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セイ|森山直人:「演劇」から、神々を悪魔祓いすることは可能か?──スペースノットブランク『セイ』劇評


 突然だが、かつて演劇史は、いわば神々の権力闘争の歴史だった。
 たとえば、「名優」たちが「神」として君臨していた時代があった。やがて、今度は「劇作家」という「神」がその絶対性を主張するようになる。だが、20世紀には「演出家」というまったく別の「神」が現れる。2022年7月に亡くなったピーター・ブルックなど、まさにそうした神々の一人だった。
 ところが、いまや時代は「コレクティヴ」だと言われる。いいかれば、それは「神の死」以後の到来ということになるだろう。たしかに、多くのアート・コレクティヴが、世界各地でさまざまな成果を発表している。だが、「演劇」というジャンルにようやく訪れたかにみえる一種のデモクラシーは、真の意味で「神」という存在を「悪魔祓い」できるものなのだろうか。──たしかな答えを見出した人など、おそらくまだいない。


 ところで、自らを「コレクティヴ」を名乗るスペースノットブランクが、2023年6-7月に発表した新作『セイ』は、「神の死」を謳歌する作品などではまったくなかった。それどころか、まさに生々しくも血なまぐさい「神の死」の現場に、いまなお立ち会おうしているという点だけでも、きわめて興味深い「実験演劇」だった。
 少なくとも本作では、「原作者」である池田亮も、「共同演出」の小野彩加も中澤陽も、演劇上演から「神」の存在を抹消できるなどとは、これっぽっちも考えていなかったように見える。というより、これまでだってスペースノットブランクは、松原俊太郎であれ、池田亮であれ、「原作者」という名の「神」を、むしろ率先して自分たちの創作現場に招き寄せるという、ある意味では矛盾したコレクティヴなのではなかったか。その意味では、『セイ』もまた、スタイリッシュとは無縁の、とてつもなく古いタイプの作品だとさえ言えるかもしれない。なにより、本作は、『ウエア』、『ハワワ』などの先行作品(残念ながら筆者は未見)を含む「メグハギ・サーガ」(=神話)のスピンオフだと事前に宣言されてもいるのだから、すべては「神」の周囲に事態が展開したとしても不思議ではない。
 だからこそ、問題は、そこでの「神」がどのような存在であり、どのようにしてその「死」が演じられるのか、に絞られてくる。「神」は、なぜ、なんのために必要とされているのか?


 興味深いことに、「神」の輪郭は、これもまた事前の媒体で、「元死刑囚の男」と、あっさり予告されてしまっている。

 元死刑囚の故・真坂家様の意識はサーバーに無事保存されました!/そして我が国開発による最新型AI「セイ」により、デジタル上で更生と再生と転生を繰り返す試行錯誤を行いました。/この度、実験結果の報告会を開催いたします。

 そして、私たち観客が上演場所(=「報告会」の開催場所?)である神奈川県立青少年センター・スタジオHIKARIを訪れると、舞台上に「ハの字」型に大きめのスクリーンが2台設置されていて、そこには、「はじめに/第三者への公開を固く禁じます。/総務大臣への実行を報告します」という、明らかに事前告知に呼応する注意書きのようなものが投影されている。そして、開演前に──だが、ほんとうのところ、この上演の「開演」とは、正確にはいつのことだと考えればよいのか微妙なのだが──出演者である奈良悠加が、ついで古賀友樹、瀧腰教寛が、観客へのリアルな歓迎の辞を述べつつ、「はじめに、全てを決めるのはI(アイ)です。私であり、あなたであります」という定型文を繰り返し口にするのだ。
 すでにここには、いくつかのことが暗示されている。少なくとも、①その後の上演で実際にそういう台詞が出てくるが、ここでの「I(アイ)」には、作者である池田亮のイニシャルが透けてみえること、すなわち、「I(アイ)」は原作者の〈虚構の分身〉を装う何者か、つまりは〈作者〉という「神」にほかならないこと、②上記の定型文が、三人の俳優によって反復されることで、上記の「I(アイ)」、つまり〈私〉は複数化されていること、そして、③「あなた」という単語が「私」という単語と並置されることで、観客ひとりひとりもまた「私」にほかならず、全てを決める存在=「神」であるかもしれないこと、の3点である。
 はたして「全てを決める」存在、すなわち「I(アイ)」とは、「元死刑囚」なのか、原作者なのか、演者たちなのか、それとも観客ひとりひとりなのか。──『セイ』はひとまず、絶対的な「神」の座をめぐって、複数の、異なる立場の存在が集合する一種の闘技場として、劇場空間を位置づける。もちろんそれは一方的な予告であり、おそらく偽の情報にほかならないのだろう。だが、そうはいっても、ひとまず「観客」としてこの場に訪れてしまった人々の方は、わけもわからず、その後の事柄の推移を、ひとまずは受け入れ、見守るほかはない。


 上演時間が約2時間の『セイ』は、奇妙な2部構成をとっている。第1部は、瀧腰教寛──上演台本上は「I1」とされている──による、30分ほどの単独ライブであり、しだいに観客には、それらの歌が「元死刑囚」=「神」になろうとした人物への、追悼ソングであることがわかってくる。10分間の休憩をはさんで第2部に入ると、瀧腰に加えて、古賀友樹(=I2)、奈良悠加(=I3)、荒木知佳(=I4)が次々に登場し、中盤以降は、どうやら最新型AI「セイ」にすべての人格的記憶と知能を預けた元死刑囚本人のものらしい長いいくつものモノローグが、異なる俳優たちの身体を通じて「上演」されていく。2台のスクリーンの間には、小山のように盛り上がっている装置があるのだが、劇の終盤にさしかかると、あたかも元死刑囚本人が出現でもしたかのように、荒木が小山のなかから登場する。巨視的にみれば、そこにはストーリーラインのようなものも感じられるのだが、その場の観客側の体験としては、元死刑囚をめぐる断片的ないくつかのつぶやきや、一見それとは無関係にみえるサカナクションやレディ・ガガの持ち歌が歌われる場面の、雑然としたコラージュといった印象である。


 だが、なんといっても、この作品のひとつの見せ場は、〈AI〉という他者の容赦なき「誤変換」攻撃を前に、死にゆく「元死刑囚」が、悲痛なあきらめを強いられていく後半の場面にあるだろう。第2部で、「聖」「姓」「性」「請」「See You, See I」「世」「生」といった具合に変換されながら、『セイ』という題名の本作は、未来のデジタル社会の悦楽と限界とを、なんとか視野におさめようとする。「元死刑囚」は、どうやらあまり金銭的にも恵まれず、孤独に性欲を発散させてフィギュアを精液で汚しつづけるような人生を送っていたらしい。夢と現実とが交錯しながらダイナミックに繰り広げられる「神」の悲劇的なモノローグは、にもかかわらず、俳優たちの上演によって熱がこもればこもるほど、そういうときに限ってスクリーン上にAIが誤変換したセンテンスとして文字化されてしまい、失笑の的とならざるを得ない。たとえば、「勝手に俺の言葉変えんなお前」と怒鳴っても、それはただちに「勝手にお前俺のこと馬鹿円なお前」に誤変換されてしまう。「フィギュア」や「toは」のような簡単な単語でさえ、何度繰り返し言い聞かせようが、その都度、とんでもない誤変換(「フィリア」や「通話」など)として返ってきてしまうのだ。パフォーマーの全身から発せられる挫折感と徒労感の激しさは、単純に観客の心を打つだけの力があった。
 いうまでもなく、そこで繰り広げられる対話のディスコミュニケーションは、爆笑を誘うようなものでないにしても、明らかに喜劇的な要素をもっている。元死刑囚とAI──上演の具体性としては生身の俳優とスクリーンの間のやりとりは、いつのまにか『リア王』における、荒野をさまよう王(King)と道化(Fool)の名高いシーンとそこで両者の関係性を、ふと連想させたりもする。リア王は、悪辣な娘たちにすべてを剥ぎ取られ、「神」の座から容赦なく引きずりおろされる。そしてリアの傍らにいる道化は、リアの愚かさを巧みにつき、あたかも対等な存在であるかのようにふるまっていた。ここまで見てきてほぼ明らかなように、現代日本の社会にすくう孤独の病──それは観客席に座るひとりひとりにも、濃淡の差はあれ、思い当たるものであろう──を連想させる「元死刑囚」という存在が、捨て身の行為を通して成就しようとした「神」になることの野望が打ち砕かれ、そのかわりに道化というパートナーを得ることができるのなら、それはそれで悪くない生き方ではないか・・・。

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 だが、事態はそれほど簡単には終わらない。というのも、ここでのAI=道化は、明らかに勝ち過ぎであり、まるで「道化」が新たに「神」の座についたかのようにさえ見えるからである。だとすれば、『セイ』という物語は、要するに、「AI」がこれからは新たな「神」として、あまねく世界を支配することになる、という話なのだろうか。・・・そう単純にも言えないのは、いうまでもなく、ここでスクリーン上に投影されている「AI」の言葉はすべて、「原作者」の池田亮、もしくは共同演出の小野彩加+中澤陽によってスクリーニングされた言葉であるに決まっているからである!
 だとすれば、結局のところ、演劇作品『セイ』における「神」とは、「演出家」の謂いにほかならないということなのか。「原・作者」の書いた言葉を、ある程度自由に再編する権限を有する「演出家」は、どんなに謙虚にふるまってみても、やはり「演劇作品」にとって不可欠の「神」でありつづけるほかはないのか。おそらくたしかなのは、池田亮とスペースノットブランクのあいだには、ちょうどリアと道化のような共犯関係が成立しているということである。
 最後に、これまであえて触れずにきたが、もうひとつだけ、「はじめに、全てを決めるのはI(アイ)です」という例のフレーズと同様に、この作品のキーとして、暗号のように何度も繰り返されるフレーズについても一瞥しておかなければならない。
 「ここはフリースペースなんだ」──そう、まさにこのフレーズは、折に触れて、一種の強迫観念のようにこの作品のなかで繰り返されていた。ここで、間違いを恐れずに断言するならば、本当はこのフレーズこそが、この作品の中心であり、「神」になるべき存在だったはずなのだ。だが、「ここはフリースペースなんだ!」という言葉ほど、高い理想としらじらしさとが同居しているものもない。打ち砕かれた野望の前には、打ち砕かれた空っぽの理想がある。そして、まさにその「フリースペース」は、けっして手元にやってくるはずのない青い鳥のように、頭上のはるかかなたをゆっくりと旋回するばかりだ。スペースノットブランクのはるか頭上に旋回する「理想」をあざ笑う権利は誰にもない。なぜなら、その旋回する「理想」とは、まさに現代社会の、世界全体の、あらゆる人々の頭上を、空虚に旋回する何かに相違ないからである。

森山直人 Naoto Moriyama
演劇批評家。1968年生まれ。多摩美術大学美術学部・演劇舞踊デザイン学科教授。京都造形芸術大学教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員を経て現職。2012年から2019年まで、KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員長を務めた。著書に『舞台芸術の魅力』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文、劇評に、「日本語で「歌うこと」、「話すこと」:演劇的な「声」をめぐる考察」(『舞台芸術』24号)、「メロドラマ」が「メロドラマ」から解放されるとき──上田久美子『バイオーム』評」(関西えんげきサイト)、他多数。

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批評
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