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続・継承する身体|中村蓉:講義+ワークショップ「ダンスをめぐる開拓と本音」レポート|大迫健司///ナクテモ:諦めのあきの飽き飽きの秋になる前のレッツ夏、台風の合間の青空へ曇り空でもまた逢おー

大迫健司///ナクテモ(ボディワーカー・ダンサー・俳優)
からだのこと。空間のこと。
場のこと。関係性とクリエーションの質。
からだを耕すと世界が変わる。
からだが変わると生まれ変わる、世界との触れ方が変わる。
世界との触れ方の多様さを見出したいと感じています。
世界の触れ方の変容体験が生じることがある、その可能性があるような場を置けるようになりたいという想いがあるようです。
そのひと自身に出会い直すような場、からだに出会い直すような場。
身体感覚や身体知。
無意識と意識との境目みたいなものがあるとして、その層や質が変容すると、さらにその先の層と出会えるようになってくるような感覚があります。
「なるべく、意識的に行うことをしない」ことで、起動していなかった層が動きだせる可能性にふれていく、というようなことに興味をもっているらしいこの頃です。

2026🦚8🕊️🐣🪽
3人目の招聘アーティスト、中村蓉さんにお越し頂いた日。13時。日本。17人。台風の合間の青空。
前半は、1時間くらいのトークおしゃべりくっちゃベリーと作品映像など。
後半は、動きます。ハードなこともありますができる範囲で。と蓉さん。

前半トーク。ご自身のプロフィールを表!と裏!で。表!では、振付家・ダンサーとして自身の歩みを、公表されているものを元にしながら。裏!では、人生の歩みと過去創作のバックヤードを公開。その後、休憩。

前半にしたお話では「わたしの踊り」がすり抜けている。後半のワークでそれが垣間見える、かもしれません。と、蓉さん。

後半のワーク。内容の概要は以下。
・風の振付け。風の強弱や変化を、例えるなら前奏AメロBメロ転調サビ、のような設定で動く。
・ことわざから、それぞれの動きを作ってみる。
・『BLINK 双面改瞬間真似(ふたおもてあらためまたたきのまにまに)』より、研ナオコさんの『かもめはかもめ』にのせて踊ったかもめの振付けを踊ってみる。
歌舞伎の双面という演出形式が用いられた作品『隅田川』において。うり二つの女が二人、一方が本物でもう一方は化物、2人を踊り競わせて本物を見抜く、という場がある。それを元に創作されたシーンで踊られていたのが、かもめの振付け。
・振り写しされたかもめの振付けを用いて、どちらが本物のかもめか、一対一の勝ち抜けかもめバトルへ発展。振付けを正しく、よりも、かもめです!を大事にしながら。

後半ワーク中の蓉さんの姿。ワークを手渡したものの、ワークを行うみんなのことを見て、一緒にドキドキしながらのけぞるようにリアクションしていく在り方が印象的でした。
場を持つ側の、その方それぞれの在り方を感じ取れるのも、今回の企画のいいところだなーと思い至りました。

なんだかわからないけど、えらい激流に巻き込まれて、終わったかなーと思ったらまた次の激流がやってきて、あ、激流に巻き込まれたんじゃない激流のオンパレードに巻き込まれたんだーー!ってなりました。
えらい汗かいたけど、変な疲れはなくて心地よい。振り付けもらうの苦手だけど、バトル楽しかった(バトルことも苦手だけど)。
それぞれの身体と人間性、人間の成り立ちが身体であって身体の成り立ちが人間だなーというのが大好物で大スパーーーク!

その人のいいところが不思議と浮かび上がりやすい場・集まりになっている気がする。

かもめ振付け。双面。本物のかもめと化物のかもめ。化物に想いを馳せる。
うっせー、我こそは、ホンモノの化物かもめじゃーーーい!
今ならそう言えそうな気がする人たちの集まりになっている、みんなを見ていてそんな、やってんなーを感じていた、感じとることができていた。やってんなー温泉にゆっくり肩まで浸かってTシャツはとっくのとうに汗だくだく真っ盛りで青春の風に舞う。

ほんの数十分のうちに振り付けを渡す蓉さんの後ろで、産まれたてのホンモノの化物かもめが何羽も何羽も生まれていて、やっほほーいやっほほーいな状態だった。
ホンモノの化物かもめたちによるかもめバトルが始まって、それぞれの今のそのときのホンモノの化物おどりが愛ま見えて、バトルを仕切るホンモノの化神審判コジマさん爆誕、初見ニューカマーは熱狂と戸惑いと興奮の坩堝、玄人衆も納得の唸り声をあげる名ジャッジオンパレード采配のコジマさんのその手が誰よりも孔雀でありかもめであったかもとか、なかったかもとか。
ホンモノの化物かもめとホンモノの化物おどりとホンモノの化神コジマさんの時間が過ぎていく。

帰りの電車、手がツルツルの赤ちゃんみたいな手になってて。からだが、よーろこーんでーるよーってことを伝えてくれていた。

ことわざのことばというより文字の音や手触りでやっていた気がして、意味に囚われがちだったわたしは、それが嬉しく、益々人間社会からの逸脱が進んでいる気がして大丈夫かなと思いつつも逸脱の旅にいつ発つ〜?なんてもうとめられないワクワクが沸く沸くこりゃたまらんね

ほんのすこしのひとすじの風がぬけてすべてがころがりだすおよぎだすかもしだすしゅんかんがきっとなにものにでもそのときが運命の顕現

こんなに愛らしくそれぞれのからだを、存在を、受け取ることができる。
作品を見る、鑑賞、となるとあーでもないこーでもないと思いだすのはなんでだろう?
からだそのものを、存在そのものを、そのままのダイレクトを受け取るようなことを養っていく、育んでいく、見ることの豊かさを、そんな場を。

突然ですが、失礼いたします。ナクテモです。
すべてのものことはその時その場にしか立ち現れないものことであり、かつ、これはわたしを透して書かれたものである以上、事実ではない可能性を多いに含んでおりますゆえ、というか畏れ多くて事実と言うことなどできず、これはもう『事実』ではないっしょ、ということをここに明言させていただきたいと思っておりま所存でありんす。
とはいえリンスinダンプーの運転手さらさらヘアースプラッシュinザジョーズあらあなた歯ならび意外ときれいなのねということで健康的にまいりたいと思います。よろしくおねがいいたします。

でゅ

でゅでゅ

でゅでゅわでゅ

でゅでゅわでゅわでゅわ♪いきまっしょいレツゴー♪
でゅわでゅわ、実は不器用です♪
でゅでゅわ、天才とどかねー♪♪
でゅわでゅでゅ、マジ、ザケ、んな、わけ、絵ー、だろ♪♪♪

(サビ)
(踊り)
(サビ)
(踊り)
(サビ踊りサビ)
(サビ)踊り(サビ)踊りサビ
踊りサビ踊り
踊りサビ踊り、サビ踊り踊り

あえて踊り子魂とはいわないでいたい
それぞれのあわいに顔を覗かせたであろう魂は、強烈な踊り子魂とそれぞれに宿るそれぞれの何かのあわいから立ち現れた、何かしら魂の発芽、であって欲しいと願う気持ちがまだどこかにあってしまうから

でゅ♪

ある種の執念や怨念にも似た仄暗い裏側の澱をポップさとキュートさと時折り垣間見える不安と不器用さも混じえながら身につけてきた術と智慧と感性を用いてのシュバっキュルルンルンむぐっ、、、

でゅわキュルルンむぐ、でゅわキュルン♪
むぐキュルでゅわむぐ、でゅわキュルン♪♪
キュルルでゅわでゅわむぐでゅわむぐン♪♪♪
キュルむンでゅわでゅわでゅわわわン、むぐっ
あーれ、びっくらこいたー

↑自己体内リズムを用いての小さな音読小さく小踊り、推奨

諦めの境地に立つことでしか私の物語りは始まらないのだとすれば、
お似合いの道をゆくことこそ祝、であり
ひとりづつであってひとりではなく、ひとりでゆくことは必ずしもひとりぼっちと同義ではない。
ひとりぼっちだとしてもひとはひとりになることはできてもひとりぼっちとしてあることはできず本質的にそれはひとりぼっちではないということ。なの、やもやも。
すり抜けていた「私の踊り」に触れることはできたのだろうか?
ホンモノの化物かもめは想いを馳せる。
それらしき何かが、あの場に生成され、すっーと身体を透り抜けていったかもしれない観覚だけはある。
として、生成された何かが誰のものなのか、それは定かではない。
蓉さんの私の踊り、なのか、それぞれの私の踊り、なのか。
続・継承する身体。

歌謡曲で踊るなんてまだそんなことをって言ってみたって、やってみたらこんなに楽しいの知らなかったしわたしー、やってみねーでとやかく言ってんのいっちゃんかっこ悪りかったねーって無知無知の父・恥恥の母さらし続けて生きていくのもういい加減やめにしたい。ですよねー。激流オンパレードに飲み込まれながら、ギリギリの息継ぎで命取り戻す。
カッパの川流れ笑って対岸で見過ごすより、思わず飛び込んじゃって、このきゅうり美味しいよねーって一緒に濁流コロコロしながらケラケラ笑っていられるくらいでありたいお年頃。なんじゃない、いつだって、いまだって。
みたい夢だってあるし、青空飛んでみたらそれはそれで、えっ、めっちゃ楽しいんだけどってなって、ちょうど諦めることに飽きちゃうくらい諦め飽きてたとこなんで、ちょっくらこのまま青空へ、ひとりで行こうと思っていたけどもう少しみんなと一緒に共にひとりひとりの友、ひらりひらりの蝶の飛びたいとこ飛んでみること、ゆくことお似合いのところへどこへなのかさてはて最果て行ってきまーーーす!

『かもめはかもめ』何度も聴いちゃいます。
ありがとうございました、蓉さん。
また逢う日まで逢える時まで〜〜

憧れのあの人もどこかかもめで飛んでいる

続・継承する身体

続・継承する身体|鴻池留衣:講義+ワークショップ「本人という謎」レポート|長谷川祐輔:秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉

長谷川祐輔(哲学者・ドラマトゥルク)
新潟大学大学院博士前期課程修了。フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの崇高論を中心に研究。
「プロジェクト」や「アトリエ」をキーワードとして、理論と実践が重なる場で生成するものを探究している。
芸術制作や美的実践のプロセスに立ち会うなかで、作品の形にはおさまらない言葉、出来事、行為の記録・保存、コンセプトの設計を続けてきた。
障害福祉の企業にて支援員として勤務。
最近の活動履歴。執筆:「ワークショップ映画と俳優の創作的ミメーシス──濱口竜介の制作論における多層的な声の表出について」(2023)、「崇高の二重化とアナムネーシスの問い──ラクー゠ラバルトとリオタール」(2024)、「モードとコンテンポラリー──山縣良和の『その後に書かれた』ファッションについて」(2025)など。
作品:AAPA『敷居またぎ』(2024)、藤中康輝『光の中で眠る』(2025)、エリア51『光かもしれない』(2026)など。

1. 正直な話、嘘が造形するもの

 「人が正直なことを話すときって長くなりますから」

 講義の終盤で鴻池さんがこぼすように言った。鴻池さんはインタビューでよく嘘をつくそうだ。それは相手を騙すとか悪意に満ちているとかではなく、思考、経験、出来事がひとに伝わるものになるために必要なデフォルメの作業としての嘘だ。
 思考や経験は時系列を忠実になぞりながら話しても、上手く伝わるものではない。むしろ、さまざまな情報が省略され、うまく形が整えられてこそ初めてひとに伝わるものになる。
 ものごとを考える順序と、それをひとに話すときの順序は同じではない。自分が思考したこと、体験したことを順番通りに話しても、大体上手く伝わらない場合の方が多い。人に話すときはその時点でフィクションとしての「嘘」の次元を挟んで、伝わるように変換する必要がある。その変換の過程で、語ることの中におのずと入り込んでくるレトリックの次元を鴻池さんは「嘘」と表現した。少なくともわたしはそのように受け取った。
 そして、冒頭に書いた鴻池さんの言葉は、前回のゲスト池田亮さんの自分を守るための「秘密」の話と今回をブリッジするような言葉だと思った。
 講義・ワークの内容を振り返りながら、またこのトピックに立ち戻ることにする。

2. ゲームとアート

 鴻池さんが最初にホワイトボードに大きく書いたのは、「ゲーム」と「アート」の二つだった。「文章の方が得意なんだよなあ」と言いながら、講義が始まった。
 「ゲーム」はほとんど「ルール」と等価な意味として扱われていた。社会にはルール=ゲームが溢れている。人間はルール=ゲームに従って生きることが本能的に好きだ。それは家庭・親、生まれ育った地域、学校、塾、職場、分野など挙げればきりがない程さまざまなところにある。鴻池さんは具体例として、ご自身の出自や、勤務経験のある出版社・編集雑誌の中で設定されているルールについて講義の要所で触れていた。
 ルールへの関わり方として「従う」ことの他に挙げられていたのが、ルール違反を指摘する「取り締り」だった。人間はルールに従うだけではなく、ゲームを観察しながらそのルールを違反した者が現れればそれを指摘することも本能的に好きだ。それが強化されると他人を監視するような態度が当たり前になっていく。
 鴻池さんによれば、人間がルールへの従属ではなく他人を取り締ることが好きな理由としては、それが共同体においてひとつの承認される方法になるからということだった。違反した者を取り締まることには、実際にルールが破られることを無くしたいというわけではなく、承認欲求を満たす効果が含まれている。

 それではアートにはどのような役割があるのか。簡潔にいえばそれは「茶化すこと」。社会の中で規範化されたルール、誰もが疑いを持たずに参加しているゲームを外から茶化し、価値基準や意味づけのルールそれ自体を書き換えていくことがアートの役割である。ルールの束を生きる人間が、「自分の意味付け方」を取り戻すための手法がアートということになる。この意味で「純文学」は文学の中でのアートであり、その芸術性は小説を書いている瞬間にこそ最も現れると話していたところに、鴻池さんの本音を聞けた気がした。

 鴻池さんが結論としてまとめた以上の内容は、非常にシンプルなものとして届いた。社会はルール=ゲームに溢れている。アートはそれを茶化す行為で、価値づけの最終決定権を取り戻すための手法である。ただわたしは、その簡潔さに鴻池さんの生の履歴、時間の厚みを透視した。
 茶化す行為としてのアートにおいてすら一元的なルールが浸透している現在、いくらでもその先の展開や批判の可能性を含んだ結論をあえてそこで打ち切っているかのような、抑制的な簡潔さ。ひとが生きることを通してたどり着く世界観は、言葉にするととても端的なものになることがある。それは、個人史の中で嘘と真実、過去と現在が複数のレイヤーになって重なった果てに現れる境地でもあると思う。

3. 秘密と嘘

 冒頭に書いた話に戻ることにする。ひとつ前のゲストの池田亮さん(劇作家・脚本家・演出家・造形作家)の話の中には、「守る」という言葉が繰り返し使われていた。そのひとつに匿名創作の話題があった。人間の行動やアテンション(注意)が資本へと瞬時に変換されるインターネットの空間では、リアクションを集めることとオープンであることが(ルールとなって)歓迎されている。そんな世界にあって、名前を出さない創作、発表しても見られることのない文章、さらに、いいものができてもあえて発表しないという姿勢は、池田さんにとって「宇宙上で自分しか知らない」という秘密によって自分を守ってくれることにつながる。この話から、誰にも知られたくない言葉を、1分間想像するという「誰にも知られない言葉or作品+擬似ワークショップ」が行われた。
 池田さんの「秘密」の話は、情報の海にたゆたう日々を過ごす中で、ミニマルに作り出すことができる身体的なカタルシスをもたらす。自分だけが知っているということのカタルシス。それはルールから降りていることの心地よさでもある。
 正直な話は長くなる──鴻池さんの「嘘」の話は、わたしにとって池田さんの秘密の話と地続きのこととして響いてきた。どこに真実があるのかもはや分からない世界の中で、あまりにも愚直に正直に自分を晒すことは、必ずしもいい方向に働かない。自己像を対外的に構築していく手段としての嘘は、むしろ必要ですらある。嘘というと聞こえが悪いかもしれない。しかしそれは人を欺くためのものではなく、人と関わるときに自分を自分として保つために最低限必要な、造形術にしてカタルシスなのだと思う。

4. 嘘の奥にある人物像

 後半行われたワーク「本人という謎(なりすまし検証ゲーム)」には、前半の講義のエッセンスが詰まっている。必要な事前準備と、ゲームの進行は以下のように説明される。

【参加日までに】
・なりすます別人の設定をご用意ください。
・自分とは正反対の思想を持った人物、相容れない価値観を持った人物、生まれの背景が自分とは全く異なる人物にしていただいても構いません。
・もしくは、なりたい人物、本当はこうありたいと願う人物でも構いません。
・もちろん、こうなりたくない、こうあったら最悪だ、と思う人物でもオーケーです。
・「普段から、自分を偽っているな」と認識されている方は、普段のままでも構いません。
・実在の有名人などの設定をそのまま採用しても構いません。
・なりすます別人には、名前をつけてください。ニックネームのようなものでも構いません。本名でも構いません。
・とにかくゲーム中は、その別人になりすましていただくので、そのつもりでいてください。

【当日】
・参加者には一人づつ、質問タイムが割り当てられます。
・一人あたりの質問タイムは、およそ20分です。
・その間、他の参加者からの質問に答えていただきます。
・他の参加者は、質問された人が本当はどんな人物なのか(何を隠しているのかなど)、専用のシートに自由に記載します(検証用紙)。
・検証用紙は、無記名で提出していただきます。
・検証用紙は、ゲーム終了後、被質問者、それぞれ宛にまとめて譲渡されます。

 参加者は、名前、出身、趣味、職業などさまざまな次元でなりすました仮想の人物として人前に出て話す。なりすますといっても、本当のことが混ざっている場合もある。本人の人生を素材にしている場合もあれば、自分のことは何も明かさず身近なひとの人生の断片を組み合わせている場合もある。
 一応補足しておくと、このゲームの狙いは上手くなりすますことにあるのではない。そうではなく、架空の人物としての語りを通して、その奥に透けて見える本人がどのようなひとなのかを推察することにある。なぜそのようになりすまそうとしているのか。選ばなかった判断、後悔、これからの夢、他人への羨望、あるいは本人にしか分からない嘘や秘密など。話を聞きながら、そのひとがなりすますためになぜそれらの素材を選んだのか、その背景を想像することは決して正解にたどりつくことがなく、相手を知ろうとするプロセスだけがある。そこでは話し手の表情、立ち姿、目線、声色など、非言語的な要素へのフォーカスが総動員され、知覚が活性化される。ひとの話を聞くことが全身的な行為だったことを思い出す。
 自分が話す側に立った視点の感想としては、これまで自分の人生の中で接点がなかったこと、これから接点が生まれることが想像できないことを使って人物をつくることはできなかった。本当のことをそのまま話したことはひとつもなかったが、素材はすべて実際に起こったこと、起こりえたことをサンプリングしてつくっていった。最後に、それぞれの話について他のひとからの感想・フィードバックが書かれたメモ用紙が各自の手元に戻っていく。話の内容面についてだけではなく、身体的な部分や性格、浮かび上がってきた人物像の特徴、これまでの人生を推測するようなコメントが書かれている。ひとがひとの語りから受け取るものとして、話の内容よりも、声、表情、言葉の澱み、流れ、目線、身振りなど非言語的・身体的な要素から受け取る情報がとても多いのだとあらためて自覚した。
 自分であれ他人であれ、誰かの人生の断片を使って仮想の人物をつくっていく作業には、独特のカタルシスがあった。途切れてしまった可能性、予想外の流れで成就した現実、選ばなかった道などを集めては分解しながら組み立てていくことは、嘘と真実、過去と現在が不可分に結びついていることをいまここで想い起こす体験でもあり、〈わたし〉の輪郭を丁寧に描きなおしていく時間だった。

続・継承する身体

続・継承する身体|池田亮:講義+ワークショップ「線による空間と会話」レポート|おかだゆみ:所感と考察と手

おかだゆみ(ダンス作家・演出家)
東京藝術大学大学院 先端芸術表現専攻を修了。
対話から実際の声を汲み取り、身体で情景を描いていく作品を制作する。
主な活動として、Yokohama Dance Collection2024 competitionⅡ、豊岡演劇祭2025フリンジセレクション、NISHINARI YOSHIOファッションショー(演出・構成)などがある。最近では地域に滞在し、そこで暮らす人々の生活や身体のありようを、映像で記していく活動をしている。

連日の酷暑が少し和らいだ日。13:00〜13:30に、参加者がゆるりと集まってくる。今回は、池田亮さんを招聘アーティストとして迎える。
会場に着くと、そこにはもう池田さんがいた。
13:30になり、参加者は講義形式に並べられた椅子に腰を下ろす。前半は講義、後半はワークショップという構成である。
講義とワークショップのどちらを通しても、池田さんの現在進行形の思考が共有されていたように思う。
前半約100分の講義では、これまでの歩みや、その中で考えてきたこと、現在の活動へ至るまでの思考のプロセスが、丁寧に語られていった。

主な話の内容は、以下のとおりである。『』内については、池田さんの言葉を引用している。
・どうして脚本家・劇作家・演出家・造形作家をしているのか
・匿名での創作について
・彫刻について
・『エンパシーが欠如した匿名創作からの離陸 欠如していた経験と過程の共有(解離)』
・ゆうめいの成り立ちや方向性
・『複数の意味と意図を内包させる狡さ』
・育児について
・ハンドメイドについて

講義形式のレクチャーでは、これまでどんな作品を作ってきたのか、どのような創作プロセスを経ているのかといった、作品を起点とする話が中心になることが多い。しかし今回は、池田さんの人となりや創作活動の原点、それらが現在の活動へどのように結びついてきたのかが語られた。
原点から話を始めるという切り口は、スペースノットブランクが招聘アーティストにあらかじめ提案しているものだという。作品として整理される以前の経験や、現在も形を変えながら続いている思考まで共有されるのは、スタディグループという、ある種クローズドな場だからこそだと感じた。

お話の中で印象的だったのは、「守る」という言葉。
池田さんの話には、育ってきた地域、住んでいる地域のことが度々登場する。
池田さんはかつて走ることをしていたという。「好きだからではなく、住んでいる地域において自分を守るために走っていた。」
好きでなくても走る人がいるのか、と。最初はそのこと自体の面白さに気を取られたが、だんだんと話が進むうちに、その地域で他人からどう見られ、どう自分を保つかが、自分の行いを作り上げているということ、その素朴な自己形成の仕組みに気がついた。そして、素朴だからこそ、いかに走ることが切実だったかを想像するに至る。

池田さんの過去についての話の節々では、環境によって選択や感情が左右され、その呪縛に気づきながらも、なおその呪縛の中へ入っていってしまう感覚が立ち現れることがあった。
ふと、我に返る。あ、その感覚、知っているかも、と。
けれど、その環境は、自分が住む地域であり、生活を成り立たせる最小単位でもある。簡単に切り離すことはできない。そこにジレンマがある。そして今、私自身もまた、その渦中にいるのだと気づかされる。
レクチャーというと、他者から知識を受け継ぎ、自分のボキャブラリーを増やす時間を思い浮かべる。しかし、今回はそれだけではなかった。誰かが経験したことや、かつて抱いていた感覚を通して、自分の言語化されていなかった状況に気がつく。それが、自己開示すること、そして、聞くことの醍醐味なのだと思う。誰かの経験を聞いたからといって、目の前の状況が直接解決するわけではない。それでも、自分だけでは見つけられなかった感覚や言葉に触れることは、確かに励みになる。

「守る」という言葉は、匿名での創作についての話にもつながっていく。
池田さんから、一つの問いが投げかけられた。
『誰にも知られない言葉or作品+擬似ワークショップ』
誰にも知られたくない言葉を、1分間想像する。それは、発表しないものを明確に見つけるワークであった。
そのことは、宇宙上の誰にも言わない。言わないことに価値があり、それが自分を守ることにつながる、と。
環境によって喋らされてしまう日常の中で、絶対に伝わらないものを見出すこと。その問いかけを通して、私は自分の内側に、わずかな力強さを見出した。表現することには、外へ向かうベクトルが無意識のうちに前提としてある。何を伝えたいのか、どのように伝わってほしいのかを考える。しかし、表現する以上、何かを外へ伝えなければならないという前提もまた、先ほどの話にあった呪縛と似ている。このワークが促すのは、その真逆の方向である。誰にも伝えないことによって、自分の内にある確かなものを見つける。その時間は、自分だけのお守りを作り出すようでもあった。
伝えることと、伝えないこと。外へ開くことと、自分を守ること。物事は表裏一体である。そのシンプルさを突きつけられる。

池田さんの話には、常に悩みが蠢いている。「守る」「安全」という言葉を手がかりに、一つひとつの物事を複数の側面から捉え、行き来していく。そこに、システム化されていない、手探りの思考のプロセスを感じる。話はさまざまなルートをたどり、むやみに結論づけられることなく、現在進行形の思考として、手探りのまま残されていく。
そんな中で、猛烈な勢いが生まれた瞬間は、「ハンドメイド」についてである。
「ハンドメイドがやりたい、肩書きの最初が造形作家となればいい」と、気持ちを表出する等身大の池田さんが、そこにはいた。
ハンドメイドに関する語りの熱は、聞いている私の好奇心までも駆り立て、頭の中が「ハンドメイド」の文字列で埋め尽くされる。
ハンドメイドハンドメイドハンドメイド…………。

休憩を挟み、後半のワークショップへ移る。ちなみに、休憩を挟んだにもかかわらず、私の中ではハンドメイドの余韻が残っている状態である。
以下は、ワークショップについての事前告知の内容である。
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タイトル:線による空間と会話
概要:舞台芸術における人と人とのスペースと境界線をマスキングテープ(mt heta)を用いて空間を線で視覚化していくワークショップです。テープによるルールの発見と制限、その場で起こる想像を会話によって拡大していく試みを行います。
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使用するのは、「カモ井加工紙 マスキングテープ mt heta box」。
マスキングテープは、長い巻き取り紙をカットして作られる。その際、両端に残る部分は、廃材として捨てられてしまう。「mt heta box」は、その端材をまとめ、ボックスに詰めて販売しているものだという。つまり、マスキングテープの「ヘタ」である。
ヘタには芯の部分が残っており、握ったときの感触も楽しい。廃材を活用でき、触れる楽しさもある、一石二鳥のアイテムである。

ワークでは、そのテープを空間に渡し、線を引いていく。一人一巻きずつ手に取り、スタート。テープの使い方を手で探りながら、空間のあらゆる場所に貼りつけていく。
壁から床にかけて浮かせながら貼ったり、椅子を使ったり、カーテンをくくったり、床にまっすぐ引いたり。「森」という字が出現したり、「↓」が壁に現れたり。
それぞれが気の向くままに身体を動かしながら、テープを空間に記していく。貼る、引く、というより、「記す」というイメージが私には近かった。
テープとテープが交わり、重なり合い、空間が埋め尽くされていく。時折、誰かがテープに引っかかり、テープが揺れ、崩れたりする。一台のスマホがテープの中に組み込まれ、囚われていたりもする。私の見た限り、おそらく全員が没頭してテープを駆使していた。ビービーとテープが擦れる音と、黙々と前のめりに動く身体たちと、淡いテープのカラーが混在する。

テープが尽きてきたころ、池田さんから「居心地のいい場所を探す」という声がかかる。
テープが混線しているところ、首周りを囲まれるところ、深くかがまなければ入れないところ。少し冒険をしながら、自分が落ち着ける場所を探す。
結局、私は自分が引いた、ホワイトボードと床をつなぐ縦線の間を選んだ。どうやら、斜めの線よりも平行の線のほうが、感覚的に落ち着くことがわかった。

続いて、全員がいったん近くの壁際に寄り、そこから対角の壁を目指して、テープに触れないように進む。テープをまたぎ、潜り、ときには譲り合いながら、対岸を目指す。
壁際までたどり着くと、次は右隣の人についていく。先頭の人に続いて一列になり、前の人がテープの間をどのように通っているのかを観察しながら進んでいく。
前の人の動きを見ていると、ちょくちょくテープに触れてしまっていて面白い。しかし、他人の動きに夢中になっていると、今度は自分がまんまと引っかかる。
やがて前後が入れ替わり、最後尾だった人が先頭となって、再び進む。テープをよけながら進むうちに、少しずつ身体へ負荷がかかり、ほどよい疲労がやってくる。

一連の動きが終わると、全員で腰を下ろし、会話へ移る。池田さんからの問いかけと参加者の応答を、私の覚えている範囲で記しておく。

池田さん「どんな記憶が甦ったか」
・茂みをかき分ける
・アスレチックのロープ
・大人になると、「できること、できる範囲」で動いてきたことを思い返す。目の前にくるという制限によって、そのことに気づかされる。

池田さん「これ(テープの空間)自体、何に見えるか」
・お風呂に入ってる感じ
・骨粗鬆症
・家の間取り(お風呂の話から連想)
・参加者の一人のスーツ姿も相まって、パーティー終わり

私はこれらの問いかけに対して、「水中のような」という言葉が浮かぶ。
それから、小さい頃遠足で山道を歩いた際の、ひたすら前についていくわけのわからなさを思い出した。目的地へのルートも距離感覚もわかっていないので、とりあえず前の人の足元を追いかけるしかない。ゴールから逆算できない身体の、不思議な感覚である。
また、「大人になると、首元の高さまで目の前に何かがあることは、なかなかない」という参加者の言葉を聞いて、気づいたことがある。身長の低い私にとって、目の前に広がるテープの混線は、むしろ日常の視界とそれほど変わらないということだった。周囲にいるほとんどの大人は自分よりも大きく、視界を遮る。通勤時間の電車の出入り口や人混みのホームでは、自分より大きな身体が四方八方で蠢き、常に視界を遮っている。テープによってつくられた空間が、私にとっての日常の視界に近いことに気がついた。
私にとっての日常が、他人にとっては非日常なのかもしれない。その発見を、テープがもたらしてくれた。

片づけに入る。
端っこからテープを回収していく。会場を傷つけないよう、一つひとつ丁寧に剥がす。みんなでテープを中央へ集めていくと、やがて一つの大きな塊になった。
オレンジ、青、紫、黄色。鮮やかな色が、一か所に集約される。
粘り気を帯びたテープの塊を、一人ずつ持ち上げてみる。「ベイビーくらいの重さかな」という声が上がる。なぜか、それを手にすると、みんな嬉しそうな顔をする。
全員の手を一周したあと、塊は、もともとテープが入っていた箱の上に置かれた。休憩がてら、自由な鑑賞タイムが始まる。
手の込んだもの。いくつもの手垢が集まったもの。そこから、新しいものができ上がる。身近なものを介して、遠くとつながる。
ハンドメイドとつながる。
私の頭の中で、「ハンドメイド」の文字列が再燃する。
ふと、周囲を見る。
なんか、みんな楽しそう!!
そう、それでいいのである。
連日の酷暑が少し和らいだ、この日の空気のように。身体と思考が、柔らかく解きほぐされていく時間であった。

続・継承する身体

いわき芸術文化交流館アリオス|レビュー|植村朔也:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『いわき芸術文化交流館アリオス』評

植村朔也 WebX
1998年生まれ。過去の文章に「柴幸男 劇場の制作論」「その手のもとに「劇場」はある」「質問の陥穽 あるいは、透明性の時代」など。修士論文「木下順二の民話劇」読者募集中、連絡は右記。tokyoharukani@gmail.com

 わたしは幾年かにわたり小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクに帯同し、作品に都度評を残す「保存記録」という肩書のもとその作品を見続けてきた。そういうわけで、周囲の知人から「スペノは非政治的だ(からダメだ)」という評言を聞かされたことも一度や二度ではない。そのたびごとに、こうした評価をむしろ意外に思って聞いた。かれらは2020年代前半に活躍した日本の舞台芸術作家のなかで、とりわけあからさまに政治的な存在であるとわたしは思っていたからだ。
 もっとも、そのモダニズム的な創作の手つきは、社会や政治に無頓着なオタク的「純粋芸術」、という誤解を招くには十分なものだったかもしれない。かれらの舞台の台本は、稽古場で採集される。演出の小野彩加と中澤陽が出演者に質問を投げかけ、その答えを蓄積し、コラージュして織り上げるそのテキストは、複数の不分明な主体からなる。また、そのコラージュも非常に徹底しているので、言葉は脱文脈化され、つぎはぎされ、意味を追いかけることも困難だ。そこに作家個人の政治的、社会的なメッセージが直接的に打ち出されることはない。
 一方で、「聞き取り」と呼ばれるこの集団創作の方法こそが、芸術的にも政治的にもかれらの舞台の賭け金とされてきた当のものでもある。劇作家=演出家による集権的な制作モデルに対し、水平的な協働のモデルという代案を示すこと。「聞き取り」は単独的かつ特権的な「作者」の消去、演出/出演の境界線の引き直しのための術なのだ。そしてかれらは、上演やワークショップ、プレゼンテーションや教育活動を通じて、他者に制作方法を共有することを図ってきた。そのように普及可能な方法を制作することを通じて、一過性の上演を超えて運動的であろうとしてきたともいえる。かれらの舞台の政治性を問うまなざしは、かれらの用いる形式の技術上方法上の有効性に向けられなくてはならないように思う。
 福島県いわき市の劇場こといわき芸術文化交流館アリオスが主催し、「リージョナル・シアター2025 いわきアリオス演劇部Plus」と銘打たれた新作は、劇場の名前そのまま、『いわき芸術文化交流館アリオス』という。舞台は特定の劇場、特定の地域に根ざしたものであることが建付けの上で幾重にも強調されており、それだけに集団性をめぐるかれらの方法の真価がまっすぐに問われるような公演でもあった。すなわち、地域で上演を起こし、地域に働きかけるための術として、その上演形式の有用性はどのような射程を持つのかということだ。
 これは演出補と出演を務めた古賀友樹の台詞だが、劇場にいる誰もが観客になればいいのに、という旨の汎観客論的な願いが、ユートピックな理想論を語るときのトーンで言葉にされていたのが印象的だった。誰もが役者になればいいのに、ならなんとなく聞き馴染みがある。しかし誰もが観客にという願いは、どこかおかしい言葉だ。上演において劇場に座を占める人の過半は観客であり、実のところ舞台上の役者こそが少数者だからだ。誰もが観客になると、何が嬉しいのだろうか。舞台上のまなざしが多重化し、そのことで観ることの実践が具体的な複数性を伴って平準化されるのが嬉しいのかもしれない。というのも、観る者と観られる者との非対称性、観ることの権能におけるアンバランスこそが、演出と出演の垣根を水平的にまたごうとする「聞き取り」の実践にあって、越え難く残存してしまう垂直性を生み出す当のものだからだ。
 実際、『いわき芸術文化交流館アリオス』の舞台は、観ることの実践を多重化するいくつもの設えを持つ。出演者は自分の出番でなくとも舞台上におり、円をなすように置かれた椅子にそれぞれ腰かけて、ほかの演者の出番を観ている。その円状の椅子の真ん中には出演者の一人、猪狩彰一が腰かけるための席があって、猪狩は開場時間からずっと劇場をスケッチしている。そして猪狩は上演時間中、カメラにその姿を撮影されており、その映像は舞台奥のモニターにリアルタイムで投影されている。さらに舞台の右奥には、運営コースの一人として公演に参加したスタッフの大迫健司がずっと座っていて、出演者たちを見守っている。誰もが観客になればいいのに、という願いを有言実行するがごとくに、舞台には異なる複数のレイヤーにおいていくつものまなざしが配置されるのだ。まなざしのレイアウトによる、制作の自動化と水平化。
 戯曲が舞台情報のスクリーンに投射され、発話されるテキストを目で追えるようになっていたことも、客席に座することのできるまなざしを増やすための努力、あるいは鑑賞方法の複数化(耳で聞くか目で読むか)の試みとして理解できる。そして上演されるのはコラージュされた継ぎはぎのようなテキストだ。どこで、いつ、どのように言われたか不定の、それゆえに複数の解釈や想像を促すような。作中には、おそらくは稽古場で実際に披露されていたのだろう、舞台の演出プランが出演者から発される一幕があり(川を作って飛び石を置く、ミラーボールを吊るす、映像を投影する、床から巨大なスピーカーを生やす)、そのうち半分くらいが実現されていた。出演者がここでは演出者になり、それぞれの観たいアリオスを実現しているわけだが、一方で果たされなかった演出プランが観客によって眼前に思い描かれるとき、舞台は流体のように姿を変え始める。複数のまなざしの輻輳的な持ち寄りあいによって、舞台が観る者によって変幻自在の動態となることが、ここでは目指されているに違いない。作中で引用される谷川俊太郎の組詩「アリオスに寄せて」のなかの一節、「ハコはいきて 呼吸している」という言葉も、舞台のこうしたありように響きあう。劇場には、生き生きとしてあることが期待されている。『いわき芸術文化交流館アリオス』という直球の名づけには、かれらが劇場に寄せる思いの丈を読み込んでもよいのだろう。
 さて、今回の上演において、多層化され複数化されたまなざしが織り成す動的な「いま・ここ」の出来がいくぶんユートピックにも目論まれていたことは以上のようにそれなりに明らかだとして、制作における観ることの権能のアンバランスはまた別途、技術的に取り組まれるべき問題としてある。たとえば出演者の仕事の方向づけが、特定の観者が求める(美的な)質へと一元化されていくのを防ぐこと、そのためにむしろばらばらな質を志向したり、あるいは質を求めずに済むようにしておいたりすることは、とりわけ演出者に特権的に許された仕事の一つだ。
 しかし一方で、演出者自身は舞台にどのようなまなざしを持ち寄っていたのかが、そろそろ問われても良いのかもしれない。それは、舞台上のまなざしを輻輳化する努力が、単に自己のまなざしの否定というモダニストの美学に奉仕するものにとどまるのか、複数の人々が持つ複数の視座のひらかれた具体的な共有という公共的な場づくりの技法としても理解可能なものなのかを問うことでもある。
 演出者ふたりのまなざしは、聞き取りにより採集されたテキストを編集するその仕方に顕著にあらわれる。そう、ふたりの編集する戯曲にはある特徴がある。台詞が登場人物ではなく出演者本人にあてがわれるのだ。たとえば「古賀友樹 床に川を」といったように。しかし一方で、台詞には出演者の固有名があらわれることはほとんどなく、「わたし」や「かれ」などの人称代名詞がもちいられることがもっぱらである。稽古場で発話された当初はおそらく具体的な名前が用いられていただろう台詞に、人称代名詞での上書きがされることもしばしばだ。だから戯曲の台詞に出演者名が添えられるのは、「本人役」ということではなく、発話の責任主体を明示するためのゆるやかな取り決めのようなものに思える。
 とはいえ今回の上演では、人称代名詞はさほど使われていない。代わりに代名詞への上書きが施されていたとみられるのが「いわき」という固有名だ。本作がこの地域に根ざした市民演劇として制作されていることを思えば、演出者らが加えたこの編集の意味は大きい。一歩間違えればいわきという土地の個別具体的な地域性を捨象した乱暴な編集処理と受け取られてもおかしくないこうした抽象化の手つきはしかし、名前や地名といった固有名詞に回収されない「その人」をつぶさにまなざそうという企てによるものであることが、舞台を観ているとわかる。そのようなまなざしにおいて舞台が制作されていることが、それと知れる。こうしたかれらの企てを、良心的な企て、と言っても良いのだろう。というのは、舞台を制作する演出者はかれらなりの仕方でそのまなざしに誠意を込めていること、そのことでかれらの制作の技法はひとつの倫理的な実践として枠づけられてもいることを、この機会に強調しておきたいからだ。「ここ」という代名詞への上書きによる「いわき」という固有名の消去は、土地の外から招かれてきた余所者の芸術家が、そこに住む人々の経験や記憶をわけ知り顔で上演し、収奪して作品化するという愚を免れながら、一種の対等さにもとづく関係をつくりだすための方法としてもおそらく機能しただろう。作中でたびたび仄めかされる「死者」の主題と、いわきという土地との強い結びつきを思うなら、この抽象化の手つきの倫理性は一層強く浮かび上がる。これが、小野彩加と中澤陽がその舞台に差し出しているまなざしのありよう、他者とともに生きる上でかれらなりの誠意をつくすためのひとつのやり方である。ゆえにかれらの舞台が持ちうる公共性なるものは、固有名の消去と具体性の堅持とが両立される境地において出来するものとしてあるといえる。

レビュー
佐々木敦:リージョナル・シアター2025 いわきアリオス演劇部Plus『いわき芸術文化交流館アリオス』公演レビュー
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いわき芸術文化交流館アリオス