ダンスダンスレボリューションズ|レビュー|竹田真理:ループする構造と発露の空間
竹田真理 Mari Takeda |
ダンス批評。関西を拠点に1990年代後半以降のコンテンポラリーダンスを中心とした批評活動を行っている。 |
『ダンスダンスレボリューションズ』において松原俊太郎とスペースノットブランクは戯曲の執筆と上演の構築を同時に行うことを試みている。完成した戯曲に身体をあてがい、立体的に再現するのが通常の演劇の作り方だとすれば、今作ではイレギュラーな方法が試されたわけである。生まれたての創造の芽を既存の言語に定着させるより前に上演空間に現出させること。思考と実践が時差なく現れ出る場を実現しようとする試みは、ダンスにおけるクリエーションを参考にしたという。今日のダンスの作られ方は、考案された振付をダンサーの身体に振り移すのではなく、振付家とダンサーが現場で共働しながら動きを生み出し発見していく。再現ではなく生成をこそ本質とするダンスの実践が、「舞台芸術に成る以前」の言語を探るスペースノットブランクに有効な方法となることは十分に考えられる。創造のパフォーマティブな渦から言葉が、身振りが、ダンスが、動線が、やりとりが生まれ、消えていく。実際にはクリエーションするその場で言葉が書かれたのではなく、一人に戻る時間の中で執筆したと松原は述べている。だが時差が小さいほど創作の遂行性が保たれることは確かだろう。そのようにして書かれた戯曲はパフォーマンスの果実? 残余? 痕跡? あるいは記譜でありスコアであるところの何か、だろうか。
『ダンスダンスレボリューションズ』は恋する男女のメロドラマである。バレエ『白鳥の湖』をモチーフに、死をもって結ばれる悲劇の物語をベースとし、チャイコフスキーによる前奏曲がドラマの開始を告げる。主役を演じる児玉北斗と斉藤綾子が京都芸術センターのフリースペースのフロアに大きく弧を描いて歩行し、交差する動線が、偶然と宿命のなせる出会いと物語のラインを提示する。とはいえ今日のヒーローとヒロインはロマンチック・ラブの定形を生きるわけではない。劇は現代のボーイ・ミーツ・ガール、台詞は言葉遊びを多用し、ストーリーラインは意味で縫い閉じられない遊戯空間を迷走する。だが私たちの日常とはそのようなものではないか。誰かと交わす言葉や身振りの行き先などその時その場で見えてはいない。女子高生のおしゃべりに物語の端緒を見ると述べた作家がいたと思うが、咲き誇る身振りや発話の瞬間の愉悦を是とし、ただ可能性としてのみ存在し得る物語を生きている。
本作の最大のチャレンジはダンサーである児玉と斉藤の起用にあるだろう。二人は台詞を話し、ダンスを踊る。思考や感情が言葉にのることもあればダンスの動きに現れることもあり、その差異に大きな意味はないといった具合だ。発話の技術を持たないダンサーの声を発するテンションは低く、内的衝動を動きに変えることに大きな負荷を負わないダンサーの身体は、上演の印象をシンプルにしている。それは例えば演劇の俳優を起用した松原とスペースノットブランクによる過去作において、松原の書く言葉の速度や運動性と、俳優らの演技の重力・密度が相克、もしくは相乗することで異様なまでの上演の磁場を発生させていた例に照らせば対照的である。私はそれを以前「デフォルメ」と言ってみたが、戯曲を前提とする演劇創作の方法論に根差した、文字列への定着を図る発話の磁力ということになろう。かたや今作では松原の言葉の運動性がダンサーの身体により順接的に体現され、両者が同じ方向へ渦を巻きながら上演の軽やかな推進力を生んでいる。
児玉演じる「スワン」の思い込みの激しい一目惚れ、あさっての方向を向く思考回路。そのモノローグに小野彩加と中澤陽の演じる狂言回しが言葉の応酬で介入し、言葉尻から別文脈へと跳躍を繰り返す序盤の展開が爽快だ。児玉のふわりとした声の響きや、欧州のバレエ団で活躍したキャリアとテクニックを封印した日常的なピッチによるダンスは、隠しきれない筋の良さと、チャラ男でもオタクでもテロリストでもあるような今日のドン・キホーテ像を造形する。一度だけノーブルな王子の流儀でヒロインに応じる場面があり、その振舞いの落差もまた逃走的なドン・キホーテぶりを増幅するが、観客にとってはボーナスだった。
ヒロイン「ディディ」役の斉藤綾子の魅力は本作において決定的だ。寂寥感のある声の質、発語に宿る憂いのニュアンスと松原の書きつける言葉が奇蹟のような出会いを果たしている。児玉のスワンとのキュートな会話や、迷走しがちなやりとりや、渾身のダンスシーンを含んだ逢瀬の後の「また会いましょう、ここで」の一言に、この愛すべき時間はいずれ失われるのだという予感が滲んでいて、胸を突かれる。定形のヒロイン像に収まらない感受性の揺れを見せる一方、生まれ落ちたことが悲しみであるとどこかで知っているようなディディのキャラクターは斉藤自身のものでもあるのだろう。児玉とデュオを踊る場面の、体をいっぱいに使った動きを同調させてダンスを踊り終えてひと言「楽しい!」と発するディディの台詞は、斉藤が書かせたものだろう。むしろ本作の遊戯的な台詞の多くは、直接間接を問わず、ダンサーたちが松原に書かせた痕跡であるのだろう。
ある舞踏家の踊りを「受肉の喜び」と評した人がいるが、本作上演に見られるものは発露の喜び──上演の遂行的な局面を生きることの愉悦だと、言ってみる。
そうであるなら、こちらについても言及しなければならない。劇の最初、小野と中澤はト書きを声に出して発し、演劇言語の制度に対する侵犯を犯している。フロアの中央には最小限の装置としてパソコン操作用のデスクが置かれ、ここに松原と小野、中澤が待機して劇の進行を見守ったり音響を操作したりしている。従来バックヤードにいる者たちが演技空間に同席しており、しかも配役もされている小野と中澤は、同じ身体と声のピッチでト書きの発話から狂言回しの台詞へとシームレスに移行する。位相を異にするト書きと台詞が同じ平面におかれ、身体がそれらを行き来するのである。つまりこれは演技論に留まらず、劇の制度の構造に関わる。さらにト書きの一部は客観的な状況描写を逸脱し、情景に心情をのせた語りを含み(「窓に張りついて離れない心の友」、「時間は味わいであることを思い出し、涙が一滴」など)、能や文楽の謡いにもなぞらえられる形式上の遊びを試みている。因みに、今公演に伴って設けられた2回のオープンリハーサルを見学したが、通しの合間に出演者たちが自分の台詞を練習しており、任意の発話のおそらく偶然の交差が、楽しげなやりとりとしてその場に成立している場面を目撃した。各々が気ままに声にのせ、細切れに発するそれらは完遂を意図しない発話の「こぼれ」であるが、時にこれ以上ない愉楽の瞬間を立ち上らせる。クリエーションの現場とは時にこのように恩寵のような瞬間の訪れる場であるのだろう。
さて一方で、本作は紛れもないメロドラマの構造をもっている。主人公の二人がどちらへ転がっていくか予測のつかない思考や感受性を示すのに対し、よく見れば物語の磁場を作るモチーフが散りばめられている。『白鳥の湖』のバレエ音楽が随所で流れるのも然り。そして主人公以外の人物たちも物語の骨格を支える側である。中澤に配役された複数の人物はスワンの死んだ友人であり、過去であり、時間軸そのものと考えられる。狂言回しの「矢印」は「物語」とも「タケシ」とも称する役どころの三位一体の存在としてドラマの構造に太い主柱を通す。支離滅裂のスワンに対し、真実や思慮深さのメタファーとなるこの人物(たち)を、中澤は哲学的な問答を通してくっきりと造形している。
── あなたは何者ですか?
── ぼーくーが聞いてるんだ。
── わたしはあなたの矢印です。
言葉のセンスにしびれるが、この「矢印」は「時間軸をもった物語」そのものと読め、この三位一体の人物によって、スワンは物語に繋ぎとめられる。小野の演じる「気印」「ハハ」「ミチコ」は、呪いをかける役どころの母、ヒロインを泰然とした世の理(ことわり)によってたしなめ支える乳母と、こちらも物語の定形をなす役者が揃ったことになる。シスターフッドによって「守ってあげる」と約束した『再生数』(前出)(2022、戯曲・松原俊太郎、演出・スペースノットブランク)のミチコの再来でもあろう。
何より「物語」の視覚的なモチーフとなるのが、主役の二人がフリースペースを巡って描く動線だ。前述のように、同期し、交差する動線は主人公たちの出会いや行方を暗示するが、2本の線は舞台奥の両端に設置されたテントをそれぞれ起点としていて、フロアを巡ると再びテントに帰ってくる。やがてこの反復がどうやらループ構造であることが明らかになり、さらに、テントがその入り口になっているワームホールを通じて2階ギャラリー=別の階層世界を設定したメタ構造も示される。人物たちはループの外に出たいと望み、実際にギャラリー背後の扉を開けてフリースペースの外へ出ていく。
劇空間に独自の時間構造を作ること、その構造から外へ出ることは、松原とスペースノットブランクによってこれまでにも実践されてきた劇構築の方法論だ。『光の中のアリス』(2020)では鏡面の反射が、『再生数』(2022)では舞台(上演)とスクリーン(上映)の混合が、作り出した独自の構造を、『ダンスダンスレボリューションズ』では動線のループ構造が担う。また2階ギャラリ―を利用し、上演を俯瞰する上位の階層およびメタレベルの視点を設けることも、従来の舞台芸術の制度/構造/言語/形式を構築し直そうとするスペースノットブランクのミッションに沿ったものだろう。
── あなたがループの外に出るんじゃなくて、ループを外に出してあげたら?
ルイス・キャロルばりの言葉遊びにも聞こえるが、希望を感じさせる最後の台詞である。だが正真正銘の最終の場面で、ヒロインとヒーローが小野と中澤に交代していることが示唆される。物語の強固なループは永遠に続くのか。構造の中で、遊戯と創造の瞬間に身を投じ続けることが希望だろうか。
動線、時間軸、俯瞰する階層。劇世界を構成する複数のフェーズの構造を、舞台芸術の言語/形式の再構築に重ね合わせる構想が鮮やかだ。この構造上の冒険と、遂行的な身体の発露との緊張関係が本作上演を成立させている。
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