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ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|越智雄磨:脱-演劇、脱-俳優、脱-劇作家の時代─『ダンスダンスレボリューションズ』を巡って

越智雄磨 Yuma Ochi
東京都立大学人文社会学部准教授。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員。博士(文学)。専門はフランスを中心としたコンテンポラリー・ダンス研究。早稲田大学演劇博物館においてコンテンポラリー・ダンスに関する展示「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」(2015-2016)のキュレーションを担当。著書に『コンテンポラリー・ダンスの現在─ノン・ダンス以後の地平』(2020)がある。

 六本木の俳優座劇場が閉鎖されるらしいとのニュースを聞いて、驚いたと同時になぜか納得した心持ちになったことを思い出す。おそらく、一つの俳優なり演劇についての観念が終わろうとしているのだ。第二次世界大戦も終わりに差し掛かった1944年に、千田是也を中心に演劇をやろうとして集まったのが俳優だったことからその名称が付けられたのだという。戦後、日本の演劇界を牽引してきたこの劇団の核にあった俳優理論の一つは、スタニスラフスキーによる演技論であり、もう一つブレヒトによる演技論だったと思われる(千田是也はこの両者の本を読み、翻訳している)。誤解を恐れずに単純化して言えば、前者は役柄に接近する志向を持ち、後者は役柄と距離を取ろうとする演技論である。一見、矛盾するような二つの俳優論が千田是也や俳優座の俳優たちの身体においてどのように調停され受肉されたのか、それについてリサーチのしがいのあるところであるが、俳優座の芝居を数本しか見たことのない私に語れる資格はない。しかし、なにか戦後の新劇とともにあった俳優の観念、あるいは演劇の観念はすでにどこかで過去の神話となっており、俳優座閉館はそれを象徴しているのではないか、と思わせるのである。この劇場が閉鎖するというだけで、俳優座という劇団は存続するらしいので、俳優座はまた新たな「俳優」のあり方を見つけるのかもしれない。
 松原俊太郎とスペースノットブランクの『ダンスダンスレボリューションズ』の評を書く上で、全く関係のない事柄を書き出してしまったかもしれないが、俳優という観念の死とアップデートというトピックにこの作品は強い関連性を持っている。しかしこの『ダンスダンスレボリューションズ』を劇と言っていいのかもわからない。先に「劇評」と書かずに単に「評」と書いたのはこのパフォーマンスの分類の難しさにある(そう、パフォーマンスという名称を当てるのはおそらく悪くない)。おそらく、このように思考を巡らせるときに既に松原俊太郎とスペースノットブランクの世界の魅力に引き込まれている。名状しがたいパフォーマンスの時間と空間のなかで、自分が経験したものは何だったのだろうか? 戯曲の内容に解釈の矛先が向かう前に、舞台に出演している劇作家、演出家、パフォーマーたちの身体の役割や関係性が気になってくる。舞台上のこれらすべての存在が既存の戯曲観、俳優観、演出観、ダンサー観をはみ出してくるのだ。話の大筋としては、ディディに恋をしたスワンの物語と要約することもできるだろうが、それは必ずしも意味をなさない。枝葉末節かと思われたサブストーリーで語られた言葉が実は重要なのではないかという気もする。空間と時間をワープする登場人物たちは断片化された話を集積し、独特の世界観を構築していく。掴みどころがないのは、今までに似たものをみたことがないからだ。
 しかし、なんとかこの舞台の概要を描出してみたい。舞台に登場するのは劇作家の松原俊太郎、メインの登場人物であるスワン役の児玉北斗とディディ役の斉藤綾子、演出家としてそして同時にフィクションの中でのいくつかの役として登場する小野彩加と中澤陽である。演出家が上演中にずっと登場している例はタデウシュ・カントールの『死の教室』くらいしか思い浮かばないが(思えば『死の教室』も演劇の概念をかなり広げた作品だ)、劇作家も上演中にずっと舞台にいた例をみたのは初めてかもしれない。劇作家の時代と言われた19世紀には、劇作家は演劇の中心的な役割を担っており、俳優たちは劇作家が書き上げる脚本を待ち、それを上演する。演劇を構成する諸要素の中で、相対的にドラマ(戯曲)が高く、それが解釈の中心的対象だった。演出家の時代と言われる20世紀はいかに古典的戯曲を解体し、再解釈、アダプテーションするのか、という演出家の手腕が見どころとなる。さて『ダンスダンスレボリューションズ』はというと、劇作家、演出家、俳優の間の関係性がまた異なるようなのだ。まだ名付け得ない21世紀的な新しいドラマトゥルギーをここに見ることができるだろうか。
 メインキャストである児玉北斗と斉藤綾子は普段はダンサーとして活動している。児玉はヨーテボリバレエやスウェーデン王立バレエで踊ってきた卓越した技術を持ったダンサーでありスワンという名は『白鳥の湖』も思い起こさせるし、実際その曲に合わせて踊る場面もあるが、その台詞は滑稽でシュールでギャグ要素が満載である。そして、この言葉のセンスがどこからどう来てるのかも不明であるが、見る者の想像力をひっぱる言葉の牽引力がものすごく強い。突拍子もない名前の人物、突拍子もない台詞、シチュエーションだが、なぜかついていけてしまう。ここには言葉の選択と配置とリズムの妙がある。たとえば、好きな人ができたというスワンと親友タケシ(中澤)のやりとりはこんな具合である。

 タケシ「告白して付き合って結婚して死ね。」
 スワン「お前いつからそんなギリシア人みたいになっちまったんだ。」
 タケシ「おれはタケシと名付けられたときからギリシア人だし火星人だしお前の親友だ。」
 スワン「お前のそういうところが好きだ。」
 タケシ「お前の好きな人にもそう言えばいい。」

 あるいはハハ(小野)とディディのやりとりはこのような具合である。

 ディディ「あーわかる新幹線道路沿いのブックオフとかジョイフルとか、イオンモールの中のヴィレヴァンとか見ると安心する。」
 ハハ「固有名詞の喚起力は凄まじいんだけどもっと繊細な空気みたいなもんだね、違和感が肌に馴染むっていうか。南禅寺で風にあたるたびにはあ〜初めて〜って気がするしもう何百回きとんねんって気にもなってそのあいだで子どものわたしが笑ってんるんだよ。」

 言葉はいきなり最大風速にした扇風機の風のように、身体を通り抜けていくような印象だ。そして感覚やイメージ、記憶を沸き立たせる。また別の場面で展開する私たちの身体と主体を資本として組みこむ資本主義のループについての会話は、土方巽の支離滅裂だけど妙に核心を突いてくるような身体をめぐる批評的エッセイを読んだ時に得た感覚も思い出す。資本主義においては、身体は有用で効率的な理解可能なコミュニケーションに奉仕する存在になることを自然と迫られるが、土方の舞踏はそのような存在に囚われない人間像を示したと言っていい。『ダンスダンスレボリューションズ』の言葉もまたドラマの論理、あるいは論理的整合性を伝えると同時によりも早く身体にイメージと感覚をぶつけてくる。もっと踏み込んで、その言葉はコミュニケーションのためというよりも、コミュニケーションの関節を外しにやってくると言った方がいいのかもしれない。その意味では言葉は舞台に立つ身体が言語の裂け目のコミュニケーションを行うための─ダンスするためのインストラクションのようにも聞こえてくる。
 この戯曲/言葉の特殊性は、この戯曲の書かれた方法にもよるのかもしれない。この戯曲は稽古が始まると同時に書き始められたと聞く。劇作家の松原は、稽古場でダンサーと演出家と日々、時間を過ごし、そこで共に過ごした身体や時間をベースに戯曲を書き加えていった。この戯曲に身体感覚的なものやイメージを牽引する力や速度を感じるのは、現場の感覚を即時に持ち帰って言葉に書き留める特殊な創作体制によるところも大きいのだろうと思う。こうした創作方法はまるで、演者たちが日々持ちよるアイデアによって形を毎日変えていったイヴォンヌ・レイナーの『日々変更される継続したプロジェクト(Continuous project altered daily)』を思わせる。プロセスを重視したそのような創作方法はレイナーの場合にあってもそうであったように、必然的に劇作家のオーサーシップや演出家のディレクターシップを基調とした作品作りの序列や関係に変更を加えるだろうし、また観客の作品に向かう態度スペクテイターシップにも変更を加えるだろう。俳優は俳優ではないし、ダンサーでもないが、同時にその両方でもある。本公演の前に、二度オープンリハーサルもあったようだがそちらもできれば見てみたかった。何かが生成する瞬間がきっとあったはずである。
 アリストテレスの悲劇論を軸に展開した伝統的な演劇というものがオーソドックスな演劇の歴史を作ってきたとするならば、『ダンスダンスレボリューションズ』は、演劇の言葉と動き、すなわち時間と空間が紡がれる機序が確実に変化しはじめていることを告げている。
 かつてジャン・デュヴュニョーは古代ギリシアにおいて、俳優たちは、変動する社会に適応できないでいる人々の集団的苦悩に答えようとして神話から演劇を創ったと述べた。あるいは、そのような変動する社会の不安に確かさを与えるために俳優という存在が生まれたとも言う。それゆえに、「神話や現実世界の中で俳優が自分の役を示そうとして操るシンボルは常に論戦的」であった。神話と決別するために古代ギリシアで演劇が生まれたように、『ダンスダンスレボリューションズ』というかつての演劇的なもの、演劇を作る各職能を逸脱させる、脱構築的なパフォーマンスが生み出された背景には、何か大きな社会の変動、とりわけコミュニケーションをめぐる不安と期待を伴う人間の感性の変動があるに違いない。デヴュニョー曰く、神話が示す人物を演じる俳優は「昨日の人間を今日の人間から引き離す距離」を示していた。『ダンスダンスレボリューションズ』が創造し得た「明日の人間」はどの方向に向かって歩いているのだろうか? 私たちは、新しい神話を待ち望んでいるか、すでにそれを我がものにし始めているのかもしれない。

ダンスダンスレボリューションズ

批評・レビュー
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