宜パラフレーズしつつ、議論の一部を紹介したい。

上崎は、ブルース・ナウマンのヴィデオ作品《Wall/Floor Positions》(1968年)が雑誌『Avalanche』(1971年冬号)上に掲載された際のエディトリアル・デザインに着目する。パフォーマーによる一連の動作をうつした複数枚の静止写真が(ブラウン管のフレーム付きで)紙面にレイアウトされるとき、そこには「表現」の「プレゼンテーション」(提示、現前化)とは異なる「ドキュメンテーション」(記録、文書化)という時間的契機が現れる。しかし同時に、印刷物の上で「分解された(ばらされた laid out)」「記録」写真は、映像内に継起するパフォーマンスとは異なる時間枠にしたがって「再構築」される。ならば、これはすでに一個の「表現」と化しているといえまいか。逆に、おおもとのヴィデオ「作品」も、生(ライヴ)のパフォーマンスを撮り収めた「記録」としての性格を帯びている。かくして、事態は限りなく輻輳していき、もはや「表現」と「記録」のいずれかを本質化することはできない。あいだの「/」はつねに引かれ直すのだ。そして、確たる始源の欠缺から生じるこのような運動性にこそ「アーカイヴに特有のフィクション性」がほの見える。「私たちは、「アーカイヴ」の持つフィクショナルな質に積極的に関与し、そこにどのようなリアリティを構築していくのかという課題を担っている」。

日付の振られたテキスト群、観客から見える/見えない映像(+字幕)、自在に変形を遂げる舞台空間たちが織りなす『本人たち』は、「宇宙のようなスペース」とでも形容したくなる、質(としての)量を備えたエンティティと化している。それは果たして、「本人たち」という名辞のみによって束ねられた、いまにも四散しかねない集合体である。『本人たち』は、(カッコなしの)本人たちになり代わる欲望をつねに秘めているともいえるだろう。上演はアーカイヴのように身をかわして、わたしたちの手をすり抜け続ける。なればこそ、上演に上演として触れ、それをしかと批評するためには、その運動性と構築性を丸ごと反復する「保存」「記録」行為を措いてほかにない。

「おもちゃをもっとも有効に修正することは、教育者であれ、製造業者であれ、物書きであれ、大人の手におえるものではない。子どもがあそびながら自分で修正するのだ。おもちゃは、どこかに置き忘れられ、こわされ、そして修繕される。」(ヴァルター・ベンヤミン「昔のおもちゃ:メルキッシュ博物館のおもちゃ展覧会」)

第一部冒頭で宣言されたように、わたしたちはみな〈上演に送り出〉される〈子[ども]〉である。子どもたちはそれぞれの現在地においてきっとまた会うだろう。プレイは共有されるたびに、新たなるプレイとして再生するのだ。

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3月17日
これ 文章で読んで面白いかわからないけど、本当に

あの過去最高のジョークのやつ ちょっと面白くないですかね

うん いいですよね

飯豊山わかった 音声できいてなんか すごい変な音が出るってなんなんだと思って

なんか音で聞くと面白いかもしれないですよ

いやあ まあでも、そう だからこう、なんつうのかな どう使われる加工わからないという見込みの上で 話ずっとしてる方が 素直で良いかなみたいな やっぱなんつうの、こう なんかまあ 僕っぽい文章をちゃんと意識していくかって思ったら こうなった

うんうん

やあ なんかこう、わざとらしいところもあるから とりあえず使いづらいと思うけど

たしかに こうじの部分ではこう 時のレトリックみたいのが 結構普段書いてる文章よりは素直に出てる気がしてて するっていう言い方も なんか誠実な気がしますけど

本当に何も感覚 何も考えずともかく 適当に書いたらこんな感じだよね、うん

僕もこれ ちょっと実は 全く何をどうするか決め決めずに書いてもらったから なかなかちょっと面白かったんですけど そういう面白さぼくがあったからなんか 満足したんですけど やっぱこう書かれたtextなんで それをそのまま上演するっていうことはちょっとしないというのはまずあって むしろその書かれたことは事実としてあるっていうことに 僕は演出上の意味があると思うので ある種のこの文章を一つのモニュメントにしつつ それを取り巻く出来事をその舞台に乗せるっていうぐらいの感じかな と思っております なので、今いろいろしゃべってもらって 私、今ちょっと 会話のレベルがちょっとなんかメタなるからあれだから言いにくいんですけど 今しゃべってもらったことは 結構ある種のモーメントの干渉経験っていうことのアーカイブになるかなって思っているので で、それを舞台にしようかなっていう 今の あの、これまでずっと あの、今 ディクテーションで撮ってたんですけど 会話を そのまま使うかどうか別として これ 今 あらためていろいろ喋ってもらった中で ズームをね 限られた価格だからなかなか難しいんですけど いってみれば その癖とか身振りとかを ちょっと幾つか出してサンプリングして それを来週の本番の時にはじめいくつか示して どれが面白いかなっていうところから始めようかなっていう なんとなく思って なんか 今の時点で堂々作っていくっていう方向で お二人の方から なんかあります フィードバックっていうか アドバイスっていうか 助けて欲しいんですけど 当日にはどうにかなるんだろうなあっていうすごい謎の気持ちがあります 最悪過激だから あの しゃべってもらえれば何とかなるので なんか面白いポイント 僕らが合意できて 困ったらもうその面白ポイントに向かっていくように あの場を作っていくっていう方向で なんか縁起したら もしかしたら あの別に何も台本とかなくても大丈夫かもしれないけど

ねえ怖いですね

いうかなんか そこそこでもデータもとれた データとか言ったらあれですけど 蓄積もできたので 僕しゃべりすぎましたけどどう考えても、まああの

終わる

そうですね まあ、うん

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ソース(参照順)
Abraham Lincoln, “The Gettysburg Address: Bliss Copy”, Abraham Lincoln Online, 2020 (Originally addressed on: Nov 19, 1863).
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』(戯曲)、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク、2023年。
タイマン森本【トンツカタン森本】「【タイマン】サツマカワRPG×トンツカタン森本」(動画)、YouTube、2022年6月25日投稿。
植村朔也「イントロダクション」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年3月21日掲載。
山本浩貴+h(いぬのせなか座)「伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年3月21日掲載。
東京はるかに(植村朔也)「舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評」『批評 東京はるかに』(note)、2023年4月3日掲載。
内野儀「メタモダニズムと呼んでみる──『再生数』をめぐって」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2023年1月31日掲載。
松原俊太郎「聞こえる声のための対話のエチュード」『現代詩手帖』61巻11号(2018年11月号)、思潮社、2018年10月29日、57-61頁。
「4月14日」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2021年4月14日掲載。
「4月21日」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2021年4月21日掲載。
山本浩貴+h+鈴木一平+なまけ「座談会1」『いぬのせなか座』1号、いぬのせなか座、2015年11月23日、8-37頁。
「共有するビヘイビア(或いはクローズド・サークル)」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、掲載日不明。
富永茂樹「自己保存装置としての日記」『都市の憂鬱:感情の社会学のために』新曜社、1996年3月5日、173-177頁(初出:『GRAPHICATION』212号、富士ゼロックス株式会社、1986年2月)。
植本一子+金川晋吾+滝口悠生「日記を書く/誰かを書く」(『三人の日記 集合、解散!』刊行記念イベント)、SCOOL、2023年4月21日開催。
上崎千「アーカイヴ的思考(archival mind)について」『地域・社会に関わるアートアーカイブ・プロジェクト:ピープラスアーカイブ 一年の活動記録』特定非営利活動法人アート&ソサイエティ研究センター、2011年3月、20-29頁。
小野彩加 中澤陽「メッセージ」「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」ウェブサイト、2022年1月15日掲載。
ヴァルター・ベンヤミン(丘澤静也訳)「昔のおもちゃ:メルキッシュ博物館のおもちゃ展覧会」『教育としての遊び』晶文社、1981年9月25日、38-48頁(初出:1928年)。
など

中本憲利 Kent Nakamoto
インディペンデント・キュレーター。企画、批評ほか。複数の団体でPRに従事。

本人たち

レビュー
本人たち|山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
本人たち|東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
本人たち|鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
本人たち|稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
本人たち|神田茉莉乃:見ること、見られること
本人たち|高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
本人たち|長沼航:1でも2でも群れでいて
本人たち|中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

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