フィジカル・カタルシス|穂の国とよはし芸術劇場PLATにて。スペースノットブランクのダンス・レジデンス滞在日誌『ほほえみ』12日目と17日目
2019年12月11日、水曜日。
2019年12月6日、金曜日の夜に豊橋での作品試演会(成果発表会)を終えた。夜はそのまま豊橋に泊まり、翌朝の新幹線で東京へと向かう。新幹線を降りて三鷹へ向かう電車に乗り換える。三鷹にあるSCOOLというインディペンデントなスペースは雑居ビルの5階に位置しており、閉所恐怖症泣かせなエレベーターに乗る。SCOOLでは四季折々イベントが開催されており、2019年12月15日には麻雀会だってやるらしい。
◉SCOOL麻雀会
その日。作品試演会(成果発表会)の翌2019年12月7日の14時から上演がはじまる『配置された落下』を見に行った。2018年2月の『緑のカラー』に出演者として参加いただいた石田ミヲさんと、2019年3月の『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』、2019年3月と5月の『フィジカル・カタルシス』、2019年6月の『すべては原子で満満ちている』に出演者として参加いただいた瀧腰教寛さんが出演していた。
◉配置された落下
上演が終わり、三鷹から信濃町へ。文学座アトリエにて19時から上演がはじまる『メモリアル』を見に行った。2019年10月の『ささやかなさ』に劇作家として参加いただいた松原俊太郎さんの新作である。『ささやかなさ』とのささやかな共通項もあるように感じる。上演後は松原俊太郎さんの参加するトークがあり、聞いた。文学座アトリエの出口で松原俊太郎さんと豊橋の話を少し交わして、帰路に就く。
◉メモリアル
現実を生きている。と感じる瞬間がたくさんある。豊橋にいる時に書く豊橋についての言葉と豊橋にいない時に書く豊橋についての言葉は違う。だから今は豊橋のことをうまく書くことができない、と思い、現実を生きている。と感じる。人間の身体は「移動」する。移動が運ぶのは身体だけではなく、現実そのものだと思う。目に見える現実が変化し身体が再配置されることで移動の完了を認識し、現実を生きている。と感じる。2019年12月8日、こまばアゴラ劇場へと出掛ける。2019年6月に『すべては原子で満満ちている』を上演した場所であり、2020年8月に『フィジカル・カタルシス』を上演する場所でもある。劇団速度の『冒した者』を見に行った。好光義也さんとは2019年3月に『デスクトップ・シアター』のワークインプログレスで共演し、それ以来優れた舞台を作る人だと認識はしていたが『冒した者』ではその認識をはるかに上回るクオリティを生み出していた。驚きで笑いが堪えられなくなるほど。現実を生きている。と感じ、その瞬間に舞台監督や出演や原作や舞台美術や演出や照明デザインや制作などの役職の設定を現実が貫いた。実存性がフィクションから現実まで移動そして到着した瞬間に、設定された基準は目に入らなくなる。何を言う、何をする、関係ない。身体が「ある」ことが移動によって成立して舞台は実存する。小野彩加と中澤陽は二人組の舞台作家である。テキストの責任に体重を預けた身体や、空間の美学に甘んじた身体のリアリティから創造性が息を吐くように失われ、想像力が幅を利かせる余地もない。舞台から身体は消えてしまった。スペースノットブランクの舞台三部作『舞台らしき舞台されど舞台』、『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』、『すべては原子で満満ちている』は舞台から身体が消える過程を描いている。「舞台三部作」を統合して上演する計画も進んでいる。「身体が消えた後の世界を描く舞台」を上演する計画も進んでいる。そんな中で『フィジカル・カタルシス』では身体が「ある」ことを前提として「動き」を作り、作品試演会(成果発表会)では小野彩加が500の動きを20分かけて上演した。花井瑠奈さんと山口静さんが加わりさらに300の動きを5分かけて上演した。インスタグラムでライブ配信も試みた。「ある」身体と「ない」身体が「動き」を共有する時間。しかし舞台は現実にとって有用か? 答えはまだない。豊橋での12日間はとても有意義でした。制作と研究の境界を見つけ、舞台を革新していくための第一歩になったと信じています。
ダンス・レジデンスのために多様な力を注いでいただいた穂の国とよはし芸術劇場PLATの皆様、ワークショップと稽古場公開と作品試演会(成果発表会)にご来場いただいた皆様、滞在期間中に創造制作室Bのガラスの向こうから覗いていただいた皆様、ありがとうございました。感謝の気持ちと、また豊橋で出会えることを願い、スペースノットブランクのダンス・レジデンス滞在日誌『ほほえみ』を終わります。
中澤陽
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12日目と17日目