続・継承する身体|鴻池留衣:講義+ワークショップ「本人という謎」レポート|長谷川祐輔:秘密と嘘のカタルシス──自分のなかにとどめておく言葉
| 長谷川祐輔(哲学者・ドラマトゥルク) |
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| 新潟大学大学院博士前期課程修了。フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの崇高論を中心に研究。 「プロジェクト」や「アトリエ」をキーワードとして、理論と実践が重なる場で生成するものを探究している。 芸術制作や美的実践のプロセスに立ち会うなかで、作品の形にはおさまらない言葉、出来事、行為の記録・保存、コンセプトの設計を続けてきた。 障害福祉の企業にて支援員として勤務。 最近の活動履歴。執筆:「ワークショップ映画と俳優の創作的ミメーシス──濱口竜介の制作論における多層的な声の表出について」(2023)、「崇高の二重化とアナムネーシスの問い──ラクー゠ラバルトとリオタール」(2024)、「モードとコンテンポラリー──山縣良和の『その後に書かれた』ファッションについて」(2025)など。 作品:AAPA『敷居またぎ』(2024)、藤中康輝『光の中で眠る』(2025)、エリア51『光かもしれない』(2026)など。 |
1. 正直な話、嘘が造形するもの
「人が正直なことを話すときって長くなりますから」
講義の終盤で鴻池さんがこぼすように言った。鴻池さんはインタビューでよく嘘をつくそうだ。それは相手を騙すとか悪意に満ちているとかではなく、思考、経験、出来事がひとに伝わるものになるために必要なデフォルメの作業としての嘘だ。
思考や経験は時系列を忠実になぞりながら話しても、上手く伝わるものではない。むしろ、さまざまな情報が省略され、うまく形が整えられてこそ初めてひとに伝わるものになる。
ものごとを考える順序と、それをひとに話すときの順序は同じではない。自分が思考したこと、体験したことを順番通りに話しても、大体上手く伝わらない場合の方が多い。人に話すときはその時点でフィクションとしての「嘘」の次元を挟んで、伝わるように変換する必要がある。その変換の過程で、語ることの中におのずと入り込んでくるレトリックの次元を鴻池さんは「嘘」と表現した。少なくともわたしはそのように受け取った。
そして、冒頭に書いた鴻池さんの言葉は、前回のゲスト池田亮さんの自分を守るための「秘密」の話と今回をブリッジするような言葉だと思った。
講義・ワークの内容を振り返りながら、またこのトピックに立ち戻ることにする。

2. ゲームとアート
鴻池さんが最初にホワイトボードに大きく書いたのは、「ゲーム」と「アート」の二つだった。「文章の方が得意なんだよなあ」と言いながら、講義が始まった。
「ゲーム」はほとんど「ルール」と等価な意味として扱われていた。社会にはルール=ゲームが溢れている。人間はルール=ゲームに従って生きることが本能的に好きだ。それは家庭・親、生まれ育った地域、学校、塾、職場、分野など挙げればきりがない程さまざまなところにある。鴻池さんは具体例として、ご自身の出自や、勤務経験のある出版社・編集雑誌の中で設定されているルールについて講義の要所で触れていた。
ルールへの関わり方として「従う」ことの他に挙げられていたのが、ルール違反を指摘する「取り締り」だった。人間はルールに従うだけではなく、ゲームを観察しながらそのルールを違反した者が現れればそれを指摘することも本能的に好きだ。それが強化されると他人を監視するような態度が当たり前になっていく。
鴻池さんによれば、人間がルールへの従属ではなく他人を取り締ることが好きな理由としては、それが共同体においてひとつの承認される方法になるからということだった。違反した者を取り締まることには、実際にルールが破られることを無くしたいというわけではなく、承認欲求を満たす効果が含まれている。
それではアートにはどのような役割があるのか。簡潔にいえばそれは「茶化すこと」。社会の中で規範化されたルール、誰もが疑いを持たずに参加しているゲームを外から茶化し、価値基準や意味づけのルールそれ自体を書き換えていくことがアートの役割である。ルールの束を生きる人間が、「自分の意味付け方」を取り戻すための手法がアートということになる。この意味で「純文学」は文学の中でのアートであり、その芸術性は小説を書いている瞬間にこそ最も現れると話していたところに、鴻池さんの本音を聞けた気がした。
鴻池さんが結論としてまとめた以上の内容は、非常にシンプルなものとして届いた。社会はルール=ゲームに溢れている。アートはそれを茶化す行為で、価値づけの最終決定権を取り戻すための手法である。ただわたしは、その簡潔さに鴻池さんの生の履歴、時間の厚みを透視した。
茶化す行為としてのアートにおいてすら一元的なルールが浸透している現在、いくらでもその先の展開や批判の可能性を含んだ結論をあえてそこで打ち切っているかのような、抑制的な簡潔さ。ひとが生きることを通してたどり着く世界観は、言葉にするととても端的なものになることがある。それは、個人史の中で嘘と真実、過去と現在が複数のレイヤーになって重なった果てに現れる境地でもあると思う。

3. 秘密と嘘
冒頭に書いた話に戻ることにする。ひとつ前のゲストの池田亮さん(劇作家・脚本家・演出家・造形作家)の話の中には、「守る」という言葉が繰り返し使われていた。そのひとつに匿名創作の話題があった。人間の行動やアテンション(注意)が資本へと瞬時に変換されるインターネットの空間では、リアクションを集めることとオープンであることが(ルールとなって)歓迎されている。そんな世界にあって、名前を出さない創作、発表しても見られることのない文章、さらに、いいものができてもあえて発表しないという姿勢は、池田さんにとって「宇宙上で自分しか知らない」という秘密によって自分を守ってくれることにつながる。この話から、誰にも知られたくない言葉を、1分間想像するという「誰にも知られない言葉or作品+擬似ワークショップ」が行われた。
池田さんの「秘密」の話は、情報の海にたゆたう日々を過ごす中で、ミニマルに作り出すことができる身体的なカタルシスをもたらす。自分だけが知っているということのカタルシス。それはルールから降りていることの心地よさでもある。
正直な話は長くなる──鴻池さんの「嘘」の話は、わたしにとって池田さんの秘密の話と地続きのこととして響いてきた。どこに真実があるのかもはや分からない世界の中で、あまりにも愚直に正直に自分を晒すことは、必ずしもいい方向に働かない。自己像を対外的に構築していく手段としての嘘は、むしろ必要ですらある。嘘というと聞こえが悪いかもしれない。しかしそれは人を欺くためのものではなく、人と関わるときに自分を自分として保つために最低限必要な、造形術にしてカタルシスなのだと思う。

4. 嘘の奥にある人物像
後半行われたワーク「本人という謎(なりすまし検証ゲーム)」には、前半の講義のエッセンスが詰まっている。必要な事前準備と、ゲームの進行は以下のように説明される。
【参加日までに】
・なりすます別人の設定をご用意ください。
・自分とは正反対の思想を持った人物、相容れない価値観を持った人物、生まれの背景が自分とは全く異なる人物にしていただいても構いません。
・もしくは、なりたい人物、本当はこうありたいと願う人物でも構いません。
・もちろん、こうなりたくない、こうあったら最悪だ、と思う人物でもオーケーです。
・「普段から、自分を偽っているな」と認識されている方は、普段のままでも構いません。
・実在の有名人などの設定をそのまま採用しても構いません。
・なりすます別人には、名前をつけてください。ニックネームのようなものでも構いません。本名でも構いません。
・とにかくゲーム中は、その別人になりすましていただくので、そのつもりでいてください。
【当日】
・参加者には一人づつ、質問タイムが割り当てられます。
・一人あたりの質問タイムは、およそ20分です。
・その間、他の参加者からの質問に答えていただきます。
・他の参加者は、質問された人が本当はどんな人物なのか(何を隠しているのかなど)、専用のシートに自由に記載します(検証用紙)。
・検証用紙は、無記名で提出していただきます。
・検証用紙は、ゲーム終了後、被質問者、それぞれ宛にまとめて譲渡されます。
参加者は、名前、出身、趣味、職業などさまざまな次元でなりすました仮想の人物として人前に出て話す。なりすますといっても、本当のことが混ざっている場合もある。本人の人生を素材にしている場合もあれば、自分のことは何も明かさず身近なひとの人生の断片を組み合わせている場合もある。
一応補足しておくと、このゲームの狙いは上手くなりすますことにあるのではない。そうではなく、架空の人物としての語りを通して、その奥に透けて見える本人がどのようなひとなのかを推察することにある。なぜそのようになりすまそうとしているのか。選ばなかった判断、後悔、これからの夢、他人への羨望、あるいは本人にしか分からない嘘や秘密など。話を聞きながら、そのひとがなりすますためになぜそれらの素材を選んだのか、その背景を想像することは決して正解にたどりつくことがなく、相手を知ろうとするプロセスだけがある。そこでは話し手の表情、立ち姿、目線、声色など、非言語的な要素へのフォーカスが総動員され、知覚が活性化される。ひとの話を聞くことが全身的な行為だったことを思い出す。
自分が話す側に立った視点の感想としては、これまで自分の人生の中で接点がなかったこと、これから接点が生まれることが想像できないことを使って人物をつくることはできなかった。本当のことをそのまま話したことはひとつもなかったが、素材はすべて実際に起こったこと、起こりえたことをサンプリングしてつくっていった。最後に、それぞれの話について他のひとからの感想・フィードバックが書かれたメモ用紙が各自の手元に戻っていく。話の内容面についてだけではなく、身体的な部分や性格、浮かび上がってきた人物像の特徴、これまでの人生を推測するようなコメントが書かれている。ひとがひとの語りから受け取るものとして、話の内容よりも、声、表情、言葉の澱み、流れ、目線、身振りなど非言語的・身体的な要素から受け取る情報がとても多いのだとあらためて自覚した。
自分であれ他人であれ、誰かの人生の断片を使って仮想の人物をつくっていく作業には、独特のカタルシスがあった。途切れてしまった可能性、予想外の流れで成就した現実、選ばなかった道などを集めては分解しながら組み立てていくことは、嘘と真実、過去と現在が不可分に結びついていることをいまここで想い起こす体験でもあり、〈わたし〉の輪郭を丁寧に描きなおしていく時間だった。

