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セイ|有吉玲/高橋慧丞/田野真悠:オープンリハーサルのレビュー

有吉玲:感染と増殖の上演──「リハーサル」によせて

 review、つまり、再び見るという仕方で「あなたが思うレビュー」の筆をとりたい。
 鑑賞にあたり提示された第一の、そして最大の設えは上演が「リハーサル」であるということだった。観客/私は、予めそれがリハーサルであるということを知らされ、リハーサルへの関心そのものの記述を上演前に済ませ、舞台芸術関係者というリハーサルに馴染んだ身分として上演に同席していた。その作品が「メグハギ三部作」二部終わりのスピンオフ、『セイ』であった。ウェブサイト記載の説明書きは以下である。

 “亡くなった死刑囚の意識をサーバーに保存。デジタル上でAIにより繰り返される更生と再生と転生。それらの現実への報告。”

 リハーサルという、副産性、反復性、そして未完性──「本番」に未だ至らないと同時に舞台の本質的な終わりえなさに係るという点において二重であるこの意味合い──に裏打ちされるこの上演機構と、一見これほど適合的な舞台もそうない。つまりこの条件において、スペースノットブランクは明確に再演の問題を突きつけている。
 と、鑑賞前の私は気楽に考えていた。
 しかしこの舞台は、そんなクリシェがかった解釈タームを圧倒的なライヴ感と侵襲性によって忘れさせるものであった。
 この舞台は終わらないのではなく、終わり続け、そして始まり続けているのではないか。繰り返されるズレあいは軽快な演者らを駆動する。演者らはおのおのの役割を全うしながら、始まりを生き続けてゆく。そしてその中で明確な役割をあてがわれ、振り付けられ、巻き込まれてゆくのが、他でもない観客/私/あなたである。
 『舞台らしきモニュメント』においてチケット代わりとなった「私」のチェキ写真のように、スペースノットブランクは観客に「持ち帰り」を要請していた。しかし今やあのリハーサルは、観客/私の現実の時間に侵食し、「持ち帰り」のできる代物ではなくなっている。リハーサルは「現在」として観客/私に立ち現れ続け、パラサイトされた観客/私は気がつけばあるフレーズを口ずさんでいるという仕方において、侵襲を自覚することとなる。そして、新たに始まりを生きる一員となるのだ。
 Say、為い、性、姓、sey、聖、生、they、スペースノットブランクは、ありきたりのリフレインを行わない。それは観客の感染と舞台の増殖という名の下で正しく理解されるべきである。「実存しない意味と実存する意味が「上演」というシチュエーションを用いて実存という意味と意味という意味を意味」することの先で、カウンタブルな個人を前提した有性生殖が軽やかに乗り越えられてしまう(と、言ってしまわせられている)舞台を目の当たりにした観客/私/あなたは、今後もこのコレクティヴの上演を見続けてしまうであろうというのが、現状ここで書きうることである。

有吉玲 Ray Ariyoshi Web
パフォーマー。
「感覚を保存する体づくり」を指針とした活動を行う。

高橋慧丞:はてしなきめぐはぎ

 『ウエア』初演&再演、『ハワワ』の上演を経て、〈メグハギサーガ〉はそのスピンオフ作品『セイ』へと連なる。
 スピンオフ。なんて良い言葉だろうか。本流に対する愛情が深ければ深いほど、胸が高鳴る。未だ明らかにされていなかった見知らぬ一面の公開が予見されている。見知らぬ一面。なんて魅惑的な響きだろうか。
 ひと足さきに目撃した身として断言するが、朝食を食べずに席に着くことは危険だ。しかし後は気軽な気持ちで、目の前で展開される物事に素直に反応を示しているうちに、気がつけば、とてつもなくドラマティックなアドベンチャーが思わぬ角度からあなたをその内部に取り込んでしまうことだろう。
 たとえ本流に対する愛情を微塵も持ち合わせていなかったとしても、こんな一面を体感させられたら、あなたはもっと〈メグハギ〉について深く知りたくなってしまうことだろう。
 そこで何が行われるかについて簡単にだけ触れておく。
 瀧腰教寛が歌い、奈良悠加が歌い、古賀友樹が歌い、荒木知佳が歌う。
 オープンリハーサルで体感したのはそうした約2時間の、俳優たちの生がほとばしる、濃密なエネルギーの奔流だった。2時間もあったら疲れてしまうかもと思ったあなたも安心の10分間の休憩が用意されていて、それは観劇の休憩史上最高に、心身ともに安らかになれるものであることをお約束する。
 第一部 → 休憩 → 第二部、この構成が完璧だ。
 本番へ向けて一段と精度が高まり、凝りに凝った舞台美術の中でこの作品が上演されるのだと考えると、オープンリハーサルを観終わったばかりでありながらすでに本公演が楽しみでならない。
 『セイ』、あまり演劇を観たことがない方にこそ観てほしい。
 『セイ』、スペースノットブランクの演劇を観たことがない方にこそ観てほしい。
 『セイ』、スペースノットブランクの演劇をむかし観たけれどなんかよくわかんなかったし苦手っぽいかもと思っている方にこそ観てほしい。
 『セイ』、もちろん既に期待している方は観てほしい。
 『セイ』、子供も大人も観てほしい。
 『セイ』、最近落ち込むような出来事があった方にこそ特に観てほしい。
 劇場を出るときあなたは「YES!」と叫んでいるだろう。あるいはそのさかさまの言葉を。再生してほしい。逆再生してほしい。何度でも螺旋状になって永遠に。

高橋慧丞 Keisuke Takahashi Twitter
映画美学校 言語表現コース「ことばの学校」基礎科・演習科 第1期生。スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』のクリエーションメンバーとして城崎国際アートセンターにて行われるアーティスト・イン・レジデンスに参加する未来を考えていると手が動き、アーティストを志しているものとなって勝手に書類を送りつけ執筆の機会をいただきました。

田野真悠:「セイ」音から始まる物語

 ドラムにギター、マイクスタンド、大きなスピーカー。私は何を観に来たのか、どうしてここに来たのか。
 頭にたくさんのハテナが浮かんだまま、MCに呼び掛けられるままに時は進み、自分の過去と現在の整合性は取れない。
 説明書、論文、命題、自己啓発本、参考書、そういった類のものは皆「はじめに」から始まる。
 この物語も「はじめに全てを決めるのは I です。」と前置きがなされてから進んでいった。
 「セイ」生、正、政、静、性、say、、、音から連想されるものは形の違う「ことば」だった。
 スペースノットブランクは概念の破壊と創造を試行するアーティストであるという認識が、本作を通してよりはっきりとしたものになると感じた。
 今いたはずの空間は、気づかぬうちに乗っ取られ、別の空間に変わりゆく。今この瞬間でさえ、AIによってほだされているのかと錯覚する。
 AIとI(私)の対話。反復と呼応によってそれはエラーにも、新しい正解にもなりうる。
 全てを決めるのは、I(私)か、AIか、それとも愛か。
 あまり目立たない街角で寂れた様子を想起させるライブハウスから始まる物語がどのように着地するのか、多くの人に見届けて欲しい。

田野真悠 Mayu Tano
役者。初出演、主演作である田之上裕美監督作品「裸足」が東京国際映画祭Amazon Prime Videoテイクワン賞や、なら国際映画祭NARA-wave にノミネートされ、以降数多くの映画に出演。2023年以降も複数の公開待機作を控える。

セイ

イントロダクション
池田亮

オープンリハーサルのレビュー
有吉玲/高橋慧丞/田野真悠

レビュー
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