Spacenotblank

続・継承する身体|桜井圭介:講義+ワークショップ「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」レポート|加賀田玲:よそ見と痙攣

加賀田玲(俳優・ジョンのサン・障害者介助)
撮影:浅沼弥沙
俳優、バンド「ジョンのサン」、障害者介助。1996年福島県生まれ。早稲田大学文化構想学部文芸・ジャーナリズム論系卒業。俳優としての近年の出演作に、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』(2024年)『ラブ・ダイアローグ・ナウ』(2024年)『魔法使いの弟子たちの美しくて馬鹿げたシナリオ(作:松原俊太郎)』(2025年・2026年)、オフィスマウンテン『トリオの踊り』(2024年・2025年)、三枚組絵シリーズ『伸り反り』(2025年)『群の群れ』(2026年)、ワワフラミンゴ『とっちらかってるね』(2025年)など。

 早稲田の文化構想学部で単位が足りず5年目、卒業するにはほとんど単位を落とすことができない状況だったその年に桜井さんの「バレエ・ダンス論」をとっていた私は、(事前に指定されたいくつかの作品のなかから)砂連尾理+寺田みさこ『O[JAZ]Z』の映像を見てなんとかレポートを書き、記憶が正しければB評価(降順にA+、A、B、C)をもらい、そのことのおかげもあって大学を卒業した。
 そのころまだ俳優もはじめておらず、演劇は見ていてもダンスのことはほとんど知らず、砂連尾理のことも濱口竜介の映画を通して名前を覚えていた程度で、もちろん作品を見たこともなかった。「バレエ・ダンス論」はあまり熱心に出席していなかったのではないかと思う。
 数年経ったいま、桜井さんの講義と(大学ではなかったが)ワークショップを別の形で改めて受けることができてよかった。自分にはどういった関心があるのか、自分はどういう変遷をたどってきていまどのような立ち位置にあるのかということは、外から規定されてはじめて見えてくるものだという感じが自分にとってはしている。当時の自分といまの自分の違いを感じる。以前はそれほど関心がなかったダンスにもいまは興味があるし(講義の前にはユーロスペースでマース・カニングハムのドキュメンタリーを見た)、前半に語られた桜井さんの来歴で出てきた固有名詞はほとんどがわかるものだった(「バレエ・ダンス論」では特段桜井さんの詳しい活動歴などは話されていなかったはずだが、もしそのときに聞いていたらわかっていた固有名詞はいくつあったか)。
 そして、講義とワークショップを通して、自分がこれまでぼんやりと考えてきたことにピントが合わせられたようでもあって、そのことは「よそ見」と「痙攣」という言葉でいくらか言いあらわせたらいいと思う。

 友人は私のことを一言であらわすと「よそ見」だと言った。
 大学生のころ私がスタッフで参加していた自主映画の撮影現場でこういうことがあった。
 現場では、ある俳優がアパートの一室のドアの外からその部屋のなかにいる相手に対して一方的に話し続けるというシーンの段取りをしていた。室内は画面にうつらず、なかの人物には台詞もないが、監督は相手役の俳優もちゃんと室内にいるようにという指示を出していた。
 内側からの切り返し(注1)を撮るとき、撮られている俳優の相手役やスタンドインのスタッフをカメラの横や奥に立たせるなど、(俳優の演技のしやすさの便宜を図るためなどで)カメラにうつらない部分も省略しないということがある一方で、画面にうつらない部分の整合性は無視してしまう(いわゆる「嘘をつく」)ということもある。
 たとえば、座っている二人の会話を撮るとする。引きのカメラで撮る際には実際の位置関係をつくっておきながら、寄って切り返すときには座る場所を少しずらして撮るということがある。照明や三脚、画角の都合などいろいろな理由でそれはおこなわれるのではないかと思う。引きで撮ったときと違う場所に座っていても、(寄りで撮っているから往々にして背景はそもそも画面にはあまりうつっていなかったりフォーカスが合っていなかったりするので)よほど特殊な場所でもない限り観客には気づかれない、もしくは、目ざとい観客には気づかれたとしてもそれがさしあたって物語の進行に支障をきたすことはない、という前提があるから「嘘をつく」ことができる。
 その日の撮影も同じように嘘をついて、物語上は部屋のなかにいる人物を、うつらないからわざわざいてもらわなくてもいいということにして撮ることもできたが、監督はそうはしなかった。ここまで書いておきながら私は映画の現場のことをよく知っているわけでもないし、なかったので、「そうはしなかった」ことについて決して批判ではなく新鮮に、あるいは純粋な疑問として、物語上は部屋のなかにいる人物を画面にうつらなくてもそこにいさせるとするなら、いまこのシーンにはいないこの映画の他の登場人物も、「物語上は」別の場所で生きて暮らしているはずだから、その俳優のスケジュールをおさえて、どこか撮影現場ではない別の場所で演技をさせ続けていないといけないのではないか、と思った(でも普通そんなことはしない)。
 友人はこの話を聞いて、私のことを「よそ見」をする人だと、その言葉から受ける印象とは違って、むしろ肯定的に表現した。他のスタッフは撮影現場で目前のことだけを考えていてそんなことを考える余裕もないはずで、目の前のものだけを見ているのではなく、そこから少し外れたところへ視線を向けられるのはすごいという意味で。
 その言葉に励まされたわけでもないが、私は散漫に「よそ見」を続け、いろいろな興味に揺さぶられ、いつの間にか俳優をやることにもなっていた。

 エリック・ロメール監督『海辺のポーリーヌ』で、開始から20分ほど経った避暑地での2日目の朝、ポーリーヌは従姉がゆきずりの男とベッドに寝ているのを窓の外から目にする。直後、たくさんの紫陽花が咲く前で大きく朝の伸びをする彼女。その両手がこれ以上ないくらい固く握りこぶしを作っている。その力強さに、自分はポーリーヌではなく、それを演じるアマンダ・ラングレを見る。俳優が役を演じている身体をやめないまま、しかしその役におさまらない生が漏れ出た姿を見ることができたように思って感銘を受けた私は、この握りこぶしのことを何年も考えていた。
 先日数年ぶりに見返した鎮西尚一監督『パンツの穴 キラキラ星みつけた!』で私が一番感動したのもそうしたシーンだった。映画の後半、夜の港に係留されている漁船に忍びこむ少年と少女。少女は腕をぴんと伸ばして盗んだ酒瓶を何度か少年の方に差し出し、二人はその酒を飲みかわす。増村保造の監督デビュー作『くちづけ』の序盤、川口浩の隣でハイボールをおかわりするときの野添ひとみを思いだせもする少女のその腕の動き。が、三度目に瓶を差し出したとき、演技が少しだけ弛緩するのが、こう言ってよければ気を抜いたのが、わかる。そのときの感動。
 だったら演技をしていない人をただ眺めていればいいのではないか? そうではなくて、演出されている身体が、それでもそこからはみ出る瞬間に、かえってその人が本当に生きている実感が湧く。白石悠「ワタナベイビーさん(注2)」の歌詞「繰り返す何度目かの話に嘘が紛れ込む瞬間なんかが一番愛おしい」は、私にはこれと同じことを言っているようにも聞こえる。
 ロメールの映画のアマンダ・ラングレのように、自分もどうにかしてうまくこぶしを握ってみたい。そう思うほどそれはできないので、そのためにできるだけ身体にフィクション(たとえば従姉のベッドシーンのような)を集めて、それが身体に作用したとき、力をいれてしまう手がうまく握りこぶしになっていてほしい。俳優としての自分はそういうことを考えてきた気がする。フィクションによって身体が思いがけず動かされてしまうその一瞬を、ここでは広く「痙攣」と呼んでみてもいいと思う。

 「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」は(「続・継承する身体」のこれまでの回同様)前半の講義と後半のワークショップにわかれる。

 前半の講義では、1コマ目としてはじめに桜井さんの来歴が語られる。
 参加者には桜井さんの年表などが書かれた資料のデータが配布される。同じものがモニターにも投影され(スタジオのテレビに桜井さんのノートパソコンがつながれ、映像や音楽を流す場合はミキサーを経由して左右のスピーカーに音声が出力される。これまでの回でモニターが使われた場合もミキサーやスピーカーまで持ち出されることはなく、ささやかなこだわりを感じるできごとでもあった)、それをもとに話は進むのかと思われたが(1984年:原宿ピテカントロプス・エレクトス/1985年:「REPLICA」……)、開始早々「(年表のなかで)何か気になることある?」と(誤解を恐れず言えば)おぼつかない足取りではじまる。そのラフさが自分には居心地よくもある。開始直後ということもあってかこの時点では特に質問は出ず、結局そのまま年表が振り返られていく。
 1980年代なかばに主に音楽に関わる分野からキャリアをはじめ、ラジカル・ガジベリビンバ・システムや遊園地再生事業団など舞台芸術の方面にも手を伸ばし、また、ある時期からはダンスについての文章を書くことにもなるという流れ。2000年代に入ってからも、「トヨタコレオグラフィーアワード」の選考委員や「吾妻橋ダンスクロッシング(注3)」のキュレーション、SNACやSCOOLの立ち上げ、舞台音楽家としてはミクニヤナイハラプロジェクトや地点、モメラス、わっしょいハウスなどとの関わり、直近では「ニューダンス研究会」や「SCOOLエクスペリメンタル・ラボ」シリーズ(注4)の始動など、その時々の関心に応じて活動の領域を広げ、移してきた履歴が紹介される。そういった興味の現在地としてK-POPや韓国ドラマがあり、Dance Base Yokohamaでおこなわれた「ニューダンス研究会」による「ニューダンス・テクノロジーズ」の映像が流されたのをきっかけに、桜井さんと参加者とのあいだでK-POPと韓国ドラマについての話題がしばし続けられる。

 「吾妻橋ダンスクロッシング」のダイジェスト映像を見る。
 何度も名前は聞いていたが自分がぎりぎり間に合わなかった(無期休止となった2013年、高校2年の私は同級生に連れられてはじめて舞台を見に行った。東京芸術劇場シアターイーストで、作:つかこうへい/構成・演出:三浦大輔『ストリッパー物語』。つかこうへいは名前だけしか知らず、三浦大輔もポツドールも知らなかった)イベントで、この時代に観客でいてみたかったと純粋に思う。自分の周囲でもこうしたインディペンデントなショーケースイベントが開かれているのがいくつか目に入ってくるが、批評家がキュレーションするものはあまりないような気がする。
 名前に「ダンス」とついてはいるものの、それこそ桜井さんの経歴と同じくジャンル横断的なパフォーミングアーツのフェスティバルであり、「普段は各自ジャンル内で活動するアーティストたちを『出会わせる(クロスさせる)』いわば『スクランブル交差点』としての役割を担ってきた(注5)」というこの企画の説明を読むとき、「続・継承する身体」のオープンコールに際して小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクが掲載した「舞台芸術およびその周縁にあるアーティストたちの実践に触れ、考え方を交換し、異なるコンテクスト同士を接続するための時間をつくります(注6)」というメッセージに立ち返ってみる私がいる。

 話を聞いていると、桜井さんの歴史はそのまま「めげ」の歴史に見えてくる。何度も登場するのは「めげて」「めげちゃって」という言葉。助成金の申請書に何を書いても通る時期があったが近年はそうはいかなくなったこと。体育大学の舞踊科の実技授業で、生徒たちにまったく話が通じなかったこと。人前でライブする際、一度でもミスをするとそのあとずっと引きずるということ。それらが「めげ」の記憶とともに語られる。
 また、「中止」や「頓挫」の歴史であるとも言える。もともと森美術館の「六本木クロッシング」に付随する企画として西麻布スーパー・デラックスで予定されていた「六本木ダンスクロッシング」が、森タワーの回転ドア事故で中止になったこと(のちにアサヒ・アートスクエアに場所を変えて成立したのが「吾妻橋ダンスクロッシング」)。第1弾に花形槙+吉田萌を迎えて昨年はじまった「SCOOLエクスペリメンタル・ ラボ」シリーズだが、第2弾に適したアーティストが誰も思いつかないということ。
 そして何より、すべてを覆うのが興味の移り変わりの歴史だった。入れ込んでいたアーティストが売れて、一般に評価が定まっていくにつれて、もう自分が関与する局面ではないなと感じると離れる、といった説明もあったが、とにかく冷めるときは「自分でもいかんともしがたく冷める」。その態度を「よそ見」と言ってみたい。桜井さん自身、「俺、人非人だよね」「関わったフィールドへの責任感がない」と(なかば冗談や韜晦のようにではあるものの)述懐するが、そこには、いま目の前でおもしろいと思ったものへの反応を優先してきた人の率直さがあり、そうした態度でないとできないことがあると思わせられる。

 講義の2コマ目は「私の考えるダンス」。桜井さんの考えるダンスのいくつかの観点を、映像をまじえて確認していく。「ダンス=グルーヴ」(音楽=ダンス)主義、「部分(も)ダンス」論、「汎ダンス」主義など。
 いくつか例を挙げると、「ダンス=グルーヴ」(音楽=ダンス)主義というテーマでは、ジャストのタイミングや正確なポジションからのズレによって発生するノリに注目する。正装した男女の踊るパーティーのなかで同じ振付で踊るが少しモタっている年配の女性の映像(注7)やピナ・バウシュの『春の祭典』のリハーサル映像など。
 「汎ダンス」主義とはあらゆるものに質としてのダンス性を見出すことで、たとえば、ジャン=リュック・ゴダール監督『女と男のいる舗道』でのアンナ・カリーナが、カフェで履歴書を書いている最中記入するために自分の身長を突然右手で計測するシーン(注8)を見る。
 そして話題は桜井さんがかつて提唱した「コドモ身体」論へ。配られた資料には「2000年代、日本の演劇/ダンスに出現した『ガキガキ、ギクシャク/ヘロヘロ、ダラダラ』な踊り/演技態を、発育途上の子供(とりわけ幼児)のように『身体コントロールが不完全・不徹底』な状態を(むしろ)『グルーヴィ』即ち『ダンス的』であると見做し肯定するための造語(概念)」とある。2000年代の日本の演劇やダンスに限らず幅広く「コドモ身体」の参考映像を見たなかで、とりわけ思い出しておきたいのはDEVOによるローリング・ストーンズのカバー「(I Can’t Get No) Satisfaction」のミュージックビデオ(注9)。映像では、DEVOのメンバーの演奏シーンの途中にSpazz Attackという人物が痙攣するように踊るさまが何度かはさみこまれる。
 この「痙攣」というテーマを引きつぐようにして、後半にはワークショップがおこなわれる。

 「身体を動かして『音楽的に踊る』とはどういうことか?を体感するミニWS」と題される後半のワークショップ(実作者としての桜井さんは音楽家としての認識が強かったので、桜井さんが立ってダンスのワークショップをやってくれるということに驚く)。
 大きく輪を作って立つ参加者。「コドモ身体」を実際にやってみようという桜井さん。
 まずおこなわれたのは「ビートの細分化&痙攣・脱力のエクササイズ」。流される曲のビートを細分化して考え、動いてみる。はじめは8ビートで、次に16ビート、その次に32ビート、64ビート、128ビートと倍数になっていき(鈴木愛理(注10)が頭に浮かんでくる)、最終的には通常の人体であらわすことは不可能になって、身体は痙攣している。その身体を、自らの意思のもと脱力させたり、あるいはまた力を入れたりしてコントロールし、踊る。
 次にやったのは「部分(不自由)で踊る&『口三味線』(フレージング)を身体でやる」ワーク。都々逸やムード歌謡などいろいろな種類の(場合によっては覚えるのが困難な)フレーズの一部が流され、そのフレーズを暗記する。フレーズを口で奏で(口三味線)、音としてあったフレーズを身体の一部位のみを使って視覚的に再現してみる。このときも身体は場合によっては痙攣に漸近する。
 ロメールについて書いた自分の話に引きつけて言えば、ここではフィクションはビートやフレーズという形で到来していた。

 「よそ見」と「痙攣」は、どちらも自分の意思だけでは完全には制御できない、比喩的にであれ物理的にであれ、なかば不随意な運動だと思う。よそ見は視線が勝手に別のところへ行ってしまうこと。痙攣は身体が勝手に動いてしまうこと。どちらもなにか目前のものを成立させるためには、ある意味で余計なものかもしれない。しかし、私が演劇やダンスや映画を見ていて、また、私自身が俳優として身体を動かすなかで、いちばん気になってしまうのは、そういう余計なもののほうだし、そうすることしかできないことを不随意と呼ぶ。そうしたことはうまく言葉にするともなく漫然と考えてきたことではあったが、桜井さんの講義とワークショップを通して考えに言葉が与えられ、私が痙攣とよそ見をしながらいやしくも俳優や人生を続けてきたことが肯定されたと錯覚であっても思え、振り返れば留年という「めげ」の結果ほとんどたまたま「バレエ・ダンス論」を受講することになったのもすばらしいよそ見だった。

――

注1:映画における「切り返し」とは、向き合う複数の人物、たとえば二人の人物ABについて、Bを見るAのショットとAを見るBのショットを交互につなげる方法のこと。切り返しにおいて、Aを撮る際に相手役Bの後方から身体の一部や全部をうつり込ませることを「外側からの切り返し」、うつり込ませないことを「内側からの切り返し」ということがある。内側から切り返す場合、相手役が実際にカメラの向こうにいるのかどうかは画面からは確定できない。
注2:ワタナベイビーさん | 白石悠 | OCIRCO RECORDS
注3:吾妻橋ダンスクロッシング
注4:花形槙+吉田萌《ハイパー・テクスチャ・リンク》 | SCOOL
注5:吾妻橋ダンスクロッシング実行委員会 – アーツカウンシル東京
注6:「続・継承する身体」のためのオープンコール __ Ayaka Ono Akira Nakazawa Spacenotblank 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
注7:96-year-old woman tears up the dance floor
注8:Anna Karina is measuring her height (from Vivre sa vie)
注9:DEVO “(I Can’t Get No) Satisfaction” [Official Music Video]
注10:Cute Airi♡ #SuzukiAiri #HelloProject #HelloOta #Tsunku #16beat #beat #As expected #Amazing #rhyth… – YouTube

桜井圭介:講義+ワークショップ「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」レポート|加賀田玲:よそ見と痙攣
橋本真那:講義+ワークショップ「主役をずらすためのテスト」レポート|和田華子:隣り合う人。
康本雅子:講義+ワークショップ「オープン毛穴、ゴーゴー迷子」レポート|山口なぎさ:蛇口に水を通すように
山本浩貴:講義+ワークショップ「〈喩え〉を作る」レポート|坂本彩音:そうぞうの余白/他者のまなざしを自分の体に通してみる
中村蓉:講義+ワークショップ「ダンスをめぐる開拓と本音」レポート|大迫健司///ナクテモ:諦めのあきの飽き飽きの秋になる前のレッツ夏、台風の合間の青空へ曇り空でもまた逢おー
鴻池留衣:講義+ワークショップ「本人という謎」レポート|長谷川祐輔:秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉
池田亮:講義+ワークショップ「線による空間と会話」レポート|おかだゆみ:所感と考察と手

続・継承する身体

続・継承する身体|橋本真那:講義+ワークショップ「主役をずらすためのテスト」レポート|和田華子:隣り合う人。

和田華子(俳優)
撮影:明田川志保
俳優。青森県十和田市出身。
2019年より青年団所属。小劇場を中心に舞台俳優として活動。近年の出演作に、ムニ『ことばにない』、趣向『べつのほしにいくまえに』、T factory『ヘルマン』、青年団『S高原から』、鳥公園『泳ぐ彼女は果てを見ている』など。2024年、趣向『べつのほしにいくまえに』でCoRich舞台芸術まつり!演技賞を受賞。
近年は、自身が「なぜだろう」と感じた問いを出発点に、舞台という形式に囚われず、その都度もっとも適した形式で作品を創作する活動も行なっている。個人ユニット「和田企画」では、演劇作品『なる、ならない、なれない、ある』を企画・出演。

先日、橋本真那さんの講義とワークを受けた。
会場に入ると、真正面に2灯の照明を取り付けたライトスタンドが立っていた。
他の参加者と「これ持ってきたんだ〜」と話しているのが、今日講義して下さる橋本さんなんだな。
会場は駅から少し歩く。自分の講義やワークの為に、長い物や重い物を運搬してきてくれる人を見ると「えらいな〜」という感想が浮かぶ。
橋本さんの第一印象は、えらい人。

◉講義パート
講義パートは主に、橋本さんのこれまでの来歴と作品をベースに語られた。
生まれや、何故台湾への留学を決めたのか、台湾とはどのような国か、行った大学はどのような所だったのか、歴史的な話と地理、その滞在時期に起きていたパンデミックや軍事演習の話、橋本さんの身体の所在、日本やそこへ住まう私たちとの距離、そのような話。

・台湾 友愛会の動画


(画像引用:國立政治大學選舉研究中心 Data Archives「Trends of Core Political Attitudes — Taiwanese / Chinese Identity」)


(画像引用:産経新聞「台湾有事は日本有事」が現実に 中国演習で高まる脅威」)

〜講義中のメモ①〜
橋本さんの身体は、コロナ禍の台湾から、どこか別の場所へはいけない。
一人っきりの寮に身体がある事、あった事は、変えられない。
橋本さんの身体は、2022年も台湾に。
様々なルーツの人々が、ある事柄について語っている時に、自身のその身体の処遇やルーツの歴史は変容出来ない。
それらの事をネガティブな事やドラマティックな悲劇的な事と捉えず、
居るなあ、“そして”どうしていこう。というような、
“そして”を考えられる人なのかなと感じた。
“そして”を考えるために、(個人の体感のみを重視する訳ではなく)過去に横たわる歴史を参照して、肉体に蓄積した記憶も参照して、肉体でもってそこへ行って、横断して。
今、他者と隣り合えるためには、を考えている。

そのような話から、“そして”として、『パトリオティズム』『In the Distance: 距離之中』などの作品、『Dancing with Neighbors+』などのプロジェクトの記録映像を見る。

Dancing with Neighbors+

〜講義中のメモ②〜
ダンス、物事を思考するための過程
自身がどのようにあるべきか
どのような身体でいられるか
ダンスを用いて問いを咀嚼する。
身体を用いて何が出来るのかという事に焦点

◉ワーク

そして、ワークへ移る。

会場の電気が消され、橋本さんが持ってきたライトスタンドに暖色が二つ点る。向かい合った椅子に参加者が座り、ライトに照らされる。

行ったのは「ア・シアター」という、空間を劇場と仮定し、役割が分かりきっている状態からズラすワーク。参加者は開演後、自分が演者なのか観客なのかを探りながら3分間を過ごす。終演後、演者はお辞儀を、観客は拍手をし、約1分間の休憩を挟んで再び上演する。

「A THEATER」について

上演中は、沈黙や互いの視線、そして二人を観る観客たちの視線からくる緊張感が張っているが、終演すると空気が弛緩する。休憩中、二人は互いを演者だと思っていたとか、観客だと思っていたとか、さっきまでの3分間を振り返る。終演後の座談会のようで、上演中の二人の事も、休憩中の二人の事も好きになる。こんな深夜ミニドラマが毎日放送されていたら良いのに、とかを思った。

参加者は二人を、弛緩した身体でニコニコ眺めていた。

自分がパフォーマーとして行ってみると、自身のコミュニケーションの癖が色濃く反映される。

沈黙にどれくらい耐えられる個体か、気まずくなった時に得意分野に逃げる個体か、どんな事があってもめげない個体か。相手をどうさせられる(どうさせられない)(どうさせづらい)個体か。

休憩中には互いにさっきの3分間を振り返ったが、会場からの帰り道には、自身のこれまでの事が否が応にも想起された。

橋本さんの創作の軸の一つには、「他者を通じて自己を知る」というものがある。その言葉には国や歴史やアイデンティティなど、もっと大きな枠組みも含まれていると思うのだけれど、その中のとてもミニマルな一つとして、自分自身が照り返される時間だった。

橋本さんの作品やプロジェクトは、一見すると、人と人との隔たりを越えようとするもののようにも思える。

しかし、講義中の橋本さんの言葉や、実際にワークを通じて浮かんだのは、誰かと「繋がる」「分かりあう」「親密になる」「溶け合う」ではなく、

「隣り合う」

という言葉だった。

一連の講義では、池田亮さん、鴻池留衣さんの回でも、バウンダリーの大切さが太字で語られていたように思う。

個々がある。身体がある。別の身体の他者がいる。その隔たりを無くすのではなく、そこからの“そして”として、ダンスを用い、どう隣り合えるのかを考えている。

だからこそ、ワークをしていて、そのベースに安心を感じられたのかなと思う。

橋本さんは、身体が確かにそこにある事を疑わない。

身体を偶像崇拝的にではなく、フラットに信じている人なのだと思う。

運動能力という事ではなく、体温があること、柔らかいこと、重いこと。時間と空間を共有する身体から得られる情報の多さや雄弁さ、その確かさを信じている。

政治的な事を取り扱う時にも、言葉で出来ることとダンスで出来ることを捉えた上で、身体と身体との間に起こる作用を信頼している。

だから『話しあうためのやさしいおどり』や『Dancing with Neighbors+』も、分かりあうためというより、別々の身体のまま他者と隣り合うための試みなのではないかと思った。

橋本さんの第二印象は、隣り合う人。

“そして”9月に、橋本さんの作品の再演がある。

隣鄰 TONALI『DEAR NEIGHBOR (COMMA)』
隣鄰 TONALI『DEAR NEIGHBOR (COMMA)』トレイラー

(これは初演の北千住BUoYの動画らしいのだが、こんなにピカピカの床のBUoY初めて見た。)

桜井圭介:講義+ワークショップ「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」レポート|加賀田玲:よそ見と痙攣
橋本真那:講義+ワークショップ「主役をずらすためのテスト」レポート|和田華子:隣り合う人。
康本雅子:講義+ワークショップ「オープン毛穴、ゴーゴー迷子」レポート|山口なぎさ:蛇口に水を通すように
山本浩貴:講義+ワークショップ「〈喩え〉を作る」レポート|坂本彩音:そうぞうの余白/他者のまなざしを自分の体に通してみる
中村蓉:講義+ワークショップ「ダンスをめぐる開拓と本音」レポート|大迫健司///ナクテモ:諦めのあきの飽き飽きの秋になる前のレッツ夏、台風の合間の青空へ曇り空でもまた逢おー
鴻池留衣:講義+ワークショップ「本人という謎」レポート|長谷川祐輔:秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉
池田亮:講義+ワークショップ「線による空間と会話」レポート|おかだゆみ:所感と考察と手

続・継承する身体

続・継承する身体|康本雅子:講義+ワークショップ「オープン毛穴、ゴーゴー迷子」レポート|山口なぎさ:蛇口に水を通すように

山口なぎさ(ダンスアーティスト・ダンサー)
撮影:No.44
1997年、宮城県生まれ神奈川育ち。
桜美林大学芸術文化学群卒業。在学時は木佐貫邦子に師事。
断片的な記憶や景色、目には見えない柔らかな感覚を身体を通して掬い上げ、ダンス作品やパフォーマンスへと落とし込む。
生活の中で生まれる繊細な「記憶」をパフォーマンス作品として「記録」するプロジェクト『六畳半』を主宰。日常に潜む小さな変化や感覚を見つめながら創作活動をスローペースで行っている。
自主制作、発表を行う一方、ダンサーとしても舞台に立ち、他者の作品における身体表現にも携わる。近年は伊藤千枝子のもと、踊る身体の本質的なあり方について研究と実践を重ねている。
また、自身の身体表現の経験を活かし、療育施設にて子どもたちへのダンスや表現活動の指導にも取り組んでいる。

今回で5人目の招聘アーティストとなるダンサー・振付家の康本雅子さんを迎えた。これまでのワークショップよりも1時間早く、参加者がスタジオに集まる。

今回のタイトルは、「オープン毛穴、ゴーゴー迷子」。

私は家を出る前にこのタイトルを目にし、「肌の毛穴の通りがスムーズなほうがよいのでは?」と察し、いつも使っていたファンデーションをやめてみた。何気なくしたこの選択が、後のワークショップでの身体感覚にもつながっていくことになる。

これまでと同じように、前半は講義から始まった。
椅子に座りながら、ストレッチをしながらと、それぞれのスタイルで聴講していた。

ただ、これまでのようにパワーポイントの資料を見る形式ではなく、康本さんのiCloudにある箇条書きのメモがそのまま画面に映し出されていた。講義中、私は画面の資料以上に、ほとんど康本さんの表情を見ていたように思う。

講義の内容は以下のように進んで行った。

・ダンサー、振付家になるまでのプロセス
・“ダンスで生きていこう”と決心したこと
・子育てと移住について
・東京に戻ってきた時のこと
・「質感」が身体の中に入るということ

康本さんが振付家になるまでのバックパッカー時代のエピソードなど、クローズドでライブ感のある講義は、まるで直進するハイスピードのバイクに乗っているようだった。

場所を移動し、人と出会い、その土地に入り込んでいく。康本さんのこれまでの道のりには、120%のフットワークの軽さと、迷うより先に身体が動いていくような勢いがあった。その行動力そのものが、康本さんの活動を形づくっているように感じられた。

講義の中で出てきた、

「直球ボール、草の根活動だからね!!」
「新たな視点なんていらない!!」

という言葉が印象に残り、私はそのままノートに書き留めた。

新しい視点を探しに行くのではなく、自分の目の前にあるものにまずまっすぐ向き合い、動いてみる。康本さんのこれまでの活動を聞いた後だったからこそ、その言葉には強い説得力があった。その言葉が、自分の中にもガツンと入ってきた。

福岡や京都など、東京以外の地域での生活についての話も印象に残った。

近年、ダンサーや振付家が地域おこし協力隊や町おこしなどをきっかけに地方へ移り住み、その土地でダンスや芸術活動を行うケースを耳にすることが増えている。康本さんも、東京だけを活動の拠点とするのではなく、福岡や京都など異なる土地で生活しながら活動してきた。

その中でも、「東京ではダンスに必死で、生活を楽しめていなかった」という言葉が強く残った。

ダンスを続けるための環境として東京を見るのではなく、ひとつの土地で生活することそのものと、ダンスをすることをどう共存させるのか。康本さんの経験からは、活動する場所を変えることで、ダンスとの向き合い方だけでなく、日々の暮らし方そのものも変化していくことが感じられた。

「生活」と「ダンス」を別々のものとして考えるのではなく、その土地で誰と暮らし、何を食べ、どのような時間を過ごすのか。そのすべてが身体や創作につながっていく。
隣の人とご飯を分け合うような生活がしたい。

☆

数日前に事前共有として康本さんは「いかに他力本願で動くかが、近年の自分の関心ごとです。」と受講者に伝えていた。

小休憩をはさみ、椅子を片付けて、いよいよワークショップが始まる。

ワークは、他者との接触や皮膚感覚を手がかりに、自分の意思だけで身体を動かすのではなく、「他者」や「物」「音」など、自分以外のものに身体を委ねていくことを扱う。

以下は、実際に行ったワークを、私自身が受け取った内容をもとに名付けたものである。

・背中合わせになる・触れる
二人組になり、まずは背中合わせになって互いの身体に触れる。

・背中揺らし
康本さんが毎日行っているという、背中を揺らすワークを体験する。

・パーソナルスペースに入り込む
相手のパーソナルスペースに、皮膚感覚を意識しながら入り込んでいく。

・対人の目を1分間見つめる
対象者と視点、焦点が合うところを高低差や距離を変化させながら探る。

・相手に動く場所を委ねる
長袖の肘関節あたりをつまみ、相手の身体を動かす。自分で動こうとするのではなく、どこへ動くのかを相手に委ねる。

・エネルギーを受けて動く
3人組になり、中心にいる人がエネルギーを発する。そのエネルギーを受ける2人は、自分の意思だけで動くのではなく、中心から受け取ったエネルギーによって身体を動かしていく。

・ミニおやつワーク
おやつを介して、親密な心身と繊細な意識、感覚を共有する。

・粘土の感覚を身体に入れる
粘土に触れるような感覚を想像し、その質感を身体の中へ取り込んでいく。

・音に委ねて動く
これまでのワークで経験してきた身体感覚を踏まえ、最後は音という「他力」に身体を委ねながら動く。

こうして箇条書きに並べるとかなり盛りだくさんな時間であったことが回想される。

ワークショップでは、他者との関係性や距離、視線、エネルギーなどを手がかりに、身体の動きがどのように変化するのかを体験していった。

他者との距離や視線を扱うワークでは、「ソーシャルディスタンス」という言葉が想起された。同じ空間にいても、他者との関係性によって適切な距離は異なり、視線に対するセーフティゾーンも一人ひとり異なる。身体は個人だけで完結するものではなく、他者との関係性の中で変化していくことが示された。

また、身長による視線の違いについての話もあった。背の高い人は、日常的に人を見下ろすような視線になりやすく、そのことで視界が閉鎖的になる。一方、上を見ることで視界を広く捉えることができるという。普段何気なく使っている視線も、身体の認識や空間の捉え方に影響していることが分かる。

続いて、他者のエネルギーや波を受け、その力に委ねて動くワークを行った。自分の脳からの指令によって動き始めるのではなく、他者から受け取ったエネルギーをきっかけに身体を動かすことで、動きの始まりを明確に捉えることができた。

他者から受け取るエネルギーが強すぎる場合には、身体がその力に翻弄される。一方で、繊細なエネルギーを受け取ることで、身体がその刺激に反応し、自然に方向を変えていく場面もあった。ここでは、動きを自分の意思によって一から生み出すのではなく、外部から受け取ったものを身体を通して動きへと変換していくことが試みられていた。

その中で、康本さんが話した「蛇口に水を通すような」という言葉が印象に残った。他力によって生まれたエネルギーを受け取り、それを身体に通して動きとして外へ流していく。水源があって水が循環するように、動きを止めずに継続していくための身体のあり方とも捉えられる。言葉と身体が接続される。

後半には、紙粘土を使ったワークが行われた。紙粘土を触り、その質感を自分の身体の中に入れていくというものである。ここでは、紙粘土という「物」を介して、皮膚から質感を身体の内部へ浸透させていくような感覚が扱われた。紙粘土の感触が皮膚を通り、身体の内側に入り込んでいくようなイメージを持つことで、外部にある物質と身体との境界を意識するワークとなっていた。

紙粘土の感覚が皮膚を通り、身体の中の血液と交わり、少しねっとりと身体の中へとへばり付いていくような感覚。あまりにもその感覚を入れこみすぎると身体か痒くなっていくようにも感じた。これまでのワークで扱ってきた“他者”や“エネルギー”のように“モノ”の質感が身体感覚そのものを変化させていた。

最後には、それまでのワークで扱ってきた身体感覚を踏まえ、音という「他力」に委ねながら動いた。ここまでに行ってきた、他者からエネルギーを受け取ることや、物の質感を身体に取り込むことなどが、音を介した動きへとつながっていった。

一連のワークを通して扱われていたのは、自分の意思だけを起点とせず、他者や物、音など、自分の外側にあるものを受け取りながら身体を動かすということであった。特に「他力本願で動く」というテーマは、単に他者に身体を動かしてもらうことではなく、外から受け取った刺激を身体の中に通し、自分自身の動きへと変化させていくプロセスとして捉えることができる。

今回のワークショップのタイトルである「オープン毛穴、ゴーゴー迷子」は、皮膚や身体の外側と内側の境界を意識する一連のワークとも重なっていた。私は朝、タイトルを見て、いつも使っていたファンデーションをやめて家を出た。ファンデーションによって毛穴を覆うという日常的な行為から離れた状態で、皮膚を通して他者や物、音などの外部のものを受け取るワークを体験したことも、今回のテーマを考える一つのきっかけとなった。

桜井圭介:講義+ワークショップ「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」レポート|加賀田玲:よそ見と痙攣
橋本真那:講義+ワークショップ「主役をずらすためのテスト」レポート|和田華子:隣り合う人。
康本雅子:講義+ワークショップ「オープン毛穴、ゴーゴー迷子」レポート|山口なぎさ:蛇口に水を通すように
山本浩貴:講義+ワークショップ「〈喩え〉を作る」レポート|坂本彩音:そうぞうの余白/他者のまなざしを自分の体に通してみる
中村蓉:講義+ワークショップ「ダンスをめぐる開拓と本音」レポート|大迫健司///ナクテモ:諦めのあきの飽き飽きの秋になる前のレッツ夏、台風の合間の青空へ曇り空でもまた逢おー
鴻池留衣:講義+ワークショップ「本人という謎」レポート|長谷川祐輔:秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉
池田亮:講義+ワークショップ「線による空間と会話」レポート|おかだゆみ:所感と考察と手

続・継承する身体

続・継承する身体|山本浩貴:講義+ワークショップ「〈喩え〉を作る」レポート|坂本彩音:そうぞうの余白/他者のまなざしを自分の体に通してみる

坂本彩音(俳優)
撮影:小林克彰
演劇・パフォーマンスユニットIE-イエ-所属。武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科卒業後、映画美学校アクターズ・コース10期を修了。2023年からワークショップのファシリテーターとして活動開始。2024年にまなざすこと/まなざれることによるケアを主題にした自主企画『光のモンタージュ』、2026年4月に『まなざしの庭』を上演。2025年には日記本『彗星は猫のおしっこの匂いがする?』刊行。

今日の講義に向けて、私たちには事前に宿題が課された。

「日々のなかで出会った出来事や風景」を200字程度の文章で2~4つ書いてくること。

もし書くことに難航したら、古賀及子さんの『5秒日記』に倣い、「1日のことをまるまる書こうとせずに5秒のことを200字かけて書く」ことを参考にしてみても良い、とのことだった。

今回の講師の山本浩貴さんは、小説、詩歌、戯曲、批評、出版、編集、デザイン、上演など、多岐にわたる表現活動を行っている。一見するとそれぞれ異なる技術が必要に思えるが、これらの根底には「何かに表現を認めるとはどういうことか」という一貫した問いが存在している。

ワークショップのタイトルは『〈喩え〉を作る』。表現と表現を結び、そのあいだから人とその周囲を身体に立ち上げさせる力――それが山本さんの言う「喩え」だ。

山本さんが小説を書き評価を受けるようになった初めの頃、周囲から「詩的だ」「比喩的だ」と言われるようになったことをきっかけに芽生えたのは、文章が「読む体」に起こす作用への関心だったという。

「離れたものを繋げて読むことによって、自然と自分の中で立ち上げられるものがある」
「文章はただの意味を保存した容器ではなく、人と世界を身体に立ち上げさせる」

これらの話を聴きながら、私はかつて通っていた大学の授業を思い出していた。

私は舞台美術を学ぶ学科に通っていて、そこで一番初めに受けた授業は影絵だった。この授業の目的は、例えば段ボール等を切り、なにかを形取ったものに光を当てるのではなく、あるものを影に通して見た時に、別の何かに見えるかを探り(例えば瓶の羅列が影を通すと街に見えるなど)、その想像の力を使って物語を組み立てる、ということだった。担当していた小竹信節先生(寺山修司の舞台美術等を制作していた)は、「演劇の基礎は見立てである」と話をしていた。

また、映画美学校に通っていた頃に劇作家・演出家の島村和秀さんから教わった、戯曲『ハムレット』に対して仮説を立てて批評し、それを「物」に置き換えてみるという課題のことも続けて思い出した。

私は置き換える物として「ロータリーキャンドルホルダー」を選んだ。キャンドルに火を灯すと、温められた上昇気流がプロペラを動かし、周りに付いている雪の結晶等のモチーフがくるくると回転しはじめる。ハムレットの狂いによって周りの人物たちの人生も狂わされていく物語が、私の中でその物と結びついた。

これらの学びを通して、目の前にあるもの(物に限らず言葉や人の動作)と自分の中にあるイメージを繋げて置き換える作業が演出の手がかりであること。また、観客として置かれたメタファーをそれぞれの経験を通した解釈で受け取る“余白”が面白くて、私はずっと演劇に携わり続けているのだと、自分の中で一本の道筋が出来上がった。そしてその道筋に、山本さんが話していることも繋がっているという感触があった。

一つの文章の中には触発の束がある。その束が、書かれていない人や周囲を人の体に立ち上げさせる。文章と自分の体のあいだにある空間から生み出されるそうぞうの力。これが山本さんの言う「喩え」なのだと、段々と自分なりに理解をしていく。

また、講義の中では岡井隆さんの詩が引用された。

「灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ」

本来ならば結びつかないはずの単語が並んだとき、読む人のなかでイメージが繋がり、何かがぐっと立ち上がる。例えば「林」と「愛」という二つの単語から、私たちは何かのイメージを勝手に遡ってしまう。表現と表現を結び、その間から世界を体に立ち上げさせる。また、なぜ作者はその二つを結びつけ成立させたのか、作者像と世界を遡って考える連想ゲームのようなものが始まる。この現象を生み出すのが、言葉や文章の持つ力である。

他にも講義のなかで、「喩え」にまつわる様々な具体例を話してくださった。聖書が比喩に満ちていること、相手の文章を別の素材で立ち上げるデザインや出版も喩えの一つであること、そして文章と上演が極めて近い表現であること。

「与えられたものをそのままとして受け取るのではなく、そこからどうしてもイメージを派生させてしまうのが人間だし、そこにAIには成しえない人間の面白さがあると思う。別に表現として提示されていないものでも、私たちは表現としてくみ取ってしまうことができるのだから。」

私は講義を聴きながら、改めて自分の表現活動の主軸である演劇と日記の共通点を感じていた。

誰かの日記を読んだとき、自然とその人の生活を想像する。その人のことを知らなくても、描かれている出来事を自分の経験を通して読み進める。自分の身に起きたことを思い出して悲しんだり、励まされたり、触発されて過去を振り返ったりする。それらはすべて、日記特有のただ日々の出来事が記録されている、という文章の余白が立ち上げさせる現象である。

私が開く演劇のワークショップでは、舞台側に立つ人はただありのままその場に立ち、今起きている現象に反応し続け、見ている側はその姿から想起されたものをシェアする、ということを行っている。自分はなにもしていないつもりでも、受け取る人はそのありのままの姿から様々なことを想起していることがわかる。

誰かの体を通して自分のことを見つめなおす。ここに人々が本当に必要としている体験が、人間ならではの豊かさが、詰まっている。

そしてこの話は、後半に行われるワークショップでの体験に繋がっていく。

ワークショップでは、宿題で書いてきた文章を匿名の状態でランダムに再配布し、自分以外の人が書いた文章二つを同一人物の日記だと捉えて、その人物になりきって「自分の昨日の日記」を書いてみるという試みが行われた。

目的は大きく二つ。

・他者の「喩え」の作り方を知ること
・自分の文章を他者がどう受け取り、それがどんな表現につながったのかを知ること

書き終えた後、書いた文章を共有し、二つの文章からどのような共通点を見つけて立ち上げたのかを一人ずつ発表した。私に割り振られたのは、以下の二つの文章だった。

① 水の泡の模様が連続して手前に向かって消えている。白い光の出所は目線の中央に配置されている太陽、太陽は少しずつ暮れようと地平線に向かって進んでいる。ここは日本で、中国語の会話が左右と後方から聞こえることから観光地の一種であるとわかる。水の音はしない。たまに魚のような生き物が跳ねる音がする。

② 飲み切った牛乳パックを広げる時に給食で教わった開き方を今でも続けているのだが、今日はうまくいかなかった。指の感覚で覚えていたことを何十年もやってきたのに頭で考えたらわからなくなってしまった。これは感覚でここまで来てしまったことへ少し虚しくなる。初めからやり直すなんてできないんだな。

①の文章からは、ミクロな視点、環境描写の多さ(よく周りを観察する人なのだろうと想像する)、映像として情景が頭に流れ込んでくる感覚、音への関心の高さ、そして感情が明記されていないクールさを読み取った。

②の文章からは、感覚派であること、ミクロな切り抜き方(5秒日記の参考による影響もありそうだ)、少しマイナス思考気味な面、そして「今起きていること」と「過去」とを繋げて捉える人物像が浮かんだ。

どちらの文章からも「一人でいる時間の空気感」と「ミクロな視点」を感じ取り、その二人の特徴を織り交ぜるようにして、以下の文章を書いてみた。

白い菊の花は果物の実のように包まれている。さっきまでこの窓に差し込んでいた強い日差しは陰り、続々と雫が流れ落ちていく。微かに線香の匂いがする。もうしばらく会いに行けていない人を思い出す。その時は会いに行こうと本気で思うのに、結局忙しさにかまけて実現させずにいる。こういうことを、他にいくつ抱えているだろう。すぐに行動に移せていれば、こうして情けなく思うこともなくなるのに。

完成した文章は、たしかに普段自分が書く文体とは異なるものになった。

ちなみに、私が宿題で提出していた文章のうちの一つはこのようなものだ。

バスを降りるとおばあちゃんが傘をさしてまっていてくれている姿がみえた。おばあちゃんの米寿祝い。寿司に日本酒にやきとり、スイカ。もう首のうしろまで手がまわらなくてつけれないからとアクセサリーをじゃんじゃん机の上に出してきてくれる。おばあちゃんはいつも私に会う前には美容院に行って髪をオレンジに染め前髪をトサカのようにかきあげ、いつだってキラキラのワンピースを着ていたけど今日はラフなTシャツで髪も立ち上がっていなかった。でも、年老いたな、という感じではなく、呪いから解き放たれたような、すっきりとした顔をしていて、勝手にうれしいきもちになった。

どちらも近日に自分の身に起こった出来事を書き起こしたものだが、こうして見比べてみると全くの別人に感じて、その違いが面白い。他の人よりも私は、一人でいる時間が少ないのかもしれない。そして人への関心は強いが、風景に対する関心は薄くて、なりきって書くにあたって改めて鮮明に情景を思い出して書き起こしたり、自分が感じていたことを思い返す作業があった。

また、参加者それぞれがどのように二つの文章と向き合ったのか、そのやり方や、気づいたこと、感想を共有しあった内容は以下のようなものだった。

・二つの文章のうち、より自分に近いと感じる方や共感できる方に偏って書いてしまう傾向がある。
・「自分はこういう風に物事を思い出せない」「こういう文体では書かない」というジレンマの発生。
・二人を融合させてなりきるというより、その二人と合流して肩を組むような感覚。
・文章から感じ取ったその人ならではの目線を踏襲した状態で街を歩き、その視点で文章を書いてみる手法。
・書かない部分の選択から浮かび上がる個性。
・当たり前に見ている世界が、他者のまなざしを通すことでその違いに気づかされること。
・文章から浮かんだ“この人っぽい”(著名人など)言葉の作り方を引用してみる試み。
・人の書き方を経由することで、何かを思い出すときの「思い出し方」そのものが変わる感覚。
・言葉の選択、粒度、解像度の差。

同じルールであっても、アプローチの仕方はこれほどまでに異なる。このスタディグループの醍醐味を改めて実感する時間だった。

山本さんの主宰するユニット「いぬのせなか座」という名前からも、今日教わったことの軸が浮かび上がってくる。

大体の星座は、点を線で繋いだところでその名付けられた形には見えない。名付けた人は、その曖昧な輪郭から、最近食べたものや、ちょうど学んでいたこと、関わりがあった人などを想起し、自分の中にしかない回路を使って立ち上がった姿を名付けていったのかもしれない。

このプロセスにも、山本さんの言う「喩え」がきっと含まれている。点と点を結び浮かび上がった線(それは想像するにきっと細長い丸の形をしているだろうか)を、「いぬのせなか座」と名付けた人は、かつて、あるいは現在進行形で犬を飼っているのかもしれない。飼ってないにしても生活の中に犬の存在が近くにあるのだろうな、と想像する。私には名付けることのできない名前だな、と思う。

他者の言葉や眼差しに触れることで、自分にはない回路を通して世界を再発見していく。この経験があるかないかで、日々の中での他者へのまなざし方が変わる。この体験を確かに自分の中に持っていれば、排他的な思考は減っていくんじゃないかということまで信じたくなる力が「喩え」にはある。「喩え」が人にもたらす意義を、改めて実感する時間となった。

桜井圭介:講義+ワークショップ「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」レポート|加賀田玲:よそ見と痙攣
橋本真那:講義+ワークショップ「主役をずらすためのテスト」レポート|和田華子:隣り合う人。
康本雅子:講義+ワークショップ「オープン毛穴、ゴーゴー迷子」レポート|山口なぎさ:蛇口に水を通すように
山本浩貴:講義+ワークショップ「〈喩え〉を作る」レポート|坂本彩音:そうぞうの余白/他者のまなざしを自分の体に通してみる
中村蓉:講義+ワークショップ「ダンスをめぐる開拓と本音」レポート|大迫健司///ナクテモ:諦めのあきの飽き飽きの秋になる前のレッツ夏、台風の合間の青空へ曇り空でもまた逢おー
鴻池留衣:講義+ワークショップ「本人という謎」レポート|長谷川祐輔:秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉
池田亮:講義+ワークショップ「線による空間と会話」レポート|おかだゆみ:所感と考察と手

続・継承する身体

続・継承する身体|中村蓉:講義+ワークショップ「ダンスをめぐる開拓と本音」レポート|大迫健司///ナクテモ:諦めのあきの飽き飽きの秋になる前のレッツ夏、台風の合間の青空へ曇り空でもまた逢おー

大迫健司///ナクテモ(ボディワーカー・ダンサー・俳優)
からだのこと。空間のこと。
場のこと。関係性とクリエーションの質。
からだを耕すと世界が変わる。
からだが変わると生まれ変わる、世界との触れ方が変わる。
世界との触れ方の多様さを見出したいと感じています。
世界の触れ方の変容体験が生じることがある、その可能性があるような場を置けるようになりたいという想いがあるようです。
そのひと自身に出会い直すような場、からだに出会い直すような場。
身体感覚や身体知。
無意識と意識との境目みたいなものがあるとして、その層や質が変容すると、さらにその先の層と出会えるようになってくるような感覚があります。
「なるべく、意識的に行うことをしない」ことで、起動していなかった層が動きだせる可能性にふれていく、というようなことに興味をもっているらしいこの頃です。

2026🦚8🕊️🐣🪽
3人目の招聘アーティスト、中村蓉さんにお越し頂いた日。13時。日本。17人。台風の合間の青空。
前半は、1時間くらいのトークおしゃべりくっちゃベリーと作品映像など。
後半は、動きます。ハードなこともありますができる範囲で。と蓉さん。

前半トーク。ご自身のプロフィールを表!と裏!で。表!では、振付家・ダンサーとして自身の歩みを、公表されているものを元にしながら。裏!では、人生の歩みと過去創作のバックヤードを公開。その後、休憩。

前半にしたお話では「わたしの踊り」がすり抜けている。後半のワークでそれが垣間見える、かもしれません。と、蓉さん。

後半のワーク。内容の概要は以下。
・風の振付け。風の強弱や変化を、例えるなら前奏AメロBメロ転調サビ、のような設定で動く。
・ことわざから、それぞれの動きを作ってみる。
・『BLINK 双面改瞬間真似(ふたおもてあらためまたたきのまにまに)』より、研ナオコさんの『かもめはかもめ』にのせて踊ったかもめの振付けを踊ってみる。
歌舞伎の双面という演出形式が用いられた作品『隅田川』において。うり二つの女が二人、一方が本物でもう一方は化物、2人を踊り競わせて本物を見抜く、という場がある。それを元に創作されたシーンで踊られていたのが、かもめの振付け。
・振り写しされたかもめの振付けを用いて、どちらが本物のかもめか、一対一の勝ち抜けかもめバトルへ発展。振付けを正しく、よりも、かもめです!を大事にしながら。

後半ワーク中の蓉さんの姿。ワークを手渡したものの、ワークを行うみんなのことを見て、一緒にドキドキしながらのけぞるようにリアクションしていく在り方が印象的でした。
場を持つ側の、その方それぞれの在り方を感じ取れるのも、今回の企画のいいところだなーと思い至りました。

なんだかわからないけど、えらい激流に巻き込まれて、終わったかなーと思ったらまた次の激流がやってきて、あ、激流に巻き込まれたんじゃない激流のオンパレードに巻き込まれたんだーー!ってなりました。
えらい汗かいたけど、変な疲れはなくて心地よい。振り付けもらうの苦手だけど、バトル楽しかった(バトルことも苦手だけど)。
それぞれの身体と人間性、人間の成り立ちが身体であって身体の成り立ちが人間だなーというのが大好物で大スパーーーク!

その人のいいところが不思議と浮かび上がりやすい場・集まりになっている気がする。

かもめ振付け。双面。本物のかもめと化物のかもめ。化物に想いを馳せる。
うっせー、我こそは、ホンモノの化物かもめじゃーーーい!
今ならそう言えそうな気がする人たちの集まりになっている、みんなを見ていてそんな、やってんなーを感じていた、感じとることができていた。やってんなー温泉にゆっくり肩まで浸かってTシャツはとっくのとうに汗だくだく真っ盛りで青春の風に舞う。

ほんの数十分のうちに振り付けを渡す蓉さんの後ろで、産まれたてのホンモノの化物かもめが何羽も何羽も生まれていて、やっほほーいやっほほーいな状態だった。
ホンモノの化物かもめたちによるかもめバトルが始まって、それぞれの今のそのときのホンモノの化物おどりが愛ま見えて、バトルを仕切るホンモノの化神審判コジマさん爆誕、初見ニューカマーは熱狂と戸惑いと興奮の坩堝、玄人衆も納得の唸り声をあげる名ジャッジオンパレード采配のコジマさんのその手が誰よりも孔雀でありかもめであったかもとか、なかったかもとか。
ホンモノの化物かもめとホンモノの化物おどりとホンモノの化神コジマさんの時間が過ぎていく。

帰りの電車、手がツルツルの赤ちゃんみたいな手になってて。からだが、よーろこーんでーるよーってことを伝えてくれていた。

ことわざのことばというより文字の音や手触りでやっていた気がして、意味に囚われがちだったわたしは、それが嬉しく、益々人間社会からの逸脱が進んでいる気がして大丈夫かなと思いつつも逸脱の旅にいつ発つ〜?なんてもうとめられないワクワクが沸く沸くこりゃたまらんね

ほんのすこしのひとすじの風がぬけてすべてがころがりだすおよぎだすかもしだすしゅんかんがきっとなにものにでもそのときが運命の顕現

こんなに愛らしくそれぞれのからだを、存在を、受け取ることができる。
作品を見る、鑑賞、となるとあーでもないこーでもないと思いだすのはなんでだろう?
からだそのものを、存在そのものを、そのままのダイレクトを受け取るようなことを養っていく、育んでいく、見ることの豊かさを、そんな場を。

突然ですが、失礼いたします。ナクテモです。
すべてのものことはその時その場にしか立ち現れないものことであり、かつ、これはわたしを透して書かれたものである以上、事実ではない可能性を多いに含んでおりますゆえ、というか畏れ多くて事実と言うことなどできず、これはもう『事実』ではないっしょ、ということをここに明言させていただきたいと思っておりま所存でありんす。
とはいえリンスinダンプーの運転手さらさらヘアースプラッシュinザジョーズあらあなた歯ならび意外ときれいなのねということで健康的にまいりたいと思います。よろしくおねがいいたします。

でゅ

でゅでゅ

でゅでゅわでゅ

でゅでゅわでゅわでゅわ♪いきまっしょいレツゴー♪
でゅわでゅわ、実は不器用です♪
でゅでゅわ、天才とどかねー♪♪
でゅわでゅでゅ、マジ、ザケ、んな、わけ、絵ー、だろ♪♪♪

(サビ)
(踊り)
(サビ)
(踊り)
(サビ踊りサビ)
(サビ)踊り(サビ)踊りサビ
踊りサビ踊り
踊りサビ踊り、サビ踊り踊り

あえて踊り子魂とはいわないでいたい
それぞれのあわいに顔を覗かせたであろう魂は、強烈な踊り子魂とそれぞれに宿るそれぞれの何かのあわいから立ち現れた、何かしら魂の発芽、であって欲しいと願う気持ちがまだどこかにあってしまうから

でゅ♪

ある種の執念や怨念にも似た仄暗い裏側の澱をポップさとキュートさと時折り垣間見える不安と不器用さも混じえながら身につけてきた術と智慧と感性を用いてのシュバっキュルルンルンむぐっ、、、

でゅわキュルルンむぐ、でゅわキュルン♪
むぐキュルでゅわむぐ、でゅわキュルン♪♪
キュルルでゅわでゅわむぐでゅわむぐン♪♪♪
キュルむンでゅわでゅわでゅわわわン、むぐっ
あーれ、びっくらこいたー

↑自己体内リズムを用いての小さな音読小さく小踊り、推奨

諦めの境地に立つことでしか私の物語りは始まらないのだとすれば、
お似合いの道をゆくことこそ祝、であり
ひとりづつであってひとりではなく、ひとりでゆくことは必ずしもひとりぼっちと同義ではない。
ひとりぼっちだとしてもひとはひとりになることはできてもひとりぼっちとしてあることはできず本質的にそれはひとりぼっちではないということ。なの、やもやも。
すり抜けていた「私の踊り」に触れることはできたのだろうか?
ホンモノの化物かもめは想いを馳せる。
それらしき何かが、あの場に生成され、すっーと身体を透り抜けていったかもしれない観覚だけはある。
として、生成された何かが誰のものなのか、それは定かではない。
蓉さんの私の踊り、なのか、それぞれの私の踊り、なのか。
続・継承する身体。

歌謡曲で踊るなんてまだそんなことをって言ってみたって、やってみたらこんなに楽しいの知らなかったしわたしー、やってみねーでとやかく言ってんのいっちゃんかっこ悪りかったねーって無知無知の父・恥恥の母さらし続けて生きていくのもういい加減やめにしたい。ですよねー。激流オンパレードに飲み込まれながら、ギリギリの息継ぎで命取り戻す。
カッパの川流れ笑って対岸で見過ごすより、思わず飛び込んじゃって、このきゅうり美味しいよねーって一緒に濁流コロコロしながらケラケラ笑っていられるくらいでありたいお年頃。なんじゃない、いつだって、いまだって。
みたい夢だってあるし、青空飛んでみたらそれはそれで、えっ、めっちゃ楽しいんだけどってなって、ちょうど諦めることに飽きちゃうくらい諦め飽きてたとこなんで、ちょっくらこのまま青空へ、ひとりで行こうと思っていたけどもう少しみんなと一緒に共にひとりひとりの友、ひらりひらりの蝶の飛びたいとこ飛んでみること、ゆくことお似合いのところへどこへなのかさてはて最果て行ってきまーーーす!

『かもめはかもめ』何度も聴いちゃいます。
ありがとうございました、蓉さん。
また逢う日まで逢える時まで〜〜

憧れのあの人もどこかかもめで飛んでいる

桜井圭介:講義+ワークショップ「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」レポート|加賀田玲:よそ見と痙攣
橋本真那:講義+ワークショップ「主役をずらすためのテスト」レポート|和田華子:隣り合う人。
康本雅子:講義+ワークショップ「オープン毛穴、ゴーゴー迷子」レポート|山口なぎさ:蛇口に水を通すように
山本浩貴:講義+ワークショップ「〈喩え〉を作る」レポート|坂本彩音:そうぞうの余白/他者のまなざしを自分の体に通してみる
中村蓉:講義+ワークショップ「ダンスをめぐる開拓と本音」レポート|大迫健司///ナクテモ:諦めのあきの飽き飽きの秋になる前のレッツ夏、台風の合間の青空へ曇り空でもまた逢おー
鴻池留衣:講義+ワークショップ「本人という謎」レポート|長谷川祐輔:秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉
池田亮:講義+ワークショップ「線による空間と会話」レポート|おかだゆみ:所感と考察と手

続・継承する身体

続・継承する身体|鴻池留衣:講義+ワークショップ「本人という謎」レポート|長谷川祐輔:秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉

長谷川祐輔(哲学者・ドラマトゥルク)
新潟大学大学院博士前期課程修了。フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの崇高論を中心に研究。
「プロジェクト」や「アトリエ」をキーワードとして、理論と実践が重なる場で生成するものを探究している。
芸術制作や美的実践のプロセスに立ち会うなかで、作品の形にはおさまらない言葉、出来事、行為の記録・保存、コンセプトの設計を続けてきた。
障害福祉の企業にて支援員として勤務。
最近の活動履歴。執筆:「ワークショップ映画と俳優の創作的ミメーシス──濱口竜介の制作論における多層的な声の表出について」(2023)、「崇高の二重化とアナムネーシスの問い──ラクー゠ラバルトとリオタール」(2024)、「モードとコンテンポラリー──山縣良和の『その後に書かれた』ファッションについて」(2025)など。
作品:AAPA『敷居またぎ』(2024)、藤中康輝『光の中で眠る』(2025)、エリア51『光かもしれない』(2026)など。

1. 正直な話、嘘が造形するもの

 「人が正直なことを話すときって長くなりますから」

 講義の終盤で鴻池さんがこぼすように言った。鴻池さんはインタビューでよく嘘をつくそうだ。それは相手を騙すとか悪意に満ちているとかではなく、思考、経験、出来事がひとに伝わるものになるために必要なデフォルメの作業としての嘘だ。
 思考や経験は時系列を忠実になぞりながら話しても、上手く伝わるものではない。むしろ、さまざまな情報が省略され、うまく形が整えられてこそ初めてひとに伝わるものになる。
 ものごとを考える順序と、それをひとに話すときの順序は同じではない。自分が思考したこと、体験したことを順番通りに話しても、大体上手く伝わらない場合の方が多い。人に話すときはその時点でフィクションとしての「嘘」の次元を挟んで、伝わるように変換する必要がある。その変換の過程で、語ることの中におのずと入り込んでくるレトリックの次元を鴻池さんは「嘘」と表現した。少なくともわたしはそのように受け取った。
 そして、冒頭に書いた鴻池さんの言葉は、前回のゲスト池田亮さんの自分を守るための「秘密」の話と今回をブリッジするような言葉だと思った。
 講義・ワークの内容を振り返りながら、またこのトピックに立ち戻ることにする。

2. ゲームとアート

 鴻池さんが最初にホワイトボードに大きく書いたのは、「ゲーム」と「アート」の二つだった。「文章の方が得意なんだよなあ」と言いながら、講義が始まった。
 「ゲーム」はほとんど「ルール」と等価な意味として扱われていた。社会にはルール=ゲームが溢れている。人間はルール=ゲームに従って生きることが本能的に好きだ。それは家庭・親、生まれ育った地域、学校、塾、職場、分野など挙げればきりがない程さまざまなところにある。鴻池さんは具体例として、ご自身の出自や、勤務経験のある出版社・編集雑誌の中で設定されているルールについて講義の要所で触れていた。
 ルールへの関わり方として「従う」ことの他に挙げられていたのが、ルール違反を指摘する「取り締り」だった。人間はルールに従うだけではなく、ゲームを観察しながらそのルールを違反した者が現れればそれを指摘することも本能的に好きだ。それが強化されると他人を監視するような態度が当たり前になっていく。
 鴻池さんによれば、人間がルールへの従属ではなく他人を取り締ることが好きな理由としては、それが共同体においてひとつの承認される方法になるからということだった。違反した者を取り締まることには、実際にルールが破られることを無くしたいというわけではなく、承認欲求を満たす効果が含まれている。

 それではアートにはどのような役割があるのか。簡潔にいえばそれは「茶化すこと」。社会の中で規範化されたルール、誰もが疑いを持たずに参加しているゲームを外から茶化し、価値基準や意味づけのルールそれ自体を書き換えていくことがアートの役割である。ルールの束を生きる人間が、「自分の意味付け方」を取り戻すための手法がアートということになる。この意味で「純文学」は文学の中でのアートであり、その芸術性は小説を書いている瞬間にこそ最も現れると話していたところに、鴻池さんの本音を聞けた気がした。

 鴻池さんが結論としてまとめた以上の内容は、非常にシンプルなものとして届いた。社会はルール=ゲームに溢れている。アートはそれを茶化す行為で、価値づけの最終決定権を取り戻すための手法である。ただわたしは、その簡潔さに鴻池さんの生の履歴、時間の厚みを透視した。
 茶化す行為としてのアートにおいてすら一元的なルールが浸透している現在、いくらでもその先の展開や批判の可能性を含んだ結論をあえてそこで打ち切っているかのような、抑制的な簡潔さ。ひとが生きることを通してたどり着く世界観は、言葉にするととても端的なものになることがある。それは、個人史の中で嘘と真実、過去と現在が複数のレイヤーになって重なった果てに現れる境地でもあると思う。

3. 秘密と嘘

 冒頭に書いた話に戻ることにする。ひとつ前のゲストの池田亮さん(劇作家・脚本家・演出家・造形作家)の話の中には、「守る」という言葉が繰り返し使われていた。そのひとつに匿名創作の話題があった。人間の行動やアテンション(注意)が資本へと瞬時に変換されるインターネットの空間では、リアクションを集めることとオープンであることが(ルールとなって)歓迎されている。そんな世界にあって、名前を出さない創作、発表しても見られることのない文章、さらに、いいものができてもあえて発表しないという姿勢は、池田さんにとって「宇宙上で自分しか知らない」という秘密によって自分を守ってくれることにつながる。この話から、誰にも知られたくない言葉を、1分間想像するという「誰にも知られない言葉or作品+擬似ワークショップ」が行われた。
 池田さんの「秘密」の話は、情報の海にたゆたう日々を過ごす中で、ミニマルに作り出すことができる身体的なカタルシスをもたらす。自分だけが知っているということのカタルシス。それはルールから降りていることの心地よさでもある。
 正直な話は長くなる──鴻池さんの「嘘」の話は、わたしにとって池田さんの秘密の話と地続きのこととして響いてきた。どこに真実があるのかもはや分からない世界の中で、あまりにも愚直に正直に自分を晒すことは、必ずしもいい方向に働かない。自己像を対外的に構築していく手段としての嘘は、むしろ必要ですらある。嘘というと聞こえが悪いかもしれない。しかしそれは人を欺くためのものではなく、人と関わるときに自分を自分として保つために最低限必要な、造形術にしてカタルシスなのだと思う。

4. 嘘の奥にある人物像

 後半行われたワーク「本人という謎(なりすまし検証ゲーム)」には、前半の講義のエッセンスが詰まっている。必要な事前準備と、ゲームの進行は以下のように説明される。

【参加日までに】
・なりすます別人の設定をご用意ください。
・自分とは正反対の思想を持った人物、相容れない価値観を持った人物、生まれの背景が自分とは全く異なる人物にしていただいても構いません。
・もしくは、なりたい人物、本当はこうありたいと願う人物でも構いません。
・もちろん、こうなりたくない、こうあったら最悪だ、と思う人物でもオーケーです。
・「普段から、自分を偽っているな」と認識されている方は、普段のままでも構いません。
・実在の有名人などの設定をそのまま採用しても構いません。
・なりすます別人には、名前をつけてください。ニックネームのようなものでも構いません。本名でも構いません。
・とにかくゲーム中は、その別人になりすましていただくので、そのつもりでいてください。

【当日】
・参加者には一人づつ、質問タイムが割り当てられます。
・一人あたりの質問タイムは、およそ20分です。
・その間、他の参加者からの質問に答えていただきます。
・他の参加者は、質問された人が本当はどんな人物なのか(何を隠しているのかなど)、専用のシートに自由に記載します(検証用紙)。
・検証用紙は、無記名で提出していただきます。
・検証用紙は、ゲーム終了後、被質問者、それぞれ宛にまとめて譲渡されます。

 参加者は、名前、出身、趣味、職業などさまざまな次元でなりすました仮想の人物として人前に出て話す。なりすますといっても、本当のことが混ざっている場合もある。本人の人生を素材にしている場合もあれば、自分のことは何も明かさず身近なひとの人生の断片を組み合わせている場合もある。
 一応補足しておくと、このゲームの狙いは上手くなりすますことにあるのではない。そうではなく、架空の人物としての語りを通して、その奥に透けて見える本人がどのようなひとなのかを推察することにある。なぜそのようになりすまそうとしているのか。選ばなかった判断、後悔、これからの夢、他人への羨望、あるいは本人にしか分からない嘘や秘密など。話を聞きながら、そのひとがなりすますためになぜそれらの素材を選んだのか、その背景を想像することは決して正解にたどりつくことがなく、相手を知ろうとするプロセスだけがある。そこでは話し手の表情、立ち姿、目線、声色など、非言語的な要素へのフォーカスが総動員され、知覚が活性化される。ひとの話を聞くことが全身的な行為だったことを思い出す。
 自分が話す側に立った視点の感想としては、これまで自分の人生の中で接点がなかったこと、これから接点が生まれることが想像できないことを使って人物をつくることはできなかった。本当のことをそのまま話したことはひとつもなかったが、素材はすべて実際に起こったこと、起こりえたことをサンプリングしてつくっていった。最後に、それぞれの話について他のひとからの感想・フィードバックが書かれたメモ用紙が各自の手元に戻っていく。話の内容面についてだけではなく、身体的な部分や性格、浮かび上がってきた人物像の特徴、これまでの人生を推測するようなコメントが書かれている。ひとがひとの語りから受け取るものとして、話の内容よりも、声、表情、言葉の澱み、流れ、目線、身振りなど非言語的・身体的な要素から受け取る情報がとても多いのだとあらためて自覚した。
 自分であれ他人であれ、誰かの人生の断片を使って仮想の人物をつくっていく作業には、独特のカタルシスがあった。途切れてしまった可能性、予想外の流れで成就した現実、選ばなかった道などを集めては分解しながら組み立てていくことは、嘘と真実、過去と現在が不可分に結びついていることをいまここで想い起こす体験でもあり、〈わたし〉の輪郭を丁寧に描きなおしていく時間だった。

桜井圭介:講義+ワークショップ「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」レポート|加賀田玲:よそ見と痙攣
橋本真那:講義+ワークショップ「主役をずらすためのテスト」レポート|和田華子:隣り合う人。
康本雅子:講義+ワークショップ「オープン毛穴、ゴーゴー迷子」レポート|山口なぎさ:蛇口に水を通すように
山本浩貴:講義+ワークショップ「〈喩え〉を作る」レポート|坂本彩音:そうぞうの余白/他者のまなざしを自分の体に通してみる
中村蓉:講義+ワークショップ「ダンスをめぐる開拓と本音」レポート|大迫健司///ナクテモ:諦めのあきの飽き飽きの秋になる前のレッツ夏、台風の合間の青空へ曇り空でもまた逢おー
鴻池留衣:講義+ワークショップ「本人という謎」レポート|長谷川祐輔:秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉
池田亮:講義+ワークショップ「線による空間と会話」レポート|おかだゆみ:所感と考察と手

続・継承する身体

続・継承する身体|池田亮:講義+ワークショップ「線による空間と会話」レポート|おかだゆみ:所感と考察と手

おかだゆみ(ダンス作家・演出家)
東京藝術大学大学院 先端芸術表現専攻を修了。
対話から実際の声を汲み取り、身体で情景を描いていく作品を制作する。
主な活動として、Yokohama Dance Collection2024 competitionⅡ、豊岡演劇祭2025フリンジセレクション、NISHINARI YOSHIOファッションショー(演出・構成)などがある。最近では地域に滞在し、そこで暮らす人々の生活や身体のありようを、映像で記していく活動をしている。

連日の酷暑が少し和らいだ日。13:00〜13:30に、参加者がゆるりと集まってくる。今回は、池田亮さんを招聘アーティストとして迎える。
会場に着くと、そこにはもう池田さんがいた。
13:30になり、参加者は講義形式に並べられた椅子に腰を下ろす。前半は講義、後半はワークショップという構成である。
講義とワークショップのどちらを通しても、池田さんの現在進行形の思考が共有されていたように思う。
前半約100分の講義では、これまでの歩みや、その中で考えてきたこと、現在の活動へ至るまでの思考のプロセスが、丁寧に語られていった。

主な話の内容は、以下のとおりである。『』内については、池田さんの言葉を引用している。
・どうして脚本家・劇作家・演出家・造形作家をしているのか
・匿名での創作について
・彫刻について
・『エンパシーが欠如した匿名創作からの離陸 欠如していた経験と過程の共有(解離)』
・ゆうめいの成り立ちや方向性
・『複数の意味と意図を内包させる狡さ』
・育児について
・ハンドメイドについて

講義形式のレクチャーでは、これまでどんな作品を作ってきたのか、どのような創作プロセスを経ているのかといった、作品を起点とする話が中心になることが多い。しかし今回は、池田さんの人となりや創作活動の原点、それらが現在の活動へどのように結びついてきたのかが語られた。
原点から話を始めるという切り口は、スペースノットブランクが招聘アーティストにあらかじめ提案しているものだという。作品として整理される以前の経験や、現在も形を変えながら続いている思考まで共有されるのは、スタディグループという、ある種クローズドな場だからこそだと感じた。

お話の中で印象的だったのは、「守る」という言葉。
池田さんの話には、育ってきた地域、住んでいる地域のことが度々登場する。
池田さんはかつて走ることをしていたという。「好きだからではなく、住んでいる地域において自分を守るために走っていた。」
好きでなくても走る人がいるのか、と。最初はそのこと自体の面白さに気を取られたが、だんだんと話が進むうちに、その地域で他人からどう見られ、どう自分を保つかが、自分の行いを作り上げているということ、その素朴な自己形成の仕組みに気がついた。そして、素朴だからこそ、いかに走ることが切実だったかを想像するに至る。

池田さんの過去についての話の節々では、環境によって選択や感情が左右され、その呪縛に気づきながらも、なおその呪縛の中へ入っていってしまう感覚が立ち現れることがあった。
ふと、我に返る。あ、その感覚、知っているかも、と。
けれど、その環境は、自分が住む地域であり、生活を成り立たせる最小単位でもある。簡単に切り離すことはできない。そこにジレンマがある。そして今、私自身もまた、その渦中にいるのだと気づかされる。
レクチャーというと、他者から知識を受け継ぎ、自分のボキャブラリーを増やす時間を思い浮かべる。しかし、今回はそれだけではなかった。誰かが経験したことや、かつて抱いていた感覚を通して、自分の言語化されていなかった状況に気がつく。それが、自己開示すること、そして、聞くことの醍醐味なのだと思う。誰かの経験を聞いたからといって、目の前の状況が直接解決するわけではない。それでも、自分だけでは見つけられなかった感覚や言葉に触れることは、確かに励みになる。

「守る」という言葉は、匿名での創作についての話にもつながっていく。
池田さんから、一つの問いが投げかけられた。
『誰にも知られない言葉or作品+擬似ワークショップ』
誰にも知られたくない言葉を、1分間想像する。それは、発表しないものを明確に見つけるワークであった。
そのことは、宇宙上の誰にも言わない。言わないことに価値があり、それが自分を守ることにつながる、と。
環境によって喋らされてしまう日常の中で、絶対に伝わらないものを見出すこと。その問いかけを通して、私は自分の内側に、わずかな力強さを見出した。表現することには、外へ向かうベクトルが無意識のうちに前提としてある。何を伝えたいのか、どのように伝わってほしいのかを考える。しかし、表現する以上、何かを外へ伝えなければならないという前提もまた、先ほどの話にあった呪縛と似ている。このワークが促すのは、その真逆の方向である。誰にも伝えないことによって、自分の内にある確かなものを見つける。その時間は、自分だけのお守りを作り出すようでもあった。
伝えることと、伝えないこと。外へ開くことと、自分を守ること。物事は表裏一体である。そのシンプルさを突きつけられる。

池田さんの話には、常に悩みが蠢いている。「守る」「安全」という言葉を手がかりに、一つひとつの物事を複数の側面から捉え、行き来していく。そこに、システム化されていない、手探りの思考のプロセスを感じる。話はさまざまなルートをたどり、むやみに結論づけられることなく、現在進行形の思考として、手探りのまま残されていく。
そんな中で、猛烈な勢いが生まれた瞬間は、「ハンドメイド」についてである。
「ハンドメイドがやりたい、肩書きの最初が造形作家となればいい」と、気持ちを表出する等身大の池田さんが、そこにはいた。
ハンドメイドに関する語りの熱は、聞いている私の好奇心までも駆り立て、頭の中が「ハンドメイド」の文字列で埋め尽くされる。
ハンドメイドハンドメイドハンドメイド…………。

休憩を挟み、後半のワークショップへ移る。ちなみに、休憩を挟んだにもかかわらず、私の中ではハンドメイドの余韻が残っている状態である。
以下は、ワークショップについての事前告知の内容である。
====
タイトル:線による空間と会話
概要:舞台芸術における人と人とのスペースと境界線をマスキングテープ(mt heta)を用いて空間を線で視覚化していくワークショップです。テープによるルールの発見と制限、その場で起こる想像を会話によって拡大していく試みを行います。
====

使用するのは、「カモ井加工紙 マスキングテープ mt heta box」。
マスキングテープは、長い巻き取り紙をカットして作られる。その際、両端に残る部分は、廃材として捨てられてしまう。「mt heta box」は、その端材をまとめ、ボックスに詰めて販売しているものだという。つまり、マスキングテープの「ヘタ」である。
ヘタには芯の部分が残っており、握ったときの感触も楽しい。廃材を活用でき、触れる楽しさもある、一石二鳥のアイテムである。

ワークでは、そのテープを空間に渡し、線を引いていく。一人一巻きずつ手に取り、スタート。テープの使い方を手で探りながら、空間のあらゆる場所に貼りつけていく。
壁から床にかけて浮かせながら貼ったり、椅子を使ったり、カーテンをくくったり、床にまっすぐ引いたり。「森」という字が出現したり、「↓」が壁に現れたり。
それぞれが気の向くままに身体を動かしながら、テープを空間に記していく。貼る、引く、というより、「記す」というイメージが私には近かった。
テープとテープが交わり、重なり合い、空間が埋め尽くされていく。時折、誰かがテープに引っかかり、テープが揺れ、崩れたりする。一台のスマホがテープの中に組み込まれ、囚われていたりもする。私の見た限り、おそらく全員が没頭してテープを駆使していた。ビービーとテープが擦れる音と、黙々と前のめりに動く身体たちと、淡いテープのカラーが混在する。

テープが尽きてきたころ、池田さんから「居心地のいい場所を探す」という声がかかる。
テープが混線しているところ、首周りを囲まれるところ、深くかがまなければ入れないところ。少し冒険をしながら、自分が落ち着ける場所を探す。
結局、私は自分が引いた、ホワイトボードと床をつなぐ縦線の間を選んだ。どうやら、斜めの線よりも平行の線のほうが、感覚的に落ち着くことがわかった。

続いて、全員がいったん近くの壁際に寄り、そこから対角の壁を目指して、テープに触れないように進む。テープをまたぎ、潜り、ときには譲り合いながら、対岸を目指す。
壁際までたどり着くと、次は右隣の人についていく。先頭の人に続いて一列になり、前の人がテープの間をどのように通っているのかを観察しながら進んでいく。
前の人の動きを見ていると、ちょくちょくテープに触れてしまっていて面白い。しかし、他人の動きに夢中になっていると、今度は自分がまんまと引っかかる。
やがて前後が入れ替わり、最後尾だった人が先頭となって、再び進む。テープをよけながら進むうちに、少しずつ身体へ負荷がかかり、ほどよい疲労がやってくる。

一連の動きが終わると、全員で腰を下ろし、会話へ移る。池田さんからの問いかけと参加者の応答を、私の覚えている範囲で記しておく。

池田さん「どんな記憶が甦ったか」
・茂みをかき分ける
・アスレチックのロープ
・大人になると、「できること、できる範囲」で動いてきたことを思い返す。目の前にくるという制限によって、そのことに気づかされる。

池田さん「これ(テープの空間)自体、何に見えるか」
・お風呂に入ってる感じ
・骨粗鬆症
・家の間取り(お風呂の話から連想)
・参加者の一人のスーツ姿も相まって、パーティー終わり

私はこれらの問いかけに対して、「水中のような」という言葉が浮かぶ。
それから、小さい頃遠足で山道を歩いた際の、ひたすら前についていくわけのわからなさを思い出した。目的地へのルートも距離感覚もわかっていないので、とりあえず前の人の足元を追いかけるしかない。ゴールから逆算できない身体の、不思議な感覚である。
また、「大人になると、首元の高さまで目の前に何かがあることは、なかなかない」という参加者の言葉を聞いて、気づいたことがある。身長の低い私にとって、目の前に広がるテープの混線は、むしろ日常の視界とそれほど変わらないということだった。周囲にいるほとんどの大人は自分よりも大きく、視界を遮る。通勤時間の電車の出入り口や人混みのホームでは、自分より大きな身体が四方八方で蠢き、常に視界を遮っている。テープによってつくられた空間が、私にとっての日常の視界に近いことに気がついた。
私にとっての日常が、他人にとっては非日常なのかもしれない。その発見を、テープがもたらしてくれた。

片づけに入る。
端っこからテープを回収していく。会場を傷つけないよう、一つひとつ丁寧に剥がす。みんなでテープを中央へ集めていくと、やがて一つの大きな塊になった。
オレンジ、青、紫、黄色。鮮やかな色が、一か所に集約される。
粘り気を帯びたテープの塊を、一人ずつ持ち上げてみる。「ベイビーくらいの重さかな」という声が上がる。なぜか、それを手にすると、みんな嬉しそうな顔をする。
全員の手を一周したあと、塊は、もともとテープが入っていた箱の上に置かれた。休憩がてら、自由な鑑賞タイムが始まる。
手の込んだもの。いくつもの手垢が集まったもの。そこから、新しいものができ上がる。身近なものを介して、遠くとつながる。
ハンドメイドとつながる。
私の頭の中で、「ハンドメイド」の文字列が再燃する。
ふと、周囲を見る。
なんか、みんな楽しそう!!
そう、それでいいのである。
連日の酷暑が少し和らいだ、この日の空気のように。身体と思考が、柔らかく解きほぐされていく時間であった。

桜井圭介:講義+ワークショップ「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」レポート|加賀田玲:よそ見と痙攣
橋本真那:講義+ワークショップ「主役をずらすためのテスト」レポート|和田華子:隣り合う人。
康本雅子:講義+ワークショップ「オープン毛穴、ゴーゴー迷子」レポート|山口なぎさ:蛇口に水を通すように
山本浩貴:講義+ワークショップ「〈喩え〉を作る」レポート|坂本彩音:そうぞうの余白/他者のまなざしを自分の体に通してみる
中村蓉:講義+ワークショップ「ダンスをめぐる開拓と本音」レポート|大迫健司///ナクテモ:諦めのあきの飽き飽きの秋になる前のレッツ夏、台風の合間の青空へ曇り空でもまた逢おー
鴻池留衣:講義+ワークショップ「本人という謎」レポート|長谷川祐輔:秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉
池田亮:講義+ワークショップ「線による空間と会話」レポート|おかだゆみ:所感と考察と手

続・継承する身体

いわき芸術文化交流館アリオス|レビュー|植村朔也:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『いわき芸術文化交流館アリオス』評

植村朔也 Web/X
1998年生まれ。過去の文章に「柴幸男 劇場の制作論」「その手のもとに「劇場」はある」「質問の陥穽 あるいは、透明性の時代」など。修士論文「木下順二の民話劇」読者募集中、連絡は右記。tokyoharukani@gmail.com

 わたしは幾年かにわたり小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクに帯同し、作品に都度評を残す「保存記録」という肩書のもとその作品を見続けてきた。そういうわけで、周囲の知人から「スペノは非政治的だ(からダメだ)」という評言を聞かされたことも一度や二度ではない。そのたびごとに、こうした評価をむしろ意外に思って聞いた。かれらは2020年代前半に活躍した日本の舞台芸術作家のなかで、とりわけあからさまに政治的な存在であるとわたしは思っていたからだ。
 もっとも、そのモダニズム的な創作の手つきは、社会や政治に無頓着なオタク的「純粋芸術」、という誤解を招くには十分なものだったかもしれない。かれらの舞台の台本は、稽古場で採集される。演出の小野彩加と中澤陽が出演者に質問を投げかけ、その答えを蓄積し、コラージュして織り上げるそのテキストは、複数の不分明な主体からなる。また、そのコラージュも非常に徹底しているので、言葉は脱文脈化され、つぎはぎされ、意味を追いかけることも困難だ。そこに作家個人の政治的、社会的なメッセージが直接的に打ち出されることはない。
 一方で、「聞き取り」と呼ばれるこの集団創作の方法こそが、芸術的にも政治的にもかれらの舞台の賭け金とされてきた当のものでもある。劇作家=演出家による集権的な制作モデルに対し、水平的な協働のモデルという代案を示すこと。「聞き取り」は単独的かつ特権的な「作者」の消去、演出/出演の境界線の引き直しのための術なのだ。そしてかれらは、上演やワークショップ、プレゼンテーションや教育活動を通じて、他者に制作方法を共有することを図ってきた。そのように普及可能な方法を制作することを通じて、一過性の上演を超えて運動的であろうとしてきたともいえる。かれらの舞台の政治性を問うまなざしは、かれらの用いる形式の技術上方法上の有効性に向けられなくてはならないように思う。
 福島県いわき市の劇場こといわき芸術文化交流館アリオスが主催し、「リージョナル・シアター2025 いわきアリオス演劇部Plus」と銘打たれた新作は、劇場の名前そのまま、『いわき芸術文化交流館アリオス』という。舞台は特定の劇場、特定の地域に根ざしたものであることが建付けの上で幾重にも強調されており、それだけに集団性をめぐるかれらの方法の真価がまっすぐに問われるような公演でもあった。すなわち、地域で上演を起こし、地域に働きかけるための術として、その上演形式の有用性はどのような射程を持つのかということだ。
 これは演出補と出演を務めた古賀友樹の台詞だが、劇場にいる誰もが観客になればいいのに、という旨の汎観客論的な願いが、ユートピックな理想論を語るときのトーンで言葉にされていたのが印象的だった。誰もが役者になればいいのに、ならなんとなく聞き馴染みがある。しかし誰もが観客にという願いは、どこかおかしい言葉だ。上演において劇場に座を占める人の過半は観客であり、実のところ舞台上の役者こそが少数者だからだ。誰もが観客になると、何が嬉しいのだろうか。舞台上のまなざしが多重化し、そのことで観ることの実践が具体的な複数性を伴って平準化されるのが嬉しいのかもしれない。というのも、観る者と観られる者との非対称性、観ることの権能におけるアンバランスこそが、演出と出演の垣根を水平的にまたごうとする「聞き取り」の実践にあって、越え難く残存してしまう垂直性を生み出す当のものだからだ。
 実際、『いわき芸術文化交流館アリオス』の舞台は、観ることの実践を多重化するいくつもの設えを持つ。出演者は自分の出番でなくとも舞台上におり、円をなすように置かれた椅子にそれぞれ腰かけて、ほかの演者の出番を観ている。その円状の椅子の真ん中には出演者の一人、猪狩彰一が腰かけるための席があって、猪狩は開場時間からずっと劇場をスケッチしている。そして猪狩は上演時間中、カメラにその姿を撮影されており、その映像は舞台奥のモニターにリアルタイムで投影されている。さらに舞台の右奥には、運営コースの一人として公演に参加したスタッフの大迫健司がずっと座っていて、出演者たちを見守っている。誰もが観客になればいいのに、という願いを有言実行するがごとくに、舞台には異なる複数のレイヤーにおいていくつものまなざしが配置されるのだ。まなざしのレイアウトによる、制作の自動化と水平化。
 戯曲が舞台情報のスクリーンに投射され、発話されるテキストを目で追えるようになっていたことも、客席に座することのできるまなざしを増やすための努力、あるいは鑑賞方法の複数化(耳で聞くか目で読むか)の試みとして理解できる。そして上演されるのはコラージュされた継ぎはぎのようなテキストだ。どこで、いつ、どのように言われたか不定の、それゆえに複数の解釈や想像を促すような。作中には、おそらくは稽古場で実際に披露されていたのだろう、舞台の演出プランが出演者から発される一幕があり(川を作って飛び石を置く、ミラーボールを吊るす、映像を投影する、床から巨大なスピーカーを生やす)、そのうち半分くらいが実現されていた。出演者がここでは演出者になり、それぞれの観たいアリオスを実現しているわけだが、一方で果たされなかった演出プランが観客によって眼前に思い描かれるとき、舞台は流体のように姿を変え始める。複数のまなざしの輻輳的な持ち寄りあいによって、舞台が観る者によって変幻自在の動態となることが、ここでは目指されているに違いない。作中で引用される谷川俊太郎の組詩「アリオスに寄せて」のなかの一節、「ハコはいきて 呼吸している」という言葉も、舞台のこうしたありように響きあう。劇場には、生き生きとしてあることが期待されている。『いわき芸術文化交流館アリオス』という直球の名づけには、かれらが劇場に寄せる思いの丈を読み込んでもよいのだろう。
 さて、今回の上演において、多層化され複数化されたまなざしが織り成す動的な「いま・ここ」の出来がいくぶんユートピックにも目論まれていたことは以上のようにそれなりに明らかだとして、制作における観ることの権能のアンバランスはまた別途、技術的に取り組まれるべき問題としてある。たとえば出演者の仕事の方向づけが、特定の観者が求める(美的な)質へと一元化されていくのを防ぐこと、そのためにむしろばらばらな質を志向したり、あるいは質を求めずに済むようにしておいたりすることは、とりわけ演出者に特権的に許された仕事の一つだ。
 しかし一方で、演出者自身は舞台にどのようなまなざしを持ち寄っていたのかが、そろそろ問われても良いのかもしれない。それは、舞台上のまなざしを輻輳化する努力が、単に自己のまなざしの否定というモダニストの美学に奉仕するものにとどまるのか、複数の人々が持つ複数の視座のひらかれた具体的な共有という公共的な場づくりの技法としても理解可能なものなのかを問うことでもある。
 演出者ふたりのまなざしは、聞き取りにより採集されたテキストを編集するその仕方に顕著にあらわれる。そう、ふたりの編集する戯曲にはある特徴がある。台詞が登場人物ではなく出演者本人にあてがわれるのだ。たとえば「古賀友樹 床に川を」といったように。しかし一方で、台詞には出演者の固有名があらわれることはほとんどなく、「わたし」や「かれ」などの人称代名詞がもちいられることがもっぱらである。稽古場で発話された当初はおそらく具体的な名前が用いられていただろう台詞に、人称代名詞での上書きがされることもしばしばだ。だから戯曲の台詞に出演者名が添えられるのは、「本人役」ということではなく、発話の責任主体を明示するためのゆるやかな取り決めのようなものに思える。
 とはいえ今回の上演では、人称代名詞はさほど使われていない。代わりに代名詞への上書きが施されていたとみられるのが「いわき」という固有名だ。本作がこの地域に根ざした市民演劇として制作されていることを思えば、演出者らが加えたこの編集の意味は大きい。一歩間違えればいわきという土地の個別具体的な地域性を捨象した乱暴な編集処理と受け取られてもおかしくないこうした抽象化の手つきはしかし、名前や地名といった固有名詞に回収されない「その人」をつぶさにまなざそうという企てによるものであることが、舞台を観ているとわかる。そのようなまなざしにおいて舞台が制作されていることが、それと知れる。こうしたかれらの企てを、良心的な企て、と言っても良いのだろう。というのは、舞台を制作する演出者はかれらなりの仕方でそのまなざしに誠意を込めていること、そのことでかれらの制作の技法はひとつの倫理的な実践として枠づけられてもいることを、この機会に強調しておきたいからだ。「ここ」という代名詞への上書きによる「いわき」という固有名の消去は、土地の外から招かれてきた余所者の芸術家が、そこに住む人々の経験や記憶をわけ知り顔で上演し、収奪して作品化するという愚を免れながら、一種の対等さにもとづく関係をつくりだすための方法としてもおそらく機能しただろう。作中でたびたび仄めかされる「死者」の主題と、いわきという土地との強い結びつきを思うなら、この抽象化の手つきの倫理性は一層強く浮かび上がる。これが、小野彩加と中澤陽がその舞台に差し出しているまなざしのありよう、他者とともに生きる上でかれらなりの誠意をつくすためのひとつのやり方である。ゆえにかれらの舞台が持ちうる公共性なるものは、固有名の消去と具体性の堅持とが両立される境地において出来するものとしてあるといえる。

レビュー
佐々木敦:リージョナル・シアター2025 いわきアリオス演劇部Plus『いわき芸術文化交流館アリオス』公演レビュー
徳永京子:リージョナル・シアター2025 いわきアリオス演劇部Plus『いわき芸術文化交流館アリオス』公演レビュー

いわき芸術文化交流館アリオス