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フィジカル・カタルシス|穂の国とよはし芸術劇場PLATにて。スペースノットブランクのダンス・レジデンス滞在日誌『ほほえみ』0日目

2019年11月24日、日曜日。

豊橋にいます。

穂の国とよはし芸術劇場PLATの劇場プロデューサーである矢作勝義さんとの繋がりは、2017年に参加した第8回せんがわ劇場演劇コンクールに遡ります。専門審査員として『ラブ・ダイアローグ・ナウ』の上演を審査していただき、2年が経った今、ダンス・レジデンスではじめて豊橋にやってきました。

正式な滞在は明日からなので、今日は0日目。
東京駅の乗降場で新幹線を待っていると、言葉が目に入ってきました。

アーティスト・イン・レジデンスなので仕事なのは間違いありませんが、ここまではっきり言われると身体がなびきます。言葉が身体に作用して次の動きに移行していく。小学生の頃に「死ね」という言葉が流行っていて、言われると死にたくなりました。言葉が身体に作用して次の動きに移行する前に「本当に死んだらどうするの」と自己暗示をかけていた記憶があります。本当にゴルフ行っちゃったら放棄した仕事はどうなるのでしょうか。身体がひとつしかないことを深く考えさせられる言葉でした。

豊橋に到着し、マツキヨで小野彩加が湿布を買うのを待っていると、言葉が目に入ってきました。

動かすのはカメラ。体験しようにも、ひとりで「まさかの15人」と書かれた中に入る勇気もなく。写真の身体は止まっていて、生きているのに死んでいるよう。カメラを動かすと「ノリ」は写るらしい。青春を「アオハル」と書いてみる「ノリ」の付属物としての身体。「ノリ」の鑑賞者は「ノリ」の付属物としての身体本人。「ノリ」が舞台の「ライブ感」のようなことだとすれば、プリクラは既に舞台芸術より未来を走っています。舞台では努力してカメラを動かすことはできても、「ノリ」を身体本人が鑑賞することはできないからです。

「思いがけぬ災難」ならぬ「思いがけぬ広告」。小さすぎる。文字を読むために自転車を降りて引き返しました。小さいが故に身体を使わされ、見させられてしまう自分の身体を自分で見る。見るという動きのために消費される身体。見るために行き、見るために止まり、見るために外眼筋を使う。見るという全身運動。「犬も歩けば看板をみる」なのに、人が歩いて看板を見るとそこに犬がいる謎。犬は看板を見て、人は犬を見て、そんな自分を誰かが見ているかも。これもカタルシスかもしれません。

貝層剥ぎ取り断面。名前は極悪ですが神秘的です。

木の根、は地面の上に出ている部分と出ていない部分があって、地面の上に出ている部分を足で押し踏むと靴越しでもつぼが刺激されて気持ち良い。自然に流れる木の根の形がダンスに見えてきて、踏み、木の根に沿ってスライドさせるだけで身体が継ぎ目なく動きます。血流だって心拍数によって変化するのに。触感にも日々のコンディションによって微妙な変化があるのに。振付は身体の固定の連続。固定と固定の間に動きが自動的に生じて、間隔が狭ければ狭いほど難易度がアップする(そうとも限らない)。木の根は固定されているのに変化もしていく。動物も、植物も踊るのだと気がつきました。

今日は身体に繋げることを考えて過ごしました。
明日からは動いてダンスを作ります。

穂の国とよはし芸術劇場PLAT、とても素敵で、良い場所です。
楽しみです。

中澤陽


◉フィジカル・カタルシス|作品概要
◉フィジカル・カタルシス|ステートメント

フィジカル・カタルシス|ダンス・レジデンス滞在日誌『ほほえみ』
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