Spacenotblank

フィジカル・カタルシス:ダンス作品第7番|『フィジカル・カタルシス:ダンス作品第7番』の上演に在る「リアルフィジカル」について

『フィジカル・カタルシス:ダンス作品第7番』の上演に在る「リアルフィジカル」について。
「リアルクローズ」が日常の身体に自然と馴染む衣服を指すように、私たちが言う「リアルフィジカル」は、日常の身体から立ち上がる「現実の運動」を意味している。振付として形を与えられる以前の、歩く、止まる、向きを変えるといったペデストリアンムーヴメント。緊張や逡巡が生む微細な揺れ。視線が迷う時間や、靴底を通して足裏に伝う床を探る感覚。そうした「ドラマになりそうでならない」運動の過程こそが、「リアルフィジカル」の核心にある。

『フィジカル・カタルシス:ダンス作品第7番』は、この「リアルフィジカル」を真正面から受け止めるための上演である。強度や速度のみを魅せるのでなく、身体が身体としてそこに在るための運動をマテリアルとし、カオスの縁で踏みとどまろうとする現実の身体性をそのままに見つめる時間。そこに立ち上がるのは、過剰ではない変化、誤差や癖が生み出す最小限のダンスナラティブ、そして舞台に表れる身体が観客席を通過するまでの「距離そのもの」である。

「リアルフィジカル」は「創造以前」にすでに起きている。

それをどう見つめ、どう聞き、どう踊るのか。
『フィジカル・カタルシス:ダンス作品第7番』は、その問いの内部に滞留するためのダンス、ないしダンス作品である。

この理念を実際に立ち上げるのは、6名の出演者たちである。6名の出演者たちの身体は振付という「結果」を提示する以前に、その「過程」を隠さず舞台へ配置する。緊張や逡巡が生む微細な揺れ。視線が迷う時間や、靴底を通して足裏に伝う床を探る感覚──通常なら「結果のために消失すべき」と見做されてしまうことが多い運動たちが、この上演では「リアルフィジカル」の現場となる。6名の出演者たちの身体は、完成形の「踊り」ではなく、踊る前後に存在するあらゆる段階(フェーズ)を含んだ「運動の連なり」そのものを提供する。

「結果」と「過程」が融解し、境界が曖昧になった空間には、この上演固有の質感が出現する。「運動の連なり」を観察することで、完成品としてのダンス作品に先行する「ダンスが生成されつつある地点」に立ち会うことができる。この地点に立ち会うことは、身体の内側に眠っている振付的思考──運動を読み取る。構造を創造する。変化の兆しや痕跡を探究(トレース)する思考──を呼び覚ます。「身体が在る」状況を見つめる視線へと回帰していく。その「過程」が、「フィジカル・カタルシス」となる。

クリエーションの途中で、私たちは幾度も次の問いを浮かべた。

「踊る暇がある人生にしたくない? ──したい。」

踊るとは、特別な行為である以前に、「身体が身体として存在する時間を享受すること」であると思いたい。「リアルフィジカル」は、その享受を最小の単位から確かめるために必要な状態を指す言葉である。
『フィジカル・カタルシス:ダンス作品第7番』は、「踊る暇を持つ」とは何か──その問いに対する一つの答えを探す途上にある。

2025年11月27日(木)
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

2025年9月10日(水)10:00よりチケット発売中
Peatix / チケット申込はこちらから
電話:078-646-7044(10:00-17:00)

DANCE BOX|フィジカル・カタルシス:ダンス作品第7番
フィジカル・カタルシス:ダンス作品第7番

Back to Messages