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本人たち|稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

コロナ禍の芸術表現において、観客、鑑賞者と作品の関係性を築くバランスが著しく変化したと私は感じている。
特に演劇表現について、観客と俳優との共犯関係、その結び方は複雑性を帯びた。
俳優自身が受け取る観客の情報はマスクによって覆われている。というかある意味これから、自分たちの目の前でつばきを飛ばして俳優が発語するという緊張感で、開演前の客席は心なしか遠く、ひんやりとした雰囲気に変わった。小劇場であればあるほど、その物理的距離がセンシティヴな問題になる。
その点で今回上演された「本人たち」という作品は、その関係性の不自由さ、危うさを逆手にとってplayする実験のような手つきが私にとってとても刺激的な時間であった。
そしてその実験のタイトルが「本人たち」であることにも、なんというか同じ演劇を創作している人間として、とてもスリリングなタイトルだと膝を打った。

正直「批評」を書いたことがないので、演劇創作をしている人間として、自分の悩める問題や課題と照らし合わせて作品を探るような様子になって恐縮だが、それが私にとって一番素直に言葉を連ねることができそうだと思ったので、書いてみている。
私ごとだが、この頃舞台上で発語する言葉について、「伝える」言葉について、答えの出ない問いが蠢いている。これは世に言う「リアリズム」とはなんぞやという話にもなってくる。
この点において今回の作品は言葉を「意味」として伝えることをある意味放棄させる、「言葉」そのものの表現は意味がなく、言葉を発している人物の状態とその空間を観客が観察するという時間が多く流れた。これが非常に現実的で、観客と共犯関係を結ぶような匂いを帯びている。ある種のインスタレーション的手つきである。
この空気感は私にとってとても羨ましく、魅力的な時間であった。

私は普段ストーリーテリングが比較的はっきりとした戯曲を扱う演出者で、言葉を自ら紡がない。
なのである種戯曲の奴隷であり、「言葉」の扱いについては作家の意図を汲むべく、四方八方から観察して撫で回し、そこで何が起こっているのか明確にお客さまに提示するという方法をとっている。
しかしながら、それが果たして面白いのか、と言われると、特に観客論という観点で考えるととても脆弱な方法かもしれない、と思うことが最近ままある。
スペースノットブランクの作品を観るのは大変恥ずかしい話なのだが、初めてだった。もちろんお名前や周りの評も聞いていて、とても興味があった。何より、テキスト、空間、俳優、各媒体、そして観客の関係性を研究者のごとく追求している印象があった。
まず私は数年間その関係性について疑ったり、分析することをしてこなかった時期がある。往々にして、「言葉」は俳優が表現する音であり、その意味を明瞭に伝える、色合いを伝えることに尽力すべきだと思う時期があったのである。
この点において、自分たちが所属している「新劇劇団」をなかばディスることになるが(ただ我が集団の方法論が一概に悪いとは思わないし、良い面ももちろん大いにある)まず「言葉」を疑うということをあまりしてこなかった。そして何が起こっているかということを「表現」することがある「リアリズム」であると考えるところがあった。
これはとても分かりやすいし、なんというかとても明瞭だ。安心するというか、安全。
ただ数年前から私は、これじゃあ絶対に立ち行かないのではないかという確信を得るようになる。
そこで今回の「本人たち」である。テキストを見ると、この言葉たちの羅列は前後の意味を成しているようでいて成していない。成していないようでいて成している。言葉たち自体がお互いの言葉を疑っているというか、信じていないというか、拮抗している。
そして上演を見ると、発語している俳優はその言葉を割り当てられていることにどうやら自覚的である。言葉と俳優との間に距離がある。第一部は一人の俳優が30人強の観客と「見る」「見られる」という共犯関係を結ぶが、第二部に関しては俳優が二人になることでより複雑性を帯びる。
俳優がダイアローグをラリーしながら(とはいえこのダイアローグも意味は重要視されていない。関係性に変化がないという訳ではないけれど著しく変わることもない)時折観客に目線を送る。
観客はそこかしこで発語されるワードをすくい取って、彼らのパーソナルな履歴を勝手に想像する。しかしやがてそれさえも嘘かもしれないというか、あてがわれた言葉に過ぎないと思えてくる。
そうなってくるとやがて、この空間のサイズに立っている俳優そのものの質量というか、存在を観察するようになる。言葉はある記号として観客と空間を結ぶ時間のようなものになるというか、それが妙に「今」の体感として観客と共鳴し合う感覚を味わったのである。
これを「リアリズム」と呼ぶかどうかは別として(私はこの頃演劇表現において「リアリズム」という言葉にものすごい警戒心を抱いている)、妙に現実感がある行為として私にガシガシ響いた。ようはすこぶるスリリングで興奮する瞬間だったのである。

先ほど、自分が信じてきた方法論では絶対立ち行かないのでは、と言った。
そう考えたきっかけとして思い出すのが、「モノローグ」を話すある俳優のいでたちである。その俳優は観客に話しかけているのだが、ある時、「いや、この人は本当に観客には話しかけてはいない」と思ったのだった。確かに言葉は明瞭だし、意味は伝わっている「ような気がする」。でも、何にもかかわりがない。観客に対して閉じているように感じたのだ。
確か翻訳劇を稽古している時で、その俳優の役は言わずもがな外国人なのだが、行き詰まった私は、一回街頭に立って見ず知らずの街ゆく人たちにそのモノローグを話してきてみてくれないか、と言った。今から思うとなんて横暴な稽古だ、と思うが(そしてそれはなかなか難しいよということで、実際は行われなかったのだが)その時の私は観客と俳優の関係について、そして扱う言葉について頭を抱えて悩んでいた。そしてその悩みはここに来て一層複雑性を帯び始めた。
コロナ禍で、観客との関係が著しく変わった。観客はあるリスクを背負うことになった。
商業演劇を創作するようになって、作品の空間デザインにかかわらず、地方公演によって著しく規模が、劇場空間が変わるようになった。
必ずしも作品に興味がある客層ではない観客席に向かって、自分の作品を上演するには。

要はもっと「かかわらなくてはいけない」ということを考えている、のだと思う。
それは俳優と観客の関係性だけではない。流れる音、当てられる照明、映し出される映像とも、そして言わずもがな俳優たちとの間でも、である。
そうして光栄ながらこのような依頼をいただき「本人たち」を観劇した。
観客の前で俳優の古賀さんが時折自意識と戦いながらも「かかわろうとしている」いでたちに(そしてそれは時間を経るにつれて強度を増していったように思う。観客もあるルールを心得たのだ)ある生々しさを感じて、ひどく共鳴した瞬間が多々あった。
そのルールを心得た観客たちはそのまま第二部に突入し、なかばその共犯関係を楽しむようになってきていたように感じる。
言葉はすでに解体され、観客と俳優との間を自在に行き来していた。
実験が成功していたかどうかはともかく、それはあまり重要ではなく、でも確かに化学反応が頻繁に起きていてとても奇妙で豊かな時間だった。
そして帰り道、なんとなく自分が抱えている悩みについて答えは出なくとも、新しい風が吹いたのである。

全てを言葉にできたかどうかは眉唾ものだが、そしてこれが批評という様式をなしているかは疑わしいが、とても豊かな体験だった。このような経験を頂けてとても感謝しているし、同じ、作品を創作する者として勝手に意見交換ができた気になっている。勝手に。
素敵な機会をありがとうございました。

稲葉賀恵 Kae Inaba WebTwitterInstagram
演出家。文学座所属。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒。
在学時より映像作品などの創作をスタート。2008年文学座入所。2013年座員に昇格後、4月に文学座アトリエの会『十字軍』にて初演出し、高い評価を得る。
主な演出作品は、『解体されゆくアントニンレーモンド建築旧体育館の話』(15年 シアタートラムネクストジェネレーション)、『誤解』(18年 新国立劇場)、『ブルーストッキングの女たち』(19年 兵庫県立ピッコロ劇団)、『墓場なき死者』『母 MATKA』(共に21年 オフィスコットーネ)、『熱海殺人事件』(21年 文学座アトリエの会)など。近年の作品に『Equal-イコール-』(unrato)、『サロメ奇譚』(梅田芸術劇場)、『加担者』(オフィスコットーネ)、『私の一ヶ月』(新国立劇場)『幽霊はここにいる』(PARCO劇場)など。第30回読売演劇大賞優秀演出家賞受賞。

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