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ささやかなさ|ステートメント

ささやかなさ、が書かれるに至った誰かのささやき

Powers of Ten っていう映像作品を見てると、10の2乗メートル宙に浮かんだぐらいのところでもうヒトやモノの差異がわからなくなる。青、緑、整理された区画、なんやわからんでっかい建物、そのなかにヒトやモノがうぞむぞいるんだろうなって感じ。システムが想定するヒトもそんな感じ。ケンブリッジ・アナリティカに好き放題いじくられてるのに、わたしなんにも感じない。目の前にいるヒトをそーゆーふーな無感情で見ることもできる。って、油断してると、足もとからでっかい鯨が白い飛沫をあげながら現れて、大口開いてわたしを飲み込んでしまった。
世界ってなんて素晴らしいの。
言葉がわたしとあの人を区別する。わたしが持ってる性質やブツを具体的に並べてってもそれがわたし固有のものであるとは言えなくて、わたしとまわりにあるものとを取り結ぶささやかな関係こそわたし固有のもの。だから何だ、って言われたら、まあ知らんけど、だから何だって言ってくるひととだって関係は結ばれてしまう。たまにはSNSやめてここに来てわたしの目じっと見つめてみたら? たぶん感動するよ? って思うけど、めんどくさいよね。ってな感じのなれなれしいことば使いで、わたしは誰かと誰かを区別する。その区別が誰かを傷つける。ほんまはそんな杜撰な区別で傷つく必要ないねんってわかってても、ささやかなさで凶器になってしまう言葉とそのひとの区別の手つきに傷ついてしまう。そこにはイヤがオーにも関係がすでにできあがってるし。即消去しなきゃならないものだらけで、日々がめんどくさい。わたしが社会に国に何を負ってるっちゅうねん、海で叫ぼうが街で喚こうが関係はどこまでもついてきよるし、あーいややいやや、やっぱりモノは凹んだ犬みたいな顔しないし便利、やけど、たまに会うレジのおばちゃんとのささやかな関係にだって救われることあるし? 漆黒の部屋んなかで鬱々とカップラーメン啜ってても外の空気に触れた途端……みたいにどっかでポジティヴに転じる瞬間があるし? あー世界ってなんて素晴らしいのって何回も何回も言いたい、一日一日のささやかなさ、よさをさ、保存したいだけなのよ、それこそシェアすべきものなんじゃないの? 死んで灰になるまで、キミとボクのささやかなさ、くらし系をさ、これから一緒に作っていこうよってキムタクには言われたくないけどたまたま現れた誰かには言われたいし言ってみたい……から、重い腰回しだそー

松原俊太郎

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感謝と抵抗を交互と相互にしています。そういう状態、舞台について考えることを通過したり未来に置き去りにしたりしていて、新しいというよりも単に次というところへ向かって進もうというところにいます。

人間と人間を目の前にして、言葉の集会所に集まるように舞台を作り、しかしわたしたちは漂うだけかもしれないというささやかさを描きます。すべての舞台の価値を探究するスペースノットブランクが、台詞によって制御された現代の人間と人間の境界線の存在を受容し、反発し、舞台に表します。

ささやかなさ、は松原俊太郎が戯曲を書き、小野彩加と中澤陽が演出をし、古賀友樹と西井裕美が出演する舞台作品です。

2018年からこの作品について考えてきて、スペースノットブランクが高松アーティスト・イン・レジデンス2018で訪れた香川県高松市のMOTIFで上演することになりました。京都で松原俊太郎が独立して戯曲を書き、東京で小野彩加と中澤陽と古賀友樹と西井裕美が集合して制作を行ないます。高松で上演するまでの時間をそれぞれの人間がそれぞれの役割を持って過ごし、作品を作ろうとしています。

いまはまだ、ささやかなさ、という松原俊太郎が提示したタイトルに基づいて、このステートメントを小野彩加と中澤陽───わたしたち───が書いています。舞台については考え続けなければなりませんが、それらを含有した肥料に新しい種を植えようとしています。わたしたちはワンオブゼムのわたしたちとして、次というところへ向かわないと(いてもたっても)いられない。正解があってもいいのに、正解を間違いということにしたいエゴが蔓延る世界に生きています。逃げるが勝ちも、生けるが勝ちも、肥えた土地でささやかに芽吹く次の価値と一緒に、表現すること、として上演に漕ぎ着こうと思います。

2019年8月18日(日)
小野彩加 中澤陽

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◉ささやかなさ|作品概要

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