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続・継承する身体|桜井圭介:講義+ワークショップ「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」レポート|加賀田玲:よそ見と痙攣

加賀田玲(俳優・ジョンのサン・障害者介助)
撮影:浅沼弥沙
俳優、バンド「ジョンのサン」、障害者介助。1996年福島県生まれ。早稲田大学文化構想学部文芸・ジャーナリズム論系卒業。俳優としての近年の出演作に、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』(2024年)『ラブ・ダイアローグ・ナウ』(2024年)『魔法使いの弟子たちの美しくて馬鹿げたシナリオ(作:松原俊太郎)』(2025年・2026年)、オフィスマウンテン『トリオの踊り』(2024年・2025年)、三枚組絵シリーズ『伸り反り』(2025年)『群の群れ』(2026年)、ワワフラミンゴ『とっちらかってるね』(2025年)など。

 早稲田の文化構想学部で単位が足りず5年目、卒業するにはほとんど単位を落とすことができない状況だったその年に桜井さんの「バレエ・ダンス論」をとっていた私は、(事前に指定されたいくつかの作品のなかから)砂連尾理+寺田みさこ『O[JAZ]Z』の映像を見てなんとかレポートを書き、記憶が正しければB評価(降順にA+、A、B、C)をもらい、そのことのおかげもあって大学を卒業した。
 そのころまだ俳優もはじめておらず、演劇は見ていてもダンスのことはほとんど知らず、砂連尾理のことも濱口竜介の映画を通して名前を覚えていた程度で、もちろん作品を見たこともなかった。「バレエ・ダンス論」はあまり熱心に出席していなかったのではないかと思う。
 数年経ったいま、桜井さんの講義と(大学ではなかったが)ワークショップを別の形で改めて受けることができてよかった。自分にはどういった関心があるのか、自分はどういう変遷をたどってきていまどのような立ち位置にあるのかということは、外から規定されてはじめて見えてくるものだという感じが自分にとってはしている。当時の自分といまの自分の違いを感じる。以前はそれほど関心がなかったダンスにもいまは興味があるし(講義の前にはユーロスペースでマース・カニングハムのドキュメンタリーを見た)、前半に語られた桜井さんの来歴で出てきた固有名詞はほとんどがわかるものだった(「バレエ・ダンス論」では特段桜井さんの詳しい活動歴などは話されていなかったはずだが、もしそのときに聞いていたらわかっていた固有名詞はいくつあったか)。
 そして、講義とワークショップを通して、自分がこれまでぼんやりと考えてきたことにピントが合わせられたようでもあって、そのことは「よそ見」と「痙攣」という言葉でいくらか言いあらわせたらいいと思う。

 友人は私のことを一言であらわすと「よそ見」だと言った。
 大学生のころ私がスタッフで参加していた自主映画の撮影現場でこういうことがあった。
 現場では、ある俳優がアパートの一室のドアの外からその部屋のなかにいる相手に対して一方的に話し続けるというシーンの段取りをしていた。室内は画面にうつらず、なかの人物には台詞もないが、監督は相手役の俳優もちゃんと室内にいるようにという指示を出していた。
 内側からの切り返し(注1)を撮るとき、撮られている俳優の相手役やスタンドインのスタッフをカメラの横や奥に立たせるなど、(俳優の演技のしやすさの便宜を図るためなどで)カメラにうつらない部分も省略しないということがある一方で、画面にうつらない部分の整合性は無視してしまう(いわゆる「嘘をつく」)ということもある。
 たとえば、座っている二人の会話を撮るとする。引きのカメラで撮る際には実際の位置関係をつくっておきながら、寄って切り返すときには座る場所を少しずらして撮るということがある。照明や三脚、画角の都合などいろいろな理由でそれはおこなわれるのではないかと思う。引きで撮ったときと違う場所に座っていても、(寄りで撮っているから往々にして背景はそもそも画面にはあまりうつっていなかったりフォーカスが合っていなかったりするので)よほど特殊な場所でもない限り観客には気づかれない、もしくは、目ざとい観客には気づかれたとしてもそれがさしあたって物語の進行に支障をきたすことはない、という前提があるから「嘘をつく」ことができる。
 その日の撮影も同じように嘘をついて、物語上は部屋のなかにいる人物を、うつらないからわざわざいてもらわなくてもいいということにして撮ることもできたが、監督はそうはしなかった。ここまで書いておきながら私は映画の現場のことをよく知っているわけでもないし、なかったので、「そうはしなかった」ことについて決して批判ではなく新鮮に、あるいは純粋な疑問として、物語上は部屋のなかにいる人物を画面にうつらなくてもそこにいさせるとするなら、いまこのシーンにはいないこの映画の他の登場人物も、「物語上は」別の場所で生きて暮らしているはずだから、その俳優のスケジュールをおさえて、どこか撮影現場ではない別の場所で演技をさせ続けていないといけないのではないか、と思った(でも普通そんなことはしない)。
 友人はこの話を聞いて、私のことを「よそ見」をする人だと、その言葉から受ける印象とは違って、むしろ肯定的に表現した。他のスタッフは撮影現場で目前のことだけを考えていてそんなことを考える余裕もないはずで、目の前のものだけを見ているのではなく、そこから少し外れたところへ視線を向けられるのはすごいという意味で。
 その言葉に励まされたわけでもないが、私は散漫に「よそ見」を続け、いろいろな興味に揺さぶられ、いつの間にか俳優をやることにもなっていた。

 エリック・ロメール監督『海辺のポーリーヌ』で、開始から20分ほど経った避暑地での2日目の朝、ポーリーヌは従姉がゆきずりの男とベッドに寝ているのを窓の外から目にする。直後、たくさんの紫陽花が咲く前で大きく朝の伸びをする彼女。その両手がこれ以上ないくらい固く握りこぶしを作っている。その力強さに、自分はポーリーヌではなく、それを演じるアマンダ・ラングレを見る。俳優が役を演じている身体をやめないまま、しかしその役におさまらない生が漏れ出た姿を見ることができたように思って感銘を受けた私は、この握りこぶしのことを何年も考えていた。
 先日数年ぶりに見返した鎮西尚一監督『パンツの穴 キラキラ星みつけた!』で私が一番感動したのもそうしたシーンだった。映画の後半、夜の港に係留されている漁船に忍びこむ少年と少女。少女は腕をぴんと伸ばして盗んだ酒瓶を何度か少年の方に差し出し、二人はその酒を飲みかわす。増村保造の監督デビュー作『くちづけ』の序盤、川口浩の隣でハイボールをおかわりするときの野添ひとみを思いだせもする少女のその腕の動き。が、三度目に瓶を差し出したとき、演技が少しだけ弛緩するのが、こう言ってよければ気を抜いたのが、わかる。そのときの感動。
 だったら演技をしていない人をただ眺めていればいいのではないか? そうではなくて、演出されている身体が、それでもそこからはみ出る瞬間に、かえってその人が本当に生きている実感が湧く。白石悠「ワタナベイビーさん(注2)」の歌詞「繰り返す何度目かの話に嘘が紛れ込む瞬間なんかが一番愛おしい」は、私にはこれと同じことを言っているようにも聞こえる。
 ロメールの映画のアマンダ・ラングレのように、自分もどうにかしてうまくこぶしを握ってみたい。そう思うほどそれはできないので、そのためにできるだけ身体にフィクション(たとえば従姉のベッドシーンのような)を集めて、それが身体に作用したとき、力をいれてしまう手がうまく握りこぶしになっていてほしい。俳優としての自分はそういうことを考えてきた気がする。フィクションによって身体が思いがけず動かされてしまうその一瞬を、ここでは広く「痙攣」と呼んでみてもいいと思う。

 「私の考えるダンス This Is How I Feel About Dance」は(「続・継承する身体」のこれまでの回同様)前半の講義と後半のワークショップにわかれる。

 前半の講義では、1コマ目としてはじめに桜井さんの来歴が語られる。
 参加者には桜井さんの年表などが書かれた資料のデータが配布される。同じものがモニターにも投影され(スタジオのテレビに桜井さんのノートパソコンがつながれ、映像や音楽を流す場合はミキサーを経由して左右のスピーカーに音声が出力される。これまでの回でモニターが使われた場合もミキサーやスピーカーまで持ち出されることはなく、ささやかなこだわりを感じるできごとでもあった)、それをもとに話は進むのかと思われたが(1984年:原宿ピテカントロプス・エレクトス/1985年:「REPLICA」……)、開始早々「(年表のなかで)何か気になることある?」と(誤解を恐れず言えば)おぼつかない足取りではじまる。そのラフさが自分には居心地よくもある。開始直後ということもあってかこの時点では特に質問は出ず、結局そのまま年表が振り返られていく。
 1980年代なかばに主に音楽に関わる分野からキャリアをはじめ、ラジカル・ガジベリビンバ・システムや遊園地再生事業団など舞台芸術の方面にも手を伸ばし、また、ある時期からはダンスについての文章を書くことにもなるという流れ。2000年代に入ってからも、「トヨタコレオグラフィーアワード」の選考委員や「吾妻橋ダンスクロッシング(注3)」のキュレーション、SNACやSCOOLの立ち上げ、舞台音楽家としてはミクニヤナイハラプロジェクトや地点、モメラス、わっしょいハウスなどとの関わり、直近では「ニューダンス研究会」や「SCOOLエクスペリメンタル・ラボ」シリーズ(注4)の始動など、その時々の関心に応じて活動の領域を広げ、移してきた履歴が紹介される。そういった興味の現在地としてK-POPや韓国ドラマがあり、Dance Base Yokohamaでおこなわれた「ニューダンス研究会」による「ニューダンス・テクノロジーズ」の映像が流されたのをきっかけに、桜井さんと参加者とのあいだでK-POPと韓国ドラマについての話題がしばし続けられる。

 「吾妻橋ダンスクロッシング」のダイジェスト映像を見る。
 何度も名前は聞いていたが自分がぎりぎり間に合わなかった(無期休止となった2013年、高校2年の私は同級生に連れられてはじめて舞台を見に行った。東京芸術劇場シアターイーストで、作:つかこうへい/構成・演出:三浦大輔『ストリッパー物語』。つかこうへいは名前だけしか知らず、三浦大輔もポツドールも知らなかった)イベントで、この時代に観客でいてみたかったと純粋に思う。自分の周囲でもこうしたインディペンデントなショーケースイベントが開かれているのがいくつか目に入ってくるが、批評家がキュレーションするものはあまりないような気がする。
 名前に「ダンス」とついてはいるものの、それこそ桜井さんの経歴と同じくジャンル横断的なパフォーミングアーツのフェスティバルであり、「普段は各自ジャンル内で活動するアーティストたちを『出会わせる(クロスさせる)』いわば『スクランブル交差点』としての役割を担ってきた(注5)」というこの企画の説明を読むとき、「続・継承する身体」のオープンコールに際して小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクが掲載した「舞台芸術およびその周縁にあるアーティストたちの実践に触れ、考え方を交換し、異なるコンテクスト同士を接続するための時間をつくります(注6)」というメッセージに立ち返ってみる私がいる。

 話を聞いていると、桜井さんの歴史はそのまま「めげ」の歴史に見えてくる。何度も登場するのは「めげて」「めげちゃって」という言葉。助成金の申請書に何を書いても通る時期があったが近年はそうはいかなくなったこと。体育大学の舞踊科の実技授業で、生徒たちにまったく話が通じなかったこと。人前でライブする際、一度でもミスをするとそのあとずっと引きずるということ。それらが「めげ」の記憶とともに語られる。
 また、「中止」や「頓挫」の歴史であるとも言える。もともと森美術館の「六本木クロッシング」に付随する企画として西麻布スーパー・デラックスで予定されていた「六本木ダンスクロッシング」が、森タワーの回転ドア事故で中止になったこと(のちにアサヒ・アートスクエアに場所を変えて成立したのが「吾妻橋ダンスクロッシング」)。第1弾に花形槙+吉田萌を迎えて昨年はじまった「SCOOLエクスペリメンタル・ ラボ」シリーズだが、第2弾に適したアーティストが誰も思いつかないということ。
 そして何より、すべてを覆うのが興味の移り変わりの歴史だった。入れ込んでいたアーティストが売れて、一般に評価が定まっていくにつれて、もう自分が関与する局面ではないなと感じると離れる、といった説明もあったが、とにかく冷めるときは「自分でもいかんともしがたく冷める」。その態度を「よそ見」と言ってみたい。桜井さん自身、「俺、人非人だよね」「関わったフィールドへの責任感がない」と(なかば冗談や韜晦のようにではあるものの)述懐するが、そこには、いま目の前でおもしろいと思ったものへの反応を優先してきた人の率直さがあり、そうした態度でないとできないことがあると思わせられる。

 講義の2コマ目は「私の考えるダンス」。桜井さんの考えるダンスのいくつかの観点を、映像をまじえて確認していく。「ダンス=グルーヴ」(音楽=ダンス)主義、「部分(も)ダンス」論、「汎ダンス」主義など。
 いくつか例を挙げると、「ダンス=グルーヴ」(音楽=ダンス)主義というテーマでは、ジャストのタイミングや正確なポジションからのズレによって発生するノリに注目する。正装した男女の踊るパーティーのなかで同じ振付で踊るが少しモタっている年配の女性の映像(注7)やピナ・バウシュの『春の祭典』のリハーサル映像など。
 「汎ダンス」主義とはあらゆるものに質としてのダンス性を見出すことで、たとえば、ジャン=リュック・ゴダール監督『女と男のいる舗道』でのアンナ・カリーナが、カフェで履歴書を書いている最中記入するために自分の身長を突然右手で計測するシーン(注8)を見る。
 そして話題は桜井さんがかつて提唱した「コドモ身体」論へ。配られた資料には「2000年代、日本の演劇/ダンスに出現した『ガキガキ、ギクシャク/ヘロヘロ、ダラダラ』な踊り/演技態を、発育途上の子供(とりわけ幼児)のように『身体コントロールが不完全・不徹底』な状態を(むしろ)『グルーヴィ』即ち『ダンス的』であると見做し肯定するための造語(概念)」とある。2000年代の日本の演劇やダンスに限らず幅広く「コドモ身体」の参考映像を見たなかで、とりわけ思い出しておきたいのはDEVOによるローリング・ストーンズのカバー「(I Can’t Get No) Satisfaction」のミュージックビデオ(注9)。映像では、DEVOのメンバーの演奏シーンの途中にSpazz Attackという人物が痙攣するように踊るさまが何度かはさみこまれる。
 この「痙攣」というテーマを引きつぐようにして、後半にはワークショップがおこなわれる。

 「身体を動かして『音楽的に踊る』とはどういうことか?を体感するミニWS」と題される後半のワークショップ(実作者としての桜井さんは音楽家としての認識が強かったので、桜井さんが立ってダンスのワークショップをやってくれるということに驚く)。
 大きく輪を作って立つ参加者。「コドモ身体」を実際にやってみようという桜井さん。
 まずおこなわれたのは「ビートの細分化&痙攣・脱力のエクササイズ」。流される曲のビートを細分化して考え、動いてみる。はじめは8ビートで、次に16ビート、その次に32ビート、64ビート、128ビートと倍数になっていき(鈴木愛理(注10)が頭に浮かんでくる)、最終的には通常の人体であらわすことは不可能になって、身体は痙攣している。その身体を、自らの意思のもと脱力させたり、あるいはまた力を入れたりしてコントロールし、踊る。
 次にやったのは「部分(不自由)で踊る&『口三味線』(フレージング)を身体でやる」ワーク。都々逸やムード歌謡などいろいろな種類の(場合によっては覚えるのが困難な)フレーズの一部が流され、そのフレーズを暗記する。フレーズを口で奏で(口三味線)、音としてあったフレーズを身体の一部位のみを使って視覚的に再現してみる。このときも身体は場合によっては痙攣に漸近する。
 ロメールについて書いた自分の話に引きつけて言えば、ここではフィクションはビートやフレーズという形で到来していた。

 「よそ見」と「痙攣」は、どちらも自分の意思だけでは完全には制御できない、比喩的にであれ物理的にであれ、なかば不随意な運動だと思う。よそ見は視線が勝手に別のところへ行ってしまうこと。痙攣は身体が勝手に動いてしまうこと。どちらもなにか目前のものを成立させるためには、ある意味で余計なものかもしれない。しかし、私が演劇やダンスや映画を見ていて、また、私自身が俳優として身体を動かすなかで、いちばん気になってしまうのは、そういう余計なもののほうだし、そうすることしかできないことを不随意と呼ぶ。そうしたことはうまく言葉にするともなく漫然と考えてきたことではあったが、桜井さんの講義とワークショップを通して考えに言葉が与えられ、私が痙攣とよそ見をしながらいやしくも俳優や人生を続けてきたことが肯定されたと錯覚であっても思え、振り返れば留年という「めげ」の結果ほとんどたまたま「バレエ・ダンス論」を受講することになったのもすばらしいよそ見だった。

――

注1:映画における「切り返し」とは、向き合う複数の人物、たとえば二人の人物ABについて、Bを見るAのショットとAを見るBのショットを交互につなげる方法のこと。切り返しにおいて、Aを撮る際に相手役Bの後方から身体の一部や全部をうつり込ませることを「外側からの切り返し」、うつり込ませないことを「内側からの切り返し」ということがある。内側から切り返す場合、相手役が実際にカメラの向こうにいるのかどうかは画面からは確定できない。
注2:ワタナベイビーさん | 白石悠 | OCIRCO RECORDS
注3:吾妻橋ダンスクロッシング
注4:花形槙+吉田萌《ハイパー・テクスチャ・リンク》 | SCOOL
注5:吾妻橋ダンスクロッシング実行委員会 – アーツカウンシル東京
注6:「続・継承する身体」のためのオープンコール __ Ayaka Ono Akira Nakazawa Spacenotblank 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
注7:96-year-old woman tears up the dance floor
注8:Anna Karina is measuring her height (from Vivre sa vie)
注9:DEVO “(I Can’t Get No) Satisfaction” [Official Music Video]
注10:Cute Airi♡ #SuzukiAiri #HelloProject #HelloOta #Tsunku #16beat #beat #As expected #Amazing #rhyth… – YouTube

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