続・継承する身体|山本浩貴:講義+ワークショップ「〈喩え〉を作る」レポート|坂本彩音:そうぞうの余白/他者のまなざしを自分の体に通してみる
| 坂本彩音(俳優) |
| 撮影:小林克彰 |
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| 演劇・パフォーマンスユニットIE-イエ-所属。武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科卒業後、映画美学校アクターズ・コース10期を修了。2023年からワークショップのファシリテーターとして活動開始。2024年にまなざすこと/まなざれることによるケアを主題にした自主企画『光のモンタージュ』、2026年4月に『まなざしの庭』を上演。2025年には日記本『彗星は猫のおしっこの匂いがする?』刊行。 |
今日の講義に向けて、私たちには事前に宿題が課された。
「日々のなかで出会った出来事や風景」を200字程度の文章で2~4つ書いてくること。
もし書くことに難航したら、古賀及子さんの『5秒日記』に倣い、「1日のことをまるまる書こうとせずに5秒のことを200字かけて書く」ことを参考にしてみても良い、とのことだった。
今回の講師の山本浩貴さんは、小説、詩歌、戯曲、批評、出版、編集、デザイン、上演など、多岐にわたる表現活動を行っている。一見するとそれぞれ異なる技術が必要に思えるが、これらの根底には「何かに表現を認めるとはどういうことか」という一貫した問いが存在している。
ワークショップのタイトルは『〈喩え〉を作る』。表現と表現を結び、そのあいだから人とその周囲を身体に立ち上げさせる力――それが山本さんの言う「喩え」だ。
山本さんが小説を書き評価を受けるようになった初めの頃、周囲から「詩的だ」「比喩的だ」と言われるようになったことをきっかけに芽生えたのは、文章が「読む体」に起こす作用への関心だったという。
「離れたものを繋げて読むことによって、自然と自分の中で立ち上げられるものがある」
「文章はただの意味を保存した容器ではなく、人と世界を身体に立ち上げさせる」
これらの話を聴きながら、私はかつて通っていた大学の授業を思い出していた。
私は舞台美術を学ぶ学科に通っていて、そこで一番初めに受けた授業は影絵だった。この授業の目的は、例えば段ボール等を切り、なにかを形取ったものに光を当てるのではなく、あるものを影に通して見た時に、別の何かに見えるかを探り(例えば瓶の羅列が影を通すと街に見えるなど)、その想像の力を使って物語を組み立てる、ということだった。担当していた小竹信節先生(寺山修司の舞台美術等を制作していた)は、「演劇の基礎は見立てである」と話をしていた。
また、映画美学校に通っていた頃に劇作家・演出家の島村和秀さんから教わった、戯曲『ハムレット』に対して仮説を立てて批評し、それを「物」に置き換えてみるという課題のことも続けて思い出した。
私は置き換える物として「ロータリーキャンドルホルダー」を選んだ。キャンドルに火を灯すと、温められた上昇気流がプロペラを動かし、周りに付いている雪の結晶等のモチーフがくるくると回転しはじめる。ハムレットの狂いによって周りの人物たちの人生も狂わされていく物語が、私の中でその物と結びついた。
これらの学びを通して、目の前にあるもの(物に限らず言葉や人の動作)と自分の中にあるイメージを繋げて置き換える作業が演出の手がかりであること。また、観客として置かれたメタファーをそれぞれの経験を通した解釈で受け取る“余白”が面白くて、私はずっと演劇に携わり続けているのだと、自分の中で一本の道筋が出来上がった。そしてその道筋に、山本さんが話していることも繋がっているという感触があった。

一つの文章の中には触発の束がある。その束が、書かれていない人や周囲を人の体に立ち上げさせる。文章と自分の体のあいだにある空間から生み出されるそうぞうの力。これが山本さんの言う「喩え」なのだと、段々と自分なりに理解をしていく。
また、講義の中では岡井隆さんの詩が引用された。
「灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ」
本来ならば結びつかないはずの単語が並んだとき、読む人のなかでイメージが繋がり、何かがぐっと立ち上がる。例えば「林」と「愛」という二つの単語から、私たちは何かのイメージを勝手に遡ってしまう。表現と表現を結び、その間から世界を体に立ち上げさせる。また、なぜ作者はその二つを結びつけ成立させたのか、作者像と世界を遡って考える連想ゲームのようなものが始まる。この現象を生み出すのが、言葉や文章の持つ力である。
他にも講義のなかで、「喩え」にまつわる様々な具体例を話してくださった。聖書が比喩に満ちていること、相手の文章を別の素材で立ち上げるデザインや出版も喩えの一つであること、そして文章と上演が極めて近い表現であること。
「与えられたものをそのままとして受け取るのではなく、そこからどうしてもイメージを派生させてしまうのが人間だし、そこにAIには成しえない人間の面白さがあると思う。別に表現として提示されていないものでも、私たちは表現としてくみ取ってしまうことができるのだから。」
私は講義を聴きながら、改めて自分の表現活動の主軸である演劇と日記の共通点を感じていた。
誰かの日記を読んだとき、自然とその人の生活を想像する。その人のことを知らなくても、描かれている出来事を自分の経験を通して読み進める。自分の身に起きたことを思い出して悲しんだり、励まされたり、触発されて過去を振り返ったりする。それらはすべて、日記特有のただ日々の出来事が記録されている、という文章の余白が立ち上げさせる現象である。
私が開く演劇のワークショップでは、舞台側に立つ人はただありのままその場に立ち、今起きている現象に反応し続け、見ている側はその姿から想起されたものをシェアする、ということを行っている。自分はなにもしていないつもりでも、受け取る人はそのありのままの姿から様々なことを想起していることがわかる。
誰かの体を通して自分のことを見つめなおす。ここに人々が本当に必要としている体験が、人間ならではの豊かさが、詰まっている。
そしてこの話は、後半に行われるワークショップでの体験に繋がっていく。

ワークショップでは、宿題で書いてきた文章を匿名の状態でランダムに再配布し、自分以外の人が書いた文章二つを同一人物の日記だと捉えて、その人物になりきって「自分の昨日の日記」を書いてみるという試みが行われた。
目的は大きく二つ。
・他者の「喩え」の作り方を知ること
・自分の文章を他者がどう受け取り、それがどんな表現につながったのかを知ること
書き終えた後、書いた文章を共有し、二つの文章からどのような共通点を見つけて立ち上げたのかを一人ずつ発表した。私に割り振られたのは、以下の二つの文章だった。
① 水の泡の模様が連続して手前に向かって消えている。白い光の出所は目線の中央に配置されている太陽、太陽は少しずつ暮れようと地平線に向かって進んでいる。ここは日本で、中国語の会話が左右と後方から聞こえることから観光地の一種であるとわかる。水の音はしない。たまに魚のような生き物が跳ねる音がする。
② 飲み切った牛乳パックを広げる時に給食で教わった開き方を今でも続けているのだが、今日はうまくいかなかった。指の感覚で覚えていたことを何十年もやってきたのに頭で考えたらわからなくなってしまった。これは感覚でここまで来てしまったことへ少し虚しくなる。初めからやり直すなんてできないんだな。
①の文章からは、ミクロな視点、環境描写の多さ(よく周りを観察する人なのだろうと想像する)、映像として情景が頭に流れ込んでくる感覚、音への関心の高さ、そして感情が明記されていないクールさを読み取った。
②の文章からは、感覚派であること、ミクロな切り抜き方(5秒日記の参考による影響もありそうだ)、少しマイナス思考気味な面、そして「今起きていること」と「過去」とを繋げて捉える人物像が浮かんだ。
どちらの文章からも「一人でいる時間の空気感」と「ミクロな視点」を感じ取り、その二人の特徴を織り交ぜるようにして、以下の文章を書いてみた。
白い菊の花は果物の実のように包まれている。さっきまでこの窓に差し込んでいた強い日差しは陰り、続々と雫が流れ落ちていく。微かに線香の匂いがする。もうしばらく会いに行けていない人を思い出す。その時は会いに行こうと本気で思うのに、結局忙しさにかまけて実現させずにいる。こういうことを、他にいくつ抱えているだろう。すぐに行動に移せていれば、こうして情けなく思うこともなくなるのに。

完成した文章は、たしかに普段自分が書く文体とは異なるものになった。
ちなみに、私が宿題で提出していた文章のうちの一つはこのようなものだ。
バスを降りるとおばあちゃんが傘をさしてまっていてくれている姿がみえた。おばあちゃんの米寿祝い。寿司に日本酒にやきとり、スイカ。もう首のうしろまで手がまわらなくてつけれないからとアクセサリーをじゃんじゃん机の上に出してきてくれる。おばあちゃんはいつも私に会う前には美容院に行って髪をオレンジに染め前髪をトサカのようにかきあげ、いつだってキラキラのワンピースを着ていたけど今日はラフなTシャツで髪も立ち上がっていなかった。でも、年老いたな、という感じではなく、呪いから解き放たれたような、すっきりとした顔をしていて、勝手にうれしいきもちになった。
どちらも近日に自分の身に起こった出来事を書き起こしたものだが、こうして見比べてみると全くの別人に感じて、その違いが面白い。他の人よりも私は、一人でいる時間が少ないのかもしれない。そして人への関心は強いが、風景に対する関心は薄くて、なりきって書くにあたって改めて鮮明に情景を思い出して書き起こしたり、自分が感じていたことを思い返す作業があった。
また、参加者それぞれがどのように二つの文章と向き合ったのか、そのやり方や、気づいたこと、感想を共有しあった内容は以下のようなものだった。
・二つの文章のうち、より自分に近いと感じる方や共感できる方に偏って書いてしまう傾向がある。
・「自分はこういう風に物事を思い出せない」「こういう文体では書かない」というジレンマの発生。
・二人を融合させてなりきるというより、その二人と合流して肩を組むような感覚。
・文章から感じ取ったその人ならではの目線を踏襲した状態で街を歩き、その視点で文章を書いてみる手法。
・書かない部分の選択から浮かび上がる個性。
・当たり前に見ている世界が、他者のまなざしを通すことでその違いに気づかされること。
・文章から浮かんだ“この人っぽい”(著名人など)言葉の作り方を引用してみる試み。
・人の書き方を経由することで、何かを思い出すときの「思い出し方」そのものが変わる感覚。
・言葉の選択、粒度、解像度の差。
同じルールであっても、アプローチの仕方はこれほどまでに異なる。このスタディグループの醍醐味を改めて実感する時間だった。

山本さんの主宰するユニット「いぬのせなか座」という名前からも、今日教わったことの軸が浮かび上がってくる。
大体の星座は、点を線で繋いだところでその名付けられた形には見えない。名付けた人は、その曖昧な輪郭から、最近食べたものや、ちょうど学んでいたこと、関わりがあった人などを想起し、自分の中にしかない回路を使って立ち上がった姿を名付けていったのかもしれない。
このプロセスにも、山本さんの言う「喩え」がきっと含まれている。点と点を結び浮かび上がった線(それは想像するにきっと細長い丸の形をしているだろうか)を、「いぬのせなか座」と名付けた人は、かつて、あるいは現在進行形で犬を飼っているのかもしれない。飼ってないにしても生活の中に犬の存在が近くにあるのだろうな、と想像する。私には名付けることのできない名前だな、と思う。
他者の言葉や眼差しに触れることで、自分にはない回路を通して世界を再発見していく。この経験があるかないかで、日々の中での他者へのまなざし方が変わる。この体験を確かに自分の中に持っていれば、排他的な思考は減っていくんじゃないかということまで信じたくなる力が「喩え」にはある。「喩え」が人にもたらす意義を、改めて実感する時間となった。
