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本人たち|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 Sakuya Uemura
批評家。1998年12月22日生まれ。千葉県出身。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。東京はるかに主宰。スペースノットブランクの保存記録を務める。過去の上演作品に『ぷろうざ』『えほん』がある。

 スペースノットブランクの「保存記録」として働き始めてから、この3月でちょうど3年が経つ。この文章は『本人たち』のイントロダクションとして依頼されたものだけれど、いい節目なので、保存記録の活動を振り返る場としても利用させてもらいたい。そして過去に書いたお粗末な『本人たち』評の簡単な修正を試みたい。
 保存記録というのは、写真や映像を撮る人なのではなくて、スペースノットブランクが何をしているのか観測して、わかったことをかたちにしていくということなのだけれど、正直なところ自分にはいまだにほとんどのことがよくわかっていない。
 作家がなにを思ってなにをしようとしているのかは、やろうと思えば稽古場での作家の発言からある程度たどれるし、ちょくちょく作家がLINEで教えてくれることもあったりするから、それをまとめてしまえばいい感じもするが、そんなに単純な仕事ではない。実際、事前に話を聞いていても、スペースノットブランクの舞台を観るといつも呆気にとられてしまうし、なにを書いていいかわからなくなる。その分平気で遠慮なしに稽古場に行ったり作家と話したりしているようなところがある。
 やろうとしていることとやっていることはしばしば一致しないものだ、というのは当然として、スペースノットブランクはコレクティヴとしての集団制作の方法それ自体を制作しようとしているようなところがあるから、作家とか、その意図とかいった概念自体あんまりあてにできない。わたしがスペースノットブランクに書いてきた批評に対して、制作論に終始していて、結果としての舞台については得るところがないという旨の批判が寄せられたことは一度や二度ではない。しかし、そのようなプロセスと結果の弁別の自明視を問題視し、作品を扱う単位としての制作の技法に目を向けないことには、スペースノットブランクの作品の記録としては不十分だと考えてきた。一方で、そうした作品性格が規定する、観客への可能な効果の方向性についても、わたしは書いてきたつもりでいる。
 『本人たち』の最初の作品群(第一期)は2020年9月に、YouTube上の動画と、スペースノットブランクの公式WEBサイト上のいくつかのテキストというかたちで発表された。各作品には「5月31日」などの日付が付されているが、動画概要に「スペースノットブランク『本人たち』の5月31日の映像です」とあることから、この日付はタイトルのたぐいではなく、いくつもの『本人たち』のそれぞれにさしあたりつけられたラベルという感がある。ここでは便宜的に各『本人たち』をそれぞれ同題の別作品とみなしているが、この理解はおそらく正確ではない。具体的な発表時期については動画以外記述がなく、はっきりしない。テキストはクリエーションメンバーの発した言葉を編集したもののはずで、おそらく日付はその発話が為された日を表している。
 続けて、11つのテキストからなる『本人たち』第二期、2つのテキストからなる『本人たち』第三期がある。さらにこの第三期のテキストを使用した、ANB Tokyoでの展示『また会いましょう』がある。それから第二期と第三期の間に、paperCで連載された「本人たちが大阪に行こうとしながらも行かなくなってしまった二〇二二年一月のいくつかの現像」があって、これは写真と短文からなる。このように、『本人たち』のクリエーションは2020年以降、スペースノットブランクによって継続的に行われ続けてきた。
 そして今回、『本人たち』はSTスポットで上演される。しかも、『本人たち』は『共有するビヘイビア』『また会いましょう』という二つの作品を包括した形で上演されることになっているのだ。問題なのは、動画、テキスト、舞台というメディア形式の横断性それ自体ではない。それら諸々の『本人たち』を貫いている共通因子が何であるのか、見当がつけがたいのだ。
 たとえば、『本人たち』の諸テキストを読んでみるとする。第三期6月13日。これは様々な「本人たち」の言葉を収集して、編集したもので、しかしどの言葉を誰が発話したかは曖昧にされているから、ひどく個人的な内容で、本人的な文体を持ちながら、特定の人間に帰属しない、「本人たち」の文章としか言えないものなのだ、というくらいのことは、すぐに言える。しかしこれはスペースノットブランクのほかの多くの作品にも共通して言えることで、作品の特徴としては説明になっていないのである。
 ほんとうはここにリンクを貼ることさえ躊躇われるのだが、過去にわたしが書いた『本人たち』評はひどい出来で、やはりこの誤りを犯している。そこでは作品は「過剰な多声性=非個体性と過剰な本人性=個体性によって、一層強く鑑賞者の想像力を喚起し」、そのことでオンライン演劇の悪条件も乗り越えられると言った旨のことが書かれている。
 言い訳をすると、わたしはもともと舞台批評家を志していたわけではなくて、「保存記録」の仕事は経験の浅いままに見切り発車で始めてしまったところがあるので、初期の評はそのほとんどが的を外しているし、執筆のスタンスも悪い意味で安定していない。いくらかまともに、方法的に書けるようになり始めたのは、2020年の暮れの『光の中のアリス』から、2021年の『ささやかなさ』にかけての時期のことで、それまでの評は素人同然である。保存記録の産物という都合上簡単に消去できないのが歯がゆいのだが、一度まとまった時間を取って、これまでの評を抜本的に書き直す必要を感じている。
 『本人たち』の共通因子のつかみがたさに話を戻す。厄介なことに、スペースノットブランクはタイトルをてきとうにつけているのでもない。今回『本人たち』の部分集合として上演される『共有するビヘイビア』は、過去に二度上演されたのち、『クローズド・サークル』への改名を経て再上演された作品である。それが、再度『共有するビヘイビア』へと名前を戻されている。
 つまり、ステートメントと照らし合わせても毎度不可解なスペースノットブランクの上演(というのはいくつかスペースノットブランクの作品を観て確かめてもらうほかないが、ほんとにそうなのだ)のそれぞれは、しかし特定の名によって束ねられて他から区別されるに足る相応の共通因子を時に有しているはずであって、そしてわたしの見立てでは、それがそれらの上演に固有の問題構制を示している。命名は舞台の制作と上演に先行しているから、実際に上演される舞台がこれら問題構成に還元しきれない過剰を産出していくことは当然として、しかしなおスペースノットブランクの批評においてはこれらの名の根拠を問う必然性がある。というのも、作家性というのは、作家の天才とか人間的個性というよりは、特異な問題構制を追いかけていくことの効果として事後的に見出されることがしばしばであって、制作の主体概念を問いに付してきたスペースノットブランクの舞台について、単におのおのの観客のうちに生じた効果を記述するのにとどまることなく、なんらかの共有可能な言説を打ち立てようとするのであれば、まずはここから始めるほかないからだ。問いは名とともに繰り返される。その問いをくり返し問うていく作業をわたしは自身の仕事と定義している。それが定点観測的にスペースノットブランクの作品を絶えず追いかけていくことの意味だと考える。結果的に、その文章は作家のステートメントに準拠したナイーブな意図主義的批評のように読まれているかもしれないが、少なくともここしばらくのわたしの仕事はそう単純なものにはなっていない。
 ところで、この依頼された「イントロダクション」は、『本人たち』本番がどうなっているのか全然知らないままに書かれている。だからわたしには『本人たち』の問題構制については仮説を立てることしかできない。それでも見立てはあるのであらかじめ書いておこうと思う。
 これまでのスペースノットブランクのテキストは、稽古場で出演者と演出者が場を共有するなかで、そのやりとりから生成され編集されてきた。対して、『本人たち』第一期の2020年というのは、このような場の共有が不可能になるような制作状況であった。この結果、場やそこでの関係性よりも「本人たち」が前景化してきたのだろうということは言える。場所性の強い印象を帯びた『クローズド・サークル』の題が退けられて『共有するビヘイビア』の言葉が回帰してくることもここから説明できる。
 あるいは、これまでスペースノットブランクのステートメントに登場してこなかった「戯曲」という言葉にも注目される。スペースノットブランクはどのようにこの「戯曲」概念を定義していて、それがいかに『本人たち』の上演性格と結びついているのかは当然問われていい。
 さて、批評が読まれないことを批評家が嘆くのは野暮の最たるものだが、スペースノットブランクについて他人が論じた文章で、わたしの評を参照したものがこれまでないのには、正直不満がある。議論がぜんぜん進んでいかないからである。スペースノットブランクについては、わたしはやはり純粋な批評家というよりは保存記録として書いているので、誰かの議論にいつか役立つようにと思って記録してきた。曲がりなりにも3年にわたって執筆をつづけてきた以上、批判的に言及するくらいの価値は誰かに認めてもらわなくては困るのである。だから今回、保存記録の仕事についての所感を赤裸々に書いた。
 スペースノットブランクは近頃みずからさまざまな書き手にオファーを出し、レビューを募っているが、それらが相互に参照する気のない複数であることには疑問がある(わたしが近頃批評の掲載を戦略的に遅延させている一因はここにある)。今回のスペースノットブランクはオープンコールでレビュアーを4名も募っている。だからわたしも恥を捨ててオープンに呼びかける。どうか誰か次の問いについて議論を進めてほしいと思う。そのようにしてこの文章は導入たらんことを目指す。実際のところ、『本人たち』はいったいなにをしているのだろうか。

本人たち

イントロダクション:植村朔也

レビュー
山本浩貴+h(いぬのせなか座):伝達の成立(不)可能性を方法化する──小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『本人たち』プレビュー上演
東京はるかに|舞台よ物体であれ:スペースノットブランク『本人たち』『オブジェクト(ワークインプログレス)』評
鴻池留衣:この世が舞台であることと、舞台がこの世であること
稲葉賀恵:かかわりあうことの奇妙

本人たちを見た本人たちによる本人たちのレビュー
神田茉莉乃:見ること、見られること
高橋慧丞:、と(彼)(彼女)(ら)は言う
長沼航:1でも2でも群れでいて
中本憲利:さらに新たなる本人たちに向かって

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