加賀田玲 Rei Kagata X/Instagram |
©︎ Akio Hikage |
今年の4月から一人暮らしをはじめた。ちょうど日記のワークショップ(期間中、日記を毎日Googleドキュメントで参加者のなかだけで共有し、オフラインで隔週で集まってそれぞれの日記をもとに話しあうというもの)に参加していたタイミングだったこともあって、実家を出るのにあたって17年前の日記を引っ張り出して新しい部屋に持ってきた。色あざやかな植物が表紙をかざる何冊かのジャポニカ学習帳の「国語」(12行 縦リーダー入り)ノートに書かれた日記を読み返してみる。
4/11 「カンガルー・ポー」なんてよくしっていたね!ままは初めてききました。せっかくだからよくみてくればよかったね。“カンガルー・ポー”の名前の意味、玲君知ってるんだからかいてね。 4/19 3年生になるといろいろなことがおしえてもらえますね。 7/23(調ふの花火) とてもきれいだったね。また来年もみにいこうね。 8/27〔三じゅう士のかんそう文〕 玲君今日は字が汚いね。 9/18(まいごさがし) 今日は玲が突然、迷子をさがしにいくといって、とび出していったので、びっくりしました。困っている人をたすけてあげてよかったです。 9/24(たまごっち) ママにはたまごっちのよさがわかりません。 9/29(たまどうぶつ公園「こんちゅうかん」) 10/19(MD) ていねいに使ってね。こわさないように。 11/5(ハラビロカマキリを見つけたよ) ママもカマキリがえものを食べる様子をはじめてみました。すごかったねー! 11/10(スイエイ(こだまようちえん))
とても楽にきもちよさそうにおよいでいました。もう30mできるよ。 小学校3年生のある時期だけ書いていた母親(ときには父親)からの赤字でのコメントつきのこの日記は、ある日のコメントを読むとたまごっちを買ってもらう代わりとして毎日つづけることが母親から義務づけられていたもののようだった。母親なりの何らかの意図を持った教育法という側面もあったのだと思う。ここには引いていないが「字が汚いです、書きたくない気持ちで書いた日記はママは読みたくありません」、「一文が長すぎます」、「これ(接続詞のこと)は不要」というような添削の入ったコメントもしばしば見かける。 昨日の夕方、友人3人と近所の公園に行った。他の3人がたくさんの花をつけたサルスベリの木の下にいる様子を、少し離れた自分がスマートフォンで撮影しようとしていると、キックボードに乗った女の子が通りかかって、「何してるんですか?」と話しかけられて仲良くなった。小学校5年生だという女の子は自ら笑って不登校ですと自己紹介する明るい子で、とにかく外で遊びたいからクラブも習い事もやっていないし中学に入っても部活に入るつもりはないと話していた。それに、家では時間によってもらえるおやつの量が減っていき、15時には全部もらえるけど16時には3分の1になり、17時にはもっと少なくなるので、何としてもはやい時間に家に帰っておやつをもらって外に繰り出す必要があるらしかった。その子は公園のなかを縦横無尽に走り回って、あれとあれとあれが梅の木でこっちは桜、この木はトゲがあるから気をつけた方がいい、あっちに井戸がある、サルスベリの名前の由来は、など懇切丁寧に教えてくれて、走り回るその子にただついていくしかできない自分たちは、その子が公園にも植物にもとにかく詳しいことに驚いた。その子が向こうの方に高く生える木を紹介するときの背中、公園のスロープをキックボードで思い切り駆け上がるはやさ、自分のことを「子ども」だと呼ぶこと、教えてくれた井戸のポンプの口を手でふさいで機械の隙間から水を噴出させる遊び、写真や動画ではなくその空間がまるごと残ってほしいし、この文章があの子にとっての赤字のコメント代わりにでもなってくれたらいいと思う。 |
加賀田玲:質問①
今まで一度も使ったことのない言葉、もしくは使ったことがあるが今後は使わない予定の(あるいは使いたくない)言葉はありますか?
ある場合、その言葉を思い出してひとつ、もしくは、それ以上教えてください。
(例:「忖度」という言葉を使ったことがない。/警察時代「ホシ」という言葉をよく使っていたが、退職したので今後使う予定はない。 など)
また、その言葉についての説明や、ほかに何か書くことがあれば書いてください。
※「一度も使ったことのない」の濃度(口には出したことはないが、文章には使ったことがある。/口に出したこともないし文章に使ったこともない。/毎朝心のなかには思い浮かべている。など)は、お任せします。
※「言葉」は辞書的な言葉ではなく、流行り言葉、何かの略称、専門用語など何でも構いません。
高橋慧丞:俗っぽい言葉で思いつきました「アゲ」ですね。もう古いのかもしれませんが。これは使ったことがないです。気分が高揚した時に使う言葉のようですが、おそらく独り言として使うような言葉ではなく、仲間内で共有していますね、きっと。仮に私がその集団に所属していて「アゲなんだけど」と誰かが言ったのを耳にした瞬間になんだか冷めてしまうような気がします(「サゲ」ですね)。でも状況的には「アゲ」なので「アゲなんだけど」に期待される応答は「アゲ」という言葉あるいは「アゲ」という態度に絞られてしまい、そういった一発で空間を支配してしまうような強度を携えた言葉が苦手で、だから自身も使ったことがありません。
今後は使わない予定の言葉は「シロボウ」「アオボウ」ですかね。前職でよく使っていました。どういう意味なのか、私の前職が何なのかは想像にお任せします。
加賀田玲:質問②
自宅にWi-Fiのルーターはありますか?
ある場合、そのWi-Fiのパスワードを暗記していますか?
高橋慧丞:あります。
パスワード、あの無作為に割り与えられる複雑な数字。本体の裏面にシールで貼っているだけで、覚えていません。ですが、かつて10代から20代前半ぐらいにかけては、そういう無意味な数字の羅列を覚えることが得意でした。その時はwi-fiのパスワードはもちろん、大学の学生サイトにアクセスするパスワードや、種々雑多なアカウントに紐づけられた無意味な数字の羅列を、たぶんほぼ全て暗記していました。いまこの質問を向けられて、自分の能力の低下を意識させられました。いまや昨日の晩御飯を言い当てることさえ怪しいです。
加賀田玲:質問③
ある一定の期間、継続して行うことができていることはありますか?
ある場合、それを教えてください。
(例:毎月映画を○本見ること/毎日○km走ること など)
また、ある場合、それを継続するためにどのような心がけが必要でしたか?
※できるだけ、生活のためにしている仕事(あれば)とは結びつかないものだと好ましいです。
高橋慧丞:少なくとも今年に入ってからは、なにかしらの言葉を書くことは継続できています。毎日必ずではないですけれど、1週間のうち4日以上は書いているのではないでしょうか。といっても、文量は上限だけを定めていて、1日数文字しか書けないこともありますが。
継続するための心がけは、書いている時間以外は書くことをなるべく考えないようにすることです。これは人から聞いた話をそのまま信じて実践してみたところ、かなり重要な心がけだと実感しています。日中、書けない時間に書くことを考えても、書けないですからね。書けないでただ疲労したり、考えている展開のつまらなさに自信がなくなったりしてしまう。 書くために手を動かすことによってのみ、ゆっくりとわかってくることはこんなにあるのだなと日々細々と実感しています。
加賀田玲:質問④
人形やぬいぐるみを持っていますか?もしくは、持っていたことがありますか?
持っている、もしくはいたことがある場合、その人形やぬいぐるみに話しかけることはありますか?/ありましたか?
話しかけはしない/しなかったが人形やぬいぐるみ同士が話すということならある/あった、人形やぬいぐるみは完全に飾るだけだ、など他のことがあれば言える範囲で教えてください。
高橋慧丞:私は子供のころからペンギンが大好きでして、ぬいぐるみも持っていました。
そして実はいまも、子供のころに持っていたものとは全く別の、細長い棒状のペンギンのぬいぐるみが家にあります。お腹のあたりを握ると「キュー! キュー!」と鳴きます。数年前に、とあるかたにペンギン好きが露見し、頂きました。
子供の頃は話しかけたりもしていたのかもしれませんが、記憶の限りは、話しかけたことはないですね。やさしさが足りないのかもしれません。
加賀田玲:質問⑤
好きな日本の鉄道駅の名前はありますか?
ある場合、その名前を教えてください。
高橋慧丞:これは、ないです。いま質問を目にして、かなり考えて、「ある」ことにして、適当な駅名をあげて、理由を書こうとも思いましたが、そんなのは嘘になるので、正直に言うと、ないです。
生まれたところが鉄道とそれほどには密接に関係しなくても過ごせた地域ということが大きいのかもしれません。鉄道。つまり加賀田さんは鉄道が好きだということですかね? とついつい質問返しをしたくなりました。
加賀田玲:質問⑥
しりとりを知っていますか?
知っている場合、「ん」で終わるしりとりを自由な長さで作って書いてください。
※しりとりのなかに、質問①で教えてくださった「言葉」を(複数あった場合は一つ以上)含めてください。
高橋慧丞:知っています。私の知っているルールだと、まっさらな状態からしりとりが行われる時は、しりとりの「り」から始まります。それでは始めます。
しりとり→リズム→虫歯→バスケット→トッポギ→ギプス→スライダー→ダリオ・アルジェント→トーマス→スプートニク→串揚げ→ゲーテ→テクノポップ→プッチモニ→虹→次回予告→櫛→仕上げ→源氏物語→理系→生きもの→ノトーリアス・B.I.G→ジラーチ→チーズおかき→キャラメル→ルビー→ビルボードライブ東京→うずまきナルト→トムソーヤ→やめ時→キース・ヘリング→グッバイ・サマー→Maria→アゲ→劇場体験
終わります。
青本柚紀:①日記などの自分のためだけに書き残すような文章と、人に見せる前提で書く文章とのあいだで、なにを書いてなにを書かないかを決めるときの違いはありますか。あるとすればそれはどのような違いですか?
加賀田玲:「自己紹介」で少し触れましたが、去年日記のワークショップに参加していて、3月末から6月中旬までGoogleドキュメントに日記を毎日書いていました。参加者のなかで共有されていたその日記は「自分のためだけに書き残す」ものではなかったので、たとえば、固有名詞についてどれくらい注釈をいれるかの按配、のようなことを、通常の(「自分のためだけ」の)日記を書くときよりもよく考えました。ただ、これはあくまでも自分の場合で、他の参加者のなかには、まったく断りなく身近な友人の人名をポンポン出している人や、マイナーな映画のタイトルを挙げて、それについて参加者が知っているかどうかは問わず、その映画の感想を書き連ねている人などもいました。最初のうち自分はどうしてもそういうことができずにいました。次第に自分のそういう行儀の良いよそゆきの日記がおもしろくなくなってきました。今言ったのは固有名詞の扱いの例ですが、それ以外にも自分の日記は、句読点を適切な位置に入れたり、見やすいように段落を設けて行の頭を一字下げたり、どこでおぼえたのかそうした小手先の整理ばかり目立っていたように記憶します。そのため、できる限りその日記のなかに「自分のためだけに書き残」している要素を入れようとしはじめました。自分はこのワークショップのような限定的な期間をのぞくと普段から日記を書いてはおらず、「自分のためだけに書き残」す文章といえば、もっぱら、iPhoneのアプリに残した街で聞こえてきた会話や、見た風景のメモです。それらを書くとき、それを読む人のことはまったく考えていません(日記には何を書いてもいいはずですが、まず冒頭に日付がなければ日記にはならないと思います。そうすると、iPhoneの機能によって自動的に書いた日付が頭にくっついてしまうそれらの文章を日記と呼ぶこともできるのかもしれませんが)。話を戻すと、ワークショップの日記と平行して溜まっていったそれらのメモを、日記のなかに一切校正せずそのまま貼り付けることで、「人に見せる前提で書く」日記のなかになんとか「自分のためだけに書き残」した要素を入れ込み、そういうことをやってひとりで満足してワークショップの期間を終えました。
青本柚紀:②取り乱したり緊張したりしていて、かつ、平静を装わなければならないとき、自分を落ち着けるためにしていることはありますか。ある場合それはどのようなことですか?
加賀田玲:取り乱すという状態がどのようなことなのかよくわかっておらず、取り乱すという言葉を文章でも口頭でも一度も使ったことがないので(その他にはミュージシャンの小沢健二のことをオザケンと略したことなども一度もないです)、緊張についてだけ書きます。自分は演劇やコントなどに出ることが時々あり、開演が近づくとすごく緊張してきます。見回すと、共演する他の皆さんは、ルーティーンとして決まった音楽をイヤホンで聞いていたり、隅の方でじっとしていたり、横になって寝転んでいたりします。自分はとにかく歩ける面積をかつかつ歩き回って、「うー」とか「もうだめだ」とか言って、何か声をかけてもらえるのを期待してちらっと横目で周りを伺うと、特に何も起きないのでまた歩き回る、というだけのことをやっているんじゃないか、頑張って開演前の自分のことを思い出すと、大体そのようなことで合っていると思います。その行動以外に特に何の術やアイテムもないです。バッグの中が汚いしよく落としものもするのと、お金が全くないので欠けてもすぐに補充できないことから、緊張をおさえるアイテムなどがあったとしても用意しないと思います。
青本柚紀:③自分にとっての(固有の)なつかしさと結びつくような、音や匂い、イメージや場所はありますか。あるならばそれはどのようなものですか?
加賀田玲:何人もの友人にこのことを話したり、この前やったコントの中で出てくる自分のインタビューでも話したりしたので、それらの友人やそのコントを見てくれた人はもうここから読まないで大丈夫だし読まないで欲しいですが、高校一年生のころ、片思いしていた女の子と、東京都狛江市の自分の実家近くを流れる多摩川の上に登戸方面へ向けて架かる橋の真ん中、川の中間の狛江市と神奈川県川崎市の市境で、待ち合わせた(その子は川崎側に住んでいたので)記憶がありそこから見える美しい夜景を紹介した記憶もあって、それ以来そのあたりの場所となつかしさが結びついているようですが、このことをかなりリアルに記憶しているのと同時にすべて夢や妄想だった記憶もあって、本当のことだったらそんな疑惑も抱かないはずなので、かなり怪しいです。その「思い出」の場所の河川敷で、二月に友達が野外演劇をやっていて、すばらしかったです。二年前にその河川敷に別の友人と行って、背後の土手にいくつかボートが並んでいましたが、夜なのでボートの色はよくわかりませんでした。それぞれ塗り分けられているようでした。